はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 金為時(こんのためとき)は、安倍氏同族と考えられる金氏の中で、ただ一人、源頼義・義家親子に味方した人物です。為時は、安倍氏の後背に控える俘囚を源氏方に寝返らせるという巧みな奥地工作で、安倍頼時――貞任・宗任の父――を挟み撃ちにして討った人物なのです。
 『陸奥話記』によれば、為時は「気仙郡司」であったようですから、表面的に受け止めるならば陸奥守・鎮守府将軍の麾下に属して賊を討つのは、郡司として当然の役割であったと言えそうです。
 しかし、為時以外の金氏が軒並み安倍氏の腹心として奮闘しているところをみると、為時と雖も本来は安倍氏と密接な関係であったと考えるのが自然でしょう。
 そもそも、安倍氏は欲深い陸奥守によって賊軍に仕立て上げられただけであり、本来気仙郡司なる職掌も実質は安倍氏の勢力下にあったと考えられます。したがって為時が安倍氏に刃を向けた動機には、官職としての責務以上の感情も働いていたと考えたいところです。新野直吉さんは、「金為時は有能であったか、安倍氏を超えたいという野心家であったかのため、源頼義に引き抜かれたものであろう――『古代東北の覇者』:『大船渡市史』引用文より――」としておりましたが、その可能性は高いと思います。
 ただ、私は一つひっかかっていることがあります。『大船渡市史』には、気仙の歴史研究をされた新沼悌二郎さんによる素晴らしい稿が掲載されているのですが、その中で、金為時について次のような違和感を表明しながら締めております。

――引用――
 以上、『陸奥話記』によって前九年の役のあらましと金為時の活動について述べたが、『陸奥話記』に為時のことが出ているのは、天喜五年の奥地工作までで、その後の諸合戦の記事にはその名が見えない。だからといって、それらの合戦には出陣しなかったとはいえないが、流星のようなその出現と消失はなんとなく謎めいている。北上川畔での側面攻撃や安倍頼時を死に至らしめた奥地工作など、その勲功が抜群なのにもかかわらず、史家がほとんど取り上げないのも、そのためなのかもしれない。
〜中略〜
 なお、後世の気仙金氏は金為時の末裔とされているが、館下「金氏家譜」(陸前高田市米崎町)や「長安寺系図伝記」(大船渡市日頃市町)の為時譜は、明らかに『陸奥話記』によって書かれたもの(それも正確ではない)である。それはよいとしても、「金氏家譜」に「為時の領知は、胆沢・江刺・本吉・気仙の四郡にて十万石を領し、一方の大将なり。」などと記されているのは、これらの譜記が後世(それも近世になってから)の造作であることを自証しているようなものである。また、東磐井郡奥玉の「金野氏系図」や大船渡市立根町の「金野氏系図」にも金為時の名は出ているが、これは安倍氏の時代(平安時代)ではなく、鎌倉時代の人とされている。

