はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

時事―ニュース所感――

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 先ほど、ゆら〜っといやな感じの地震がありましたが、青森県では震度5強であったとのこと。
 今朝ほどは岩手県の三陸沿岸で20センチほどの津波が観測されたとのことですが、気味の悪さを感じております。
 沿岸部の方はさぞや不安を抱かれていることでしょう。

 先日、東日本大震災の震源域における地震エネルギー(?)が、震災前並みのレベルに戻っている云々のニュースを目にしたばかりだけに、心配です。

 もちろん、西日本の方々も今や他人事ではいられないことでしょう。先日徳島で強い地震があったばかりです。

 いえ、絶対安全な場所など、どこにもありません。自然の力に人知が及ばない、ということを、私たちはあの震災、そしてその後も全国まんべんなく暴風雨や暴風雪、洪水、土砂災害、火山噴火、竜巻などに悩まされ、さんざん思い知らされ続けております。
 不安をあおるつもりはありませんが、今や誰しもが知る陸奥の貞観大津波の前後に本当によく似ております。
 ざっと年表を眺めるだけでも、その地震の前後に、九州の暴風雨、京都の洪水、富士山噴火、鳥海山噴火、などが確認できます。

 地震で言えば、多賀城を壊滅させた貞観十一(869)年の大地震の9年後、元慶二(878)年に関東で大地震が起きております。
 『日本三代実録』によれば、相模・武蔵がもっともひどかったようです。

 ちなみに、その三日前には紀伊で家屋が倒壊するようなものすごい暴風雨があったようです。

 関東の大地震から更に9年後の仁和三(887)年、畿内にも大地震が発生し、このときは津波があったとされております。
 もしかしたら、今もっとも懸念されている東南海地震でしょうか。

