|
独眼竜伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」は、三春(みはる)――福島県田村郡――田村氏の娘でした。 愛姫の実家田村氏は、坂上田村麻呂の裔を自称し、南北朝の頃には南朝側の雄として南奥屈指の一族でもあったのですが、南朝の消滅から戦国時代の争乱の中で、次第にその勢いも陰りを見せておりました。 代々超大国の佐竹氏・蘆名(あしな)氏らの圧迫をはねのけてきた田村氏でしたが、戦乱自由競争のピークを迎えつつあった天正の世に至ってはそれもままならず、北の軍事大国伊達氏と姻戚関係を結んでおくことは必然的な選択でした。 当然、このことによって佐竹・蘆名との敵対関係が決定的になったわけですが、その後独眼竜政宗と共にこれらを破り奥羽天下の最右翼に躍り出たわけですので、田村氏の選択は一応正しかったと言えるのかもしれません。 もちろん、その後10年余りで伊達を中心とした南奥州の勢力図は豊臣秀吉によって徹底的に破壊されてしまうので、善し悪しの判定をとまどうところではありますが・・・。 それはともかく、この婚姻は伊達家としても渇望していたのではなかったか、と想像しております。 なにしろ、伊達家としては、梵天丸(ぼんてんまる)――独眼竜政宗の幼名――に並々ならぬ期待を込めておりました。 梵天丸の母親は出羽の英雄最上義光(よしあき)の妹であり、その最上氏は名族斯波(しば)氏の裔、すなわち足利氏に連なる名門源氏の血統です。 父輝宗は、梵天丸に先祖の英雄「政宗――伊達9代目――」の名を惜しみなく授けており、その命名を見れば伊達と源氏の遺伝子をブレンドした“スーパーダテ人”の誕生が、いかに期待されたものであったかを理解出来るのです。 そのスーパーダテ人である独眼竜政宗が、田村麻呂を始祖と仰ぐ田村氏の娘と結ばれるということは、将来には更に田村麻呂の血を上積みした“ウルトラスーパーダテ人”も期待されるのです。 ところで、あまり語られることもありませんが、独眼竜政宗――伊達17代――がその名を継承した9代目の“元祖政宗”は、独眼竜政宗に匹敵するとてつもない“傑物”でありました。 明徳三(1392)年、室町幕府三代将軍足利義満――『一休さん』に登場していた将軍様――によって、我が国混乱の元凶であった南北朝の合一が――騙し討ちとは言え――成された後、幕府は既に京にあり、武家政権発祥地の鎌倉は、鎌倉府――関東府――という、いわば京の本社に対する関東支社のような形で残されておりました。 陸奥・出羽はその管轄下に置かれていたわけですが、かつて幕府直轄であったものが関東府の管轄下に置かれたということは、つまり本来「源氏株式会社東北支社」であったものが、「源氏株式会社関東支社東北支店」のように、いわば相対的に格が落とされたということになります。南朝主力軍第一党である伊達をはじめ、奥州武士には鬱憤がたまりました。 また室町将軍家としても、本音としては、武士の本場でもある鎌倉公方(くぼう)管掌勢力にはあまり力を付けて欲しくありませんでした。だからこそ、その牽制の意味を込めて、足利家直系の斯波(しば)氏――大崎氏――を奥州探題に任命しておりました。 『余目記録』によれば、この大崎殿の格式は京の管領斯波氏と同格であったらしく、諸国の守護をはるかにしのぐものだったと言います。『仙台市史』は、それを管領斯波氏と大崎殿の書状の礼式から解説しておりました。 つまり、関東支社の支社長は、必ずしもその管轄下であるはずの東北支店長の格を上回るものではなかったということになります。そこがまた東国事情を微妙に不安定にさせていたようです。 更に、史上稀に見る怪物将軍足利義満は南北朝合一に引き続き、ちゃくちゃくと前代未聞の“皇室乗っ取り計画”を進行中であり、奥州事情などあまり眼中になかったのかもしれません。 幕府中枢の目が奥州から離れていたとあれば、鎌倉府が単独で奥州の手綱を操ることが困難であったことは必然です。