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金一族の菩提寺「長安寺」:岩手県大船渡市
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 実は、かつて私は為時を架空の人物ではないか、あるいはその功績は金氏の創作ではないか、と疑ったことがあります。陸奥に残った金氏が、賊軍の謗(そし)りを逃れるために、勝者である源氏に味方した「為時像」を作り上げたのではないか、と考えてみたのです。
 しかし、『陸奥話記』自体が、「前九年の役」後、たいして時間を置かないうちに、おそらく京在住の人物によって書かれたものと考えられることや、源頼義が太政官に提出した国解の中で、為時が下毛興重らとともに、奥地の俘囚説得のために鉋屋・仁土呂志・宇曽利などの蝦夷地の北端に派遣されたことが述べられていることから、やはり為時は実在して安倍氏を裏切ったことは間違いないのだろうと考えるようになりました。
 ちなみに何故戦後間もなく書かれたものであることがわかるのかと言うと、貞任斬首後、宗任が伊予に配流されたことや、一年後の源頼義の凱旋帰京について全く触れられていないからです。
 いずれにしても、前九年の役の後、国府に刃を向けた安倍氏は国賊となり、当然安倍氏と共に奮闘した金氏についても同じだったはずです。
 彼らの処分がどうであったかというと、『陸奥話記』は、斬首もしくは捕虜とされた者が、安倍貞任、同重任、藤原経清、平孝忠、藤原重久、物部維正、藤原経光、同正綱、同正元、帰降した者は、安倍宗任、弟家任、則任、安倍為元、金為行、同則行、同経永、藤原業近、同頼久、遠久、と記しております。
 こうして見ると、為行をはじめとする金氏の重鎮は、帰服し、宗任と運命を共にしたようです。宗任と共に伊予そして筑紫に配流された一派は、諸々の史料・資料からみて、多くても40人弱と考えられます。
 一方、貞任の家族は「貞任家族無遺類」とあり、全員殺されたようです――裔族を称する秋田氏や藤崎氏の家伝では当然逃げ延びている――。
 その他、貞任の叔父の良昭や弟の正任は、厨川柵陥落の八カ月後に投降したようです。
 もちろん、安倍側の人物はこれだけではないはずです。その他の人物はどうなってしまったのでしょうか。少なくとも全滅はしておりません。何故なら、姓を変えながらも由緒ある祠を守り続けている末裔様が、宮城県内にもいらっしゃるからです。
 金氏はどうであったのでしょう。私は思うのです。安倍氏に味方した金一族の残党も、姓を変えたか、あるいは、為時系譜と偽って生きのびたのではないでしょうか。
 それを可能にする要因もあります。安倍政権崩壊後、清原政権も長くは続かず、この地は安倍の血を受け継ぐ奥州藤原氏が治めることになりました。東北地方全域が奥州藤原氏の支配下になったとき、安倍氏を裏切った為時系譜は従前どおり気仙郡司として存続出来ていたのでしょうか。源頼朝によって奥州が再び源氏色に染まるまでは100年もあったのです。私は、金為時なる人物像が謎めく理由は、このあたりにあるのではないかと想像しております。

 数年前、死の山“月山”登拝の機会があり、あらためて自分のご先祖様と向き合う機会に恵まれました。その際、予めご先祖さまの名を刻んだ供養串を100本ほど用意しなければならなかったのですが、ふと、せいぜい四代前くらいまでしか遡れない自分に気付きました。私の祖父は、父系母系とも第二次大戦中に亡くなっており、面識がありません。私は、祖父も曾祖父も墓石に刻まれた名前でしか知らないのです。そのような自分を顧みるとき、何百年以上もの自家の系譜をしっかりと認識できる方々が、如何に徹底してご先祖様の尊厳を守り続けていたのかを思い知らされるのです。天皇家をはじめ、公家、大名、宗派、伝統芸能、豪商、豪農等々・・・栄枯盛衰が必定の浮世のなかで、諸兄を取り巻く世情も常にめまぐるしく変化し続けていたわけで、綺麗事ばかりではなく、時代によっては必ずや耐えがたきほどの苦難もあったはずです。善・悪・敵・味方を問わず、私はその尊き歴史の重みに対して敬意を表さざるを得ないのです。
 話を戻しますが、私自身について、必ずしも自分がどのような系譜であったかを推し量る術がないわけでもありません。とりあえず“姓――苗字――”からなにかしら推察出来るはずだからです。
 「姓」と「苗字」は本来異なる意味を持つものなのですが、現代人には同じ意味のモノとなっております。ざっくりと言うならば、姓は遺伝子、苗字は本籍地と考えて、そうそう外れてはいないと思います。 ニュアンスを分りやすくするため、具体例を挙げてみましょう。木曽義仲、足利尊氏、彼らの姓は「源(みなもと)」です。しかし、本家の地位を勝ち得た源頼朝の系譜と区別するため、「木曽」「足利」という各々の地盤の地名、すなわち“苗字”を冠しておりました。
 その他、例えば伊達政宗ら有力大名が徳川家康から松平姓を賜ったようなケースや、職掌や身分の姓(かばね)があったりしていて、異なる氏族があたかも同族のように見えてしまう場合もあるのですが、いずれにしても、そこにご先祖様が背負ってきた経歴について、なんらかのヒントがあることには間違いありません。それが長い歴史の途中で、捏造あるいは創作されたものであっても、ご先祖様がそのように自分の系譜を書き換えた理由や事情も必ずあるはずで、そこに検討を加えれば、ご先祖様の置かれていた立場もある程度絞れてくるのではないでしょうか。とはいえ、幸い、宮城県の「今野(こんの)」については、わりと推察しやすい環境にあります。

