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千葉県香取市の香取神宮の主祭神は言うまでもなく出雲の国譲りの際「武甕槌(たけみかづち)」とともに大活躍した「経津主(ふつぬし)」です。 ところが、秋本吉徳さん全訳注の『常陸国風土記(講談社)』の解説を読んでいてあらためて知ったのですが、経津主(ふつぬし)の神――普都大神――が下総国香取神宮に鎮座するという記述は、実は『古語拾遺(こごしゅうい)』にしか見られないもののようです。 『古語拾遺』とは、中臣氏――藤原氏――の極めて政治色の強い神祀りに異議を唱えるべく、本来朝廷内のその分野において名誉ある職掌にあったはずの斎部(いんべ)氏から平城(へいぜい)天皇に献上された文書です。 厳密に言えば、藤原氏に対する斎部氏の不満に対してそれを問題視した平城天皇が解決を図ろうと時の斎部氏の長である広成(ひろなり)に「家内の歴史を出してみよ」と要求したことにより実現したものです。 余談ながら、ここで問題解決を図ろうとした天皇が“平城天皇”であるいうところに少々興味があります。平城天皇と言えば少年時代から魔性の女「藤原薬子(くすこ)」の“大人の女の魅力”に籠絡され、都を、平安京から無理やりかつての都平城京に戻そうと試みた挙句、同母弟である次代の嵯峨天皇が派遣した英雄坂上田村麻呂によって命運を断たれてしまった“あわれな天皇”です。 もちろん私はこの事件を素直には見ておりません。薬子があまりに淫乱で、平城天皇があまりに間抜けすぎ、さらに嵯峨天皇の手際があまりに素晴らしいからです。 このころ、藤原氏は自らの内部抗争――四家の相克――に決着をつけ、且つオール藤原氏としてその地位を絶対化するための総仕上げをしておりました。その生贄ともいうべき最後の大物氏族「大伴氏」にとどめを刺す「承和の変」までの一連の政変を眺めてみるとき、この平城天皇も藤原氏の巧妙な陰謀にはめられた一介のピエロであったと想像しております。 それはともかく経津主(ふつぬし)の話に戻ります。 なるほど、例えば『古事記』では神武天皇のくだりで次のようにあります。 ――引用:次田昌幸さん全訳注『古事記 (講談社)』より―― そこで天(あま)つ神の御子(みこ)が、その大刀を手に入れたわけをお尋ねになると、タカクラジが答えて申すには、「私が夢に見ましたことは、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と高木神の二柱の神の御命令で、タケミカヅチ神を呼び寄せて仰せられるには、『葦原中国(あしはらなかつくに)はひどく騒然としているようだ。わが御子たちは病(や)み悩んでいるらしい。その葦原中国は、もっぱらあなたが服従させた国である。だからそなたタケミカヅチ神が降(くだ)って行きなさい』と仰せになりました。これに答えてタケミカヅチ神が申すには、『私が降(くだ)らなくても、もっぱらその国を平定した大刀(たち)がありますから、この大刀を降(くだ)しましょう』と申しあげました。この大刀の名はサジフツノ神といい、またの名はミカフツノ神といい、またの名はフツノミタマという。この大刀は石上(いそのかみ)神宮に鎮座しておられる。 天つ神の御子とはもちろん神武天皇のことです。神武天皇はこのとき、登美毘古(とみびこ)――ナガスネヒコ――にこてんぱにやられて、そのときの戦いの傷が致命傷となった兄の五瀬(いつせ)命を失い、その傷心のままに放浪していた矢先、大きな熊が現れ味方の兵士が狂乱失神するという謎の異常事態のさなかにありました。
