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「子弟一致して源義経の采配の下に結束すべし」 藤原秀衡のあまりに意外な遺言に、平泉内部は震感しました。 秀衡の意図は義経の天才的な軍事センスへの期待にあったことでしょう。 そして、もしかしたらそれ以上に、源氏の血統を旗印に掲げることで、坂東武士個々の深層心理に“迷い”を呼び起こしたかったのかもしれません。 つまり、もし平泉軍が優勢のままに戦が進んだ場合、坂東武士はどんなに戦況が不利になろうとも「俘囚ごときの下風に立つものか」と抗い続けることでしょうが、“源氏ブランド”かつ、平家を撲滅して朝廷からも覚えめでたい「源義経」という“国民的英雄”が敵の大将ともなれば、「わしらは、九郎(義経)様に頭を下げるのじゃ」と、振り上げた拳を下ろす大義名分も出来あがり、降伏することへの抵抗がなくなることでしょう。 おそらく秀衡はそこまで見据えて遺言したのだと考えます。 しかし、秀衡のそのような戦略性の高い思惑などとはまるで無関係に、心根がシンプルな義経の感動は計り知れないものでした。 それもそのはずです。なにしろ義経は、兄――頼朝――に深く傷つけられたばかりなのです。 義経にすれば、兄のために命を捨てて平家を倒し、源氏の名誉のためにと思い朝廷からの官位を受け取ったわけです。義経は兄にたっぷり褒めてもらえるつもりでいたのです。 ところがそれはとんだ大間違いでした。 兄は自分を叱咤するばかりか、信じられないことに自分を殺す命令まで出したのです。 「兄者、何故に斯様なむごい仕打ちを・・・」 義経は命からがら全国を逃げ回るハメになりました。義経には何が何だかわからなかったことでしょうが、まんまと後白河法皇の頼朝つぶし作戦に踊らされていたのです。法皇は頼朝を無視して官位を授けることによって、積極的に頼朝の権限を削ごうとしていたのです。 頼朝にすれば、いわば“脱朝廷”の政権樹立を目指していたわけですから、改革を決行するためにはあくまで自らの権限で論功行賞を支配していくことが大前提になります。 それが、事もあろうに自分の弟からして勝手に上皇から官位を受けてしまったというのですから、頼朝を支援する東国の御家人にも示しがつきません。義経の行為は、頼朝の政権方針を根幹から揺るがす重大な裏切り行為に等しいものでした。 それが頼朝の怒りの理由なのですが、義経はあくまで梶原景時の讒言の仕業と思いこみ、兄のハイレベルな心中を理解できませんでした。 そのような義経ですから、自分を見捨てたばかりか命まで狙い始めた兄の態度に、極度の人間不信に陥っていたことは想像に難くありません。 そんな指名手配中の義経を、藤原秀衡は再び受け入れました。 「まだわしの帰る場所があった・・・」 義経は感極まったことでしょう。ところがそればかりではありません。 「義経よ、おぬしが柱となって奥州を守ってくれ」 頼朝が問題視する奥州17万騎の軍事力をツルの一声で動かせる最大級の実力者が、指名手配中の自分に「全権を委ねる」と遺言したのです。 「いかなる親が子を思う気持ちもこれに勝るものか」 そう言って義経は心の父親でもあるこの奥州王の遺体にすがり、号泣したといいます。 しかし、この秀衡の戦略を、今度は息子である国衡・泰衡の異母兄弟が理解しておりませんでした。いえ、理解していたのかもしれませんが、本能が許さなかったのかもしれません。なにしろ奥州勢にとって、源氏の血統は因縁の敵なのです。 源頼朝からすれば、「わしらの父祖が苦労して平らげた奥州のエルドラドを、棚からボタ餅で横取りした分際で安穏と大きな顔している奥州藤原氏は許せぬ」といったところでしょうが、藤原泰衡や国衡からすれば、「おぬしらの先祖は、わしらの先祖に負けたのじゃ。泣く泣く清原に臣従の誓いを立ててまで協力してもらったくせに、身の程を知れ」といったところでしょう。 特に蝦夷腹であった国衡にすれば、義経の采配に従うことは、それこそにっくき源氏に頭を下げるという感覚が強かったに違いありません。 