はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

ワニの一族

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中ツ臣の意味と、摂関藤原政権を震撼させた蝦夷オールスターズの正体を考えてみます。
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意宇(おう)に思うこと

 出雲(いずも)国――現:島根県――には「意宇(おう)郡」という郡があります。
 どうも私はその韻からすぐオホ氏に重ねてしてしまうのですが、そのような衝動はさておき、この地が何故「意宇」と呼ばれるようになったのかについては『出雲国風土記』に記載された「国引き神話」が有名です。
 風土記によれば、八雲立つ出雲の国の狭さを憂いた「八束水臣津野命(やつかみずおみづのみこと)」が、新羅(しらぎ)、その他数ヶ所各地に土地が余っているのを見て、童女の胸のような鋤でそれらの土地を切り離し、三本縒(よ)りの大綱でもって「国よ来い」と言いながら引き寄せたのだそうです。
 その完成を見た八束水臣津野命は「意宇の杜」に杖を突き立てて「おう」と言ったのだそうで、意宇の地名はそのことに因むのだそうです。
 少し補足説明を加えると、八束水臣津野命とは普段あまり見かけませんが島根県簸川郡斐川町の富神社の祭神です。
 富神社は、出雲神族の末裔を自称する「富氏」の先祖を祭る神社であり、そうしますと国引きをした八束水臣津野命とは富氏のご先祖様を指すものと考えてよいのではないでしょうか。
 念のため申し上げますと、富氏は、同じく出雲族の印象がある出雲国造家や出雲大社の神官一族などとは全く異なります。このあたりそう単純ではないことを咀嚼し、間違えないようにしなければなりません。
 話を神話に戻しますが、この「おう」の一言について、例えば荻原千鶴さん全訳注『出雲国風土記(講談社)』の注釈は「おゑ」を「感動詞」とした上で、『播磨国風土記』にも神が国作りを終えた時にオワと言ったとある、とあります。
 また、小学館の「日本の古典をよむ」シリーズの『日本書紀 下 風土記』の意訳では「よく出来た!!」とあります。
 少し詳しく触れているのは、吉野裕さん訳の『風土記(平凡社)』で、そこには次のようにあります。

――引用――
おゑ 原文「意恵」。飢ゑの転訛で仮死状態を意味するとする説や、神がかり状態からさめたときの溜息と見る説等がある。私は「八穂爾杵築」を古墳築造の土固めを反映した言葉とし、古墳築造の集団労働が終わったとき発する呪的効果を持つ掛け声と見たい(「播磨国風土記」参照)。ここの意宇の杜はおそらくは古墳であり、その標示の杖が樹木となって茂ったという伝承。

 少なくとも、地名として現在まで残されてきたのであれば、それなりに意味がなければならないと思うので、私は単なる感動詞のみの意味だとは考えられません。したがってなるほど「意宇」に呪術的な意味合いがあったとするのであれば納得です。また、吉野さんが言うような意宇の杜が古墳すなわち“墓”であっただろうという想定は支持するところです。
 当地が出雲発祥にかかわるなんらかの聖地であることはほぼ間違いないのでしょう。もちろん富氏のご先祖様にかかわるものでしょう。ここに執念深く私の想像を挟むならば、もしかしたらその後、この地にオホ氏が現れたのではないでしょうか。
 時期的にはおそらくオホ氏が大和政権から遠ざけられたであろう時期、すなわち5世紀以前であると考えます。風土記に関する官命の発布は和銅六(713)年なのでしょうから、その頃にはオホ氏の事績もとっくに昔話です。
 何故このような話をするのかと言いますと、一笑に付されるかもしれませんが、私はオホ氏かワニ氏のいずれかにアテルイの相棒であった「モレ」の影を見ているのです。
 それは、照井氏がアテルイの末裔であるという着眼点を気付かせてくれた千城央さんの『ゆりかごのヤマト王朝(本の森)』という小説が、モレを輩出した「盛(もうり)党」について鹿島神を奉斎して北上してきた一族であるとしているなど、私の考えるオホ氏像に見事に重なるからです。
 そしてこの小説では“盛党は出雲の母里(もり)郷に発する”としておりますが、なにしろ、その母里郷は件の意宇郡にあります。だから私は尚更この「意宇」と「オホ」を結び付けて考えてしまうのです。
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 小説とは言え、千城さんがはたしてどのような調査に基づいてそれだけの驚くべき相関図を展開されているのかは謎ですが、おそらく関連氏族の末裔なり神職などからなんらかの秘伝を聞いているのでしょう。少なくとも通常目に触れ得る史料からは容易に結び付きません。かといって私の調査論考からは全く突飛でもないのです。
 たいていその手の情報の場合、その他の歴史的な周辺事情との整合性を感じられないことも多く、そのような場合はいかに神職の話であってもとても鵜呑みになど出来ないのですが、千城さんの書く内容は少なくとも私の調査結果や仮説とはさほどに矛盾しておりません。したがってその出典元についてはかなり信頼に足るものであろうと考えているわけです。
 とは言え、千城さんの渾身の小説を論拠に自説を語ろうなどとはみじんも思っておりませんので、そこは強く念を押しておきたいと思います。