ちなみに、このとき『古事記』は五瀬命の死について「崩――崩御(ほうぎょ)の意――」と表現しているのは興味深いところです。言うまでもなく「崩御」とは天皇の死にのみ用いられる用語です。つまり『古事記』は五瀬命を天皇扱いしていたということになるのでしょうか。 いずれ、神武天皇の最悪のバイオリズムを取り戻すきっかけとなったのがこのフツノミタマの逸話です。神武がこのフツノミタマなる大刀を手にしただけで荒ぶる神たちは自ずと切り倒され、兵士もみな正気をとり戻したのです。 『日本書紀』も基本的には同様なのですが、『古事記』の場合はここでご丁寧にフツノミタマの異名などを紹介しております。この大刀神の異称には“ミカフツ神――甕布都神――”なるものもあるようで、ここにまた“甕(みか)”の神の示唆が現れております。そして、この神は「石上(いそのかみ)神社」に坐すというのです。 なにやらここにまた陸奥国にもっとも縁があると思われる古代氏族「物部氏」の影が見えてまいりました。大和の地に坐す物部氏の氏神が、何故下総国香取神宮に関係してくるのでしょうか。なんのことはなく物部氏の一拠点がその地にあったからでしょう。しかも、香取神宮といえば延喜式神名帳上「鹿島神宮」とともに「伊勢神宮」以外で二社しか存在しない「神宮」を名乗る貴重な大社であることから、この地の物部氏は“本家クラス”であったものと想像しております。 |
倭武天皇一族
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常陸国風土記が“天皇”と表現してはばからない悲劇の皇子と縄文先進地帯の偉大な歴史の関わりを眺めてみます。
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青森県の「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」の発掘成果を見るに、故人は土抗墓という楕円形や小判型の墓穴に埋葬されたようです。また、赤子については土器に入れられて埋葬されたようです。 三内丸山遺跡より 大人と子供の供養方法の区別という観点から、ふと、出雲神族を思い出します。 基本的に出雲では、遺体は穢れ以外の何物でもなかったらしく、とにかくそれに関わらないようにしていたようです。『謎の出雲帝国(徳間書店)』の吉田大洋さんが出雲神裔の富當雄さんから聞いた話によると、出雲では息を引き取りそうになると例え親子であっても相対したりしないというのです。死体に触ろうものならば相続権すら失うのだそうです。一方で、「子供や妊産婦は石棺に入れ、再生を希(ねが)って、宍道(しんじ)湖に沈めた」のだそうです。 ここで著者の吉田さんは、「死者から霊力を授かろうとする天孫族の祭祀とはまるで違うのである」と語っており、さらに「遺体は醜悪な肉体の殻として忌み嫌う」「汚れたものを捨てる」という観念であるとしておりますが、はたしてそうでしょうか。たしかに天孫族は死者から霊力を得ようとしているように見受けられますが、それは出雲族も同様に思えます。遺体に特別な霊力を感じるからこそヒステリックに避けているのではないでしょうか。まして、富さんがご先祖様のために唇をふるわせて怒りに震えるのは何故でしょうか。 また、死穢を避ける習慣についても同じに思えます。もし、天孫族が霊力を得たいがため死者に率先して接近するような一族だったのであれば、現代に至る差別問題の半分は生じ得なかったはずだからです。かつて屠殺場で働く人たちが差別されたのは何故でしょうか。死穢に対する特別な感情を日本人が持ち合わせていたからに他なりません。日本人が死者に触れることを何とも思わない一族なのでれば、映画『おくりびと』で本木雅弘さん演じる納棺夫になった主人公の苦悩はなかったはずです。 出雲にせよ天孫族にせよ、これらの話には日本人のDNAにしみついた穢れ思想の原点を感じます。 余談として触れておくならば、死者の祟りを恐れるいわゆる“怨霊信仰――御霊信仰――”について、史料の初見などの観点から特に奈良期〜平安期に大陸から輸入されたものであると考えている方々もいらっしゃるようですが、私ははっきりと否定の意を示します。特に、なんでもかんでも中国の思想の受け売りというような極めて杓子定規な発想もよく見受けますが、このような死者を恐れるというような深層に潜むDNA的信仰心というものは、他の宗教的思想や文化・文明のように他から輸入される類のものではないと思うからです。