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昭和29年版『仙臺市史』は、「村境明神」なる項を設け、「往時の村境に立っていた明神〜」として、「連坊小路の紫明神、本櫓町の紫明神、市役所構内の榎明神等々」、「城取明神」、を列記しております。 しかし、管見のかぎり、「村境」なり「紫」なりと表記される「ムラサキ神」が、必ずしも村の境に祀られていたようには思えません。「村境」の字面に振り回されてはいけない気がしてなりません。 例えば、松島町高城の「紫神社」などは、本来は「松島明神」であったものが治承四(1180)年現在地への遷座の後に「村崎明神」に改められたといいます。 いみじくもそれは、仙台市青葉区春日町の「春日神社」と同様、文治年間(1185〜1190)の源義経奥州下向伝説に彩られており、すなわち、奥州下向の源義経が立ち寄った際に、境内のフジ数百株が紫に咲き乱れていて紫の雲がたなびくようであったので、「村崎明神」の名が「紫明神」にあらためられた、ということでありました―『宮城郡誌』・昭和35年版『松島町誌』―。 おそらく、フジのくだりは「ムラサキ」の名称からの後付けでしょうが、この松島明神を安倍宗任が配流先にても崇敬していた事実や、宗任の兄、安倍貞任の後裔を称する「藤崎氏」が「藤(ふじ)」の一文字を冠している事実を鑑みるならば、これをいたずらに軽んじるわけにもいきません。 なにしろ、私が、安倍貞任後裔氏族の祖「安日―安日彦―」との因果を疑っている越の魔王「阿彦」の伝説の中で、越中の地主神「姉倉比賣神」は、神の水として最も優れているのは「藤井」の水であると神託を下しておりました。 そして私は越中や丹後における探索によって、「藤」が「比治の眞名井」の「比治(ひじ)」の意とされていた例も知りました。古来高貴な色とされてきた「ムラサキ」ではありますが、もしかしたらその根本は「藤」の言霊に秘められたなんらかの神性を示唆する隠語なのかもしれません。 それらの事情を鑑みるならば、強い神威を持つ神があえて魔除けの神徳を期待されて村境に祀られたものは、すべからく「ムラサキ明神」などと呼ばれたものかもしれませんし、あるいは、ムラサキを冠された神のすべてが松島明神と同じ神で、その本性は黄泉の国との境界を担う「岐神」なのかもしれませんが、真相は私にはわかりません。 とりあえず、現状の私個人の仮説としては、ムラサキ明神には成立過程の異なる幾とおりかが存在するのではないか、と想定しております。 具体的には、おおよそ、次のように分類を試みるものです。 1、松島明神系の紫明神。 松島明神と同じ神が、松島明神と同期して紫明神と呼ばれているもの 2、志波明神が変質した紫明神。 本来「志波(しば)明神」であったもの 3、祭神の如何に関わらず、村境に祀られたもの 各々補足をしますと、「1」は、松島の地主神である松島明神を勧請した神社が、松島明神の紫神社化に合わせてムラサキ明神を称し始めたのではないか、という意味です。 「2」は、本来は「志波(しば)大神」、すなわち宮城郡の名神大社たる「志波彦(しわひこ)神」なり、栗原郡の名神大社たる「志波姫(しわひめ)神」なりであったものが、同音異字の「柴(しば)大神」と表記されているうちに、その表記の類似性から「紫(むらさき)大神」と誤読、ないし誤表記されたものが定着してしまったものもあったのではないか、という意味です。 この着想は、鹽竈神社の社家を勤めたこともある七ヶ浜町東宮浜の「柴(しば)家」の氏神「“紫”根明神」の祭神が、「志波彦神」であったことから得たものです。 この柴家の氏神の表記については、「紫(むらさき)根明神」であったり「柴(しば)根明神」であったりと混乱がみられます。おそらく「柴(しば)」が正解でしょう。 柴家は、本来「志波姓」で表記すべきものを、神号と姓を同じくすることを憚って「柴姓」にしたと代々言い継がれているようです。 逆に、「志波大神」自体の発祥として、本来「紫(むらさき)明神」であったものが「柴(しば)明神」となり、やがて「志波」が当て字されたことも考えてみましたが、松島明神の紫明神化伝説が文治年間のこととされているのに対して、それ以前の『延喜式』で既に「志波」で表記されているので、可能性としては低いでしょう。 最後にもう一つ、「3」はそのまま、如何なる神かを問わず、村境に祀られたものがすべからく抽象的に「村境明神」と呼ばれたものもあったのではないか、という意味です。 鶏が先か卵が先か、といったような部分もありますが、ムラサキ明神の属性はこれらが相互に混乱してきたのではないのでしょうか。