春日と中ツ臣

 奈良県田原本町の多神社の別名は「春日宮」といいます。ここはオホ氏の祀る神社でありました。
 また、和邇(わに)氏の流れを組む氏族に「春日臣」がおります。
 「春日(かすが)」は大和盆地全般にあてはまる大きな意味での地名――厳密には枕詞(?)――、と言われてしまえばそれまでですが、いずれ“春日ブランド”はひとり藤原氏の代名詞というわけではなく、古代大和盆地に共通するブランドであったのでしょう。それを、新たな権力者となった藤原氏が自らの登録商標のごとく利用した、と考えるのが現実的なのかもしれません。
 そして、実は藤原氏の旧姓(?)である「中臣(なかとみ)」についても同様のことが言えるのです。これは藤原氏の父祖――鎌足か(?)――が「中ツ臣(なかつおみ)」という古代の人臣最高格とも言える立場なり職掌(?)なりに憧れ、巧妙な手口で、「中ツ臣」をそのまま一つの名詞と化して、事もあろうに“連(むらじ)”を付して、さもそれらしく自らを「中臣連」と名乗ったことで完成したのでしょう。例えるなら内閣総理大臣に憧れる「今野大臣」が、自らの姓を「今野」から「首相」にあらため、「首相大臣」という摩訶不思議な紛らわしい呼称にすりかえてしまったようなものでしょうか・・・。
 大和岩雄さんは『日本古代試論(大和書房)』の中で、折口信夫さんの『日本文学史ノート』を引用して次のように語っておりました。

――引用――
折口信夫氏は「中天皇(なかつすめらみこと)という宮廷の尊貴な女性が神と天皇の中を執りもつのに対して、神なる天皇と人との間にたつのが所謂中つ臣即中臣である。而も此中臣も意味広く一氏族だけの職でなかったのが、後に藤原氏を分出した中臣一族だけを考えるようになったらしい」と書き、「中臣の仕事は食物の精霊、水の精霊を扱うことがもとである」とする。また「中臣の伝承に天神寿詞に関連して残った、産湯の儀式、蘇りの水の儀式がある」とも書くが、これらにかかわるのは仲臣(なかつおみ)のオホ氏であり、春日氏である。

 春日氏とは前述のとおり和邇氏です。大和さんは『新撰姓氏録』から「中臣(なかつおみ)」であったのはオホ氏だけでなくワニ氏(春日氏)もそうである」としております。
 それにしても、この「中臣」や「春日」という言霊を藤原氏が自らのものとしてイメージづくりをしてくれたおかげで、後世の学説がいろいろとややこしいことになったように思われます。
 もちろんそれこそが藤原氏の意図したものなのでしょうが、余談ながら、常陸国の鹿島神宮の祭祀を司っていた中臣氏は、あくまでオホ氏に冠せられた“中臣(なかつおみ)”の称号ではあっても、いわゆる中臣鎌足とは本来なんら関係のないものであったと私は考えております。
 ついでながら、物部氏を実在しなかったとする畑井弘さんは、俗に物部氏と呼ばれる存在の実態について『物部氏の伝承(講談社)』の冒頭で次のように語っております。

