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富山といえば何といっても立山連峰です。北陸自動車道を走行していて、仮に“富山”という表記が皆無であったとしても、この立山連峰によってそこが富山であることを認識できることでしょう。考えてみれば、海岸からこれほど近い距離にこれほど豪快な3000メートル級の山脈が立ちあがっている光景など、そうそうないのではないでしょうか。実際、能登半島東岸から眺める立山連峰について、「海を隔てて3000メートル級の山並みを眺められる光景は世界的にも珍しい」とは、よく言われることです。 この立山連峰に端を発する黒部川や常願寺川などの急流河川は、山あいの渓谷から扇状地へ解放されるなり、あたかもスプラッシュでもしたかのように分岐されるわけですが、その幾筋もの下流河川域の河原には、丸々とした白い綺麗な自然石がめいっぱいに満ちております。高速道路走行中でも、動体視力を駆使せずともよく見えるくらい大粒です。上流から下流域までがあまりに急で短いため、砂になるまで十分摩耗されないまま海岸付近にまで辿りついてしまうのでしょう。それほど、この高き峰々は海から近いのです。 このような高山地帯と急流河川のハーモニーは水力発電にも有効であったようで、富山県は戦前から水力発電の開発が盛んに行われてきました。社団法人電力土木技術協会作成の統計を眺めるに、富山県は全国でも指折りの包蔵水力電力量を保有しているようで、このことは、富山県発祥の北陸電力が、電力事業統制化の波をかいくぐり、地方電力のブロックとして明確に独立を勝ち得ている事実とも無縁ではないようです。 また、富山県に「YKK」や「三共立山アルミ」といった大手非鉄金属メーカーが発祥したことも、この特異な発電事情と無縁ではないことでしょう。アルミニウムの生産には大量の電力が必要であると、その昔学校で学んだ記憶があります。逆説的に言えば、もしかしたらアルミニウムの需要が当地の発電を旺盛にしたのかもしれませんが、特に確認はしておりません。 いずれ、これらの非鉄金属産業大手の二社が当地にあることで、俗にいう北陸工業地帯の繁栄もあったのでしょうし、当地の北陸銀行が全国地銀ナンバー2にまで登りつめたこととも無縁ではないでしょう。富山は、実は北陸経済の隠れた中心でもあったのです。 これらのことは、富山県を訪れてから調べて初めて知りました。実は、私は富山市や高岡市の広大な市街地に驚いたのです。なにしろ、北陸の中心都市はあくまで石川県の金沢市であり、それが圧倒的なものであるという認識でいたのです。 事実、外様大名最大の加賀藩前田氏の本拠地であった金沢は、明治維新以降もしばらくは全国有数の大都市でありました。富山県は、その金沢市に県庁を置く石川県と隣接しております。そして、その反対側では新潟県と隣接しているわけですが、その新潟県の県庁所在地の新潟市は、本州日本海側で唯一の政令指定都市です。したがって、私の頭の中では、その両都市圏に挟まれる形となっている富山都市圏が、県境を越えて広域に影響力を及ぼせるとは想像もつかず、富山市はある程度こじんまりした都市なのであろうと想像していたのです。ところが、富山市どころか、県下第二の都市の高岡市で私は面食らいました。 阿彦について探索する際、県庁所在地の富山市よりも、その20キロメートルほど西にある高岡市を拠点した方が都合のよかった私は、そちらに宿をとっていたのですが、到着してみると、とにかく驚きました。市内には路面電車が整備されて頻繁に運行しており、新型車両などはあたかも戦隊ヒーローものを彷彿させる近未来的なデザインでした。交通量も多く、中心部の商店街もそれなりに賑やかで、オフィスビルの規模なども大きく、高速道路から何度も眺めていた富山市内の高層ビル群が記憶になければ、私はこの高岡市を富山市と勘違いしてしまっていたかもしれません。 帝国書院発行の『地理統計2011年版』によれば、高岡市の人口は17.8万人で、富山市の41.7万人をだいぶ下回っております。しかし、面積が富山の約6分の1なので、行政区域人口だけでの単純比較は出来ません。都市の規模は、やはり都市圏人口で考えるべきです。そこで、都市雇用圏すなわち10%通勤圏で比べると、富山都市圏が54万3931人であるのに対し、高岡都市圏は40万2535人となり――2005年現在:ウィキペディア参照――、なるほど、私の感覚もまんざらずれていなかったのだと納得できるのです。