ところで、蝦夷腹と伝わるその“蝦夷呼ばわり”の国衡の生母の正体が気になるところです。 蝦夷呼ばわりとはいえ、その子が鎮守府将軍の秀衡の子としてしっかり発言権を持っていたことから考えると、奥州内においてはそれなりの大物の血族でなくてはなりません。 安倍氏、照井氏、金氏、佐藤氏、清原氏・・・などいろいろ思いあたるところはあるのですが、奥州藤原王国建国(?)への貢献度から考えると、安倍氏か照井氏の女性であっただろうと想像しておくのが自然でしょう。 ただ、安倍氏については、秀衡の母親が堂々と「安倍宗任の娘」と公表されていることから、少なくとも系譜上「蝦夷」と抽象化される扱いではなかったように感じます。 したがって、国衡の母親の素性としては、照井氏である可能性が高いように思うのです。 もし照井氏であったとした場合、私見では義経に独創的な騎馬戦術を叩きこんだのも照井氏であっただろうと想像しておりますので、それらを重ね合わせると、国衡からすれば「母親の実家のノウハウが義経を英雄に仕立てあげた」と考えていたかもしれません。 とすれば当然人一倍「あの程度の芸当ならわしにも出来るわい。義経何するものぞ」という気持ちが強かったはずです。 その後、義経は史料どおり殺されたのか、あるいは伝承どおりこっそり北方へ逃がされたのかはわかりません。少なくとも秀衡の遺言が守られなかったことだけは間違いなく、対頼朝戦に彼の姿はありませんでした。 最前線の指揮官は元帥格の国衡が担い、そこには侍大将の照井太郎高直の姿もありました。 「阿津賀志山(あつかしやま)――厚樫山――」で頼朝軍を迎え撃った平泉軍の作戦の詳細は勝者側の史料からしか知る術もありませんが、残された防塁と400年余り後の『東奥老士夜話』にある伊達政宗の対幕府作戦からそれを推測することくらいは出来そうです。『東奥老士夜話』は文字通りあくまで「夜話」に過ぎないのですが、かなり具体的な戦略の記載があり、私はあなどれない史料であろうと思っております。 『東奥老士夜話』によれば、政宗は徳川幕府の大軍が押し寄せた際、第一作戦の陣所として奥州藤原氏が構えた阿津賀志山を選んでおります。 このエリアは、現在でも東北地方の大動脈である東北新幹線、東北本線、東北自動車道、国道4号が密に集中して並走する場所です。つまり、現代においてもこの一点以外は容易に通り抜けできない場所なのです。歴代奥州側がこの一点で大軍を食い止めようと考えるのは必然かもしれません。 「夜話」は、ここで渋滞してしまう幕府軍を、阿武隈川下流のせき止めによって水没さる作戦であったと語っております。 おそらくその400年前の平泉軍の作戦がそうであったのでしょう。平泉軍は、その渋滞を故意に引き起こさせるため長大な三重の防塁をめぐらせておりました。事実これによって馬を食い止めたのです。 私は思います。これらの大規模な土木工事を伴う作戦は、水を操る土木技術に長けた照井太郎高直によるものだったのではないでしょうか。
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水を操る太陽の一族
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アテルイの末裔を自称する一族の痕跡から蝦夷の正体を考えます。
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ふと、私は奥州藤原三代秀衡と四代泰衡に仕えていた重臣「照井太郎高直」最後の陣所、宮城県柴田郡村田町の韮神山を訪れたくなりました。 照井太郎高直は、この地で最後を迎えております。 高直は、奥州藤原氏を滅ぼそうと北上してきた源頼朝軍と戦いました。世に言う「文治の役」です。 「文治の役」から遡ること30余年、大化年代以来日本の政治を牛耳ってきた藤原氏の権勢にも陰りが見え始め、遂に武士である平清盛が実権を握りました。本邦初の武家政権の誕生です。 この一事は、平清盛の力もさることながら、賤しい身分であるとされてきた武家が政権中枢に入りこめたことの意味は深く、摂関藤原氏への国民の不満がいかばかりのものであったかを想像させられます。 