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九州豊前国の宇佐神宮の複雑さは、やはり3つの顔を持っていることに代表されていると思います。今のところ、宇佐の謎を追及しようという気持ちはさらさら持ち合わせてはいないのですが、最低限この謎の古社にどのような表情があるのかについてだけは触れておきたいと思います。 3つの顔は、しっかり社殿にも表現されており、一之御殿に応神天皇、二之御殿に比賣大神、三之御殿に神功皇后ということになっているわけですが、宇佐家の伝承では少々ニュアンスが異なるようです。しばし宇佐公康さんの著書『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』から、宇佐家の言い分を眺めてみたいと思います。 ――引用―― 宇佐家の古伝によると、大神比義の心眼に童子の姿で幻じて、「誉田天皇広幡八幡麻呂」と名乗って出現した心霊は、応神天皇の神霊ではなく、神功皇后と武内宿禰との不義密通によって生まれ、四歳にして早世した誉田天皇と僭称する男児の亡霊である。本当の応神天皇は神武天皇の皇孫である。そのいわれは、神武天皇が東遷の途上、筑紫国菟狭の一柱騰宮に四年のあいだ滞在し、菟狭津彦命の妹、その実は妻の菟狭津媛命に娶って生まれた宇佐津臣命またの名は宇佐稚家(うさのわかや)が、越智宿禰(おちのすくね)の女常世織姫命(とこよおりひめのみこと)に娶って生まれた宇佐押人で、菟狭族から出て西日本を統一してから、中央に進出して古代日本の国家が成立したと伝えられている。 ハナからとてつもない話になりました。ここでまず注目しておきたいのは、私たちが通常応神天皇であると思っていた存在が、宇佐家の伝承では神功皇后と武内宿禰の不義密通の子であったという部分です。これは十分に予想がつくものでしたが、それとはまた別に具体的な応神天皇のモデルがいたということは驚きです。つまり、これを信じるならば、古代日本を成立させたのは神武天皇と菟狭族に連なる血統であるということになります。なるほど、これであれば宇佐が天皇家の重要事件に口出しできた謎が解明しやすくなります。 引き続き見てみましょう。 ――引用―― 神武天皇は菟狭を出立して、筑紫国の岡田宮に立ち寄り、さらに東遷の途についたが、古代日本国家統一のなかばにして病気になって、惜しくも安芸国の多祁理宮で亡くなった。そこで、神武天皇の兄と伝えられる景行天皇が継承して、九州地方の服従しない部族を平定するために、親征して各地に転戦したが、天皇もまた壮挙の途中、病気にかかり阿蘇の高原で亡くなったので、智保の高千穂嶺に葬った。「智保の高千穂嶺」の名は、『大日本史』にも見えていて阿蘇の馬見原高原をさしていうのであり、「筑紫の屋根」ともいわれ、現在の熊本県阿蘇郡蘇陽町大野にある幣立神社(日の宮ともいう)の鎮座地が、景行天皇の御陵であると伝える。 この話によると、神武天皇は安芸国の「多祁理宮」で亡くなり、次代の景行天皇は阿蘇高原で亡くなり、智保の高千穂嶺に葬られたことになっております。 「多祁理宮」とは『古事記』にも現れる古社で、現在の広島県府中町の「多家神社」に比定されております。この神社の社伝では、当地は神武天皇が七年間滞在した皇居であるとの位置づけのようですが、宇佐家の伝承では志半ばの人生終焉の地であることになります。 神武天皇は果たして畿内に辿りつけたのでしょうか。 神武が安芸国で亡くなったのは、長髄彦と対戦する前か、その後かはわかりませんが、文面からはどちらにもとれそうです。 ちなみに、吉田大洋さんの『謎の出雲帝国(徳間書店)』において、出雲神族の末裔を自称する富さんの話によれば“神武天皇は七人いた”とのことで、少なくとも、防府、河内、熊野の三箇所で死んでいるのだと言います。 宇佐家、富家、これら各々の伝承を私なりに咀嚼するならば、神武天皇に比定できる人物はやはり複数いたと考えるのが適当なのかと思います。 また、この宇佐家の伝承において、景行天皇が神武天皇の兄であるということも衝撃です。 