日本人は仏教もキリスト教も、はたまたドクターコパさんの風水も細木数子さんの六星占術もすんなり受け入れておりますが、それらは決して骨髄まで染みいるものでもなく、あくまで“厄除け”の手段として重宝されているに過ぎないのではないでしょうか。だからと言って無宗教なわけではないのです。私たちは故人の遺影を踏みつけられるでしょうか。おそらくほとんどの日本人は踏みつけられないでしょう。そこになんらかの臨在感を感じ、はばかっているからです。つまりはなんらかの非科学的なものの存在を心のどこかで信用しているということです。歴史上日本人は、仮にそれが罪人であったとしても、中国や朝鮮半島の人たちのように死者の墓を掘り起こしてまで罰を加えることはほとんどありません。善い悪いの問題ではなく、このことからも御霊信仰は決して中国などからの輸入ではなく、特に日本人に顕著にみられる根っからの思想であると思うのですが、いかがでしょう。 余談が過ぎました。 さて、三内丸山遺跡では赤子の遺体を土器に納めて埋葬しておりました。想像ですが、この深層心理は、出雲の宍道湖への沈めの儀式(鎮めの儀式?)同様、再生を願ってのものではないでしょうか。おそらくは、出雲族が宍道湖になんらかの霊力を期待したように、三内丸山の縄文人も“土器”になんらかの霊力を期待していたのでしょう。何故そう思うかというと、わざわざ大人とは区別された埋葬方法だからです。 土器は狩猟生活の縄文人にとって画期的な発明であったと思います。土器の発明によって食材の煮炊きや保存が可能になったはずで、食事が単なる本能から文化に飛躍的に変化したのだと思います。十分に霊力を感じたはずです。これが甕(みか:かめ)信仰の始まりではないでしょうか。 ヤマトの夷賊征服劇先鋒の優等生として知られるタケミカヅチは、『古事記』の当該箇所においては“建御雷”と記載するものの、オホタタネコ登場の場面では“建甕槌”であり、『日本書紀』や『古語拾遺(こごしゅうい)』、『先代旧事本紀』においては征服劇の先鋒神としての登場においても“武甕槌”であり、どうやら甕信仰の属性を所有する神でした。つまり、この神の子孫を称するオホ氏は甕信仰の一族と考えてほぼ間違いなさそうです。 しかし、少々気になる話がなくもありません。『日本書紀』の葦原中国の平定のくだりのなかで、「一書に曰く」としてですが次のようにあります。 「天神遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。時二神曰、天有惡神。名曰天津甕星。亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。是時、齋主神號齋之大人。此神今在于東國檝取之地也」 これを宇治谷孟さんの現代語訳では次のようになります。 ――引用『全現代語訳 日本書記(講談社)』―― 天神(あまつかみ)が経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌神(たけみかつちのかみ)を遣わされて、葦原中国を平定させられた。ときに二柱の神がいわれるのに、「天に悪い神がいます、名を天津甕星(あまつみかほし)といいます。またの名を天香香背男(あまのかかせお)です。どうかまずこの神を除いて、それから降って、葦原中国を平げさせていただきたい」と。このとき甕星(みかほし)を征する斎主(いわい)をする主を斎(いわい)の大人(うし)といった。この神はいま東国(あずま)の檝取(かとり:香取)の地においでになる。 あくまで「一書に曰く」なので、書記編纂時に精査したなんらかの原典にある話なのでしょうが、天に悪い神がいるという発言から、これは天孫族の故郷の話であろうと考えられます。そこにいる悪い神の名前が「天津甕星(あまつみかほし)」、つまりこれもまた「甕」に関わる神なのです。甕の神であるタケミカヅチが他の「甕」の神を討つことになります。そして、その際に重要な祭祀を司る存在が、香取にいるというのは気になります。香取とはおそらく下総国――千葉県香取市あたり――の香取神宮のことであるのでしょうが、タケミカヅチと最強タッグを組んでいる経津主(ふつぬし)は何を隠そうこの香取神宮の現在の主祭神です。しかし、この場合このフツヌシとはまた異なる「大人(うし)」と呼ばれる存在が香取神宮の地にいたということになるようです。 とにかく、“タケ・フツ”タッグとは似て非なる各々の存在が“「甕の悪神」対「齋主」”という対立構図であったところには深い示唆を感じます。 千葉県香取市香取神宮
