はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

時事―ニュース所感――

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オリオン座の三つ星

 今朝ほど、AMラジオで武田鉄也さんの『今朝の三枚おろし』に久々に大きくうならされましたので、メモがわりに書きとどめておこうと思います。

 ――海に近づくほど訛りが強くなる事実――

 これは、海に生きる人たちの歴史に関係あると想定している人(名前は忘れた)がいるようで、例えばいい漁場を知っていてもそれを決して文字には残さない、という文化?があるというのです。つまり、それは自分たちの飯のタネであり、他人に教え広めると自分の首を絞めかねないということなのでしょう。そうなると、そのような情報は自分たちの子孫に“口伝”で伝え行く必要があり、自ずと文字ではなく口伝の文化が生き続けるということになるのです。
 そういえば、マツタケ職人にも同様のことが言えることを思い出しました。私の知人の宮城県伊具郡出身のMさんが言うには、彼の知人にマツタケ職人がいて、その職人はマツタケが生育している、あるいはしやすい場所を熟知しているのですが、当然ながらそれを決して他人には教えないそうです。教える必要もなければ、教えると不利益を被るわけですから、あたりまえの行動原理です。考えてみると、それは狩猟・交易文化の縄文人にも十分あてはまるのではないでしょうか。
 モノを生み出さない人たちは交易で生きるのも一つの道ですが、船乗り――海人――は必ずしも漁だけではなく、交易という大きな特権をも所有しているわけです。したがって、なるほど航海秘術なんぞも人に教えたくはないものでしょう。特に夜の航海術などには“星読み”が必須であったことでしょうが、これは第一級の秘伝の技と言えるかもしれません。
 さて、海の神様は何故3柱なのか・・・。武田鉄也さんは住吉三神を引き合いに出しておりましたが、これは当然宗像三女神にも同じことが言えると思います。
 武田鉄也さんは、どうやらマンガの宗像教授が大好きなようで、宗像教授が解明した?説を取り上げておりました。
 オリオン座という星座がありますが、ご存じのようにこの星座の特徴としてオリオンの腰回りに一直線に並んだ三連星があります。これは日本では鼓(つづみ)に見立てられていたようですが、それはともかく、この三連星は当然東から昇り、西に沈みます。ここに北極星さえ見極めれば東西南北を正確に掌握でき、航海にとって極めて重要な目印になっていたと考えられます。
 そうです。これが海の神が三柱になった理由でないか、というのです。
 真偽のほどはわかりませんが、個人的には十分支持したい考え方ですね。

纒向に卑弥呼の宮殿?

今朝の『河北新報』第1面に次のような記事がありました。

――引用――
卑弥呼の宮殿か、奈良で建物跡 邪馬台国畿内説、後押し

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向遺跡で、3世紀前半としては国内最大の建物跡が見つかり、市教育委員会が10日、発表した。
 女王卑弥呼(生年不明〜248年ごろ)の時代と重なり、邪馬台国畿内説をとる専門家は「卑弥呼の宮殿ではないか」と指摘。畿内説を後押しする有力史料で、九州との間で続く所在地論争に大きな影響を与えそうだ。
 市教委は、床面積約238平方メートルの高床式建物と推定。九州説の候補地の一つ、吉野ケ里遺跡(佐賀県)で出土した建物跡(約156平方メートル)をしのぐ規模。
 確認された建物跡は南北19・2メートル、東西6・2メートル以上。柱穴はさらに西側に続いているとみられ、市教委は建築構造から東西12・4メートルとした。
 既に見つかっていた3棟と合わせ、計4棟が東西方向に一列に整然と並んでおり、石野博信兵庫県立考古博物館長(考古学)は「畿内説に立てば、卑弥呼の宮殿とみていいだろう。これほど計画的に配置された建物群は同時期に国内で例がない」と話している。
 現地説明会は14、15日の午前10時から午後3時。

 ちなみにこの河北新報、以前にとりあげた旧石器時代発掘捏造事件を回想した“自戒コラム”に代表されるように、この手の記事には妙に冷めたところがあります。今回も、第4面に「ニュース表裏」というコラムを別掲し、邪馬台国九州説を唱える側の見解を紹介し、社としての冷静な姿勢を付け加えております。

