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秋田氏の本姓は安倍であるわけですが、その安倍姓は言わずもがな、中央の古代氏族の阿倍臣ではなく、前九年の役で戦死した安倍貞任と同系、奥州の安倍氏です。これを私は宮城県南を中心に興った丈部(はせつかべ)系アベと同系であろうと疑っているわけですが、丈部(はせつかべ)とは、中央の古代氏族アベ氏の「馳せ使いの部民」を指す呼称でした。 しかし、丈部などの部民なり俘囚なりが、必ずしも蝦夷であったかというと、どうもそうでもなさそうです。俘囚と呼ばれた者の中には、本来朝廷側の前線部隊として戦列に加わりながらも敗れ、蝦夷に囚われ、そのまま賊地で帰化した者も少なからず存在したというからです。 例えば『続日本紀』には次のような記録があります。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』―― (神護景雲三年)十一月二十五日 陸奥国牡鹿(おじか)郡の俘囚(帰順した蝦夷)、少初位上・勳七等の大伴押人(おおともべのおしひと)が次のように言上した。 伝え聞くところによりますと、押人らの先祖はもと紀伊国名草(なくさ)郡片岡里の人ということです。昔、先祖の大伴部直(あたい)が蝦夷征伐の時、陸奥国小田郡島田村に至り、住みつきました。その後、子孫は蝦夷の捕虜となり、数代を経て俘囚とされました。幸い尊い朝廷が天下を治められるめぐり合わせとなり、すぐれた武威が辺境を制圧しているのを頼みとして、あの蝦夷の地を抜け出てから、すでに久しく天皇の徳化のもとにある民となっています。そこで俘囚の名を除き、調庸を納める公民になることを申請します、と。 これを許した。 〜中略〜 (宝亀元年夏四月一日)陸奥国の黒川・賀美(かみ)など十一郡の俘囚(ふしゅう)三千九百二十人が、次のように言上した。 「私どもの父祖はもともと天皇の民でありましたが、蝦夷にかどわかされて、卑しい蝦夷と同じ身分になりました。今はすでに敵(蝦夷)を殺して、帰順し、子孫も増えております。どうか俘囚の名を除いて、調庸を納めさせていただくようお願いします」と。 この申請を許可した。 このように支配層の蝦夷が官軍に敗れると、部民らはそのまま国家公認の蝦夷地開拓民的扱いで陸奥なり出羽なりに残っていたわけですが、やがて彼らは被差別民の烙印とも言える例えば丈部などのような“部”がつく呼称を嫌いました。 そこで彼らは自分達と囚われの蝦夷とをはっきり区別してもらうため、例えば丈部氏であれば自分達の管理者の姓でもある安倍氏を名乗ることを嘆願し、それは認められたのです。つまり、彼らは安倍姓を許されたことで、蝦夷の烙印を消してもらったのです。 そのような流れを見るに、もしかすると奥州安倍氏は本当に中央の安倍氏であった可能性もなきにしもあらずではないか、と私は想像しております。 これは丈部系安倍氏に限らず、毛野氏に対する吉弥候部(きみこべ)――君子部――や、大伴氏に対する大伴部なども同様で、部民が王民への改称を求めるのは東北地方がおおよそヤマト化した時期のいわば社会現象でもあったようです。勝手ながらこれを「部民解放運動」とでも名付けておきますが、『続日本紀』の神護景雲三年三月十三日の条では、その“申請人”として「大国造道嶋宿禰嶋足(しまたり)」の名があります。 部民解放運動のトップであった道嶋宿禰嶋足は、蝦夷としては極めて異例ながら中央官僚として大出世を遂げた人物です。宿禰姓を賜っていることもさることながら、『続日本紀』の神護景雲元年十二月には、彼のためだけにとしか思えない陸奥国オリジナルの“大”国造なるものが制定されたようで、あえて同族下位の道嶋宿禰三山の国造任命が併記されているところから、嶋足の大国造が明確に国造を上回る立場であることを際立たせます。よほど朝廷の覚えめでたい傑物であったのでしょう。 道嶋氏は、元々古代有力氏族「和邇(わに)氏」の部民と考えられる「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)」氏であったわけですが、『続日本紀』によれば天平勝宝五(753)年に一族の英傑達が次々「牡鹿連(おしかむらじ)」の氏姓を賜っている記録が見受けられます。