――引用――
存在したのは「物具(モノノグ:兵器)」を中心とする金属器生産に携わり、「韴霊(フツノミタマ)」を祭り、「モノノフ」として軍事に従った幾多の「物部八十伴雄(モノノフヤソトモヲ)」氏族群と、それらを統率してヤマト王権の軍事・警察的、祭祀的伴造(トモノミヤッコ)としての職掌を担った「物部連(ムラジ)」家たる氏族とであった。普通に言われている「物部氏」というのは、この物部連のことであり、かつ、物部八十氏をひっくるめてすべてを同族と見なし、「物部氏」と呼び慣らわしてきているのである。だが、それはとんでもない誤りである。そればかりではない。ちょうど、皇統の万世一系説がほとんど信じがたい伝説であるのと同様に、「物部連」家の系譜も、これを一系とは到底考えられず、この伴造的職掌を担った氏族は幾度も交代していると考えられるのである。

 職掌などの属性によってひとくくりに区分されるという意味で、先の中ツ臣に対するものと同様の発想に基づくものと言えます。
 事実物部氏について考えていると、時折相矛盾する氏族ではないか、などと不思議な感覚に陥ることもありますが、もし畑井さんのいうとおりなのだとするならば一発解決ということになります。私の知識が今一つ足りないばかりによくよく精査出来ておりませんので、この説への賛否云々についての明言は避けておきますが、少なくとも頷かされるものがあり、考え方として学ぶべき部分があるとは思っております。
 さて、和邇氏研究の先駆者ともいうべき岸俊男さんは、記紀の所伝を最大限に認めた上で、有力氏族がどの程度皇室と姻戚関係を結んでいるかを集計しておりました――『日本古代政治史研究(塙書房)』――。仲哀天皇以前については問題外としたうえでそのまま数えた結果、次のようになったようです。

・葛城氏――応神・仁徳・履中・雄略の四天皇に四人
・蘇我氏――欽明・用明・舒明・孝徳・天智・天武の六天皇に九人
・大伴氏、物部氏――各々一天皇に一人ずつ
・阿倍氏、巨勢氏――各々若干名
・和邇氏――応神・反正・雄略・仁賢・継体・欽明・敏達の七天皇に九人

 大伴氏や物部氏が驚くほど少ないのに対し、葛城氏、蘇我氏、和邇氏は相対的に多く感じます。
 岸さんは、「記紀間で若干の出入りがあり、重出とみられるものもあって、全面的に認めることは危険であろうから、その数字にあまりこだわるのはいけないが、それでもワニ氏が一般に有力氏と考えられている氏と並んで、否、むしろそれらを圧して多くの后妃を出しているということは、まずおおよその傾向として認めてよいのではなかろうか。この事実はワニ氏についての第一の特性として最初に留意する必要がある」としております。
 岸さんは、これらの氏族の中で特に后妃を多く出している葛城、蘇我、ワニの三氏を比較して、

・葛城氏の主要期は雄略天皇までの5世紀代
・蘇我氏は欽明天皇以降6世紀から7世紀にかけて
・ワニ氏については葛城氏と並んで5世紀代にも后妃を出した所伝を有しているものの、主に葛城氏が没落してから蘇我氏の主要期に至る過渡期に最も深く皇室と姻戚関係を結んでいたらしい

と見ております。
 その仮説を支持したいと思うのですが、その場合、ワニ氏はオホ氏に比べやや下った時代の「中ツ臣」であったのだろうという想定も出来そうです。
 何故なら、常陸国――茨城県――の大生古墳群の「古墳時代中期」という年代設定が正しければ、オホ氏の本格移住時期を5世紀以前と断定してもあながち間違いではなく、ワニ氏が盛んに后妃を出していた時代には既にオホ氏は政権中枢から外れていたと考えられるからです。
 しかし、一方で和邇氏の本拠地と比定される奈良県天理市和邇町にある「和邇下神社古墳」の築造時期が、案内板の記述によれば四世紀末から五世紀初頭と推定されているようなので、もしこれを信じるならば和邇氏の全盛期をより遡らせて考えなければいけません。
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 しかし、古墳の編年には未だ問題があると考えられておりますので、大生古墳群も和邇下神社古墳も、その年代についてはあくまで参考程度に受け止め、現段階では記紀を精査した岸さんの論考に第一の信をおき、私としてはオホ氏とワニ氏は、その全盛期にやや時代のズレがあったものと考えておきたいところです。