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故郷の風景――泉ケ岳:仙台市泉区――

 かつて、今は亡き宮城の偉大な郷土史家「紫桃(しとう)正隆」さんと初めて電話で会話させていただいたとき、紫桃さんは私の姓について、元々は「金(きん・こん)」であり、「女真(じょしん)族」の出であるとおっしゃっておりました。コンノの「ノ」は、「ミナモト“ノ”ヨリトモ」や「タイラ“ノ”キヨモリ」の「ノ」と同じで、今野政明も本来は「今ノ政明」なのでしょう。
 余談ですが、かつて職場の机上や電話機に、度々「今の君へ」から始まる業務連絡が付箋で貼られていたことがありました。「今野君へ」と書くのがよほど面倒だったのでしょうか・・・。“野(の)”が本来接続詞であったのだとするとあながち間違いでもなさそうですが、どうしても「いまのきみは〜ピカピカに光って〜」という歌が頭から離れなくなり、業務に支障をきたしていたことが思い出されます。
 それはともかく、たしかに女真族は、12世紀に中国北部にて「金朝」を建国しておりますので、彼らと「金」という文字には浅からぬ縁があることは事実です。紫桃さんが故人となられた今となっては、どのような根拠でそうおっしゃっていたのかを確認する術もありませんが、これまで述べてきたように東北地方とツングース系の密接具合を鑑みるならば、今はそれも頷けるように思えております。
 いずれ、今野一族のルーツが女真族である、という説は、このとき初めて聞きました。通常「金(こん)氏」の系譜を渡来系に結び付ける場合、太田亮さんが『姓氏家系大辞典』の中で第一項に挙げているように、「新羅族」と考えるのが一般的です。すなわち「新羅王金閼智の後裔」だとするものです。
 新羅王の裔族ではなかったにせよ、『続日本紀』の天平五年六月の記事に、徳師なる武蔵国埼玉(さきたま)郡の新羅人ら男女五十三人が請願によって金姓とした記事もありますので、新羅系渡来人が金を名乗っていたケースは実際にあったことがわかります。
 一方で、陸奥金(こん)氏の菩提寺である長安寺――岩手県大船渡市――の傳においては、金(こん)一族は阿倍倉梯麻呂の裔とされているようです。
 また、『陸奥話記』には「度々合戦之場賊帥死者數十人所謂散位平孝忠金帥道安倍時任同貞行金依方等也皆是貞任宗任之一族驍勇驃悍(?)精兵也云々」とあります。つまり、源氏方に敗れて戦死した金帥道・金依方なる金姓の賊将が「貞任・宗任の一族」と報告されていたことが記されております。更に先の『姓氏家系大辞典』によれば、『安倍氏筆録』に「平形の城主金氏は、藤島殿の家老にて、先祖は安倍の一黨、金為時に出で〜」とあるようで、奥羽の金一族が陸奥安倍一族の同族であった可能性はかなり濃厚です。
 ここに「金為時(こんのためとき)」なる名前が出てきました。さまざまに伝わる金氏系図ですが、先の阿倍倉梯麻呂とこの金為時については一致をみているようです。穏当に考えるならば、宮城県、岩手県の今野姓は、さしあたりこの人物に辿りつくようです。