なにしろ奥州は、滅びたとはいえ南朝主力軍の巣窟なのであり、ましてや奥州側からすれば鎌倉府など対等以下に過ぎないという感情が鬱積しているのです。 事件は明徳二(1391)年に始まりました。 こともあろうに、奥州探題の大崎氏が、隣接の加美や黒川――いずれも宮城県――といった「二本松城主――福島県――畠山国詮(くにあき)」の遠隔領地へ侵略したのです。 鎌倉府はあわてました。当然その奥州探題の私利私欲の暴走を阻止しなければなりません。そこで伊達氏と葛西氏を遣わしたのです。 その時の伊達の頭首こそが“元祖政宗”です。 元祖政宗はしっかり仕事をこなし、大崎氏を阻止しました。逆に大崎氏はその一件によって探題の実権を失うことになります。 しかし、なにしろ元祖政宗です。この混乱期に従順なわけがありませんでした。この後しっかり奥州事情を掻き回してくれるのです。 大崎氏の代理人事として派遣されたのは関東管領――鎌倉公方――足利満兼の二人の弟、満直・満貞でしたが、政宗は、公方満兼から依頼されていた足利兄弟の援護を放棄し、さらに刃を向けました。 “政宗謀反” 鎌倉方に緊張が走り、応永七(1400)年、今度は政宗牽制の命令が出されました。公方満兼は、伊達のライバルでもある白河――福島県――の結城氏と手を組むことによって鎮圧し、事態は一時収束されました。 しかし、応永九(1402)年、再び政宗が反旗を翻しました。 『三春町史』は、『鎌倉大草紙』の次の記述を引用しております。 ――引用―― 伊達政宗らが陰謀を企て、篠川殿の下知に従わず、五月二十一日上杉氏憲(禅秀)が大将として発向した。政宗は、赤館(桑折町)に城を構え、いったんは鎌倉勢を追い返し、ことごとく討ち取ったが、その後、近国の軍勢が馳せ向かうに及んで、ついに九月五日降参した どうやら政宗を鎮圧するのには相当苦労したようです。 また『余目記録』には 「上杉殿(氏憲)大将として二十八万騎にて攻め下ったが、伊達一族の長倉入道の策略によって失敗し、一騎残らず討たれた」――『三春町史』―― ともあります。 “二十八万騎”です。 これは源頼朝が奥州藤原氏討伐に向けた総力軍と同規模です。 しかも、それをもってしても政宗討伐に失敗しているというのですから、“元祖政宗恐るべし”と言ったところでしょうか。 『余目記録』は史料として信頼に足るとされているわけですが、さすがにこうも極端な規模ですと、頼朝の奥州藤原氏討伐と混乱している可能性もあります。 しかし、実はこれを補強し得る史料があるのです。 寛正三(1462)年に11代伊達持宗――元祖政宗の孫――が上洛した時のことを記録した、京都相国寺の瑞渓周鳳による日記『臥雲日件緑(がうんにっけんろく)』によれば、 「昔、奥州一国に三千騎の兵を領する者は七人いたが、伊達はその一人であった。今は伊達単独で7000騎を領する。故永安寺殿――氏満を指すが、満兼の誤り――はその伊達を三度征伐した。初め十六万騎、次に十七万騎、十八万騎に及んだが、これを平定することができなかった」 とのことなのです。 『余目記録』が伝える28万騎ほどではないにせよ、元祖政宗に襲いかかった鎌倉軍は、少なくともかつての平泉軍全勢力に匹敵するほどの軍勢による波状攻撃であったというのです。 一方の伊達の軍勢は、『臥雲日件緑』によれば、かつては3000騎、そしてこの日記が書かれた時代には伊達単独で7000騎とあります。 伊達は既に奥州最大級の勢力ではあったことでしょうが、少なくとも同クラスの国人が他に6者存在していたことが同日記からわかりますので、かつての平泉のような大軍は形成できなかったはずです。したがって、近隣諸国と結んで連合軍を形成したとしても、伊達が単独で集めることの出来た兵力は、単純に 17万(奥州17万騎で仮定)÷7人(同クラスの国人の数)=2.4万騎 ということであり、せいぜい2万騎が関の山ではないでしょうか。