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亀の備忘録
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各書庫本編を中締めした後、新たに得られた情報や発想などを、自らが忘れないように書き留めておきます。
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多賀城市八幡の八幡神社が土地の古老に「泥八幡」と呼ばれていたことについて、おそらく大津波の記憶であろうことはほぼ確実と考えておりますが、東日本大震災前まで並行して考えていた試論もありました。我ながら捨てがたいものがあるので一応触れておきます。 かつて、末の松山の記事を書いた際に次のように含みを持たせておきました。 ――「末の松山」も、実は「陶(すえ)の松山」であったりすると面白くなってくるのですが・・・―― ここで言う「陶」は、言うまでもなく「陶器」なり「須恵器」なり、とにかく「やきもの」につながる「陶」のことでありました。 陶器は、水分を含んだ粘性のある土をあな窯などを用いて高温で焼き上げるわけですが、「末の松山」の「末」の本来の意味が「陶」であったのならば、「泥八幡」の「泥」はその示唆ではないのか、とも考えていたのです。 いわゆる泥八幡は、さしあたり陸奥國分寺建立時に勧請されたとも、豊前國宇佐郡から末の松山に奉遷されたとも、或は松島八幡が遷されたもの、とも言い伝えられております。 豊前國の辛島氏―秦氏―の私的祭祀に過ぎなかったヤハタ信仰が、宇佐神との習合によって伊勢につぐ国家第二の宗廟「宇佐八幡」として昇華し、八幡信仰として全国に約4万社、すなわち約11万と言われる全国すべての神社の四割をも占めるにまで至ったきっかけは、総國分寺たる東大寺の鎮守の座を獲得したことに尽きると思われます。 これらをプロデュースしたのは辛島氏でも宇佐氏でもなく、欽明朝―実際は敏達朝であろう―に中央から豊前國に派遣されたのであろう「大神比義(おおがのひぎ)」に始まる大神一族系八幡神職団でありました。 仏法の輸入や半島外交のジレンマなど社会情勢の不安にともない、朝廷としては従来のナチュラリズム・アニミズム的な神祀りに行き詰まりのようなものを感じ始めたのか、辛島氏が大陸から持ち込んでいたシャマニズムを欲したものと思われます。大神比義は両者のパイプ役を担って派遣され、宇佐に住み着いたようです。 大神氏にはそれを担わされるだけの理由、引き受けるだけの理由があったように思われます。 宇佐八幡研究の第一人者でもある中野幡能さんは『三輪高宮家系図』から大神比義を「大三輪神の氏人」としているのですが、だとすれば、大神氏はかりそめにも「大田田根子」の継承者であり、すなわち当時の国家の神祀りを牽引していた立場であったのかもしれません。少なからず責任を感じていたことでしょう。 さて、その大田田根子については、『日本書紀』に「即於茅渟縣(ちぬのあがた)陶邑(すゑのむら)得大田々根子而貢之」とあり、大田田根子が“陶(すえ)”邑にいたとされていたことがわかります。 また、書紀において大田田根子は自らが「大物主大神」と「活玉依媛(いくたまよりびめ」の子であると言い、母の「活玉依媛」は「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であると言っております。 陶邑と大神氏について、大和岩雄さんは次のように語っております。 ―引用:大和岩雄さん著『秦氏の研究(大和書房)』― 陶邑は、五世紀前後に渡来して、陶器製作に従事した人たちの居住地だが、陶邑製作の初期陶(須恵)器は、加羅地域の陶質土器と同じであることは、考古学者の指摘するところである。秦王国の人たちも、同じ加羅からの渡来人であったから、辛島氏の本拠地は「スエ」村といい、(現在の宇佐市末)、この地は今も「辛島」姓の人たちがいる。このように「スエ」を通して、大和の大神氏と辛島氏には回路がある。 八幡祭祀の根源たる辛島氏と大神氏には「陶(すえ)」を通じて回路があり、辛島氏の本拠地たる宇佐のスエ村の「スエ」は「末」で表記されているようです。 多賀城の八幡(やはた)については、「八幡(やはた)」の地名や「猩々(しょうじょう)」が登場する伝説などから、秦氏の居住区であったのだろう、と推測しておきました。 