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一般的な系譜に基づいて神功皇后――オキナガタラシヒメ――の相関を眺めると、神功皇后はヤマトタケルの子である仲哀天皇との間に応神天皇――ホムタワケ――を生んでいることになります。そして、その応神天皇の5世孫というふれこみで世継ぎのない武烈天皇崩御後の混乱のさなか継体天皇が即位しました。このあたりは別の機会に触れるつもりですので一旦流しますが、 「いや、応神天皇はタケノウチノスクネとの間に出来た子に違いない」 という方もいらっしゃると思います。しかし、そういった勘繰りは後世の学説であり、かく言う私もそうは思うものの、これも一旦置いておきます。 また、「神功皇后は創作された存在だから論ずるに足らん」という意見もあろうかと思います。いえ、その説こそが世の趨勢(すうせい)を占めていることも存じておりますが、実は私はそれについて素直に受け入れることができません。決して否定しているわけではなく、そのまま聞き流すにはあまりにひっかかりがあるのです。それであれば「聖徳太子架空説」の方がよほど受け入れやすいと考えております。聖徳太子を実在したと考えている私であるにも関わらずです。 何故なら、聖徳太子は天皇家直系の英雄ですが、神功皇后はオキナガタラシヒメ、つまりあくまで「息長(おきなが)氏」という特定の氏族を指す名を冠しているからです。 少なくとも「息長氏」という系譜自体が正史上で存在し、しかも神功皇后以前から直接間接にその名が現れており、つまり息長氏は一つの古代氏族として成立しているわけです。 もちろん『古事記』ではオキナガタラシヒメも5代ほど遡れば開化天皇に行きつきます。5代というところがまるで継体天皇のようですが、もしかしたらそれは偶然でもなんでもないかもしれません。それはともかく、その継体天皇ですら皇統とはかけはなれていた怪しい系譜と言われているわけで、なにしろ「継体天皇の即位は王朝交代ではなかったか」という説があるくらいです。つまり、神功皇后も同様で、とても天皇家直系とは言い難い別系譜と言っていいのです。 そのような人物が記紀においてあれほど字数を割かれて英雄譚が述べられているというのは、編者のどういった思惑からのものなのでしょうか。天皇家内で英雄を創作する分には特に弊害はないでしょうが、特定の一氏族の名で英雄を創作することは、いたずらにその氏族の立場を優位にするのは間違いなく、それはかなりデンジャラスなはずです。だからそんな危険な創作を“するわけがない”というのが私の思惑です。 したがって、ここに息長氏の名が登場していることは、なんらかの史実の反映と見て間違いないと思っております。 しいてあげれば、息長氏の系譜はヤマトタケルにも深く連なっているばかりか、「袁本杼(おほど)命・男大迹(おほど)王――継体天皇――」も含めその名に「オホ」を冠する人名が目立ちますので、地下水のごとく流れていたオホ系譜に関連していると考えることはさほど外れてはいないことでしょう。したがって、神功皇后がやはり架空の存在であるのだとするならば、息長氏の系譜はかなり正当なものでありながら皇統の相克のなかで埋もれていった敗者の歴史の焼き直しととることが出来るのかもしれません。 さて、そのオキナガタラシヒメとホムタワケ――応神天皇――母子の説話は海人系母子神信仰の基本路線にのっとって展開しているとも思われるわけですが、極めつけは“空船(うつほふね)”でした。しかもそれが記紀のうち『古事記』にのみ見られる記述であることから、真っ先にオホ氏の思惑がからんでいるものと想像するわけですが、空船説話はむしろ秦氏にこそ顕著に見られる属性に思えます。世阿弥(ぜあみ)の『風姿花伝』や金春善竹の『明宿集』にある秦河勝の出現譚がその典型でしょう。 これは、初瀬(はつせ)川――泊瀬川――の川上から流れてきた壺の中に赤子が入っており、その赤子が自らを「秦の始皇帝の生まれ変わりである」と名乗ったという秦河勝の出現譚で、まさに空船説話です。 