はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

倭武天皇一族

[ リスト | 詳細 ]

 常陸国風土記が“天皇”と表現してはばからない悲劇の皇子と縄文先進地帯の偉大な歴史の関わりを眺めてみます。
記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

はてノ陸奥国

 『古事記』にはヤマトタケルが陸奥国にまで足を伸ばしている旨の記述はありません。
 しかし『日本書紀』には「則從上總轉、入陸奧國」とあり、陸奥国に入ったことを明記しております。もちろん景行天皇の時代に陸奥国というヤマト化した国があったとは思えないので、書記編纂時代の地理概念に基づく表現なのでしょう。
 このときヤマトタケルは、葦浦なるところを回って玉浦なるところを横切って蝦夷の支配地に入ったとされているわけですが、そのとき「蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距」、つまり蝦夷の賊首である「嶋津神」「國津神」が「竹水門(たかのみなと)」というところで迎撃せんと待ち構えていたようです。
 この竹水門について、宮城県の多賀城に近い宮城郡七ヶ浜町湊浜あたりが有力とされておりますが、常陸国の多賀郡――現:茨城県日立市、高萩市、北茨城市――や陸奥国行方郡の多珂郷――現:福島県南相馬市――あたりも候補地とされております。
 少し、各々の候補地の妥当性について考えてみます。
 まず常陸国はどうでしょう。
 文脈をどう読むかなのですが、これが陸奥国での出来事なのであればその段階で常陸国は既に論外でしょう。
 しかし、陸奥国に入る途中の「蝦夷の境」という部分で考えるならば、まだ常陸国のセンも捨てられません。
 ただ、当地の蝦夷はヤマトタケルの船団の威勢に怖じ気づき、すんなり降伏をしたらしく、書記の記述ではそのすぐ後に日高見国――陸奥国?――から還って西南の“常陸国”を経て云々とあるので、やはり常陸国ではなさそうに思えます。
 では陸奥国行方(なめかた)郡はどうでしょう。
 これはかなり妥当性があると思えます。何故ならもう一つの候補地である宮城県の多賀城付近については、当地に多賀城が創建されるのは8世紀に至ってからであり、ヤマトタケルの時代においてそこをヤマト朝廷との境界に想定するのはかなり苦しいと思われるからです。
 とはいえ、行方郡と断定するにしてもどうしても苦しいファクターが存在しております。
 それは「嶋津神」です。
 そもそもこの嶋津神とは一体何者なのでしょうか。もちろん薩摩の島津氏とはまず関係ないことでしょう。おそらく竹水門付近の土着勢力には違いないのでしょうが、通常そういった勢力は記紀双方に共通して「国津神」と表現されております。
 ところが、ここでは「嶋津神・國津神」というように意図的に併記されており、わざわざ国津神とは区別すべき示唆をもって表現されております。これは記紀全般を通じてこの箇所のみの独自の表現なのです。
 昭和35年版の『松島町誌』は、これを「島に住む他民族の首長」と想定しております。つまり天津神に対する国津神に用いられる字義解釈の延長です。私もその説をとります。
 しかしその場合、行方郡付近にはそれに該当する地理環境が見受けられないのです。
 『松島町誌』は、「関東以北で、島が多くしかもそこに多くの住民が住んでいた地域は、松島湾を除いてこれを求めることはできない」としております。
 これはとても説得的で、そうなると竹水門はもはや松島にも近い七ヶ浜町の湊浜であったと断定してもよさそうです。事実、このあたりは当地きっての名神大社「志波彦(しわひこ)神社」の志波彦神話の由来の川、つまり「志波彦大神――冠川明神――」が降臨したという、かつての冠川(かむりがわ)――七北田(ななきた)川――の河口でもあり、遺跡の密集地でもあります。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5

 したがって宮城県民の私は心情的にその説にロマンを感じてしまうのですが、しかしここは少し冷静になって頭をもうひと働きさせてみると、『松島町誌』が主張する地理環境は現代の視点であることに気付いてしまいます。
 例えば『常陸国風土記』は「香島郡」の風景描写を次のように書きます――秋本吉徳さん全訳注『常陸国風土記より――。