少し私の興味を惹きつけているのは、丸子牛麻呂や丸子豊嶋ら24人が牡鹿連の氏姓を賜った同年6月8日の条です。この二週間足らず前の5月25日、渤海使(ぼっかいし)の輔国大将(ほこくたいしょう)「慕施蒙(ぼしもう)」は、朝廷を拝して貢物とともに次のように奏上しております。 「渤海王は日本に君臨しておられる神聖な天皇の朝廷に申し上げます。王は天皇より、なすべきことのご命令を賜らなくなって、既に十余年になります。このため慕施蒙ら七十五人を遣わし、国の贈物をもたせて朝廷に献上申し上げます」――宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より―― これによって慕施蒙らは地位に応じて位階を授けられ録を賜ったということですが、時の帝であった「孝謙(こうけん)天皇――称徳(しょうとく)女帝――」は、次のような言葉を彼に浴びせながら印を押した文書を渡しております。 ――引用:同書―― 天皇は敬(つつし)んで渤海王にたずねる。朕は徳は薄いが、つつしんで天子の地位をお受けし、人民を育て養い、国のすみずみまで照らし治めている。王は海外の僻地に住し、遠く日本に使いを派遣し入朝させられた。王の真心はまことに明らかで朕はこれを深くほめたたえる。しかしもたらした書状を見ると、王は臣と称してはいない。そこで高麗(こうらい)の旧(ふる)い記録を調べると、渤海が国を平定した日の奏上文では、次のように言っている。 「日本と渤海は血族なら兄弟にあたり、義の上では君臣の関係にあります。そのためある時には援兵をお願いしたり、あるいは天皇のご即位をお祝いしたりしています。朝廷に参上する不変の儀式をととのえ、忠誠の真心をあらわします」と。 それ故先代の聖武(しょうむ)朝において、その貞節をほめて王の使いに特別な恩恵をもってもてなした。王の栄(は)えある運命は、日毎に隆盛となり絶えることがない。思うにこの上表文のことを、承知しておられるであろうが、こまかに説明するまでもないであろう。これにより先回の来朝の後に、渤海に使を遣わし勅書を送った。それなのにどうして今回の来朝に重ねて上表がないのであろうか。礼をもって行動することは両国とも同様である。王はよくよくこのことを思うように。夏の末でまだ暑さは甚だきびしいが、お変わりないだろうか。使人らは今還ろうとしている。朕はかねて思っていたことを指し示して、あわせて別紙のようなものを下賜する。 これが件の6月8日の出来事です。
つまり、丸子牛麻呂や丸子豊嶋が牡鹿連を賜ったこの6月8日、孝謙天皇は、渤海王が臣を名乗らずあくまで王を名乗り続けることへの不快感を露わにして苦言を呈しているのです。しかしこの苦言は、どこか、音信不通になったドラ息子がようやく連絡をよこし、腹ただしいながらも一応は安堵したかのような微妙な親心にも似たものを感じます。 それに続いて同日すぐに牡鹿連の賜姓記録があります。 これは、もちろん陸奥の産金にかかわる功績も考えられますが、もしかしたら国交が途絶えていた渤海国との仲を取り持ったのが彼らであったのでしょうか。 ちなみに、その約2カ月後の8月25日の条に「陸奥国の人、大初位(おおそい)下の丸子嶋足に牡鹿連の姓を賜った」とあります。これによって、後に陸奥の大国造となる道嶋嶋足も「丸子姓」かつ「牡鹿連」であったことが明確になっております。 さて、渤海国とは孝謙天皇の言葉からも推察できるとおり、高麗―高句麗―の流れを組むいわばフロンティア国家でした。 高句麗はその半世紀以上前に既に唐・新羅に滅ぼされてしまったわけですが、亡国(?)の彼らは板挟にあえぎながら新興国家の独立を保っていたのです。 丸子氏がその高句麗系渤海人とどのようなつながりがあったのかはわかりませんが、度々触れているとおり、高句麗系騎馬軍と同族であろう照井氏の聖地「栗原」を上流とする「伊治川」を通じて、その河口である「牡鹿」を領していた丸子氏が高句麗系の人々となんらかの密接な縁故をもっていたことは想像に難くありません。 さて、前に私はこの道嶋氏が三春を含む安積郡――現:福島県郡山市周辺――というエリアに浅からぬ縁があることを示唆しておきました。安積郡にもこの丸子氏の影が濃厚なのです。それが後天的なものか否かはわかりませんが、現在でいう仙台湾を縄張りに活躍していただろう丸子氏が、阿武隈川を遡って磐城国造のエリアにほど近い安積の地に根付いていたとしてもなんら不思議ではありません。