はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

倭武天皇一族

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 常陸国風土記が“天皇”と表現してはばからない悲劇の皇子と縄文先進地帯の偉大な歴史の関わりを眺めてみます。
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 ヤマトタケルという人物(?)は実に悲劇的な伝わり方をしております。父祖である天皇家のために全国各地を飛び回り、さんざん苛酷な戦闘をくりかえし活躍したあげく、愛する妻――オトタチバナヒメ――を失うわ、病で夭折するわでとても気の毒な人生を歩んだようです。
 さて、このヤマトタケルについての『古事記』と『日本書紀』の記述は、例えるならば同名の小説を違う脚本家が描いた大河ドラマのごときの印象を受けます。『日本書紀』におけるヤマトタケルは勇猛果敢に雄叫びをあげる武神のイメージが強調されておりますが、『古事記』では映画『ダイハード』のマックレーン刑事のように「なんで俺がこんな目に合うんだ・・・」と愚痴めきながら戦っているような人間臭さ、そしてどこか内面的な弱さを持っております。この弱さは、識者に『古事記』は女性によって編まれたものではないか、と想像させる一つの重要な要素となっております。すなわち天武天皇の勅命によって旧事を暗誦書記し採録した稗田阿礼(ひえだのあれ)なる人物が、実は女性ではないかと言われる所以の一要素です。だとすれば、阿礼はもしかしたら口寄せなども出来る巫女さんのような存在であったのかもしれません。
 ところで『古事記』は、対外政策を意識した『日本書紀』と異なり、天皇家の内部文書としての性格を持つ“日本最古”の歴史書とされているわけですが、オホ氏のことを考えているうちにどうもそうでもないような気がしてき始めた私がおります。今私たちの目に触れ得る『古事記』の成立は、遡ってもせいぜい平安時代までではないかとする説が、とても有力に思えてしょうがないのです。
 つまり“偽書”であるということです。
 これは決して私のオリジナルな考え方ではなく、昭和4年という“とうの昔”に中沢見明さんが提唱しており、それを踏襲した大和岩雄さんが『日本古代試論(大和書房)』のなかでさらに深化させております。
 例えば、天武天皇から勅命を賜るほどの稗田阿礼の名が、『日本書紀』はおろか、『続日本紀』においてですら出てきておりません。古事記偽書説を提唱する中沢見明さんによれば、稗田阿礼なる名は弘仁年間に至って『弘仁日本紀私記序』にようやくはじめて「稗田阿礼は天鈿女之後」として出てくるというのです。大和さんは前述『日本古代試論』で薮田嘉一郎さんの言葉を以下のように引用しておりました。

――引用――
薮田嘉一郎氏も中沢氏と同じように「阿礼が若し『序』にいう如き立派な人物で、天皇の信任が厚かったならば、朝廷において出頭しないことはあるまい。出頭の人であれば史上にその名が伝わらぬことはあるまい」と書き「『姓稗田、名阿礼』とあるが、これは中国式呼称であって、姓は『かばね』ではなく、氏と同意語である。しからば、稗田阿礼のかばねが何であったか、全然不明である。かばねもない人物が天皇よりこの重大事を託せられることはあるまい。かばねがあってそれを署記しないことは、いくら中国かぶれの文書であっても、奈良時代の制度に於ては考えられぬことである。奏上の太氏は『太朝臣安万呂』とかばねを署記しているではないか」と書く。

 もちろん――他の多くの偽書もそうですが――これをもって必ずしも『古事記』の内容全てが疑わしいという極端なリバウンドにするつもりはなく、少なくとも太安万侶や稗田阿礼が関わって和銅5年に云々というその序文については間違いなく後世の偽作であろうということが証明されるわけです。
 そしていずれにせよ、どうも現在私達の目に触れ得る『古事記』とはまた異なる“アナザ―『古事記』”が存在していたことも間違いなさそうなのです。

