はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

ワニの一族

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中ツ臣の意味と、摂関藤原政権を震撼させた蝦夷オールスターズの正体を考えてみます。
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似て非なるモノ

 『ホツマツタエ』はその編纂の代表者に太田田根子(おおたたねこ)を掲げており、記事においては、ある時代以降からはオホ氏に縁が深いと思われるヤマトタケルの英雄譚がやたらと目立ちました。それらの事から、私の頭にこの文書はオホ氏の末裔によるものではないか、という推測が膨らんでいたわけです。
 ただ、この太田田根子を祖とするいわゆる三輪君は、三輪山周辺の管掌においてオホ氏を継承した別な一族――倭直氏か(?)――である可能性も高いようです。彼らに三輪山祭祀の伝承が希薄であることは、大和岩雄さんや吉井巌さん、山上伊豆母さんらが指摘するところです。ということは、私がオホ氏の事績と捉えていたものの幾ばくかは、オホ氏になりすました(?)倭直氏のそれである可能性も否定できません。いずれにせよ、このことは三輪山の多面性を考える際には頭の片隅にしっかり据え置きたいところです。
 後にも触れますが、同様のことはオホ氏とワニ氏の間にも見受けられます。例えば『矢本町史』には次のような記事があります。

――引用――
 和邇氏の勢力を知るもう一つの資料は、平安時代につくられた『延喜式(えんぎしき)』である。この記録をみると式内社として牡鹿郡に鹿嶋御児神社・香取伊豆御子神社の名がみえている。この鹿島・香取系の神社を司祭する氏族は中臣(なかおみ)氏で、これも和邇氏系の豪族である。鹿嶋御児神社は、現在石巻市日和山にあり、香取伊豆御子神社は河南町和渕にあって両社はともに北上川下流の河口付近に鎮座している。その起源について津田左右吉博士は奈良時代後半以降といっておられるが(津田左右吉『日本上代史の研究』)、奈良時代初頭、あるいは古墳時代までさかのぼることも考えられる。中臣氏はおそらく角川源義氏のいわれるように、大和国和邇の本貫を出て常陸国に至り、香取・鹿島の神を奉じて太平洋岸沿いに奥州経営をはかったものであろう(角川源義「あづまの国」『古代の日本』7関東)

 これはひとえに、「中臣」を一氏族の姓に断定し一元的に捉えたための和邇氏・多氏の混同なり交錯なりと思われますが、そのくらい“中臣”とはややこしく、藤原氏の罪が重いと私は考えます。
 同様なことが、ここにある鹿島・香取の関係にも言えます。これは鹿島・香取の神を同体異称と断定しているがための発想なのでしょうが、これも藤原氏がオホ氏や物部氏ら古代有力氏族の事績を自らの歴史にとりこもうと策略したことによる副作用ではないでしょうか。思うに、香取の神を奉斎したのはオホ氏でもワニ氏でもなく、おそらく物部氏であると私は考えております。物部氏が特定の氏族を指すものか否かは中臣(なかつおみ)の職掌同様に謎めいており、私の中にも未だ確たるものはありませんが、少なくとも鹿島の神を奉斎したオホ氏に対抗して物部氏――と呼ばれた氏族――が香取の神を奉斎して北上したのであろう、とする太田亮さんの仮説は支持したいと思います。
 少し整理しておきますが、私の仮説では、オホ氏の主力は5世紀以前には政権中枢を追われて流れ流れて常陸国に至り、当地において鹿島神奉斎一族として一大勢力を展開し、おそらくは朝廷の政策とあまり関係のない独自の戦略によって陸奥国にまで影響力を強めておりました。
 ところが、8世紀になり藤原氏の権勢が中央情勢の中で確固たるものになるにつれ、とうに落ちぶれたオホ氏の祀る偉大な鹿島神を自らの氏神に変質させた藤原氏は、オホ氏――中ツ臣――の輝かしい歴史をも自らの歴史に取りこもうとしていたように思われます。
 大和岩雄さんは、『日本古代試論(大和書房)』の中で、「仲津臣が多氏になったとき、目原の地にタカミムスビを祭った」とする『多神宮注進状』の「今云多神社其後志賀高穴穂宮御宇稚足彦天皇御世五年乙亥之歳、初詔武恵賀前命孫仲津臣為祭多神之主負多氏依社号也。是日天皇依神託詔仲津臣、奉斎祀外戚天神皇妃両神於目原地 今目原神社是也」の一文をとりあげ、次のように述べております。