――同記事より引用――
「九州説は風前のともしびです」
 11月1日、佐賀県の吉野ケ里歴史公園で開かれたフォーラム。小雨の中、集まったファンを前に、九州説を引っ張る高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は冗談交じりに話した。
 だが、高島学長の本音は異なる。「「纒向遺跡で出土した土器の年代は実際より古く解釈されており、問題がある」と指摘。考古学では土器が年代を決めるための重要な物差し。「纒向では一緒に見つかったほかの遺物との整合性が取れていないケースもある」とした上で、今回の大型建物跡について「卑弥呼とは時期が違う。4世紀以降のものではないか」と反論する。
 同志社大の森浩一名誉教授(考古学)も九州説。「魏志倭人伝」は朝鮮半島の帯方郡から邪馬台国へのルートとして末盧(まつら)国、伊都(いと)国、奴国(なこく)などを経由すると記述。いずれも現在の玄界灘沿岸と推定され「倭人伝には九州北部のことしか書かれていない」と強調する。
 九州北部は1世紀には既に大陸との外交があり、貴重な鉄器や銅鏡が豊富に出土、有力勢力があったことがうかがえる。邪馬台国をほうふつさせる吉野ケ里遺跡(佐賀県)などの大型集落を多く確認されている。

 畿内説の方々には申し訳ないのですが、私もやはり九州説をとります。この森さんが強調するところは無視出来ません。しかも、極めて自然です。
 ただ、度々申し上げているとおり、私は邪馬台国を大和の原型と見ることに対しても首をかしげております。
 邪馬台国は確かに古代日本――統一国家という概念はなかったにしても――において巨大勢力であったことは間違いないと思いますが、今のところそれ以上のものであったことは証明出来ていないはずです。
 エリア云々も大切ですが、あくまで外国の歴史書に基づく推定でしかないわけですから、その国が本当に大和の原型であるか否かについての研究ももっとなされるべきではないでしょうか。
 昨日――平成21年9月30日――、『河北新報』の朝刊を見て驚きました。
 見出しが『島根・砂原遺跡日本最古の旧石器か 12万年前の地層から20点』というものでした。
 その記事内容そのものにも驚いたのですが、私は今回、その記事の展開に注目しました。
 記事の冒頭すぐに「旧石器をめぐっては2000年の発掘捏造(ねつぞう)問題で大半の出土例が否定された結果、入口遺跡(長崎平戸市、約9万年前)や金取遺跡(遠野市、9万〜5万年前)が最古の可能性があるとされていた」とあり、続けて「今回の発見は少なくとも3万年さかのぼり、日本列島での人類の起源を見直す手掛かりとなるほか、後退を余儀なくされた旧石器時代の研究にはずみをつけそうだ」と、ありました。
 どうしても東北地方を中心に起った捏造事件からの脱却を前提にしなければならないようです。
 やむを得ないところではあるのでしょう。
 どうしてもこの手のニュースに眉唾物の冷めた反応を余儀なくされた感情の読者に対しては、あえてその嫌な話も触れて一々払拭しなければなりません。
 そして今朝の『河北新報』朝刊は、「河北春秋」という一面目にあるコラムで、ご丁寧にも前日の記事の補足をしております。そこには編集部(?)としての本音が添えてありました。

――引用――
 ホントかいな。旧石器の新発見というと、つい疑いの目で見てしまう。島根県出雲市で、日本最古とみられる12万年前の石器が見つかったという。9年前の石器捏造(ねつぞう)騒ぎが、どうしても頭をよぎる▼アマチュア考古学者が長年にわたり、偽の石器を次々に「発掘」した。旧石器時代の10万年前、35万年前…ついに60万年前までさかのぼった。教科書にも載り、「神の手」ともてはやされた▼ちょっと考えれば、おかしな発見もあった。尾花沢市で出土した10万年前の石器と、30キロも離れた宮城県色麻町で見つかった石器の断面が、ぴったり合わさった。新聞は大見出しで「10万年ぶり 奇跡の再会」と報じたものだ▼苦い思い出がある。仙台市の山田上ノ台遺跡で1980年、5万年前の石器が発見された。当時、同時代の発掘例は珍しく、興奮しながら取材した。後にこれも「神の手」の仕業と分かり、結果的に自分も捏造に加担してしまった▼今回の石器はどうだろう。素人目には、ただの石ころの写真にも、加工品のようにも見える。捏造騒ぎの教訓から「石器の可能性は半々」と慎重な意見もある▼「加害者」の一人として、ぜひ本物であってほしいと願うばかりだ。騒ぎ以来、旧石器時代の研究は大きく後退し、教科書からも消えた。「神の手」の罪は深い。

