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照井太郎伝説を濃厚に残す矢本地区――現:宮城県東松島市――は牡鹿郡衙所在地の最有力候補となっております。 『矢本町誌』――旧矢本町(現:宮城県東松島市矢本地区)の町誌――は、「舎人」とへら書きされた高杯付杯の発掘によって牡鹿郡の郡衙所在地の中でも更に有力候補と目される「星場遺跡」について、「出土遺跡は古墳時代のはじめからあり、奈良時代に中心をおき、平安時代中期頃までつづいている」と記しております。 平安時代中期であればおおよそ陸奥安倍氏が頭角をあらわしはじめた頃になると思いますが、その権勢は前九年・後三年の役を経て奥州藤原四代に受け継がれていきます。その藤原四代の重臣であったとされる照井氏が、主君の実家であり精神的始祖である安倍氏とも密接な関係であっただろうことは推して知るべしでしょう。 照井氏の中にはアテルイの末裔を自称する人もいることは度々触れておりますが、その照井氏と大国造一族である道嶋氏――丸子氏――が同時代に同エリアで勢力をふるって併立していたとは考えにくいものがあります。したがって、照井氏の牡鹿エリア進出により道嶋氏が衰退したか、あるいは照井氏と道嶋氏が、実は元々同一とも言えるほどに密接な関係であったかのいずれかなのでしょう。 ちなみに宝賀寿男さんは後者を想定しておりました。宝賀さんは論考『塩の神様とその源流』のなかで、次のように語っております。 ――引用―― これら陸奥に残った道嶋一族のその後は、全く知られていない。しかし、その行方を示唆するものもないではない。 東松島市の赤井遺跡(旧矢本町で、古代には牡鹿郡に含まれた)からは「舎人」「大舎人」と墨書された須恵器が発見され、豪族道嶋一族の居館と関連づけて考えられている。この付近の祇園社(現須賀神社)は、平泉藤原秀衡の家臣照井太郎の勧請と伝えており、徳治三年(1308)銘の板碑があって、同氏の供養碑と伝える。赤井には照井の小字があり、西方近隣の小松にも照井太郎高直とその妻の伝説のある手招八幡社がある。太田亮博士は照井氏は磐井郡照井邑より起るとし、泰衡家臣照井太郎高春の後というとして、登米郡佐沼北方邑古累、玉造軍下野目邑古館及び磐井郡清水邑ニ桜城等は、いずれも文治の春、高春が拠った地と伝えられる、と記す(『姓氏家系大辞典』)。 この記述から、照井氏の勢力が相当に大きかったことが窺われるが、登米郡の古累とも考え併せて、桃生郡の照井が起源の地と考えたい。そうすると、照井氏を古代道嶋一族の末流とみるのが自然となる。このような形で、古代陸奥大国造の後が残っていたとしたら、頼朝の奥州以前は多賀城にあって民政に預かり、大河兼任の乱に同心した留守職親子は、照井氏の一族だった可能性もある。 この中で、供養碑や伝説については既に触れたとおりですが、なるほどそれらをこのように捉えることも出来るのか、と目からうろこでありました。道嶋氏を輩出した丸子氏が私の想像どおりオホ氏であったとするならば、アテルイとともに処刑されたモレの一族にもつながりそうで面白いと考えているわけですが、宝賀さんの論考から言えば丸子氏は照井氏そのもの、すなわち私が思うアテルイ一族と同一ということになるわけです。 いずれにしても、モレとアテルイが強い絆で結ばれていたのと同様、牡鹿郡が栗原郡と極めて密接な関係にあった可能性は高いと考えます。 その場合、石巻市牧山(まぎやま)の地名由来となった魔鬼(まぎ)一族の性格もだいぶあぶり出されてまいります。 前に私は、makiではなく、あえてmagiと訛ったままで地名として残っているのは、マギという訓に強い意味があったからではないか、と疑っておきました。それを特に大きく訂正する必要はないのですが、このマギはやはり現在の表記どおり素直に牧の意味で、「馬柵(まぎ)」と呼ばれていたのではないか、もっと言うならば天武天皇の軍事戦略によって信濃に扶植された高句麗系騎馬軍の、あの「馬柵」のことではないか、と考えはじめているのです。