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「太白山(たいはくさん)」がある「生出(おいで)地域―仙台市太白区―」は、昭和三十一(1956)年に仙台市に編入合併されるまでは、「生出(おいで)村」なる単独の「村」でありました。その地域の輪郭があたかも旧秋保町においでおいでと手招きしているように見えていたので、地図ばかり眺めていた少年時代の私の頭にはすんなり地名が入ってきておりました。 オイデなる村名は、太白山の旧称オドガモリにあてられた漢字表記「生出森」に由来するわけですが、古いアイヌ語であろう「オド」には「とんがっている」という意味があると聞いたことがあります。 「刀」や「乳房」、はたまた「神」の意味とも言われておりますが、ひとまずは“とんがっている”という語源があって、そこから各々転じていったものなのでしょう。 宮城県北や岩手県南ではよく似た形の山をみかけますが、結構な確率で山名にオド―ヲド―なりウトなりがみられます。今、手元の地図を眺めてみただけでも、宮城県栗原市の花山ダムの北に「大土ヶ森」、南に「大土森」、岩手県一関市から猊鼻渓に抜ける県道付近に「烏兎ヶ森」、同東磐井郡の川崎付近に「烏兎山」、同郡千厩(せんまや)と室根の境には「大登山」の表記がみえました。おそらくはおしなべて里から三角に見える山々なのでしょう。 また、栗原市栗駒には「雄鋭(おどの)神社」、同築館には「表刀(うえと)神社」なる神社があるのですが、特に後者について、『宮城県神社名鑑』は「表は袁の誤でヲトと訓むべきである」と注釈を付しております。それらの発音に対して「鋭」や「刀」の字があてられていることは留意すべきでしょう。 先日、十数年ぶりに太白山を登ってみました。 たかだか321メートルの山とはいえ、前回も結構苦労して登ったという記憶があり、だいぶ体力の衰えた今の私にはたして登りきれるものだろうか、という不安もありましたが、このたび梅雨の晴れ間を狙って挑戦してみたのでした。 快適に歩ける太白山一帯の遊歩道は、地主らで組織する「太白山ふれあいの森協力会」の厚意によって管理されているようですが、生出森八幡神社の石鳥居をくぐると登山道らしい雰囲気に変り、参道両脇の狛犬に迎えられながら進むと、社殿わきあたりから存在感のある巨岩が目立ちはじめます。 「貴船神社(山頂)へ所要時間20分」と記された案内板をすぎると、急に傾斜がきつくなり、玄武岩に近い安山岩だという柱状節理の黒いゴツゴツとした岩肌には鉄鎖が張られ、それを手繰りながら這いつくばるように登っていくと、所要時間を10分ほどオーバーして山頂の貴船神社の鳥居が目に映りました。 無理をせず休み休みではあったものの、途中から木々の間に覗き始めた下界の風景を楽しみつつ、なんとか今の私でも頂上に至ることが出来ました。 さて、あえて久しぶりにこの山を登ってみたのは、「太白山の山頂に貴船神社を祀ったのは何者であったか」に興味を抱いた勢いでありました。 ことさらに興味を抱いた理由は、『仙台市史:特別編9:地域誌』に記載されていた以下の二つの情報が私の頭の中で化学反応したことにあります。 すなわち、『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」は、太白山のある生出地区のことではないか、という説があること――。 そして、仙臺城の背後の御裏林と一体の太白山や佐保山の藩有林の山守は代々鈴木家であったこと――。 「佐保山(さぼやま)」の地名についても思うところはあるものの、ひとまず通過しておきます。
山守の鈴木家は、その姓からみて熊野信仰の家柄であった可能性が高いわけですが、この地域は名取川の対岸を本拠に勢力を強めていた名取熊野の地盤でもありました。 名取熊野は鎌倉幕府に保護されたとはいえ、その本質は奥州藤原氏の残り形見的な存在とでもいうべきものであり、さすれば山守鈴木家は名取熊野別当の末裔であったのではないか、と私は睨んだのです。 名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高いわけですが、以前、それは高舘山古墳の被葬者と密接に関わりがあったのではないか、と推測しておきました。 その被葬者について、私は「多珂(たか)國造家」の本家筋と思しき「石城國造家」を輩出することとなる系譜の人物を想定しているわけですが、もし生出地域が名取郡における磐城郷であったというならば符合し得ます。 仮に、太白山山頂の貴船神社がその一族に祀られたものであるとしたならば、もう一段ギアを挙げた推測に発展する足掛かりとなってきます。 何故なら、『鹽竈神社史』所収の「鹽社由来考」に、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時十五位下也)竝同宮ノ神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之」という記述があり、“鈴木姓”の鹽竈神社別宮一禰宜男鹿島太夫が、伊達綱村の改革によって消失した「木舟宮」の一禰宜であったものと考えられるからです。 |
亀の備忘録
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各書庫本編を中締めした後、新たに得られた情報や発想などを、自らが忘れないように書き留めておきます。
