はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

天香山

[ リスト | 詳細 ]

『万葉集』にも歌われる大和三山の一「天香山(あめのかぐやま)」は、偶然か否か、越の国の一ノ宮「彌彦(やひこ)神社」が祀る神と同じ呼び名でもあります。『日本書紀』でも大いに活躍した大神の名でもある一方、各所に不可解な示唆を残しております。それはあたかも水中から息継ぎを求めてあがいているようでもあり、ダイイングメッセージのようでもあります。そのかけらを、私なりに紡いでみたいと思います。
記事検索
検索
 物部連の祖は「饒速日(にぎはやひ)――邇藝速日――」とされているわけですが、『日本書紀』と『古事記』の記述を鑑みる限り、それが尾張連の祖「天照国照彦天火明(ほあかり)」と同一であるとは言えません。この両者が同一であるという認識は『先代旧事本紀』の「天照国照彦天“火明”櫛玉“饒速日”」なる記述を見ることで初めて生じます。それは別にしても、少なくとも饒速日の子とされる「可美真手(うましまで)――古事記の表現では宇摩志麻遲(うましまぢ)――」が物部連の直系の祖であることは、信頼される史料上各々共通する事項となっております。また、このウマシマデが、ニギハヤヒとナガスネヒコの妹――紀:三炊屋媛(みかしきやひめ)・記:登美夜毘賣(とみやびめ)――の間に生まれた子であることも共通事項となっております。つまり、ナガスネヒコが、少なくとも物部連の外戚、すなわち母系系譜であるということまでは正史が明記していることでもあるのです。
 このナガスネヒコを、鳥越憲三郎さんは、神武の東征時点での“物部氏を代表する首長”であったのだろうと解釈しております。
 考古学者の森浩一さんも、『日本神話の考古学(朝日新聞社)』の中で、神武の大阪湾からの上陸を阻んだナガスネヒコの姿はニギハヤヒ――物部――そのものであったのではないか、としていることから、間接的ながら鳥越さんとほぼ同様の結論に導かれる仮説を思い描いているようです。
 鳥越さんは、『神々と天皇の間(朝日新聞社)』の中で、次のように語ります。

――引用――
『旧事本紀』にのせる物部氏の系譜の中には、長髄彦の名は見えない。文献の上では、饒速日命が長髄彦の妹を娶って宇摩志麻治(うましまぢ)命を生むことになって、長髄彦は外戚となっている。だがこれは、朝廷の祖先に敵対した長髄彦を、物部氏の直系の祖先とすることをはばかって、後に改作したものとみてよかろう。大和平定の物語では、長髄彦はまさしく部族の長として活躍しているのである。
 ところが、系譜の上から長髄彦の名を抹消されただけならわかるのであるが、物部氏系譜にはまことに奇怪なことがみえるのである。『旧事本紀』に乗るその系譜は、尾張氏が物部氏と同祖とするために、尾張・物部両氏の系譜がともに記されている。そして饒速日命の子として、尾張氏の祖の天香山(あめのかぐやま)命を兄として、物部氏の祖の宇摩志麻治(うましまぢ)命を弟としているが、その宇摩志麻治命の名が二人もみえるのである。両氏の系譜を左に対照して示そう。
 (尾張氏系譜)
饒速日命  児 天香山命  孫 天村雲命  三世孫 天忍人命  四世孫 瀛津世襲命
 (物部氏系譜)
饒速日命  弟 宇摩志麻治命  児 宇摩志麻治命  孫 味饒田命  三世孫 大禰命  四世孫 大木食命
 このように、物部氏の系譜には同名の宇摩志麻治命という父子があることになっているが、こうした例は他の系譜には見られないことである。後世に長髄彦の名を消して、宇摩志麻遲命に改めたようである。始祖は政治的作為で他にもとめたりはするが、一般の系譜については伝承を重んじて改作しなかったことを示す好例である。この場合でも削除さえすれば事足りるものを、ただ名前だけを改めているのである。いずれにせよ、登美毘古こと長髄彦こそ、物部氏が古く本拠地とした鳥見の地の首長であった。