両都市を合わせれば、もはや大都市といってもいいほどの経済圏が存在しているともとれます。実際に隣県の金沢市との間で県境を越えてその圏域の競合もあるようです。ただ、富山・高岡の双方に10%通勤圏が同規模で存在するということは、富山都市圏と高岡都市圏は、別個の都市圏であるということでもあります。たまたま各々が拡大して市街地が接触してしまいましたが、全く異なる都市であることに気づきます。 では、何故、高岡市は県庁所在地の富山市に比肩するほどの都市圏を保有するに至ったのでしょうか。 現代社会的にみれば、これは三共立山アルミの本社をはじめ、新日軽の工場が所在するなど、アルミニウム産業によるところが大きいのでしょうが、近世、加賀藩主二代前田利長――藩祖利家の長男――が晩年この地に隠居したことも無視できません。利長には男子が授からず、加賀藩主の地位は異母弟の利常に譲りました。そして利長自身は富山城へ、富山城が焼失してしまった後はこの地に高岡城を築いて晩年の居城としたようです。 しかし、そもそもの下地として、古代越中国の国府がこの高岡市郊外にあったことも無視出来ません。 この国府には、あの大伴家持も国司として赴任しております。ウィキペディアによれば、『万葉集』には、家持が詠んだものだけでも富山地域の歌が223首あるといい、その部下や知人の詠んだ歌、富山県の伝説などを詠んだ歌も含めると337首あるのだそうです。 越中を歩いていて思いましたが、ここには家持の面影が色濃く残っております。家持を祭神とする神社があるということも新鮮でした。 家持が国司であった頃、当地の阿彦伝承はどのようなものであり、家持はそれをどう受け止めていたのでしょうか。 http://rd.yahoo.co.jp/volunteer/blogparts_program/01/swf/y_only/*http://i.yimg.jp/images/volunteer/donation/blogparts/general/volunteer.swf?bokin_id=1630001 |
天香山
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『万葉集』にも歌われる大和三山の一「天香山(あめのかぐやま)」は、偶然か否か、越の国の一ノ宮「彌彦(やひこ)神社」が祀る神と同じ呼び名でもあります。『日本書紀』でも大いに活躍した大神の名でもある一方、各所に不可解な示唆を残しております。それはあたかも水中から息継ぎを求めてあがいているようでもあり、ダイイングメッセージのようでもあります。そのかけらを、私なりに紡いでみたいと思います。
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西へ向う北陸自動車道は、日本列島を真っ二つに分ける「フォッサマグナ」なる巨大な地溝帯を横切る形になるわけですが、上杉謙信ゆかりの春日山城の下をトンネルで抜けると、縄文文化を潤したヒスイの一大産地「糸魚川(いといがわ)――新潟県――」に至ります。そのあたりは、フォッサマグナの本州日本海側の西端とされております――東端については新潟県柏崎なり同県新発田あたりと考えられますが未だ不明瞭――。 この糸魚川のヒスイは、青森県の「三内丸山(さんないまるやま)遺跡」からも出土しており、広範な縄文交易の実態が窺われるものでもありますが、三内丸山に縄文文明都市が存在したごとく、その交易相手の糸魚川にも当然ヒスイに特化した一大文明があっただろうことは想像に難くありません。それが後にヌナカワヒメを輩出することとなる越の一大勢力をこの地に育んだのでしょう。 なにしろ、この糸魚川は、旧くは「ヌナカワ」と呼ばれておりました。もちろん「ヌナカワヒメ」の「ヌナカワ」です。ヌナカワヒメと言えば、「諏訪のタケミナカタの母親」という“記・紀にない伝承”が、ほぼ定説化しております。 『古事記』での「沼河比売(ぬなかわひめ)」は、「八千矛神(やちほこのかみ)」から求婚され、それを受け入れ結ばれております。 