 『常陸国風土記』には現在鹿島神宮の祭神とされているタケミカヅチの神様は出てきません。一方、時代が下った“斯貴(しき)の瑞垣(みずがき)の宮にて大八洲(おおやしま)を治めていた天皇”――つまり祟神天皇――の世に「建借間(たけかしま)命」なる勇猛な人物が登場します。同風土記によれば、このタケカシマは常陸国行方(なめかた)郡の先住民を征伐した人物のようで、「那賀(なか)の国造(くにのみやっこ)の初祖(おや)なり」なのだそうです。
 『古事記』によれば、那賀――仲――国造は神武天皇の御子「神八井耳(かむやゐみみ)命」の末裔ということでした。そして、その記述と同じところに「意富(おふ・おほ)臣」の名も連なっておりますから、タケカシマはオホ氏と祖を同じくする人物であるということになります。いえ、この地の諸々の属性から考えてオホ氏そのものであると言っても良いでしょう。
 ちなみに、『古事記』によればこの神八井耳命は「陸奥の石城國造」の祖でもあるとされております。系図研究の権威太田亮さんはそれを素直に受け入れておりましたが、これに対し現在の第一人者と言える古代氏族研究会の宝賀寿男さんは、石城國造は少彦名(すくなひこな)裔族のうち4世紀中葉に日本武尊(やまとたける)の東征に随伴して陸奥全域に分岐繁衍した一族で、安倍氏に関連する丈部(はせつかべ)氏らの系譜であっただろうと考えておりました。
 さしあたり私の鹽竈神社に関する私論はそれを支持した上で展開しておりましたが、石城國がオホ氏の文化圏にあっただろうことは間違いないと思います。ついでながら、もしかしたら、長い歴史の中で、丈部を大部――あるいはその逆――と読み違えて捉えられていたこともあったかもしれないな、などと想像などもしております。
 さて、タケカシマの名前には“カシマ”が含まれております。これを香島大神――鹿島神宮の神――と結び付けるべきものかどうかは断定しかねますが、その可能性は高いと考えます。それが平城遷都に合わせた春日大社創始のどさくさに藤原氏の思惑でタケミカヅチが被ってきたのではないかと想像するのです。
 それにしても藤原氏が自分達の氏神をわざわざ常陸の鹿島神に結び付けたのは何故でしょう。
 ひとつには当地に中臣氏という自分達と同名の一族が存在していたこともあったのでしょうが、精査すると、この中臣氏は藤原氏を名乗ることになった中央の中臣氏とはほとんど関係のないことが明らかであり、それは既に多くの識者の指摘するところで、もはや定説と言っても良いほどかと思われます。
 とにかく、この神がタケミカヅチであったか否かを置いたにしても、何はともあれそれに見合うだけのブランドがあったことだけは疑問を待たないことでしょう。それをふまえたとき、人皇二代「綏靖(すいぜい)天皇」の即位にまつわる『日本書紀』の次の逸話が気になります。

――宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より引用――
〜略〜 神武天皇が崩御(ほうぎょ)された。そのとき神淳名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)は、孝行の気持ちが大変深くて、悲しみ慕う心がやまなかった。特にその葬式に心を配られた。その腹違いの兄手研耳命(たぎしみみのみこと)は、年が大きくて長らく朝政の経験があった。それで自由を任せられていたが、その人は心ばえが、もともと仁義に背いていた。ついに天子の服喪(ふくも)の期間に、その権力をほしいままにした。邪(よこしま)な心を包みかくして、二人の弟を殺そうと図った。ときに、太歳己卯(たいさいつちのとう)。
 冬十一月、神淳名川耳尊(かむぬなかわみみのみこと)は、兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)と共に、その企てをひそかに知られて、これをよく防がれた。 〜略〜 神淳名川耳尊は手研耳命を射殺そうと思われた。そのとき淳名川耳尊は神八井耳命に語っていわれるのに「今こそ好機である。 〜略〜 自分がまず家の戸を開けるから、お前はすぐそれを射よ」と。
 〜略〜 神八井耳命は、手足がふるえおののいて矢を射ることができない。そのとき神淳名川耳尊は兄の持っていた弓矢を引きとって、手研耳命を射られた。 〜略〜 そこで神八井耳命は、恥じて自分から弟に従った。神淳名川耳尊に譲っていわれる。「自分はお前の兄だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら仇人を倒した。お前が天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」と。これが多臣(おおのおみ)の始祖である。