泥八幡の「泥」がそれに関係するものかどうかはわかりませんが、当地に八幡(やはた)神を勧請したのは坂上田村麻呂でも源氏でもなく、秦氏系の住民ではあるのでしょう。 また、八幡沖遺跡で出土した素焼きの土器が、はたして陶器―須恵器―に通ずるものであるのかどうかもわかりませんが、スエ器の出土の有無にかかわらず、少なくとも「末の松山」の「末」がヤハタの神を奉ずる秦系住民の属性を介した言霊としての「陶」に因んだものと考えておく分には問題ないでしょう。 『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』においてはばっさり否定された当該八幡神社の由緒でありますが、支離滅裂に羅列された内容の裏事情を個別に検証すればあながち捨てたものでもなさそうです。 陸奥國府が置かれる以前、以後、中世の多賀國府時代、南北朝時代、戦国時代、そして近世以降、陸奥國の中心たる多賀城周辺、いわゆる宮城府中の争奪戦は、実にめまぐるしいものがありました。長く厚みのある時間の層の中で、当地を管掌する人々も度々入れ替わっていたわけで、鎮守の神に対する解釈も幾度か変質していたことでしょう。 信ずるに足らないとされてはおりますが、泥八幡の前身として名の挙がる「松島八幡」は、『類聚国史』に舒明天皇三(631)年七月の勧請とあり、『塩松勝譜』においては松島の神祠仏閣中最も古きものと紹介されております。 前者『類聚国史』については、史料として賛否の分かれるところではありますが、何より舒明天皇三年は発祥の宇佐八幡の初見よりも早く、それ故に信ずるに足らないとされます。 後者『塩松勝譜』によれば、この社は松島の八幡崎に置かれ、寛永年間に現在地、すなわち五大堂の橋の間に遷されたようで、一方で推古帝25年に勅によって松島に置かれ、多賀城時代の坂上田村麻呂によって八幡村―現:多賀城市八幡―に遷された旨の説があることも併記しております。 はたして、これらは脈絡のない伝説でしょうか。 思うに、「八幡」という言霊にこだわってしまうから信ずるに足らないのであって、その前身となる地主神の話が八幡社の由緒に争奪されたと考えるならば、そこそこ信ずる価値もあるのではないでしょうか。 つまり、松島最古の神祀りであるということはおそらく本来の姿は「松島明神」か「葉山権現」のことであって、それが多賀城時代の田村麻呂によって八幡(やはた)に持ち込まれたのではないのでしょうか。 少なくとも、陸奥國分寺の南大門の真正面には「松島明神」を勧請したとされる「紫明神」が「椌木明神」という名で祀られておりました。 また、鹽竈神社―多賀城?―の四方の鎮めの神とされる東宮・西宮―志波彦?―・南宮・北宮にも、各々間接直接に紫明神―松島明神―に通ずるコンテンツ(?)が散りばめられております。 ともあれ、泥八幡の由緒の混乱は、八幡の民の氏神と田村麻呂によって松島から勧請されたなんらかの神が、貞観津波などの被災を機に合祀されるなどして生じたものなのではないのでしょうか。 |
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吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』の中で富當雄さんが語る出雲神族の渡来譚は次のようなものでした。 ―引用― この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため、一族をひきつれて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海ぞいに歩いた。そうして何代もかかって、ようやくたどりついたのが出雲の地であった。(今から四〇〇〇年も前のことである) また、「東北の山や湖に関する伝承が多い。ベーリング海を渡り、北海道、東北、そして出雲へとやってきたのだろう」とも語っております。 それを受けて、著者の吉田さんは、竜蛇神を信仰するシュメール人やドラヴィダ人が牛をトーテムとするウル人やアーリア系のインド・イラン人に追われた歴史に結び付けておりました。 富さんは移動の理由が寒冷にあったことを語っていたわけですが、吉田さんはそれをアーリア人らに追われたドラヴィダ人らの歴史に因果づけたわけです。 その吉田さんの説は、いみじくも『幸の神と竜(大元出版)』の谷戸貞彦さんや、『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の斎木雲州さんの語るところとおおよそ一致しております。 