オホ氏のことを考えるとき、途中でやたら秦氏の影を感じざるを得なくなることについては前にも書きました。奈良県磯城郡田原本町の「多神社」付近に「秦庄」という地名があるのも決して偶然ではないでしょう。また、日本語の「多(おお)」や「大(おお)」を表す古代韓語がhataであることも偶然には思えません。もしかしたら、オホ氏はハタ氏なのでしょうか。 結論から言うと私はそうではないと思っているのですが、しかし、オホ氏の流れを組むハタ氏がいたことは事実でしょう。それは史料上からも証明出来ます。『日本古代試論(大和書房)』『秦氏の研究(大和書房)』の大和岩雄さんによれば『鳳凰笙師伝相承』に収める「採桑老相伝」なる曲の相伝がそれです。
「多公用」なる人物を祖とした相伝系譜は、4代後に継承した「多資忠」が殺害され一時断絶したらしいのですが、資忠の曾祖父つまり系譜上初代公用の子である「多好茂」の代に、多家の流れとは別に「秦公信」なる人物に継承されていたので、相伝としてはその子「秦公貞」から、多資忠の子「多近方」に継承されていったようです。もしかしたら、秦氏は多氏のスペア的な役割を担っていたのでしょうか・・・。 しかし、この例を他の全てにあてはめるのは無理があります。なにしろオホ氏の歴史は“古い”のです。大和岩雄さんは『日本にあった朝鮮王国(白水社)』の中で、秦氏は 「五世紀前後に最初の渡来があり、百年間ほど、断続的に、朝鮮半島の南部の伽耶(かや)地域を中心として新羅に及ぶ範囲から、渡来したと考えられる」 としておりましたが、5世紀前後とは諸氏の論考からざっくり捉えるならば、17代履中天皇あたりから25代武烈天皇・26代継体天皇あたりになるのでしょうか。 つまりオホタタネコが登場した10代祟神天皇時代はもちろん、神功皇后や15代応神天皇の時代よりもだいぶ下った時代と考えてよさそうに思えます。 大物主の祟りの逸話などから、オホ氏は少なくともオホタタネコが登場した時代には既に“過去の英族”でした。やはりオホ氏とハタ氏は別物と考えるべきなのでしょう。 |
倭武天皇一族
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常陸国風土記が“天皇”と表現してはばからない悲劇の皇子と縄文先進地帯の偉大な歴史の関わりを眺めてみます。
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少し天童伝説に触れておきます。母子神信仰と言ってもいいのですが、多少の食い違いを無視してその概要をごく簡単にかいつまむと、日光に感精した処女――巫女――の生んだ天童が、空舟(うつぼ)で漂着するといったものをそう呼びます。 この類の説話は洋の東西を問わず見られるようで、処女の聖母マリアがイエスキリストを生む説話も広い意味では同根と言えるかもしれません。 ふと思い起こすに、よく知る話の中にもまさにそれに端を発したものだろうと思わせられるものがいくつかあります。 例えば、不具であったために船で流されたイザナギ・イザナミの最初の子――『古事記』――ヒルコが漂着した逸話や、川をどんぶらこと流れてきて大きな桃から生まれた桃太郎もしかりです。 それらよりも更に直接的に類似性を感じざるを得ないのは、「息長帯日売命(おきながたらしひめ)――神功(じんぐう)皇后――」と「品陀和気(ほむたわけ)命――応神天皇――」の母子でしょう。つまり“八幡母子”です。まさに神聖なる“母子”ですが、特に『古事記』ではそのものずばり「空舟」なる言葉が現れます。 『古事記』によれば、オキナガタラシヒメは大和に凱旋帰国する際、亡き夫仲哀天皇の腹違いの子であるカゴザカ王・オシクマ王兄弟らの反逆を懸念して、予め棺を載せる「喪船」を一艘用意して我が子ホムタワケを乗せて「御子は既にお亡くなりになりました」と偽りの情報を流しました。 カゴサカ王は先に赤い猪に食い殺されてしまいましたが、オシクマ王は案の定その“空舟(うつほふね)”を攻撃しようとしました。 『古事記』ではこのように戦略上の喪船のことをあえて“空舟”という言葉を用いて強調しております。 『古事記 全訳注(講談社)』の次田真幸さんはこの空舟について、 「ムナフネまたはムナシフネと読んで、からの船、人の乗っていない船、と解釈されて来たが、ウツホフネと読んで、母子神がうつぼ船に乗って、海浜に出現する、という古代信仰に由来すると見たい」 として岡田精司さんの『古代王権祭祀と神話』所収「天皇家始祖神話の研究」を参照としております。
