はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

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 「熊本地震」被災地の皆さま、このたびは大変な苦痛と先の見えない心労の日々をおくられていることと思います。謹んでお見舞い申し上げます。
 震度7のニュースがラジオで耳に入って以降、数日はテレビ・ラジオ共にNHKばかり視聴しておりました。
 NHKは緊急地震速報をそのまま全国に流していたため、仙台に居ながらも緊迫感だけは現地に同期しておりました。もちろん、次の瞬間にはほぼ間違いなく新たなインパクトに襲われる該当地域の方の切迫したそれとは比較にならないわけですが、少なくとも宮城県に住むものとしては、いちいち5年前の東日本大震災のあの感覚に引き戻されていた感がありました。
 それにしても震度七・・・。
 これはほとんどの人たちが一生涯体験することなどないであろう危険な最強震度でありますが、そんなものに二日連続で見舞われた皆さまの精神状態は如何ばかりのものであったのでしょう。
 一日も早く日常に戻れますよう、お祈り申し上げます。

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 少し熊本について語りたくなりました。
 東北人の私が、遠き九州の「熊本」という地名を初めて知ったのはいつのことなのか・・・。
 生まれながらに地図好きであった私でありますから、かなり幼い頃から知っていたことは間違いありませんが、案外「肥後てまり唄」の 〽 あんたがた どこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ 〜 の歌詞から知ったのかもしれません。
 そんな私が、拙くも「都市地理学」に興味を持ち始めたのは40年ほど前になりますが、当時、日本の都市の人口ランキングをみていてひとつ気になっていたことがありました。
 「熊本」なる大都市の存在です。
 当時の日本の都市の人口上位20位は、おおよそそのまま人口50万人以上の都市でもあったわけですが、その中に熊本も含まれておりました。
 東京や大阪のような1000万人を超える巨大な都市圏域内であれば、母都市の市街地が広大に連続しておりますので仮に衛星都市であってもそのくらいの人口を抱え得るでしょうが、それ以外の地域であれば、たとえ県庁所在地であってもなかなか50万の壁は超えません。熊本市は熊本県の県庁所在地ではありますが、東京・大阪などの巨大都市圏はおろか、いわゆる太平洋ベルト地帯からも外れているわけであり、そこで50万もの人口を抱えているというのは実は異例なことと言って良いかもしれません。少なくとも、熊本が単なる県庁所在都市でないことはあきらかです。
 ちなみに、昭和五十(1975)年の国勢調査の内容を確認してみると、上位20都市は以下のとおりでありました。

1、東京、2、大阪、3、横浜、4、名古屋、5、京都、6、神戸、7、札幌、8、北九州、9、川崎、10、福岡
11、広島、12、堺、13、千葉、14、仙台、15、尼崎、16、東大阪、17、岡山、18、熊本、19、浜松、20、鹿児島