八千矛神は、一般的に出雲の「大国主命」の別名とされておりますが、元来は別神であったと、『古事記(講談社)』全訳注の次田真幸さんは補足しております。 沼河比売に求婚せんと通い続けた八千矛神は、ある時太刀の緒も解かず、襲(おすい)もまだ脱がないうちに乙女の寝室の板戸を押し揺さぶり引き揺さぶりして立っておりました。すると、鵺(ぬえ)やら雉(きじ)やら鶏やらがけたたましく鳴きわめき、それをうっとおしく思った八千矛神は、天馳使――鳥の使い――に鳥たちを打ちたたくように要請しました。 すると沼河比売は戸を開けないままに次のように歌いました。 ――引用:次田真幸さん全訳注『古事記(講談社)』より―― 八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、わたしの心は、浦州(うらす)にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。ただ今は自分の意のままにふるまっていますが、やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。――これを語り言としてお伝えします。(三) 青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。そのとき朝日が輝くように、明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、愛撫したりからみ合ったりして、玉のように美しい私の手枕として、脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょうから、あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛の神の命よ。――これを語り言としてお伝えします。(四) 美しい歌を掛け合うラブロマンスのようでもありますが、沼河比売の歌にある生々しい描写はほとんど官能小説でもあり、また、引きこもって拒み続ける乙女の寝室の戸を強引に揺さぶり、邪魔な鳥たちを殺そうとまでする八千矛神の暴力性は、もはや、強姦まがいの夜這いに思えます。 ここでの鳥たちは、額面どおりの鳥たちではなく、沼河比売の親族や側近、あるいは越の民のことではないでしょうか。つまり、当地の女王ないし姫君であったと思われる沼河比売は、敗戦色が濃厚となった段階で、周囲が殺されないように自らの身を捧げ、侵略者に屈する決意を表明したのではないでしょうか。 これは「越」が八千矛神勢力の支配下に入った逸話を示唆しているものと考えられます。仮に八千矛神を大国主命に重ね合わせる『古事記』の論調の視点に立つならば、これは諏訪神タケミナカタ出生秘話の示唆と捉えていいのかもしれません。 『古事記』はこの後、八千矛神の正妻である「須勢理毘売(すせりびめ)」が嫉妬し、夫がそれを必死でなだめ、あらためて夫婦の契を交わす流れになります。この下りの表現も先に負けず劣らず官能小説ばりなのですが、須勢理毘売は、ここで明確に「八千矛の神の命や吾が大国主」と呼んでおります。 このあたり、謎の諏訪神を考える上で掘り下げれば次々と興味深い話題に展開出来そうなのですが、とりあえずここでは「夫の移り気と、嫉妬する正妻」という構図を取上げ、あえて“強調”しておきます。 |
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山川出版社の県史シリーズには常々だいぶお世話になっておりますが、『新潟県の歴史』『富山県の歴史』『石川県の歴史』『福井県の歴史』といった、いわゆる越エリアのそれらを入手して目を通してみても、どうも「阿彦」に関する記述を見つけ出せません。見落としの可能性も否めないにしても、新潟県内や富山県内の図書館にて試論的な論文集も含めて探してみたところで、それでも多くは見かけません。 考えてみれば、私が「阿彦」という存在を知ったのは比較的最近で、宝賀寿男さんの『越と出雲の夜明け(法令出版)』でその名を見たのが初めてでした。