――引用――
香島の郡 東は大海。南は下総の国と常陸の国との堺をなしている安是の湖。西は流海。北は那賀の郡と香島の郡との堺をなしている阿多可奈の湖である。

 まさに“島”です。
 実は、往昔茨城県の鹿島神宮が鎮座するエリアは河口と潟湖に島が入り乱れる風景であったのです。ヤマトタケル伝説がオホ氏の流浪の投影であると考えるならば、オホ氏の意向が反映されているだろう『古事記』においてそのヤマトタケルの遠征に陸奥国が含まれていないこと、かつ「タカ」地名に囚われないならば、私はこの常陸国香島郡こそ「竹水門」の描写として最もふさわしい場所と考えざるを得ません。
 では何故『日本書紀』にあえて陸奥国が登場するのでしょうか。穏当に考えるならば、それは、『日本書紀』編纂中の和銅年間に陸奥国の蝦夷が暴れていたこと、そしてそれに対して積極的に征夷政策が実行されていたことが『続日本紀』の記述からも読みとれますので、その時事の反映と言えるでしょう。
 この時期の蝦夷の反乱について少々思うところがあります。なにしろ私は6世紀頃にはオホ氏が常陸国を経て、後の陸奥国エリアにまで入り込んでいたと想像しております。少なくとも、鹿島神の春日化――藤原化――の段階では、それを食い止めるべき発言権のある主力級のオホ氏は常陸国を離れていたのでしょう。つまり彼らは既に鹿島御児神を奉斎して陸奥国に入植していたことがわかります。何故陸奥国のそれが主力級であると考えるかと言うと、『日本三代実録』の貞観八年一月二十日条によれば陸奥の38の苗裔社が本家鹿島神宮の命令を退けて憚らず、しかもそれが許されているからです。
 そしてオホ氏の入植に少し遅れて6世紀末、後を追うように物部氏が一気に流入したと考えます。物部氏が当地に流入するには必然的な理由があります。物部氏は、587年の蘇我・物部の戦いによって敗北、その首領である守屋の一族が皆殺しとなりました。主力級物部氏のほとんどはヤマトから亡命する必要があったと考えます。
 したがって日本書紀撰上の養老4年(720)頃の陸奥国は本格的なオホ・モノノベ王国になっていたのではないか、と考えるのです。
 かつて、朝鮮半島の動乱で母国を追われた人達が波状的に日本に渡来し、帰化していきましたが、同様に中央で政敵に敗れた古代氏族も波状的に陸奥国へと逃げ延びてきたことでしょう。
 もしかすると、9世紀のアテルイ対坂上田村麻呂は、「古代氏族連合軍」対「ヤマト政権」の“アルマゲドン”であったのではないか、などとも想像しております。
イメージ 6
イメージ 7

5世紀のオホ氏

 奈良県磯城郡田原本町の多神社境内の説明板によれば、多神社周辺には弥生時代の集落遺跡があったとのことでした。また、古墳時代まで継続していたことを思わせる土師器や須恵器などの出土品もあったといいます。
 多神社に見られる太陽信仰には「死と再生」の示唆がありますが、もともとは母なる三輪山を中心とした太陽の巡りによって田植えの時期などを把握していたことに始まったのでしょう。
 厳しい冬が過ぎ、太陽が三輪山から昇る時期になると、野山の動植物が目覚め、ぼちぼち田植えの時期がやってくるサインであったのでしょうし、弥生時代の農民たちにとって多神社の場所は暦のためのランドマークであったのだと思います。
 しかしそれだけでは多神社の場所がそこに特定される理由としてはまだ不足です。春分の日に三輪山頂上から昇る日の出を確認できる場所は、三輪山以西で同じ直線上であればどこでもいいはずです。
 したがって、おそらく三輪山から見て冬至の日没の目印、すなわち畝傍山(うねびやま)がもう一つの基点になっていたのでしょう。
 つまり死――冬――に向いつつある大地は、日没の位置が畝傍山に到達したところから一気に反転し再生し始めます――春――。まさに「死と再生」の折り返し地点が畝傍山であり、そこが固定されてこそ初めてその真北にある多神社の位置も固定されたはずです。
 この発想は日本と言わず大陸と言わず、ある程度四季が認められるところであれば世界共通の「太陽信仰」の原初の形態でしょうが、大和盆地においてそれが大陸風のしっかりとした信仰の形――天照(あまてる)信仰――として形骸化されるに至ったのはやはり秦氏によるところが大きかったのではないでしょうか。
 なにしろこの周辺には秦楽寺や秦庄の地名にもあるように秦氏の痕跡が極めて濃厚です。
 しかし縄文あるいは弥生以来の遺構については、その歴史の古さから考えてやはりオホ氏に関係していると考えるべきなのでしょう。それがおそらくは5世紀以降、なんらかの事情で秦氏に塗り替わっていったものと想像します。もしかしたら『大倭國正税帳』がまとめられた天平二年(730)の頃には、多神社の氏子はほとんど秦氏であったのではないでしょうか。蓄積稲にみられる圧倒的経済力も、実は秦氏によるものではなかったのでしょうか。
 あくまで私の想像の上塗りなのですが、秦氏が当地に扶植している頃、オホ氏の“主力”は当地に居なかったと考えられます。
 何故なら、『常陸国風土記』でのオホ氏の活躍や、それを裏付けるような茨城県潮来市の大生古墳群――古墳時代中期:5世紀頃――の存在から、秦氏の渡来が本格化してきた5世紀頃にはどうやらオホ氏の主力は常陸国にあったと考えるからです。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