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10代祟神天皇の御代、疫病が流行し国民が絶滅しそうになったことがあったようです。 このとき、『古事記』では神意を請いながら床に就いた天皇の夢に「大物主(おほものぬし:おおものぬし)大神」が現れました。 一方『日本書紀』では、このときの大物主大神は「倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)」に神憑(かみがか)りして現れました。 大物主は記紀のいずれにおいてもこの災いが自分の意思であることを告げ、オホタタネコなる人物に自分を祀らせれば安泰になる旨を教えます――記:意富多々泥古(おほたたねこ) 紀:大田田根子(おおたたねこ)――。勘違いしやすいので補足しておきますが、この人物の氏姓は“オオタ”ではなく、“オオ”です。いずれ、オオ(オホ:オフ)氏の人物ということです。 記紀ともにこのオホタタネコは大物主の子孫であると記されているのですが、微妙に食い違うところもあります。 『日本書紀』での大物主はオホタタネコについて「若以吾兒大田々根子」つまり「我が子」であるというのですが、『古事記』でのオホタタネコの自己紹介では自分は大物主の曾孫であるということになっております。『古事記』はこのあたりの自己紹介が詳細です。オホタタネコは次のように自己紹介しております。 「僕者大物主大神、娶陶津耳命之女、活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巣見命之子。建甕槌命之子、僕意富多々泥古白」 つまり、自分は「大物主大神」が「陶津耳(すえつみみ)命」の娘「活玉依毘賣(いくたまよりびめ)を娶って生まれた「櫛御方命(くしみかた)命」の子「飯肩巣見(いいかたすみ)命」の子「建甕槌(たけみかづち)命」の子である、と言うのです。 さてお気付きでしょうか。常陸国鹿島神のそれと読みを同じにする「建甕槌(たけみかづち)命」という名が見えます。 つまり『古事記』において“タケミカヅチ”は明確にオホ氏の系譜のなかに置かれているのです。 仮に『古事記』が『日本書紀』に先立つ文献であるならば、『日本書記』がそれを無視していたとも考えられますし、その発生時期が逆であるならば、『古事記』――オホ氏――がそれを意地で挿入したのだと言えるかもしれません。 ひとつ注意しなければならないのは、『古事記』のここでのタケミカヅチは、「建甕槌」と表記されてあり、同じ『古事記』において出雲に国譲りを強要し、神武天皇に応援した武神の「建御雷」とは異なる存在とも受け取れます。たしかに猛々しい武神であれば、“甕”よりは“雷”の方がしっくりきますし、ミカヅチはミイカヅチであるとでも言いたげです。 逆に言えば、オホタタネコの父としてのタケミカヅチには呪力を宿すとされる縄文以来の土器信仰を彷彿させる“甕(みか:かめ)”が表現されているわけで、その歴史の深さを思い知らされるわけですが、一方であたかも天孫族のそれとは似て非なる存在であることをアピールしているかのようでもあります。 やはりこの「建甕槌」は出雲に国譲りを強要した「建御雷」とは別神格なのでしょうか。 しかし、正史『日本書紀』におけるタケミカヅチは、出雲に国譲りを強要する場面に登場している――オオタタネコのくだりでは登場していない――にもかかわらず「武甕槌」と表記されており、“雷”ではなくあくまで“甕”の文字が用いられているのです。これは単なる当て字ではありません。何故なら、ご丁寧にその系譜も説明されていて“甕速日神”といった“甕”を冠する神の孫であることまで説明されているからです。