あるいはその逆のコースも十分考えられます。 なにはともあれ、丸子氏は間違いなく安積において一定の勢力を保っておりました。 『日本後記』によれば、延暦十六(797)年の1月13日に、安積郡の人で外少初位上「丸子部古佐美(まるこべこさみ)」なる人物が「大伴安積連」を賜っております。 ちなみに、その他にも何故か丸子氏が大伴姓を賜っている例はそれなりに目立って見受けられます。前に私は黒川郡――現:宮城県黒川郡――の「靭(ゆげい)大伴氏」をはじめとする陸奥土着の大伴氏について興味を示しておりましたが、ここにきてその素性について “丸子系大伴氏”を無視できなくなっております。なにしろ古代の黒川郡と牡鹿郡は、ほぼ隣接する位置関係にあるのです。 |
三春散歩
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歴代東北の王者の面影を、坂上田村麻呂伝説の聖地の散歩から眺めてみます。
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なまはげの郷、秋田県「男鹿(おが)」の語源にもなった肉食習慣のある蝦夷「恩荷(おんが)」が信奉していたのは、『日本書紀』によって「齶田(あぎた)浦の神」であることがわかります。 この齶田(あぎた)浦の「アギタ」もまた、秋田の語源になっているようです。 つまり、齶田浦の神と、それを信奉する恩荷(おんが)とのこの両者の関係は、秋田県が秋田県たる所以とも言うべき重要なキーワードなのです。 新潟県から秋田県を中心にみられる古四王(こしおう)の神は、秋田県秋田市寺内の古四王神社の由緒によれば、元々はその齶田浦の神の住まいに大彦(おおびこ)なり武甕槌(たけみかづち)なりが同居せられたものであるとのことでした。 さて、そのような由来を持つ古四王神であるにもかかわらず、ウェブの百科事典『ウィキペディア』によれば、近年まで氏子には肉食を忌む風習があったとのこと・・・。 不思議なものです。そもそも肉食習慣を公言する者の信奉する神であったものが、何故に肉食を忌まれる神に変質しなければならなかったのか・・・。おそらくは四天王が習合(?)されて長い年月を経るうちに、氏子にすらその本質が忘れ去られていったのでしょう。 かと思えば、明治の神仏分離を経た現在の境内案内には逆に仏教的要素が消滅しており、当然ながら四天王の面影自体など微塵も見えず、ますますもって肉食が忌まれた理由の根幹が見えなくなっております。 つまり、全ては古四王神社に内包された多重人格性――多重神格性(?)――がこのような矛盾の歴史を生んでいるということでしょう。私の仮説に則っていくならば、福島県田村郡三春周辺に集中しているミワタリ信仰にも同様な傾向があっておかしくないということになります。 三春周辺においてミワタリという名称で呼ばれることが多いこの謎の神は、管見では旧陸奥国全域とこれに隣接するエリアにしか確認できておりません。そして、前に触れたとおり特に最も集中している旧仙台藩領内においてはニワタリという名称が大多数となっております。 日本地名研究会の三文字孝司さんが確認した70社のうち、「ミ」系は28社、「ニ」系は42社でした。つまり、単純に「ミ」:「ニ」の比率は2:3ということになります。 比率が逆であれば語呂がよかったのに、という幼稚な洒落はさておき、せっかくなのでこの三文字さんのデータをもう少し詳細に眺めてみます。 まず、「ミ」系28社のうち「三輪」を冠するものは5社、「ミ“ア”タリ」と称するものは5社でした。 そして「ニ」系42社では、社名に「鶏」を掲げるものが4社、「鬼渡」系は6社、「ニワタ“シ”」系は2社でした。この「鶏」「鬼渡」「ニワタシ」を合わせた12社を差し引いて無理やり少なく見積もったとしても、結局ニワタリ系は30社もあり、しかも鶏4社のうち一社は鶏足(にわたり)と読ませております。やはり私はこの信仰を「ニワタリ信仰」と呼ぶのが最も自然であろうと考えます。 さて私は、この神祀りは「二羽の鳥」に見立てられた外来在来二つの勢力の絆により生まれたものではないか、と想像していたわけですが、つまり私の仮説で言うならば、この神には少なくとも二柱分の性格が混在していることになります。 