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『日本書紀』神功皇后摂政元年二月条の神功皇后東征譚において、「務古の水門(むこのみなと―摂津国武庫郡:兵庫県尼崎市―)」で祀られた神々は、次のとおりでありました。 「天照大神」 「稚日女(わかひるめ)尊」 「事代主尊」 「表筒男・中筒男・底筒男の三神―住吉三神―」 一方、それより前の仲哀天皇紀において、「群臣に詔して、熊襲を討つことを議らしめたまふ」ときに、神功皇后に神託した神々は、その時点ではなんという神であるかを名乗っておりませんが、のちに、仲哀天皇の崩(かむあが)った筑紫の「橿日宮(かしひのみや)―香椎宮:福岡県福岡市東区香椎―」において、問われて初めて以下の神名が明かされたことが、神功皇后摂政前紀にみえます。 「神風の伊勢国の百伝ふ渡逢県の拆鈴五十鈴宮に所居す神、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命―以下:天疎向津媛―」 「尾田の吾田節の淡郡に所居る神―以下:淡郡の神―」 「天事代虚事代玉籤入彦厳之事代主神―以下:厳之事代主神―」 「日向国の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神、表筒男・中筒男・底筒男の神―以下:住吉三神―」 それで全てなのか、その他に神がいるのかどうかについては明かされておりませんが、岩波書店版『日本書紀』の校注陣―坂本太郎さん・家永三郎さん、井上光貞さん・大野晋さん―は、橿日宮で名をあらわした神々を務古の水門で祀られた神々にそのまま対応させて解釈しておりました。 ㈠ 天疎向津媛 → 天照大神―御心を広田国に居らしむべし ㈡ 淡郡の神 → 稚日女尊―活田(いくた)長峡(ながさ)国に居らむとす ㈢ 厳之事代主神 → 事代主尊―御心の長田国に祠れ ㈣ 住吉三神 → 住吉三神―大津の淳名倉(ぬなくら)の長峡(ながさ)に居さしむべし このあたり、かつて拙記事:「務古の水門に祭られた神々」にて触れておいたところですが、はたしてこの解釈を鵜呑みにしてよいものか、私の中では未だにどこか引っかかっております。 「㈠ 天疎向津媛」については既に何度か触れているので割愛しますが、「㈡ 淡郡の神」が「稚日女尊」というのもいかがなものか・・・。 岩波版校注陣の補注のとおりであるならば、この神は「伊雑宮(いざわのみや)―三重県志摩市磯部町―」の神に該当します。 しかし伊雑宮といえば、かつては「天照大神祭祀の本宮」であることを自称して、伊勢神宮内宮に勝るとも劣らない権威を主張して憚らない神社でありました―拙記事:「中・近世の伊勢志摩事情」参照―。 今でこそ“内宮の別宮”という地位にあまんじているものの、伊雑宮こそが本宮であるというかつての神人の主張は、当然ながら国家の宗廟たる内宮との軋轢を生みました。 寛文ニ(1662)年頃、両者の関係が破滅的な状態に陥っていることを憂慮していた朝廷は、内宮からの訴えもあってあらためて伊雑宮を“内宮の別宮”とする裁断を下したというわけです。 そのような顛末を鑑みるに、近世以前、それどころか伊勢神宮の権威すら確立していなかった記紀以前の古代の逸話にあって、伊雑宮の祀る神が生田神社と同じ稚日女(わかひるめ)尊を指していたものと理解することははたして妥当なのでしょうか。 稚日女尊は「天照大神の分身又は妹とされる神―『日本書紀(岩波書店)』―」とされているわけですが、伊雑宮の神人の主張していたところはあくまで“天照大神祭祀の本宮”なのであり、分身の属性を有する稚日女尊ではなさそうなのです。これがまるっきりの虚偽だとするならばあまりにあからさますぎますし、国家の宗廟相手に本家争いを仕掛けるなどあまりにリスクが高すぎるので、彼らがそう主張するに足るなんらかの自信はあったものと考えます。 ひとつ、看過できない情報をさしはさんでおきます。 出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの著書『古事記の編集室(大元出版)』に、「天武天皇」の皇太子「草壁皇子」の死を悼んだ「柿本人麿」の歌にからめて、次のようなことが書かれております。 ―引用― 草壁皇子の宮の舎人・人麿が挽歌(167)を、詠んでいる。題名は、日並皇子尊の荒城宮のとき作る歌、となっている。 〜中略〜 〔太陽の女神のような持統女帝が、高い立場から政策を指揮され ・・・日並皇子は明日香の浄見原宮で、神々しく国を支配されていたのに、この国は皇后が治める国だと遠慮されて、天国での永眠の扉を開け、神隠れしてしまわれた・・・〕 「天照らす」の言葉は「日女の命」の枕詞だったが、この歌の影響で「日霊女貴(ひるめむち)」という太陽神が、「天照らす大神」と呼ばれるようになった。「日女の命」は持統女帝がモデルになっている。 この長歌の反歌(169)がついている。 〜中略〜 〔持統女帝は輝くようにして君臨しているけども、草壁皇子は哀れにも、この世から隠され、夜空をさ迷う月となっている〕 そして、草壁皇子が月のように、影が薄く扱われ、月神(月読ノ神)の名が、「若ヒルメノ神」と呼ばれるようになった。 古事記と日本書紀を書かせたとき、女帝は高天原の主を「天照らす大神」とし、月読ノ神は書かないように指示された。 宇佐神宮では、主神だった月読ノ命を、姫大神と名を変えた。女帝が月読ノ神を嫌ったので、伊勢の外宮では主神の名を、豊受ノ神とした。 この神は天照大神の食事を作る神だと、説明するようになった。月読ノ神の社は、分けて別に建てられた。 なにやら、草壁皇子の急死は持統女帝の意思によることが示唆されているわけですが、それ故に女帝は草壁皇子を暗示する月神を嫌ったものと思われます。