 この中で、札幌、仙台、鹿児島も巨大都市圏や太平洋ベルト地帯からは外れているわけですが、札幌と仙台は、福岡や広島と共に広域四大中心都市と呼ばれる都市でありますから特段不思議はありません。つまり、各々北海道地方や東北地方の政治・経済・文化の中心都市であり、例えば高等裁判所や管区気象台のような、各々の地方全域を統括するような国の出先機関や、大手企業の母店的機能の支社・支店が集中しておりますので、ある程度人口が多くなって当たり前なのです。
 それからすると、鹿児島はたしかに不思議であります。しいていえば鹿児島が維新立役者となった島津薩摩藩77万石の本拠であったことは大きいでしょう。
 実は、その薩摩への抑えとして重視されていたのが熊本でありました。
 現在の熊本は、関ケ原の戦いの後、その功によってこの地を与えられた加藤清正によって築かれたわけですが、幕府がここに名将加藤清正を置いたのは、最大に警戒しなければならない島津がその先にいたからに他なりません。
 このあたり、東北地方における会津に似ているかもしれません。
 豊臣秀吉による天下統一後の会津は、徳川家康と伊達政宗を分断する抑えとして蒲生氏郷や上杉景勝など名だたる武将が置かれていたわけですが、徳川政権下に至り、二代将軍秀忠の子保科正之がこの地に置かれました。当然、伊達への抑えの意味もあったことでしょう。保科正之は会津松平家の祖となったわけですが、以降会津若松は戊辰戦争で理不尽に蹂躙されるまで、奥州の要として君臨しておりました。
 それはともかく、直近の平成二十七年の国勢調査での人口は熊本が74万、鹿児島が60万ですが、雇用都市圏人口でみるならば熊本は100万を超え、70数万の鹿児島との差はだいぶ開きます。
 もちろんこの両都市は九州のみならず国内でも指折りの大都市と位置付けて良いと思うのですが、九州には、先に触れた福岡があり、更に四大工業地帯の一角を担う北九州工業地帯の母都市北九州もあったのです。それらの強力な引力に飲み込まれることもなく、特に熊本などは100万を超える雇用都市圏を維持しているわけですから、何か特別な理由がなくてはなりません。
 調べてみると、その理由を垣間見れるような情報がありました。
 現在NHK福岡局が担っている九州管内放送関係業務は、実は平成四(1992)年まで熊本局が担っていたのだそうです。旧陸軍の第六師団が置かれていたこともそうですが、実はかつての熊本には九州全域を管轄するような国の出先機関が集中していたのです。なるほど、現在の熊本大学は旧制第五高等学校でありました。熊本はわりと近年まで九州の広域中心都市的な立ち位置であったようです。
 熊本市民には、福岡に対する対抗心が強い方も少なくないようで、現在でも熊本こそが九州一の都市、と自負している方々もたくさんいらっしゃると聞きます。若い女性のファッションセンスに関しては、国内屈指の芸能人畑たる福岡よりもあか抜けていると耳にしました。
 あらためて九州の地図を眺めてみると、熊本は九州各地に最も均等に連絡できる場所だということに気づきます。
 外洋から奥まった内湾の島原湾は港に適しておりますし、外敵の侵入に対しても警護しやすく、何より海の幸に恵まれております。
 また、阿蘇の外輪山一帯に降り注いだ雨は、地下に浸透し20年もかけて平野部に達するのだそうですが、驚くことに、熊本の水道水はその地下水だけでまかなわれているのだそうです。

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 この地の利は、古代においてより魅力的であったはずで、おそらく阿蘇國造もそのあたりを利用して繁栄したのでしょう。
 思うに、もし九州が独立国で本州とも大陸とも交流しないでいられるなら、熊本ほど九州の首都にふさわしい場所はないのではないでしょうか。
 今回被災した阿蘇神社は、阿蘇國造の祖速瓶玉神―阿蘇津比古命―がその両親を祀ったことに始まるとされております。阿蘇國造の更なる祖は信濃國造の祖と同じ神八井耳命とされており、すなわちオホ氏の同祖系譜です。阿蘇神社へはいつの日か訪れてみたいと思っていただけに、今回の被災は実に残念に思っております。復旧が叶うことを、切に願っております。