それが、「二羽の鳥」の韻から「鶏」に変遷し、そこに慈覚大師円仁を掲げて東北一円を教化した天台密教一派、あるいは南朝勢力と後醍醐天皇仕立ての真言立川流などの影響を経て、「鶏」という韻から弥勒下生に重要な「鶏足山(けいそくせん)」が重なり、仏教色が強まったものと想像しております。 日本海側の古四王(こしおう)が、蝦夷の信奉する齶田浦の神に、進出してきた中央氏族が奉斎してきた武甕槌(たけみかづち)命なり大彦(おおびこ)命なりが習合し、四天王を経て仏教色が強まっていったように、その顛末と極めて似通った歴史を辿ったのが太平洋側においてはこのニワタリではなかったか、と私は考えているのです。 さて、三春秋田氏の祈願所「真照寺(しんしょうじ)」にある古四王堂は当然秋田氏すなわち安倍氏によるものとして、この三春周辺の25社中7社ないし9社にも及ぶ集中的なミワタリ信仰は一体何者の影響によるのでしょうか。 ここで私は三春以外の集中地区にも注目するのです。 前述の三文字さんがとりあげたレジュメ『北上川と白鳥信仰』――1996年北上市で開催された「古代の北上を考える市民のつどい」配布資料集――にある『旧仙台藩領における庭渡社の分布』によると、ベスト5は以下のとおりです。 1、牡鹿(おしか)――現:宮城県石巻市周辺――22社 2、宮城11社 3、伊具(いぐ)9社 4、志田(しだ)8社 5、桃生(ものう)6社 2位の宮城郡は別枠記載の首府仙台城下の2社も含めると13社になるわけですが、これは伊達家以前にこの地を支配していた國分氏によるものでしょう。國分氏はニワタリを氏神と称しておりましたからほぼ間違いありません。
それにしても、牡鹿の22社は異常な集中です。隣接の桃生の6社を合わせれば28社も集中しており、ニワタリ信仰の本場として疑うには申し分がないと思います。はたしてこの地を領していた大物氏族とは一体何者なのでしょうか。 とりあえず、鎌倉期以降は坂東武士の葛西(かさい)氏でありました。 しかし、葛西氏は頼朝からこの地を賜ったものの奥州の安定をみるまではしばらく下総の地からこの地を遥任してきたことから考えると、もしニワタリが葛西氏による奉斎神であれば、本領である下総郡葛飾(かつしか)――現:東京都葛飾区あたり――周辺にも集中的に確認できてよさそうなものです。 また、葛西氏だとすれば陸奥国全域への思想的影響力や飛び地的な三春周辺の集中の説明が難しくなります。 したがって葛西氏が運んできた神というセンは弱いと思われます。 それでは、葛西氏以外で牡鹿を拠点に陸奥国全域に影響を及ぼせるような氏族とは一体誰でしょうか。 これはもう「道嶋(みちしま)氏」でしょう。 道嶋氏は、元々古代の有力氏族「和邇(わに)」氏の部民「丸子(わにこ・まるこ・まりこ)」氏であり、蝦夷としては異例の大出世を遂げていたことが『続日本紀』によってもあきらかになっております。 実は、三春を含む古代の「安積(あさか)郡――現:福島県郡山市周辺一帯――」は、この丸子一族に大変縁が深い地でもあるのです。 |
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江戸時代、安倍貞任の末裔を称する秋田氏の支配下にあった三春(みはる)――福島県田村郡――には、秋田氏の菩提寺「高乾院(こうけんいん)」「龍穏院(りゅうおんいん)」の他、祈願所とされる「真照寺(しんしょうじ)」という寺があります。 この寺には祈願所にふさわしく、本堂内には四天王立像が奉納されております。当然といえば当然なのですが、この像はもともと境内にある「古四王堂(こしおうどう)」に安置されておりました。 古四王とは、東北地方の日本海側、新潟県から秋田県にかけて広くみられる「古四王神社」に祀られる神仏を指します。秋田県秋田市内にある古四王神社の現在の祭神は大彦命と武甕槌命ということになっておりますが、おそらく本来は「越(こし)王」、要は北陸から新潟県あたりを指す「越」地方を守護する君主なり神なりを指していたものに、夷族平定の祈願神でもある四天王が結び付いて当て字されたものと考えられます。四天王に戦勝祈願のイメージがあることは、大坂市内の四天王寺が、聖徳太子の物部守屋討伐祈願に基づいて建立されたと伝わっている例からも、極めて常識的です。 