平城京の大地主

 2010年。
 「“なんと(710)”立派な平城京」と、試験対策で泣く泣く覚えた語呂合わせの“710年”から“1300年”が経過したというわけです。
 あまり語られることもありませんが、その平城京が遷ってくる以前のこの地は和邇(わに)氏という古代有力氏族の勢力下にあったと考えられます。春日大社がある「三笠山(みかさやま)」などは、まさに和邇氏の神奈備山(かんなびやま)であったことでしょう。
 今、私はあえて「三笠山」と書きました。念のため補足しておきますが、これはあくまで一般的な地図表記でいう「春日山――御蓋山(みかさやま)――」のことです。
 国土地理院発行のものをはじめとする現在の地図では、三笠山の表記は東大寺の東――御蓋山の北隣――にある「若草山」に対して冠せられておりますが、これはあくまで江戸時代以降にその山容が三層であることから名付けられた俗称です。おかげでよく件の御蓋山と混同されます。
 しかし、古代において三笠山という場合には、あくまで春日大社が鎮座する現在の春日山――蓋笠山――のことを指しますので、間違えないよう注意しておきたいところです。
 さて、前にも触れましたが、平城京はシンメトリーな四角形にはおさまっておらず、子供が見ても違和感を感じるほど、何故か北東エリアに「外京」なるとって付けたような一画があります。
 しかし、これは決してとってつけた街区などではなく、むしろ平城京の実質的な中心ブロックの意図をもって当初から組みこまれていたものと考えられます。
 蘇我氏を滅ぼし、全盛期を迎えつつあった藤原氏は、蘇我氏が握っていた仏教支配の果実をも得んとすべく、どうしても「元興寺(がんごうじ)――蘇我氏のメモリアル――」を見下すこの場所に自らの氏寺「興福寺(こうふくじ)」を建立したかったのでしょう。
 尚、結果的に興福寺は、元興寺どころか大内裏(だいだいり)――皇居――までも見下す場所に計画されていたことになります。すなわち、外京は“藤原氏”によって予め計画されていた街区であったようなのです。そのことについて、前に私は梅原猛さんの論考を参考に触れておきました。
 梅原さんは『隠された十字架(新潮社)』で次のように言っております。

――引用――
元興寺、「元興(もとおこ)る寺」とはうまく名づけたものである。興福寺は「今興(いまおこ)る寺」すなわち今興隆の絶頂にある藤原氏の氏寺である。それに対して元興寺はかつて隆盛であり今は滅びた蘇我氏の寺である。この元興寺は、すでにその移転のときから興福寺の支配下にあったらしい。つまり、この外京の部分は全く藤原氏の支配下にあったのである。

 さらに梅原さんは、古代日本最初の都――であろうと梅原さんは考えている――三輪における「三輪山」や、藤原京に対する「大和三山」など鎮をなす神山の例をあげ、「最初から三笠山めあてに遷都が行われたと見なければならぬ」と、平城遷都の底地選定理由そのものについても興味ぶかい投げかけをしております――前述同書――。そのように考え至った根底には、ひとつには『大和志料』の語る伝承があるようです。
 管見にすぎませんが、『大和志料』には以下のような記述があります。

――引用:『奈良縣編 大和志料(奈良縣教育會)』――
榎本神社 長承注進状ニ外院御寶殿之坤角坐字榎本明神(所謂巨勢津姫神是也)ト見エ巨勢津姫ヲ祭ル。一ニ猿田彦命ナリトモ云フ。創始詳カナラス。先規録ニハ注進状云此榎本神當山守護御神幸待則御山渡申安倍山坐其後又當所還座也春夜神記曰爰榎本明神雖移居安倍山無参詣之人稀祭祀之輩也・・・・・・・・而還歸三笠山住榎本給(云云)(按愚)今榎本明神後之廻廊古昔者水垣而四門皆華表也此社邊樹木森々焉因號神垣森社邊有榎大木宮座其樹下因以號榎本明神也猶梅本社杉本社椿本社之類矣トアリ是非ヲ知ラス。
――可能な限り忠実な再現を試みておりますが、原文は大正三年発行の漢文にて、パソコン変換及びブログ掲載性質上、再現困難なための相異があることを予め含みおきください――