 実は、私はこの系譜で宇摩志麻治の名が重複していることを不思議に感じておりました。例えば、鹽土老翁(しおつちのおじ)神や武内宿禰(たけのうちのすくね)などのように、とても信じられないような長寿をもって数代の天孫に仕えたことが記録されている存在については、例えるなら「市川団十郎」などのように、おそらく代々世襲された屋号なり名前なのであろう、という自分なりの解釈で割り切れておりました。
 しかし、この宇摩志麻治については、既に物部なる一つの屋号的継承体の中での重複なので、前者同様の解釈では自分なりに咀嚼出来なかったのです。したがって、この鳥越さんの見解に目を通したときには光明が差した思いがしました。といいますか、それだけにはとても収まりきらない激しい感情の高揚感が湧きあがりました。言うなれば、買い物の元手以上の景品を受け取ってしまった気分とでもしておけばよろしいでしょうか。
 念のために申し上げておきますが、私は必ずしもこの鳥越さんの見解を“史実”として自説の方向を確定しているわけではありません。しかし、少なくとも『先代旧事本紀』の編纂者はおそらくそう考えていたのであろう、とは思うのです。そして、そのイデオロギーの延長でこの系譜を眺めていくとどうなるか・・・。弟の宇摩志麻治がナガスネヒコであったというならば、その兄「天香語山」は、陸奥の王者「安倍貞任」後裔を自称する秋田氏や藤崎氏の系図が記すところの彼らの始祖、ナガスネヒコの兄「安日(あび)王」と属性を共有することになります。
 天香語山を祭神とする越後国一之宮「彌彦神社」には、“高志の国王”を自称した「阿彦(あびこ)」の影が濃厚であることも触れてきました。“アビ”という語感の共通性は単なる偶然なのでしょうか。思うに、陸奥の安倍貞任後裔一族のその実は、もしかしたら「阿彦」の末裔であったのではないのでしょうか。
 『先代旧事本紀大成経』は、陸奥国一之宮鹽竈神社の鹽竈大神をナガスネヒコであるとしておりました。それについては既にだいぶ字数を費やしたわけですが、その際、私は諸々の伝承から、鹽竈神社には多少なりとも瀬織津姫の影があることを想像し、かつ指摘してまいりました。おそらく彌彦神社についても同様のいきさつがあったものと考えております。
 宝賀寿男さんの見解では、彌彦神社の本来の姿は、四道将軍の一画、丹波道主族が奉斎する豊受大神――瀬織津姫――祭祀ではなかったかということでした。それを否定するわけではないのですが、これまで語ってきたように、越エリアの伝承によれば、阿彦の先祖は「倉稲魂命(うげのみたま:うがのみたま)」すなわち「豊受大神」であったとされているようです。つまり、宝賀さんの見解も伝承も信じれば、征服者が被征服者の祖先を祀っていたということになります。これはおそらく偶然ではなく、懐柔策として同イデオロギーの丹波道主族が任命されたものか、あるいは、これを機に自分達の後ろめたい気持ちを払拭するために丹波道主族が同神を奉斎し始めたかのいずれかであると考えます。
 つまり、私は彌彦神社の本来の姿は、やはり“阿彦の鎮魂”ではなかったか、と考えるのです。境内の「某神社」は、おそらく阿彦の陵墓であるのでしょう。その阿彦を鎮魂するためにもっともふさわしい存在が、阿彦の祖であるウガノミタマ、すなわち伊勢外宮の神である豊受大神であったのではないでしょうか。宝賀さんはこれを瀬織津姫と同一であるとしているわけです。
 鹽竈神社の論考で私が語ったのは、鹽竈大神をナガスネヒコであるとするイデオロギーが存在したからこそ、その恐るべし霊力の相殺的役割に瀬織津姫が用いられたのではなかったか、ということでした。鳥越さんの見解を借用するならば、旧事紀上の二例目のウマシマジの両親は、ナガスネヒコとトミヤビメということになってきます。この場合、正史上のニギハヤヒの役柄をナガスネヒコが担っているということになります。『ホツマツタヱ』にも見られるような地下水脈的イデオロギーからすれば、男神アマテルの后は「ホノコ――ホアカリの妻という意味か?――」、すなわち瀬織津姫であり、アマテルは『日本書紀』において“天照”を冠して称された「ホアカリ」と同一視された「ニギハヤヒ」に対応していると考えていいでしょう。その流れでいくならばトミヤビメには瀬織津姫の属性が被ってくる事になります。あくまでイデオロギー上を右往左往しているわけですが、ナガスネヒコの怨霊を鎮魂するために最もふさわしい存在が瀬織津姫であると考えられたとしてもなんら不思議ではないでしょう。
 史実か否かに関わらず、人間が心で動いている以上、このようなイデオロギーが現代に至っても絶えず歴史の地下水のように流れ、歴史を動かすことさえある事実は認めなければなりません。そしてそういったイデオロギーを携えているなんらかの一派が、鹽竈神社にナガスネヒコが祀られていると信じ、それはときに『先代旧事本紀大成経』のような形で露出し、そしてその流れによって鹽竈神社にも瀬織津姫の霊力も導入されたのではないかと私は考えておりました。そして今、彌彦においても同様のことが言えるのではないか、と考えております。
 さて、鹽竈大神をナガスネヒコであるとした『先代旧事本紀大成経』には、秘かに全体を貫くぶれない一本の背骨のような理論が存在します。『謎の根本聖典 先代旧事本紀大成経(徳間書店)』の著者、後藤隆さんは、その理論に便宜上の名称を付しております。
 その名も「天隠山(あめのかぐやま)理論」です。

イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
奈良県葛城市竹内地内「ナベ塚古墳」。母方の実家が近所であるという司馬遼太郎さんは愛着をこめて「しょうむない丘」と呼んでおりましたが、地元の人たちはこれをナガスネヒコの墓と信じているそうです。
 『日本書紀』によれば、長髄彦(ながすねひこ)軍との緒戦によって司令官クラス――神武の兄達――をことごとく失い、壊滅状態とさえ思えるまでにあきらかに劣勢であった「イワレビコ――後の神武天皇――軍」は、最終的には奇跡の大逆転によってリベンジを果たしました。その奇跡こそ、いわゆる「金鵄(きんし)伝承」です。
 奇跡は、相変わらずイワレビコが苦戦しているその最中、にわかに暗雲がたれこめて雹(ひょう)が降り、金色の「鵄(とび)」が飛来してイワレビコの弓にとまったことから始まりました。鵄は雷のように光り輝いて長髄彦軍はそれに眩まされ戦意喪失してしまったのです。この奇跡があればこそ現代に至るまで万世一系――とされる――天皇家があるわけで、近代の大日本帝国陸海両軍において功のあった軍人に授与された勲章――金鵄勲章――の名称にも用いられたのです。
 しかし、神話伝承の世界ならともかく、現実的にこれだけの大逆転劇をもたらせしめた戦略が一体どのようなものであったのか、それに対して明確に解明している論考を私は未だ知りません。そこで私は前に、弓の先にトビの羽をぶら下げたのではないか、という仮説を立てておきました。
 その発想は、宮城県県南の「白鳥信仰」からひらめいたものでした。それは幕末戊辰戦争の頃、仙台藩主伊達慶邦(よしくに)が「白石の百姓が一揆を起こしても心配ない。槍の代わりに竹の先に白鳥の羽をぶらさげて、それを突き出してやれば白石の百姓達はいかなるものでも震え上がる」とうそぶいていたことが最大のヒントになりました。当該エリアでは、白鳥の羽に触っただけでもミミズ腫れが出来るほど、白鳥を恐れ敬っていたのです。日本人は自分の崇敬するモノに対して、それが単なるモノであってもそこになんらかの臨在感を感じ取ります。隠れキリシタンに踏み絵が絶大な効果があったのもそれ故でありますし、幕末において薩長軍と互角以上の戦力を持ち合わせていた徳川幕府軍が、単に「錦の御旗」を掲げられただけであえなく敗走する羽目になったのもほぼ同じ理屈と言っていいでしょう。
 ただ、それは長髄彦が“トビ”の一族であればこそ効果があります。『古事記』からの解釈では「トビ」は明らかにナガスネヒコ側のブランドとしか考えられないのですが、『日本書紀』によれば、元は「長髄邑(ながすねむら)」なる邑が、この金鵄の逸話から「鵄邑(とびむら)」と呼ばれるようになったのだといいます。つまり、そこから解釈するとトビは神武軍の味方であり、長髄彦とは本来関係がないということになってしまうのです。
 しかし、これは実に不可解な話であると私は考えております。鵄(とび)が勝者である神武側の守護神のような存在であれば、長髄彦を後世に伝承する際に、決して「鵄の長髄彦」などと伝えるわけがないと考えるからです。
 もし、平清盛の夢幻の京「福原――兵庫県神戸市――」を、勝者側の源氏が守護神の石清水八幡大神の御加護によって奪い取り、その事に因み「八幡邑」と名づけたとしても、源氏側は清盛を決して「八幡の清盛」などと伝えることはないでしょう。
 なにしろ、『古事記』は「登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)」と表記して、以降一貫して「登美毘古(とみびこ)」を通しております。また、その妹で饒速日(にぎはやひ)の妻とされる「登美夜毘賣(とみやびめ)」にも「登美――紀では鳥見――」が冠されております。
 トビが彼等の代名詞であったことは疑う余地もないでしょう。
 さて、もうひとつ悩ましいのは、長髄彦が龍蛇族であるとされる伝承です。龍や蛇がトーテムであれば、鵄の羽をぶらさげられたところで攻撃を躊躇することはあり得ません。そこで私は前に、主君饒速日(にぎはやひ)のトーテムがトビではなかったか、と当座の仮説を立てておきました。『日本書紀』の記述から饒速日と神武天皇が同族であったことがわかりますので、トビが天孫系の守護神であったとしても辻褄があうということになります。つまり私は、饒速日が「天磐舟(あめのいわふね)」に乗って生駒山周辺に天降ったことで鵄邑が生まれ、長髄彦がその邑の土着勢力の酋長ではなかったか、と考えてみたのです。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6

 例えば、大坂出身の考古学者である森浩一さんは、著書の『日本神話の考古学(朝日新聞社)』の中で、次のような興味ぶかい見解を語っております。

――引用――
 国生み神話から始まって、イワレ彦の東征の物語まで、長年考古学に携わっている者の立場で解説をしたり疑問を述べてきた。さらに私の得手があるとすれば、物語のうえにあらわれる地名についての土地勘である。また、それぞれの土地にある古墳やそれを残した氏々についての知識も、物語をひもとくうえで作動した。
 そういう立場で、大阪湾に入ってからのイワレ彦の行動を見るとき、最大の疑問は河内のクサカの戦いである。『記・紀』ともにナガスネ彦と戦っているけれども、相手はむしろニギハヤヒだったのではないか、ということである。
 『記・紀』にニギハヤヒが登場するのは、クサカでの戦いではなく、大和での戦いの最後になってからである。ところがのちに説明するように、クサカはニギハヤヒに関係が深い土地なのである。また、すでに述べたように、大和でのナガスネ彦の戦いの描写が、他の大和の豪族たちの戦いに比べると、まるで臨場感に乏しい。このことも疑いをつのらせる。
〜中略〜
 以上の私の疑問を要約すると、次のようになる。
 瀬戸内海を東進し、大阪湾に入り、河内の湖を経て、生駒山脈のふもとに攻め込んだイワレ彦の軍勢を迎え撃ったのはニギハヤヒ勢力であり、それに協力して大和の勢力も加わった。太陽に向って戦うことはできないとして熊野から迂回した本当の理由は、まず大和の勢力を味方につけてから強大なニギハヤヒの勢力を屈服させることにあったのであろう。このように考えると、河内の物部勢力が東からの攻撃を受けたのは、六世紀に滅亡するときだけではなく、イワレ彦の物語にも同じような状況が先取りされていたとみてよかろう。