しかし、同伝承では景行天皇の活躍の舞台はあくまで九州のようで、その次の成務天皇――宇佐家伝承によれば神武天皇の第四皇子――に至っても長門国豊浦宮、筑前国香椎宮を拠点として政務を執り行っていたようですので、あくまで舞台が北九州・周防エリアから出るものではありません。 その成務天皇には子がいなかったとされており、景行天皇の子であるヤマトタケルの子、仲哀天皇がその後を継承したことになっております。この仲哀天皇の皇后が神功皇后であることは記紀に同じです。しかし、神功皇后は武内宿禰と不義密通をして誉田天皇を世に生み出したことになっているわけです。そこまでは古伝に触れずとも十分想像出来る範囲であったのですが、ただし、これが応神天皇とは別人であると伝わっているのです。そこが宇佐家に伝わる伝承の大きなミソかと思います。 尚、成務天皇の御陵は長門国一の宮の鎮座地であると伝えられているようで、すなわち山口県下関市一の宮町の「住吉神社」がそれに該当するということですから、少なくともそこまでは天皇家が中央に進出した気配はありません。 一体、天皇家はいつ畿内に東遷したというのでしょうか。 ――引用―― 宇佐家の古伝によると、天網恢恢疎(てんもうかいかいそ)にして漏らさず、勧善懲悪・正義人道の神であらされられる八幡さまは、 〜略〜 神武天皇の皇子ウサツオミノミコト(宇佐都臣命)、またの名をウサノワカヤ(宇佐稚屋)の子、すなわち天皇の皇孫ウサノオシト(宇佐押人)に現じ給い、 〜略〜 同じく神武天皇の皇子で、ウサツオミノミコトの実弟でウサノオシトの叔父に当るミモロワケノミコト(御諸別命)の権謀術数。知勇兼備の政治力と軍事力とによって、仲哀天皇が、景行天皇の皇子のオオエノミコト(大江王)の女オオナカツヒメノミコト(大中津比売命)に娶って生まれたカゴサカノミコ(香坂王)と、オシクマノミコ(忍熊王)兄弟の反抗に打ち勝った神功皇后と武内宿禰、ならびに、その子の誉田天皇の陰謀と軍勢を打ち破って中央に進出し、応神天皇として大和国高市郡白橿村大字大軽のカルシマノトヨアキラノミヤ(軽島豊明宮)で即位し、都をこの所に定め、はじめて天下国家を統一し給うたということである。 まるで、バトルロイヤルを思わせる展開です。 このような展開を経て、宇佐家の古伝としては三つの顔を、一之御殿「宇佐押人すなわち真の応神天皇」、二之御殿「菟狭津媛すなわち比賣大神」、三之御殿「常世織姫命」としているのです。 それにしても宇佐家の伝承は、一見正当な流れを阻んだ“悪役”武内宿禰と神功皇后系「誉田天皇一派」を、“正義”の宇佐系「応神天皇一派」が成敗したかの図式にも見て取れますが、途中の叙情的表現に惑わされずに結果だけを見れば、つまり景行天皇系に渡ってしまった流れを宇佐系――神武天皇系――の流れに引き戻した、という図式であることに気付きます。 いずれ『日本書紀』のような単純に敵味方の図式ではなさそうで、おそらくはかなり血生臭い混沌とした戦国時代であったのでしょう。 ふと思うに、長髄彦がここにどう絡んでいるかなどは特に書いておりません。しいてあげれば香坂王と忍熊王兄弟の役割は――『日本書紀』でもそうでしたが――よく似ているようには思えます。 さて私は、そもそも八幡信仰は、辛嶋氏が奉斎してきた弥勒信仰を内包させた仏教であり、しかしそれは純然たる仏教ではなく、そこに道教、シャーマニズムを取り入れ、あくまで神道としてオリジナルな形で昇華させたハイブリットな新興宗教であったと考えます。どうやら、宇佐家はそれを自らの系譜の中に組み入れてしまおうとしているようです。 つまり、私には無理を感じるのです。古伝のこの部分だけ見るに、時間軸が相当混乱しているかに思えます。少々憎まれ口をたたかせてもらえば、もしかしたら、この話は純粋な宇佐家の古伝ではなく、著者宇佐公康さんの私見が入っているのではないでしょうか。どうも初期諸天皇の実在を否定する立場の、極めて現代的な“闕史(けっし)八代”の概念が紛れこんでいるように思えるのです。私の勘違いでしょうか。※注 それはさておき、私は、宇佐系は実際には自分たちの流れには戻せなかったのだと思います。だからこそ、宇佐家はなんとかして国家に発言権のある辛島氏由来の“八幡神”というものを、自らの歴史の中に盛り込もうとしたのではないでしょうか。