稚日女は、日神を装いながらもその実はその名の憚られた“月神”であったということになりそうです。 一方同書によれば、伊雑宮の社家は通説どおり「井沢登美ノ命―伊佐波登美命―」を祖とする一族であり、祖たるこの人物はヤマトの出雲系豪族登美家出身の人物であったようです。 つまり、同社の祀る神は三輪山の神と同じ日神であるはずで、月神たる稚日女神であるはずがありません。何故なら、同書を信ずるならば彼らは月神を祀る豊国軍に攻められてヤマトや丹波を追われた一族であるはずだからです。 もちろん、『日本書紀』は伊勢神宮に坐す皇祖神天照大神の概念を創設したものでもあり、神功皇后時代の譚とはいえ編纂時の政策意図なり持統天皇個人の趣向なりが大いに反映されているのでしょうから、出雲神族の語る日神の概念をあてはめて考えること自体がナンセンスであるのかもしれません。 また、元々は月神なる言霊を憚るために創作されたらしきワカヒルメという概念は、もしかしたら、その後の憚られる概念を表現する上でいろいろと都合がよかったのかもしれません。 例えば、伊勢内宮の権威を高めるために伊雑宮の日神をワカヒルメにあてはめた可能性もあったのかもしれません。ただ、それを論証することのほうがむしろ難しそうな気もしますが・・・。 いずれ、橿日宮にあらわれた神々、務古の水門にあらわれた神々が、はたして神功皇后時代の面々をそのまま反映したものか、あるいは書紀編纂当時の思惑であてはめられたものか・・・。少なくとも神功皇后時代のそれであるならば、各々に互換性がないと言わざるを得ず、やはり伊雑宮の神は稚日女尊ではなかろう、というのが現段階の私の見解です。 さすれば、「撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」が「天照大神荒魂」であるという概念も、ムカツヒメをセオリツヒメの別名としている『ホツマツタヱ』を介さない限り成り立たない、ということになりそうです―拙記事:「瀬織津姫は撞賢木厳之御魂天疎向津媛なのか―後編―」参照―。 |
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たびたび触れている東鹽氏の伝――。 東鹽氏とは、江戸時代の仙臺藩の儒者「舟山萬年」による『鹽松勝譜(えんしょうしょうふ)』と、明治時代の鹽竈神社権宮司「遠藤信道」の『鹽竈神社考』に“のみ”その名のみえる、幻の“鹽竈神社旧祠官一族”であるわけですが、特に遠藤信道はその一族の家伝なるものを重要視しておりました。 東鹽氏なる一族が実在していたのか否かは私にはわかりませんが、なんら利害のなかろう舟山萬年が殊更に誇張することもなく、ニュートラルな立ち位置で同一族の家伝を取り上げているところをみると、少なくともその体を成した文書については、『鹽松勝譜』の書かれた文政五(1822)年頃には実在していたのでしょう。 ただその時代、もっともらしい古文書の体で様々な怪文書が出回っていたものとも思われます。 例えば、舟山のとりあげた『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の内容は、現在我々の目に触れ得るそれとも異なっていたようなのです。 とりわけ「僧潮音―潮音道海―」の名が取り沙汰されていることから、『先代旧事本紀大成経―以下大成経―』との混乱はあきらかなわけですが、注意すべきは、その大成経にすら確認できない内容が含まれていることです―※拙記事「鹽松勝譜をよむ:その11―先代旧事本紀大成経のこと―」参照―。 さすれば東鹽家の秘伝なるものも、もしかしたらその時代ならではの一過性の怪文書の類に過ぎないものなのかもしれません。 ともあれ、後世の遠藤信道は「東鹽家秘録」なるものを引き合いに、氏の考えるところの“鹽竈神社の真実”を語ろうとしておりました。もしかしたら、単にそもそもの遠藤のイデオロギーに半世紀前の怪文書が利用されただけであるのかも知れませんが、ひとつ語ってみたいことがあります。それは、東鹽家の伝という触れ込みで遠藤が語るところの鹽竈神社別宮の祭神なり神裔なりに、遠藤の如何なるイデオロギーが投影されていたものか、という私の身勝手で無責任な“邪推”です。 先に、拙記事:「鹽松勝譜をよむ:その10―東鹽氏の傳:後編―」において、鹽竈神社の別宮に「國別鹽土翁神」と、その“妹”の「國別日東吾妻神」の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていることに私は着目しました。 とりあえず私は、以下の推測をもって一応の私論としておきました。 1、「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆では? 2、「妹」は長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆では? 今なお、その考えに変わりはないのですが、例えば後者について、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの語るところでは、長髄彦―登美毘古―は四道将軍大彦命のことでありました。 さすれば、妹は誰に該当し得るものでしょうか。 三段論法的に仮説の上塗りを試みておくならば、『日本書紀』では大彦命の同母妹として「倭迹迹姫(やまとととひめ)命」が見えます。 この女性について、斎木さんは「大和モモソ姫」のこととしております。紀において三輪山の大物主との神婚譚が語られている人物です。倭迹迹姫がそのモモソ姫のことであるならば、『古事記伝』における本居宣長の主張が正しかったということになりそうですが、斎木さんの説くところでは、この兄妹は、八代孝元天皇の子ではなく、七代孝霊天皇の子であったようです―斎木雲州さん『古事記の編集室(大元出版)』参照―。 ここでのモモソ姫は「磯城王朝」における当代の三輪山の姫巫女であったとのことです。 磯城王朝とは、「天香語山」の子「天村雲」に連なる父系と出雲由来のいわゆる「事代主」の裔たる登美家を母系とするヤマト地方の三輪山の神を祀る王朝で、俗にいう闕史八代を指すわけですが、鳥越憲三郎さんが『神々と天皇の間(朝日新聞社)』で便宜上定義したところの「葛城王朝」の概念に近いかもしれません。 斎木さんによれば、磯城王朝当時、九州には物部・豊―宇佐―の連合王国が成立していたのだそうで、同連合王国にもヤマトのモモソ姫同様の姫巫女がおり、それが「宇佐豊玉姫」であったようです。 斎木さんは、『三国志』「魏書」―いわゆる魏志倭人伝―にみえるところの卑弥呼(ひみこ)は、魏と国交のあった後者の宇佐豊玉姫と前者の大和モモソ姫と同一視したものであったといいます。 いずれ、なにやらこの九州の連合勢力が東征してきて磯城王朝を滅ぼし、政権が交代したらしいのですが、殊更に私が注目するのは、この滅びた磯城王朝の、特に「開化天皇」系譜こそが記紀にワニ家と表現された一族であったらしきことです。 