斎木さんによれば、いわゆるイズモ族は三千年以上前に、「鼻の長い動物の住む国から来た」という伝承があるといいます。 同様に谷戸さんも、出雲の旧家には、「出雲族は、昔(約三千五百年前)鼻の長い動物(象)と竜蛇(りゅうだ:コブラ)のいる国から、日本の島を目指して民族移動して来た」という言い伝えがあるとしております。 この「鼻の長い動物の住む国」は「象が住むインド」をさしているのでしょうが、斎木さん谷戸さんの両氏によれば、象の頭を持つ神ガネーシャこそが、サルタヒコの原型であるのだそうです。 谷戸さんは次のように語ります。 ――引用:前掲谷戸さん著書― インドでは古くから像が飼育され、力仕事に使われている。仕事中であっても、雌象を見て雄象が発情した時には、両者を自由にさせて、人々はゆっくり見物する。人間が妨害すると危ないそうだ。 〜中略〜 象の交尾を見慣れているドラビダ族は、自分の家の男も、象のように元気であることを願い、夫婦の息子神に象神を当てはめた。それが象神のガネーシャだった。 なるほど、真言・天台の両密教において、大衆の抑えきれない欲望を成就させ鎮めることによって仏法へ向かわせる、とされる歓喜天が象の姿であることにも通じそうです。 谷戸さんは、サルタはドラビダ語で「出っ張り」、ひいては「高い鼻」の意味であるとし、斎木さんも、「長鼻」を意味する、としております。 したがって、「サルタヒコ」の意味するところは「猿とは全く関係がない」、と谷戸さんは言い切ります。 しかし、はたしてそうなのでしょうか。 なにしろ、猿と日の出の関係には普遍性がありそうです。 大和岩雄さんが『天照大神と前方後円墳の謎(六興出版)』の中で次のように述べております。 ―引用:大和岩雄さん著『神と人の古代学(大和書房)』所載前掲書の抜粋― 猿が日の出を迎えるという話は、古代エジプトの伝説であるとホーキンズは書くが(ジェラルド・S・ホーキンズ『巨石文明の謎』二九三頁)、猿が太陽神の霊獣、猿田彦神に太陽神格をみる松前健も、太陽神が失くした眼を、猿が探しだしたエジプトの神話を紹介している(松前健『日本神話の研究』四四頁)。この神話では、太陽神の眼を探しだしたのは、大猿に化身した神で、猿田彦に似ている。猿田彦は天孫(日神の孫)を迎え、案内するが、エジプトの神話でも、日の出を歓び迎え賛歌を捧げるのが猿神の役目だという点も、猿田彦神と共通している。しかし、エジプトと日本で、猿の神が太陽(朝日)を迎える神話をもつのは、猿が日の出前にさわぐ習性があるためで、その習性による神話化と考えられ、同じ話があるからといって、すぐエジプトに源流をみるわけにはいかない。しかし、松前健も紹介しているインドの猿神信仰はそうとはいえない。猿神は太陽神ボラームと同一視されており、「印度各地には、村の入口に守神として猿形の像を立て、あるいは石にこの形を彫み、石の裏には太陽と月の形が画かれているものがある。猿形の道祖神に、不妊の女は子を授けて貰うように祈り、未明に全裸となり、この像を抱くという」(松前健前掲書四五頁) 日本の猿田彦神も『日本書紀』に「衢神(やちまたのかみ)」とあり、村々の入口の守神(道祖神)である。この神に天鈿女(あめのうずめ)は女陰を見せている。そして猿田彦神と結婚している。松前健は、「現今でも猿田彦神と称する石像を裸形の女人が抱いて、子生みや安産を祈るという習俗は諸処に行われている」と書くが(前掲書四五頁)、猿田彦という太陽神格との類似行為も、聖婚儀礼の一種であろう。猿田彦の鼻が長いのは、男性のシンボルを示しているといわれ、現在も日本の民俗のなかでは、猿田彦は性神の代表だが、この源流は南インドにあるのかもしれない。 「猿神は太陽神ボラームと同一視されており〜」とありますが、このボラームは先に触れた太陽神スーリアの別名と言われております。 猿神と同一視されずとも、スーリアが猿王の妃との間に子を生した旨の叙事詩などもあり、インドにおいて猿が太陽と結び付けられて語られていたことは事実のようです。 したがって、サルタヒコが猿に擬されるのは単に名前からの誤解ではなく、この神の性格が持つより本質的な部分に起因しているのではなかろうか、と私は考えるのです。 つまり、その根源はやはり日光感精、特に朝日との聖婚儀礼にあるのだと思います。 太陽神が女神であるか男神であるかの議論は置くとして、斎木さんや谷戸さんが語る出雲族の起源譚は、太陽信仰とサルタヒコ信仰の関係性から俯瞰した民俗学的な見地からも概ね符合しているといっていいのではないのでしょうか。 |