道鏡の血

 「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」・・・。
 奈良時代の宇佐八幡神託事件で有名な彼は、人臣の身ながら時の天皇――称徳女帝――のご指名により次代の天皇になりかけた、史上稀な傑物でした。それ故に後世の世論では、称徳女帝の寵愛をいいことに野心に取り憑かれた奸物のような評価をされ、また、その寵愛についてもワイドショーばりのスキャンダラスなものとして伝えられております。あたかも出世欲や性欲の権化のような扱いの彼は、枕詞に「悪僧」「怪僧」などを冠されて呼ばれることが多く、とにかくあまり評判のよろしくない人物なのです。
 しかし、冷静に正史を眺めてみる限り、彼の政治を私利私欲に走っていたものとは思えないことも事実です。『日本の歴史(ほるぷ出版)』で家永三郎さんが述べておりましたが、彼の政治には一般イメージとは裏腹に「悪僧による自分勝手な専制政治」という性質はなく、むしろ「地方豪族の中央政界へのさかんな進出」に道をひらいたものなのです。管見でも、称徳女帝の御代、陸奥国において他に類例がない「大国造」なる地位が創設されたこと、また、道嶋氏――丸子氏――がその役職に大抜擢されたことを思い起こすならば、あえて家永さんの言葉を待つまでもありません。なにしろ、道嶋氏は正史を見る限りではあくまで蝦夷なのです。道嶋氏は家畜同然の蝦夷でありながら牡鹿連あるいは牡鹿宿禰といった、すなわち連(むらじ)姓ばかりか宿禰(すくね)姓までをも賜っているのです。この背景があるからこそ、私は桃生城跡付近に「道鏡と称する碑」が残されていたことを重要視しているのです――大正十二年発行の『桃生郡誌』より――。
 繰り返しますが、称徳女帝の御代をのぞいて、以降道鏡は万世一系の天皇家を転覆させようとした“奸物扱い”であり続けました。にもかかわらず、こともあろうか大政奉還後より絶対的な統帥権への過渡期である大正の世にあって、陸奥国大国造――道嶋氏――のお膝元とも言える桃生城跡付近に、天下の奸物の名を刻んだ碑が存在していたという事実は、実は大変驚くべきことと私は考えております。
 想像にしか過ぎませんが、この「道鏡と称する碑」は、表立って名乗らずとも、おそらく現在も尚どこかで脈々と家伝を受け継いでいるであろう陸奥大国造の末裔が、称徳女帝や道鏡から受けた恩について末代まで語り継ごうとしていた証だったのではないのでしょうか。
 さて、弓削氏について太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』をひいてみると、「弓削部、及び其の伴造の裔なり」とのことで、その弓削部については――読んで字の如くではありますが――「職業部の一にして、弓を作るを職業とせし品部也」とありました。
 一方『天孫本紀――先代旧事本紀――』のニギハヤヒ――天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊――十三世孫「物部尾輿連公」の条に「弓削連祖倭古連女子阿佐姫。〜略〜各為妻」とあり、つまり、饒速日十三世孫の「物部尾輿」は弓削連の祖「倭古連」の女である「阿佐姫」――他一名――を妻にしている、とされております。そしてその子にあたる十四世孫「物部大市御狩連公」の弟として「物部守屋大連公。曰弓削大連」が記載されております。
 このことについて太田亮さんは、「即ち守屋が弓削大連と云ふは、母姓を冒せし也」としております。
 また、藤原仲麻呂は道鏡に関して「この禅師(道鏡)が昼夜朝廷を護り仕え申し上げる様子を見ていると、道鏡の先祖が大臣としてお仕え申し上げた地位と名を、受け継ごうと思っている野心のある人物である」――宇治谷孟さん全訳注『続日本紀(講談社)』より――と讒言的要素のある奏上をしておりますが、その奏上中「道鏡の先祖が大臣」とあることにたいして、太田さんは前述大辞典にて次のように述べております

――引用――
「先祖大臣」とあるは、守屋大連を指す事・明白なれば、物部流の弓削氏なりしや疑う餘地なければ、昔より天智天皇皇孫の説ありと雖、採り難し。

 そうなのです。あまり語られませんが、弓削道鏡は、実は蘇我馬子に敗れた物部守屋大連の裔であろうと考えられるのです。
 大野七三さんら一部の研究者は、ニギハヤヒを真の皇祖神であると考えているわけですが、もしニギハヤヒが『先代旧事本紀』が語るようにホアカリ――アマテル――と同体の「天照国照彦天火明櫛玉饒速日」としてその名に“天照”を冠する神であり、物部氏が本当にその神の裔族であったとするならば、称徳女帝の道鏡天皇計画のプロデュースは、単に万世一系の破壊にとどまらない、何か底の知れない因縁めいた革命であったと想像せざるを得ません。
 また、そうした場合、「物部(もののべ・もののふ)」を意味するとも言われる「桃生(ものう)」に「道鏡と称する碑」が残されていた事実にも、なにかさらに巨大で複雑に想像を膨らまさざるを得ない自分がおります。
 ところで、もし道鏡に守屋の無念を継承している感情があったとするならば、道鏡は仏に仕えることはなかったはずとも思われますが、逆に考えるならば、蘇我馬子と物部守屋の対決は必ずしも「仏」対「神」の構図ではなかったのではないか、ということにもなります。実は私はそのように考えているのです。
 谷川健一さんの『四天王寺の鷹(河出書房新社)』によれば、大阪府大阪市の「四天王寺」でいろいろなお仕事に就いている「公人」と呼ばれる人々は、物部守屋に仕えていた人々の末裔なのだといいます。守屋の敗死後、彼らの先祖は四天王寺の奴婢になったといい、今も尚その職(?)が受け継がれているということなのです。
 こう書くと彼らにとって悲劇的な辛き歴史の印象のみが残りますが、それは守屋が廃仏派として敗北し、その遺産ともいうべき彼らの先祖が奴隷のごとく反イデオロギーの仏教に奉仕させられた、と考えてしまうからなのでしょう。
 しかし、四天王寺が元々守屋の邸宅跡であり、更にそこに守屋の怨霊を慰めるべく守屋祠が鎮座していることを考えるならば、彼らは必ずしも悲運であったとは限らないのかもしれません。彼らは、偉大な主君に奉仕する誇り高き代表団として、選ばれて歴史の中を継承されてきたことには間違いないのです。
 弓削道鏡は、もしかしたらそのような人々の希望の光であったのかもしれません・・・。
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四天王寺金堂の鷹の止まり木。キツツキとなって攻めてくる物部守屋を、白鷹となって防いだ聖徳太子のためにあるのだそうです。