 何故常陸に流れていたオホ氏を「主力」と考えたかと言うと、オホ氏が常陸国において奉斎したと思われる鹿島大神が、辺境としては異常に格の高い扱いであり、後世の藤原氏が自らの氏神の春日大神として利用しているからです。藤原系中臣氏がオホ氏系中臣氏に成り替わるには、それなりのレベルの祭祀につなげなくてはならなかったはずです。
 したがって天平期――8世紀――の多神社周辺で多氏を名乗っていた一族の実体は、ほとんど秦氏ではなかったかと思うのです。
 だからこそ、藤原氏の付け入る隙があったのかも知れません。
 前に少し触れましたが、奈良県磯城郡田原本町の多神社は太陽信仰と密接と考えられます。多神社は三輪山山頂の真西に位置しますので、春分の日、秋分の日には三輪山山頂から日が昇るように見える場所なのです。多神社東方約1キロにある鳥居などは、あきらかに三輪山を遥拝すべく建てられており、三輪山は鳥居の中に見事にすっぽりとおさまります。
イメージ 1

 これを偶然と言うなかれ、『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんは真北にある石見の鏡作神社、
イメージ 2
イメージ 3
そして真南の畝傍山もからめた三輪山基点の太陽の巡りから、ダイナミックにその位置の必然性を説いております。

――『日本古代試論(大和書房)』より引用――
 オホ神社の位置が三輪山の春分、秋分の日の出を拝する位置とすると、オホ神社を基点に南北に線を引き、三輪山の冬至、夏至の日の出を拝する位置が、神武天皇、神八井耳命(『書記』に神八井耳命は畝傍山の北に葬るとある)の陵のある畝傍山の北と、石見の鏡作神社である。〜略〜 三輪山山頂からみると、冬至の夕日が落ちるのが畝傍山である。日没の場所は死者を葬る場所なのだから御陵があるのは当然といえよう。また冬至の朝日を拝する場所の周辺が鏡作氏の居住地であるのは、春分と共に冬至が古代の農耕祭祀にとって重要な時期だからである。
イメージ 4
画像自体が歪んでいるのでラインがずれておりますが、ご了承ください(笑)

 大和さんは、葛城王朝説を主張する鳥越憲三郎さんがもてあましていた多神社の不自然な位置についてこのように明確な理由づけをしたのです。
 鳥越さんは、葛城山麓と三輪山麓に最高格の神社が集中していることについて、そこに各々巨大な文化圏が存在していたことに由来するとしていたわけですが、そのいずれにも属さないエリアにある多神社の社格が異様に高いことについては、太安麻呂が記紀編纂に関係したためのものと見ておりました。
 大和さんは、鳥越さんの説を大筋で支持しながらも、太安麻呂云々については異を唱えておりました。理由は「社格を上げるほどの実力は安麻呂にはない」からです。安麻呂は8世紀の人物であり、『延喜式』は10世紀初頭のものです。大和さんは、オホ氏などよりはるかに実力があったであろう藤原氏の春日大社の社格が「名神大ではあっても相嘗ではない」ことを引き合いにして、10世紀の藤原氏の実力をもってしてもそれが出来ていなかったわけだから、ましてや時代を下げるにつれ実力を失っていくオホ氏にはとてもそのような操作など出来るはずがないとしているのです。
 そこで先に触れた太陽信仰にその理由を見出すのです。多神社は春分の日に太陽が昇る「神なる三輪山」を遥拝する「宮」であったというのです。地元では三輪山の大神神社を「おおがみさん」、多神社を「おおみやさん」と呼んでいるとのこと。
 更に大和さんは『多神宮注進状』にある
「皇帝神八井耳命帝京以降 居於当国春日県(後為十市県)造営大宅塩梅国政、斯蓋起立神籬磐境 祭礼皇祖天神 陳幣帛啓祝詞 以答神祇之思而主神事之典焉使県主遠祖大日諸命(鴨王命之子)為祝而奉仕也」
の記述をもって「三輪系と葛城系の中間に位置していて、三輪と葛城の中を執(とりも)つ神社の性格をその場所が示している」と補足しております。