記紀における人皇十代「祟神天皇」は、いわゆる闕史八代最終の九代開化天皇の“子”として王権を継承したことになっているわけですが、斎木さんの語るところを信じるならば、実はそこに親子関係などなかったようです。 当時、磯城の王権を継承していたのは開化の孫「ヒコミチウシ―いわゆる四道将軍丹波道主命―」で、それは父である「ヒコイマス」から正統に継承していたものでありました。彼らの王権はワニの地―奈良県天理市和爾町付近―を都に存続していたようです。それを、祖父開化と協調していたはずの九州王朝の祟神―厳密には次代の垂仁―が攻撃を加え、ヒコミチウシ大王を丹波に追い払い、生駒山の東で最後まで抗戦していた「狭穂彦(さほひこ)―ヒコミチウシ大王の兄―」の軍を討ち、そのまま磯城の王権を簒奪したというのが史実のようです。 いみじくも先の鳥越憲三郎さんは次のように語っておりました。 ―引用:『神々と天皇の間(朝日新聞社)』― 前王朝の最後の王、開化天皇の弟と孫とが成立したばかりの大和朝廷の二代にわたって、天皇を殺して皇位を奪おうとしたことには注意してよかろう。それは明らかに、旧王側の復活をもくろんでいたものであった。こうして二回にもおよぶ謀反がくりかえされたことからみても、葛城王朝はなんらかの反逆にあって倒れ、それに代わって新しい実権者として祟神天皇が出現したことは、認めないわけにはいかないであろう。 補足しておきますと、この弟と孫の二回の謀反とは、紀における開化の異母弟「武埴安彦(たけはにやすひこ)」・「吾田媛(あたひめ)」夫妻と、同じく開化の孫の「狭穂彦」・「狭穂姫」兄妹のそれを指しております。幻のヒコイマス大王の兄たる狭穂彦と垂仁妃の狭穂姫が“兄妹”であることも、本稿の主旨からすれば取り上げておくべきと考えておりますが、ひとまず置いておきます。 鳥越さんに限らず、十代祟神天皇が初代神武天皇と同じハツクニシラスと紀に記されていることから、ここになんらかの王朝交代があったとみる研究者も少なくありませんが、一方で神武と闕史八代を架空なものとして切り捨ててしまう向きが多数派である感も否めません。その中で斯様な思考停止に陥ることなく向き合っていた鳥越さんには、あらためて敬意を表します。 いずれ、斎木さんによれば、記紀の編集方針が万世一系であるが故に、同じ時代に並立していた二つの王朝を一つにみせかける必要から、和爾(わに)の地を本拠としていたヒコイマス・ヒコミチウシの二代が大王であった事実を隠し、彼らを有力分家のように扱うために“ワニ家”なる家名が後から作られたのだそうです。 なるほど腑に落ちます。それを前提に考えるとカグヤマやワニに抱いていた数々の疑問や矛盾がだいぶ氷解していく感があります。 さて、遠藤信道にもそういった認識があったのでしょうか。 仮にあったのだとすれば、東鹽家の秘録なる怪しげな情報をタテに彼の主張する鹽竈神社別宮の真の祭神、國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神なる兄妹神の示唆していたものは、やはり磯城王朝末期に東征勢力に抗い続けた大彦命と大和モモソ姫、あるいは、狭穂彦・狭穂姫の兄妹であったものとも推察されます。 もし遠藤がとりたてて自らのイデオロギーをタテにしたわけではなく、東鹽家の秘録なるものが実在して別宮の祀るべき兄妹神についても記載されていたのだとすれば、その文書を残したなんらかの人物なり一派には磯城王朝なるものへの認識なり思惑があったものと考えられるのではないでしょうか。 あらためて、先に割愛した狭穂彦・狭穂姫兄妹の謀反劇に触れておきますと、紀によれば、謀反に加担しかけながら徹しきれなかった妹狭穂姫は、夫垂仁天皇に兄の謀を白状し、その責を負って兄と心中しました。その際彼女は何故か四道将軍丹波道主命の娘五人を後宮に入れることを天皇に遺言し、受け入れられております。
丹波道主命のその実が記紀に隠された幻のヒコミチウシ大王で、かつ彼女のもう一人の兄であったのだと知ればなるほど納得のいく顛末であるわけですが、斎木さんによれば、この狭穂姫、実はここで死んではいなかったようです。 なにやら彼女は、モモソ姫同様三輪山の姫巫女となって「オオヒルメムチ」と呼ばれていたらしいのですが、一連の動乱にともない狭穂彦から護衛をつけられ、東国に逃れていたようです。 その後、丹波国の海部家に誘われ、眞名井神社にて太陽の女神への信仰を広めていたらしいのですが、同地に豊国宇佐由来の月神の信者が増えると、太陽の女神の神霊を移す場所を求めて伊勢に移り、伊勢からさらに志摩に行き、伊雑宮の社家「井沢登美命」の協力を得て“五十鈴川”のほとりに内宮を建てたというのです。 まるで「倭姫命」ですが、もしかしたら、垂仁天皇を裏切った狭穂姫の功績を書き残すわけにはいかなかったが故に、狭穂姫は兄狭穂彦と心中したことにして、極めて重要な内宮の創始譚を倭姫の経歴に上書きしたのかもしれません。 さて、私は、鹽竈神社が仙臺藩主四代「伊達綱村」による元禄の造営によって左宮・右宮の両宮に別宮を併せた「二拝殿三本殿」形式の社殿になったのは、綱村が多分に大成経の影響を受けていたからではないか、と推測しておきました。 すなわち、大成経が焚書発禁となった原因とも言われる、伊勢「二社三宮図」なるものと関係があるのではないか、という推測に至ったのです。 その図は、「別宮」であるはずの「伊雑宮」が「内宮・外宮」よりも上位であることを露骨に示唆するものであるわけですが、左右宮しかなかった鹽竈神社にあらためて別宮がおかれたのは、綱村によるこのイデオロギーに基づいていたのではなかろうか、と考えました。 もしかしたら、遠藤、あるいは東鹽家秘録の筆者もそう考えていたのではないのでしょうか。 斎木さんによれば、垂仁天皇軍の攻撃により丹波からも追われたヒコミチウシ大王は、垂仁と和睦することになり、「彦多都(ひこたつ)彦」と名を変え、旧事紀の「國造本紀」にもあるとおり、「稲葉國―因幡國の古い表記―」の國造となったようです。そしてその御子は、磯城王朝の直系であることを誇りとして「朝廷別(みかどわけ)王」を名乗り、三河の豪族となったのだそうです。 遠藤によれば、東鹽家秘録において留守氏の鹽竈神社再建方針に意見し官職の貶められた神職は、鹽竈多賀両社の齋主大宮鹽竈司「東鹽“丹波守”照行」と鹽竈神社宮主「五十鈴“因幡守”盛重」の二名でありました。ここにヒコミチウシ大王と狭穂姫兄妹の流転を彷彿とさせる「丹波」、「五十鈴」、「因幡」なる地名が差し挟まれているのは偶然でしょうか。 また、國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神の「國別(くにわけ)」が、「朝廷別(みかどわけ)」なる言霊を意識しているように思うのは、さすがにこじつけに過ぎるでしょうか。 |