いずれ、鎌倉側は史上空前の大軍勢で三度も政宗を攻めたにもかかわらず、遂に落とせなかったのです。これは尋常ではありません。先の『鎌倉大草紙』によれば伊達が降参したとありますが、これはどうやら「大本営発表」レベルの情報のようです。 何故なら、この乱の後、伊達が衰退した面影などまるでなく、それどころか伊達側の領地が没収された形跡も見られないのです。鎌倉府は、『三春町史』が想像するようにおそらく「伊達氏と妥協によって乱を収めた」のでしょう。 とにかく奥州の一氏族が、軽く10万を超え、もはや30万にも及ぶ国家規模の軍勢相手に互角の勝負を3度も繰り返し、ことごとく追い返したというのですから、アテルイ並みの快挙と言えるでしょう。 独眼竜政宗――17代――は、そのような偉大なご先祖さまの名前を授かったのです。この一事を見ても、独眼竜がいかに期待されていたかがわかるというものです。 その伊達家期待の嫡男の正妻に田村氏の娘が選ばれたことは、やはり深い意味あってのことと考えておかなければならないと思うのです。 |
三春散歩
[ リスト | 詳細 ]
歴代東北の王者の面影を、坂上田村麻呂伝説の聖地の散歩から眺めてみます。
|
田村氏が謎めく理由のひとつは、異なる毛色の系統が歴史上に紛らわしく現れるところにあります。
坂上田村麻呂を始祖と自称する系統の他、平将門(まさかど)を始祖とされる系統、その将門を討伐した藤原秀郷(ひでさと)に連なるとされる系統などです。 これらのうち、藤原秀郷系を除く二者の事績の区別が難しく、両者は同一系譜とも考えられます。 『坂上氏系図』では、田村麻呂の子「浄野(きよの)」が奥州の所領を継いでいる他、3人の子が常陸国、上総国、下総国に住居していたとされております。 また、『将門記』には、将門方として斬られた常陸国の坂上遂高(かつたか)の記述があり、『三春町史』はそれを、坂上氏が――坂東においても――土豪化していたことの傍証としております。 こうして見ていくと何も迷うこともなさそうですが、三春に入る前の自称田村麻呂系がどのように活躍していたのかが見えません。 そもそも三春――福島県――を中心とした田村郡自体が謎に包まれております。その最たるものは奥州藤原氏討伐後の源頼朝の論功行賞でしょう。田村郡周辺には、鎌倉御家人らの入植があまねく伝わるなかで、ひとり田村郡のみが空白域なのです。そしてそのまま鎌倉期の田村郡がどのような勢力図の下に位置づけられれいたのかもよくわかりません。しいてあげれば、少なくとも鎌倉期末期には藤原秀郷系田村氏がこの地を領していたようです。 興味ぶかいのは、『三春町史』によれば、この秀郷系田村氏は藤原姓を称さず坂上氏を称していたというところです。 さらに町史は、「このことは後世の戦国田村氏の場合も同じで、平姓田村氏が坂上氏を名乗っており、田村を支配する地位に立つ者の条件として、坂上氏を称すべき伝統があったことを示している」と続けております。 基本的に『三春町史』は、田村氏が自称する坂上田村麻呂系譜をあくまで「伝承」と割り切っておりますので、「彼らは田村麻呂の末裔か」という謎については考えず、最初から「何故坂上氏を仮冒したか」というところから始まっております。 もちろんそれは実に自然な見解であり、私にはそれを論破できる術もないのですが、きわめて曖昧な感覚的なものとして、三春田村氏の田村麻呂に対する執念をそう簡単に片づけていいものだろうか、という気持ちが残ります。 当地の領主が坂上系でなければならなかったのなら、何故秀郷系は坂上氏を名乗っていながら田村麻呂末裔を名乗らなかったのか、むしろそちらが不思議に思えてきます。 また、武士の時代、自家の系譜を将門系に結び付けるのは、後に源氏に結び付ける輩が増えたのと同じような一種のブームであったと考えられます。