古四王系の社寺は、ほとんど北向きであるという特徴があるようで、岩手県紫波郡矢巾町徳田の胡四王神社には「北向き薬師」という異称もあるようです。 もちろん、三春秋田氏の祈願所、真照寺の古四王堂も例にもれず北向きでありました。 谷川健一さんは『白鳥伝説(小学館)』の中で、それこそ秋田氏の故郷、秋田県秋田市寺内の古四王神社も北向きであるとしておりましたが、私が訪れて磁石で方位を確認した限りでは西向きした。 しかし、境内社で坂上田村麻呂が戦勝祈願したという田村神社が北向きであり、おそらくはこちらが本来の古四王社であったのだろうと考えております。 余談ですが、田村神社の社殿内部には何故か亀の甲羅に古四王神社と記したものがたくさん掲げられておりました。 さて、先に私は「越の範囲」についてさも新潟県が北限かのように紹介しましたが、それは出羽国がいっぱしにヤマト化された以降の話で、出羽という国がある程度かたちになる前までは、新潟以北の日本海側は、現在の山形県や秋田県も含めて“越”という観念であったようです。 10代祟神天皇の御代、夷族平定の勅命を受けて全国四方に発せられた四道将軍の内、東国へ向けられたのは孝元天皇の子「大彦(おおびこ)命」とその子「武淳川別(たけぬなかわわけ)命」でした。 オオビコは北陸道を、タケヌナカワワケは東海道を進軍し、この二派が再び落ち合った場所が会津(あいづ)――福島県会津地方――だと言われております。 この東海道を進んだタケヌナカワワケこそが中央の阿倍臣の祖なのですが、つまりはその父であるオオビコも阿倍臣のご先祖様ということになります。 谷川健一さんは『白鳥伝説(小学館)』の中で、新潟県の古四王社を訪れた菅江真澄の『高志栞(こしのしおり)』に触れて次のように語っております。 ――引用―― 菅江真澄(すがえますみ)は越後を旅して北に向かう途中、五十公野(いじみの)の社に立ちよっている。 「越後国蒲原郡五十公野に古四王宮あり、其里の伝へに、神武天皇より十代祟神天皇の皇子四人おはしましし中に、大彦命をもて高志国を鎮護せしめ給ひしゆゑに、此命を斎(いつ)き古四ノ王とはまをす。全く此の神は古四王には非(あ)らず。越王にておはしましき。されど今は真言宗の寺にものし侍(はべ)れば、さは申(まをし)さふらはで、唯四天王を祭るとのみ申せば、恐き事ながら大彦命の御勳功も世に随(したが)ひて隠ろひ果てぬるこそほかにも侍らぬと俚人の語れり」と『高志栞(こしのしおり)』に述べている。菅江真澄はここで四天王が強調されて、大彦命の名が埋没していることをなげいているのである。 菅江真澄は、古四王社においてオオビコの功績がないがしろにされているような嘆きを表明しているわけですが、そもそも、日本に仏教が輸入されるはるか昔の祟神天皇の時代にインド風な四天王が祀られたはずはありません。四天王は、あくまでも聖徳太子の戦勝祈願や、大化年代オオビコの子孫である阿倍大臣すなわち阿倍倉梯麻呂が、対エミシ前線基地である磐舟柵設置に先立って四天王寺の五重塔に小四天王像を奉納したということらしいので、それらの故事に基づいて浸透した話なのでしょう。 いずれ、ここで私が重視するポイントは、中央の阿倍氏が四天王像を奉納したこと、そしてこの頃の北征の主人公がこれまた阿倍の英雄、引田臣比羅夫(ひけたのおみひらぶ)であったというところです。 この比羅夫の遠征の際の蝦夷の反応が実に妙なのです。 ――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より―― 夏四月、阿倍臣が船軍百八十艘を率いて蝦夷(えみし)を討った。秋田・能代二郡の蝦夷は、遠くから眺めただけで降伏を乞うた。 比羅夫の侵略に対し、蝦夷は戦わずして降伏しております。そしてこの時、秋田の蝦夷の恩荷(おんが)は不戦降伏の理由について次のように言上しております。 ――引用:前述書―― 「官軍と戦うために、弓矢を持っているのではありません。ただ手前どもは肉食の習慣がありますので、弓矢を持っています。もし官軍に対して弓矢を用いたら、秋田浦の神がおとがめになるでしょう。清く明らかな心をもって、帝にお仕え致します」 恩荷は齶田(あぎた)浦――秋田浦――の神の神意に基づいた決断をとったと見られますが、古四王神社の前身はこの齶田浦の神であったと考えられております。 