梅で宗任、桜で政宗

 奥州藤原氏の前身でもある俘囚長の一族「安倍氏」が、「前九年の役」で、自分達と同じ俘囚系の清原氏と、名門源氏の連合軍に敗れ去った後、囚われの身になった一族の雄「安倍宗任(あべむねとう)」は、京に連れ出されました。そのとき、京の公家らは、宗任を野蛮なエミシと蔑み、梅の花を見せて「これはなんの花か?」と馬鹿にして質問したといいます。そのとき宗任は一句詠んで返しました。

「わが国の 梅の花とは見つれども 大宮人はいかがいふらむ」

 なんという粋な反撃でしょう。
 つまり、
「それがしの国で言う梅の花に見えるが、京の人たちはこの花をなんと呼ぶのか」
と返したのです。
 宗任の知的水準の高さと、さらりと加えた皮肉には相当面食らったことでしょう。公家たちはたいそう驚いたといいます。
 時代が下って、独眼竜伊達政宗も似たようなことをされました。そのときは桜の花の名前を聞かれたといいます。このとき、政宗もやはり歌を詠んで返したといいます。

「都人 梅に懲りずに 桜かな」

 要するに
「都の人たちは、かつて宗任公に梅で恥をかかされたくせに、それに懲りもせず今度は桜で恥をかかされたいのか」
と言ったところでしょうか。
 ここには二重の反撃が含まれております。
 ひとつには桜の花を知っているのはあたりまえで、歌も詠めるという文化的なものに皮肉のエッセンスが加わっていること。つまり宗任と同種の反撃でしょう。
 もうひとつは「こちらは歴史を熟知しているが、そちらは甚だ過去の教訓が生かされていない」という嘲笑を含んだ、いわば追い討ち的な逆転劇です。
 これらの真偽の程はわかりませんが 東北人としては実に痛快な逸話です。
 いずれにせよ、例えば伊達氏は、系図を信頼するならばそもそもは藤原氏です。奥州に土着したのは、あくまで源頼朝軍として阿津賀志山で藤原国衡を敗走させた功によるもので、鎌倉時代以降の話なのです。それでもこの逸話からすれば――織豊時代であっても――桜も知らないだろう野蛮人扱いに過ぎなかったのです。
 「悟りを開く」。乱暴に言えば仏法の奥儀はそれのみです。私如きが語れる類のものでもありませんが、悟りを開くというのは、世の中に永遠なものなど何一つなく、そもそも全てが“無”であり“空”であることを知ることです。
 どんなに繁栄した国も人もやがては必ず滅びます。しかし人々はその幻と言っていい虚像に永遠なるものを期待して、その幻影が消えることへ不安や恐怖を覚えます。人々は、そもそも実体のないものに一喜一憂しており、それが無意味であること、ひいては自分自身ですら“無”であることを実感として知ることが悟りなのです。
 言うは易しですが、実際に究めることとは別問題です。ほぼ不可能であろうとも言われております。それをやってのけたからこそ、お釈迦様は、信仰者の数において世界最大級を誇る仏教を生み出す存在になったのでしょう。
 人間ゴーダマ・シッダールタ――釈迦牟尼(しゃかむに)――は、悟りを開いた後“仏”すなわち“如来”になったのでした。しかし、そのような概念は後世のものであり、ゴーダマ自身はあくまで哲学的に自らが悟ることのみを考えていただけなのです。とは言え、そのような聖人の存在はそれ自身が周囲の多くの人の精神を救済してしまったに違いありません。人間ゴーダマあらため“釈迦如来(しゃかにょらい)”には、多くの弟子が侍すようになりました。いずれその高弟たちは釈迦の教えを広めることになります。もちろん高弟たちも悟りを開かんと日々努力を重ねたに違いありません。いわゆる“菩薩(ぼさつ)”とはこのような高弟たちがモデルであったのでしょう。悟りを開いた「如来(にょらい)」に対し、あと一歩で悟りを開く状態まで到達したものの、まだわずかに俗世の人間である存在を「菩薩(ぼさつ)」と呼びます。
