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神武天皇の奇跡は、まず、熊野の「高倉下(たかくらじ)」なる人物が霊夢を見たことから始まります。彼の夢に、いよいよ皇祖神「天照(あまてらす)大神」が現れました。アマテラスは、武甕雷(たけみかづち)神に「葦原中国(あしはらなかつくに)はまだ乱世で騒々しい。そなたが行って平らげてきなさい」と命令しました。葦原中国について、具体的に北九州なり出雲なりをあてはめて議論されることもありますが、ここでは河内や大和のこととしなければ文脈がおかしくなるわけで、いずれ、天上の高天原――これも朝鮮なり九州なり諸説言われておりますが――に対応する地上の概念、要は私たちが暮らす現世全域というような広い解釈をしておけばいいでしょう。 アマテラスに命じられたタケミカヅチは、「私が行くまでもありません。かつて私が国を平らげた際の剣を差し向ければ自ずと平らぐことでしょう」と答えました。それにアマテラスも「ごもっとも」と納得しました。タケミカヅチは、それを受けてタカクラジの夢で「私の剣はフツノミタマという。今そなたの倉の中に置くので、神武に献上しなさい」と語ったのです。 タケミカヅチとは、常陸国鹿島神宮の神であり大和国春日大社の神です。本来オホ氏の神であり、甕(みか)の神でありましたが、ここでは既に藤原氏の氏神にすり替える意図が反映されたためか、アマテラスが最も頼みにしている勇ましい武神のキャラクターで登場しております。 また、フツノミタマなる霊剣については、『古事記』が次のように補足をしております。 「この刀の名は佐土布都神と云ひ、亦の名は布都御魂と云ふ。この刀は石上神宮に坐す――次田真幸さん全訳注『古事記(講談社)』より――」 国を平らげた際の剣ということですが、出雲平定に同伴した経津主(ふつぬし)神――香取神宮の神――は、剣そのもの、と言われることもあります。少なくとも属性に共通する部分を感じており、とすれば、ここでいうフツノミタマとフツヌシは同一の存在ではないかなどとも想像するのです。 太田亮さんは、物部氏の分布を精査しながら、「布都(ふつ)の神」というひとくくりを設け、それらが物部氏の祀る神であろうという仮説をたてておりました。それらは氏族名を冠した物部神社――太田さんは饒速日ではなく経津主を祀っていたものであろうと考えている――のようなものもあったのでしょうが、地名に応じて社名を香取神宮や石上神宮などとしたこともあったはず、と想定しておりましたが、ほぼそれと同じ認識が私にもあります。 その石上神宮が、物部氏の氏神を祀る社であるというのは定説ですが、当神宮においてこれを治めたとされる「物部首」の祖は、別伝ながら『日本書記』では「春日臣の市河なる人物である」、ともされております。春日臣は和邇(わに)氏の同族です。私は、石上神宮の鎮座地自体も和邇氏勢力圏であるようにしか思えないので、この別伝こそが真実を語っているものととります。これによって、ワニ氏と物部氏と香取大神との間にも、なんらかの濃厚な関係があったと推測するのです。更にこの香取大神が鹿島大神とセットで語られる理由も、ワニ氏・オホ氏の両中ツ臣とも無縁ではないことでしょう。 このことを踏まえたとき、気になることがあります。 『日本書紀』によれば、出雲の説得に向けたはずの天孫族のスパイが、次々と出雲方に懐柔され、手を焼いていた折、タカミムスビは新たな使者の選定のために世論のヒヤリングを行っていたようです。そのとき世論は、皆「フツヌシ――現:下総国香取神宮の大神――」を適任である、として推挙したのだそうですが、そこで、タケミカヅチが大いに不満を爆発させたというのです。タケミカヅチは、「何故フツヌシだけが丈夫(ますらお)なのだ」と語気を強めては猛烈に自己アピールをし、結局はなんとかフツヌシの同伴者ながらその任務を勝ち取りました。