なるほどたしかに、ホムタワケを乗せていたわけですから空っぽの船のわけはありません。『日本書紀』には特に「空舟」の逸話は出てきません。『古事記』の原型がオホ氏の家伝にあるとするならば、このことはオホ氏の属性を考えるときに実に重要な意味を持ってまいります。 ところで、ここで私は宇佐八幡宮を思い出さずにはおれません。私の妄想的私見では、宇佐神宮とは神武天皇の子を身籠った宇佐の女性とその御子の墓所であり、宇佐のただならぬ朝廷への影響力とはその母子の鎮魂に由来するものではなかったか、と考えているからです。 少し先走らせていただくならば、そこにオホ氏系の大神氏や秦氏系の辛嶋氏が関わったことによって、海人系、あるいは大陸系の母子神信仰との見事なコラボレーションが実現したのではないでしょうか。 |
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記紀では特に見受けられない東国におけるオホ氏の活躍は、『常陸国風土記』をみると随所にみられます。これは物部氏においても同様です。このことについて、太田亮さんは『日本古代史新研究(磯部甲陽堂)』のなかで「これは二氏のそれが早く忘れられた爲であつて、傳説の殘つて居るのよりは古かつたのではないかと思ふ」と述べております。 ここで太田さんがいう傳説(でんせつ)とは、祟神天皇時代の四道将軍や毛野氏の蝦夷征伐などのことです。なるほどたしかに記紀においては祟神天皇の時代に大物主が祟り、オホタタネコがオホ氏の末裔として現れているのですから、オホ氏の活躍はその時代において既に過去のものであったということは頷けます。 しかし太田さんの着目点はそこではありません。太田さんは、それらの蝦夷征伐が白河口と越後口になっていることに着目しているのです。そして「表日本に手をつけない前に困難な中道や裏日本方面を經營する筈がないのである」と語ります。 ここだけ見ると、白河口はともかく、裏日本――日本海側――云々というのは比較的近現代の発想であり、古代においては当該エリアが先進地域であった発想が抜けているように思えますが、誤解を招かないように予め申し上げておくと、太田さんはその記述の前に後世の源頼朝の奥州征伐のルートを引き合いに出しており、それが上古における古代氏族進出のルートでもあるとして、それにリンクする安倍氏や毛野氏の氏族分布を語った上での展開であることをつけくわえておきます。 ちなみに頼朝のルートというのは、 1、勿来を越えて太平洋岸を進む 2、白河から阿武隈川に沿うて行く 3、越後の磐船から日本海岸に出る の三道を指します。 ここで越後の「磐船(いわふね)」という地名を見て「お」と思った方の勘はもしかしたら的を射ているかもしれません。ここは大化4年(648)に磐船柵がつくられたエリアです。 『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんは、阿倍比羅夫が180艘の船団をひきいて北征に出発する際ここには北方鎮護を目的とした四天王が祀られたとみており、その話の延長上で新潟県の弥彦神社やそれ以北の日本海沿岸に点在する夷狄(いてき)の神古四王(こしおう)神社との因果も無視できません。 いずれ、磐船柵という朝廷の城柵が築かれる以前には既に「磐船」なる地名があったのでしょうし、なにしろ当地の式内社「石船(いわふね)神社」の主祭神はニギハヤヒなのです。 当然ここにはニギハヤヒ降臨伝承の影響を感じさせますし、それはつまり物部氏の分布をほぼ確信させ得る痕跡といっていいかと思われます。 したがって、この磐船における物部氏の痕跡が少なくとも大化年代を遡ることは確実なわけであり、これが日本海沿岸伝いでのものであることを考えると、必ずしも太田さんのいうところには若干の受け入れがたさもあるのですが、そこはあくまで鹿島・香取の分布――関東発――を前提とした話と受け止めるならば至極納得のいく論説かと思います。