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吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』によれば、出雲神族の正当な継承者として選ばれた富當雄さんは、前任者である養父に叩き込まれた四千年前からの口誦伝承について口外してはならないとのことでした。 富さんは、自分の跡継ぎ以外は肉親であろうとも敵と思わねばならなかったとのことで、むしろ、親類縁者こそがもっとも危険な敵となり得るという警戒感すらほのめかしております。 とすれば、『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の斎木雲州さんや『幸の神と竜(大元出版)』の谷戸貞彦さんが、仮に富さんの直系の家族であったとしても、富さんと同じ伝承を知り得ていたとは限りません。 したがって、斎木さんと谷戸さんの語るところは、富さんの語るところと一旦区別して考えておく必要があります。 谷戸さんは、伝承に基づいて前述の著書を書いたとしております。その伝承には二種類あるとし、一つは、いわゆる語部のもの、もう一つは神社や旧家のもので、特に後者については十人以上の古老から聞いてまとめたのだそうです。 谷戸さんは言います。 「出雲は実に古い土地柄だ。また、古代が生きている。多くの古老が、出雲王国時代の話をしている。そして、出雲人は頑固だ。日本史の他の本がどう書こうが、先祖から聞いたことをそのまま言い伝え続けている」 たしかに我々外部の人間にはおよそ計り知れない世界が出雲には息づいており、それは、出雲を覗きこんだ多くの人たちが異口同音に唱えていることです。 一方、斎木さんも日本各地の旧家の伝承を調べ、公表していない旧家には直接出向いて話を聞いたとしております。 つまり、谷戸さんや斎木さんの説くところは、あくまで出雲をはじめとする日本中の古老や旧家から取材した情報を咀嚼したものであって、必ずしも富家の家伝ではありません。 もちろん、自家の家伝と他家の家伝との境界を曖昧にすることによって、顕在化が憚られる自家の家伝を忍ばせている可能性も少なからずあるでしょう。そしてもちろんそれに対する読者側としての期待も大いにあるわけですが、出雲神族継承者として自家の家伝を語った富さんとはあきらかに質が異なります。 これはどちらが上、どちらが正しい、という問題ではありません。 誤解を恐れずに分類するならば、谷戸さんや斎木さんの語るところは数多の伝承から突き詰めた研究結果であり、富さんの語るところは研究対象の史料そのものであり、その性質の違いを認識しておく必要があるということです。 さて、富さんへの取材を中心とした『謎の出雲帝国(徳間書店)』にはさして触れられていなかったサルタヒコについて、谷戸さんや斎木さんは出雲族の最高祖神の一として掲げております。 同様に、『謎の出雲帝国(徳間書店)』では、出雲族の信仰としては特に語られていなかった太陽信仰についても、谷戸さんや斎木さんは言及しております。 もちろん、富さんが触れていなかった事に谷戸さんなり斎木さんなりが言及していても、それは必ずしも齟齬とは言えません。 何故なら、『謎の出雲帝国(徳間書店)』における富さんの話の基本は、著者の吉田さんからの呼び水に対する反応であり、極端に言えば吉田さんが質問していなければそこに話題としてあがらなかった可能性も高いからです。 いずれ、私は出雲族に太陽信仰があったことを信じます。信じたほうが、三輪山や伊勢の太陽信仰についての解釈が円滑になるからです。 大和盆地の先住民が三輪山を基点に壮大な太陽信仰の仕掛けをしていたらしいことは、大和岩雄さんの論に便乗しながら何度か触れました。 それを仕掛けたのが、少なくとも天孫族ではなかっただろうことは、十代祟神天皇の御代に三輪山の神の祟りがあったこと、その後、三輪山の太陽神が体よく大和から追い出され、伊勢に遷されたことによっても推察できます―『日本書紀』『倭姫命世記』など―。 三輪山の太陽神祭祀については、多神社の存在などからその仕掛けにオホ氏が関わっていたことは間違いなさそうですが、『日本書紀』を信ずるならば、オホ氏は神武天皇の二男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔孫、すなわち天孫族であります。 