――引用:『日本古代試論(大和書房)』より――
 仲津臣は天皇の命で多神社・目原神社を祭る人物である。神を祭る人だから仲津臣と記しているのだろう。『注進状』では他のところでは神八井耳命とか大日諸命・小子部連縲蠃など『記』『紀』に書かれている固有名が登場するが、ここでは固有名ではなくナカツオミとだけ記されているのは、オホの地で天皇の代りに天神地祇を祭る人のことをナカツオミというからである。オホ氏になった仲臣の下に中臣連が卜部として従事していたのである。〜中略〜
現在伝えられる神統譜の完成には、その仲臣(仲津臣)のオホ朝臣と中臣連の藤原朝臣が、古い時代と立場は逆になりながらも、協力しあったのではないだろうか。
 新興の中臣(なかとみ)に仲津臣(なかつおみ)が利用されたのである。
 文武二年以降『日本書紀』完成の二〇年間の藤原体制強化のための不比等の暗躍に、祭祀と修史の面で、太安麻呂は大いに利用されたのである。

 まず思うに、仲津臣になった記念すべき祭祀、すなわち天皇の下に生き抜く決意の上で一族にとって大変重要な節目のときに、アマテラスではなく、タカミムスビを祭ったということについては興味をそそられます。『ホツマツタヱ』でタカミムスビがアマテルを凌駕するほどの存在感で描かれていただけに、どうにも過剰反応をしてしまうのです。
 それはともかく、オホ氏はちゃっかり自分達に成り替わろうとする藤原氏によって、肝心の本拠常陸国鹿島神宮までも奪われてしまったわけですが、鹿島御子神を奉斎して陸奥国に展開していた同族たちは、9世紀半ばに至ってついに蓄積された鬱憤を爆発させることになりました。彼らは、公の立場上せいぜい苗裔神を祭祀している枝葉に過ぎないにもかかわらず、一致団結して陸奥国の行政までをも味方につけて本家鹿島神宮を孤立させたのです。
 鹿島の苗裔神は、陸奥国太平洋岸及びそれに近い主要河川に沿って点在しております。これをもって一般的にはヤマト北上の軌跡と捉えられがちですが、それは鹿島を藤原系中央政権と関連させて考えたための誤解であって、やはりこれはあくまで古代氏族オホ氏の私的北上の軌跡と考えるべきでしょう。平安期以前の記録で語るなら、この軌跡の北限は、牡鹿郡、小田郡、志太郡、色麻郡あたりで、おおよそ現在の鳴瀬川のラインと言っていいかもしれません。
 いずれにせよ、牡鹿郡の首都があったと想定されるヤモト――現:宮城県東松島市――はそのような地にあるのです。
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鳴瀬川河口