私の仮説では、この天武天皇直轄の高句麗系騎馬軍は浅間山の噴火で壊滅状態に追い込まれ、オホ氏と同祖の信濃国造の手引きで陸奥国栗原に移住したのではないかとしているわけですが、その栗原とこの牡鹿は地理的には「伊治(いじ)川――迫(はさま)川――」の上流と河口の関係にあり、人文的にも双方に照井氏の痕跡が濃厚で、極めて密接な関係にあったと考えられます。 まして私は「石巻(いしのまき)」の語源について「伊治(いじ)の魔鬼(まぎ)」説を採るとしておりました。この「伊治」についても「いじ」の他「これはる」「これはり」とも読み、すなわちそれは通説でも「くりはら」のこととされておりますが、前にも触れたとおり、『日本書紀』に記載された奈良県高市郡明日香村の「栗原(くりはら)」の地名由来からみてクリハラとは本来「呉原(くれはら)」であったと考えて間違いないでしょう。「呉」は三国志で有名な中国の「呉(ご)」ではなく、高麗人が「呉人」と呼ばれていた――名乗っていた?――ことから古代において彼らの代名詞となっております。おそらくクリやクレ、コレは、コウクリのクリ、あるいはコウライが変質したものであろうとは思うのですが、私見では本当に中国の呉と関係があったのかもしれないとも勘繰っております。それはともかく、つまり「伊治の魔鬼」は、本来照井王国栗原のそれと同系高句麗系騎馬軍の「伊治の馬柵」であったのでしょう。 |
水を操る太陽の一族
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アテルイの末裔を自称する一族の痕跡から蝦夷の正体を考えます。
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江戸時代、徳川幕府は、政権安泰のために「朱子学――儒教――」を推奨しておりました。 これは結局勤王思想でもあるのですが、幕府の思惑としてはあくまで徳川家を王家と見立てておりましたから、「徳川家に逆らうことは悪である」という思想をしっかりと浸透させたかったのです。 ところが、その思想が盛んになり、深化されていくにつれ、 「神国日本において王家は天皇家ただ一つである。それをないがしろにしている徳川家こそ最大の悪ではないか」 という方向に変化していきました。 更に、そこに異国の脅威が高まり異国を排除する“攘夷”の観念が加味されたがため、尊王攘夷というある種の国学に上塗られていきました。 いわゆる国学は、本来異国の思想によって気付かされたはずにも関わらず、異国に関するものは徹底排除する思想上、奇妙なことにその原初のものと対立する構図になってしまったのです。 この思想は更に熟成されていきます。 国学者は儒教の本家中国に対しても、 「中国4000年などと言いつつ、その実、王家――皇帝――は何度も入れ替わっているわけだから、とっくに野蛮人の国である」 という考えに発展し、 「万世一系の天皇家の下にある我が国こそが本来の中国――世界の中心――である」 というところにまで極められていったのです。明治期の、神仏分離、廃仏毀釈の原点もここにありました。 それにしても、徳川幕府が推奨したはずの朱子学が、幕末に至って原理主義的な国学として徳川家自らを滅ぼす原動力になってしまったのは皮肉な話です。 さて、私の手元の太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』に、さりげなく私の好奇心を揺さぶる條がありました。 「鶴岡の國學者に照井長柄(もと田村氏)あり」 「照井長柄(ながら)」は、庄内各地の神社縁起を詳述した『五百津鋤(いおつすき)』の著者でもあります。 しかし、彼は単なる郷土史家(?)の域にとどまらない人物であったようです。 『荘内日報社』ウェブにある米村光雄さんの掲載文よりますと、照井長柄は、幕末から明治時代に、鶴岡――山形県――において蘭方医学を修めるかたわら、記紀や万葉集などから我が国固有の文化、精神を明かす国学を志し、大山――鶴岡市内――の先覚「大滝光憲」や、伊勢の「荒木田末寿」に師事していたようです。 彼は国学に奔走していたわけですが、特に「鈴木重胤」なる国学者の大著『日本書紀伝』を校訂するなど、国学への貢献度は計り知れないものがあります。 