 進歩性を気取る研究者の中には、皇国史観へのヒステリックな反動もあるせいか、何はともあれ「まず記紀の否定ありき」から始まる方も多いのですが、特に考古学者は物証絶対主義に偏りがちになるものです。しかしながら森さんは考古学者でありながら素晴らしいバランス感覚で曇りなき眼をもって記紀と真剣に向き合っていらっしゃいます。その姿勢には脱帽するしかありません。
 さて、引用した部分でひとつだけどうしても不可解に感じてしまう部分があります。それは、故郷に援軍を頼むこともしていない――出来ない――上に、主力級の人材をことごとく失って孤立無援で敗色濃厚な手負いのイワレビコ軍が、一体どうやって大和勢力を味方につけることが出来たというのか・・・。
 その部分についてあえて同書から答えを探すならば、紀ノ川上流にあたる大和南部の宇智郡の記述が示唆深いと感じております。森さんによれば、この地には南九州出自の隼人(はやと)の居住地があるのだそうです。森さんは「イワレ彦とは本来、地縁・血縁のつながりのある人びとが生活していたことになる。これは物語のうえだけではなく、考古学的にも古伝承でも支持できることである」としております。ここで深入りはしませんが、このあたりにもイワレビコ逆転劇に関して何か秘密がありそうな気がします。
 一方、森さんとは異なるアプローチから長髄彦を物部勢力そのものではなかったかと捉えた方がおります。闕史(けっし)八代の天皇は実在したとして、しかし、初代神武からの九代開化まではヤマト王朝に先立つ「葛城王朝」であったとして斯会に波紋の一石を投じた鳥越憲三郎さんです。鳥越さんは、『神々と天皇の間(朝日新聞社)』の中で、次のように述べております。

――引用――
 長髄彦(ながすねひこ)のことを『古事記』では登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)または登美毘古(とみびこ)と記している。そして妹の御炊屋姫(みかしきや)姫も鳥見屋(とみや)姫ともいうが、物部氏の本拠地となった地名の鳥見を、その名に冠していることは注意しなければならない。一般にそうした名をもつ者は、その地の首長であるからである。実際、大和平定の物語を通じて、終始その名を現わすのは登美毘古こと長髄彦である。その意味で彼こそ大和平定時において、物部氏を代表する首長であったとみてよかろう。

 森さんは記紀の戦いの描写の不自然さから、鳥越さんは地名を冠する日本人の習慣から同じような仮説を導いております。いずれも特に物証があるわけではなく、論拠としては心もとないものではありますが、しかし大変鋭い指摘と言わざるを得ません。
 そして、鳥越さんがこの後に書き連ねるとある記述は、私の脳細胞にとてつもない衝撃を与えることになります。おかげで私はカグヤマを意識せざるを得なくなったのです。
 『阿彦の乱』によれば、祟神天皇が派遣した四道将軍の一人「大彦(おおびこ)」の圧倒的強さの前に制圧された越エリアの戦後処理において、要領の良い土着実力者ら12人が支城とその領土の管掌を任されていくわけですが、後に「越ノ国王」と僭称することになる「阿彦(あひこ)」だけは冷遇されていたようです。
 伝承では、阿彦はそれら12人よりもはるかに勢力も人望もあったとのことで、にもかかわらず何等の沙汰もなかったことに阿彦が怒った、とされているようです。
 しかし、同ウェブ記事の筆者は、仮に大彦軍大将の「椎摺彦(しいずりひこ)」が阿彦の協力を望んだとしても、阿彦は彼の家来になるつもりは毛頭なかっただろう、としております。
 なにしろ椎摺彦の立場では、神道と対立する阿彦の新思想や新政策について承認出来るわけもなく、それが明白である以上、阿彦からしても妥協点の見い出しようがなかったといったところでしょうか。
 当時、中央政権においては迫害されるべき靺鞨(まっかつ)族のいわば“サンクチュアリ”であった越エリアにおいて、絶大に支持されていた阿彦の属性の根本は、それらの新思想や新政策を掲げていたこと、現代風に言えば政権のマニュフェストに掲げていた故でしょうから、その譲歩は阿彦が阿彦たる存在価値を消失させるものであったのでしょう。
 ところで、ここで言う「神道と対立する阿彦の思想」というものが、仏教なのか儒教なのか、はたまたその他の何らかなのかは明確ではありません。同ウェブ記事の筆者は、一方で「阿彦が大陸文化に心酔して居たと云っても、尚、古来の神道を自分の宗教として守って居り、天皇を尊奉するに大して抵抗を覚えない」とも書いており、政策とは別次元で阿彦には神道信奉的な要素があるとしているわけですが、そもそも、これまで幾度か触れてきたとおり、靺鞨族を構成する高句麗系朝鮮人の属性からすれば、母子神伝説や卵生神話、始祖漂着神話などが根強い「アマテル信仰――海人系太陽信仰――」であったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 例えば、宝賀寿男さんは『越と出雲の夜明け(法令出版)』の中で、阿彦征伐伝説は「主に伊勢の度会神主一族によって伝えられてきた」としております。「征伐」ですから、当然その思想なりも否定されたということにもなりそうですが、このあたり多少「言葉の綾(あや)」的要素があると考えております。少なくとも、その後のアマテル信仰は伊勢の神道に昇華(?)されていくものであり、思想的には必ずしも「神道と対立」するものとは思えないからです。しいて言うならば、キリスト教徒から見たユダヤ教のようなものでしょうか。
 少し掘り下げたいと思います。前述同ウェブページの次の記述をご覧ください。