 綏靖(すいぜい)天皇といえば、天皇としての事績を欠く“闕史(けっし)八代”の一人であり、これを、皇統を古く遡らせるために創作された架空の天皇と言って歴史世界から切り捨てる学者も多いのですが、このように皇子時代の事績が生々しく明記されていることは念頭に入れておくべきでしょう。
 さて、ここにはオホ氏の始祖が“十分に天皇になれる状態にありながら”気弱ゆえに弟にその座を譲らざるを得なかったことが書かれております。私は闕史八代とは、ひょっとしたら現在に続く皇統と並行して存在した系譜なのかもしれないとも疑っているのですが、ここに書記も認める惜しくも皇統を逃した“瞬間皇太子”の悲哀を照らして考える場合、鹿島神宮が辺境にありながらも尚延喜式において伊勢を含めても三社しかない“神宮号”を冠されているという歴史の事実は、何か隠蔽された中央政変の重大な秘事を示唆していると勘繰らざるを得ません。
 少し先走りました。
 『常陸国風土記』は、『日本書紀』が記すカムヤイミミの気弱な一面とはうらはらに、その末裔たるタケカシマの勇猛果敢な活躍を伝えております。
 そしてそのタケカシマは奇妙な習慣をのぞかせます。
 彼らは当地の凶賊を討つ前に、海岸で七日七夜も歌え踊れの宴を催します。風土記によればその歌や踊りは「杵島唱曲(きじまぶり)」なる歌謡であったようですが、これは肥前国杵島地方――現在の佐賀県あたり――の歌謡ではないかと言われているのです。タケカシマの故郷は肥前国であったのでしょうか。
 ここには、神武天皇の後継者になり得なかった皇子の一族が畿内ではなく九州にいたという情報も暗に含まれているわけですが、一体どのような事情でこの常陸国に流れてきたのか、なによりも、これはタケカシマという一個人にとどまらず、どうもオホ氏そのものが流れてきているフシがあります。
 『常陸国風土記』によればタケカシマは10代祟神天皇の御代にこの地に流れてきたようでした。祟神天皇と言えば、闕史八代天皇架空説の論者に言わせれば神武天皇と同一人物で初代天皇であったとのことです。私はその考えに賛同できないわけですが、しかし、祟神天皇が何やら特別な存在であることは、その名に「神」が含まれていることからも想像に難くありません。
 “神”が冠された天皇は神武、祟神、応神の三者のみで、これらを交代王朝の各々初代と考える説もなかなかに有力です。それだけに皇后に過ぎない神功皇后に“神”が冠されていることは驚きなわけですが、それはともかく、何故祟神がさも初代かのようなハツクニシラスと名付けられたかについては、おそらくは、せいぜい畿内にとどまっていた神武天皇以来の統治が、祟神天皇の時になって畿内を中心にかなり広範囲な一つの大掛かりな連合化――統合?――に成功し、いわば“帝国”として成立し、神武系天皇家がその盟主、すなわち“皇帝”になったことに因むのではないか、と考えているわけです。
 『日本書紀』によれば、祟神天皇は“四道将軍”なる征討軍を全国に派遣しました。
 その時期に九州肥前に繁栄していたオホ氏が常陸国に飛ばされたらしいことを照らし合わたとき、畿内ヤマトの発言権がこのころには九州にまでも及ぶようになっていたことは十分に想像できますし、もっというならば、かつて父祖神武天皇を追い出した(?)九州に対しついにリベンジを果たし、さらに傘下におさめた時代でもあったのではないか、と想像するのです。