将門は国家的な反逆者であったわけですが、武士の間では“武門の誉れ”であり、武家時代には一種のブランドでもありました。太田亮さんは『姓氏家系大辞典(角川書店)』の中で、安東氏や秋田氏がナガスネヒコの兄「安日(あび)」なる人物を始祖としてもってきたことについて、「それは真相を伝えているかにみえるが、明らかに将門(まさかど)の裔、純友(すみとも)の裔でないものが、武家時代にはその後裔と伝えるものが多いのと同様、武勇を尊んだ結果にほかならない」としているとおり、将門が一つのブランドであったことを前提としております。 ちなみに、ここで引き合いに出されている安東氏なり秋田氏は江戸期における三春の領主なわけですが、谷川健一さんは『白鳥伝説(小学館)』のなかで、「太田の説明ではなお不足である。奥州の安倍氏は蝦夷の末裔とみなされていた。また、その安倍氏の流れをくむ安東氏や秋田氏もおなじ立場に立っていたはずである。出自に負い目をもつこれらの人たちが「武勇を尊んだ」結果、ナガスネヒコの係累である安日なる人物を創作したというふうにはとうてい考えられない」としておりましたが、私も同感です。 それはともかく、ここでは将門系譜がブランドであったことがわかればそれで足ります。 何故なら、私が言いたいことは、将門系譜で浸透していた誇り高いはずの将門系田村氏が、それを捨ててまで田村麻呂系譜を語ることは考えにくいというところにあるからです。 「田村麻呂の方がブランドとして将門を上回ったからに決まっているではないか」 と言われればそれまでですが、例えば現代において人気絶好調の坂本龍馬の末裔の方が、それが誰からも認知されているのにもかかわらず、わざわざ「我が家は長宗我部(ちょうそかべ)家の末裔である」などと言うでしょうか。 たしかに坂本家の先祖は一領具足で長宗我部家に仕えてきた家柄でもありますから、家の中ではその系譜の方が誇り高いかもしれません。 しかし、時勢においては龍馬の末裔という真実で十分以上に箔がつくはずで、もしそれでも長宗我部氏の末裔であると主張しているのだとすれば、やはりそこにはなんらかの真実が隠されているはず、と私は考えたいのです。 三春町荒町には、坂上田村麻呂の愛馬を供養しているという「馬頭観音堂」があります。馬頭観音自体はさほどに珍しいものでもありませんが、たいていは○○神社の境内社という趣きであることが多いものです。 しかし当地のそれは、それだけでいっぱしの境内を持つ独立性の高いものです。 さて、馬については、平将門においても代名詞と言えるほどのものです。 将門の末裔の本拠地、相馬(そうま)――福島県――には「相馬野馬追(そうまのまおい)」という勇壮な祭りが行われて名物となっております。現代において実際に500騎もの騎馬が一斉に駆け抜ける場面などそうそう見られるものではありません。これは将門の軍事演習の名残と言います。途中、時の政権の圧迫などがあり紆余曲折はあったものの、1000年以上もの長きに渡って継承されてきたこの祭りの意味は一体何を指すのでしょうか。将門末裔の思いとはそのくらい“濃い”のです。 その将門の末裔が、自分たちの思いのこもる馬への信仰――馬頭観音――について坂上田村麻呂の愛馬などと変質されて黙っていられるでしょうか。私にはとても不自然にしか思えません。私はやはり三春田村氏は将門の裔ではなく、田村麻呂の裔であったと考えたいのです。 |
|