――引用――
 伝承の伝える所では、其後の戦闘で大若子命が圧倒的勝利を獲得して居る。阿彦軍討伐の状況描写は「肯構泉達録」に詳しく記載されている。それによると、鄭鶴・徐章は大若子命・甲良・椎摺・手刀摺の連合軍と美麻奈軍に挟撃されて討死し、阿彦は大若子命に打ち取られて居る。大谷狗は佐留太舅に生け捕りにされ、支那夜叉・強狗良は何処かに逃亡して戦乱は終結するが、之に引続く戦後処理の仕方が非常に不合理で、天孫族に都合の良い様に改変された事件の真相を窺わせて居る。之は此の伝書に先だって流布された「喚起泉達録」では最終戦の様子の殆ど記載されて居ないのを良い事にして、阿彦や彼の武将達の結末を、天皇方に都合の良い様に辻褄を合せて無理に創作した為に生じた不合理であろう。又、天皇方に不利な記載は常に狂信的な御用学者達から弾圧を受けて、公開が不可能だった日本神話の独善的伝統から致し方の無い事情もある。

 引用文の後半はとりあえず同ウェブ記事筆者の思惑のようですので、そこは一旦保留にさせていただき、伝承部分にのみ注目させていただきますが、これによって最終的に阿彦を征伐したのは「大若子命」であると伝えられていることがわかります。大若子命とは、すなわち伊勢の度会(わたらい)神主一族の祖です。前に触れたとおり、同ページによれば、阿彦は「富山湾の海上(布勢の海)に強大な勢力を張って居た布勢の神、倉稲魂命(ウゲノミタマ或いはウガノミタマと称す)の子孫」であるということでしたが、何を隠そう、この倉稲魂命は伊勢外宮の豊受大神の同体異称に他なりません。つまり、阿彦の先祖は、阿彦を征伐したと伝えられる大若子命の子孫「度会神主一族」奉斎の神と同じだということになります。阿彦と大若子命は同族であったのでしょうか。
 このあたりの背景を示唆するものとしては、同ウェブ記事の筆者によるところの、大若子命は結局戦争で阿彦を倒すことが出来ず、和平交渉で切り抜けたとしている話があります。そして、阿彦がそれを受け入れた事情としては、阿彦も越の国の独立は不可能であることを悟り、やがては大和朝に征服されるに違いないと考えたからではないか、としております。ただ、残念ながら、その顛末を記載した出典が記されていないので、この話のどこまでが史料に基づくものかはわかりません。おそらくは、氏の感覚に因む着想なのでしょう。
 『肯構泉達録』は、阿彦の重臣、靺鞨族系の「鄭鶴(ていかく)」と「徐章(じょしょう)」の阿彦への忠貞に感じ入った大若子命が、二人の屍を探し求め、水口に祠を造り神として祀ったという旨を伝えているわけですが、それに対して氏は次のような意見を述べております。

――引用――
何処の戦場でも敵対する者達は容赦なく討ち滅ぼした天皇方が、今度に限っては敵将を神と迄祭り上げて優遇したことは考えられない。彼等は日本国に近づいただけでも打ち殺されるべき外国人であり、副将の地位にあって阿彦の重要な参謀役を果たしたのだから、彼等が阿彦に忠節を尽くしたのは当然で、感服する程の事ではない。

 つまり、だから阿彦一派を神として祀ることなどを条件に和睦したのだろうと着想したのでしょう
 これに対して私はまるで反対の見解を持ちます。阿彦やその重臣たちは、いわれなき侵略によって攻め滅ぼされたと考えられるわけですから、従ってそれを実行した大若子命がその怨霊を恐れたのは想像するに難くなく、だからこそ鎮魂しなければならなかったはずで、神としてあがめ祀らざるを得なかったのは当然と考えます。
 あくまで想像ですが、大若子命が阿彦と同族だということでもない限り、その裔族である伊勢の度会神主一族が、自らが滅ぼした阿彦の祖先である倉稲魂命すなわち豊受大神――伊勢外宮――を祀った事情は、そのような事くらいしか考えられません。
 それはそれとして、私はもしかしたら阿彦は大若子命の“兄”であったりはしないだろうか、などという方向も並行して疑っております。その場合、度会氏の現在の系譜上、彼らは「大幡主(おおはたぬし)命」――阿彦を征伐したと伝えられている――の“弟”「乙若子命」の後裔であるとされているところも実に示唆深く思えてまいります。
 伊勢神宮は言わずもがな国家の宗廟です。その極めて重要な祭祀の片肺を担う度会神主一族が、阿彦征伐伝説を伝え広めた張本人であったことからして、阿彦がただの一兇賊ではなかったことを物語っております。
 そして、阿彦伝説と無関係とは考えにくい彌彦(やひこ)神社の祭神「天香語(あめのかごやま)山」は、物部連の祖「宇摩志麻治(うましまぢ)」の兄とされております。
 『先代旧事本紀』によれば、この兄弟の父親は「饒速日(にぎはやひ)」であり、更にこのニギハヤヒもまた、天孫ニニギの兄であります。
 つまり彼等は天孫第一子系譜なのです。
 カグヤマには一体どんな意味が託されているのでしょうか。私の仮説は今折り返し地点を通過しました。これから、カグヤマ考察の復路をつき進んでいきたいと思います。
イメージ 1
イメージ 2
彌彦神社門前「社家通り」にいた蛇