常陸国旧行方郡から北浦、旧香島郡方面を望む
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元鹿島の宮

 貞観年間という時代は大地が怒り狂っていた時代でした。
 今、手元にある年表をざっと眺めても、貞観6年(864)富士山噴火、同11年(869)陸奥大地震大津波、同13年(871)鳥海山噴火・・・。わずか7年の間に現代であればしばらく新聞の第一面を賑わし独占し続けるようなビッグニュースが叩き売り状態です。
 そんな時代のさなか貞観8年(866)には常陸国鹿島神宮の境内も旱き疫んでいたようでした。鹿島神宮関係者――藤原氏?――としてはそれを鹿島神の祟りと考え、なんとか鎮めようとしてはいたものの自分達の力では如何ともし難かったようです。そこで陸奥国の御子たちの力におすがりしようと試みるわけですが、その陸奥国の御子たちからは冷たい仕打ちに合うのでした。
 平安時代は、陸奥国の神々の位階がおしなべて上げられた時期でもありましたが、とはいえ陸奥国に展開する御子神の権威が本社のそれを事実上上回ってしまったということであれば、なるほど鹿島神タケミカヅチを勧請した大和の春日大社が『春日権現験記絵』の中で「タケミカヅチは常陸国よりも先に陸奥国鹽竈浦に天下った」とするエピソードを挿入したくなる気持ちもわかるというものです。
 本来、藤原氏が自らの氏神として鹿島神タケミカヅチに目をつけたのは、おそらくはこの神が天孫族の天下りに際して目を見張らんばかりの大活躍をした屈強な武神であったればこそで、ところが、それよりも陸奥国の御子神の方が頼りになるという異常事態であれば、自分達が本社弱体化の原因であるだろうことはさておき陸奥国というある種のブランドを用いてでも補強したくなるというものです。そして陸奥国の神威といえば、やはりなんといっても“鹽竈”であり、その最強のブランドに因果づけることは春日大社の神威を高めるある種のプロパガンダとして益々有効であったのでしょう。
 何はともあれそのおかげでここに初めて現代に至る鹽竈神社と鹿島神宮との正式な御縁が誕生したようです。仙台藩主4代伊達綱村直轄の“鹽竈神調査プロジェクトチーム”は、この『春日権現験記絵』をベースに鹽竈神社左右宮の祭神を決定したと考えられております。もしかしたら内々にはそのような関係はあったのかもしれませんが、少なくとも現時点で確認出来る史料上での鹽社に関係してのタケミカヅチの登場は、鎌倉時代の『春日権現験記絵』の示唆をのぞけばそれに基づいた江戸時代のこの綱村の『元禄縁起』が初見であるということになります。
 さて、春日神でもあるこのタケミカヅチですが、実は『常陸国風土記』の上では「鹿島神がタケミカヅチである」という旨の記述は一切出てきません。何よりも、香島――鹿島神宮――における祭神名自体が出てきません。思うに、“祭神名”という概念は常陸国にしても陸奥国にしても「ヤマト化に伴い生まれたもの」と考えた方が自然なように思われます。
 あくまで想像ですが、神というものがご先祖様の霊――例えば今で言うお仏様――から始まったものであれば、社会を構成する最小単位でもある各家庭にはもちろん、特に辺境なればこそその集落部落ごとに神がいるのは当然で、また、その土地ごとに大切かつ重要に思われてきた事物に各々先祖の霊を重ね合わせ、その魂なりが宿ると信じられていたのかもしれません。
 つまり山や川、あるいは草木や動物、はたまた日常の道具に至るまで、それらを各々が各々のご先祖様同様に、言うなれば“トーテム”として崇敬していただろうことは十分に想像出来るわけであり、そこにヤマトなり、あるいは有力氏族などが進出してきた際に良くも悪くも「あなた達が崇敬しているその神様は○○という神様のことですよ」とその氏族が崇敬する神々と習合していったことも十分考えられます。
ヤマト朝廷なり有力な古代氏族なりは、辺境の元々の名もなき素朴な信仰に対し、性格を共有する自分達の把握しやすい中央仕立ての祭神名をあてはめていったのではないでしょうか。それは、仏教が入りこんできた際の本地垂迹といった“方便”の真骨頂である“神仏習合”の形を見れば容易に推察できます。
 いずれにせよ『常陸国風土記』の時代には、鹿島神はあくまで「香島の天の大神」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのです。そして、それはどうやら古代氏族オホ氏が奉斎する神でありました。