 「榎本(えのもと)神社」は現在も春日大社に祀られておりますが、三笠山の地主神と言われております。この地の地主神ということは、すなわち和邇氏が信奉する神であったと言ってよいでしょう。
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『大和志料』の上記引用部分には、要約すると次のようなことが書いてあります。

一、榎本明神はいわゆる巨勢津姫(こせつひめ)神である。
二、一説には猿田彦(さるたひこ)であるとも云う。
三、創始は詳らかではない。
四、『先規録――かつての記録(?)――』には、注進状の言うこの榎本明神は三笠山の守護神――春日大社祭神タケミカヅチ――の遷座を待って安倍山に移ったが、其の後また三笠山に戻ってきたとある。
五、『春夜神記』には、榎本明神は安倍山に移ったものの参詣する人が無く、祭祀する人も稀であったので三笠山に戻ったのだと言う。
 その他、社殿の様式、それを取り囲む物理的なロケーション、榎本明神と呼ばれる所以――榎(えのき)の大木の下に鎮座していた故に名付けられた云々――などが書かれているようです。

 これらを全面的に信用していいかどうかはともかく、「安倍山」なる場所に鎮座していたことがあるという記述は気になります。ここに和邇氏と安倍氏の間になんらかの浅からぬ関係があったことを想像させられるからです。
 ここでいう安倍山とは、「安倍山古墳群」がある奈良県北葛城郡広陵町馬見丘陵ではなく、同県桜井市の若桜神社周辺のことと考えるのが妥当です。ウィキペディアには次のような伝承が紹介されております。

――引用――
藤原京が都だった頃、武甕槌命は藤原京の東方の阿倍山に鎮座していた。春日野一帯の土地を所有する榎本の神が阿倍山の武甕槌命の元を訪ねて「私が住んでいる春日野と、あなたが住んでいる阿倍山を交換してほしい」と相談し、武甕槌命はそれに応じた。ところが、間もなく平城京への遷都が行われ、阿倍山に移った榎本の神の元には参拝者が少なくなり、榎本の神は貧乏になってしまった。困った榎本の神は武甕槌命に助けを求め、武甕槌命は自分の社(春日大社)のそばに社を建ててそこに住むように言った。これが今日の榎本神社であるという。

 おおよそ前述『大和志料』にあるとおりの内容ですが、この伝承によれば、安倍山は「藤原京の東方」とのことです。これが若桜神社周辺のことであれば、当地の高屋阿倍社は安倍氏の先祖を祀っているので注目しておきたいところです。いずれ、伝承を鵜呑みにするならばタケミカヅチは元々安倍山に住していたということになります。
 とはいえ、春日大社の縁起からタケミカヅチは鹿島大神であり、つまり元々常陸国に住していたわけですから、単純に言えばタケミカヅチにとっての安倍山は仮住まいであったということになります。
 それにしても、前にさんざん触れましたがタケミカヅチはそもそもオホ氏の祀る神でありました。奈良盆地南部がかつてオホ氏の拠点であったことを考えるならば、その謎めいた風景のようなものがおぼろげに見えてきそうなものです。
 それはともかく、ウィキペディアに紹介された榎本明神の伝承を踏まえて、後にこの周辺に聖武天皇発願による東大寺が建立されたことを考慮するならば、『因幡の素兎』はその一連の歴史の流れのことを示唆したのではないか、とは考えられないでしょうか。
 もちろんその場合現在私たちの目に触れ得る『古事記』の成立が平安期以降であるという仮説を前提にしなければなりません。
 つまり、通説の古事記編纂以降の出来事、東大寺の大仏開眼に宇佐神宮が深くかかわっていたことに注目するのです。
 平城京の地主は和邇氏であったと思われるわけですが、そのような地の神奈備山の地主神である榎本神社が他所へ移された経緯は、つまり人間社会の反映であると考えるのが自然ですので、和邇氏がタケミカヅチを奉斎する藤原氏にうまく言いくるめられてこの地を追われたことの反映と捉えるべきでしょう。榎本明神すなわち和邇氏からわざわざ始祖伝来の地を譲るなどと申し出たとは考えにくいので、なんらかの形で藤原氏にうまくしてやられたのでしょう。
 そのような因縁の地において東大寺が建立された際、うまく天皇の悩みどころに取り入った宇佐神宮が影響力を拡大しました。
 それをプロデュースしたのは大神氏であり、復権を狙った宇佐氏はそれに便乗したと思われます。
 大神氏はオホ氏の末裔であろうと考えるわけですが、彼らは三輪山の神を奉斎する一族でありました。真偽のほどはともかく三輪山の神オオモノヌシはオオクニヌシであるとも考えられております。
 そうした場合に『因幡の素菟』は、うまく騙された和邇氏、復権に成功した宇佐氏、それに協力した大神氏の三者の因果関係を、ワニ、ウサギ、オオクニヌシの関係をもって表現した史実の反映と捉えることはできないでしょうか。