八本の鷹

 かつて『ホツマツタヱ』なる文書についていろいろ考えていたとき、“ヒタカミのヤマテ宮”とはどこなのだろう、と気になっておりました。
 ヤマテ宮とは、『ホツマツタヱ』上でのタカミムスビの本拠ヒタカミ国にある宮、すなわちヒタカミ国の皇居のことです。つまり、そのヤマテ宮所在地がヒタカミ国の首都ということになります。
 『ホツマツタヱ』でのタカミムスビは、ヒタカミ国の王であり、かつヤマトの影の帝王というような位置づけになっておりますが、特に5代タカミムスビのトヨケ――豊受神:伊勢外宮に比定――についてはイザナミの父であり、つまりは皇祖アマテルの祖父であり、アマテルの人生観や政治姿勢の師匠でもあります。この史書が偽書だとしても、その偽作者が一体どこをイメージしてヤマテ宮なるものを創作していたのかが東北人の私としては気になったのです。
 ちなみに、数年前、ウェブ上でホツマツタヱを翻訳していたとある訳者は、ヤマテを“仙台”と解釈しておりました。
 一方で、ヤマテを仙台に比定するのは「仙台」という地名の訓をヤマタイと読み、苦しい解釈をしたうえで語呂合わせをしたものであろう、という否定論者の記事も、丁度同じ頃に目にしました。おぼろげな記憶ですが、その論者は、ヤマテの訓が政宗命名の「仙台」に基づいている以上この文書が江戸時代を遡ることはない、という旨の見解も書いていたように思います。
 しかし、その考え方にも違和感があります。ヤマテが仙台に対する強引な訓の語呂合わせであるという見解自体が、そもそも論者自身の想像の域を出ないものです。自分の仮説に仮説を上塗りする展開というのは私もよくやっていることなので偉そうには言えませんが、それにしてもヤマテ仙台説を否定しきるには脆弱な論拠と言う他はありません。
 とはいえ、実際私も仙台がヤマテ宮のモデルとは考えておらず、大変つまらなく大人の解釈でまとめるならば、ヤマテとは、ホツマ偽作者がさも邪馬台国をイメージさせようという意図を持って創作したもの、ということになるのかもしれません。
 しかし、それでも尚私はある場所が気になっておりました。勘の良い方は既にお気付きかもしれませんが、それは「牡鹿柵」の最有力候補地とされる宮城県東松島市です。東松島というと他地域の方にはチンプンカンプンでしょうが、この地の大半が平成の大合併まで「矢本(やもと)町」であったことを補足すれば、少しは共感いただけることでしょう。かつての私は、この“矢本(やもと)”がヤマテのモデルであったのではないかと疑っていたのです。
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 もちろん、きっかけは単に「韻が似ているから」というところにありました。
 しかし、限りなく願望に近い「答えありき」の検証とはいえ、健気にも一応それなりの論拠は持ち合わせておりました。所詮暇話ですが、しばしおつきあいください。
 まずは一般的な(?)ヤモトの地名由来をご覧ください。

――引用:JR仙石線矢本駅前「矢本駅前広場整備事業モニュメント」説明文『矢本昔ばなし』典拠より――
 文治五年(1198)4月、藤原泰衡公自ら手兵を率い、高舘を奇襲した。源義経は「もはやこれまで・・・・・・」と悟り、秀衡より拝領の八本の鷹を籠より放す。
 古来、鷹狩りの鷹をかぞえるには、一羽とはいわず、一本(ひともと)、二本(ふたもと)と称するのを常という。
 八本の鷹は放されると、奥羽の山を越え大きな槻の木に棲みついた。いつしか人々は、八本の飛びきたるこの地を、やもと(矢本)と称するようになったという。
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 ここには私が見逃せないキーワードがいくつかありましたが、その一つに「鷹(たか)」があります。このキーワードは特に当時の私の好奇心を鷲づかみ――鷹づかみ?――したのです。この地には「矢本」と同時に「鷹の池」なる地名も古くからありました。主人を亡くした八本の鷹が飛来して水を飲んだ池なのだそうです。それにしても、平泉から遠いこの地に義経の断末魔に関連する伝説が生まれたのはなにやら奇異な感じもしますが、それは、この地に痕跡を残す照井(てるい)氏が関係したものと私は考えております。
 それはあらためて後に触れるとしても、義経にからむこの伝説は、元々存在していた地名への後付けであったのではないかと考えております。
 ところで、町名としての矢本町以前の行政区名は、桃生郡“鷹来(たかぎ)村”です。
 『ホツマツタヱ』におけるヒタカミ王は誰であったか・・・。
 そうです。「タカミムスビ」です。言わずもがな、タカミムスビは通説上、別名「タカギ」とも呼ばれる造化神です。私にはこれらが単なる偶然には思えなかったのです。その頃の私は、元々トーテムとしての鷹について必死に頭を回転させておりましたが、それをおいてもこのタカギ地名は侮れません。
 『矢本町史』によれば、この鷹来村の命名は義経の八本の鷹に因んで明治年間に決定したもののようですから、さほどに古い地名ではないということになりますが、それにしても、東に隣接する牡鹿郡に高木(たかぎ)村があり、同様に西に隣接する宮城郡にも同音異字の高城(たかぎ)村があるというのに、何故わざわざ紛らわしいタカギ地名をあえて新規誕生させたのかは、そこになんらかの執念があったと言わざるを得ません。事実その紛らわしさが理由で昭和十四年に町制が施行されるときにタカギは消え、矢本に変えられたのです。もちろんあくまで語呂合わせに過ぎないものではあるのですが、実は今ここにきて、これまで語ってきたオホ氏や和邇氏の歴史を考え合わせるとき、限りなく妄想に近かった想像が、やおら現実的な迫力を増しつつあるように感じております。
 少なくともこのヤモトの地は、大国造という職掌まで新設されて天皇から厚遇された蝦夷の巨魁――道嶋氏――の本拠地であったと考えられており、しかもそれが考古学的物証に基づいた示唆であることは異論を待たないのです。