さて、前述秋田市内の古四王神社の境内案内板では、齶田浦神とはオオビコが奉斎した武甕槌(たけみかづち)のことであるとされておりました。 そこにオオビコの裔である阿倍氏によってオオビコ自身が合祀され、それが古四王社であるとされておりました。 タケミカヅチが本来オホ氏の祭る神であることは前に触れたところです。ふとオオビコというその名の音韻から、ついつい因果を勘繰ってしまいます。 それはともかく、齶田浦神はおそらくそもそもの蝦夷の神なのでしょう。その神は狩猟と肉食習慣のある人達の、いわば縄文系の人達が信仰を継承してきた神であったと思われます。 しかし、ここで少しばかり私の妄想におつきあい願いたいのですが、前に私はなまはげの正体について「男鹿半島の先住民族のことであろう」とした上で、それは蝦夷、もしくは漢の武帝に連なる渡来人であったのではないか、などと書きなぐっておりました。 最近照井氏のことを考えて以来、高句麗系の渡来人が後漢霊帝の末裔を称していたことが頭から抜けないのですが、霊帝もある意味では漢の武帝に連なります。 先日秋田城を訪れた私は、ボランティア(?)に案内されて衝撃的なものを見せられました。 それは日本初の水洗便所です。 以降、少々汚い話ですので、食事中の方は是非食後に続きをお読みいただければと思いますが、当地で発見されたそれは、京にあったような単に水路上に足場があるというようなスタイルではなく、予め用意された水桶の水を柄杓で汲み、用が済み次第それを流してやるという、まさに水洗便所なのです。 余談ながら、トイレットペーパーに代わる道具が「箸(はし)――木のヘラ(?)――」であったということも、ここで実物の再現品を見てあらためて認識しました。 考えてみれば紙が貴重品であった時代に、たかが尻を拭くためにそのようなものを使ってなどいられません。昭和のオイルショックのトイレットペーパー品切れ事件など可愛いものです。 なるほど、箸墓(はしはか)の由来となった有名な三輪神話の中で、箸で女陰(ほと)を突く事故とはこういうことか、などと妙に納得した次第です。あのような鋭利なもので尻を拭いていたのであれば、おそらくそういった事故も程度の差はあれ実際に日常茶飯事であったのでしょう。 しかし、私が真に驚いたのはそこではありません。もちろん便所にも驚きましたが、それよりもここで発見された寄生虫の卵に驚いたのです。 何を隠そう、豚を食さなければあり得ない寄生虫の卵が秋田城の古代人の便から発見されたのです。 幕末ですら日本人が豚を食することは考えられませんでした。明治になってようやくそのような習慣の定着が散見する程度なのです。にもかかわらず、この古代の“辺境”の城柵において豚を食していた人物がいたということは、かなり驚くべき事実であると私は考えております。何故もっと大げさなニュースになっていないのでしょうか。 これは渤海(ぼっかい)国の使者によるものだろうと考えられているわけですが、私はもう少し踏み込んで考えてしまいます。 戦わずして降伏した齶田の蝦夷「恩荷」は、阿倍比羅夫になんと言っていたでしょうか。 「手前どもには肉食の習慣がありますので・・・」 ちなみに、恩荷(おんが)は、なまはげの本場男鹿半島の「男鹿」の語源です。
はるか昔の男鹿には、現在に至るまで「鬼」と呼ばれ、漢の武帝に関係するとも伝わる先住民族がおりました。 ここで一つ重要なキーワードを挙げておきます。 高句麗系騎馬民族は、いわばツングース系とされるわけですが、ツングースとは「豚」を意味します。 それにしても、古四王神社をウィキペディアで検索すると「仏教の影響からか、近年まで氏子は、肉、牛乳、卵を飲食しない風習を持っていた」のだそうです。 古四王社がもし境内案内どおり齶田浦の神を含むものだとするならば、これははたして神意と言えるのでしょうか・・・。 菅江真澄の嘆きは、もしかしたらこのような部分も含んでいたのかもしれません。 |
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伊達政宗の正室、愛姫(めごひめ)が生まれた三春城――福島県田村郡三春町――は、江戸時代には秋田氏の居城となりました。この秋田氏、その名の通り秋田――秋田県――に興った戦国大名なわけですが、豊臣秀吉なり徳川家康ら天下人の政策に翻弄されて、常陸――茨城県――に移封され、そうかと思いきや結局この三春に遷され、そのまま幕末まで至るのです。