そもそもここで太田さんが言いたいことは、鹿島・香取の分社の分布が東北地方の太平洋岸にのみ展開していることと、それを奉斎する氏族の分布、すなわち消去法によって残った多氏と物部氏の分布が、頼朝ルートのうち太平洋岸のみ偏っていること、そして海岸沿いを征して段階的に内地を征するのが自然であるはずという観点から、鹿島・香取――多・物部――の分布は、“より古体を残した分布”であると考え至っているのです。 それにしても、私は必ずしも『常陸国風土記』や太田さんが言うように“征伐”という形ではなかったかと思うのです。 後世、大和朝廷は国家をあげて蝦夷討伐に取り組んでも尚大苦戦をしているのです。蝦夷とは大和に追われた一氏族が単独で征伐できるような相手ではないと考えられます。したがって征伐という形ではなく、平家落人伝説のごとく逃げ延びた斜陽化の一族たちは、まさに「芸は身をたすく」で、持ち前の先進テクノロジーを提供することで先住の夷狄とごく自然に同化していったのではないでしょうか。 高橋富雄さんはそのような展開を「文化征服」と名付けておりましたが、絶妙な表現と言わざるを得ません。 あるいはこう思うのです。 後世大和朝廷が征伐しようとした奥羽の夷狄とは、必ずしも先住の蝦夷ではなく、多氏や物部氏といった、かつて畿内を席巻していた古代氏族の末裔たちではなかったかと・・・。 たとえば、『ゆりかごのヤマト王朝(本の森)』の千城央さんは、あくまで老婆の昔話という設定ではありますが、アテルイを「照井一族」の第一党を表す「ア・テルイ」であるとしております。 それによらずとも、宮城県北部から岩手県の照井姓の中には、自らを「アテルイ」の末裔と称する方もいらっしゃるようです。 紫桃正隆さんは『石巻地方の史談と遺聞(宝文堂)』のなかで、岩手県稗貫郡で自らの学生時代の親友「照井君」を尋ねる下りで、「私は胆沢城時代の蝦夷(えぞ)の王者・大墓公(アテルイ)の子孫だと信じていた彼が元気なのがうれしかった」と書いております。 宮城県登米市迫町佐沼の佐沼城本丸にある「照日権現」は 照井太郎高直の守護神であったようなので、照井姓が“照日”から来ていることは明白であるわけですが、この「照日権現」ははるか九州対馬の阿麻氐留神社の異称とも同じであり、アマテルとは天照国照火明(あまてるくにてるほのあかり)命、すなわち尾張氏の祖神であるとされております。では照井氏、ひいてはアテルイは単純に尾張氏の流れを組むものと考えるべきものでしょうか。 もちろんその可能性も否定できないとは思いますが、当地に影を残す古代氏族の背景から考えるに少々飛躍感も否めません。 ここにはやはり物部氏、あるいはオホ氏の影から連想していく方が自然に思われます。 なにしろ、奈良県の「多神社」の『多神宮注進状』にその因果を十分に連想させる記述があります。 『注進状』よれば、大宮二座について「珍子賢津日霊(うつのみこ さかつひこ)神尊 皇像(みかた)瓊玉」「天祖賢津日要(あまつおや さかつひめ)神尊 神物(たましろ)円鏡」とあり、裏書きに「大宮二座は河内国の天照大神高座神社と同体異名」とあるようで、どうもその天照大神高座神社を祀るのは尾張氏系であるようです。 ちなみに、この大宮二座は「日の御子――珍子(うつのみこ)――」とその「母神――天祖(あまつおや)――」であるようです。 