牡鹿の中枢はいずこ

 『続日本紀』の天平宝字四(760)年正月の条に「陸奥国牡鹿郡では、大河(北上川)をまたぎ、高くけわしい峰を越えて、桃生柵をつくり、賊の急所である地点を奪った――宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』――」とあります。
 これは、現在の宮城県石巻市桃生(ものう)を舞台にした記事なのでしょうが、これによって桃生が蝦夷の巣窟であり、かつ牡鹿(おしか)郡の管轄下にあったことがわかります。古代、石巻市エリアはすっぽりと牡鹿郡に含まれていたようです。
 宮城県民が「牡鹿」と聞くと、通常「牡鹿半島」のあたりをイメージしてしまうのですが、古代はそれよりもずっと広く、少なくとも現在の石巻市――平成の大合併以前:石巻市、河北町、雄勝町、河南町、桃生町、北上町、牡鹿町――に、お隣の東松島市――同:矢本町、鳴瀬町――までを含んだエリアと考える必要があります。
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 牡鹿郡は、陸奥国大国造「牡鹿連(おしかのむらじ)――道嶋(みちしま)――嶋足(しまたり)」の本拠地であり直轄領でもありましたから、言いかえれば多賀城に次ぐ陸奥国の“準国府”所在地的なエリアであったと言ってもいいでしょう。となれば気になるのはその政治施設の具体的な所在地です。
 前述のとおり、桃生柵は牡鹿郡自体が膨張した果てに生まれたものであり、したがって現在痕跡を確認できる桃生城政庁は比較的新しいものと言えるので、それよりも手前――以南――のエリアに更に古い政治施設があったものと考えるのが自然です。
 『矢本町史』によれば、諸氏の論考により候補がいくつかあるのですが、一つの有力な候補として、地元で「鰐山(わにやま)」と呼ばれている石巻市中心部の丘陵があります。現在そのような地名は見受けられませんが、当該地周辺を散歩すると「鰐山親交会」という町内会の名称にその名残を確認できます。この鰐山がいわゆる和邇(わに)氏と関係があったのかどうかはわかりませんが、この地を支配していた牡鹿連――道嶋氏――の素性が「丸子(わにこ)氏」すなわち和邇氏の部民と思われる以上、私は「関係があった」と考えます。
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 しかし鰐山丘陵と呼べる範囲は、JR仙石線石巻駅前に立つと正面に目に飛び込んでくる羽黒山から、はたまた北上川河口の目印になる日和山に至るまでの広範に渡るもので、ピンポイントな位置については異論があります。
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石巻駅前から羽黒山を望む
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羽黒山から日和山方面を望む
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北上川の中州から日和山を望む

 『矢本町史』は、『石巻市史』や『稲井町史』が主張する「牡鹿柵鰐山丘陵説」に対し、丘陵上に城柵あるいは官衙的施設の遺跡がみられないことを挙げながら「丸子(わにこ)氏という牡鹿郡の有力豪族の群(ぐん)居が柵の構築に関係したとするもので、類推による地名考証にとどまっており、具体的な論証はしていない」と牽制しております。
 ここでミソなのは、これが『矢本町史』であることです。矢本町とは先に触れた現在の東松島市に含まれるのですが、当然同町史の立場からすれば矢本町内にその中心的役割を担ったものを比定したい、という思惑はあることでしょう。
 しかし、それを差し引いても同町史が強気になれるだけの根拠があります。『矢本町史』は次のように語ります。