 この筆者を尊敬するのは、自分をあえて「加害者」としているところです。なかなか書けるものではありません。
 そもそも『河北新報』という新聞社自体、東北地方が明治維新以来「白河以北一山百文」と軽視されてきたことに対して立ちあがったという背景もあり、結果的に件の捏造をあおってしまったという後ろめたさはあるのかもしれませんが、その過去を素直に認めているところは素晴らしと思いました。何事もなかったかのように反省の一言もなく過去と正反対の姿勢で社説を挙げている某一流新聞社に比べればはるかに崇高です。
 ただ、今回の記事には敬意を表するものの、河北新報社も決して悲観的になりすぎないことを祈ります。東北地方の新聞社として、決して自虐的にならず、堂々と発信していっていただきたいものです。
 本日(平成21年3月15日)『NHKスペシャル』で、「法隆寺金堂再建の謎」が放映されました。実にタイムリーでしたので、きちんと受信料を納めている私としてはじっくり堪能させていただきました。
 この番組で初めて知ったのですが、法隆寺金堂は、どうやら昨年(平成20年)12月に大掛かりな修繕をしていたらしく、ついでに使用されている木材年輪の年代測定なども実施されたとのことでした。
 かねてから、法隆寺は西暦670年頃に火災にあって再建されていることは定説にはなっていたのですが、何故か、制作年代があきらかにそれ以前まで遡るはずの仏像群にその痕跡がない、ということが謎でした。なにしろ、一体でも何百キロという重さがあるものですから、今回も8人(?)がかりでようやく持ち出せたような代物です。全て運び出すのには3日かかるとまで言われているものなので、とても火災発覚後に持ち出せるものではありません。今回の放送を見る前の私なりの仮説では、火災は人為的であり、放火者が予め持ち出しておいたか、あるいは、もともと他の寺――例えば廣隆寺――にあったものを再建時に持ち込んだかのいずれかだろうと思っておりました。結局、年代測定による西暦668年伐採という鑑定結果で、測定した部分の位置から考えて、伐採したときには既に建築中であったと考えられることまでわかりました。ということは、現在の金堂――伽藍――が完成してから旧伽藍に放火したことがほぼ確定と言えるのでしょう。
 番組では、天智天皇――そのときはまだ中大兄皇子――が、百済援軍に遠征して、結局唐にこてんぱにやられた――白村江の戦――敗戦のショックから、唐が日本に攻めてくる恐怖と社会不安に国民が一丸となって対峙するために聖徳太子を精神的主柱に据えたものというような推測をしておりました。
 また、金堂の仏像群についてですが、鎌倉期の阿弥陀如来の台座のみ飛鳥のものと思われ、当時はそこに何があったのかについても推測しておりました――現在は釈迦三尊を中心に、向かって右に薬師、左に阿弥陀――。丁度台座の天板に漆がほどこされていない直系70センチ弱の円形があり、どうやら夢殿の救世観音だったと思われるとしておりました。あの布でグルグル巻きにされていた救世観音です。
 なかなか見ごたえがある番組で基本的には満足でした。また、皮肉ではなく解釈がとてもマニュアルどおりなので、最近異説ばかり見ていて少々感覚が麻痺している可能性のある私にはいい機会だったとも思います。
 ただ、どうしても触れ得ない部分があるせいか、番組の解釈ではどうしても解決されないシンプルな疑問もあります。
 番組の説明では、救世観音も釈迦如来も太子をモデルに製作されているとのことでしたが、例えば、釈迦如来の隣にある同時代の薬師如来については全く触れておりませんでした。その姿が両手の印も含めてほぼ釈迦と同じで、通常の仏像判定では性格の区別がつかないことについても当然触れておりません。なにより、全てが太子の御影であれば、何故後に救世観音だけが秘仏化され布でグルグル巻きに封印されなければならなかったのかがわかりません。
 ただ、明日、明後日と、“衛星放送”で続編を放映するようなのでなんらかの説明があるのかも知れません。
 残念ながら私の家では視れませんが・・・。
 昨日(平成21年2月7日土曜日)『河北新報 夕刊』で、思わず食い入るように読みふけった記事がありました。「福岡北部に有力支配層?」と銘打ったその記事は、私が想像するヤマト連合国家形成以前の姿を考えるためにかなりに重要な情報となり、その場所が「福岡県宗像市」であるところがまたいろいろと好奇心をそそられるのです。考察はさほどに深化しておりませんが、ニュースが熱いうちに書き留めておこうと思い、以下にその河北新報夕刊の記事を引用させていただきました。