つまり、3つの顔のうち、宇佐家の顔はやはりあくまで二之御殿のみであると考えております。 八幡神を代表する一之御殿はあくまで辛嶋氏――秦氏――、三之御殿は大神氏の顔であったと考えます。 それでも、宇佐神宮そのものがなんらかの正当性を持っていたことは、天皇家の対応を見れば疑う余地もありません。 とはいえ、やはり応神天皇はあくまで神功皇后の子「誉田天皇」であると思います。父親が武内宿禰か仲哀天皇かは別として、いずれこの系譜がその後の天皇家の系譜になったのだと思うのです。仮にそうだとすれば、誉田系の天皇家は、正当な初代神武天皇の皇后であった「菟狭津媛――比賣大神――」に対しては常に後ろめたさが残っていたはずです。そこにひょんな縁で秦氏が混入してしまいました。おかげで、秦氏がもたらした最新の呪術性が目に見える即効的な威力として宇佐の迫力をブースターのごとくパワーアップし、結果的に天皇家に対する“連合宇佐”の強力な発言権に結び付いたものと考えるのです。 正直なところ、菟狭津媛が果たして神武天皇の皇后であったか否かについての基本的な疑念も残っております。どうも二重三重のトラップが仕掛けられているように思え、ここは結論めいた私見を出さないことにしておきます。 ※注:令和元(2019)年6月24日追記 闕史八代ら初期天皇への捉え方について、同書著者の宇佐公康さんはしっかりと展開されていたにも関わらず、私が読み飛ばしたまま指摘していたことに気付きました。
宇佐さんによれば、歴代天皇の系譜において、第五代孝昭天皇から、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇、第八代孝元天皇までの四代については、「明らかに和邇族の族長である」、とのことでありました。 また、二代綏靖天皇、三代安寧天皇、四代懿徳天皇は「物部氏の首長」であり、初代神武天皇については、年代のずっと下がった二世紀の中頃に実在したことが「宇佐家の伝承によっても明らか」なのだそうです。 失礼ながら自分の中途半端さにも気付かず私は指摘をしてしまっていたわけで、そこは謙虚に反省させていただきます。 また、宇佐さんに対して失礼であったことをお詫びいたします。 ちなみにこの宇佐家の伝承は、出雲神族の裔と思しき斎木雲州さんの語るところの出雲の伝承とは齟齬があるように思われます。 しかし、どうしても正史にみえる呼称などで説明せざるを得ないが故の齟齬であるのかもしれません。 もしかしたら、天皇―大王―という概念への解釈、神武天皇なる存在に対する解釈によっては、概ね整合し得るものと言えるのかもしれません。 |
宇佐にまつわる話
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歴代天皇がかくも特別視していた古社の歴史を概観してみます。
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谷川健一さんは『四天王寺の鷹(河出書房新社)』の宇佐八幡神の特異性を語る項で次のように書きだしております。 ――引用―― 日本の数多い神々の中で宇佐八幡神はきわだっている。記紀のどこにも名を記さない八幡神は、九州の一角から突如として中央に乗り出していく。そのきっかけは聖武天皇の大仏造立の悲願であった。聖武帝が河内大県郡の智識寺に行幸して大仏造立を思い立ったことは、すでに智識寺の盧遮那(るしゃな)仏を造立したという成果をもつ秦氏系と思われる渡来氏族の存在を決定づけ、その背後にある豊前の八幡神の立場をきわめて有利なものとした。 日本の神々と仏教とは本来立場を異にする宗教である。そのために排仏または崇仏の論争や政争も起っている。しかし八幡神は仏教に帰依し仏教を擁護する姿勢を断乎として露骨に打出した。 それに加えて宇佐八幡に伝統的に伝わっているシャマニズムを基調とした神託を存分に利用した。八幡神の行動はすべて神託によって決められた。朝廷もそれに従うほかなかった。神託は当時の政治情勢を見抜き、それにあわせて朝廷の意を迎える配慮がなされた。しかも八幡神がみずからの像を世に示すのはきわめて大胆で意表をつくものであった。