この鶴岡という土壌は、藩論としてはどちらかと言えば儒教の影響が濃厚なエリアであったのですが、その中にあって「国学」言いかえれば勤王思想に傾倒した照井長柄という人物は、あきらかに異端児であったと言わざるを得ません。 庄内地方の国学の流れには、「本居宣長」亡き後、彼に影響を受けた国学の第一人者である「平田篤胤」が、庄内に近い秋田県の人であったことが大いに影響しております。 米村さんによれば、この偉大なる平田篤胤に教えを乞うべく秋田を訪れた鈴木重胤の鶴岡滞在が、照井長柄に大きく影響したようです。 秋田を訪れた重胤は、平田篤胤が既に故人であることを知り、傷心のまま大山――現:山形県鶴岡市――に身を休めたのだと言います。 彼は先に触れたとおり『日本書紀』の全文を詳解した『日本書紀伝』の作者でありますが、照井長柄は、その彼を訪ね、直接彼の思想の真髄に触れたようです。 師、鈴木重胤が江戸において凶刃に倒れると、長柄は恩師の大著『日本書紀伝147巻』を校訂しました。 更に彼は重胤の汚名をそそがんと奔走したため、藩主から忌み嫌われ、幽閉までされたようです。 彼の勤皇ぶりは、戊辰戦争時、藩の軍医を命ぜられたにもかかわらず、官軍に刃を向けることを好まず、病と称して戦陣を離れたほどですから相当なものです。 ところで、彼が国学に奔走したのは、世の流れ故だけであったのでしょうか。そんなはずはありません。彼は儒教主流の土壌に育っているのです。 ここで私は手元の『姓氏家系大辞典』の記述に戻ります。 「鶴岡の國學者に照井長柄(もと田村氏)あり」 太田さんは、照井長柄は「もとは田村氏であった」としているわけですが、それはあくまで長柄一個人の話のようです。 『荘内日報社』のウェブには、 「文久年間田村姓から祖先の照井姓に改めた」 とあり、照井一族であった長柄の先祖が、“なんらかの事情で田村姓を名乗っていた”ということがわかります。 それにしても、照井一族が何故「田村姓」を名乗ったのでしょうか。 『姓氏家系大辞典』の「南朝田村氏」の條には次のような記述があります。 「凡そ南北朝の時にあたり、奥州にて勤王の節を守りしは、伊達、田村、葛西、南部の四家にして〜」 ここの「勤王」の対象は南朝、すなわち後醍醐天皇側を指します。
北朝は、正統な血統ではあるものの、あくまで後醍醐天皇追放のために足利尊氏が擁立したものでもありますから、善悪はともかく“インスタントの傀儡朝廷”であったと言っても過言ではありません。 照井長柄の地元である鶴岡市内の旧藤島町平形(ひらかた)には「平形館跡」なる館跡がありますが、これは南北朝時代の吉野朝――南朝――方の国府であったと言いますから、このあたりは、南北朝時代において南朝側の巣窟であったということでしょう。 ここに、照井長柄の国学志向と田村姓の間に、ひとつの共通点があぶり出されたわけです。 更に私は、ここにもう一段階の勘繰りを入れざるを得ないのです。 田村氏とは、坂上田村麻呂を祖と仰ぐ一族です。田村麻呂と照井氏の間に共通項があることは既に触れました。 念のために繰り返しておきますと、田村麻呂の坂上氏も、照井氏も、私の中では高句麗系騎馬族の末裔であるということになっております。 照井長柄の父祖や、彼自身の確信的なこの“文久の改名”の事実によって、恐縮ながら私論が強化されるものと自負しております。 |
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藤原実方中将の不審死といい、祟りを為す安倍則任――白鳥八郎――といい、霊感寺なる命名といい、かつての宮城県柴田郡周辺には何やら奥州武士たちの地縛霊が住み着いていたかのようですが、照井太郎高直もその一角を担っていたようです。 高直最後の陣所、韮神(にらかみ)山――宮城県柴田郡村田町――の西隣の小山の上、その名も「山の上屋敷」には照井太郎高直を供養する地蔵堂と供養塔があります。供養塔は、もとは五重の石塔であったというのですが、現在は単純な石を重ねたシンプルなものになっております。 『村田町史』によれば、墓地後方約20メートルの所にあるけやきの木の下の盛り土が、輝井(照井)太郎――高直――の亡きがらを埋めた場所と推定されているようです。 ふと私はその形態に目が行きました。もしや積石塚古墳では・・・、などと想像してみたのです。 