 例えば仏像を見る場合に、その仏像がなんという仏様なのかを見極めるために、脇侍――脇にある仏像――の容姿を見て判断するという方法があります。往々にして飾り気のない質素な如来に対し、まだ俗世の名残を残す菩薩には、身を飾るアクセサリーなど、ある程度の洒落っ気が表現されております。そういった装飾でもってその仏像の正体をおおまかには判断できるのです。
 参考までに、仏像が釈迦如来である場合、仏の左側には「文殊(もんじゅ)菩薩」、右側には「普賢(ふげん)菩薩」が脇侍として侍しております。文殊菩薩は「三人集まれば“文殊”の知恵」などと言われる様に知恵の象徴ともされる菩薩で、特徴としては“獅子(しし)”に乗っております。また、普賢菩薩は仏の理や修行の面を象徴する菩薩で、特徴としては“白い象”に乗っております。
 その他、「阿弥陀(あみだ)如来」の場合は「観世音(かんぜおん)菩薩」――観音様――と「勢至(せいし)菩薩」、「薬師(やくし)如来」の場合は「日光(にっこう)菩薩」「月光(がっこう)菩薩」という風に、組み合わせにはおおかたのルール(?)があります。
 それらの釈迦如来“以外”の如来という概念は、長い歴史の中では釈迦以外にも悟りを開いた如来がいたはずだ、という発想から生まれたものです。前述のとおり、仏法とは本来ゴーダマが自らの哲学のために悟りを開いたものを、弟子たち、あるいは連綿と続く後世の人間がいわゆる“宗教”化したものであって、特に聖書などで基本ルールが明確なユダヤ教やキリスト教、イスラム教などと比べ、“解釈の自由度が高い”という特徴があります。今となってはこれが仏法か?と思えるほどに釈迦のそれとはかけ離れているものもありますが、“悟り”という頂上を目指してさえいれば、途中いかなる手段・方法・経緯があろうとも、一応は仏法(仏教)ということができるのでしょう。
 あまり断定的に書くと、宗派によっては「それは違うよ」と言われかねないような危うさもあるのですが、そのあたりに触れておかなければ私が今後語ろうとする本文の展開が難しいと考えたので、少し踏み込ませてもらいました。だいぶ遠回りしたようにも見えますが、私がとりあえずここで触れておきたかったのは“弥勒(みろく)菩薩”のことなのです。
 弥勒菩薩とはどういう菩薩なのかといいますと、簡単に言えば“釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)――ゴーダマ――”に続いて仏になることが“約束された”菩薩のことです。弥勒菩薩は、釈尊(しゃくそん)入滅後――ゴーダマの死後――56億7千万年後に仏――如来――となってこの世に下生(げしょう)して、お釈迦様の救いから“洩れた”衆生をことごとく救ってくれる予定の、とてもありがたい菩薩なのです。
 釈尊入滅後、教団の統率者となった釈尊の弟子、「迦葉(かしょう)」――マハーカーシャパ――は、遠い未来にやがて下生する弥勒へ釈尊の“法衣”を渡すという使命を帯びておりました。
 その気が遠くなるような56億7千万年後の役割のために、迦葉があたかもミイラのごとく入定した山が、実は「鶏足山(けいそくせん)」なのです。以前も触れたとおり、私はその名前がニワタリのネーミング変遷に影響を及ぼしたのでは、と考えているのです。

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