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栗駒山の異称に限らず、「駒形山」なる名称の山は全国に数多ありますが、その名称の由来はまちまちです。ただ、その山の神を祀る社はおしなべて「駒形神社」と呼ばれているようです。 栗駒山の北東、岩手県奥州市水沢区には「陸中一宮」と称する「駒形神社」がありますが、同社HP記載の由緒によれば、延喜式神名帳にある駒形神社は宮城県栗原郡「駒形根神社」と同社の二社のみなのだそうです。さすれば、少なくともその時代にあっての両社は、全国数多の駒形神社の筆頭あるいは本宗社的な位置づけにあったとみて良いのかもしれません。 特に駒形根神社などは、その名称に「根」が付されておりますので、全国の駒形神社の総本社たる自負がありそうにも思えます。 ちなみに、水沢の駒形神社については栗駒山に由来するものではなく、岩手県内の奥羽山脈の一角を成す焼石連峰の駒ケ岳山頂に祀られたものが現在地に遷されたもののようです。 同社の由緒を信ずるならば、なにやら遡れば古代東国の名族「毛野氏」の信仰に辿り着く神祀りであるようで、さすれば毛野一族本拠のシンボルたる「赤城山」の神なり、「日光二荒山」の神とも同系たり得る旨が由緒に窺えます。 一方の栗駒山の神を祀る駒形根神社については、あくまで管見に触れ得る顕在化された情報の限りにおいては、毛野氏との関連を示すそれは見当たりません。同じ駒形神を称する神を祀る水沢・栗駒の両社ではありますが、各々の成立過程はもちろん、起源すらも異なるものなのかもしれません。 ちなみに「陸奥国栗原郡大日岳社記―駒形根神社の社記:以下社記―」には、あくまで朝敵降伏の祈願者という立ち位置ながら、「日本武尊(やまとたける)」の他、「坂上田村麻呂」、「阿倍臣」「巨勢(こせ)朝臣」「多治比(たじひ)真人」「頼義朝臣―源頼義―」「義家朝臣―源義家―」「頼朝卿―源頼朝―」らの名が見えます。伝説的なヤマトタケルや陸奥の聖地にすべからくみられる田村麻呂、八幡太郎義家に代表される源氏系譜、陸奥の王家ともいえる安倍氏と同祖の阿倍臣などはなんら不思議でもありませんが、巨勢朝臣・多治比真人といった名は宮城県内の神社の由緒においてあまり見かけた記憶がありません。※注 これらのいわゆる「武内宿禰系譜」については、しいていえば、「高良玉垂(こうらたまだれ)神」と解釈された武内宿禰本人についてニワタリ信仰の中で散見されますが、それをのぞく裔孫個々の記録はすぐには頭に思い浮かばず、妙に新鮮であるのと同時になにかしらの本質を示唆している可能性への期待もあり、留意しておきたいところです。 それはともかく、水沢の駒形神社は戦前の旧社格において岩手県最高位の「國幣小社」であり、先にも触れたように古くは延喜式神名帳にもその名の見える、いわゆる“式内社”であり、かつ、名神大の志波彦神らと並ぶ陸奥國最高の従四位下にまで神階を進めた記録が正史に残る社でありました。 それほどの社格で国家から遇されてきた社でありながら、祭神については何故か不詳であり、そのことに違和感を抱いたのが『円空と瀬織津姫(風琳堂)』の菊池展明さんでありました。 菊池さんは、その理由を「瀬織津姫」にあると推測されておりました。 すなわち駒形神社の祭神が瀬織津姫神であるが故に“不詳”とされたものと菊池さんは踏んだのです。 駒形神が瀬織津姫であるという根拠について、菊池さんは北上山地の最高峰たる「早池峰山」に抱かれた「大出(おおいで)郷―遠野市附馬牛(つきもうし)町―」の「早池峰(はやちね)神社」境内にある「駒形神社」の由緒に見出しておりました。 大出郷のある附馬牛町は、昭和二十九(1954)年に誕生した遠野市に併合される以前には「附馬牛村」なる独立したひとつの村であったわけですが、その村の村誌『定本附馬牛村誌(附馬牛村)』に当該駒形神社について次のように記されております。 ―引用:『円空と瀬織津姫』・『定本附馬牛村誌』― 大出の本社早池峰神社の境内にある駒形神社も古い由緒と伝統を持っている。「早池峰神社縁起」によれば、この神社の縁起は、無尽和尚が早池峰山に登った時、早池峰権現が白馬に姿を変え龍ヶ馬場に現れたのを写生したのを此処に祀ったのが始まりと伝い、その時、未だ写し終わらない中に白馬が駆け去ったので片耳を写し残したとされている。 つまり、「早池峰権現―早池峰神―」は、「白馬に姿を変えて龍ケ馬場に現れた」、それを無尽和尚が「写生」して祀ったのが「駒形神社」だというわけです。 早池峰神社は瀬織津姫神を祀っておりますので、早池峰権現の化身たる駒形神はすなわち瀬織津姫神である、というのが菊池さんの考えのようです。 『円空と瀬織津姫』における菊池さんの目的の大きなひとつは、円空の謎めく彫像行脚が瀬織津姫神への崇敬心に起因していたことを解き明かすことにありました。円空は駒形神にまつわる歌をいくつも詠んでいるようですので、駒形神が瀬織津姫神であることを示唆する情報は菊池説にとって極めて重要です。早池峰権現が駒形神に化身したという伝説は、円空による有珠善光寺の彫像及び奥の院創始の真意が、内浦岳―駒ヶ岳―の神への祈念、すなわち駒形神こと瀬織津姫神に対する想いにあったことを傍証するための布石でもありました。 