 茨城県潮来市には「大生古墳群」という180基を超える一大古墳群があるのですが、これらはこの地を根拠地にしていたオホ氏の墳墓であるようで、また、この地には「大生神社」なる古社があります。そして何を隠そうこの古社は「元鹿島の宮」とも呼ばれているようで、鹿島神宮はこの大生の神が遷座したものであるという伝承もあるのです。
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 平安時代の『延喜式神名帳』において陸奥国――おおよそ現在の宮城県全域と福島県及び岩手県の一部――には100座の神社がリストアップされております。そのうち、「大社」扱いの最高ランクの社は15社ありました。この数は、26社で国内最多の別格な大和国――奈良県あたり――にはさすがに見劣りするものの、それに続く山城国――京都府あたり――の16社に比べるならば十分に匹敵する数なのです。言うまでもなく平安時代の延喜年間において大和国は既に旧首都所在地ということになりますが、山城国は首都所在地なわけであり、その首都に匹敵する数の式内大社を擁しているというのはこの時期の陸奥国が大和朝廷の政策上いかに重要視されていたかを容易に推察できると言うものです。そしてその理由は明確です。そもそもの面積が広大であることももちろんですが、それ以上にこの延喜年間において陸奥国は“アテルイ戦”に代表される対蝦夷戦の戦後処理の余韻が生々しく残っていたということがあるでしょう。
 陸奥国のエリアに大和朝廷を含めた中央氏族が進出、あるいは侵略してきたのはいつの頃からであったのでしょうか。そしてそれはどのような一派であったのでしょうか。それらは必ずしも一斉に大移動してきたとも限らないわけで、いや、むしろそのような大移動ではなかったからこそ史料にも残り得なかったとも言えるのですが、多くのランダムに規則性もなく浸透していった類のものとの“仕分け”を考えるとき、それらを明確にする作業は至難と言わざるを得ません。
 しかし、専門的な歴史学として捉えるには無理であっても、あくまで“風景”として捉えるものであれば、寺社などに残る伝承を含めて覗き見ることによってその面影を探し出すことは決して不可能なものでもありません。
 そこで私が注目しておきたいのはヤマトタケルと鹿島神です。
 鹿島神とは、言うまでもなく常陸国に総本社を置く鹿島神宮の神様であり、一般にタケミカヅチと呼ばれている神様ということになります。この神様は、剣を突き立てて出雲族に国譲りを強要した屈強な神様として有名で、現在でも剣道の心得がある方などには馴染みの深い“武神”の代表格となっております。
この神を私が具体的に意識し始めたのは鹽竈(しおがま)神社の不思議を意識してからのことでした。なにしろ、タケミカヅチは、鹽竈神社の左宮の祭神であり、対である右宮の祭神フツヌシ――香取神宮の神――、別宮の鹽土老翁(しおつちのおじ)と共に鹽竈社の祭神としての一面も持ち合わせております。別宮がシオツチノオジであるという捉え方については思うところもあるのですが、それについては既に本題でさんざん語りました。
 陸奥国において鹿島・香取の神を祭神にしている鹽竈神社が現代に至るまで鹿島社でも香取社でもなく、あるいは春日社でもなく、あくまで“鹽竈社”という強烈な個性として残されていることの意味は無視できないわけで、つまり、鹿島・香取・春日とは“別物であろう”と私は考えておりました。今さらりと書きましたが、奈良にある春日大社もこの鹿島の神が祭神ということになっております。そして、今鹽竈社について私が触れた見解同様、春日社が鹿島社を名乗らず“春日社である理由”も、これは“本来の鹿島とは別物であるから”と言っていいと考えております。
 ただ禅問答のようなことを言ってしまえば、本来の鹿島とは一体何?ということになってしまうので、私が今「本来の・・・」と軽々しく言いきってしまった鹿島とは特にタケミカヅチという意味ではなく“『常陸国風土記』が語るところの「香島の天の大神」”のことと定義しておきます。念のために申し上げておきますが、どちらが本物、どちらが偽物という話にするつもりは全くありません。どちらも本物の鹿島神であるということも明言しておきます。鹿島社の歴史は実に複雑なのです。
 実は困ったことに、前述の定義をあてはめるならば本場茨城県鹿嶋市の鹿島神宮自体“本来の鹿島”ではなくなってしまいそうなのです。
 『日本三代実録』の貞観八(866)年一月二十日条に、少々驚かされる事件について記録があります。――以下、工藤雅樹さん編『東北古代史・資料集(多賀城市史跡案内サークル叢書第一号)』より――