しかし、なにしろ一国をまとめるノウハウを持たない清盛です。せっかくその地位についても、結局は摂関藤原氏のそれを模倣するしかありませんでした。そしてこのことは致命的でした。 「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われたほど圧倒的権力を誇っていた平氏ですが、他方、ようやく摂関藤原氏から解放されるものと期待していた国民の大多数――農民=武士――が、「結局藤原氏と同じか・・・」と溜め息をついていたようです。 国民は、武士である平氏の政権が、きっと自分達の期待に答えてくれるものと信じていたことでしょう。 その世論の鬱憤を鋭く察し、平氏が近々ほころぶことを見据えていた人物が、少なくとも二人おりました。 一人は伊豆の北条時政であり、もう一人は平泉の藤原秀衡です。 時政は源頼朝を、秀衡は源義経を各々匿い――確保し――ました。 言うまでもなく、頼朝と義経に流れる源氏の血は、平氏が命がけで倒した忌々しいライバルの血です。 平氏にようやく訪れた一族の全盛期において、彼らに深く恨みを抱くライバル氏族の血を匿うことが、いかに危険なことであったかは想像するに難くなく、それだけに北条時政と藤原秀衡、この二人の奇抜な選択は異彩を放っております。 それでも藤原秀衡については首都平泉を中心に半ば独立政権を運営しておりましたので、ある程度平氏に文句を言わせないだけの自信も実力もあったでしょう。 しかし北条時政については理解に苦しみます。時政は、この段階ではまだ伊豆を地盤とする一豪族に過ぎず、平氏の一声がダイレクトに家の存続にも影響する立場にあるばかりか、周囲の目も厳しいなかであえて流罪人の頼朝を匿ったわけですから、この肝っ玉は恐るべしです。 いずれ両者の目には、平氏政権に内在するまだ誰も気付かない小さなほころびが見えていたのでしょう。 そのほころびが広がり始めた頃、日本にも束の間の三国志時代がありました。 平氏と奥州藤原氏の二大勢力の間に、あたかも割り込むように源氏――北条氏――が成長してきたからです。 しかも、その源氏が奇跡的に最大勢力の平氏を滅ぼしてしまったので、またたくまに三者鼎立の均衡が破れてしまいました。 残る二大勢力、源頼朝と藤原秀衡の間に一触即発の緊張が高まってくるのは必然でした。そもそも頼朝は、奥州を八幡太郎義家が開拓した自分たちの父祖伝来の地と錯覚しておりましたので、陰に陽に秀衡にプレッシャーをかけていたのです。 しかしそこはさすがに100年の安定政権を維持してきた奥州王の血族です。頼朝の悪質な言いがかりをのらりくらりとかわし続けていたのでした。 ところが間の悪い事に、最も緊迫の高まった時期に秀衡の寿命が近づいてきたのです。 秀衡は、いまわの際に衝撃的な遺言を発しました。 「子弟一致して源義経の采配の下に結束すべし」 一同ざわめいたことでしょう。
自分亡き後の平泉の采配を、嫡子の泰衡でも妾腹ながら長男の国衡でもなく、源氏の血統“義経”に任せようというのです。 まるで横溝正史さんの名作『犬神家の一族』の如く混乱を招くような恐怖の遺言は、別に秀衡がとち狂ったものでもなんでもありません。頼朝の陰湿な挑発をのらりくらりとかわしてきた秀衡であればこそ、頼朝の底知れぬ恐ろしさを認識していたのです。 そして次代の泰衡や国衡が挑発をうまくかわしきれるとは思えず、とても怪物頼朝とは渡りあえないと踏んでいたのでしょう。 かと言って、義経にしても頼朝に対抗出来るだけの政治力は持ち合わせておりません。いえ、むしろ政治的センスは著しく欠落していたとしか思えません。 それでもあえて義経に委ねようとした秀衡の方針はただ一つです。 つまり秀衡は「頼朝を倒せ」と遺言したのです。 義経には卓越した軍事的センスがありました。それは平家を滅ぼした一連の実績で既に証明されております。秀衡が見据えていたものは紛れもなく頼朝との全面戦争であったはずです。 |