秋田県公文書館を訪れたとき、カウンター前で真っ先に目に飛び込む本棚に『三春町史』全巻がひときわ目立ってずらりと並んでおりました。寄贈されたものだといいます。県庁所在地としては文献上東北最古の古代都市「秋田」と、遠く離れた中世の都「三春」が、秋田氏という東北を代表する氏族を通じて平成の世に至って尚も緊密であることを思い知らされる一面でもありました。 さて、私は三春にある秋田氏の菩提寺「高乾院(こうけんいん)」を訪れてみました。 ここでまず心を打たれたのは、秋田氏七代倩季(よしすえ)の筆によるというこの寺の扁額です。「高乾」の文字の横に添えられていた自らの名前は、秋田倩季ではなく「安倍倩季」であったのです。 これをのほほんと通過するわけにはいきません。高橋克彦さん原作の大河ドラマ『炎立つ』があったればこそ今はごく普通に安倍貞任(さだとう)一族を偉大な英雄のように思えますが、それはごく最近の平成の世になってからの話です。この東北地方においてすら、つい近年まで安倍貞任は前九年の役の“賊”扱いであったのです。そのニュアンスは多くの市町村史に目を通せば実感出来ます。 したがって、現代はともかく、あるいは安倍氏にとって居心地の良かった奥州藤原氏の時代であればいざ知らず、その他の時代において堂々と安倍姓を主張することにはそれなりの勇気を要したはずです。あくまで勝手な想像ですが、七代秋田倩季(よしすえ)は菩提寺の扁額に対して正直でありたかったのではないでしょうか。だとするならば、この扁額に託された精一杯の主張は実に感慨深いものがあります。 今触れたように、秋田氏の祖は安倍氏です。彼らの祖は中世の英雄安東氏を経由して前九年の役で戦死した安倍貞任(さだとう)の遺児「高星(たかあき)丸」までも遡るということになっております。そして何を隠そうこの秋田氏の系図によって、安倍貞任が自らの祖を長髄彦(ながすねひこ)の兄「安日(あび)」と考えていたことがわかるのです。これは、安倍姓を前面に出すことよりも更に勇気のいることです。彼らは、その気になれば皇族に連なる系譜も名乗れたはずです。 つまり、祟神天皇の御代に全国に発された征討軍――四道(しとう)将軍――の一人、孝元天皇の裔「大毘古(おおびこ)」に連なる中央の安倍氏と同族を名乗ることも可能であったと思われます。 しかし彼らはそれを併記するだけにとどめ、あえて永遠の朝敵ナガスネヒコ一族に繋げる系譜をもってきているのです。そこには、その真偽の次元を超えた確固たる強い意志を感じざるを得ません。 アビが実在したか否かについてはもはや証明のしようもありませんし、そもそもその系図自体の信憑性を疑う諸氏の論評はあるものの、少なくともこれが明治期の宮内省も認めた公式のものであることだけは厳然たる事実です。それ故に彼らは「天孫降臨以前の家系を正しく伝えているのは出雲国造家と自分達だけである」と言ってはばからず、また、それを誇りにもしているのです。 高乾院を訪れた私は、本堂を正面に見て左手の小高い境内地への階段を登ってみました。そこにはあたかも魔天楼のような高層墓石(?)が林立し、思わず圧倒されてしまいました。 ちなみに、この高乾院の寺名は、初代藩主秋田俊季(としすえ)の父、実季(さねすえ)の法名に由来するのですが、この寺の名をもう少し詳しく書くと「臨済宗安日山高乾院」となります。 しかしながら、ここはなにしろご先祖様の御霊を供養する神聖な菩提寺です。 官公庁に提出するだけの文書ならいざ知らず、日本人の常識的な心情として、はたして神聖な菩提寺にわざわざ偽った後ろめたいものを掲げるものか・・・。私はあり得ないと考えます。 いや、公称に合わせただけだろう、という意見もあるかもしれません。 しかし、山号などは思うに多くは底地の地名などが通常であり、他にも何とでもつけようがあるはずで、あえてここに朝敵を彷彿とさせる「安日」を持ってきてご先祖様の感情を逆撫でする必然性などありません。 つまり、後世の賢(さかし)らな研究者によって系図を偽っていると言われようがなんだろうが、少なくとも当事者たちには偽っている気分などさらさらなく、当然ご先祖様への後ろめたさなどは皆無であり、真剣にそう信じ、長髄彦一族の末裔であることを誇りにしていたに違いない、私はそう思わざるを得ないのです。 |