その後強権的に出雲に国譲りを承諾させたとされるのはご存知のとおりです。 さて、それに対して神武天皇救援を求められた今回のタケミカヅチは、せっかくアマテラスが真っ先にご指名してくれたというのに、「私が行くまでもない」などと応えたのです。なにやら出雲のときとはだいぶキャラクターが違います。出雲平定の功績が認められ、もはや右に出るものがいない元帥格として確固たる立場になっていたということなのでしょうか。 よく見ると、出雲平定の際のタケミカヅチは「武甕槌」と表記されているのに、この畿内平定の際には「武甕雷」と表記されております。もしかしたら、本来は別な神格なのかもしれません。 ちなみに、一応補足しておかなければなりませんが、タケミカヅチが活躍する出雲平定の物語は、肝心なお膝元で編纂された『出雲国風土記』には、何故か全く語られておりません。したがって、このタケミカヅチが大活躍する国譲りの神話は、記紀編纂時に創作されたものだという説が有力です。 しかし、ここではそれが創作であろうがなかろうが、あまり関係ありません。何故、同じ『日本書紀』内でこれだけ異なるキャラクターが描かれているのかに、私は注目しているのです。もし、フツノミタマとフツヌシが私の想像どおり本来同じものを指していたものであれば、アマテラスに御指名されたタケミカヅチが、出雲平定の時は従者であったにもかかわらず、今回の平定では自分が出るまでもなく、前回の兄貴分であったフツノミタマ――フツヌシ――だけで十分だ、というのは、“主客転倒も甚だしい”と言わざるを得ず、どのような思惑がここに反映されているのかに注目するのです。 そこで、ここでのタケミカヅチを本来のオホ氏ではなく、藤原氏の氏神――候補――として設定してみます。すると、これはフツノミタマを氏神とする物部氏――あるいは和邇(わに)氏か?――との、権力関係の相関の転倒を示唆したのではないか、と思い至るのです。 『日本書紀』は、タカクラジが、夢の中のタケミカヅチの教えのとおり、倉の中に置かれたフツノミタマなる霊剣を見つけ出し、神武に献上したことを記します。すると神武軍の兵卒はみな毒気から目が覚めたというのです。 ここを『古事記』がどのように書いているかというと、大筋は似たようなものでありますが、フツノミタマの活躍だけは『日本書紀』よりもだいぶ積極的です。 『古事記』によれば、神武がこのフツノミタマなる剣を入手したとたん、熊野の荒ぶる神々も自然に切り倒されていったというのです。 毒気から目が覚めただけの神威と、敵を壊滅させてしまう神威とでは、天と地ほどの差があります。おそらく『古事記』が主張しておきたい何かがここのくだりに含まれているのでしょう。『古事記』がオホ氏やワニ氏などの中ツ臣主体で編纂されたという説をとり、フツノミタマを神宝として奉斎する石上神宮の物部氏が、その実は春日臣――ワニ系――であったのだと想定するならば、フツノミタマの霊力をより増幅させて伝えたかったのも、至極当然の心理であったと考えます。 さて、このフツノミタマを神武に献上したとされるタカクラジなる人物は、『先代旧事本紀――以下:旧事紀――』において「天香語山命(あめのかごやまのみこと)――以下:カグヤマ――」のことであるとされております。 カグヤマは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)――以下:アマテル――」の子であり、尾張氏の祖であるとされております。 そして、越後国一之宮である「彌彦(やひこ)神社――新潟県西蒲原郡弥彦村――」は、このカグヤマを祭神としております。つまり公的には彌彦大神といえばカグヤマを指すことになります。 ブレイクタイムとして、今触れてきたくだりを現存の神社名になぞらえて遊んでみるならば、彌彦の夢に現れた鹿島――春日――が、香取――石上――を彌彦の倉に忍ばせておくと告げ、彌彦はその香取を探し出し、鹿島の言に従って神武天皇に紹介し、香取は期待通りの大活躍で、兵卒を毒気から回復させ、さらに四方の敵を壊滅させた、といったところでしょうか。 この縁からでしょうか、鹿島神宮や春日大社同様、彌彦神社でも神鹿が大神の使いであるとされております。鹿とツングース系渡来人の関係を疑っている私にはとても気になるところですが、彌彦神社には更に鶏も多種展示飼育されております。個人的には、これも石上神宮を彷彿させられ、興味深く感じております。 さて、『日本書紀』におけるカグヤマの活躍は、この後更に続きます。