 もうすぐ東日本大震災から丸四年、あらためて気を引き締めていきたいところです。
 
 
 ヤフーニュースが掲載した関口威人さん執筆の前述記事は、「八木」地名に関して次のような見解をとりあげております。
 まず、『地名用語語源辞典(東京堂出版)』は、「八木」が「山間の狭い小谷」を指すとしているそうです。
 そして、地理空間情報アナリストの遠藤宏之さんは、著書『地名は災害を警告する(技術評論社)』の中で、「ヤギ」は「転石地を示す崩落地名」を指すとしているそうです。
 記事はその流れで、東日本大震災時に仙台市郊外の「八木山」という住宅地で地滑り被害があったと指摘されている件についても触れております。
 しかし恐縮ながら、仙台市郊外の八木山の件については一言異議を申しあげておかなければなりません。
 何故なら、その「八木山」は当地を開発した「八木久兵衛―五代目―」の名に因んだ地名であるからです。
 いや、もし古くからそこに八木家があったのだとすれば、八木家自体が当地の「八木」地名を苗字にしたのかもしれないではないか、という指摘があるかもしれません。
 しかし、それは考えにくいものがあります。八木家初代久兵衛―同家の当主は久兵衛を襲名する―は、寛延二年に京都の八木村に生まれ、明和六年に仙台に移ったとされているからです―『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』より―。八木家の苗字は、京都において発祥したもののようですから、八木山は八木家によってもたらされた比較的新しい地名であるということになります。当地のかつての地名は「越路(こえじ)山」であるのです。
 また、震災で地滑りがひどかったのは、八木山地区というよりはむしろ周辺の緑ヶ丘地区という印象があり、うろ覚えですが当地の地質は珪藻土と聞いたこともあります。たしか八木山の地質とは異なっていたと記憶しております。
 それはともかく、「ヤギ」が「山間の狭い小谷」や「転石地を示す崩落地名」とみられていることには惹きつけられます。これらの論者は、おそらく多くの事例における因果をつぶさに調べた結果としてこのような結論に至っているのでしょうから、当然に重視すべきでしょう。
 度々申し上げているとおり、私は、「八木」や「柳」などで表記される「ヤギ」地名の多くは、本来「龍(りゅう)」あるいは「瀧(たき)」を冠する氏族が、なんらかの事情でそのままの表記を憚り、「リュウ」と同訓の「柳」などの表記へ変更してきたものである可能性もあると推定しております。
 つまり彼らは本来「龍」や「瀧」への崇敬心が厚い氏族であり、「ヤギ」地名はその縁故地に因んでいるものと推定しているのです。
 とすれば、彼らは瀧や渓流など、河川周辺に居住する可能性も高いはずです。
 その事情がもたらす結果として、ヤギ地名の多くが「山間の狭い小谷」や「転石地」、「崩落地」周辺に集中してみられるのではないのでしょうか。
 記事によれば、「上落地」地名の古い表記が「蛇落地」であったという伝説もあるようです。現存する文献・史料・地図等にはそのような記載は見当たらないようですが、私は口伝であれそう伝えられていたことが事実なのであれば、それを重視します。おそらく蛇に例えられた落人がその地にいたのでしょう。ひょっとしたら、それは出雲系の人たちなのではないでしょうか。
 出雲人は龍蛇族であると自覚しているようですから、蛇は龍に通じますし、そこに「龍」に関連するだろう「八木」地名が存在していること自体が、私論に基づく見解ながら大きな傍証になっていると思います。
 「悪谷」という伝説地名も、蛇に例えられた人たちに関連していることでしょう。
 討たれた先住権力者が「悪」や「鬼」と表現されている例は、我らが蝦夷地では珍しくありません。
 また、「猿田彦神社」が崩落地に多いという法則(?)はこの記事で初めて知りましたが、我が宮城県周辺で「猿田彦」が少なからず「岐神(ふなどがみ)」と同一視されている事例をあてはめてみるならば、やはりここにも先住民族としての出雲の姿が垣間見えているように思えてまいります。
 考えてみれば、広島は北に一山越えれば出雲の国であるのでした。
 このところ連日報道されている広島の土砂災害――。
 またしても私たちを震撼せしめる悲劇となっていまいました。
 なんの心の準備もなく、一夜にして明日以降の人生を奪われてしまった方々はさぞご無念なことでしょう・・・。ご冥福をお祈り致します。
 また、ご家族やお住まいを奪われて、未だ今後の道筋を見失ったまま途方に暮れていらっしゃるであろう被災者の皆様が、一日も早く平穏な日常を取り戻せますよう、陰ながらお祈り致します。
 東日本大震災以降、毎年のように記録的な自然災害が列島を襲っているわけですが、かつて多賀城を壊滅させた貞観年間の大津波の前後にも、列島各地で台風や大雨洪水、火山の噴火などが相次いでいたようです。それは諸々の史料で確認できます。少なくとも現代科学の観点からは、それらの各々に因果関係などみられないと言うべきなのでしょうが、ここ数年の状態と妙によく似ていて薄気味悪いという皮膚感覚はぬぐえません。
 そのような中、ここにきて古い地名からの教訓を見直す動きが活発化してきているように思います。昔からの地名が現代人の都合で安直に変えられてしまうたびに眉をひそめていた私としては、さしあたり歓迎すべき風潮と捉えております。
 ひそかに広島の災害の報道で頻繁に耳にする「八木(やぎ)」という地名が気になっておりました。私論上、八木は「龍(りゅう)」あるいは「瀧(りゅう)」が「柳(りゅう)」と当て字され、「柳(やなぎ:やぎ)」が「八木(やぎ)」と当て字されたものである可能性が高いと考えているからです。
 実は、広島は少なからず我が仙台と似ている部分があるということもあって、そもそも私にとってはいろいろな意味で興味を刺激される都市なのです。
 25年前、都市地理学的な興味から広島を訪れたことがありました。
 当時の私は、都市を訪れた際、出来るだけ市街地全体を眺められる場所なり高層ビルに登ってみることを自らに課していたのですが、広島においては「比治山」を選択しました。
 そうです。
 「伊治(いじ)」の言霊と「比治(ひじ)」の言霊は同義であろうと仮説を立てて考えている今の私には、ここにきてあらためてその「比治山」の存在が気になり始めているのです。
 広島近郊の「宮島」は言うまでもなく「日本三景」のひとつでありますが、残りのふたつは、「天橋立」と我らが「松島」であります。
 天橋立附近には「比治の眞名井」があったとされておりますが、松島の近くには「石巻」があります。石巻の地名由来は、おそらく「伊治(比治)の馬柵」であり、ひょっとすると日本三景は「比治」つながりの霊地とみなされていたのではないか、と邪推してしまうところなのです。
 ましてや、『先代旧事本紀』の『國造本紀』において、現在の福島から宮城にかけての國造が、おしなべて現在の広島にあたる「阿芸國」の國造と同祖系譜であるとされているだけに、ますます広島への興味に拍車がかかります。
 しかし、残念ながら今のところ、私には広島を現地調査する余裕がありません。
 もちろん、あきらめるつもりなどさらさらなく、したがって、そのあたりは後の楽しみにとってあるところなのですが、このほど、被災した広島市内八木地区の地名に関わるコラムがヤフーニュースに取り上げられておりました。せめてその所感を語っておきたいと思います。
 まず、記事は以下のとおりです。