坂上田村麻呂の裔を自称する田村氏の菩提寺「慧日山 福聚寺(ふくじゅうじ)」は、絶品「油揚ほうろく焼」を提供する「ホテル八文字屋 お食事処 ほうろく亭」の南の小山にありました。この山に田村三代の墓廟もあります。 この寺は、暦応二(1339)年安積(あさか)郡福原――現:郡山市日和田町――に、「田村輝定」によって創建されました。その後、永正元(1504)年「田村義顕」の三春移城に伴い、現在地に遷されたのだそうです。 本尊は釈迦如来像のようで、脇待に大迦葉(だいかしょう)と阿難陀(あなんだ)という釈迦十大弟子のうちの二弟子が配されているといいます。 迦葉と聞いて私の脳裏をよぎるのは、鶏足山(けいそくせん)です。迦葉は釈迦から弥勒菩薩(みろくぼさつ)への申し送りを授かった高弟です。 弥勒菩薩は、釈迦入滅後56億7000万年後に如来となって下生し、釈迦の救いにもれた人達を救うことが約束された菩薩様でした。迦葉は、その気の遠くなるような未来の弥勒の下生をじっと待ち続けなければなりません。鶏足山とはその弥勒を待ち続けている場所です。 さて、前に私はニワタリ信仰について仮説を提示しました。 ざっくりと振り返りますと、鳥トーテムを持つ土着勢力と、やはり鳥トーテムを持つ先進技術を携えた進出勢力の結び付きを二羽の鳥の婚姻になぞらえたのではないか、というものです。その信仰が当初どう呼ばれていたかはわかりませんが、属性としては二羽の鳥信仰とでも呼ぶべきもので、そこに“鶏信仰”が被り、さらに当地への南朝拠点の進出によって密教色の濃い仏教の気分が広がり、一方で鶏の呼称に弥勒信仰的影響から「鶏足山(けいそくせん)」が被り、その訓読みで“ニワタリ”に変遷したものではなかったかと考えたのでした。 また、ニとミの発音の紛らわしさから、ミワタリとして伝わるものも現れ、大きく分けてニワタリ系のAグループと、ミワタリ系のBグループに分かれて各々名前が変遷していったのではないでしょうか。 Aグループの方は、尊崇の意味を込めて“御(お)”がつき、御ニワタリさま、などと呼ばれ、やがてそのまま「鬼渡」と当て字されて変遷したものもあったことでしょう。「いや、鬼渡が先にあった」と言うのであれば、「お」が抜けてニワタリになった理由を説明出来なければなりません。 Bグループとしては、ミワタリのミワから三輪神社に結び付いたものと、やはり“御”を冠され御ミワタリさま、などと呼ばれているうちに、その韻から、そのまま諏訪湖の「御神渡り」と被り、諏訪神社として発展していったものもあるかに思われます。仙台市青葉区愛子の諏訪神社などはまさに後者であろうと想像しております。 何故私がこの福聚寺本尊の脇待が迦葉であっただけでここまで反応してしまうかと言うと、この三春にニワタリ――ミワタリ――系神仏の集中が見られるからです。 『三春町史』が『村々院寺山伏社家社堂』を基にまとめた「享保十七年鎮守神別神社数」によると、現三春町域22村25社のうち、実に7社が三渡権現のようで、他に飯渡権現の2社を合わせると9社となり、全体の3分の1がミワタリ系――ニワタリ系――であるといいますから、このシェアは尋常ではありません。 ところで、町史の田中正能さんは「本来は神渡(みわたり)の名で開発農業神としてまつられた土地神である」と断言しておりますが、何を根拠にそう断定しているのかがよくわかりません。個人の仮説としてならばそれもありだろうと受け入れられますが、正史たるべき町史上でのこの断言には、さすがに私も素直になれません。ニワタリ系についてはこれまでいろいろと調べてきたつもりですが、管見においてそう断言できるほどの証拠など皆無と言わざるを得ません。諸氏の論考にも目を通してきましたが、結局は謎としているのが実情です。したがって田中さんが、もしその根拠を提示出来るのであれば是非ともご教示していただきたいところです。 少々きつい言い回しになってしまいましたが、何故その部分にこだわるのかと言うと、私が知る限りで最も徹底してニワタリ系神社を精査された日本地名研究会の三文字孝司さんの調査結果を見る限り、旧仙台藩領内、すなわち岩手県南、宮城県、福島県北のエリアでニワタリ系(Aグループ)は42社であり、ミワタリ系(Bグループ)の28社に比べて1.5倍もあります。にもかかわらず田中さんは少数グループの名称を本来的なものとして断定しております。どうしても大きく違和感を覚えざるを得ないのです。