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天香山
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『万葉集』にも歌われる大和三山の一「天香山(あめのかぐやま)」は、偶然か否か、越の国の一ノ宮「彌彦(やひこ)神社」が祀る神と同じ呼び名でもあります。『日本書紀』でも大いに活躍した大神の名でもある一方、各所に不可解な示唆を残しております。それはあたかも水中から息継ぎを求めてあがいているようでもあり、ダイイングメッセージのようでもあります。そのかけらを、私なりに紡いでみたいと思います。
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神武天皇の兄弟について、『日本書紀』は本文の他、四とおりの「一書(あるふみ)」の説を列記しておりますが、それらに登場する名前を、本文の順番に従って並べると以下のようになります。 第一子、彦五瀬(ひこいつせ)命 第二子、稲飯(いなひ)命 第三子、三毛入野(みけいりの)命 第四子、神日本磐余彦(かむやまといわれびこ)尊――神武天皇―― 本文ではそのすぐ後に「凡生四男」、すなわち「全部で四人の男子」と記して締めくくられておりますので、神武が四人兄弟の末子であることがわかります。このことは「末子相続説」論者にとって、有利な傍証となっているようです。中でも、日本人騎馬民族説をとる論者にとっては、遊牧民の末子相続習慣と因果づけることで大変有効な傍証になると言えます。ウェブ百科事典『ウィキペディア』によれば、「遊牧民社会では、子は成人すると親から家畜群や隷属民など一定の財産を分与されて独立するが、末子は最後まで親許から独立せず、親が死ぬと親の手許に残った財産をそのまま相続することから、末子相続が生じる。先に独立する子が分与される財産は親の財産のごく一部である場合が多く、結果的に末子が親の財産の大部分を相続することになる」のだそうです。
しかし私は末子相続説をとりません。私は、やはり最も優先されるべきは第一子であり、しかしその第一子は、古代のカリスマ王権にとって最も重要な神祀りを継承するため――その性格上「子」を儲けるわけにはいかないので――、いわゆる皇位については第二子が相続する、とした鳥越憲三郎さんの説をより説得的であると考え、支持します。 なにしろ、奇しくもこの説は、かつて私が妄想したオホ氏と呼ばれた天皇――いわば倭武天皇――の存在に、具体的なイメージを与えてくれます。 話を神武天皇の兄弟関係に戻しますが、他の四書がどうなっているのかといいますと、記載された兄弟四人の名については四書とも本文と共通で、また、第一子が彦五瀬命であることも共通しております。ところが、肝心の順位についてはやや異なるのです。神武本人について注目してみますと、一番目と二番目の一書においては本文同様第四子なのですが、三番目の一書では第三子、最終記載の一書においては第二子ということになっております。 いずれ、神武の兄弟は、長髄彦(ながすねひこ)軍の矢にあたった長男の五瀬命の死後、海上渡航中の暴風波浪に自分達の相次ぐ不運を重ね嘆き、荒れた海を鎮めんと入水自殺をしてしまいます。『日本書紀』の記述を信じるならば、人身御供のような自殺なわけですが、よく考えてみるととんでもない話です。