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歴史上、浅間山噴火の噴出物は想像を絶するほど大量で、それは日本国内にとどまらず地球上の気候にまで影響を及ぼしたこともあったと考えられております。 理学博士の村山巌さんは、フランス革命の遠因として、1783年の浅間山噴火を上げておりました。 現在では、それをアイスランド火山の噴火に因るものと考える説が多数派になりつつあるようですが、そのとおりそれが浅間山ではなくアイスランドのラキ火山であったにしろ、だいぶ世論が変わったものだと実感します。 かつて村山さんが浅間山噴火遠因説を提唱していた頃は、火山噴火に思想革命の原因を求める発想そのものに批難が集まっておりました。 しかし、火山の噴火が気候に多大なる影響を及ぼすことは疑う余地もなく、しかもその火山灰が成層圏に達し、ジェット気流などに乗った場合はかなり遠くまで運ばれていく事実は認めるべきでしょう。 フランス革命は、もちろん思想革命でもあったのですが、そのような思想の革命の裏側には往往にして社会不安があるというのが私の持論です。 度々触れているとおり、鎌倉仏教の発展は末法思想とモンゴル帝国への恐怖が育てたものとするのが私の仮説ですが、同じ理屈です。 よく考えればあたりまえの話なのです。 不安や不満がないならば、あえて満足な生活を変えたい人などいるわけがないのですから革命の「か」の字も生まれるはずがありません。 村山さんは、浅間山の火山灰が偏西風なりジェット気流なりに乗ってヨーロッパの気候に変動をきたし、農作物に悪影響を与えたと考え、それによって農業王国のフランス国内に社会不安を生じさせた、と考えたのでした。 火山灰が地球の裏側にまで到達する傍証として「黄砂現象」や第二次大戦で日本軍が使用した「風船爆弾」などを挙げておりました。 先に触れたとおり、これは24〜25年くらい前はかなり批難されていた説ですが、おりしもソ連のチェルノブイリ原発の爆発事故によって世界中が放射能の雨に怯えることになり、おかげでにわかに私もその説を信じ始めたものでした。 話を浅間山に戻しますが、もちろん日本でもその噴火が史上稀な惨劇「天明の大飢饉」を“増幅”させたと考えられております。 今あえて“増幅”という言葉を強調しましたが、この大飢饉においても、かつては浅間山噴火がその“原因”とされていたのですが、飢饉の初見が噴火より時期がやや遡っていることからその説は成り立たないとして、現在では軌道修正しつつあります。それでも「浅間山噴火の影響はあり得ない」と完全否定しきるような極端なリバウンドにはなり得ないことでしょう。少なくとも飢饉が5年間にも及んでしまった原因にはなっていたことでしょうから・・・。 なにしろ、少なくとも天武天皇14年(685)の噴火については『日本書紀』が「信濃国に灰が降って草木がみな枯れた」と明記しております。 ただ枯れたわけではありません。 「灰零於信濃國。草木“皆枯”焉」。 “全滅”です。 このとき、天武天皇が大きな期待を寄せていた信濃国営牧場(?)はどうなってしまったのでしょうか。 この天災は天武天皇の心を折るには十分過ぎたはずです。 『日本書紀』はさらりと書いておりますが、草木がみな枯れてなんの混乱もなかったとは考えられません。草木がみな枯れたわけですから、牧草もそうであったということです。 もしかしたら多くの馬が死んでしまったことも考えられます。 それであれば『日本書紀』にそう書かれるはずではないか、というご指摘もあるかもしれません。 たしかにそのとおりなのですが、そもそもこの高句麗系騎馬兵を養成していたのは軍事目的のはずで、おりしも「白村江(はくすきえ)の戦い」の敗戦後である時代背景を鑑みるに、この騎馬軍団の養成目的は「唐・新羅連合軍」の侵略に備えたものであることはあきらかです。 つまり、『日本書紀』の編纂目的が対外的なものであることを重ね合わせたときに、このことは軍事機密であったはず、と想像するのです。 たまたま、さきほど旧日本軍の風船爆弾の話を出しましたが、念のために補足すれば、この風船爆弾とは、文字通り風船に爆弾を仕掛け、それをジェット気流に乗せてアメリカ本土を爆撃するという兵器です。 