――引用――

 福岡県北部の宗像市にある弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)の田熊石畑遺跡で青銅武器の出土が相次ぎ、当時の北部九州の中心地だったとされる佐賀平野や福岡平野に匹敵する有力な支配者層の存在が注目されている。
 同遺跡では昨年、6基の墳墓から銅剣や銅戈など計15点の青銅武器が出土した。同時期では佐賀県の吉野ケ里遺跡(8点)や「最古の王墓」とされる福岡市西区の吉武高木遺跡(11点)を上回る出土数。小田富士雄福岡大名誉教授は「中国の史書『漢書地理志』が『百余国』と記した有力集落の1つで、中国や朝鮮半島との交易を通して力を付けた集団ではないか」とみる。
 宗像市教育委員会によると、田熊石畑遺跡では集落跡とともに9基の木棺墓が見つかり、うち6基から人骨と一緒に細形の銅剣9点、銅戈3点、銅矛3点が出土した。長さは約13−43センチ。1つの墓に青銅武器が3−5点集中して副葬されているのも特徴で、市教委によると1つの木棺墓から青銅武器5点が出土したのは全国初という。
 同遺跡では、直径約50メートルの環濠の一部や土坑、約170の貯蔵穴も出土。近くを流れる河川側に船着き場だったとみられる跡も見つかり「水運を利用して宗像地域の富の集積や物流の拠点となった可能性がある」(市教委)という。
 当時の北部九州には拠点集落が林立していたと考えられており、力を持った集落の支配者層の墓には青銅武器が副葬されるのが特徴。吉野ケ里、吉武高木遺跡のほかにも佐賀県の宇木汲田遺跡、福岡市の吉武大石遺跡などから多数の銅剣や銅矛が出土している。
 これらの遺跡は、魏志倭人伝に登場する「伊都国」や「奴国」など強大な権力を持ったクニが成立する前の段階に位置付けられ、青銅武器の出土数や集落の規模から、互いに力の差はあまりなかったとみられる。
 西谷正・九州大名誉教授は「田熊石畑遺跡のような各地の有力集落をさらにまとめる強力な勢力がやがてクニになり、国家形成の出発点になったのではないか」と話している。

 後だしジャンケンのようで恐縮ですが、この考古学的成果を見るまでもなく、この地にそのようなクニらしきものが存在しただろうことは容易に想像できました。この地は旧社格でいう最高格の官幣大社「宗像(むなかた)大社」が鎮座するエリアであり、 大社は“田心姫神(たごりひめのかみ)”“湍津姫神(たぎつひめのかみ)”“市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)”の「宗像三女神」と呼ばれる三柱の女神の総本社的存在です。また、一方でイチキシマヒメは“弁財天(べんざいてん)”と同一とされ、そのことから宗像大社は全国の弁財天の総本宮ともされております。
 とにかく、この女神たちは、九州のみならず我々が住む“この国――日本――”の生い立ちを考えるときに決して無視できない存在であり、それはすなわち、新聞記事にいう「有力支配層」自体が、なんらかの形で日本という国家の形成に大きな影響を及ぼした存在であっただろうことを示唆するものでしょうし、それは十分許される想像と思われます。

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