――引用――
昭和四十六年には耕作者によって「舎人(とねり)」とへら書きした高台付杯が発見され、郡司関係の遺構のあった可能性が強まってきた。舎人については別節でふれるように、地方の郡司階層に結び付くものであり、郡司一族の居住地はまた郡衙に近接する場合が多いようなので、郡司居館跡が推定される星場遺跡付近に、牡鹿郡衙と附属官衙施設の存在が考えられてくるわけである。
〜中略〜
 西南方の松島丘陵には矢本耕土に東面して矢本横穴古墳群がある。土器や武具、装身具を豊富に副葬し、「大舎人」墨書土器などを出土しているところをみると、牡鹿郡でもトップクラスの郡司階級の墳墓群がそこにあった可能性が大きい。星場遺跡出土の「舎人」との密接な関連性が考えられる。
〜中略〜
律令牡鹿郡の郡衙所在地はおそらく郡域の変更があった時期にも、まず星場を移動することはなかったであろう。
 矢本の地は、奈良時代初頭ごろから平安時代中期ごろまでにかけて、一環して律令牡鹿郡の中心だったわけである

 この他にも、『石巻の歴史』には「春(日部)」の文字が見えるヘラ書き須恵器が矢本の赤井遺跡から発見されているという記事があります。和邇氏が春日ブランドを用いていたことは前に触れたとおりですが、これも見逃せません。
 したがって現在では、東松島市エリアが牡鹿郡の中枢であったとするのは最も主流の考え方と言ってもよろしいでしょう。
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 一方で『全訂・年表による 石巻の歴史(ヤマト屋書店)』の千葉賢一さんは「何百年もの間牡鹿柵が同じ場所にあったのかどうかは、これからの調査によってはっきりするでしょう」としており、たしかに今後に注目したいところです。何故なら私としては、考古学的成果のそれはそれとして、“鰐山”という呼称が伝え残されていた以上、『矢本町史』がやや否定気味に語る「類推による地名考証」という思考法を、「安易に切り捨てるべきではない」と考えているからです。
「地名は立派な遺跡である」
というのが私の持論です。