事実、見事アメリカ本土にそれなりの被害を与えていたようですが、日本軍にそれを知られたくないアメリカ軍部は、諜報されていることの逆手をとって戦略上の報道規制を布いて、さも何事もなかったかのようにやせ我慢していたと聞きます。 アメリカ軍の思惑通りしっかり諜報していた日本軍は、敵国が動揺している様子を掴めず、経費をかけたわりに成果があがっていないと考え、風船爆弾による攻撃は失敗したものと判断し、中止したと言います。 戦時下においてはこのようなことは当たり前のことです。 したがって『日本書紀』にも編纂時のそのような思惑が反映されていてあたりまえだと考えるのです。 さて、信濃の牧民たちは馬ばかりか自分達の生存のためにも避難せざるを得なかったことはあきらかで、大切な馬を引き連れて新天地を探し求めたことでしょう。 天武天皇はその翌年に信濃に行宮(かりみや)づくりを命じておりますが、思うに、離れ去った高句麗系騎馬軍をなんとかこの地に引き戻したかったのではないでしょうか。 天武天皇はほどなくして病に伏し、やがて崩御することとなります。これで、信濃遷都計画はもはや話題にあがることさえ無くなってしまったのです。 一方、高句麗系騎馬軍は結局奥州栗原の地を見つけたようです。 しかし、いくら本来移動に慣れた民族とはいえ、しばらく異国の地の一箇所に釘づけにされていた彼らがすんなりと新天地を見つけられたとは思えません。これを手引きした何者かがいたことでしょう。彼らを奥州栗原の地に手引きしたのは誰でしょうか。 それは、奥州の地勢に精通し、かつ、信濃の渡来人に顔が利く人物――組織――でなくてはなりません。 私は、オホ氏系の信濃国造であろうと考えております。 さて、当の栗原は照井一族のホームグラウンドでありました。 とすれば、この地の高句麗系渡来人が照井一族と無関係に存在していたとは思えません。実際よく考えてみると、照井一族と高句麗系渡来人は属性を共有します。 いずれもアマテル信仰を持つ勇猛な騎馬兵です。 何度か触れておりますが、照井氏はアテルイの末裔を称しているようです。 照井一族がもしアテルイを輩出した一族であるならば、アテルイがずばぬけて強かった理由も、この栗原の高句麗系騎馬軍団に関係があるのではないでしょうか。 そしてまた、そのアテルイが坂上田村麻呂を信じてすんなり降伏したからくりもこのあたりにありそうです。 何故なら、坂上田村麻呂は東漢(やまとのあや)氏の末裔であり、その東漢氏は騎馬戦術を得意とする典型的な高句麗系渡来人だからです。 両雄がお互いに並々ならぬ親近感を覚えていたとしても何ら不思議ではないと思うのです。 余談ですが、もし今書き連ねた仮説が正しければ、元寇で戦没した蒙古兵を供養したとされる仙台周辺の「蒙古の碑――モクリコクリの碑――」建立の謎も、おぼろげながら見えてくる気がしております。
何故なら、伝承によっては、モクリコクリは「蒙古・高句麗」の意味だとするからです。 |
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『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんは、奈良県の栗原の地名起源となった呉原の“呉”を、あくまで「高句麗」の「句麗(くれ)」であるとしておりますが、私はもしかしたら本当に中国の「呉(ご)」と関係があったのではないか、とも想像しております。 中国の呉とは言うまでもなく『三国志』で「孫(そん)家」を君主と仰ぐ呉のことです。 魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国志時代、最強であったのはご存知のとおり「魏」でした。 当然、呉にとって最も厄介であったのもその魏が拡大南下してくることでした。 三国志では、その魏と対峙するために蜀と結ぶくだり――赤壁の戦い――が有名ですが、よく考えてみれば魏の反対側にある高句麗とも利害が一致しております。互いに魏の背後から牽制すれば、そうそう一方に専念して侵攻するわけにはいかないはずです。 