ここでのタケミカヅチは、やはりあくまでオホ氏のそれと同一であることを示唆しております。 さて、肝心の出雲国において、少なくとも『出雲国風土記』には出雲人から見てこの“にっくき”タケミカヅチは登場しません。 これは一体どういうことなのでしょうか。 このからくりは、『古事記』がオホ氏の家伝を原典にしているという仮定と、『日本書紀』が藤原氏の政策に都合よく適度に調整されているという仮定を認めるならば、実はすんなり理解出来る問題かと思われます。 そもそも、藤原氏は、何故わざわざはるか常陸国の鹿島大神を自分の氏神にすべく必死に取り組んだのでしょうか。中臣氏の故郷が常陸国であったから、というのは、ここでは深入りしませんが、鎌足一族の中臣氏と常陸の中臣氏が全く別系統であることが濃厚であることから、もはや説得力がありません。 藤原鎌足出生伝承がある茨城県鹿嶋市の鎌足神社 結論を言えば――と言ってもあくまで個人的見解ですが――おそらく大した血筋でもない新興勢力の藤原氏は、文献時代には既に斜陽化にあったオホ氏の輝かしい歴史を、自らの歴史として取り込もうとしていたのでしょう。そしてそれが故に古代氏族としてのオホ氏は、反比例して史料上で余計に目立たなくなってしまったのではないでしょうか。
藤原氏は、巧妙な陰謀を駆使して蘇我氏をはじめ有力古代氏族や対抗勢力の皇族を次々闇へ葬ってきたわけですが、葬った氏族らの功績ならともかくキャラクターまでも取り込むのは、記紀成立時点ではあまりに時代が近すぎ、説得力がなかったのでしょう。つい百年余り前まで権勢を誇っていた蘇我氏や物部氏らのキャラクターをさも自分達のものとして語ったところで、世論からは「何を言うか」と一笑に付されるのは必定です。その意味では、その時代からみてもかなり昔に栄光を見たのであっただろうオホ氏のキャラクターは、藤原氏にとって申し分のない仮面であったのかもしれません。 『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんは、『古事記』は、天神としてのタケミカヅチを「雷」、国つ神としてのそれを「甕」、と区別しているといい、この天神の勇ましいタケミカヅチ像を「藤原氏用のタテミカヅチ」と表現しております。 とにかく、藤原氏にとっては自分達の氏神が国つ神の甕の神では困るのです。タケミカヅチはあくまで勇ましい天神の剣の神でなくてはならなかったのでしょう。大和さんの言葉をそのまま借りますが「本来甕の性格をもっていたタテミカヅチをフツヌシとコンビにして剣神にしたてたのが『記』『紀』神話である」ということのようです。 |
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『多氏古事記』が、記紀よりも更に古い文書と思わせられる記述が『釈日本紀』にはあります。 『釈日本紀』が引用しているのは「一言主(ひとことぬし)」の説話です。これは記紀にも見られる有名な話で、“剛腕”21代「雄略天皇」が葛城山でばったり「一言(事)主」と遭遇し、お互いを認め合った上で共に狩りをするというエピソードです。 念のため、記紀がこのエピソードを各々どのように書いているかを眺めてみましょう。 まずは我が国の正史である『日本書紀』の記述を宇治谷孟さん訳『全現代語訳 日本書紀(講談社)』から引用します。 ――引用―― 四年春二月、天皇は葛城山に狩りにおいでになった。突然長身の人が出現し、谷間のところで行き合った。顔や姿は天皇とよく似ていた。天皇はこれは神であると思われたが、わざとお問いになって、「どちらの公(きみ)でいらっしゃいますか」といわれた。背の高い人は答えて、「現人神(あらひとがみ:姿をあらわした神)である。まずあなたの名を名乗りなさい。そしたら自分も言おう」といわれた。天皇は答えて「私は幼武尊(わかたけるのみこと)である」と。すると背の高い人は、次に名乗って「自分は一事主神(ひとことぬしのかみ)である」といった。