多神社の別格な蓄積稲

イメージ 1

 奈良県磯城郡田原本町に鎮座する「多神社――多坐弥志理都比古(おおにますしりつひこ)神社――」は、延喜式神名帳の大社に列せられた大和国屈指の大社でした。大和国には延喜式名神大社が26社もあり全国最多なわけですが、延喜式撰上より約200年も遡った天平二年(730)にまとめられた『大倭國正税帳』によれば、この多神社――太神社――の田祖は、三輪山の大神神社の五五五束一把を筆頭に、志磯御県神社一五六束三把に続く一三八束四把であったようです――大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)引用、井上辰雄さん著『正税帳の研究』より――。
 しかし、驚くのはここからです。田祖は大和国内で三番手であった多神社ですが、これが天平二年までの蓄積稲のランキングとなると別格な存在であることがわかります。
 田祖ランキング第一位の大神神社が蓄積稲については四〇一九束三把なのに対して、多神社はそれをはるかに上回る一〇六三二束九把で断トツ一位です。二位の大神神社の2.5倍と圧倒的な経済力であったことがわかります――前述書より――。
 ところで、かつて私は国家の正税から祭祀料を割かれた神社は全国に四社しかないと書き、その中でもいわば国家非公認の式外社である鹽竈神社が何故か圧倒的な比類なき額面の祭祀料を割かれていたことに注目しました。念のため勘違いされないように補足しておきますが、鹽竈神社他三社の弘仁式や延喜式の主税式におけるそれは、国家予算からいくら祭祀料を配分するのかを示すものであり、今挙げた『大倭國正税帳』のこれらは、あくまで“自力”の財力を示しております。
 平安時代において原則“官寺”であるべき寺院と異なり、鹽竈神社他三社に見られるような神社への国家の保護は極めて稀で、通常神社は「氏子(うじこ)」のようなパトロンによって運営を支えられております。したがってこれによって神戸数などの規模もおおよそ逆算出来るということにもなります。
 大和岩雄さんは、この多神社の蓄積稲がずばぬけて多いことについて、「子部神社以下の正税帳に記載されないオホ系神社の稲が含まれているからではなかろうか」と推測しております。大和さんの言う「子部神社以下」とは『多神宮注進状』にある子部神社、目原坐高御魂神社、竹田神社、下居神社など多神社の若宮または外宮のことです。
 多神社境内にある説明板には次のようにあります。

――引用――
多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社
(多神社)
祭神 神武天皇・神八井耳命・神沼河耳命・姫御神・太安万侶
由緒  社伝によると、神武天皇の皇子神八井耳命がこの里に来られ、…我、天神地祇を祀る…という由緒をもつ。平安時代の『延喜式』にも名がみえる大和でも屈指の大社である。神八井耳命を始祖とする多氏によって祀られ、中世には国民である十市氏によって支えられた。また、本神社の南には、古事記の撰録にあたった太安万侶を祀る小杜神社や皇子神命神社、姫皇子命神社、子部神社、屋就命神社の若宮がある。
 本殿は、東西に一間社の春日造が並ぶ四殿配祀の形式をとる。江戸時代中頃の建築様式をよく残すもので、奈良県の指定文化財になっている。
 なお、本地は弥生時代の集落遺跡として著名である。
田原本町
イメージ 2

 さらりと書いておりますが、子部神社と目原坐高御魂神社は、『延喜式神名帳』において「月次新嘗にあずかる名神大」の扱いになっているのですから、実は大変驚くべき異例の形態なのです。
 多神社は最高格の神社を二社も若宮として抱えているのです。 
イメージ 1