――引用――
是より先、常陸国の鹿嶋神宮宮司言さく、大神の苗裔神卅八社、陸奥国にあり。〜中略〜之を古老に聞くに云く、延暦以往、大神の封物を割きて、彼の諸の神社に幣を奉る。弘仁よりして還へり、絶へて奉らず、と。是に由り、諸神祟をなし、物の恠寔に繁し。嘉祥元年、當國の移状を請ひて、幣を奉りて彼に向ふ。而るに陸奥国は、旧例无しと称し、関を入るを聴さず。宮司等、関の外の河辺において、幣物を祓ひ弃てて帰る。それより後、神の祟止ず、境内は旱き疫む。望み請ふらくは、彼の國に下知せられ、関の出入りを聴され、諸社に幣を奉り、以って神の怒を解かんことを。〜以下省略〜

 鹿島大神の御子たちは反抗期を迎えていたのでしょうか・・・・。
 同資料集には『類聚三大格』の同内容記事も掲載しておりますが、つまり、貞観八年という時代において、陸奥国に鎮座する苗裔神を祀る神職たちが、本場鹿島神宮の宮司の命令に対して旧例にないといって退けているのです。しかも、そこには陸奥国の行政も一丸となっており、鹿島の宮司に対し関まで閉鎖しているのです。更に、その際に鹿島神に祟られたのは陸奥国側ではなく、なんと鹿島神宮側であるというのは一体どういうことでしょう。
 『日本古代史論(大和書房)』の大和岩男さんは、この事件は鹿島神宮本社の司祭者が中臣氏――藤原氏――に変わったことに関係していると考えているようでした。“変わった”ということは、つまり鹿島神宮の司祭者が藤原氏ではなかったことを前提としなければならないわけですが、大和さんはその本来の司祭者を“オホ氏”である、と考えているのです。大和さんは言います。

「このことは藤原、中臣氏用に変質した常陸の鹿島社に対する 本来の信仰をもつオホ氏鹿島社の祟りである。藤原、中臣用の鹿島神宮にはまったく神威がなく、陸奥の鹿島御子神社にたよるしかない春日風鹿島神の弱い立場をこの記事は示している」

 なるほど納得です。

宮城県石巻市の式内社「鹿島御兒(かしまみこ)神社」
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境内から望む北上川河口
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福島県南相馬市鹿島区の式内社「鹿島御子(かしまみこ)神社」
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 『古事記』は現存する日本最古の歴史書であると言われております。その『古事記』が献上された翌年、和銅六年(713)の五月二日、元明天皇は次のような詔を発しました。

――宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より引用――
 畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名称は、好(よ)い字をえらんでつけよ。郡内に産出する金・銅・彩色(絵具の材料)・植物・鳥獣・魚・虫などのものは、詳しくその種類を記し、土地が肥えているか、やせているか、山・川・原野の名称のいわれ、また古老が伝承している旧聞や、異(かわ)った事がらは、史籍に記載して報告せよ。

 これを受けて諸国の『風土記』編纂が進められたと考えられております。
 現代では『風土記』というと観光ガイドブックや紀行文のような印象がありますが、それは後世の紀行家の粋な遊び心によって培われたものでしょう。本来風土記とは古代の国土調査か国勢調査かといった雰囲気の“いかめしい”ものだったのです。
 さて、私が和銅年間の風土記編纂のあり方で興味があるのは、そもそもどのような目的でこの事業を進めたのか、という部分です。素朴に考えて、正史である『日本書紀』の総仕上げのためかとも思われますが、それでは『古事記』編纂時の情報源は一体どこからのものであったのでしょうか。まさか天皇家に伝わる口承だけに因ったとは思えませんので、少なからず和銅年間の詔以前にもなんらかの形で各地の情報を収集していたことは間違いないでしょう。このことはなかなかに重要なポイントであると考えております。
 ところで、『古事記』は『日本書紀』とはっきり性質を異にします。現在でこそ特に何の神秘性もなく私たちの目に触れる歴史書になっておりますが、本来『古事記』は天皇家内部の書でありました。国家としての同時代の“正史”は、あくまで『日本書紀』なのです。
 『日本書紀』は多分に対外的な意味合いを持っていたと考えられます。「対外的」というのは「対中国――唐――外交」ということです。日本が朝鮮半島の諸国と決定的に違うのは、朝貢――中国に対する貢物――をしなければならないような立場ではなかったというところでしょう。聖徳太子の態度にも見られるように、日本はあくまで対等な外交を基本として、朝貢などもってのほか、決して中国には媚びませんでした。それは、四方を海に囲まれた強みというものを抜きには考えられないにしても、アジアの中ではかなり異質です。そのような態度を貫く中、反面とにかく野蛮人としてなめられるわけにはいかない、という強迫観念も痛々しいほどに持ち合わせていたようで、それは『日本書紀』の編纂にも色濃く影響を及ぼしていたかに思われます。
 それに対して『風土記』はどうだったのでしょう。表面的に見るならば風土記はいかにものびのびとしており、辺境の事情をあるがままに報告しているかのようにも見えます。
 しかし、諸国に『風土記』を編纂させられるほど、中央集権的な力が圧倒的になったこの国において、いかに天皇から「地方の真実を正直に述べよ」と言われたところで、どこまで正直に報告出来たことでしょう。例えば現代の日常において「無礼講」と言われて本当に無礼講を働くわけにいかないことは、社会人ならば誰しも理解できることでしょう。
 少なくとも、『風土記』編纂の詔の前に『古事記』が成立している以上、似たような指令はこのときが初めてではなかったと考える方が自然ではないでしょうか。それは以前集めた情報が必ずしも天皇家にとって満足のいくものではなかったということも考えられます。そこにはもしかしたら暗黙の圧力があったかもしれません。そういった想像を膨らまさざるとも、少なからず中央の感情を逆撫でしかねないものについては、当地の国造の判断において検閲の憂き目にあったことは想像に難くありません。
 逆を言うならば、それでも尚“不敬”にあたりかねない記述が報告されている場合、そこにはなんらかの真実があったと考えられるのではないでしょうか。
 さて、私が何故くどくどとこのような能書きを垂れているかと申しますと、とても驚くべき記述が『常陸国風土記』の中にあるからです。
 それは当該風土記冒頭の「総記」の中に早くも現れます。