もちろん消えてしまったものもあるでしょうから、この数の対比を絶対視するつもりもありませんが、いかに調査が進んでもそれが飛躍的に反転するものとも思えません。確率から言っても、素直に数が多い方に真実があると考えた方が自然ではないでしょうか。特に仙台市泉区の二柱神社の明治期以前の名称「仁和多利大権現」などは一音ずつ漢字があてはめられており、ニワタリという読み方を決して間違えて欲しくないような思いが込められていると考えられます。 いずれ、ニワタリ系の分布を眺めていて新たに思うところが出てまいりましたので、それは近いうちに触れたいと思います。 さて、話を福聚寺に戻します。 田村氏の菩提寺であるこの寺の本尊は釈迦如来像だったわけですが、田村氏の素性を考える際に興味深いのは、本堂に向って左側にある観音堂です。 ここに安置されている十一面観音こそが田村家守護仏と伝えられ、町の文化財にも指定されているそうです。それのどこが興味深いのかと言うと、守護仏が十一面観音であることは、坂上田村麻呂の裔であるという自己紹介に矛盾していないのです。よく信仰心だけは偽れないと言いますが、坂上田村麻呂伝承には十一面観音が付きものです。 ところで、この福聚寺という寺の名前を見たとき、私はふと仙台の同名寺院を思い出しました。仙台市太白区にある「福聚院」は、明応五(1496)年の開山ですが、その頃、すなわちおよそ500年前にこの寺は、俗に「皮坊寺(かぼうでら)」と呼ばれ、付近の一角に住まわせられて皮革取扱の業に従事させられた被差別民の駆け込み寺であったといいます。 もちろん江戸期以降の現在の檀家とは全く関係のないことでしょうから、勘違いされてもいけないのでそこは念を押しておきますが、三春のこの寺にも何かそのような謂れはあるのだろうか、と思ったのです。 すると、偶然にもここの歴史にも何やらそのような空気感が漂っておりました。 『三春 城下町を歩こう(三春町歴史民俗資料館)』によれば、このあたりは下級武士の居住地であったとのことで、加えて次のように書いてあります。 ――引用―― 中世には、権力に抗する人などが駆け入り、保護を願い出ることが出来る寺院がありました。福聚寺もそうした寺院のひとつで、所在地の御免町は、「寺入り御免」に由来していると伝えられています。 明治初期、自由民権運動の先進地域にもなった三春は、少なくとも中世において既に反骨精神旺盛な土地柄でもあったようです。
|
|
三春(みはる)――福島県田村郡――を散歩していて、とにかく驚いたことはすれ違う地元の人たちがかなりの確率で挨拶をしてくれることでした。 これが三春町民の“素”なのかどうかはわかりませんが、仮に素ではなかったのだとしたならば、よほど観光に力を入れ、そしてそれが町民にあまねく浸透していなければなりません。 とにかく、挨拶をされて気分悪いわけがありません。 いやはや“脱帽”です――特に帽子をかぶっていたわけでもありませんが――。 気がつけば、私は「三春」という土地柄を好きになっておりました。 三春にはもうひとつお気に入りがあります。 「油揚ほうろく焼」です。 「ホテル八文字屋」の「八文字屋主人」による『油揚ほうろく焼の由来』を紹介します。 ――引用―― 奥州三春の里は、永正の昔から寺院料理である豆腐料理が発達し、油揚となり、庶民の中で重要な食生活の位置を占めていました。その昔、藩主秋田氏三代輝季公が、今の滝桜の地にお鷹狩に向い、昼食のため、庄屋の根元某なる者の所で休息致せし折、そこの女帝お梅が、ほうろくにて油揚を焼き差し上げた所輝季公が殊の外賞味されたという郷土史の逸話から八文字屋先々代久右ェ門が再現した油揚ほうろく焼は、 春は、ふきのとう味噌 夏は、山椒味噌 秋は、柚子味噌と四季折々の風味豊かな郷土料理として皆様に愛されております。 素朴な味が御飯のおかずに、又酒の肴として好評です。 どうぞご賞味の上、お引立の程お願い致します。 八文字屋主人 最初、私は空腹にしっかり応える肉や魚の動物性たんぱく質系の食事を求めておりました。