更に、同『注進状』によればオホ神社若宮竹田神社は天照国照火明命を祀り、川辺郷にあり川辺連を祝部とすとあり、オホ神社の祝部の家で対馬のアマテル神社の家伝薬をつくっていることがわかり――大和岩雄さん著『日本古代試論(大和書房)』より――、オホ氏と対馬の阿麻氐留神社とがなんらかの関係があることを想起させられます。 ちなみに、この対馬こそが天童伝説の中心地であると言われております。天童伝説とはいわば海人系の母子神信仰と根っこが一緒かと思われますが、多神社大宮二座にみられる母子神祭祀には、その影響が濃厚に感じられるのです。 今、私は多少遠まわしに多神社の照日権現およびアマテルを因果づけましたが、そもそもこの多神社は、三輪山頂上の真西に位置しており、つまり彼岸の日の出が三輪山の頂上から昇るように見える位置に意図的に配されていることが確実と思われるのです。 つまり、オホ氏が祀る多神社は、あきらかに太陽信仰と密接なのです。 |
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古代氏族系譜研究の第一人者である太田亮さんは、著書『日本古代史新研究(磯部甲陽堂)』のなかで「多物部二氏の奧州經營と鹿島香取社」というテーマの論考を書いております。太田さんのおもしろさは、紛れもなく系図研究の第一人者と思われるのに、本人にとってそれは単なる出発点という認識しかないことです。太田さんは、あくまで古代史研究のための材料提供としてあの膨大かつ素晴らしい『姓氏家系辭書』を出版したに過ぎないようです。
さて、太田さんは前述の「多物部二氏の奧州經營と鹿島香取社」の冒頭で、まず黒坂勝美さんの國史研究の次の一説を挙げておりました。
「ここに天孫降臨の伝説に関し解し難いことがある、第一には武甕槌神経津主神が出雲に下って大国主尊に譲国を迫り、使命を全うしながら天孫に扈従せず、当時何等天孫民族に関係なき地方で、蝦夷民族の巣窟本拠と考えらるる常陸の鹿島神宮や下総の香取神宮に斎ひ祭られたまうたことである。又延喜式に鹿島神宮の御子神が多く陸奥国に散在せらるるは如何に解釈すべきであらうか。」
これは武甕槌(たけみかづち)と経津主(ふつぬし)をあくまで天孫系譜として考えた場合に解せないわけであって、これを本来的なその神を奉斎する氏族の動きに置き換えるならば実にスムーズに解せるということになります。もちろん、太田さんはその方向でこの黒坂博士の難問を解明していくわけです。そして、太田さんはその際の北上した氏族として多氏と物部氏を挙げております。
それらがヤマトの先兵として北上したのか、それともヤマトに追われて北上せざるを得なかったのか、私の興味はそこに至ります。
この頃、ヤマトの影響力はほぼ本州全域に及んでいたとは思いますが、それが必ずしもヤマトという一国の体を成していたいたとは思えず、関東以北は相変わらず隣国であったと想像します。
特に陸奥国は8世紀以降にさかんにヤマトとの摩擦を繰り返していることを眺めるに、そのはるかに古い時代にあっては、多・物部はヤマトの先兵というよりも新天地を求めて当該エリアに逃げ延びてきたものと考える方がごく自然かと思われます。
物部氏が落ち延びる決定的な事件は明確です。物部守屋が蘇我馬子に敗退したことでしょう。もしかしたら、神武天皇にヤマトを制されたあたりもひとつの候補かもしれませんが、守屋が討たれるまで人臣中圧倒的な実力を誇っていたことを考えれば、それ以前にはまだ一団を成してまで東国に落ち延びるには及ばなかったように思えます。そういう意味ではやはり完全に没落の憂き目にあったのは物部守屋の敗退であったことでしょう。
一方、多氏が逃げ延びるような事件は、少なくとも記紀などの史料上明瞭ではありません。とはいえ、オオモノヌシとオホタタネコの逸話や、葛城山のヒトコトヌシの逸話など、多氏古事記を原典とする示唆深き逸話の数々などから考えるに、多氏にはあたかも大和盆地の地縛霊のごとき印象をぬぐいきれません。
おそらく、多氏の没落は物部氏の没落に比べはるかに早い時代であったのでしょう。