因幡の素菟

 きちんと調べたわけではなく、単なる茶飲み話のなかで知ったことなのですが、最近、小学校の授業では出雲神話を教えていないとのこと。私も決してそんなに古い人間ではないつもりですが、私の世代はたしか国語の授業で出雲神話を学んだように思います。
 はっきりと記憶にあるのは、少彦名(すくなひこな)神と大国主(おおくにぬし)神との出会い、そして、かの有名な“因幡の素菟(いなばのしろうさぎ)”です。
 なにしろ小学校低学年の教科書ですからほとんど絵本のようなもので、瞼の裏にビジュアルとして記憶が残っております。おぼろげながら、スクナヒコナがオオクニヌシの指(?)に噛みつくシーンがあったような気もしますが、子供心に小人(こびと)で凶暴なスクナヒコナには得も言われぬ恐怖のようなものも感じました。
 それはともかく、仮にいつの頃からか出雲神話を教えられていない世代が多数を占めているということであれば、今から私が「知っててあたりまえ」という自分勝手な常識を前提に話のきっかけにしようとしている「因幡の素菟」を、知らない読者の方も大勢いらっしゃる、と考えておかなければなりません。
 余談ながら先日ラジオで聴いた話ですが、最近「桃太郎」などの超メジャー級童話についても知らない子供たちが増えているとのことでした。私がいたいけな子供の頃、優しい(?)大人の方々は何かにつけてあたかも九官鳥のさえずりのように、毎度おんなじ桃太郎を語り聞かせてくださりました。
 ところが最近、私のように「桃太郎など知っててあたりまえ」という、自分基準の自己中心的な大人(?)がアニメーションなどの制作にあたっているせいもあってか、桃太郎の「も」の字も知らない子供たちに人気アニメーションのアレンジバージョンのキャラクターなどで桃太郎や金太郎などの童話が認識されつつあるというのです。
 そのおかげで、今の子供たちに「桃太郎とはなんぞや」などと問うた日には、
「○○マンと一緒に悪い××を倒した人」
のような“珍回答”が続出するというのですから笑えません。
 社会教育問題が本題ではありませんのでこのあたりにしておきますが、そういうわけで『古事記』にある因幡の素菟のストーリーに触れておきたいと思います。
 以下、僭越ながら私の意訳です。