一概には言えませんが、事実古代朝鮮史において呉と高句麗が手を結ぶ記事もしばしば見受けられます。 このような関係から推察するに、呉の滅亡後、多くの呉人が高句麗に落ち延びたのではないかと考えるのです。 最近映画『レッドクリフ』が大ヒットしたので記憶に新しいところですが、呉の強力な軍事力の源は“水軍”でありました。 敵国領土を通らずの外国への脱出は、船を自由に操る彼らにとって造作もない事であったことでしょう。 したがって、『日本書紀』で高句麗系渡来人が呉人を称しているのも、私はまんざら虚言ではないだろうと考えているのです。 ここで、高句麗――高麗――について興味深い話に触れておきます。 4世紀、一時うだつの上がらなかった高句麗が再び領土拡大をはかって最盛期に至ったのは、「広開土王――好太王――」と「長寿王」の時代であるとされております。 その広開土王没後二年で建立された俗に「好太王碑」と呼ばれる墓碑があります。 この墓碑にある高句麗開国の伝承について、主要な部分を簡略に述べた井上秀雄さんの『古代朝鮮(講談社)』を引用します。 ――引用―― 扶余王解夫婁(かいふろ)は子がなく山川の神を祭って嗣子を求めた。そうすると金色の蛙形の小児を得て金蛙(きんめ)と名づけこれを養い、位を譲った。金蛙は鴨緑江の河神の娘柳花をとらえて問うと次のように答えた。「私は天帝の子解慕漱(かいぼそ)と自称するものと交わった。その後、彼は帰ってこなかった」。金蛙はこの話を不思議に思って柳花を部屋の中に閉じ込めた。柳花は日の光にあたると妊娠して大きな卵を生んだ。金蛙はこれを嫌って犬や豚に与えても喰べないし、道に捨てても牛馬がこれを避けた。金蛙はこれを割こうとしたが殻を破ることができなかったので、卵を柳花に返した。やがて殻を破って朱蒙が生まれ、七歳になると弓を射ることが非常に巧く、百発百中したという。金蛙の王子たちは彼を嫌って殺そうとしたので、柳花は彼に南方に逃れるようにいった。佟佳江(とうかこう)まで逃げてきたところ追手が迫ったので、川に向って朱蒙は「自分は天帝の子で、河神の孫である。追手が迫っているのでなんとかして欲しい」といった。すると、魚や亀が浮きあがって橋を作った。その後、さまざまな苦労を重ね、ついに朱蒙は高句麗を建国したという。 これはまさに日光感精神話であり、卵生神話かつ空舟(うつほふね)や母子神信仰、アマテル信仰の典型です。
善光寺縁起に秦川勝(河勝)が登場しておりましたが、その川勝にもこのような登場説話がありました。 井上さんは「現実の扶余との関係を強調するとともに、天帝・河神との結合を主張する神話である」と解説して、「高句麗社会の文化を考えるうえに重要な手掛かりとなる」としておりました。 大和岩雄さんは、奥州の栗原についても「呉原」の転であるとしており、この地も馬の産地であることを取上げております。 つまり、奥州栗原も高句麗系騎馬民族の巣であった、ということです。 実際、この地は信濃同様冷涼で馬の産地としてふさわしく、私はその説をとります。それでこそ信濃の高句麗系渡来人に崇敬されていただろう善光寺のレプリカがこの地にあった理由にも頷けるのです。 では、栗原にはいつ頃から高句麗人が流れてきたのでしょうか。 先に私は685年から700年代前半がクリハラ地名の発祥時期と想定しました。実は『日本書紀』に記載された一つの天災に注目しているからなのです。 『日本書紀』は、天武天皇十四年(685)三月、信濃国に灰が降って草木が全て枯れてしまったことを記録しております。天武天皇が遷都候補地として信濃を視察測量させた翌年のことです。 灰は当然火山灰であり、浅間山の噴火と考えられております。 奥州栗原の高句麗人は、この信濃の火山灰地獄から逃げてきた一団だったのではないでしょうか。 |