瀬織津姫神研究の未来

 このほど、思うところがあり、実に久しぶりに「瀬織津姫」の文字列でインターネット検索をかけてみました。
 最後にこの文字列で検索をしたのは、いつであったでしょうか・・・。
 少なくとも、2008年12月に当ブログ『はてノ鹽竈』を開設する以前のはずですから、ゆうに7年はブランクがあると思います。
 その頃から、この神名は徐々にスピリチュアルな方向でのみ利用されることが多くなり始めておりました。
 それもあって、私の検索意欲も減退していたのです。
 とはいえ、私は必ずしもスピリチュアルを否定しているわけではありません。
 神をも畏れぬ鬼畜な事件が多いこのご時世、天罰を畏れ、神羅万象に感謝する、いわばスピリチュアルな感覚を人びとが各々持ち合わせることは重要とすら感じております。
 しかし、それはそれ、これはこれ、です。
 少なくとも、学術的な研究には理にかなった普遍性こそが必須であることは言うまでもありません。
 久しぶりの検索・・・。驚きました。
 瀬織津姫は○○であるやら、△△は瀬織津姫であるやら・・・、世界がどうこう、宇宙がどうこう、とにかく初めてみる説が乱発されておりました。そして、たいていその論拠が示されておりません。
 曲りなりにも、かつてはこの私も瀬織津姫神についてそこそこ調べました。
 目的が他にありましたので、特化するには至りませんでしたが、フィールドワークや文献調査などにもそれなりに時間や労力、費用をかけ、手前味噌ながら、この神については月並み以上に詳しい方だとは思います。
 その私の調査経験から申せば、瀬織津姫について記された資料はそう容易には見つかりません。
 なのに、それらの論者は一体どこからそのような結論を導き出したのでしょうか。
 どこにそんなことが書いてあったというのでしょうか。
 単にネット検索で得たエセ情報を疑うこともなく適当に解釈したりはしていないでしょうか。
 中学生の頃、数学で「仮定・結論・証明」を習いましたが、今回あらたに目にした瀬織津姫に関する諸説のほとんどは、「結論」のみが記され、「仮定」や「証明」の部分が欠如していると言わざるを得ません。
 中には、「姫に導かれたのさ」という回答もあるかもしれません。
 残念ながら、私に姫―瀬織津姫神―の声が聞こえない以上、それを「嘘に決まっている」、と完全否定することは出来ません。もしかしたら本当に神の啓示であるかもしれないからです。
 しかし、それが神の啓示である確率とそうでない確率とで比べた場合、私は、そうでない確率の方が圧倒的に高いと思います。
 妄想なのか、嘘なのか、もしそこに営利が絡んでいるならば“嘘”の可能性が高まります。

 ましてや、発言者が神名をゆるキャラよろしく商標登録していたとあらば・・・・。

 いずれ、予想はしておりましたが、もう七年前の比ではありません。
 もはや、瀬織津姫を学術的に研究しようとする動きを見つけることは至難な事になってしまったようです。
 このままでは近い将来「瀬織津姫」という神名がオカルトグッズに成り下がってしまうのではないか、という懸念すら覚えました。

 日本の歴史にとって大変重要な神名であるというのに、このままでは真摯な研究者が自説の品を貶めたくないがためにその神名を忌避しかねないのではなかろうか・・・、ここにきて私はそう危惧し始めているのです。

神名の商標登録

 「神名が商標登録されている」

 そんな情報が私の耳に届きました。思わず耳を疑いましたが、調べてみると、なるほどA社がZ神を登録していることが確認できました。
 神名とは極めて広く一般的な名称であるはずで、それを特定個人なり法人なりが独占していいものなのだろうか、という疑問を抱きましたが、現に特許庁によって申請が認められ、登録が完了しておりますので、法的になんら問題がないということなのでしょう。
 そもそも商標権の意義とはなんぞや、特許業務法人「三枝国際特許事務所」のHPは次のように語ります。

―引用:特許業務法人「三枝国際特許事務所」HPより―
商標権は、指定商品または指定役務について登録商標を独占的に使用でき、第三者の使用を排除することができる強力な権利です。

 また、商標法第1条の規定には、次のようにあります。

―引用:同HPより―
この法律は、商標を保護することにより、商標の使用をする者の業務上の信用の維持を図り、もって産業の発達に寄与し、あわせて需要者の利益を保護することを目的とする。