だいたいにして、彼らはただの船員ではありません。行軍中枢のトップを担う二人なのです。いうなれば、艦隊旗艦の艦長の戦死後、副艦長と艦長代理が自ら人身御供になったようなものなのです。現代的視点で考えるならば、敗色濃厚となった艦隊の中枢人材が、「もはやこれまで」と自害したようにも見えます。 しかし、仮にその場合、何故神武はその自害に参加しなかったのでしょうか。どうにも胡散臭さがぬぐいきれません。私は、神武による“兄殺し”のセンが濃厚であろう、と考えております。 殺害動機については、次のように考えます。 東征軍は、精神的主柱であっただろう長兄五瀬命の死によって権力が分散し、軍隊の統率がとれなくなったことも十分に考えられ、それを嫌った末弟の神武が、諸悪の根源である多元化した指示命令系統――兄達――を断とうとしたのではないでしょうか。そしてなにより、自分にまわってくるはずのなかった家長の座が、長兄の死によって一つ繰り上がったので、手の届く範囲に感じ、にわかに野心が芽生えたのではないでしょうか。仮に、もしそうなのだとすれば、やはり末子相続制ではなかった、ということになります。末子相続制であれば、仮に兄弟全員が健在であったとしても、神武が相続することは予め決定されていたはずだからです。 兄達が全滅した後も、尚神武天皇の不運は続きます。熊野にて丹敷戸畔(にしきとべ)を倒した後、神が毒気を吐いて人々を萎えさせた、というのです。この神が何者かはわかりませんが、流れからすると丹敷トベ一族が祀る神なのかもしれません。しかし、民俗学の折口信夫さんは、前述の自害した兄達を、神武の威力の源泉となった威霊の名である、としており、このニ魂が遊離――入水――した結果、この毒気にさらされたもの、と解釈しているようです。その解釈を少し借りるならば、私は神武に殺された兄達の祟り、少なくとも神武自身には後ろめたさともいえるその意識があったもの、と考えたいところです。 神武の意識の事件としてはそれでよろしいのかと思うのですが、この毒について現実的に解釈するならば、丹敷戸畔の名にも見られる「丹」、すなわち「水銀」と関係があるのでしょうし、すなわち、この女酋長は“鉱物資源採掘”に関連した部族の巫女であったのでしょう。したがって、神武の率いる東征軍は、それら鉱物の毒にあたったもの、と解釈するのが妥当なのかもしれません。 そして、この後、ようやく東征軍に皇祖神天照大神の御加護が現れ始めます。 |
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『日本書紀』を眺めておりますと、兄弟関係において兄が死を遂げ、弟がその家を継承する記述が目につきます。 例えば神武紀においては、五瀬(いつせ)命が戦死して弟の神武天皇が現在に至る天皇家の初代となって継承していきました。 神武の敵方においても、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟や、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)兄弟などは、いずれも神武に敵対しようとする兄に弟が愛想をつかします。侵略者を拒否する兄の態度はあたりまえの話のはずですが、そんな意固地な兄に愛想をつかした賢い弟は神武側に寝返り、兄の討伐に貢献し、その部族を守り継承していくこととなります。 神武以前の話でも、海幸彦・山幸彦兄弟の神話などは弟が生き残ります。兄の海幸彦から借りた釣り針を紛失し、罪悪感に悩む弟の山幸彦を、兄は決して許そうとしませんでした。叙情的な記述に惑わされずに読むならば兄が怒るのも至極当然なことであるのですが、結局、借りたモノを紛失した弟よりも、執拗に責め続けた兄が天罰を食らうことになります。山幸彦の子は、やがて神武天皇を生むことになります。 これらの兄弟相克伝承は一体何を言いたいのでしょうか。 