※平成23年7月26日追記
『阿彦の乱』は、富山県石動町――現:小矢部市――の桜井仁吉さんが、『とやま医療通報』昭和37年1月21日付から6月21日付まで連載寄稿していたもので、平成11年2月頃?になんらかの形で続編が加えられたものであることが、調査によってわかりました。

結婚税

イメージ 1

 「彌彦(やひこ)神社――新潟県――」最古の重要神事「祓戸(はらえど)神社祭――鎮魂祭――」は、同県寺泊町野積浜なる海岸から山を超え、摂社櫻井神社を経た後、彌彦神社に到達する次第となっておりました。その経路は彌彦大神の足跡をたどっているとされているわけで、このことにより、自ずと櫻井神社が彌彦神社に先んじるなんらかの聖地であることを知るのですが、その経路には「上弥彦」と呼ばれた同県小千谷市の魚沼神社は含まれておりません。このことから、「上弥彦」という言葉の意味するところは、いわゆる彌彦大神の足跡ではなく、彌彦大神にとって代わられた先住権力者「阿彦(あひこ:あびこ)の痕跡であったとも考えられます。宝賀寿男さんは彌彦大神の尊称「伊夜比古(いやひこ)」の語源を「射阿彦(いあひこ)」ではなかったかと想像しておりましたが、仮に、「伊」が尊称を表す言葉だとしても、征伐されて、あの世からさぞや恨めしく現世を見据えている霊に対して、格別な尊称を冠することは極めて自然であり、意味合い的にはなんら変わらないと言えるでしょう。どうせなら、新たに「慰阿彦」も候補として加えたくなってきました。
 さて、ウェブページ『阿彦の乱(富山県の古代史)』によれば、祟神朝から垂仁朝にかけて、越エリアに展開した一大勢力の首領「阿彦」は、多くの有能な人材に扶けられて内政を改革し、次第に専政君主政治に変えていったとのことで、此の制度によれば、阿彦は当然君主であり絶対の権力を有していたことになります。事実、『高波八幡宮社記』によれば阿彦は「高志の国王」を名乗っていたようです。どこか平将門か奥州藤原氏あたりを彷彿とさせます。『高波八幡宮社記』をもう少し詳しく見てみましょう。
 「兇族ヲ集メ自ラ越ノ国王ト僭称シ、法制禁令ヲ専ラニシ、州民ヲ虐殺シ財宝ヲ掠奪シ、暴悪増長シ、国民ノ困難一方ナラズ」
 これを少し細分化して前述同ページの解説をもとに補足してみます。
 「法令禁令ヲ専ラニシ」については、「今迄の神懸かり的な神道の規則を無視して、支那の制度を取り入れた新しい法令を出した迄の事であり、此の法律に従はない者は其の定める所に従って厳重に処罰」されたのだと解説しております。
 また、「州民ヲ虐殺シ財宝ヲ掠奪シ」については、人々から租税が取り立てられたことを指しているとして、「斯かる租税の制度は、天孫族の方でも丁度此の時代、祟神天皇の時から採用された事が知られて居る。即ち肉体労働を提供する今迄の旧い型の納税法に取って代わって、男には弭調(ユハズノミツギ)と云って狩りの獲物を献上させ、女には手末調(タナスエノミツギ)と云って織物を献上させる様になった」と解説しております。
 また、「国民ノ困難一方ナラズ」については、「阿彦の税制は天孫族の素朴な徴税法とは異なり、もっと組織的・合理的であって色々の名目で租税が取り上げられた。神道政治では自由であった行為や所得に対しても新たに課税されたので、これに不満に思い脱税したり滞納したりする人も多かった。そうして之等の不心得者は徴税役人によって発見され次第罰せられた」ので、当然罰せられた立場からすると「国民ノ困難一方ナラズ」と云う事になると解説しております。
 また、同ページは、『喚起泉達録』なる史料も紹介しております。
 「世ニ恐ルヽ者ナシト身ヲ怠惰ニナシテ奢侈日夜ニ募リ、朝暮酒色ニ荒レテ暫クモ農業ヲ顧ミズ、適々是ヲ諫ムル者アレバ眼ヲ怒ラシ時ニ打殺シ、仮ニモ己ニ背ク者ハ排斥捨ツル故、皆人怖ワナナキ、欲心熾盛ノ兇賊較ブルニ人ナク、本ヨリ媚ブルヲ所全トセリ、故ニ何事モ彼ガ言ウ儘ナレバ、世に我有テ人無シト肘ヲ張リ弥々酒ヲ嗜ミ、只殺伐ヲ明ケ暮レノ弄ビ物トナシケルハ身ノ毛弥立ツバカリナリ」
 要は「阿彦は力持ちでありながら働かずに酒ばかり飲んでいた」という恨み辛みをつらつらと書いているわけですが、この史料の書くところは大した内容を含んでおらず、ほとんど酔っ払いの管巻きとしか思えません。
 税制の話に戻りますが、同ページが紹介する中で見過ごせないものが一つあります。それは「結婚税」です。全般的に阿彦寄りのこのページも「結婚は人生の一大事で、一生の間に屡々行うものではないから、之に課税するのも正当な理由のある事と思はれるが、人々にとって此の結婚税は可成りの重荷であったらしい」として、次のように述べております。