大仏塗金の黄金が必ず国内に出ると託宣し、その預言を成就させた。また道境事件においても清麻呂は八幡神の神託を仰いだのであった。 八幡神が中央志向のつよいことも神社としては異例である。 宇佐八幡について語ることは、そのまま本地垂迹の原点を語ることにもなり得るということも含めてこの文に集約されていると思いましたので、少し長く引用しました。 谷川さんはこの後に「八幡神に土着性がないことが中央政権に密着する志向性を可能にした」としているのですが、なるほどそれは往々にしてあり得ることです。 例えばこの大仏造立から100年余りも遡った時代には、蘇我氏が中央集権を推進しておりました。そもそも蘇我氏自体も土着性に希薄で、支持地盤に乏しかったことがむしろ幸いし、足かせのない自由な立場となり、その中央集権の方針に徹することが出来たのでしした。 おそらくは渡来系氏族であろう藤原氏――中臣氏――も自分達の支持地盤ハンディの克服法を、この蘇我氏の政策から気付かされたのではないか、と考えます。 事実、藤原氏――中臣鎌足――は蘇我氏を内部で対立させて半分ずつ段階的に片付けていくという、あたかもスパイラルな弱体化作戦によって、その地位と功績を横取りした感があります。中央志向は、支持地盤の貧弱な渡来系氏族が勢力を拡大する王道であったのではないでしょうか。これは秦氏にも言えることで、宇佐八幡がその志向性を強めたのも同様の思想故と考えるのです。 いや、むしろ秦氏こそがこの路線の元祖だったのかもしれません。それは必ずしも秦氏が前面に出て云々というものとは限らず、例えば、かつては蘇我氏にその手法を実践させていたのではないか、と想像するのです。私は、聖徳太子の事績とされているもののほとんどは、蘇我馬子と秦河勝のそれではなかったか、と疑っているわけですが、秦河勝は、実際には蘇我馬子のブレーンとして活躍していたのではないか、と勘繰るのです。『日本書紀』では蘇我氏から狙われる立場であったかのようなニュアンスが伝わってきますが、私は河勝を邪魔に思う存在があったとすれば、それはむしろ中臣氏ではなかったか、と考えております。 それにしても、何故この大仏の守護神は伊勢神宮ではなく宇佐八幡だったのでしょう。あるいは最大級の神威をもつ“大物主”を祀る大神神社が平城京のすぐ近くにあるというのに、何故わざわざ九州の神様に頼ったのでしょうか。 谷川さんは、文面を読んでいる限りでは、秦氏にその理由を見出そうとしております。 ひとつには、大仏造立に関して事前に智識寺の盧遮那仏造立の実績があったこと、もうひとつには、日本の神と仏を習合させるなんらかの術を持っていたこと、それらが秦氏を頼らしめる要因として大きいということなのでしょう。 東大寺大仏殿
さて、宇佐神宮には3つの顔があるわけですが、この場合特に八幡神としての顔、しかしそれは俗に八幡神の祭神と呼ばれる“一の御殿”の応神天皇というよりも、秦氏が祀るその祖型らしき何か、になんらかの秘密が隠されていそうです。 しかし、私は一方で、秦氏とは無関係と思われる“二の御殿”の比売神が頭から離れません。つまり『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんが提唱する「比売神=卑弥呼=天照大神」説が気になるのです。 厳密にいえば、私は邪馬台国と大和は別物であろうと考えているため、全面的な賛同はしかねるのですが、しかし少なくとも「宇佐が天皇家の始祖の墓である」という井沢さんの着眼点には大きく納得させられるのです。それでこそ、宇佐が天皇家の重大な局面に口出しが出来ると言うものでしょう。そういう意味では、本来宇佐にはその場所でなけらばならない理由が存在するわけで、つまりは十分に土着性があると言え、朝廷が頼るのも、むしろその土着性故であろうかと私は思います。 にもかかわらず谷川さんが言うように土着性を喪失しているかに見受けられるのは、それはあくまで辛嶋氏――秦氏――そのものの性格が乗り移ったからに他なりません。そこに何故秦氏が絡むのか、それは二次的な問題ではないかと考えるのです。 