しかし、せっかくの旅先、やはりご当地ものを試すべきだろう、その程度の感覚でこのほうろく焼を選びました。 ところが、ここで私は当初の期待をはるかに超える満足感を得られることになりました。 さくっとした表面の焼き上がりと、ふわっと食べ応えのある分厚さ、そして分厚さ故の適度な噛みごたえ、噛むほどに味わいのある豆腐生地、そしてそこに挟みこまれたネギの刺激が実に心地よく、香ばしい甘味噌によって完成されたこの名産品を喉で味わう、私の満足感は一気に極まりました。 お殿様が庶民の料理に触れて感動する逸話としては「目黒のさんま」などが有名ですが、思わず私も「油揚は三春に限る」と言ってしまいそうになりました。 |
|
おしなべて坂上田村麻呂伝承が多い東北地方においても、田村郡――福島県――のそれは他を圧倒して抜きんでております。それもそのはず、この地の市邑「三春(みはる)」を拠点とした田村氏は、自らの始祖に坂上田村麻呂を掲げており、言うなればこの地は田村麻呂伝承のエルサレムとでも言うべき聖地であるのです。 『三春町史』において執筆者の一人である田中正能さんは、「山川草木、ほとんど一木一草に至るまでといってよいほど田村麻呂伝承を持っている」と語り、加えてなにか奔放に書けない事情でもあるのか「これを否定すると、利害関係のある寺院・神社などの否定につながるほどに、人々の社会生活に密着している」と、微妙に揶揄(やゆ)が混じりがちでもあります。 さて、当地の名産品「三春駒」は、典型的な“田村麻呂産業”と言えるかもしれません。田村麻呂伝承を否定してしまったら三春駒の“ありがたみ”はだいぶ割り引かれてしまうことでしょう。 三春駒は神がかりなありがたみの歴史に立脚しているのです。橋本長芳さん作の三春駒に添付されていた説明書から引用します。 ――引用―― 日本三大駒の一つとして最も有名な三春駒の由来はかなり古く、延暦十四年の昔(千二百有余年前)坂上田村麻呂将軍が大滝根山(三春城外)の石窟に住む大多鬼丸という夷賊征討の為、平安京を出発するに際し京と(ママ)清水寺の開祖と云われる帰依僧延鎮上人が五体の仏像を刻んだ余材で鞍馬百疋を刻み将軍に贈った。将軍これを鎧櫃に蔵め、征夷の途に上り、戦は開始されたが、官兵は遠路に疲れ苦戦状態であった。其時どこよりともなく鞍馬百疋が官兵の陣営に走り込んだ。兵士達は急に元気百倍、その馬にまたがって大滝根山に攻め登り凱旋を奏する事ができた。 昔から不思議にも木馬を弄ぶ子供は弱者も強健に育ち、子なき家には子宝が授かり、ホーソー、ハシカも軽いというので子育駒の名が立ったのである。 私はこの伝承を重視します。苦戦中の田村麻呂を助けた“鞍馬”すなわち“駒(こま)”の霊力が三春駒の由来ということになります。三春駒は田村麻呂を助けた馬100騎の霊力の形代である、あるいはそう考えられ、根強く伝わっているのです。ここには、馬に対してある種トーテミズム――祖霊信仰――に近い崇敬心すら感じます。 ちなみに、ここに書いてある「日本三大駒」の残る二つは、青森県の「八幡(やわた)駒」と宮城県の「木ノ下駒」になります。 宮城県の「木ノ下駒」の由来も見てみましょう。こちらは「陸奥國分寺」頒布の木ノ下駒添付の由来によるものです。 ――引用―― 聖武帝の昔(約一千二百数十年前)奥州仙台の木の下に陸奥国分寺の創建があった。往時より国分寺の境内で恒例として馬のせり市が立てられ、その市で多賀の国府は駿馬を選び買上、時の帝え献納する慣習があり、駒牽の盛儀に選ばれた良馬は左馬寮の官人が近江の逢阪や美濃の不破関等え駒迎えとして遣わされ朝廷では駒迎えの節会と称する歌会や、賀宴が催された。その献馬の胸に「うまかた」というものを掲げて行った。此の馬形が玩具として木の下駒の作り出された始めだと伝えられ当時から馬の厄災を除く為に神棚にかざり、あるいは厩に懸けて守護神として愛重されました。