 どうやら、特段、素人の私の感覚的な認識との齟齬はなさそうですが、はたして、一般名称たるべき神名が特定個人の会社に登録される事が、「需要者の利益を保護すること」になるものなのでしょうか。
 逆に言えば、特定の会社に登録されているという事は、以後、その神名はその会社の営利の範囲内でしか国民の前に現れ得ないということでしょう。
 それは、需要者の利益を侵害することにはならないのでしょうか・・・。
 もし、第三者がこれらを侵害した場合、どうなるのか。

―引用:同HP―
商標権の侵害を発見したら、以下の措置を1つ、または複数とることが可能です。
(1)差止請求
商標権が侵害または侵害されるおそれがある場合に、侵害の停止、予防を請求することができます。それに際して侵害行為を組成した物やそれに供した設備の廃棄や除却を請求することもできます。侵害者に故意または過失があることは要件とされません。
(2)損害賠償請求
故意または過失による侵害で生じた損害の賠償を請求することができます。他人の商標権または専用使用権を侵害した者は、過失があったものと推定されます。
(3)不当利得返還請求
侵害行為により商標権者の財産から利益を受けた者に対して、商標権者が被った損失を不当利得として返還請求することも可能です。
(4)信用回復措置請求
侵害により害された業務上の信用の回復に必要な措置(新聞等の謝罪広告、テレビにおける謝罪放送等)を命ずるよう裁判所に請求することができます。
(5)刑事上の救済
故意による侵害については、刑事告訴により刑事上の責任を問うこともできます。

 当然ながら、これは気を付けなければなりません。
 しかし、古来日本に伝わってきた神名が商標登録されているなど、一体誰が想像し得るでしょうか・・・。
 古来Z神を祀ってきた神社の御神符やお守りの類も抵触してしまうのでしょうか・・・。
 頒布とは言え、現実的には価額が提示され金銭の授受が発生していることには変わりありません。もちろん、それは神社を維持する上で必要なものです。
 一応、制約の及ぶ範囲も定められているようで、A社のZ神商標権行使の及ぶ範囲は、以下のとおりでありました。

―引用:独立行政法人工業所有権・研修館HP『特許情報プラットフォーム』より―
【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 【類似群コード】
35
織物及び寝具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,被服の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,履物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,かばん類及び袋物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,身の回り品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,飲食料品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,加工食料品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,自動車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,二輪自動車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,自転車の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,家具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,建具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,畳類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,葬祭用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,電気機械器具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,手動利器・手動工具及び金具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,台所用品・清掃用具及び洗濯用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,薬剤及び医療補助品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,化粧品・歯磨き及びせっけん類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,農耕用品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,花及び木の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,燃料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,印刷物の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,紙類及び文房具類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,運動具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,おもちゃ・人形及び娯楽用具の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,楽器及びレコードの小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,写真機械器具及び写真材料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,時計及び眼鏡の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,建築材料の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,宝玉及びその模造品の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,香料類の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,ろうそくの小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,金属製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,貴金属の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,宝玉の原石の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,書画の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,写真及び写真立ての小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,石製彫刻・コンクリート製彫刻・大理石製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,額縁の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,石こう製彫刻・プラスチック製彫刻・木製彫刻の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,花瓶・水盤・風鈴の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供,造花(「造花の花輪」を除く。)の小売又は卸売の業務において行われる顧客に対する便益の提供

 なにやら、かなりの広範囲にわたるようです。神社が頒布する御神符の類が該当するのかどうかはわかりません。
 もしかしたら、これまで私が知らなかっただけで、他にもそういった例があるのかもしれない、そう思い、比較的認知度の高いと思われる神名を数例調べてみました。
 すると、実際にありました。
 各々の類似群コードは以下のとおりです。。