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東北地方に大和朝廷が進出してきたのはいつ頃なのだろうか、ということをよく考えます。かつては多賀城時代以前の多賀城以北に畿内文化の発掘遺跡を見た場合、妙に頭が混乱しておりました。そしてその際、いたずらにヤマト北上の時期を遡らせて考えたりしておりました。東北人の私には、自虐的に自ら住む東北地方を“文化の遅れた地域”と容認し、少しでも早い時代にヤマト化していて欲しい、という願望があったことも否めません。それがいつしか、東北地方から日本の原型が始まっていて欲しいという願望に変わり、それを期待させてくれる情報にはとてもワクワクしたものでした。もちろん、今でもそのような情報があればワクワクすることでしょう。 例えば『ホツマツタヱ』という奇妙な文献があります。はるか超古代から伝わるものをオホタタネコが編纂したという触れ込みなので、それ自体をそのまま信用するのには勇気が要りますが、おそらく少なくともオホ氏が一枚噛んでいるのでしょう。ヲシテ文字という摩訶不思議なオリジナルな文字で書かれたこの文献は、もちろん“偽書”というレッテルが貼られた、ある種いかがわしいものでもあります。 しかし、この文献には記紀をはじめとした権威ある史料には見えない特殊な情報が含まれていることも無視出来ません。 一例をあげるならば、『ホツマツタヱ』は訳者にもよりますが我が故郷――日高見(ひたかみ)国:現宮城県あたり――をイザナミの故郷――天照の母方実家の地――かつ若き日の天照の聖なる修行の地としているのです。東北人の私が胸躍らないわけがありません。 また、『ホツマツタヱ』では、瀬織津姫(せおりつひめ)なる女神が明確かつ重要な立場で登場しております。『ホツマツタヱ』におけるこの女神は、「男神である“天照大神の妻”」という役割で登場するのです。これを信じるならば『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後記』はもちろん、『先代旧事本紀』や『古語拾遺』らの編者も、私達日本人にとって大変重要(?)であるはずの皇祖神の后を一切無視していたことになります。 もしかしたらこの女神は『ホツマツタヱ』編者による創作なのでしょうか。 いえ、そんなことはありません。『ホツマツタヱ』が語るとおりかどうかはわかりませんが、神職であれば多くの方々が少なくともその存在くらいは認識しているはずです。 いや、そう言うと神職の方々はこう反論するかもしれません。 「そのような女神はたしかに坐しますが、瀬織津姫はあくまで祓い禊の神様であって、それ以上でもそれ以下でもありません」 なるほど、大祓の祝詞には登場しており、全国の主な大社にも祓戸神社としてよく祀られておりますから、ひょっとしたら単にそうなのかもしれません。さしあたりここでのその話題の議論も展開も避けますが、この女神が単なる祓い神に過ぎない存在だとすれば、『ホツマツタヱ』の編者、あるいはこれが偽書であるならば偽作者が、それを恐れ多くも皇祖神の后神にまで昇格させている心底、及びそこに含まれる暗号的メッセージについては熟考すべきでしょう。 もちろん、ここで東北地方――日高見国:現宮城県――に輝かしい舞台を持ってきたところにも、オホ氏なりのなんらかの思惑があったと考えてみてもきっとバチはあたらないでしょう。 鳥居礼さんによれば『ホツマツタヱ』は景行天皇56年に三輪臣大直根子命によって編纂、献上されたものとのことですが、さて、『日本書紀』の年代を基準に考えるならばオホタタネコが初登場したのは祟神天皇7年に大物主が祟っていたときでした。その祟神天皇の御代は68年まで続くわけで、その後の垂仁天皇の時代は99年まであります。そしていよいよ景行天皇の時代に入り56年目に『ホツマツタヱ』が編纂、献上されたとなると、オホタタネコは少なくとも68年−7年+99年+56年、つまり216年は生きていたということになります。