その後、『日本の神々(白水社)』寄稿の藤田治雄さん、『阿彦の乱(とやま県医通報)』を連載していた桜井仁吉さん、『「喚起泉達録」に見る越中古代史(桂書房)』の棚元理一さんらの稿を読みふけっているうちに、「阿彦」が越エリアの先住権力者としてあたりまえに認識されている存在であるかのような錯覚に陥ってしまっておりました。 しかし、それは現実的な阿彦研究事情(?)とはだいぶかけはなれた感覚だったようです。阿彦や阿彦伝説を収録した江戸期越中の通史文献『喚起泉達録』や『肯搆泉達録』について、その発生地である富山県の某公立図書館の職員の方も全く知らないようでした。誤解のないように補足するならば、別にその職員の方の認識を責めているわけではなく――その方は実に一生懸命私の求めた文献等を書庫から探してきてくださり本当に感謝しているのです――、おそらく伝説震源地の富山県においてですら、現代の阿彦への認識はせいぜいその程度のものである、ということなのでしょう。 なにしろ、より深く調べてみようとインターネットで検索してみても、真っ先にヒットするのが拙『はてノ鹽竈』の記事なのです。そればかりか、私以外の記事にはほとんどめぐりあえません。もしかしたら全国を見渡しても前述の著者ら以外で「阿彦」に注目しているのは私しかいないのではないか、とすら思えてきます。 余談ですが、かつて鹽竈神社のことを調べているときも、ウェブ上では満足のいく情報に行きあたりませんでした。したがって、まずは図書館などで情報を収集し、それに基づいて関連地へ出向くなどして調査検証し、再び図書館で確認するなどを繰り返し、独自の考察をしました。 平成の現代では鹽竈神社について研究されている方も特に思いあたりませんが――私と並行して調べていて偶然同じような結論に至る論立てをしていたと主張していた方もおりましたが・・・――、昭和以前においては元宮司の押木耿介さんの『鹽竈神社(学生社)』や豊田武さんあたりを最終に、様々に論じられていたことがわかります。おそらくそこには学問的究明とは次元を異にする切迫した事情がありました。 例えば、明治以降、鹽竈神社は奥州一之宮にふさわしく、官幣社なり、国幣社なり、名実共に“官の格付け”を得んと政府に働きかけておりました。しかし、その指定には“必須条件”があり、それは平安期の『延喜式』「神名帳」に記載されていなければなりません。 鹽社は「神名帳」にこそ記載されていませんでしたが、同じ『延喜式』の「主税式」にその名が見え、そればかりかその先駆の法律書であった『弘仁式』の「主税式」にもその名が見えました。しかも、そこに記載されていた社は全国でも四社しかなく、鹽社はその内の一社だったわけです。更に明記されていた祭祀料が他の三社の五倍以上であり、鹽社は紛れもなく圧倒的貫録の古社でありました。 しかし、政府の定めた原則はあくまで“神名帳記載の社”であり、鹽社ははっきりとそこから漏れてしまうことも事実でした。 そこで、同神名帳において最高格に位置づけられていた「志波彦神社」を境内地に遷座し、暗に異名同体の神を示唆しながら社名として併記するなど、いろいろな政治的操作が行われたようです。 それに対し、官の格付けがなくとも鹽社が歴史的な大社であることは明白である、として、つまらない操作はいたずらに本質的な格を貶めるものと反論する一派もありました。 結局、鹽社はなんとか「国幣中社」の座を獲得したのですが、しかしこれは最高格の「官幣大社」から数えて「国幣大社」「官幣中社」に続く位置になるわけで、かつて平安期の「主税式」において最高無比で別格の扱いを受けていた社としては、あまりに寂しい格付けと言わざるを得ません。当時の反対論者の懸念どおり、結果として鹽社の凄みが矮小化されてしまった感は否めません。 いずれ、このように鹽社には、先達の各々がまるで異なる角度からその名社ぶりを論じ、熾烈に論を戦わせてくれた経緯がありました。それらを客観的に概観出来たおかげで私も自分なりの考え方がまとまったのです。 余談が長くなりました。その話と同列には出来ませんが、つまり「阿彦」についても、伝説なり神話に伝えられた事績の大きさの割に、史学界からあまりにもその存在を無視――軽視――され過ぎている、と私は感じております。斯界が阿彦をそのように扱う理由は、おそらく次のような考えなり事情があるからだろう、といくつか想定しているので、無難な順に列記しておきます。 1.阿彦伝説は荒唐無稽な創作であり、検証するにあたらない。 