B社 Y神
 地下水汲み上げ式浄水装置の貸与,浄水装置の貸与,浄水処理,家庭用浄水器の貸与

C氏 X神の文字列を含むブランド
 飲食物の提供

D社 X神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

E社 W神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

F社 V神
 日本酒,洋酒,果実酒,中国酒,薬味酒

G氏 V神
 甘酒

 たしかに例はありましたが、A社のZ神のそれと比べて制約範囲の次元が違うのは一目瞭然です。
 これらは、おそらく苦心の末に完成させたオリジナリティに満ちた主たる商品があって、その自慢の商品の“疑い物(まがいもの)”を防ぐために、商品名としての神名を商標登録しているのでしょう。したがって、あくまでその商品との混乱が予想される物品に対して限定的な制約をかけているのです。
 しかし、A社が商標登録しているのは、どうやら“神名そのもの”です。
 アニメキャラやゆるキャラのように、創作されたオリジナル商品であれば理解できますが、A社は神名をそれらと同列に商標出願し、特許庁はそれを受け入れ、登録を認めたということです。

 特許庁は、はたしてそれを神名と認識していたのでしょうか・・・。

 神社庁はこの現実を把握しているのでしょうか・・・。

流れ八幡と泥八幡

 利府町―宮城県宮城郡―町加瀬地区の八幡神社が「流れ八幡」と呼ばれていたのに対し、多賀城八幡沖遺跡の八幡神社は、土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたといいます。
 『利府町誌』はこれについても津波と結びつけて考察しておりましたが、『多賀城市史』はこれを雨に結び付けております。すなわち、例祭である七月十四日に雨になることが多いのでこの名があるのだというのです。
 同市史は、砂押川の上流にあたる南宮(なんぐう)―多賀城市―の八幡社が「浮八幡」と呼ばれていることも併せて触れております。出水のたびに社地が水浸しになることからそう呼ばれていたというのです。
 このあたり、「末の松山」に比肩する当地の歌枕「浮島(うきしま)」にも通ずるものがありそうですが、それはともかく、「泥八幡」の名の由来について、私は『利府町誌』が説くところの津波由来を支持します。
 たしかに、現在でも八幡地区から七北田川下流域の一帯が大雨で冠水しやすいことは事実ですが、例祭のたびに御神体が泥にまみれるというのは現実的ではありません。それでは社人がその対策を怠っていたと言っているようなものであり、一歩間違えば彼らの信心に対する冒涜になりかねません。
 仮に、御神体ではなく、祭りに参加する者たちが泥にまみれるのだ、ということだとしても、神様を“泥”呼ばわりする理屈にはなり得ないでしょう。
 ここはやはり、実際に御神体が泥にまみれる忌々しき絵が人々の記憶に鮮烈に焼き付いたからこそ、その名で呼ばれることになったのではないでしょうか。
 それはすなわち、大津波で鎮守の神様が流されてしまった際の記憶でしょう。

 いずれ、多賀城の八幡神社周辺が大雨で冠水しやすいことは間違いなく、八幡沖遺跡が仮に陸奥國府の痕跡であったのだとすれば、津波に呑まれずとも比較的日常的に水害に見舞われるような地にそれが置かれたということになります。何故そのような場所に國府を置かなければならなかったのでしょうか。
 ここで言う「陸奥國府」を、13世紀頃のいわゆる「多賀國府」と同義に捉えていいものかどうかはわかりませんが、少なくとも多賀國府の候補地としては多賀城市内の新田(にいだ)や高橋から、仙台市宮城野区の岩切にかけてのエリアが有力とされておりました。
 政庁そのものを確定させるような遺跡は見つかっておりませんが、岩切の七北田(ななきた)川―冠(かむり)川―の左右両岸には「河原町五日市市場」があったとされており、そのやや下流の多賀城市新田南安楽寺付近には「冠屋市場」があったとされており、宿に生活し交易に従事する人たちが往来していたと考えられております。
 『仙台市史』はこの二つの市場に挟まれたあたりに多賀國府が存在していたと推察しており、いみじくも河原町五日市場があったとされる岩切の「鴻巣(こうのす)」は「国府津(こうづ)」が転じたものとする解釈もあります。
 はたして今回の八幡沖遺跡の出土がそれらの可能性を覆すだけの痕跡たり得るのか、今後の研究に注目したいところではあります。