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道鏡と稱する碑

 『桃生(ものう)郡誌』に目を通しておりましたら、一つ妙なものが目に飛び込んできました。

――引用――
〔道鏡と稱する碑〕桃生城に登る道側の畑地にあり。中央に「道鏡」の二字其右旁に「方法」左旁に「一如」頭に梵字一字あり。

 桃生城に登る道に「道鏡(どうきょう)」と記された碑があるというのです。道鏡とは普通に考えれば、人臣の身でありながら史上唯一“天皇になりかけた怪僧”「道鏡」のことでしょう。その時代であれば人臣中最高権力者であった道鏡ですが、称徳(しょうとく)女帝崩御に伴い失脚して以降、現代に至っても尚、むしろ“奸物扱い”に貶められた彼が、左遷の地である下野(しもつけ)国――現:栃木県――ならまだしも、何故この陸奥国の辺境にわざわざ碑を建てられてまで供養(?)されているのかは不思議なことと言わざるを得ません。
 この郡誌は大正十二年に発行されたものですが、桃生郡は数年前の平成の大合併によって全域「石巻市――宮城県――」に含まれることになりましたので、現在では既に存在しない郡となっております。それでも、桃生町という地名自体は残されておりますので、他県の方でも地図で探しあてることは容易に出来るでしょう。
 太平洋から奥州一の大河「日高見(ひたかみ)川――現:北上(きたかみ)川――」を遡った場合、「栗原(くりはら)――現:宮城県――」や「胆沢(いさわ)・江刺(えさし)――現:岩手県――」といった蝦夷の巣窟への分岐点、逆に言えばそれら上流の蝦夷らが河上から下ってきた場合の合流点でもある桃生は、当然ながら大和朝廷側の古代東北経営の上でも大変重要な拠点であっただろうことは想像に難くありません。
 「桃生(ものう)」という地名が、モノノフ、すなわち「物部(もののべ)」から派生したのではないか、とさえ言われ、それがなかなか説得力をもって見えるのも、ヤマトに先んじて陸奥に進出して――あるいは落ち延びて――、蝦夷と交流を持っていたと想像される物部氏の属性が、桃生の地勢的背景にピタリと符合するからなのでしょう。
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 なにはともあれ、まずはその「道鏡と稱する碑」なるものをこの目で一目見てみんと現地に赴いた私ですが、なにしろその情報源は大正時代の郡誌です。一抹の不安はありましたが、結論から言えば、案の定見つけられませんでした。
 なにしろ、現地付近で計四名の住民に尋ねたのですが、誰もその碑の存在を知りませんでした。
 しかし、この地で最も歴史に詳しいと自称するご婦人のお話はいろいろ勉強になりました。先年には桃生城調査に関連して蝦夷研究の第一人者である高橋富雄さんも尋ねて来られたとのことで、そのときのお話などもお聞かせいただき、おかげさまで有意義な時間を過ごさせていただきました。
 余談ながら、彼女は60年前にこの桃生城下に嫁入りしたとのことですが、地元の歴史にとても詳しかったという舅様からさんざん話を聞かせられたのだそうです。そのため、実の父の話をのらりくらりと逃げていたご主人よりも家の歴史に詳しくなっておられ、思わず微笑ましさすら感じました。なにしろ、私はそもそも道端で草むしりをしていたご主人にお声掛けをしたのですが、「ばあさんの方が詳しいから」と、家の中にいらっしゃる奥さまをご紹介いただいたのです。
 それにしても、ご婦人の話によって、桃生城への登り道自体が現在のそれとは異なっていることを知りました。大正時代の記述であればおそらくそちらの道であろう、と言うのです。しかしどうやらその道は私有地のようですが、ご婦人のお宅は大地主のお一人のようなので彼女に許しを得て入り込ませていただきました。途中、同様にそのあたりを所有されていらっしゃる風の方が除草作業を行っており、極めて不審人物を見るような目で凝視されたのですが、ご婦人の名を使わせていただき、事なきを得ました。
 さて、確認は叶わなかったものの、この地に道鏡を明記した碑があった事実は重要です。このことで、和邇(わに)氏の部民であると考えられる道嶋(みちしま)氏――丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏――が桃生城と深く関わっていたことがより鮮明になるからです。
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 道嶋氏は、蝦夷でありながら「国造(くにみやっこ)」の上をいく全国唯一の「大国造」なるものを任されるほどヤマト朝廷の信頼が厚かったわけですが、何を隠そう道嶋氏をそこまで信頼して引き上げた天皇は、「孝謙天皇」すなわち「称徳女帝」なのです。
 彼女は、自らの血を恨んでいたと考えられます。
 特に、謀略につぐ謀略でライバル達を失脚させ、こともあろうに天皇家内部にまで魔の手を伸ばし、長屋王など反藤原系皇族を抹殺し続けた母方の藤原氏に対しては、痛烈ともいえる嫌悪的感情を抱いていたフシがあります。
 何を隠そう、実力をつけて孝謙上皇となった彼女が最も力を入れて取り組んだ改革が、それこそ“藤原氏つぶし”であったと思われます。彼女は、相変わらず天皇家の影の支配者たらんと企んでいた太政大臣藤原仲麻呂――恵美押勝(えみのおしかつ)――を、彼の傀儡天皇と化しつつあった淳仁天皇もろとも容赦なく叩きつぶしました。
 そしてそのとき、あの坂上田村麻呂の父親である「坂上苅田麻呂(さかのうえかりたまろ)」と共に、桃生周辺に縁ある蝦夷の雄「牡鹿嶋足(おじかのしまたり)――道嶋嶋足――」が大活躍しているのです。
『続日本紀』には次のようにあります。

――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』――
――天平宝字八(764)年――
 九月十一日 大師の藤原恵美朝臣押勝が謀反を企てていることが、はっきりと漏れてきた。高野天皇は少納言・山村王を遣わして、中宮院(淳仁天皇の御所)の駅鈴(えきれい)と、内印(天皇の御璽(ぎょじ))を回収させた。押勝はこれを聞いて、息子の訓儒麻呂(くずまろ)らに待ち伏せさせ、これを奪わせた。天皇は授刀少尉(たちはきしょうじょう)の坂上苅田麻呂(さかのうえかりたまろ)と授刀将曹(しょうそう)の牡鹿嶋足(おじかのしまたり)らを遣わして、訓儒麻呂らを射殺させた。