2.阿彦伝説に関して信頼できる史料がないので、検証するにあたらない。 3.越の有力豪族の投影であろうが、阿彦の実在が疑わしいので検証するにあたらない。 4.阿彦の存在がタブーである。 1や2は史学界によくある話です。『「喚起泉達録」に見る越中古代史(桂書房)』の棚元理一さんは、同書の序文で次の様に語っております。 ――引用―― 『喚起泉達録』を荒唐無稽な伝説の累積や物好きの架空創作などとする根拠はどこにあるのだろう。実証できないからとするならば、検証して虚実を明らかにするのが史学者の取るべき手段であろう。桜町遺跡の貴重さは発掘するまで誰も知らなかった。たまたま、国道建設予定地内にある遺跡地として事前調査となったからに過ぎない。偶然を起点とした研究に取り組みがちになる傾向は如何なものであろうか。 思わず拍手をしたくなりました。もちろん、素人の荒唐無稽な妄説全てに検証を加えていたらキリがなく、優秀な研究者がそれに振り回されるのもそれこそ社会的不経済でもあると思いますし、それであればよほど本来の研究分野に各自専念していただいていた方が有意義だと思います。 しかし、阿彦伝説は「物好きの創作」というにはあまりに大がかり過ぎます。少なくとも、江戸時代の段階で既に富山県内の至るところに伝承地があり、縁起なり由緒にそれを掲げている寺社も少なくありません。十分に郷土の歴史民俗学テーマとして足り得ます。 仮に阿彦が架空の人物であったとしても、越というエリアにそのモデルとなった何者かが存在していたことは間違いないでしょう。 「越の国王」を僭称していたという「阿彦」――。
垂仁天皇の御代、彼は四道将軍の大彦命によってヤマト化された越において、独自の法律を布くほど周囲の豪族とは一線を画す実力と文化を保持しながら、孤立していたといいます。 天皇を偽称し、高麗人から調を受け取った「道君」――。 欽明天皇の御代、彼は越の国の一郡司に過ぎないにもかかわらず、高麗の使節が天皇と間違って調を奏上するほどの権勢を誇っておりました。しかし、それを同じ越の「江渟臣裾代(えぬのおみのもしろ)」によって朝廷に密告されてしまうほど、孤立もしておりました。 時代を越えて、“越”はこの極めて似かよった属性をもつ異端の両名を輩出しております。一体越の何が彼らをそう育んだのでしょう。
しばし、越中路を歩きながら、“越”という謎多き魅惑のエリアの風景を語っていきたいと思います。
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仙台から、阿彦(あひこ・あびこ)と彌彦(やひこ・いやひこ)を因果づける伝承地「魚沼(うおぬま)地方――新潟県――」に向かう場合、自動車ならば東北自動車道、磐越自動車道、北陸自動車道と乗り継いで、関越自動車道に入ります。広大な越後平野を信濃川に沿って遡るようなルートということになります。車窓の風景を見ていると、途中、右手に弥彦山も見えるものの、総じて平坦で、国内随一の「米どころ」を実感致します。微妙に田園が盛り上がってくる地勢を感じたならば、魚沼地方の入口ということになります。「魚沼(うおぬま)と言えば?」と質問したならば、おそらくほとんどの方からかなりの高い確率で「コシヒカリ」という回答が返ってくることでしょう。魚沼――新潟県――はうまい米のブランドとしてあまりに有名です。そもそもうまいコシヒカリの、そのトップブランドがこの魚沼産なわけですが、宮城の「ササニシキ」で育った私としては大変嫉妬するところでもあります。しかし、コシヒカリのうまさはたしかに認めざるを得ません。かつて、コシヒカリとササニシキを食べ比べる機会に恵まれた際、悔しいながらもコシヒカリの方がうまいと感じてしまいました。とにかくあのみずみずしいもっちり感がうまいのです。では日本一の米はコシヒカリ単独優勝で決定か・・・というと、実は米の世界はそんなに甘くはないのです。決して宮城県民のエゴで言っているのではありません。米は日本人の主食です。だからこそ、たいていの場合おかずと一緒に食するということに異論はないでしょう。つまり、米は、あらゆるおかずに対して相性がよくなければならないのです。ササニシキも並んで日本一と称され続けていた所以はそこにあると私は考えます。