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伊達家は優れた遺伝子を積極的に渇望する一族であったと考えられます。独眼竜政宗はやたらと姓氏系譜に詳しかったようです。 紫桃正隆さんによれば、政宗は、小姓たちとの会話の中で決まって彼らに氏姓を質し、それについて一々丁寧なウンチクを語り始めたのだといいます。 そんな政宗が、重臣である片倉小十郎による真田幸村の娘保護を容認した事実は、やはりただ事ではないのです。 大坂の陣の戦時において幸村にご指名で娘の保護を託された二代目小十郎は、そのまま彼女を正室に迎えております。政宗がそれを知らないはずはありません。徳川家が根絶してしまいたいほどの真田の血を、領内で繁殖させるということがどれだけリスキーなことであったか疑問を待ちません。戦国時代を駆け抜けた政宗だからこそ、幸村の勇猛な遺伝子を家臣として手に入れたかったことは間違いないと考えております。 さて、伊達家は政宗の正室に愛姫(めごひめ)を迎えたことによって、田村家の血を手に入れました。想像ですが、伊達側は田村氏が自称する坂上田村麻呂の血を手に入れたものと考えていたのではないでしょうか。 その愛姫ですが、政宗のもとへ輿入れしたのは若干11歳でした。しかし、政宗の第一子は側室の飯坂局(いいざかのつぼね)――猫御前――に授かりました。スーパーダテ人の出産を期待されていた(?)愛姫はきっと焦りを隠せなかったでしょう。 やがて、ようやく身籠った愛姫でしたが、期待を一身に背負って誕生した子供は、残念ながら周囲の期待を裏切り、女子でした。 政宗は何を思ったか、その娘に「五郎八(いろは)」という名前をつけました。 かつての大河ドラマでは、渡辺謙さん扮する政宗が命名を筆でしたためたのを見て、桜田淳子さん扮する愛姫が「あてつけにござりますか・・・。ごろぱちだなんて・・・何故男子のような名前を・・・」という感じでいじけてしまうシーンが目に焼き付いておりますが、たしかに政宗は男子が生まれる前提で名前を考えていたのかもしれません。 結局愛姫は、その後無事に男子を出産し、それが仙台藩二代伊達忠宗(ただむね)となっております。 飯坂局――猫御前――の生んだ政宗第一子秀宗(ひでむね)は、関ヶ原の功で徳川家康から賜った陸奥からは程遠い四国伊予の宇和島(うわじま)を任されることになり、江戸期を通じて生き残った雄藩宇和島を築き上げていくのでした。 さて、それ以前に愛姫の実家の田村家は豊臣秀吉によって改易の憂き目にあいました。私の記憶が正しければ、大河ドラマでは、愛姫が政宗に「実家を救ってほしい」と必死で懇願するシーンがあったように記憶しております。愛姫のその後の人生における実家へのこだわりを見れば、ドラマならずともそのような場面があったとしてもおかしくはありません。あるいは、逆に改易の非劇があったからこそ、余計に田村家の誇りを失わなかったのかもしれません。 伊達家の正妻として立派に生涯を終えた愛姫でしたが、一方では終生秀吉につぶされた実家の再興をあきらめてはおりませんでした。 政宗に嫁いで以降、二度と訪れることがなかったという愛姫の故郷「三春城――福島県田村郡三春町――」の麓に、「愛姫生誕の地」という記念碑がありますが、その脇の石碑には次のように書かれております。 ――引用―― 三春城主田村清顕の一人娘愛(めご)は本丸上の段に生まれ育ち 四面楚歌に陥った田村家救済の絆として天正七年十二歳で米沢城の伊達政宗に嫁いだ 清顕の死後甥宗顕が継いだ田村家は豊臣秀吉の奥羽仕置によって改易となった 田村家再興を願う愛は子の仙台二代藩主忠宗の側室が身籠ったのを夢で知り夢想の書付を残した めでたし めでたし いろよきはなのえだを こそみる 八月十一日ひる めでたし めでたし 愛は孫による田村家再興を忠宗に遺言し八十六歳で世を去った 孫は岩沼城主田村宗良 その子は一関藩祖田村建顕である この縁により三春と一関は姉妹都市となっている 涙もろい私は愛姫のこの書付内容を見て思わず目頭が熱くなりました。
愛姫は、その優しい御名にふさわしい方法で名門田村家の再興を果たしたのです。 |