残念ながら、そのような気配は全く感じられませんでしたが・・・。 何故そのような想像をしてみたかというと、もし積石塚古墳だとすれば、照井氏と高句麗系渡来騎馬民の関係が極めて密接であっただろうという私見を物的に補強できると思ったからです。 前に触れたとおり、積石塚古墳は高句麗人を主とした古代朝鮮人に顕著な埋葬習慣です。信濃国の“馬”と高句麗系渡来人が結び付いた最大の論拠も、当該地に展開する積石塚古墳群の存在にありました。 とはいえ、高直が戦死したのは平安時代最末期、鎌倉時代になろうとしている頃です――ある意味、高直が戦死したから鎌倉時代になったとも言えますが・・・――。7世紀の高句麗滅亡からは既に500年以上も経過しておりますので、そもそも時代そのものが違いすぎるのかもしれません。 さて、『村田町史』は「輝井太郎後日談」として以下のように書いております。 ――引用―― 輝井太郎の死後、山の上屋敷およびその周辺の住民は、輝井太郎の死を惜しんだ。今も名に残る首洗いの池で殉死した夫人とともにその首を洗い、山の上屋敷に葬り夫妻の菩提を弔うべく、ここに東岳山洞秀院を建立したが、これが間もなく焼失した。それから五十年余りたった仁治元年(一二四〇)に、金ヶ瀬の新寺村にこの寺を再建した 高直ゆかりの地蔵堂や供養塔の場所は、焼失した「洞秀院」の旧地のようです。 洞秀院なる寺院は既に廃寺となりましたが、照井太郎夫妻の位牌は引き続き「香林寺」に安置されております。 ところで、町史はここで奇妙な話を続けております。 ――引用―― 昭和四十九年九月のある日曜日に、沼辺の男子高校生が友人たち八人と韮神山に登り、そのついでに輝井太郎の供養塔の写真をとった、写真をとったのは、二人であるが、どちらにも墓にかけられた屋根の上に、昔の武将と思われる顔がうつっていたので驚いた。そのうちの一人が、その写真を家に持ち帰り母にみせた。その母は、日頃信仰の厚い人だった。十月のある日、仏壇に手を合わせている母のまぶたに、傷ついた武将の姿が現れ「われは左肩から、右わき腹に、射ぬかれた矢のために死んだのだ、どうか、法華経をあげて供養してほしい」と告げた。母は五十年四月、この墓に、わが子と共に詣でて、法華経を埋めて供養したが、それからは、この墓の写真を何度とっても、武将の姿は写らなかったという。 この事が、五十年六月五日発行の週刊紙「女性自身」に、写真入りで詳細に報道され全国に、この話が広まり、また「東北放送」でも放送され、話題を呼んだ。 「あの不思議な写真こそ心霊写真だ」という人もある。また、「そんなことが・・・」と疑う人もある。このことは将来なんらかの形で解明されねばなるまい。 昭和の現代に至っても高直の心霊が現れたようです。 なんとも鳥肌ものの不思議な話ですが、これだけでは終わりません。町史は追い打ちをかけるように次のような話も載せております。 ――引用同町史―― 朝寝屋敷 この屋敷は、韮神山の西北に当り、現在の山の屋敷一帯と推定される。またこの里を「不起臥(おきずふし)の里」ともいわれた。里人の言い伝えによると、文治の役の後には、毎年、七月七日の朝になると、韮神山と対岸の四保山との間、松の木の彼方に、朝もやがかかり、それは雲と見まちがえるような白旗数本の形となって現れるという。また、武者の甲冑姿があらわれるともいう。ともかく、それを見た人はその年一年の間に必ず凶事に見舞われるといい、それを恐れた住民は、この日は朝寝する習慣がつき、いつしか「朝寝屋敷」の名がついたという。〜以下省略〜 いささか町史編者個人のオカルト志向のような流れを感じなくもありませんが、決して嘘を書いているわけではなく、いずれ照井太郎の戦死がこの地において強烈な記憶として刻み込まれていたことの証といっていいでしょう。 このように、柴田郡は安倍氏なり奥州藤原氏に縁の深い土地柄という背景に加え、藤原国衡――西木戸太郎――や照井太郎高直が戦死した場所ということもあり、何かと濃厚な遺跡なり伝承を見受けられるのですが、特に照井太郎高直の御霊については地元栗原においても手厚く供養されております。 宮城県栗原市金成(かんなり)町有壁に、高直の妻が築いたという五輪塔がありました。