そして一緒に狩りをたのしんで、鹿を追いつめても、矢を放つことを譲り合い、轡を並べて馳せ合った。言葉も恭(うやうや)しくて仙人に逢ったかのようであった。日も暮れて狩りも終り、神は天皇を見送りされて、来目川(くめのかわ)までお越しになった。このとき、世の人々は、だれもが「天皇は徳のあるお方である」と評した。 次に『古事記』の記述を次田昌幸さん訳の『古事記(講談社)』から引用します。 ――引用―― またあるとき、天皇が葛城山にお登りになった時、お供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青い摺(すり)染めの衣服を賜って着ていた。 そのとき、その向いの山の尾根伝いに山に登る人があった。その様子はまったく天皇の行列にそっくりで、また服装の様も随行の人々も、よく似て同等であった。そこで天皇はその様子を遠くでごらんになって、お供の者に尋ねさせて仰せになったことはには、「この大和の国に私をおいてほかに大君はないのに、今だれが私と同じような様子で行くのか」と仰せになると、向うから答えていう様子も天皇のお言葉と同じようなものであった。そこで天皇はまたお尋ねになって、「それではそちらの名を名のれ。そしてたがいに名を名のってから矢を放とう」と仰せになった。向うの人はこれに応えて、「私が先に問われた。だから私が先に名のりをしよう。私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城のヒトコトヌシ大神である」と申した。天皇はこれを聞いて恐れかしこまって、「おそれおおいことです。わが大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と申し上げて、ご自分の大刀や弓矢をはじめとして、多くの官人等の着ている服をも脱がせて、拝礼して献上なさった。 するとそのヒトコトヌシ大神はお礼の拍手をしてその献上の品をお受け取りになった。そして天皇が皇居にお帰りになるときに、そのヒトコトヌシ大神の一行は山の頂きに大ぜい集まって、泊瀬(はつせ)の山の入口までお送り申し上げた。それでこのヒトコトヌシ大神はそのとき初めて現れなさったのである。 このようにあらためて並べてみると、記紀各々に貫かれた持ち味が浮かび上がるかのように見えます。『日本書紀』はあくまで雄略天皇の“主役の座”を貫いているようですが、『古事記』ではだいぶヒトコトヌシにへりくだっているのがわかります。 実は、何を隠そう『多氏古事記』の語るところはそのへりくだった『古事記』よりもさらに強烈なのです。大和岩雄さんの『日本古代試論(大和書房)』の意訳によれば一言主と遭遇した雄略天皇は次のようになります。 「天皇大いに驚き、馬を下りて拝む。百官らも拝す」 なんという事態でしょう。 たしかに『古事記』でも雄略天皇がやや畏まる様子は見受けられましたが、さすがにこれほどまでに天皇の権威を大暴落させるような記述はありません。こうした記述などから山上伊豆母さんは『多氏古事記』は『古事記』よりも古いものであるとし、大和さんはそれを支持しております。 それにしても、中央集権が一気に進んだと思しき剛腕雄略天皇の治世の後に、オホ氏がそのような逸話を書けるだけの立場にあったということ、また、その一言主なる神が天皇をひれ伏させる程の神霊――怨霊?――であった、あるいはそう伝えられていた、という部分には強烈に惹かれるものがあります。 ここで興味深いのは、ヒトコトヌシが雄略天皇と全く同じ装いであったということです。ふと、『日本書紀』で初代の神武天皇がナガスネヒコと対面した際に、先住民族のナガスネヒコの主君であるニギハヤヒが、「天の羽羽矢」と「歩靫(かちゆき)」なる“身分証明”によって神武と同系であることが判明したエピソードを思い出します。これらは、天子降臨の宗教絵画的な逸話としてそのまま額面どおり捉えることも出来ますが、穿った見方をすれば、いわば方便として先住の王と同系であることを装うことで自らの正統性を主張していると考えることも出来ます。 では葛城のヒトコトヌシとは一体何者なのか・・・。