結論からいえば、これはおそらく第一子の優先が常識となっていた『日本書紀』編纂当時の価値観が、そうではなかった過去の相続を正当化する意図が反映されたものなのでしょう。以前私はここに下剋上的な皇位争奪の反映を疑っておりましたが、最近になり、どうも初期の相続は、そもそも異なるルールに基づいていたものという説をとるようになってきました。それが正しければ、もし書記編纂者が当時の価値観で正当化しようと逸話を創作していたならば、それは徒労に過ぎなかったということになります。 『日本書紀』の中で、オホ氏の祖とされる「神八井耳(かむやいみみ)命」は、その父神武天皇の本来の継承者と目される「手研耳(たぎしみみ)命」の殺害に携わった際、弟の「神淳名川(かむぬなかわ)命――二代綏靖(すいぜい)天皇――」に次のように語っております。 「自分はお前の兄だが、気が弱くてとてもうまくはできない。ところがお前は武勇にすぐれ、自ら仇人を倒した。お前が天位について、皇祖の業を受けつぐのが当然である。自分はお前の助けとなって、神々のお祀りを受け持とう」――宇治谷孟さん全現代語訳『日本書紀(講談社)』より―― 『日本古代試論(大和書房)』の大和岩雄さんは、この記述で二代目の天皇を決めたのがオホ氏の祖であるカムヤイミミであったことを重要視しておりました。この記述は、つまりオホ氏の祖に天皇を上回る決定権があったことを示唆しているわけです。なるほど、気の弱い発言に惑わされそうですが、結果から言えば大和さんの指摘のとおり、神武の継承者を決定したのはカムヤイミミであったと言わざるを得ません。そしてこのときカムヤイミミは、自らが神祀りを担当することをも決定して、つまりは中ツ臣としてのオホ氏の職掌もここに決定されたことになります。 一見、謙虚に皇位継承を“辞退したかに見える”カムヤイミミの態度ですが、それはあくまで『日本書紀』編纂時の価値観に基づいた記述故の錯覚であるのかもしれません。 例えば、トミビコ――ナガスネヒコ――に惨敗してこてんぱんに痛めつけられたイワレビコ――初代神武天皇――は、戦死した兄イツセを紀の国「竃山(かまやま)」に葬った後、付近の名草(なくさ)邑の女酋長「名草トベ」を倒し、続いて熊野においては「丹敷(にしき)トベ」という女酋長を倒しております。トベとは女酋長のことを指しますが、こうして見ると、当時の部族はその頂点が女性であることも多かったようです。女酋長などというと、ついついアマゾネス的な勇猛果敢な女系戦闘部族のようなイメージを抱いてしまいそうですが、必ずしもそういうことではなく、部族の神の声が聞ける巫女であったのでしょう。 言うなれば邪馬台国の卑弥呼などもそのような一人で、卑弥呼は「日巫女」の意味ではなかったか、とも言われるように、おそらく当時は具体的な政治手腕云々よりも、むしろ神の意思を聞ける――神託を聞ける――巫女的な才覚こそが最も重要であったと思われます。これは神と人間との間を取り持つ“いわゆる「中ツ臣」”に相通ずるもので、古代においてオホ氏やワニ氏が担ってきた職掌とも言えるでしょう。 トベの存在にも見られるように、カムヤイミミの時代の価値観からすれば“神祀りこそが真の皇位の証”であったはずで、具体的な政務を司ることを王権の最高のものと考えるようになったのは、統一政治の範囲が単独の部族からハイブリッドな部族の混合体である国家へと拡大してからであると考えられ、政治が複雑高度化するにつれ、いずれかの時点で入れ替わってしまった価値観であろうと思うのです。象徴天皇がいて具体的な政務の長である内閣総理大臣がいるという現代のスタイルは、考えようによっては我が国古来の特徴であったのかもしれません。したがって天皇に対しての摂政関白も征夷大将軍も、それらが政務を司ってきた“かたち”というものとしては、実はヤマト王権成立以来なんら変わることのなかったものであるのかもしれません。