―引用:『ヤフーニュース《THE PAGE 9月4日(木)15時3分配信(関口威人さん/ジャーナリスト)》より』―
【広島災害の教訓―変わる地名、消える危険サイン】
広島の土砂災害で最も大きな被害に見舞われた安佐(あさ)南区八木地区が、崖崩れの多発地帯を表す「蛇」や「悪」のつく地名だったと言われています。日本の地名の多くは過去の災害を伝え、後世に警鐘を鳴らすサインですが、時代とともに消えつつあることも事実です。現代の私たちは先人のメッセージをどう受け止めるべきでしょうか。
■「蛇落地(じゃらくち)」が「上楽地」に?
八木地区がかつて「八木蛇落地悪谷(やぎじゃらくじあしだに)」と呼ばれていたことは、災害発生から約1週間後の8月26日、フジテレビの情報番組「とくダネ!」が伝えて反響を呼びました。
番組で住職が証言していた地元の浄楽寺に確認すると、13年前に亡くなった前住職の桐原慈孝さんが、山にすんでいた大蛇の首を戦国時代の八木城主が刀で切り落として退治したという「蛇落地伝説」を語り継ぎ、1976(昭和51)年に八木小学校の創立100周年記念誌に書き残したそうです。地元にはこの伝説を基にしたとみられる「蛇王池(じゃおういけ)の碑」が建てられています。また、昭和40年代までは「上楽地」という地名が古地図にも残っていて、「蛇落地」が転じたと考えられるというのです。
「前住職はこの土地の開発の歴史を伝えようとしていました。ただ、今回のような大きな災害と結びつけていたわけではないようです。『悪谷』という地名までは書かれていません」と現住職の妻の桐原伊織さん。
広島市郷土資料館に問い合わせると、「蛇落地」や「悪谷」を記す文献などはないと言われました。番組放送後、多くの問い合わせを受けたという安佐南区役所地域起こし推進課も、広島市に合併する前の佐東町史などを調べましたが、そうした記載は見つからないとのこと。「役所としては把握できていません。今回の被災地は、もともと川のはん濫による水害が多かった地域。伝説としてはあるのかもしれませんが…」と言葉を濁します。
テレビに出た住民の一人は「悪谷」が「芦谷(あしや)」に変わったと証言していますが、こちらは戦前の古地図にも見つけられません。しかし、「八木」だけでも「山間の狭い小谷」(東京堂出版『地名用語語源辞典』)を指し、地理空間情報アナリストの遠藤宏之さんが著した『地名は災害を警告する』(技術評論社)では「『ヤギ』が転石地を示す崩落地名」で、東日本大震災時も仙台市郊外の「八木山」という住宅地で地滑り被害があったと指摘されています。
広島の八木地区で現在、最大の避難所となっている梅林小学校は「ばいりん」と呼ばれていますが、「梅」は土砂崩れなどで埋まった「埋め」が語源であることが多いとか。また、八木地区と並んで被害の大きかった安佐南区緑井地区の古地図には「岩谷」の地名が、安佐北区可部地区には崩落地に多い「猿田彦神社」が見当たります。やはり地名は丹念に読み取ることで「警告」を浮かび上がらせることができそうです。
■負のイメージも包み隠さず
名古屋大学減災連携研究センター長の福和伸夫教授らの研究グループは、鉄道の駅名やバス停の名前と地盤との関係を調べてきました。近年、市町村合併による地名変更や、「希望が丘」など不動産価値を高めるためのイメージチェンジが各地で進んでいますが、駅名などは比較的変わることがなく、特にバス停名は公式の地名でなくとも、地元住民になじんだ通称が使われることが多いそうです。
東京、名古屋、大阪の三大都市圏にある3000以上のバス停名を分類した2009年の研究では、固く締まり、水はけのよい良好地盤のバス停には「山」や「台」「曽根」などが、地震時に揺れやすく、液状化の恐れもある軟弱地盤には「川」や「江」「橋」「深」などの漢字が使われている傾向が分かりました。これらを地図に落とし込んでみると、標高や過去の地震による震度などと地名が見事に対応するそうです。
また、鉄道路線はもともと住宅の密集地を避け、町の外れに沿ってレールが敷かれてきました。そのため、大都市の主要な駅は軟弱地盤の上にあることが「八重洲」や「梅田」などの地名に表れています。「そうした“ずぶずぶ地盤”であるという先人の教えを無視して、地面をアスファルトで覆い、高層ビルを林立させている現代の都市づくりは非常に危うい」と福和教授は危惧します。
一方、福和教授が気に入っているのは千葉県の「津田沼」。明治期に5村が合併したとき、中核となった谷津、久々田、鷺沼の3村の地名から一字ずつ取ったそうで、「災害危険度の高い漢字だけを組み合わせた点に先人の知恵を感じる。西東京市などといった不可思議な地名を好む現代人とは感性が異なっていたのでは」。
同様に、福島県の浪江町も「危険度の高い」地名をあえて残しています。実際に震災で津波の直撃を受け、さらに原発事故という困難に直面しましたが、「なみえ」というやわらかい響きを生かしたまちづくりに健闘していると言えるでしょう。こうした負のイメージを包み隠さないことをむしろ評価する価値観の転換が今、私たちに求められているのかもしれません。
なお、福和教授らの研究は地盤に注目しているため、前述の土砂災害を警告する「山」や「岩」はむしろ良好な地名に分類されます。さまざまな情報を重ね合わせて判断する「読解力」も必要だと言えそうです。