なるほど納得・・・と言いたいところではありますが、早池峰権現の化身たる駒形神を水沢駒形神社の祭神をはじめとするその他の駒形神と同じものと判断して良いものだろうか、という迷いも残ります。龍ケ馬場に現れたのはたしかに早池峰権現であったのでしょうが、それはあくまで早池峰山域の当該駒形神社における由緒であって、それが他の全ての駒形神の属性にまで及ぶ前提で論を展開するのには勇気が要ります。栗駒山の駒形山としての山名由来もそうですが、なにしろ山容に馬の雪形さえ現れれば「駒形神」なる名称は全国どこにでも普遍的に発祥し得るのです。 とはいえ、仮にその場合でも、その抽象的な雪の形を馬の形と受け止める里人の感性において各々に共通し得る部分があったわけで、早池峰山でもそうですが、その山の神の権現が白馬に化身したという感性、また、それを馬(うま)ではなく駒(こま)と表現する感性が彼らの間で同期していたことも事実です。毛野一族か否かは別として、駒形神を祀る各地の里人が同じ信仰をもつ同系の人たちであった可能性は低くもないようには思われます。 また、逆説的ではありますが、いくつもの駒形神の歌を詠んだ円空の関わらんとした駒形神については、少なくとも円空の感性というフィルターを通して同種の属性を見出せるとはいえるのかもしれません。 ところで、大出郷の早池峰神社の拝殿には、先の龍ケ馬場における無尽和尚の駒形神伝説に由来したものであろう「早池峰山駒形印」なるものが掛けられております。何の気なしに絵柄の中で馬を曳いているのは無尽和尚であろうと解釈しておりましたが、大迫町の早池峰神社にて魔除けとして頒布されていた護符にも同様の絵柄が描かれ「猿駒曳護符」と名付けられておりました。 なにやら馬を曳いていたのは無尽和尚ではなく“猿”であったようです。 護符の説明には、「古来より、猿は馬を守護するとされ守護神として猿を飼い正月には厩祭を行い、猿が馬を曳いている」とあるわけですが、栗駒山の神を祀る駒形根神社の社記にみえる次の祭式が気になってきます。 「御岳大神及ビ吾勝大神神幸ノ時 鼻節神必ズ啓行スベシト」 駒形大神と吾勝大神―天忍穂耳尊:天照大神と素戔嗚尊との誓約で生まれたとされ、天孫ニニギの父とされる―の神幸に際しては必ず鼻節神を啓行させるべしというのです。 何故、ここに宮城郡の式内名神大なる鼻節大神が指定されているのでしょうか。 その理由としては、小文字で「鼻節神ハ者蓋シ猿田彦大神ト謂フ」と補記があり、ここでの鼻節神は猿田彦大神の役割として期待されているということのようです。 正史上、サルタヒコは天孫降臨の際にニニギ御一行を先導したが故に、大日岳の神としての駒形大神の神幸に際して導きの神の大役が任せられているのでしょうが、だとしても、同じ栗原郡の金成地区に猿田彦神社があるわけで、にも関わらず、あえて宮城郡の鼻節神社の神に啓行させるというのは不思議です。 もちろん、金成のそれは平治元(1159)年の勧請でありますから、延喜式式内社の駒形根神社の当該祭式が定まる頃にはまだ存在していなかったのかもしれません。であれば、尚更不思議です。何故なら延喜の制でいえば鼻節神社は駒形根神社より格上の名神大なわけで、それが小社にすぎない格下の駒形大神の先導を、より延喜年間に近い時代から担わされていたことになるからです。 両社にはなにか、そういった形式を超えた部分での古くからのつながりがあるのかもしれない、などと想像してしまいます。 早池峰神社の猿駒曳護符の意味する馬の守護神としての猿という図式は、もしかしたらこの駒形根神社と鼻節神社との関係に由来してはいまいか、などとも考えてみたのですが、なんら確証はありません。 ただ、駒形山たる栗駒山が大日岳でもあるように、もしかしたら太陽と駒を表裏の関係とみているなんらかの古い信仰が根強くあるのではないでしょうか。 たびたび触れているように、猿は夜明けに騒ぐ習性があることから、鶏と同様、普遍的に朝日と結び付けられて信仰の対象となる傾向が全世界的にあります。猿駒曳護符の猿は、おそらく朝日の示唆であるのではないでしょうか。 ※注:平成三十一(2019)年一月十九日補記
『続日本紀』霊亀二(716)年九月二十三日条に、従三位中納言の「巨勢朝臣万呂」なる人物が出羽國における狄徒(えみし)懐柔政策について提言している旨の記事があり、また、その四年後の養老四(720)年九月二十八日条には、陸奥國から按察使・正五位下の「上毛野朝臣広人」が蝦夷に殺害された旨の奏言があった記事があり、翌日二十九日条にはそれを受けたと思しき人事、播磨の按察使・正四位下「多治比真人県守」が持節征夷将軍に任じられた記事があります。 その際、左京亮・従五位下の「下毛野朝臣石代」が副将軍に、従五位上の「阿倍朝臣駿河」が持節鎮狄将軍に任じられていたようです。 |
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奥羽における信濃系の馬飼いの民に対する忖度の可能性については、例えば、鎌倉幕府による「由利中八維平」の論功行賞にもそれが窺えるものとみております。 維平が奥州藤原四代泰衡の郎従「由利八郎」その人だとしたならば、彼は鎌倉軍に囚われても尚、主君泰衡を侮辱した敵の総大将源頼朝に啖呵をきった人物です。泰衡が恭順の意を示して命乞いをしても尚残酷に処刑されたことを鑑みれば、頼朝に啖呵をきった維平などは本来その場で有無を言わさず首を切られてもおかしくないところです。 ところが維平はとりたてて咎もなく、何故か慣れ親しんだ旧領の由利地域を任せられました。維平からすれば願ってもない待遇を得たことになります。 思うに、由利郡の信濃系土着民の手綱を握る上では、下手な鎌倉武士に地頭職を任せるよりも維平その人を生かしてそのまま留任させておいたほうが断然有効であるという判断を頼朝は下したのではないでしょうか。 