正史上事績を欠く二代から九代までの天皇、いわゆる「闕史(けっし)八代」実在論をとる鳥越憲三郎さんは、その八代について「葛城王朝」と仮称した初期政権を想定しておりましたが、末子相続説が有力視されている中、著書『神々と天皇の間(朝日新聞)』において、初代神武天皇から9代開化天皇までの皇位継承の順位を精査、表にし、その後の代も含めて例証し、当時は第二子が継承していたという実態を見事につきとめておりました。ここでいう第二子とは、正妃の区別は関係なく、かと言って必ずしも二番目に生まれた子とも限りません。紛らわしい言い回しになりましたが、例えば全員が生きていれば三人以上になる兄弟でも、夭折(ようせつ)などの事情でたまたま末子が第二子になっている場合もあるわけで、いずれ、諸々の事情を経て、前代が崩御した段階での生存二番目の子が皇位を継承しているのです。 それでは第一子はどうなっているのでしょうか。鳥越さんは、第一子には皇位継承権よりも上位の権利を継承する役割があったのではないか、と考えておりました。それがつまり祭事権です。部族国家の延長線上においては、その名残として先に触れたように神祀りこそが最上位に捉えられていたのでしょう。例えば、石上神宮の神宝をつかさどる役を仰せつけられた、まさに神祇を統括する聖なる管理人に任命された垂仁天皇の第一子「五十瓊敷(いにしき)命」の陵墓は、『延喜式』によれば第二子「景行天皇」のそれの規模を上回っております。鳥越さんは、「この一例をもって断定することはできないであろうが、少なくとも第一子の地位が第二子に劣るものではなかったことだけはわかるのである」としております。 ここで注意しておかなければならないのは――鳥越さんも指摘するところですが――、オホ氏の祖とされるカムヤイミミが神祀りのトップに立つものであったとするならば、そこには絶対的な貞操観念が求められていたはずで子が生まれているわけがありません。したがってオホ氏の祖であるわけもないのです。 鳥越さんの研究に準じるならば、第一子の系譜はその性質上一代限りであり、神祀りについては皇位継承者となる第二子の第一子が継承していくことになります。したがって、オホ氏のみならず、他にも○○天皇の第一子系譜を自称する氏族は多々おりますが、彼らの正体は、皇統とは別物の氏族であったということでしょう。 いずれ、大和岩雄さんや岸俊男さんの論考からオホ氏やワニ氏などの神と天皇の間を取り持つ「中ツ臣」なる存在を意識しはじめた私は、ここにあらためて鳥越さんの卓見に驚かざるを得ません。 さて、何故私が今ここに兄と弟の役割についての話題を広げてみたのかというと、とある妄想が頭で発生し、増殖して脳内を占領してしまったからにございます。その妄想のきっかけは、『先代旧事本紀』が記す「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」の系譜です。 『日本書紀』でいうところの尾張連の祖「天照国照彦火明(あまてるくにてるひこほのあかり)命」が、『先代旧事本紀』では同じく『日本書紀』がいうところの物部氏の祖「櫛玉饒速日(くしたまにぎはやぎ)命」と合体してしまっているわけですが、書記と旧事紀でいずれが真実に近いのかはここでは問題ではありません。私がここで気にとめたのは、旧事紀の『天孫本紀』において、尾張氏と物部氏が、各々兄「天香語山(あめのかごやま)命」と弟「宇摩志麻治(うましまじ)命」の系譜、すなわち、兄系譜と弟系譜の関係として書かれているところです。 『日本書紀』における兄弟記述の特性から考えるに、それ以降の文献にはおしなべて兄弟の“兄”にはなんらかの陰があることが疑えそうです。ましてや、記紀に対抗すべきイデオロギーにあふれる旧事紀において、記紀と異なる内容を最も詳述している部分が当該系譜なのです。物部系譜の兄系譜と表現された尾張系譜の出発点、「天香語山」には一体どのような思惑が隠されているのでしょうか。しばし私の妄想記におつきあいいただきたいと思います。 |