 引き続き、後編にて所感を語りたいと思います。

日本最古の木造教会

 宮城県石巻市の「旧石巻ハリストス正教会」は、木造教会としては日本最古なのだそうです。
 なにしろ北上川の中州にあるため、東日本大震災の大津波に見舞われてしまいました。
 何日か前に、解体が始まったというニュースを耳にしましたが、あくまで保存の方向のようなので、安堵しております。
 ただし、移転先は決まっていないとのことでした。
 昨日四月八日、いよいよ十字架が外されたということで、今朝の『河北新報』朝刊に「被災十字架再び安息の地へ」と題された記事が掲載されておりました。

――引用:河北新報朝刊――
 東日本大震災で被災した宮城県石巻市中瀬の市指定文化財「旧石巻ハリストス正教会教会堂」の解体作業が進められている。教会堂は1978年の宮城県沖地震で被害を受け、現在地に移築された。市は解体した上で、再度移転・復元する方針。
 教会堂は1880年の建造で、木造教会として国内最古とされる。震災では約5メートルの津波に襲われ、外壁が損壊するなどした。
 解体は3月に始まり、構造と使用資材の調査が同時に行われている。現在は基礎部分と柱だけになった状態で、8日は十字架が外された。
 木製の骨組みを銅板で覆った十字架は、屋根の上に設置した土台にはめ込まれていた。作業員たちはクレーンを使い、慎重に取り外した。
 作業は5月半ばに完了する予定。瓦と柱などは復元する際に再利用できるかどうか調べ、天井や壁の一部は津波の痕跡を示す史料として保管される。
 解体作業を担う文化財保存計画協会(東京)の津村泰範主任研究員(41)は「移築によって建設当時と構造が変わっている。調査で元の形を知ることができればいい」と話した。
 市は市民らの要望を受けて教会堂の保存を決め、移転場所を検討している。日本ハリストス正教会教団などは8日、再建費用として3300万円を市に寄付した。

 この教会に私が興味を覚えたのは、二十年ほど前に司馬遼太郎さんの『街道をゆく』を拝読してからでした。
 司馬さんは、「仙台・石巻」編の最後にこの「旧石巻ハリストス正教会」の紀行文をあてており、次の言葉で締めくくっておりました。