比べればわかりますが、例えば寿司にした場合に、コシヒカリの卓越したもっちり感は、皮肉にも主張が強すぎるのです。コメ単独で食すならば確かにコシヒカリに分があるかに思えますが、おかずを含めたトータルバランスではササニシキに分があるように思えます。コメにとっては、主演男(女)優賞も重要ながら、日本の主食たるために重要なのは、むしろ助演男(女)優賞なのです。おかずの魅力を最大限に引き出すことが出来るコメ、それがササニシキなのでしょう。 一昔前に深刻なコメ不足がありました。そのとき、タイ米が流通して、これがたいそうまずかった・・・いえ、日本人の口に合わなかったことは、記憶に新しいことと思います。しかし、実はカレーやナシゴレン、チャーハンとしては実に秀逸な食感であったことにお気付きだったでしょうか。それら熱帯性のエスニック料理には、なまじもっちり感のある日本の米よりも、あのパラパラパサパサ感が実によく合うのです。コメには、他の食物とはあきらかに一線を画す価値観が求められるのです。 ササニシキは、残念ながら遺伝子学的(?)にそろそろ時代を終えようとしているとのことで、既に宮城米といえば「ひとめぼれ」というイメージの方が強くなってきております。しかし、この新たな宮城米は、ササニシキというよりもコシヒカリに近い食感となっております。全国の皆様、今のうちに伝説の宮城米「ササニシキ」を満喫しておくことをお勧め致します。 さて、魚沼地方入りした私が目指したのは小千谷(おぢや)市でした。この地は、北関東方面から水を集めてくる魚野川と、信州からの水を集めてくる日本一の信濃川が合流して、それらが山間部から平野部に放出されるエリアでもあり、両東国文化と、河口の日本海側から流入する中央系や大陸系の文化の交わりを管掌できる要衝であったとも思われます。また、信濃川は、かつては阿賀野川と河口付近で合流し、広大な河口を形成していた――『新潟県の歴史(山川出版社)』――といいますので、現在の新潟市あたりは潟湖のような体を成していたのでしょうし、一大貿易港であったとしてもおかしくありません。一方の阿賀野川は、遡れば陸奥国会津方面――福島県――へと連絡しており、その方面との交流も、会津地方に混在する各種古墳文化の中に、北陸系の土器を多数出土するところもある事から裏付けられます。このような地勢をみるに、小千谷市付近を抑えた勢力も、それなりに大きな果実を得られていたのではないかと想像出来ます。そこに鎮座する小千谷魚沼神社は、かつて上弥彦大明神と呼ばれ、『北越雑記』には「弥彦明神当国臨降最初の地なり」とあり、垂仁帝の御代に、当地に入った彌彦が阿彦を討ったのだとされ、それにちなみ、同記においてこの社は「阿彦の霊を祀る社なり」とされておりました。 小千谷市に入り、魚沼神社を参拝した後にざっと地図を眺めてみると、私の目に「船岡山」なる文字が目に入りました。小千谷の市街地の展開からみて、信濃川を見下すこの船岡山を中心に発展していった集落がこの都市の起源ではないかと感じました。合流後、あるいは分岐前の信濃川を通行する船舶を監視するにはもってこいの地勢であり、阿彦がもしこの地に拠点を置いたことがあったのならば、この船岡山こそが相応しいと思いました。 船岡山の麓には、「船岡観音」を本尊とする「慈眼寺(じげんじ)」という寺がありました。 『日本の神々(白水社)』執筆の藤田治雄さんが引用していた『新潟県の歴史――前述同名書とは別――』の井上鋭夫さんによれば、「上弥彦の別当であり、土川村のほとんどを檀家にする慈眼寺(真言宗智山派)の由緒では、薩明(さつみょう)がこの地の地蔵堂にとどまり、池源寺を創立したのがはじまりで、そののち弥彦大明神がやってきて、ここでなくなったので、この明神をまつり、別当池源寺と号したと伝えている」とのことでした。 それにしても、この池源寺で亡くなったのは阿彦ではなく彌彦だとのこと。どうにも阿彦と彌彦が混乱しておりますが、いずれ、別当寺の本尊が船岡観音であることから、「船岡山」が私の直感どおり当地の彌彦――阿彦――の伝説と無関係ではないことがわかります。なにより、この寺が彌彦の人生最終地であったという伝承のあることは無視できません。 何故私が船岡山に注目したのかと言うと、宮城県県南に同名の山があるからです。