現今では、仙台の代表的民芸品としてお祝い品記念品等に広く用いられ全国的に有名であります。 木の下駒は鞍掛に菊花の模様、胸掛には赤地に五条の白線が引いてあるのが特徴とされ単純粗野の中に着色形態の奇抜さも愛くるしく、古来より日本の三大駒と称される三春・八幡の両駒と共に蒐集家に愛好されて居ります。 何やら三春駒の由来よりもだいぶ現実的です。歴史的な考証に重きをおくならば、信憑性の上ではこちらに軍配が上がりそうですが、なにしろつまらないと言えばつまらなく、実質的なご利益を期待する立場ならば、心もとないと言えば心もとなくすら感じてしまいます。 三春駒の神霊性に対し、木ノ下駒は土産品の域を抜け出ていない感も否めません。 しかし、木ノ下駒の起源が聖武天皇の御代まで遡るとするならば、田村麻呂征討時代、すなわち桓武天皇時代に起源をみる三春駒よりもおよそ半世紀ほど遡る歴史があるということにはなります。 一方、青森の「八幡駒」に至ってはだいぶ時代が下り、今から700年ほど前に起源をみます。
三春、木ノ下より500年以上も下るモノとあれば、二次的に発祥したものと考えて一旦区別しておいた方がよさそうです。 ところで、今、あえて「八幡“駒”」と表記しましたが、これは実は誤りです。これは「三大“駒”」に韻を合わせた俗称に過ぎません。俗に「八幡駒」と呼ばれるものは、厳密には「八幡“馬”」なのです。“コマ”ではなく“ウマ”なのです。 何故青森のそれだけは“ウマ”なのでしょうか。 ウェブ上某所の記事によれば、そもそもコマとは若い馬や子馬のことを指すとのことで、古い八幡馬は四輪の台車に乗った親子馬であったようで、少なくとも一方が「大人の馬である」からコマとは呼ばないのだそうです。 八幡馬は、青森県八戸(はちのへ)の「櫛引(くしびき)八幡宮」の例大祭、流鏑馬(やぶさめ)の儀式の際、土産品として売られるようになったのだそうですが、そもそもの起源としては、700年ほど前に八戸の天狗沢に流れ着いた京の木工師が、塗り物業を営む傍らに作っていた玩具から始まったようです。 なにはともあれ、1200余年前に起源があるとされる「三春駒」や「木ノ下駒」に比べると、八幡馬はだいぶ新しいもののようです。姿形は似ておりますが、おそらく三春駒なり木ノ下駒を知る信心深い職人が、櫛引八幡宮の流鏑馬神事の土産にふさわしいものとして、三春や木ノ下の古式にあやかって摸したものが八幡馬なのでしょう。 ところで、わずかばかりの憎まれ口を叩くならば、駒を「子馬」とするのは後世の語呂合わせではないか、と疑っております。 思うに、「駒」は「子馬」ではなく「高麗(こま)」のことでしょう。 たびたび触れているとおり、馬は高麗――高句麗――の強さを象徴するものでもあります。 したがって、古代における「駒」は、高麗人が育成した強い馬のことのみを指したのではないでしょうか。 その意味で、奈良期〜平安期に起源がある三春駒と木ノ下駒は、やはりあくまで高麗系のコマ、現代風に言えばサラブレッド、すなわち馬世界(?)の優良ブランドであり、みだりにそれを冠してはいけない名称であったのかもしれません。 もしかしたら八幡馬推進の主宰者は、そのあたりに遠慮したとも考えられます。 あるいは、全く逆なことも考えられます。 「駒」を高麗系渡来人に対する“差別用語”と疑ってみるのです。八戸の八幡馬が、“駒”ではなくあくまで“馬”にこだわる理由は、もしかしたらそのあたりに原因がある“極めて切実なもの”だったのかもしれません。もちろん勝手な想像です・・・。 なにはともあれ、田村郡三春町には、江戸時代の領主秋田氏の痕跡も濃厚です。秋田氏とは、前九年の役で戦死した安倍貞任の遺児高星の裔を称する一族です。 征服者と被征服者――。 時代こそ異なれど対象的な両極の英雄の面影が混在しているこの聖地を、私はしばし散歩してみたいと思います。 |