「私は、東北にハイカラさを感じつづけてきたが、そういう思いを形にすればこれではあるまいかとも思えてくるのである」

 この一言にたどり着くまでのくだりが実にいいのです。

――引用:『街道をゆく(朝日新聞社)』――
 西洋の教会とも、日本の城の櫓ともつかぬふしぎな折衷建造物だった。正面(ファザード)は八角形のうちの五つの面でかこまれた二階建造物で、玄関を構造する柱が四本ある。どの柱も、日本の寺院の柱のように、礎石というはきものをはいている。外壁は、白亜である。
 本屋(ほんおく)は、二階だての清楚な四角形で、正面も本屋もいっさい装飾がない。その点では、ある様式の神社のようでもある。
 塔やドームはない。正面の屋根が、わずかに勾配がふかく、塔として見られなくはないのである。屋根の上に十字架が立っている。ただし屋根は日本瓦である。
「明治のころの土地の大工さんが建てたものですから」
 松平神父がいった。建てた大工さんは、おそらく西洋建築というものを見たことがなく、まして教会建築も知らず、まあこういうものか、と想像してつくりあげて行ったにちがいない。
「石巻は、いいところですね」
 なにやら、この明治製のロシア正教の建物をみていると、石巻という街の個性が、この一点に象徴されているような感じがしてきた。

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 一歩間違えると馬鹿にされているような一文ではあるのですが、司馬さんは常々東北を「偉大」と絶賛していた方なので、愛を感じこそすれ、不思議と馬鹿にされている感じがしないのです。これが宮城県民としてはやや気恥ずかしいものであったとしても、旅人からすると新鮮で魅力的なものと感じる例でもあるのかな、などと妙に納得しながら、いつしかそれを愛おしく自慢にすら思えてくる東北人の私に気づきます。
 どうか、早く移転先が決まることを祈ります。
 今朝、『河北新報』朝刊にて、また寂しい記事に出会いました。

――引用――
震災・・・消える昭和の風情
《栗原 映画「東京タワー」ロケ地「佐野社宅」年内にも解体へ》
 市、耐震補強困難と判断
 映画「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」のロケ地になった宮城県栗原市鶯沢の「佐野社宅」が年内にも解体される見通しになった。栗原市が、所有する細倉金属鉱業(同市)と結んでいた無償貸借契約を今月末で解消することを決めた。昭和の風情が漂う人気の観光スポットだった社宅は東日本大震災で損傷し、耐震や防犯の問題が保存の壁になった。
 社宅は1934年、同社の前身三菱鉱業の幹部社員用として15棟建設され、一部には2004年まで社員が住んだ。高度成長期の日本の面影を残す建築物として、07年公開の映画「東京タワー」のロケに使われ、同社が無料で公開。08年4月、市が施設の貸与を受け公開を引き継いだ。
 公開は08年6月の岩手・宮城内陸地震で中断。再開後、11年3月の大震災で屋根の瓦や土台が破損し、閉鎖していた。
 市によると、ことし8月「公開再開には安全対策の徹底を」と社側から要望があった。市は対策を検討したが、現在の安全基準に沿った耐震工事は技術的に困難と判断した。佐藤勇市長は「補強を施し維持管理するには膨大な費用が掛かる。解体したいとの社側の意向もあり、お返しすることにした」と説明する。
 細倉金属鉱業の担当者は「映画の話がなければ、取り壊す計画だった。敷地内への出入りは容易で、冬場は火災の懸念もある。防犯上このままにしておけない」と話す。
 同社は年内の解体を計画する。市は現地の様子を詳細なジオラマ模型として残す方針で、近く現地で測量する。
 地元からは解体を惜しむ声が上がった。市の委託で管理運営していた「ほそくら観光ボランティアガイドの会」代表の三塚東市議は「貴重な産業遺産で残念だ。施設の取得も考えたが、受け皿の問題を解決できなかった」と語った。

 この映画には泣かされました。なんと言っても、樹木希林さんの演技は圧巻でした。
 オダギリジョーさん演じる主人公が幼少の頃に居住していた部落のロケ地が当地であることは事前に知っておりましたので、数年前の栗原探索の際に立ち寄ってみました。
 いえ、厳密には、このロケ地を見学したことで映画が気になりはじめ、レンタルDVDを借りて鑑賞してしまいました、すみません。
 いずれ、消えてしまうことが決定したようなので、せめて拙ブログに画像を並べておこうと思います。
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 現地を散策してみて、とにかく「懐かしい」としか言いようがありませんでした。
 なにしろ私が生まれた家も丁度こんな感じでありました。
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オダギリジョーさんではありません、念のため。

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