 宇佐八幡の地位を引き上げた“プロデューサー”が大神氏であることは異論を待たないと思いますが、大神氏は、例えば谷川健一さんなどからは出自不明とされながらも、基本的には『三輪高宮家系図』の記載から大三輪神の神人であり、シャマンであるとも考えられております――中野幡能さん――。いずれ、大神氏の基本はオホ氏系にあると考えてよろしいかと思います。
 中野幡能さんや大和岩雄さんは大神氏をあくまで渡来系――帰化人――と考えているようですが、谷川健一さんは『四天王寺の鷹(河出書房)』の中で「そんな筈はない」ときっぱり否定しております。
 谷川さんは大神氏について「大和の菟田地方に本貫があると思われる」として、『承和縁起』の中で辛嶋氏伝承にわざわざ大和国経由が付加されている理由として「辛嶋氏は大神氏の応神霊を承認したかのように装い、大神氏の意向を汲んで、妥協をはかったのだ」という逵日出典さんの説を紹介しております。
 つまり、「大和国経由」の付加が大神氏の代名詞を担っているということから、大神氏が大和国本拠の氏族であったと認識されていたことがわかります。
 また、大和岩雄さんは『秦氏の研究(大和書房)』のなかで、大仏造営に活躍した大神杜女が、薬師寺僧の「行信」と組んで「厭魅」を行ったとする『続日本紀』の記述から、大神氏と薬師信仰の結び付きを推察しておりました。したがって『託宣集』の「弥勒と薬師を本尊にした」という記述について、辛嶋・宇佐氏の弥勒信仰と大神氏の薬師信仰が合体して八幡宮の神宮寺が創建されたのだろうとしております。
 つまり、大和さんは「辛嶋氏――秦氏――には弥勒信仰、大神氏には薬師信仰がある」と考えているわけです。
 余談ながら、私見では、薬師信仰にはスクナヒコナとの習合による産土神、もっと言えば先住民族の示唆を疑っております。つまり、秦氏のような渡来系というよりも、オホ氏風な属性を感じます。オホ氏も遡ればはるか古い時代には渡来人であったかもしれませんが、秦氏が渡来してきた5世紀頃には十分に土着化しており、それどころか既に一時代を終えつつあったのではないか、とさえ思うのです。
 ところで、宇佐に関連した一連の動きを見ておりますと、大神氏はどうも秦氏系の辛嶋氏に対し、妙に嫉妬とも対抗意識ともとれる感情を持っているようです。
 例えば『託宣集』では、『承和縁起』での祟る鷹の伝説に付加して、大神比義が出向くとそれが金の鷹で、それは金の鳩になり、やがては三歳児に変遷し「自分は応神天皇で広幡八幡麻呂である」と告げたことになっているようです。谷川健一さんが「大神氏が自分につごうのよいように、置きかえたものであることが直ちに察知できる。鍛冶翁伝承は大神氏には何のゆかりもない」というように、大神氏は辛嶋氏の立場になりかわり更にそれを上回ろうとしているようです。
 また、大和さんによれば、弘仁六年(815)に宇佐八幡宮の神主であった大神清麿が官に提出したという『大神清麿解状』には、八幡神は豊前国宇佐郡馬城嶺に始めてあらわれ、大神朝臣比義が、戌子――欽明天皇二十七年――から鷹居瀬社を建てた、と書いているようですが、その40余年前である宝亀四年(773)の『大神田麻呂解状』では、「自先祖大神比義至于田麻呂祝奉仕同拝壱百玖拾箇蔵」とあるようです。つまり比義が田麻呂の190年前とされていることから、宝亀四年から190年遡ってもせいぜい敏達天皇十三年(584)にしかならず、欽明朝というのが創作であることが歴然としてしまうわけです。
 大和さんは、辛嶋乙目らが始めて八幡神を祀ったのが欽明朝となっていることを受けた大神氏が「辛嶋氏への対抗上」大神比義を欽明朝までくりあげたのだろうとみております。
 私見ですが、仏教優勢となりつつあった6世紀頃には、おそらく、かつて最強の祟り神であったはずのオオモノヌシの神威はもはや影が薄くなりつつあったのではないでしょうか。
 したがってその神祀りを拠り所に、且つ、自らの存在意義と自覚していたオホ氏は著しい権威失墜のさなか新興の秦氏の属性と経済力を取り込むことによって復権を果たそうとしていたのかもしれません。それが、大神氏が宇佐に関わりを求めたきっかけだったのではないでしょうか。
 しかし、それはあくまで6世紀以降の話で、それ以前においては必ずしもそうではなかったでしょう。5世紀前後に母国を追われて渡来してきただろう秦氏の方が、むしろオホ氏の権威にすり寄っていたのではないしょうか。それがあったればこそ、オホ氏と秦氏の間に同族とも思わしめる密接な関係が成立したものと想像します。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事