 『常陸国風土記』は、ヤマトタケルの事績を報告する際に「倭武の“天皇”」と表現しているのです。

常陸国のシンボル「筑波(つくば)山」
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 念のため申し上げておきますが、正史上では、ヤマトタケルは決して皇位を継承しておりません。これは常陸国の民のお世辞なのでしょうか。
 たしかに現代でも、ネオン街などでは社長でもなんでもない人物を「社長さん」などと呼ぶことはあるでしょうが、いくらなんでもそれとはあまりにも次元が異なります。
 例えば、仙台に鹽亀株式会社という歴史ある会社があったとします。そしてその会社は鹽亀一族本家の嫡流しか社長職を継げないルールだったとします。最初はこじんまりと家族だけで始めた会社でしたが、徐々に軌道に乗り、長い年月を経て、いつのまにか全国に名をはせる大企業になりました。
 しかし歴代鹽亀氏は決して株式の店頭公開などせず、あくまで鹽亀家の流儀にのっとって同族会社として運営しておりました。この会社は本社の役員も親戚縁者で占められておりましたが、社長だけはあくまで鹽亀一族本家の嫡流限定を守っているのです。
 このたび東京に本社を移転することになり、現社長が、記念社史の編纂を命じました。そこで全国各支店から各々の情報を集めた際、茨城支店が出してきた報告書には、3代前――別に何代前でもいいのですが――の取締役常務である大和氏が、業績の悪い茨城支店長を兼任し、全国ナンバーワンの売り上げを叩きだすまでに成長させたという武勇伝が書いてありました。茨城支店では、それがあまりに輝かしい歴史なので、大和常務を「大和社長」と表現して提出したというのです。
 いかがでしょう。いくら素晴らしい業績を残した人物だとはいえ、常識的に考えて社史にそのようなお世辞は通常あり得ません。「鹽亀家を愚弄する気か」と一喝されて終わることでしょう。
 しかし『常陸国風土記』が報告したことはそれとほぼ同じことなのです。スナックのお姉さんが客を「社長さん」と呼ぶのとはわけが違うのです。
 なにより、他国の風土記のほとんどが逸失しているなかで、こうやって『常陸国風土記』の語るところが私の目に届いているということは、検閲を乗り越えて生き残ったということです。
 これはどういうことでしょうか。実はヤマトタケルは天皇だったのでしょうか。
 もしかしたらそうだったのかも知れませんが、冷静に考察を加えるならば、これはヤマトタケルが怨霊候補、すなわち世の中に、あるいは天皇家に恨みを残して――そう思われて――薨去した存在であっただろうということでしょう。歴史の中では、例えば聖徳太子もそうですが、天皇にも上皇にもなっていない人物が死後その称号を追贈されたケースがいくつかあります。もちろんいずれもその資格なり実力なりが十分であった人物のようですが、それ以上に、なにやら不可思議な死に方をした人物のようです。『常陸国風土記』のこの記述から、ヤマトタケルもそのような存在であったことを想像させられるのです。

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