ここに、おぼろげながらも私の脳裏を去来するものに触れておくならば、焚書・発禁となった『先代旧事本紀大成経――以下、大成経――』での“神”に対する考え方では、神――天照大神――は、本来は日の出日の入りを繰り返す太陽のように常に巡っているものとのことでした。それでこそ「あまねく照らす」意味に通じるものだということらしいのです。問題になった伊雑宮についても、『大成経』の主張ではそこが本場云々ではなく、あくまで最初に天降った場所というだけなのです。つまりそこに居続けるものではないので、そこに天照大神が鎮座するなどとは語っていないのです。このことから見ても『大成経』が伊雑宮の手によるものではないことがわかります。 『大成経』が問題視されたもうひとつの大きな理由には、巡るべき天照大神を一箇所に固定してしまった伊勢神宮を断罪しかねない内容になってしまうから、という部分もあったのでしょう。 ついでまでに、この『大成経』を知識人の間で一躍ベストセラーにのしあげた「潮音」の母方の姓が「波多野」であったことは、ここにきてまた気になりだします。 |
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天智天皇から天武天皇へ移った天皇家の血の流れは、なにか見えない不気味な力でもって天智系に引き戻された感があります。そのプロデューサーは当然藤原不比等でしょう。 平城京開府の頃には、もはや藤原氏と対抗出来るような氏族は存在しておりませんでした。物部氏はとうに往年の迫力などなく、蘇我氏はほぼ滅亡状態、そんな中で弱含みながら比較的“力”を持っていたのは大伴氏であったかに思われます。しかし、それとても藤原氏にブレーキをかけるほどの迫力はなく、藤原氏のライバルは、いよいよ身内、あるいは天皇家の内部に息づく古代氏族の遺伝子しか存在しなくなっておりました。天武系かつ蘇我系の血をひく長屋王などは、まさに後者の典型であったと思います。藤原氏内部も、こういう共通の敵がいる間は、まだ一致団結出来ていたようです。 藤原不比等が病没した段階で、不比等の4人の息子――藤原四家の祖――は、まだ貧弱でした。その間隙に長屋王は右大臣となり、太政官の頂点を極めたのです。藤原氏の専横を常に苦々しく感じていた長屋王は、この機に太政官のメンバーを天皇家でかためました。 ここで、謀略に長けた藤原氏の血はその牙を剥くことになります。 神亀六年(729)、長屋王は国家転覆の呪いをかけたと密告され、自殺にまで追い込まれました。これで藤原氏は政敵を一掃したかに見えました。 ところが、現世のライバルを一掃したはずの藤原氏は、“あの世”からの攻撃を受ける羽目になりました。天平九年(737)に長屋王の祟りが炸裂しました。藤原四兄弟は全員あの世に招かれてしまったのです。 さて、聖武天皇の皇后である光明子(こうみょうし)は、祟り殺された4人の兄妹です。本来“妃”の一人で終わるはずだった彼女は、兄達の陰謀によって皇后になったのです。それを阻止しようとしていた長屋王はとうに故人のはずですが、今、現実に目前にせまる祟り神となって兄達を呪い殺しているのです。光明子の恐怖は察するに余りあります。おそらく、夫である聖武天皇に最大級の除霊・鎮魂を泣いてすがったことでしょう。 それを受けてか、翌年の天平十年(738)、諸国に各々国分僧尼寺を建立することが決定され、さらに天平十五年(743)には総国分寺・尼寺である東大寺・法華寺、そして大仏の建立という史上最大級の国家プロジェクトが詔されることになりました。これらは、そんな恐怖心が生み出した産物以外の何物でもないのではないでしょうか。 そのようなすがる思いで建立した東大寺であったからこそ、そこには最大限の力を発揮してもらわなければなりません。おそらくはそんな思いから、考え得る最大級のスピリチュアルを駆使すべく、九州豊前国の宇佐八幡――八幡総本社――にお呼びがかったのです。逆に言えば、これだけの史上最大級の国家プロジェクトに召集された宇佐八幡とは一体何者なのかという興味も湧いてくるところです。 東大寺手向山(たむけやま)八幡宮
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