高直戦死の後、落人となった妻子は有壁の地に逃げ隠れていたというのです。 しかし、この母子はやがて酒造りで成功して富を蓄えることになります。 柴田郡の伝承では、高直の妻は殉死して韮神山付近の山の上屋敷に一緒に葬られたことになっておりました。とすると、有壁に落ち延びたというこの妻は一体誰なのか、という疑問もわき起こりますが、単に伝承上の矛盾なのか、それとも正妻と妾の違いなのかはわかりません。 いずれ、有壁に落ち延びた妻もやがて亡くなりました。そこで、息子の“照井太郎”は更にもう一基の五輪塔を建てたようです。“照井太郎”ということは、この落ち延びた母子が照井一族の本家筋であったと考えてよさそうです。もちろん藤原国衡――西木戸太郎――のように、当時必ずしも長男――太郎――が本家の相続人とは限りませんが、国衡が家督から外れたのは、秀衡の鎮守府将軍や陸奥守といった国家権威をも継承しなければならない、という特別なケースだからであり、全く別次元の話と考えます。 さて、高直の息子は、母の五輪塔に続けて更に3基の五輪塔を建てました。 つまりこの地には合計5基の五輪塔が建っているということになります。そして追加の3基は、照井家の先祖を弔うためのものであったといいます。それが何故3基なのかが気になりますが、もしかしたらアテルイも含まれているのでしょうか・・・。 なにしろ、照井氏の中には、自分をアテルイの末裔であると自称していた人達がいることは前に触れたとおりです。 それにしても・・・・・。 この五輪塔の建つ塚は、なんと“積石塚”です。 読者の皆様の中には「積石塚といっても、いわゆる積石塚古墳とは全然違うよ」と軽く否定する方もいらっしゃるかもしれません。 しかし、このあたりでは珍しい積石の塚であることは間違いありません。少なくとも管見では付近に同様なものが思い当たりません。 正しい高句麗の様式(?)ではなかったにしても、また、これを建立した人物が高直の家族であろうとなかろうと、少なくとも高直あるいは照井氏は「このように供養されるべき」、という造立者の“積極的な意図”がなければこのような形態にはならないでしょう。 したがって、設計知識もなく頭の中のイメージに基づいて“積石塚古墳もどき”を造り上げたということは十分あり得るのではないでしょうか。 あるいは逆に、「これはたしかに高句麗の様式だが、被葬者が誰かわからないものを勝手に照井氏と伝えているかもしれないではないか」という意見もあるかもしれません。 それであれば、それが何故あえて「照井太郎の墓」と伝承されたのかを熟考しなければなりません。誰かがこの積石塚を「照井太郎のものだろう」と確信し、それが説得力をもって長く信じられてきたという事実は、少なくとも照井氏にそれ相応の属性があり、それが一般に浸透していたことの証になります。 一笑に付されるかもしれませんが、私の中で照井太郎高直は、あるいはもしかしたらアテルイは、“高句麗系渡来人騎馬軍の子孫であったのだろう”とほぼ確信せざるを得ないのです。 |
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西木戸太郎藤原国衡の討ち死には、奥州一の駿馬「高楯黒(たかたてくろ)」が泥田に落ちて、身動きがとれなくなったことが決定打となりました。 その際この名馬は敵方に奪われてしまいました。この地が馬取田(まとりだ)と呼ばれるのはそれ故であり、馬のはまった田については、永年耕作することはなかったのだそうです。 さて、私はまだ韮神山におります。 平安時代、韮神山の下は「憚(はばか)りの関」と呼ばれておりました。現在の風景からはとても想像できませんが、なかなかに苛酷な天嶮であったようです。だからこそ照井太郎高直も利用したのでしょう。 かつてここには由緒ある一つの石碑がありました。里人の間では奥州王藤原秀衡によって建てられたものと伝わっておりましたが、残念ながら、明治期の道路改修工事によって撤去されております。 何故平泉の秀衡が遠く離れたこの場所に石碑を建てたのか、あるいはそう信じられてきたのかは気になるところです。 もしかしたら、「藤原実方(さねかた)中将」が詠んだ奇妙な歌とも何か関係しているのでしょうか。 やすらはで 思ひ立ちにし みちのくの ありけるものは はばかりの関 この意味を『村田町史』は次のように解釈しております。 ――引用―― 天皇の仰せにより、ちゅうちょなく思い立って、この陸奥に来た私を、はばかりの関が、自分を通さないというのは、はて、どうしたことだろう 藤原実方なる貴人は、「あこやの松」を探して鹽竈大神に道を教えてもらったり、一方で名取の笠島道祖神の前でその神を「下賤の神」と侮辱したがために祟られ、その場で落馬死したりと、何やら神がかりに怪しげな末路をたどっております。