 大国主には意地悪な兄弟神達がたくさんいたのですが、彼らは国を大国主に譲ってしまいました。
 「なんだ、いい兄弟たちではないか」と思うかもしれませんが、実は彼らは各自稲羽(いなば)――因幡――の国の八上比売(やがみひめ)に魅せられており、単に彼女に求婚したいがための下心があってのことでありました。
 ある日、兄弟たちは、そろってイナバに出かけました。そのとき大穴牟遅(おほなむぢ)神――通説では大国主の同体異称と言われている――に袋を背負わせ、従者として連れて行きました。
 気多の岬に至ったとき、丸裸のウサギが横たわっておりました。これを見て兄弟の神々はウサギにアドバイスをしました。
「潮水を浴びて吹く風にあたって高い山の尾根に寝ておれば治る」
ウサギはその言葉を信じて実行しました。
 すると、塩の乾くまにまに皮膚が悉く風に吹きさらされることになり、ウサギは激痛に泣きじゃくりました。
 その姿は、御一行の一番最後尾で歩いてきた大穴牟遅神の目に止まることになりました。
 「おぬしは何を泣いている」
 「僕は淤岐島(おきのしま)――隠岐島――にいて、ここに渡りたいと思ったのですが、渡る手段がなかったので、海の和邇(わに)――ワニザメ――を欺きました。僕と和邇と、どちらの一族がたくさんいるか数え比べてみたいのですが、一族のみなさんをここに呼んできてこの島から気多の岬まで並んでみてくれませんか、僕がその上を駆け抜けて読み数えてみて、僕の一族と比べてみたいと思います、と。和邇たちはすっかり欺かれて、一族そろって並んでみせました。僕はその上を踏み数えて、もはや気多の岬に到達するというときに、うっかり、あなたたちは僕に欺かれたんだよ、と言ってしまいました。すると一番最後に並んでいた和邇が僕を捕えて悉く衣服をひんむきました。これに苦しんで泣いておりましたら、先の八十神(やそがみ)――兄弟神のこと。八十とは“たくさん”を表現する抽象的な言葉――が潮水を浴びて風に吹かれておれ、と教えてくださりました。その教えのとおりにしておりましたら悉く皮膚が傷んでしまった次第です」
 それを聞いた大穴牟遅神は、あらためてウサギにアドバイスをしました。
 「すぐにこの川の河口に行って真水で体を洗いなさい。そしてただちに河口の蒲(がま)の花粉をまき散らしてその上で寝ころんいれば、お前さんの身体は元通りに治癒するでしょう」
 ウサギはそのアドバイスのとおりに実行したところ、皮膚は完治しました。
 これが因幡の素菟で、今に菟神(うさぎがみ)と伝わる神の由来といいます。
 ウサギは大穴牟遅神に言いました。
 「先の八十神は決して八上比売を娶ることは出来ないでしょう。比売は袋を背負っていると雖もあなたが娶るに違いありません」

 個人的には、はじめにわざわざ「大国主」と書いておいて、その後は一貫して「大穴牟遅」で通しているところが気にはなっております。
 それはともかく、この説話について『古事記 全訳注(講談社)』の次田真幸さんは、次のように書いております。

――引用――
 知恵のある陸の動物が、愚かな水中の動物をだまし、川を渡ることに成功するという筋の話は、インドネシアや東インド諸島にもある。インドネシアの話は洪水のため川を渡ることができなくなった鼠鹿(ねずみじか)が、鰐(わに)をだまして呼び集め、その背を踏んで川を渡り、愚かな鰐を嘲(あざけ)る、という筋である。因幡の白兎の説話も、竹の中に棲んでいた兎が、洪水のために、竹の根に乗ったまま、隠岐島に漂着したので、元の地に帰ろうとしてワニをだました、という筋であったらしい。兎とワニの話が、インドネシア方面から伝わってきた動物説話であることは、明らかである。

 なるほど納得ですが、一方で『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』の宇佐公康さんは、経済観念に優れた朝鮮渡来系のワニ族との取引で損失を被ったウサギ族――宇佐家の祖先――を、大国主が助けた時の話ではないか、と解釈されており、私はこの仮説もなかなかに捨てがたいと考えております。
 たびたびですが、リーマンショック以来安値安定の末、先日のギリシャショック下落によって回復の兆しがとことん見えない故に解約した私の「外国債券投資信託」の損失もぜひ・・・。
 ところで知人がおもしろい解釈をしておりました。
 「ウサギはワニを騙したからこそ反撃されたわけで、それを、さもウサギが被害者でワニが悪者のようなイメージに伝えるのはよろしくない」
というのです。なるほどおもしろい解釈です。
 特にウサギを「菟狭(うさ)――宇佐――族」、ワニを「和邇(わに)族」として捉えている私にとっては、あまりに示唆に富む解釈になってくるのです。
 いずれ、私はこの因幡の素菟について、仮にインドネシアの説話にベースがあったにせよ、同名の古代有力氏族が存在した上にあえて最もメジャーな出雲神話として伝えられてきた事実に、そこには出雲神族・宇佐氏・和邇氏、三氏族の微妙な相関関係が反映されたものと考えておきたいのです。
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・・・・・・・・・・誰

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