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利府町加瀬「八幡神社―流れ八幡―」
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 現地説明会などで詳しい解説を聞いていないので的を外しているかもしれませんが、大量に捨てられていたという儀式や宴会用に使う素焼きの土器は、もしかしたらその土地のなんらかを鎮める継続的な鎮魂なり神事に使われたものではないのでしょうか。

 八幡神社は、13世紀にその地に置かれたとのことでした。由緒等によれば、それ以前には末の松山に鎮座していたということでありました。
 ここでふと、気になる点があります。
 先に触れたとおり、末の松山は大津波から逃れた地であったと考えられるわけですが、その地に鎮座していた八幡神社の御神体がはたして津波に流されたものでしょうか。
 ましてや、より頻度の高い雨ごときで流出するものでしょうか。
 つまり、伝説の元となった頃の八幡神社は、末の松山に鎮座していたわけではなかったのでしょう。

 穏当に考えれば、13世紀以降、現在地に遷された後にそれらの伝説が生まれたとみるべきかもしれません。17世紀には慶長の大津波もありました。
 しかし私は、いみじくも八幡沖遺跡が存在する事実によって末の松山よりも先に現在地に鎮座していたものと想像しております。
 当地に鎮座していた八幡神社、あるいはその前身たるなんらかの鎮守は、9世紀の貞観の大津波に呑まれてしまい、むしろ再建の際に津波を逃れた末の松山に遷されたのではないのでしょうか。
 その後この地を支配する権力者なり國府関係者が、本来そこにあるべき鎮守の跡地を代々鎮め続けていたものと想像します。
 それこそが、今回出土した遺跡の本質なのではないでしょうか。つまり、その遺跡は國府が所在した故の儀式の跡ではなく、その土地神そのものへの切実な鎮めの儀式が行われた跡ではなかったのでしょうか。

 一神社の元位置にそこまでするだろうか、という疑問も生まれるかもしれませんが、その鎮守の神が祟りを為しかねない、あるいは実際に祟りを為したと判断されたならば、十分あり得るでしょう。
 おそらく13世紀に八幡神社を末の松山から現在地に遷した「平右馬介―留守伊澤氏の家人八幡介―」はなんらかの事情を知っていたのではないでしょうか。
 そうでなければ、せっかく安全な地に鎮座している所領の鎮守を、わざわざ浸水し得る地に遷すはずがありません。
 右馬介には、この神を然るべき場所―現在の鎮座地―に遷さなければならない、という強迫観念のようなものがあったのではないでしょうか。

 出土した土器の推定年代の11世紀後半、陸奥に何があったか、と思い起こすならば、前九年の役や後三年の役が終わり、奥羽の実質の支配者であった安倍氏や清原氏が滅んだ時期です。
 すなわち、堀河天皇が鹽竈神社の鹽竈桜について「〜櫻の本に海人のかくれや」と御製の歌を詠まれた頃です。
 もしかしたら、八幡沖遺跡の地は安倍氏か清原氏の内の有力な人物の神あがりの地なのかもしれませんし、あるいは、流れ八幡の祭神が「大鞆別(おおともわけ)命」であることから推して、大伴姓の人物のそれかもしれません。※注1
 大伴姓と言っても、道嶋氏を輩出した丸子一族の中に大伴姓を名乗ることを許された人物も少なからず存在しますので、その内の誰かと考えておくのが無難かとは思いますが、陸奥に赴任した国司の中にも、朝廷側に祟る可能性を秘めた大伴姓の大人物がいなかったわけではありません。
 例えば、「伊治公砦麻呂(いじのきみのあざまろ)」の反乱の際、何故か蝦夷側に多賀城まで護送されて生き延びたものの以降史書から消滅した陸奥介「大伴真綱」、あるいは、その後の混乱を鎮めるため陸奥按察使持節征東将軍に任命された「大伴家持」あたりが浮かびます。
 特に家持は陸奥赴任中に他界したとも言われ、しかもその後冤罪で埋葬を許されなかったという顛末が伝えられております。