 高野天皇とは孝謙上皇――称徳女帝――のことです。
 『続日本紀』によれば、この後、嶋足と苅田麻呂は従四位下を授けられ、更に嶋足は牡鹿宿禰の姓を、苅田麻呂は坂上大忌寸の姓を賜った、とあります。
 そしてその後、淳仁天皇を廃帝して彼女が称徳天皇として返り咲いた後、嶋足はますます官位を上げ、大国造になったのは前に触れたとおりです。
 あくまで私の想像ですが、恵美押勝ら藤原系既得権勢力を徹底して叩きつぶした称徳女帝であればこそ、坂上氏や道嶋氏のような新興勢力を重宝したのではないでしょうか。
 そしてその右腕が怪僧道鏡でした。
 このような背景を思うに、私は、桃生の道鏡の碑は、称徳女帝と道鏡によって著しく出世をさせてもらった道嶋一族の末裔が、自家の華やかなりし時代を偲んでひっそりと建立したものではないか、と考えるのです。
 もしかしたら「モレ――磐具公母礼(いわぐのきみもれ)――」の一族発祥の地かもしれない「母里(もり)郷」は、『出雲国風土記』においては、「意宇(おう)郡」の「地勢」そして「国引き神話」に引き続く「郷」の条で、“真っ先”に記載されております。

――引用:吉野裕さん訳『風土記(平凡社)』より――
母里の郷 郡役所の東南三十九里一百九十歩である。
天の下をお造りなされた大神大穴持命(おほあなもちのみこと)は、越(こし)の八口(やくち)を平定し賜(給)うて、お還りになった時。長江(ながえ)山においでになって詔して、「私がお造りして領有して治める国は、皇御孫(すめまの)命(天照大神の子孫)が無事に世々お治めになる所として〔統治権〕をお譲りしよう。ただ、八雲立つ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍(たま:霊魂)を置き賜うてお守(も)りしよう。だから文理(もり)という。《神亀三年(七二六)字を母里と改めた》

 ちなみに、ここにある「越の八口の平定」について、梅原猛さんは『葬られた王朝(新潮社)』の中で、『古事記』の「高志の八俣のをろち」の記述を合わせ読んだ上で、ヤマタノオロチ退治として語られたスサノオの征討劇のことではないか、と考えております。その地が砂鉄の産地であることを考え合わせると、この神話にもにわかに現実社会の投影がちらつきます。
 それはともかく、風土記の記事から母里郷について言えることは、いかに国を譲った大穴持命――オオクニヌシ(?)――であっても、“母里郷だけは意地でも渡さなかった”ということでしょう。
 しかし、オオアナムチがオオクニヌシのことだとして、そのオオクニヌシ自体が処刑されたことを考えると、その地に残ったのは本人ではあり得ず、彼の一族なり関係者であったとなるわけですが、いずれこの地が出雲神族にとって重要な聖地であったことは間違いないと思われます。
 さて、その母里郷北方の沿岸部「安来(やすき)郷」に、少々気になる神話(?)があります。

――引用:前述書――
安来(やすき)の郷 郡役所の東北二十七里一百八十歩である。
神須佐乃烏命(かむすさのをのみこと)は天の壁を立て廻しなされた。その時、このところに来(キ)てみことのりして、「私の御心は安平(ヤスケ)く成った(落ち着いた)」と仰せられた。だから安来というのである。
すなわち〔この郷の〕北の海に毘売崎(ひめざき)がある。飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)に天の下をお治めになった天皇(天武天皇)のみ世の甲戌(きのえいぬ)の年(六七四年)七月十三日、語臣(かたりのおみ)猪麻呂(ゐまろ)の娘がこの崎にきて〔風物を賞しながら〕散歩していると、たまたま和邇(ワニザメ)に出遇い、襲われて殺されて〔家に〕帰らなかった。その時、父の猪麻呂は、殺された娘を浜のほとりに埋葬し、痛憤やるかたなく、天を仰いでは叫び、地に向って踊り上がり〔地だんだを踏み〕、立っては呻き、座っては嘆き、昼は悩み夜は苦しみ、なきながら埋めたところを立ち去ることがなかった。こうしているあいだに多くの日が過ぎた。しかし、その後憤慨之志(いきどおりのこころ)をふるい起し、箭(や)を磨(と)ぎすまし鉾尖(ほこさき)を鋭くし、時機をえらび場所を占めて、さて神をおろがみ訴えていった、「千五百万(ちおよろず)の天つ神よ、千五百万の地祗(くにつかみ)よ、またこの国に鎮座まします三百九十九の神社よ、そして海若(わたつみ:海神)たちよ。大神たちの〔平和な〕和魂(にぎみたま)はお動きにならず、〔たけだけしい〕荒魂(あらみたま)は皆ことごとくこの猪麻呂のお願いするところにお依りくだされよ。まことに神(くす)しきみ霊でありなさるならば、私に〔ワニを〕殺させ給え。かくしてこそ神霊の神(ふしぎ)なことを知ることができましょう」と。その時、やや暫くあって、百余のワニが静かに一つのワニをとり囲んで、おもむろに連れだって寄ってきて、〔猪麻呂の〕居場所につき従って進みも退きもせず、ただぐるぐるとり巻いているだけである。その時〔猪麻呂は〕鉾をあげて真ん中の一匹のワニをぐさと刺してすっかり捕り殺してしまった。そうした後になって、百余のワニは囲みを解いてちりぢりに解散した。〔ワニを〕切り裂くと娘の脛(すね)が一つ二つころがり出た。そこでワニは斬り裂いて串ざしにして路傍に立てたという。《〔猪麻呂は〕安来の郷の人、語臣与(かたりのおみのあたふ)の父である。その時から以後、今日に至るまで六十年が経っている。》