ところで、中世の由利地方には「多くが信濃より移住の士なるが如し」と『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんが評するところの由利衆―由利十二頭―なる在地領主層がいたわけですが、栗原との関係において気になっていることがあります。 それは、栗原の「真坂(まさか)郷―栗原市一迫真坂(いちはさままさか)―」に起源をもつという真坂姓の分布が、何故か当の栗原ではなく、圧倒的に由利―秋田県由利本荘市―に集中しているようであることです―平成三十(2030)年十一月四日現在ウェブページ『日本姓氏語源辞典』調べ―。 郷名を冠する一族が宗家もろともまるごと由利に移住したものか、あるいはなんらかの有力な姓をもつ真坂郷ゆかりの名族の分家が移住後に故郷の地名を名乗ったものかのいずれかなのであろうと想像しております。 なにしろ栗原一迫の真坂郷周辺には、武烈天皇伝承と照井氏の痕跡が濃厚に混在しております―※拙記事:『5年に一度の供養会』・『消えゆく照井一族の痕跡』参照―。 彼らの本来の姓が何であったのか、大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)の裔を称する照井氏や武烈天皇伝承を伝える狩野氏ともなんらかの関連があるものか、いずれ別稿を設けて考えてみたいと思いますが、ここでは、信濃系移民という属性を共有する栗原と由利の相互に陸奥出羽の境を超えた一族移動―異動?―があった事実への着目にとどめておきます。 さて、文治五(1189)年の奥州藤原氏滅亡の直後、大河兼任の乱で戦死した維平を継承して由利郡を領していたのは「由利中八維久」なる人物であったようです。このことは元久二(1205)年の大日霊神社の棟札や大日如来の背面の銘などから裏付けられております―『象潟町史』『東由利町史』―。 ところがこの維久、その後建暦三(1213)年の「和田合戦―二代執権北条義時とライバルの和田義盛が争った戦乱―」の後に地頭職をはく奪されております。 なにやら、北条方として参戦して数人の和田方を倒した維久の射た矢が、そのまま和田方によって射返され、こともあろうに義時の子、泰時の鎧をかすめたというのです。泰時自身は難を逃れたものの、かすめた矢に維久の銘があったがため、維久は由利の地頭職をはく奪されたのです。代わりに就任したのは、女地頭「大弐局」でありました―『吾妻鏡』『象潟町史』―。 大弐局は“信濃守”小笠原遠光の娘であったといいます―『象潟町史』―。 この「小笠原遠光」という人物、大弐局の父ということは南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」と同一人物と思われますが、おそらく、彼の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで高倉天皇から小笠原姓を賜ったことから、父遠光の姓にも混乱が生じているのでしょう。 由利郡の地頭職が南部氏の祖と同系の甲斐源氏であり、しかも“信濃守”一族であったことは栗原と糠部の関わりを探る本稿の目的において看過できません。 なにしろ甲斐源氏の縁故地たる甲斐國巨摩郡は、信濃同様、高句麗系渡来人の郷であったと考えられている地域です。 また、奥州南部氏の始祖とされる光行が、父遠光の官位“信濃守”を受けて「信濃三郎」を称していたことも見過ごせません。 そもそも甲斐國といえば「甲斐の黒駒」伝説でも知られる馬の名産地であり、特に巨摩郡の巨摩(こま)などは高麗(こま)に由来する地名と思われ、事実同地には高句麗人の扶植を裏付けるような積石塚古墳も多数確認されております。 また、同地には『延喜式』に載る真衣野牧・穂坂牧・狛前牧なる三御牧があり、やはり朝廷に駒を貢進していた地域でありました。 そういった地域の属性を背景にしていた南部氏が糠部をすんなり支配していたことは、やはり糠部の馬産文化も高句麗由来の信濃系のそれであったが故ではないのでしょうか。 糠部エリアには、「階上(はしかみ)」の地名も見受けられます。 宮城県民としては、ふと、我が県の本吉郡における同じ地名が頭に浮かぶわけですが、「本吉」は先に触れたとおり、奥州藤原二代基衡が増徴を拒否して惡左府藤原頼長と熾烈に駆け引きを展開した「奥羽五箇荘―高鞍(宮城県栗原地方)・本吉(同本吉地方)・大曾禰(山形県村山地方)・屋代(同置賜地方)・遊佐(同庄内地方)―」のひとつでありました。 これも本来高句麗系渡来人由来の信濃系扶植民との関係が推察される多賀城近郊の大伴家持の建てた権郡「科上(しなのえ:階上)郡―大和岩雄さん『日本古代試論』―」と縁浅からぬ地名ではないか、と想像しているわけですが、この階上(はしかみ・しなのえ)地名からも糠部周辺に同系の馬産文化が扶植されていたことが推察できるのではないのでしょうか。 一方、八戸市内のど真ん中に「新羅神社」があり、やや混乱させられます。 南部領総鎮守なり南部一之宮として尊崇を集める「櫛引(くしびき)八幡宮」なり、その「お浜入り」の地たる馬淵川(まべちがわ)河口の地主神「御前(みさき)神社」に伝わる神功皇后伝説に関わりがあるものか、さすれば、同地の土着の民は新羅系であったものか・・・。 しかしこれは、だいぶ時代が下った延宝六(1678)年の盛岡南部二代藩主直政の勧請によるものらしく、南部氏の遠祖「源義光」が、“新羅三郎”と呼ばれていたことに由来するようです。尚、義光が新羅三郎と呼ばれたわけは、近江新羅明神―三井寺新羅善神堂―で元服したからと伝えられております。したがって、これは八幡太郎義家の弟義光に連なる甲斐源氏たらんとする南部氏の都合による勧請であって、古来の糠部の地主の属性とは直接的には関係がなさそうです。 なにしろ『東夷伝』によれば、馬韓―後の百済―では牛や馬を蓄うことを知らず、ただ葬式のときだけ使うとあり、辰韓―後の新羅―でも同様で、牛馬を使う場合も車をひかせるためであって、高句麗のように戦闘には使っていない、とのことでありました―『日本古代試論(大和書房)』―。 