彼は、長徳元年(995)に一条天皇から「みちのくの歌枕を見て参れ」と体よく左遷された人物です。安倍氏と源氏が激突した「前九年の役」勃発の半世紀ほど前の出来事ということになります。 その頃のこの地は、まだ陸奥安倍氏の本拠地であったかもしれません。 なにしろ、宮城県南部は奥州安部氏の起源地と考えられます。 言い方を変えれば、奥州藤原氏の起源地でもあります。 おそらくその関係でしょう、この地の北方にはかつて「霊感寺」という名刹があり、それは平泉中尊寺に次ぐ奥州藤原氏縁の大寺院であったといいます。 「霊感寺」――。 なんとも奇妙なネーミングですが、このエリアには故郷を追われた安倍氏の怨恨が充満していたように思われます。 例えば村田町の白鳥神社などは、しばしば祟りを為した白鳥八郎安倍則任の霊を祀っているとも言われております。 なにしろ、『藤崎系図』や『秋田氏系図』によれば、白鳥八郎則任は、前九年の役敗戦後、源氏側の捕虜となって京に護送される道中、石に頭を打ち付けて自殺したとされているのです。 いずれ、この地に安倍氏の記憶がなければ決して生まれない伝承でしょう。 |
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藤原秀衡の3人の息子――国衡・泰衡・忠衡――は各々異母兄弟の関係になっておりますが、源義経を含めた彼らの相関関係を眺めてみます。 義経は単純な精神構造で、“感動屋さん”の激情タイプだったことが様々な史料から垣間見れます。 おそらく、どこか可愛げのある憎めないキャラクターだったのでしょうが、その危なっかしい破天荒な行動に、身近にいた人物はほとほと疲れていたかもしれません。 秀衡の息子たちもなかなか個性的です。 長男である国衡は、蝦夷腹である分、公家の女を母に持つ次男泰衡――4代目――に比べ、平泉内部での周囲からの親近感を集めていたかに思われます。彼は、秀衡に続く第4世代の精神的主柱であったと考えられますが、そのためか、奥州に誇りを持つ無骨な武将といった性質がより純化されていたように感じられます。 秀衡は、相続の円滑化のために、国衡に泰衡の母――秀衡の正室――を娶らせました。このあたりにも秀衡の周到さをうかがわせますが、つまり泰衡の母は秀衡からみて自分の娘ほどの若い女性であったようです。 国衡は、弟泰衡に対して「こいつさえ生まれなければ」という感情も少なからず持ち合わせていたことでしょう。そして秀衡もそれを敏感に察していたに違いありません。 このことは泰衡の性格にも大きく影響を与えたかに思います。年齢の離れた兄国衡の嫉妬を受けながら育った泰衡は、重臣らの兄国衡への同情と、それに反比例するような自分への視線も少なからず感じていたことでしょう。彼は常に他人に気を遣いながら生きてきたのではないでしょうか。 また、三男忠衡は実直で忠実な優等生タイプであったようです。秀衡が白だと言えば白、黒だと言えば黒であり、それを違えることは許せない性格であったかに思われます。 さて、秀衡亡き後、頼朝はここぞとばかりに平泉を威圧しておりました。 「泰衡殿、討伐の勅が出ている指名手配犯を匿っておられるとしたら、これは朝廷に対する謀反となりますぞ」 当然泰衡は兄弟たちと相談したことでしょう。 「方々。御館様の言ったとおり頼朝が挑発してきおった」 これに忠衡は迷わず反応したと思われます。 「時が来ました。早速義経殿を交えて軍議を開きましょう」 それに対して国衡は当然強気であったでしょう。 「逃げて来た義経殿に何が出来ると言うのじゃ。頼朝ごときはわしが成敗してみせる」 しかし、泰衡は今一つ乗り切れず、ひとまずは戦争回避の方策を模索しておりました。 