 この神話(?)を素直に見るならば、ワニザメに娘を食い殺された語り部が、復讐を実現せんと、天地問わず全ての神々に協力を願い、しかもすさまじいことに荒魂(あらみたま)――和魂(にぎみたま)と表裏の神格――にのみ行動を願い、それは聞き届けられました。やがてワニ達が現れ、そのままおとなしく猪麻呂に真犯人(?)のワニを引き渡し、仇打ちをさせたようです。
 さて、一旦は当然ながらここに人間社会の反映を疑ってみます。ワニは古代氏族の和邇(わに)氏のことであろうとした上で、はたしてどのような事件の反映だろうか、と考えてみるわけです。
 ここで面白いのは、神威とは言うもののワニが犯人を連れておとなしく出頭(?)しているところです。 しかもこの情景から、犯罪者はあくまで一個人のワニであり、ワニ全般としては必ずしも猪麻呂の本来的な敵ではなさそうに読めるのです。
 何やら頭が混乱してくるのですが、このジレンマに対しての大きなヒントが一つありました。
 訳者の吉野さんは、猪麻呂が「ワニを斬り裂いて串ざしにして路傍に立て」ていることについて、「アイヌの熊狩り祭りのように、トーテム神としての動物を屠った場合の儀礼的措置をうかがわせるものがある。たんに見せしめのための行為ではなく霊魂の再生に関する呪的行為と見るべきであろう」としております。
 その考え方に乗るならば、これはワニをトーテムとする者の儀礼と読むことも可能かもしれません。
 つまりそういう意味では、これはもしかしたら祖霊神のワニザメに娘を食い殺されてしまった“ワニ族”の語り部が、恐れ多くも自らの祖霊神たるワニに対して復讐させてもらうことの許しを天地合わせて三千万の神々に請い、実現後、そのワニを弔ったときの逸話ではないのでしょうか。
 それにしても、朝廷提出用の公式記録であるはずの風土記に、わざわざこのような逸話を記録しているところを見ると、三千万の神々、すなわち有力氏族諸氏らのなんらかの抗議に対し、中ツ臣である和邇氏が多少なりとも妥協した反映と捉えてみてもいいのかもしれません。
 ちなみに、この神話は祭祀儀礼といった民俗学的な部分に大変貴重な資料になり得るもののようです。せっかくなので、その部分を紹介しておきましょう。
 訳者の吉野さんは語臣猪麻呂についての注釈として次のように語っておりました。

――引用――
語臣猪麻呂 出雲の語部の首長の家に属する人。語部は土地の神や豪族の由来を語り伝えることを職とした農・漁民で一種の祭祀集団。出雲では語臣・語部を姓名とする者が古い文献に多く見えるが、平安初期の文献には朝廷の大嘗祭には出雲の語部が出仕する慣行があったことを伝えている。この文章では主格(猪麻呂)が省かれがちだが、語り手が自分が主人公になったつもりで語っていることを示すもので、語部の職業的な語り方の一端をうかがわせる。文中の神おろしの祭文とともに注意すべきである。

 また、小学館の日本の古典をよむシリーズ『日本書紀 下 風土記』も、「本話は、古代に珍しい父性愛の物語である」とした上で、「天つ神千五百万・・・」の祈りの詞は、「延喜式祝詞よりもずっと古い時代の形がわかる貴重な資料」であるとしております。
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