 もちろん、真実はわかりませんが・・・。

※注1:平成28年3月2日補足
 『古事記』に目を通しておりましたら、大鞆別命とは、品陀和気(ほむだわけ)命ー紀では誉田別尊ー、すなわち、応神天皇ーいわゆる八幡神ーのことであるようです。恥ずかしながら、初めて知りました。自戒の念もこめて、記事はそのままにしておきます。
 先日、平成27(2015)年4月17日付の河北新報朝刊に次のような記事が掲載されておりました。

―引用―
陸奥国府の可能性も 多賀城・八幡沖遺跡
 多賀城市教委は16日、同市宮内の八幡沖遺跡第9次調査の結果を発表した。儀式や宴会用に使う素焼きの土器が大量に捨てられた11世紀後半のものとみられる穴を新たに確認。多賀城政庁が使われなかった時期に当たり、多賀城以後の陸奥国府かその機能の一部があった可能性がある。
 土器はおわんや小皿など60〜70点。多くが完全な形で復元できるという。周辺に儀式などを行う場所があったと推測され、儀式や宴会で使用後、清浄さを保つため、まとめて捨てたとみられる。
 八幡沖遺跡は八幡神社を含む南北約370メートル、東西約200メートルの区域。神社の西側約1200平方メートルを調査し、穴は調査区域の南側で見つかった。
 八幡神社は13世紀に今の場所に置かれたとされる。これまでの調査で10〜12世紀の土器などが多数出土していた。市埋蔵文化財調査センターの村松稔研究員は「周囲に一般の人が住んだ形跡はなく、不明だった陸奧国府、または国府の機能の一部が置かれていた可能性がある」と話した。
 現地説明会は18日午前10時半。連絡先は多賀城市埋蔵文化財調査センター022(368)0134。

 大変興味のある出土であり考察であり、出来れば現地での説明を拝聴したかったのですが、残念ながら参加できませんでした。
 記事によれば、この地に不明だった陸奥國府、または國府の機能の一部が置かれていた可能性があるとのこと――。
 しかし、そこは東日本大震災の大津波に呑まれた場所です。おそらくは9世紀の貞観大津波の際にも呑まれたことでしょう。時の中央政権は何故そのような場所に國府、あるいは國府機能の一部を設置したのでしょうか。大津波のことを知らなかったのでしょうか。
 いえ、知らなかったとは考えにくいものがあります。
 出土品の推定年代は11世紀後半のものということですが、その約200年前の大津波で多賀城が壊滅した旨は、『三代実録』なる国家の公式な史書にも記されております。
 さらに、「猩々(しょうじょう)―伝説上の生物―」の託宣を得て「末の松山」に逃れた者だけが津波の難を逃れた旨の伝説が、現在に至るまで語り継がれていることもまた事実です。
 また、当該地区の「末の松山」が『古今和歌集』などで「浪が越えない」代名詞の歌枕として用いられるようになった由来が、私の想像どおり大津波から逃れた土民の体験談に起因していたとするならば、恐ろしい津波の情報は当時においてまだ生々しく記憶に残っていたものと考えて差し支えないでしょう。※2010年10月9日付拙記事参照
 まだ現代人のような文明へのおごりがなかった時代、多賀の國府機能を再現しようとする為政者が、ほんの200年前にその府中を壊滅せしめた災害の情報に無知であったとは思えません。
 ここで私が注目するのは、当該遺跡の約200年後、13世紀に今の場所に置かれたとされる八幡神社です。
 まずは、この八幡神社の由緒を確認しておきます。