その周辺には根強い土着の白鳥信仰があり、なんといっても丈部系安倍氏の根拠地でもあるのです。この安倍氏が、いわゆる奥六郡酋長の安倍氏と同系であろうということは度々触れてまいりました。なにしろ、安倍宗任出生譚が伝わる亘理「鳥の海」は、そのエリアを貫く白石川――合流して阿武隈川――の河口なのです。 この船岡山を称するブランドについては、宝賀寿男さんが度々スクナヒコナ裔族の製塩氏族とのなんらかの因果を主張しておりましたが、ふと、平安京の町割りの基準となった風水的な玄武の船岡山――朱雀大路の延長起点――も気になるところです。 それはともかく、阿彦伝承地のシンボルたるべき山と、安倍宗任出生譚がある河口のすぐ上流にある安倍氏エリアの山が同名であることは事実です。このことは、陸奥安倍氏が自らの祖と仰ぐ「安日(あび)――長髄彦の兄――」のモデルは「阿彦」ではなかったか、と考える私の試論に説得力を増してくれるものと信じております。 |
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ひとつ、備忘録的にとりあげておきたい一件があります。現段階で、特になんらかの私論があるわけでもないのですが――ないわけでもありませんが――、いずれ何か重要な示唆が含まれていると考えているので、ここに提起しておきます。 『日本後記』に、「渡島(わたりしま)の狄(てき)」二百余人が「気仙(けせん)郡」に“来着”したという記事があります。 これは、弘仁元(810)年冬十月甲午に陸奥國からの言上という形で記録されており、記事によれば、このとき陸奥國は「当国の所管に非ず」と、管轄外を理由に受け入れを拒否しております。 これに対し狄側は、「本郷に帰ろうにも、寒い時節でこれから海路を越えるのは困難なので、せめて来春まで留め住まわせて欲しい」と嘆願しました。 結局この嘆願は受け入れられました。更に、滞在期間の衣食の支給も決定されたようなので、そこに敵対の様子は見られません。陸奥國の拒否は、本当に行政上の理由だけだったことがわかります。 なにしろこの時期の東北地方は、比較的安定していたと考えられます。既にアテルイとモレは処刑され、征夷政策を推進した張本人の桓武天皇も、祟りに怯えた断末魔に蝦夷征討の停廃を裁断し、そしてそのカリスマ天皇の崩御からも既に五年の年月が過ぎておりました。桓武天皇の裁断は、国家予算という問題もあったことでしょうが、おそらく晩節を汚したくなかったのではないでしょうか。桓武天皇には、異常に祟りに怯える一方で、その反動のようにどこか英雄的気分があり、自分が歴史の一コマに残っていくという意識も強かったように感じます。 それはともかく、私は当該の狄の来着に関して「気仙郡に“来着”した」と、あえて“来着”の二文字を強調しておきました。 何を隠そう、私はこれをずっと“漂着”と勘違いしておりました。原文には「来着」とあるのに、なんの疑いもなく「漂着」と捉えていたのです。 実は、これは特に私だけの勘違いではなく、むしろそれが一般的な解釈でもありました。言うまでもなく、来着と漂着ではまるっきり意味が違います。「漂着」には、路頭に迷って、たまたま辿りついた、という“偶然性”が含まれているわけですが、「来着」には、あきらかにその地点を目指してやってきた、という“必然性”が含まれます。つまり、二百余人の狄らは、なんらかの目的をもって気仙郡にやってきたに違いないのです。 これを指摘していたのは『大船渡市史』に寄稿している新沼梯二郎さんでした。新沼さんは、「古代史書を見ても新羅人・渤海人・南島人などについて、来着と漂着ははっきり区別して使い分けられている」として、渡島ノ狄の場合も原文に「気仙郡ニ来着ス」とあるのだから、偶然的な漂着ではなく、はじめから気仙郡を、あるいは三陸沿岸南部をめざして来航したものと見るのが至当である、としております。 新沼さんの指摘を知ってから、私は複数の『日本後記』の校訂を確認してみました。すると、なるほどJ-TEXTS日本文学電子図書館『日本後記(朝日新聞社本:荒山慶一氏作成)』には、次のように「来着」とありました。 ――引用―― 陸奧國言。渡嶋狄二百餘人來着部下氣仙郡。非當國所管。令之歸去。狄等云。時是寒節。海路難越。願候來春。欲歸本郷者。許之。留住之間。宜給衣粮。 