鳥越憲三郎さんの主張する葛城王朝なる先住王朝の存在もなにやら気になってまいります。 なにしろ、鳥越さんは大和政権の初期の形態として葛城・鴨系の葛城王朝と三輪系の共治を想定しております。 三輪系とは、つまり三輪山に関連する勢力のことに他ならず、つまり三輪山の神「大物主」に連なる一族オホ氏の系統ということになります。 『古事記』の原典がもしオホ氏の家伝に由来するものであるならば、このヒトコトヌシのエピソードはなにやらただならぬ示唆を含むものと考えざるを得なくなってまいります。 なにはともあれ、史料上早い段階で精彩を欠いてしまったようなオホ氏ですが、文献以前の歴史としてはかなりの迫力をもった氏族であったことが推察できるのです。 三輪山から葛城山方面を望む
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大和岩雄さんは『日本古代試論(大和書房)』の中で『琴歌譜』なるものの記述を挙げております。 『琴歌譜』とは宮廷伝来の大歌を、和琴に合わせて歌うために譜をつけたもののようで、この中に次の一文があるといいます。 一古事記云誉田天皇遊猟淡路嶋時之人歌者 つまり、誉田天皇――応神天皇≒八幡大神――が淡路島に遊猟した時の歌が「一古事記」の中にあるというのですが、大和さんに言わせれば「現存の『古事記』には如何なる写本にも、この事を記載していない。『古事記』にない記事をなぜ「古事記云」と書いているのか」ということになります。 大和さんによれば『琴歌譜』は、大正13年に佐々木信綱さんという人が京大付属図書館で近衛家から寄託された古書籍の中から発見されたものとのことで、大正14年に雑誌『芸文』に発表したものなのだそうです。 佐々木さんは「本書は大歌所の大歌師と推察される家にあったのを写し伝へたもの、和琴に合わせて歌った古歌謡の譜の書」と述べており、巻末の奥書には次のような一文があったようです。 ――引用:『日本古代試論』『芸文』―― 安家書 件書希有也仍自大歌師前丹波椽多安樹手伝写 天元四年十月廿一日 これを記したのは“安家”なる人物で、その年代は天元4年(981)であったようです。 佐々木さんは、その内容や紙質、書体からその天元四年(981)に書かれたものであることは疑いないとして、さらに奥書にある「安家」なる人物は、同じく奥書にある「多安樹」と同じく“多氏の人”であろうとしておりました。その上で多氏が上代からの歌謡を伝えてきた氏族であろうことを論じております。 大和さんはそれを受けた上で、「多自然麻呂」なる人物が『楽所系図』に「舞楽神楽の祖」とあることを付け加えておりました。 ここで私はオホ氏の性格が秦氏のそれとかなりだぶって見えてきてしまうのですが、ここでは煩雑になるので触れません。ただ、その感覚があながち的外れでもなかったようだということだけを書き留めておきます。 さて、こうなると『古事記』の原典と目される“アナザー『古事記』”としての最有力候補は『多氏古事記』であろう、という可能性が濃厚となってきます。『多氏古事記』とは『土佐国風土記』や『釈日本紀』にも「多氏古事記曰」と引用されるほどのもので、大和さんは次のように語ります。 ――引用:『日本古代試論』―― この『多氏古事記』について山上伊豆母氏は「『多氏古事記』逸文の三輪、葛城伝説は、『記』や『紀』記載の同伝承成立後の述作ではなく、むしろ三書の中でもっとも古態を残している」とし、『多氏古事記』はオホ氏族に伝承された古事記(ふることぶみ)であるとともに、現存する『古事記』の原典のひとつであるとしている。 つまり、今私達が目にする『古事記』は、オホ氏のそれをモデルに書かれた可能性が“かなり高い”ということのようです。その前提に立つ場合、『日本書紀』のキャラクターを無視しているかのようなマックレーン刑事のごときヤマトタケルの説話は、一体どのような思惑の下で記録されたのかが気になるところです。
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