―引用:『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―
本社は宝永四年火災に罹り社殿並びに社蔵の古記録を失ったので由緒を詳にし得ないが、元正天皇の養老五年諸国に国分寺を建立せられし頃、別当寺磐若寺と共に末松山に勧請したといわれる。又往古豊前国宇佐郡から奉遷した奥羽の古社で、延暦年中坂上田村麿東夷征伐の時数多の軍兵を率いて此地に逗留し建立したともいい、又本社は元松島に在り、類聚国史載する所の宮城郡松島八幡是也。田村将軍多賀城に在る日、之を末の松山に移し建て、以て祭祀に便すともいわれる。里俗末松山八幡宮、興の井八幡等と称した。社傍に田村麿軍兵を屯集せし所と伝える地を方八丁といい、頼義父子賊魁を征するや田村麿の例を以て兵を方八丁に置き此の社を祈って軍功あり、建保年中将軍頼朝其の地を平右馬介(留守伊澤氏の家人八幡介)に与う。右馬介城を末松山に築くにあたり社を今の地に遷した。当時祠田二千石子院二十四、祠官三十人といわれる。伊澤氏領土を除かれ社は遂に荒廃したが、羽州天童城主甲斐守頼澄伊達政宗の臣となり、慶長年中八幡の地に封ぜられるに及んで、伊達家の尊崇極めて篤く、貞享元年六月藩主綱村再造し祠殿を旧に復した。宝永四年の火災に罹った。藩主吉村の社参のことあり今に奉納の短冊並びに鉄砲玉を蔵している。
祠側に騎馬場あり、伝えて千熊の騎馬をしたところという。千熊は田村将軍の子である。現今の馬場は元例祭の折、流鏑馬をしたところであったが今は行わない。郷社に列せられた年月は明でない。明治四十三年三月供進社に指定、後に二社を合祀している。

 この神社名鑑には、おそらく各神社から提出されただろう由緒が掲載されているのですが、時に、神社庁としての所見などが補記されていることがあります。この八幡神社については次のような補記があります。

―引用:前述同書―
膽澤の鎮守府八幡も延暦年中の創祀とする。豊前の宇佐の神を八幡大神と称し僧行教が始めて山城の男山に遷したのは、貞観(八五九)元年であるから田村麿が此の神を勧請すべき理はない。武家の守護神として崇敬し、諸国に移祀したのは頼義親子に始まることである。しかして彼が東国に於ける勢力の標章というべき鎌倉の鶴岡八幡宮は、康平六年(一一一八)に創祀されているのである。尚、方八丁は膽澤城趾にもあり、其の他奥州の処々にある。蓋し上古の城柵であろう。まことに信憑性に乏しい由緒であるが、観迹聞老志、安永風土記書上、封内風土記などの地誌によって書き綴った。

 なるほど、この所見はしごくまっとうであると思います。
 一般に坂上田村麻呂が戦勝祈願したとされるのは十一面観音であり、八幡神ではありません。八幡神を武家の守護神として崇敬し始めたのは源頼義、八幡太郎義家の親子であり、しかもそれを東国においてブランド化したのは鎌倉に鶴岡八幡宮が創始されて以降のことであります。
 ということは、この社はそれ以降に勧請された社であるか、あるいは武神として祀られたものではなかったか、あるいは、勧請の当初においては八幡神を祀る社ではなかった可能性も疑われます。
 穏当に考えるならば、やはり12世紀以降に勧請されたものということになるのでしょうが、猩々の伝説からこの地区に秦氏が居住していたとも想像している私としては、簡単には割り切れません。
 また、八幡地区を流れる砂押川なり勿来(なこそ)川の上流域にあたるお隣り利府町の民間伝承によれば、大津波で流されてきたこの社の御神体を拾い上げて祀ったとされる利府町町加瀬の八幡神社が、俗に「流れ八幡」などと呼ばれ、祭神が通常の八幡神と異なり「大鞆別(おおともわけ)命」と表記されていることも気になります。
 引き続き、考えていきたいと思います。

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震災前平成二十二年の八幡神社

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震災後平成二十七年の八幡神社
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