――引用――
 阿彦の時代には婚期の娘達が嫁入りの途上で阿彦に強奪されるのを恐れて、極秘裏に嫁入り・婿取の儀式を挙げたと云う伝承がある。これは何とかして結婚税をまぬがれたいと思い、結婚の儀式を極秘裏に行う者が少なくなかったのであろう。一方、阿彦の徴税役人は斯かる不心得な花嫁を人質として捕らえ、その家族が税金や罰金を支払う迄釈放しなかった。

 ただし、同ページは最終的には阿彦のフォローに入ります。

――引用――
即ち極秘裏に結婚したから強奪されたのであって、伝承は原因と結果が逆になって居る。若し阿彦が暴君で、女が目的だったならば、未婚の娘であろうと、既に結婚してしまった女であろうと容赦しなかった筈で、何も手数を費やして結婚日をねらう必要もあるまい。
 実際は、阿彦は一般の婦女子にも民衆にも極めて親切で、しかも厳正な政治を行ったので、人々は次第に新しい政治に馴れると共に其の長所を悟り、喜んで彼に従う様になったので、阿彦の勢力は急速に拡張増大して行った。

 確かに、阿彦がある程度の勢力を拡大維持出来たのは支持されたからであったのでしょう。歴史を通史として眺めていると感じるのですが、仮に無謀な武力勢力が、暴力を持って制圧しても、それは一時的に過ぎず、必ずすぐにほころびが出て崩壊することになります。選挙がない時代であっても世論の支持は不可欠であったと思われます。
 それはともかく、脱税目的で極秘裏な結婚が多かった、というのは、あることを思い出させられるのです。前に次のような言い伝えをとりあげたことを覚えていらっしゃるでしょうか。
 「弥彦の神は嫉妬深く、男女で参詣するとその離縁する」
 「地方によってはお弥彦さま参りの済まない男女は一人前と認められず、結婚出来ない」
  この相反するかのような伝承は、もしかしたら阿彦による結婚税の名残だったのではないでしょうか。


※平成23年7月26日追記
『阿彦の乱』は、富山県石動町――現:小矢部市――の桜井仁吉さんが、『とやま医療通報』昭和37年1月21日付から6月21日付まで連載寄稿していたもので、平成11年2月頃?になんらかの形で続編が加えられたものであることが、調査によってわかりました。

阿彦の霊を祀る社なり

 弥彦山の真南43キロメートル――新潟県小千谷(おぢや)市土川(つちかわ)――に、「魚沼(うおぬま)神社」という社があります。平安時代の『延喜式神名帳』所載同名社の「論社」ということになります。ただ、論社という意味では同県南魚沼郡湯沢町上立の同名社も十分有力ですので、小千谷市の同社だけを式内魚沼社として扱うのは危険です。少なくとも五割の不確実性を残しております。その中で、小千谷の社はよほど自信があるのか「式内社として当社以上に有力な徴証をもつ社が魚沼郡内に分明となった際は、魚沼神社社号の返上に異存なし――『日本の神々(白水社)』内の藤田治雄さんの寄稿より――」として式内魚沼社の名を勝ち取りました。この潔さは個人的に大変好きですが、いずれ、この社が魚沼社と呼ばれるようになったのは近世以降のようですので、尚、慎重な姿勢で論じる必要がありそうです。
 実は、この小千谷魚沼社は安永九(1780)年以前には、「上弥彦大明神」などと呼ばれておりました。
 『日本の神々(白水社)』――藤田治雄さん――によりますと、当社は永禄九(1437)年奉納の鰐口銘に「弥彦南無大明神」、同五(1562)年の上杉輝虎寄進状に「上弥彦大明神」とあり、祭神は彌彦神社と同じ「天香語山(あまのかごやま)」だといい、本地も彌彦神社同様「阿弥陀如来」とされているとのことです。また、延徳三(1491)年銘の懸仏によれば「越後二之宮」を称していたようです。
 ところが、藤田さんは次のように述べます。
 「ただし両社の関連を裏づける資料は弥彦神社のほうにはない」
 この無重力感は一体なんなのでしょうか・・・。どうもこの社は歴代なにかしらの権威を欲し続けてきたかのような印象を受けます。しかし、自己満足のはったりだけでは、権力者上杉家からの寄進や、伝統の古社彌彦神社に次ぐ栄えある「越後国二之宮」の称号など、そうそう得られるものでもないでしょう。小千谷魚沼社とは一体何者なのでしょうか。
 小千谷魚沼社創祀の考察材料として、藤田さんは次のような話も紹介しております。