高橋富雄さんが力説するように糠部の駿馬が軍馬として優れているというのであれば、やはり新羅系ではなく高句麗系のそれであったと思うのです。 もちろん、高橋富雄さんはあくまで「エゾ馬」であるとして、一騎当千のエゾ馬とその民の強さを力説しているわけですが、それを否定しようというのではなく、エゾ馬自体がそもそも高句麗由来のそれ、あるいは同系種であったのではなかろうか、と私は思うのです。 もっといえば、陸奥において蝦夷とよばれていた存在の主体が、それら同種の馬産文化を継承していた人たちであったのではなかろうか、と考えているのです。 糠部の馬文化が栗原同様、高句麗由来の信濃系のそれであるとしたならば、もしかしたら、豊臣秀吉の天下統一後の九戸一揆の首謀者「九戸政実」が、わざわざ栗駒三ノ迫―栗原―で斬首されたこととも関係があるのかもしれないと疑っております。 そもそも九戸一揆を“一揆”と呼んで良いのかという疑問もあります。秀吉の天下統一は、一般に、小田原北条攻めの勝利をもってそれが成ったように伝えられており、歴史の教科書におけるその後の戦乱は「一揆」という扱いに矮小化されておりますが、その鎮圧に動員された兵力は六万を超え、一説に十万ともいわれる大軍でありました。 しかもその面々は関白秀次を総大将に、浅野長政、蒲生氏郷、徳川家康といったオールジャパンの正規軍であったのです。 その規模と質からみて、おそらく真の目的は既に秀吉に恭順の意を示しておきながら相変わらず不穏な動きをみせていた独眼竜伊達政宗への威嚇であったものと思われますが、思いのほか食い下がったのは南部の反乱分子「九戸政実」でありました。 南部一族最強の実力をもつ政実は、南部二十四代晴政との関係を悪化させていた晴政の養子信直が当主の相続に成功したことを苦々しく思っておりました。政実が信直の直接討伐に動くのは時間の問題であったのですが、機を見るに敏な信直は、早々に秀吉にとり入って身の安全を担保したのです。秀吉は信直を南部の宗家と公認し、政実を反乱分子とみなしました。 この政実について、実は南部一族ではなかったのではないか、という意見もあります。 『日本史大戦略』なるブログを主宰する稲用章さんによれば、政実の地元の九戸では、政実は小笠原氏の子孫である、という説が根強く残っているのだそうです。 稲用さんは、それを補強する史料として江戸時代に書かれた『九戸軍談記』なる書物を取り上げております。そこには、九戸城の戦いの前哨戦である姉帯城の戦いの際に、政実同族の姉帯兼信が戦場で名乗りをあげたときの次の台詞があるというのです。 「ゆふき惣大将小笠原美濃守正安が子孫左近将監正実が一類姉帯大学兼興が舎弟五郎兼信と申す者なり」 稲用さんは、元弘三(1333)年―正慶二年―十二月十八日に九戸は結城親朝に与えられたので、九戸氏はその結城氏の子孫だと考えることもできるが、「惣大将」と言われているので「永享十二(1440)年の結城合戦に信濃国守護(惣大将格)として出陣した小笠原政康」という意味ではないか、としております。 その上で次のように続けます。 ―引用― 『九戸軍談記』は軍記物ではあるが、上記の台詞から、江戸時代になっても九戸家が南部家の子孫ではなく、小笠原家の子孫であることが、民間に知識として残っていたことを表わしていると考えられる。政実が小笠原氏の子孫だというのは信憑性が高いのではないだろうか。小笠原家では嘉吉2年(1442)に政康が死ぬと、その跡目を巡って内紛が起きているので、このとき政康の子の誰か(庶子であり系図に残っていない人物)が九戸に移ってきて、それが政実に繋がるのではないかと私は考えている。 なるほど、実に興味深いので、その『九戸軍談記』―『南部叢書(南部叢書刊行会)』所収―なるものに目を通してみました。 すると、稲用さんが引用した部分のみならず、「奥州 ○糠部宮野の城主 小笠原左近将監正實」という表現が随所に見られ、蒲生氏郷と井伊直正から徳川家康と上杉景勝宛てに送られた書状に記された「奥州糠部宮野之城主九戸左近将監正實」の「九戸左近」の後に、わざわざ「○小笠原左近」という注記もなされておりました。この注記がどの段階で差し挟まれたものかはわかりませんが、末尾に「小笠原謙吉 校訂」とありましたので、おそらくその人物が挿入したのでしょう。小笠原姓であることからすると、もしかしたら九戸家を小笠原家であると伝えている火元たる裔孫の方で、多少なりバイアスがかかっている可能性はあるのかもしれませんが、私は、概ね信頼できるのではなかろうか、と考えております。 小笠原家は、先に触れたとおり、南部氏の始祖とされている「南部光行」の父「加賀美二郎遠光」の子―南部光行の兄弟―長清が、甲斐国巨摩郡小笠原郷を継いで、高倉天皇からその姓を賜った“信濃守一族”でありました。 稲用さんは「九戸政実の乱」について次のように結論づけております。 ―引用― もとをたどると南部家の祖光行と小笠原家の祖長清は兄弟だ。平安時代末から鎌倉時代初期の甲斐国(山梨県)の武将加賀美(加々美)遠光の子らである。もし九戸家が小笠原家の子孫だとすると、南部・小笠原ら兄弟の子孫どうしが、それぞれ糠部地方にやってきて、永い期間に渡り勢力争いを演じていて、その総決算が「九戸政実の乱」ということになる。 なるほど、その通りであったのではないでしょうか。 信濃守小笠原家の裔孫たる政実は、おそらく糠部を直接的に管掌し得る立ち位置にいたのでしょう。 『九戸軍談記』には、「其頃正實は天下に並びなき馬の名人也 ○天下に聞得し、馬上の名人也」と評されており、政実は大名並みの領主でありながら、一方で「馬賊の頭目」そのものでもあったかのようです。 秀吉は何故南部の反乱分子として扱った政実をわざわざ伊達領内の栗駒三ノ迫―栗原郡―まで召し出して処刑したのか・・・。 おそらくは伊達領内で執行することで政宗へのけん制をより強める狙いもあったことでしょうが、加えて、まつろわぬ馬賊の頭目は処刑されるという一大デモンストレーションを、信濃系の馬飼いの民らの面前で演じておきたかったのではないでしょうか。 |