「落ち着きなされませ兄者。頼朝は義経殿の首が欲しいだけじゃ。わしらが源氏の兄弟げんかに巻き込まれるいわれなどありませぬ。義経殿の首を差し出せばそれで解決じゃ」 それに対し、忠衡は兄達の見解にあきれ果て、強い口調で諫言したことでしょう。 「兄者たちはもう御館様の御遺言をお忘れか。御館様は義経殿を大将にして頼朝を倒せと言い残されたのじゃ。何を迷うておられる」 「ならぬ。左様なことをしては奥州を源氏にくれてやるようなものぞ。まずは義経の首を差し出してからじゃ。それから頼朝の反応を見てからでも遅くはなかろう」 泰衡の意見に国衡も同意しました。 「何を血迷うておられるか。義経殿を匿っていることへの咎など口実にすぎぬ。御館様がお嘆きぞ」 「忠衡。もう何も言うな。無用の戦など避けるべきなのじゃ」 「あきれて物も申せぬ」 忠衡は中座したことでしょう。 「兄者、忠衡は間違いなく義経に密告しますぞ」 「・・・それは避けねばなるまい・・・」 通説上、この後義経と忠衡は泰衡に殺されたことになっておりますが、伝承において義経は逃げのびたことになっております。 仮に泰衡が伝承どおり義経を北へ逃がしたとして、頼朝に差し出した義経の首が偽物だったとしても、泰衡の判断は極めて甘かったと言わざるを得ません。 頼朝は、義経の首検分に立ち会わなかったといいます。つまり届けられた首が本物か偽物かなど確認しておりません。そもそも頼朝にとって義経の首などどうでもよかったのです。 反面、そのおかげで「実は義経は生きていた」という伝承にも光が差すわけですが、とにかく頼朝は如何なる手を使ってでも平泉を絶滅させる口実が欲しかったのです。 秀衡はそれを息子たちに伝えていたつもりなのですが、残念ながら泰衡はよく理解していなかったようです。 私は、もしこの兄弟が現代に生きていたのなら、泰衡こそがもっとも成功すると思っております。しかし、戦乱においてはやはり甘すぎたようです。 結局、頼朝の総攻撃を受けた奥州軍ですが、頼朝にすれば労せず平泉側が崩壊してくれました。 最も恐れていた秀衡が亡くなり、兵を預けたら厄介な義経が消え、司令官的三兄弟の一角を担う忠衡が消えたわけですから、この段階で既に奥州軍の中枢は崩壊していたと言えます。第一線で戦う兵士のモチュベーションに影響がなかったわけがありません。しかも迷いながら指揮をとる泰衡など、奥州奪回という目的をぶれることなく徹底した頼朝には取るに足らない相手でした。 28万の大軍で押し寄せた頼朝軍の内おそらく半数以上であっただろう主力軍を、わずか2万の兵力で食い止めていた阿津賀志山防塁の国衡軍は、三日後、背後から回り込んできた別動隊小山朝光軍の奇襲攻撃に霧散しました。 しかし国衡はまだあきらめません。国衡が操る馬は、馬王国の奥州の中でも第一の駿馬といわれていた「高楯黒(たかたてぐろ)」なる馬でした。 このあたり、やはり国衡には照井氏の影を感じてしまいます。私見では、照井氏の縄張りである「栗原」は、天武天皇直属特殊部隊「高句麗系信濃騎馬軍」末裔の巣窟でもあります。その地では奈良期以前から良質な軍馬が育まれてきたはずです。国衡はその中でも最高の駿馬を操っているのです。 さて、国衡は再起のチャンスを窺うべく、一時宮城県柴田郡方面に退いたのですが、途中、小山田の馬取田付近の泥田に落ちてしまいました。 無念にも、ここで国衡は討ちとられてしまうのです。 一方、本家(?)照井太郎高直もあきらめておりませんでした。 高直は一軍を率いて韮神山の天嶮にて敵軍を食い止めようと奮戦していたのです。 しかし、阿津賀志山を破った頼朝軍は、もはや堰を切った川のごとく溢れ出し、さすがの高直もその濁流に飲みこまれ、討ち死にしております。 その後、濁流は一気に平泉まで押し進み、勢い余って厨川(くりやがわ)――岩手県盛岡市――にまで到達しました。頼朝は、厨川の地を踏んでこそ、偉大な父祖、八幡太郎義家の屈辱をはらせるとでも考えていたのでしょう。 余談ながら、頼朝はこのとき何故か「塩竈での狼藉はまかりならぬ」と兵を厳しく諫めております。
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