――引用:『日本の神々(白水社)』――
当社の創祀について江戸時代の『北越雑記』には「弥彦明神当国臨幸最初の地なり、垂仁帝の御宇に阿彦というものを当国に征伐せらる、此阿彦の霊を祀る社なり」とあり、阿彦については『神代巻藻塩草』に、「垂仁帝の御宇に、大若子命に標劒を賜り、越国の凶賊阿彦を平らげよとの勅あり、郎幡をあげて退治せしかば、大幡主と名を賜ふ」とあるが、真偽については定かではない。

 もちろん定かではないのですが、阿彦なる凶賊を視野に入れることは、私にとって理解しやすいことも事実です。私は、この『北越雑記』が語るところを概略信頼していいのではないかと考えます。
 この小千谷の地は、信濃川と魚野川およびその支流の展開によって東北・関東・中部・北陸・日本海文化の集合の拠点となってきたといいます。反論を恐れずに言うならば、つまりは、大陸を含めた日本海側の交易圏と、蝦夷と蔑まされた東国文化圏を仲介する上で、最も重要な拠点たりえたのでしょう。思うに、九州とも畿内とも趣を異にするアナザ―日本と大陸文化の重要なハブ機能がこのあたりに展開していたのではないのでしょうか。大陸との交易などというと大げさかもしれませんが、少なくとも大陸事情の相克の中で、ときに亡国の民となった人達が母国を脱出して日本海側に漂着していたことは容易に想像でき、民間レベルでも彼らが大陸文化を伝え浸透させていったことは大いにあり得ることでしょう。阿彦は、その要に立って勢力を拡大していた人物なり氏族であったと考えます。
 阿彦を意識してウェブ上で調べていると、どこまで信頼していいかはわかりませんが、なかなか事細かに小説風に「阿彦伝説」を伝えているページがありました。残念ながらそのページのトップ――目次――に行っても管理人の名がわからないので、仮に目次タイトルである『阿彦の乱(富山県の古代史)』としておきます。その『阿彦の乱』によれば、富山湾の海上――布勢の海――に強大な勢力を張っていた布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま:うがのみたま)の子孫に、「布勢比古」なる人物がいて、その子「東条比古」の子あるいは孫が「阿彦」であったそうです。阿彦一族は、倉稲魂命時代から海上に勢力があった為か、以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、殊に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、天孫族の神道政治とは異なった大陸的な専政君主政治を採用したのだそうです。この阿彦の制度や組織の確立の最大の功労者が靺鞨(まっかつ)族の鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)なる二人の人物とのことです。阿彦は、流浪の靺鞨族――ツングース人――を厚遇し、彼らはその恩に報い、その相互関係によって阿彦の勢力は強大になっていったのです。
 『阿彦の乱』の時代設定は祟神天皇の頃――四道将軍の時代――から垂仁天皇の頃であり、記紀に迎合している部分もあるでしょうからだいぶ幅はあるものの、さしあたり管理人は祟神帝時代において中央政権でも新羅の文化が流入してきていたことを並行して述べております。そして、朝鮮文化はもともと支那から渡来したものであるが故、新羅からのそれが、本家の支那文化に比べれば遥かに低級であったとしております。だからこそ天皇は天孫族よりも勝れた文化圏が他に出来るのを恐れ、それが阿彦征伐の大きな理由であったということのようです。
 それにしても「靺鞨」というと、多賀城からさほど遠くない地に住みついている私は、すぐに「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と呼ばれる多賀城碑の「去靺鞨国界三千里」という碑文を思い浮かべます。この碑には、他に京、蝦夷国、下野国の界までの距離が刻まれており、とにかく、それらと同次元で靺鞨国境界までの距離が刻まれていることが衝撃的なのです。多くの識者は、この碑の偽作説も含め、いろいろな解釈を述べておられます。
イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3

 しかし、靺鞨国―厳密には渤海国か?―が亡国の高句麗系ツングース族を核に興された国であることを鑑みれば、自ずと解釈も定まるものと考えます。拙ブログの試論の上に立てば、陸奥や出羽における高句麗系ツングース人は、もはや単に渡来人というワクに収まりきらない存在であるからです。
 自衛官の立場から多賀城を論じた鎌田徹さんは、『政略戦から見た古代多賀城と都から赴任して来た人々(宝文堂)』の中で、多賀城碑の表記を「単に距離を表記しただけのものではなく、時間をも意味していたものであり、多賀城からそれぞれの地域まで何日で情報や命令が伝えられるか、又は援軍がくるか、あるいは侵略される可能性があるか等を意味していたものと思われる」としておりましたが、なるほど大いに支持します。
 特に靺鞨国―渤海国?―との距離は、敵方である蝦夷の援軍が間接直接に多賀城に到達するまでの時間を、一兵卒に至るまで徹底して意識させた朝礼標語みたいなものではなかったのでしょうか。宮城県には言うことを聞かない子供を脅す決まり文句として「モーコ――蒙古――が来るぞ」がありますが、それも案外そのような風土だからこそ生まれた習俗なのかもしれません。
 いずれ、阿彦の政治を支えていたのも亡国のツングース系の人物であったと伝えられているところは興味深いところです。

※平成23年7月26日追記
『阿彦の乱』は、富山県石動町――現:小矢部市――の桜井仁吉さんが、『とやま医療通報』昭和37年1月21日付から6月21日付まで連載寄稿していたもので、平成11年2月頃?になんらかの形で続編が加えられたものであることが、調査によってわかりました。

.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事