そもそも『日本書紀』が語る時間軸にも無理を感じるわけですが、それを差し引いていても各々違う文献の尺度を照らし合わせること自体が間違っているのかもしれません。少なくともいずれかは嘘を書いているということでしょう。 しかし今私の興味はその部分にはありません。私は景行天皇56年という時代設定が一体どのような思惑から決定されたのかに注目するのです。鳥居さんは『言霊―ホツマ(たま出版)』で次のように語っております。 「このときは、国の守りとして絶大な力をもっていた、景行天皇の皇子である日本武(やまとたけの)尊が崩御された直後だったのです。国の安泰を維持するためにこのような書物が編纂されたのだと思います。」 『ホツマツタヱ』の訳本を読んでいると、ある時代以降については訳者にかかわらずやたらとヤマトタケルの英雄譚が目立ちます。おそらくヤマトタケルに意味があるのは間違いないでしょう。 ちなみに『日本書紀』は何故かヤマトタケルの没年が省かれております。しいてあげれば景行40年に東国と陸奥平定に出立しておりますので、それ以降であることは間違いなく、薨去後造営された「白鳥陵(しらとりのみささぎ)」に埋葬され、そこから白鳥となって飛び立った直後の記述が43年ですから、その3年ないし4年の間ということになるでしょう。また、ここに享年が30歳と記されておりますから、ヤマトタケルに関するその他記述から逆算すれば、景行41年に没したことがわかります。 とすれば、鳥居さんが言う「景行56年」というのは、ヤマトタケル没後15年が経過しているわけで、偽作者によるホツマツタヱ献上設定の理由としてはわずかな弱さを感じます。編纂時間と考えればいいのでしょうか。 念のため、『日本書紀』の景行56年の事件を眺めてみましょう。 ――宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より引用―― 五十六年秋八月、御諸別王(みもろわけのみこ)に詔して、「お前の父の彦狭島王(ひこさしまのみこ)は、任じたところに行けないで早く死んだ。だからお前は専ら東国を治めよ」といわれた。それで御諸別王は天皇の命を承って、父の業をするため、そこに早速、善政をしいた。そのとき蝦夷が騒いだので、兵を送り討った。蝦夷の首領足振辺(あしふりべ)・大羽振辺(おおはふりべ)・遠津闇男辺(とおつくらおべ)らが頭を下げてやってきた。おとなしく罪を認め、その領地をすべて献上した。よって降伏するものを許し、降伏せぬ者は殺した。こうして東国は久しく事なきを得た。その子孫は今も東国にいる。 どうやら東国の蝦夷が派手に騒いだようです。御諸別王の治世に対し何か大がかりなレジスタンスがあり、それを本格的に鎮圧したことが読みとれます。 そしてその子孫が「今も――書記編纂当時――東国にいる」とあります。子孫とは一体何者でしょうか。 これは果たして本当に蝦夷だったのでしょうか。 これは東国に流されていたオホ氏、つまり鹿島大神祭祀を司る一族だったのではなかったのでしょうか。私は、この事件は少なくともオホ氏にとって忘れ難い決定的な何かではなかったと想像します。 『ホツマツタヱ』の編纂献上時期の設定は、そのオホ氏に伝わる決して忘れてはならないなんらかの記憶に基づいたものだったのではないのでしょうか。 ここに私は反抗期を迎えた鹿島神の御子神を祀る神職たちの影を感じ始めているのです。 8世紀に至り、陸奥国――かつての日高見国――に北上帰化していた鹿島大神一族の裔たちは、自らのホームグラウンドのつもりでいた常陸国の“実家”を中央政権に奪われてしまいました。今や彼らのホームグラウンドは陸奥国になってしまったのです。 つまり、私は『ホツマツタヱ』には、鹿島神の春日神化という形で藤原氏に自分達の過去の栄光を奪われてしまったオホ氏末裔の、ささやかな“あがき”ようななにかを感じるのです。 宮城県石巻市桃生町太田の日高見神社由緒
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