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多賀城時代、現在の栗原市には、伊治城という対エミシ戦略の前衛基地がありました。 これはそのまま読めば「いじ」なのですが、出土された木簡に「此治」という文字が発見されたことなどから「これはる」あるいは「これはり」と呼ばれていたことが定説となっております。 ウェブ百科事典ウィキペディアで「栗原郡」を検索すると次のように説明されておりました。 ――引用―― 神護景雲元年(767年)に当時の陸奥国最北の城として伊治城が築かれた後に置かれた。郡名として史料に伊治郡と上治郡、出土木簡に此治郡があり、上治は此治の誤字で、此治が伊治と同音異字(「これはる」または「これはり」)とする説が有力である。この郡名が後に栗原に変化したと考えられる。 *木簡は漆紙文書の誤り? しかし私は少々違う説をとります。これではクリハラという言葉に全く意味がありません。私はクリハラという地名にこそ大変大きな意味を含んでいると考えているのです。 ウィキペディアが採用している説は、郡としての栗原が、伊治城に遅れて設置されたことにとらわれて生みだされたのではないでしょうか。私はクリハラという地名は「伊治城」設置以前から存在していたものと考えております。 その時期は、おそらく7世紀末から8世紀初頭、西暦685年から700年代前半にかけてであろうと想定しております。 たしかに「伊治」という地名は、元からあったと考えられます。 それは付近に「伊豆(いず)沼」があること、また、この地を流れる「迫(はさま)川」の古名が“イジ川”であったこと――『矢本町史』――、ついでにその“イジ川”の河口が、上毛野田道が蝦夷制圧に失敗して戦死した伊寺水門(いじのみなと)比定地であったことからもほぼ確実です。 ただし、伊豆地名は全国あちらこちらにあります。そしてあたりまえですが、朝廷は全国組織です。 したがって、朝廷からすれば混乱しないように他国の伊豆とは区別して呼びたいはずです。「○○の伊豆」と底地を特定させる枕詞が必要であったと思われます。 つまり、私は“クリハラの伊豆”と呼ばれていた可能性がかなり高いのではないかと考えております。 例えば、旧国鉄――現JR――は、他地域との重複を避けるために、宮城県であれば「陸前○○駅」というように頭に「陸前」という広義の地名を冠しておりましたが、つまりはそれと同じ理屈です。 当初「栗原の伊豆→伊治」と呼ばれていたものが、やがて「伊治」と書くだけで「クリハラ――コレハリ・コレハル――」と読むようになったとも考えられますし、あるいは当初から伊治城の呼称について通称のクリハラ城が一般化していたのかもしれません。 例えば、「会津若松城」は通称の「鶴ヶ城」がまかり通っておりますが、もしかしたら、それをもって未来の人間が「会津若松と書いてツルガと呼ぶのではないか」というレベルの話に過ぎないのかもしれません。 いずれにせよ、私は伊治よりも広域圏を指すクリハラなる地名が、8世紀半ばには既に一般化していたものと考えるのです。 さて、奈良県高市郡明日香村にも「栗原」という地名があります。 その地名の始まりについて『日本書紀』の雄略天皇十四年三月の条に次のような記述があります――宇治谷孟さん全現代語訳『日本書記(講談社)』より――。 ――引用―― 臣連に命じて、呉の使いを迎えさせた。その呉人を檜隈野(ひのくまのの)に住まわせた。それで呉原と名付けた。 奈良県の「栗原」は「呉原(くれはら)」が変遷したものなのです。 ちなみに、ここに出てくる「呉」は、『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんによれば中国の「呉」ではなく、高句麗の「句麗(くれ)」のことで、当時、高麗、百済などの扶余系朝鮮人は「呉人」と称していたのだそうです。 この檜隈野の地は「東漢(やまとのあや)氏」の本拠地でもあり、彼らは騎兵戦を得意とする扶余系朝鮮人、もっと言えば高句麗系の渡来人でした。このことはアテルイの穏やかな降伏の理由を推察する上で大変重要だと思いますので頭の片隅にでも入れておいていただければと思います。 ※平成24年1月26日追記
「伊豆」を表すとされる「伊治」ないし「此治」については、「此治の眞名井」との関係も並行して検証しなければならないと考え始めております。 |