また、森田梯さん全現代語訳の『日本後記(講談社)』と、工藤雅樹さん編の『東北古代史・資料集(多賀城史跡案内サークル)』には「来著」とありました。しかし、そのような言葉を私は知りません。『広辞苑』にもありません。これはおそらく「着」を「著」と誤写したものか、あるいは誤写したものを底本にしたと考えるのが妥当なのではないでしょうか。森田さんは、前述書の凡例の中で「集英社版に依拠した」と前書きしているので、その集英社版で既にそう表記されていたのでしょう。もしかしたら工藤さんも同じものに依拠したのかもしれません。 それにしても、何故、「漂着」と解釈されてきたのかについては、よくわかりませんが、外国人についてはきちんと使い分けがされているのに、狄についてはそれが無視されているとなると、近世以降の解釈において、何か意図的な作意、あるいは根強い偏見があったのではないかと勘繰ってしまいます。 さて、次に「渡島狄」の解釈ですが、これをよく「北海道のアイヌ人」としているのを見かけます。これについての新沼さんは、「いまの北海道に渡島(おしま)半島や渡島(おしま)国(行政国名)があるからだろう」として、それを否定はしないものの、断定にはためらいを見せております。渡島は「わたりしま」と呼ぶのが正しいとも言われ、古代史上は北海道の固有名詞に限らず、陸路が開けていないために船で往来しなければならない半島などもそう呼ばれたフシがあるからです。私も基本的に同意見です。 また、新沼さんも指摘していることですが、古代史の史料上、「狄」は特に日本海側の蝦夷を指します。新沼さんは「津軽半島方面から沿岸づたいに来航したものではないか」と考える必要性を説いておりました。 前に私は、山形県酒田市飛島(とびしま)の「テキ穴」の呼び名の解釈に際し、「テキ」について次のように触れました。 テキ穴が何故テキ穴と呼ばれているのかについて、これも明確な説はないのですが、「北狄(ほくてき)」や「夷狄(いてき)」といった、いわゆる蝦夷と同義の野蛮人を指す“テキ”ではないかと想像します。私の故郷にも「エゾ穴」と呼ばれた横穴式の墳墓がありましたし、朝廷では出羽の蝦夷を特に「北狄」と呼んでいたらしいことを考え合わせるとそれが穏当ではないのかと思います。 補足するならば、これは中華思想の影響でしょう。中華思想では、中国が世界の中心であるという思想の下に、東西南北の異民族を蔑視して、各々、東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき)、と、方位の後に野蛮人を表す語彙をあてはめて呼んでおりました。大和朝廷はそれを模倣して、特に北方面――日本海側:越エリア以北――の野蛮人については「狄」と表現したのでしょう。 もしかしたら、今の北海道も陸奥國から見れば北にあたるので、アイヌ人も狄であったのかもしれません。しかし、私は、気仙郡に来着したのは、やはり日本海側からではなかったか、もっと言えば男鹿半島からではなかったか、と考えておきたいのです。それは「来着」という原文の確認によって、彼らがはっきり「気仙郡」を目指してやってきたことが確実に思えてきたからです。彼らに何があったのかはわかりませんが、平安時代に二百余人と言えば、これはもう大船団だったはずです。決して楽な道中ではなかったと想像します。彼らは、気仙郡司なら自分達を受け入れてくれるはず、という期待があったからこそ遠路はるばるやってきたのでしょう。 この当時の気仙郡司は、おそらく「気瀬郡人 気瀬直麻呂」なる人物を輩出した系譜であったと考えられます。ここでの詳述は省き、要点のみ述べさせていただきますが、この人物は『大同類聚方』なる偽書呼ばわりの医薬全書に出てくる人物です。しかし私は、この人物が当然に実在したものと考え、また、この気瀬氏に関する吉田東伍の見解に注目しております。吉田東伍は、これを後世の気仙金(こん)氏の遠祖にあたるとしているのです。渡島の狄の大船団が、金氏の遠祖を頼ってきたと考えられるのだとすれば、どういうことになるのでしょうか。思うに、彼らははたして本当に春を待って、約束通り本郷に帰ったのでしょうか。その後の記録がないのでなんとも言えませんが、私はどさくさに紛れて気仙郡周辺に土着したのではないか、と想像しております。 |