しかしオホ氏は、『新選姓氏禄』においては磯城県主(しきのあがたぬし)と同祖系譜とされております。 磯城県主の一族が三輪山の祭祀を司っていたらしきことを踏まえるならば、それは十分首肯し得ます。 磯城県主は、弟磯城(おとしき)を祖としておりますが、弟磯城は、神武が東征してきたときには既に磯城地方に存在していたわけですから、当地の先住豪族と言えます。 いわゆる闕史八代への考え方も関係してきますが、闕史八代の面々は先住王朝であって皇居あるいは王朝ごとにまとめられたものであろう、という私見をもって解釈するならば、磯城彦族が安寧天皇の裔という譚にも一応の辻褄を合わせられます。 何を隠そう、それらの仮説に真実味を帯びさせる情報が、斎木さんによって発せられております。 斎木さんによれば、「登美家は大和の磯城の郡(桜井方面)に移り住んだので、磯城家と呼ばれることもあった。五十鈴依姫の生んだ御子は、磯城津彦と呼ばれた」のだそうです。 斎木さんが『出雲と大和のあけぼの』の巻末に掲げた系図によると、五十鈴依姫は、いわゆる事代主命を指す八重波津身と、三島家の玉櫛姫―活玉依姫―との間に生まれた子で、姉妹の蹈鞴五十鈴姫と天村雲の間に生まれた甥にあたる沼川耳と結ばれております。 その沼川耳との間に、磯城津彦が生まれ、そしてもう一人、八井耳が生まれております。 しかし、本文において八井耳は蹈鞴五十鈴姫の御子ということになっており、伝承としてどちらが正しいのかはわかりません。 いずれ、八井耳は、「出雲王の血を引くので臣(おみ)の名称を使い、多臣の祖となった」と記されておりますから、これがオホ氏の祖たる神八井耳命のことであることは間違いなさそうです。 三輪山の祭祀は、登美家か磯城家の姫君が家系として司祭したとのことで、その姫君が姫御子―卑弥呼―と呼ばれたのだそうです。 このあたり、富家の伝承に卑弥呼や邪馬台国は登場しない、とする富さんの話とは異なりますので、他家の伝承から採用しているのかもしれません。 それはさておき、三輪山が神の山として崇敬された理由は、出雲族の古くからの神名備山信仰と朝日信仰に因むようで、出雲族には形の良い山に祖霊が隠っているという考え方があり、特に円い山は女神の山と考えられ、朝、三輪山から現れる太陽は女神と考えられたのだそうです。 谷戸さんも、「その山が女神の山だったから、太陽神も女神だと考えるようになった」としております。 斎木さんや谷戸さんによれば、出雲族は太陽神を女神と考えていたようです。 斎木さんは、「出雲族はインドから、太陽の女神スーリアを持って来たといわれる。その太陽信仰では、東の山から上る朝日を拝む習慣となっていた」としております。 しかし、このくだりには違和感があります。 何故なら、太陽神スーリアは一般的に男神とされているからです。 谷戸さんもスーリアを太陽の女神とし、月の男神ソーマと結婚したとしておりますが、一般的にスーリアには、サンジュナーやチューヤーといった妻神がいたとされております。 両氏とも、スーリアが男神だという一般的な認識には触れず、当然のように女神という前提で話を進めているのですが、一般論に反する論で展開するならばもう少し補足が欲しいところです。 そう伝承されているのだから仕方がない、と言われてしまえばそれまでですが、しいて全体の文脈などから推察するならば、古代インドにおいて、出雲族の前身らしき母系家族制のドラヴィダ族が、侵入してきた父系家族制のアーリア族に支配されたがために女神が男神に変えられた、ということなのかもしれません。 溝口睦子さんが『王権神話の二元構造(吉川弘文館)』の中でそれに近い説を展開しております。 溝口さんは、「〜大林太良氏や李子賢氏の論文があり、両氏によって古い文化層の中に、日女月男表象が世界的に広く分布していたことが明らかになっている。日本の周辺では、アイヌ、朝鮮半島、中国南部、東南アジア、そしてインドにもあったことがそこで示されている。きわめて大雑把な言い方をするならば、かつて世界的に広く分布していた日女表象は、その後高文明社会がもった日男表象に、多くの地域でとって代わられていったといえるようである」と語っております。 それに対し大和岩雄さんは、『神と人の古代学(大和書房)』の中で、溝口さんが見落としている『記』『紀』の記述や『万葉集』における示唆、『古事記』や『風土記』が記す日光感精伝説や、丹塗矢伝承にみられる日神と日女の聖婚の示唆、岡山や沖縄の土着の風習、『延喜式』における天照御魂神などの事例を挙げ、溝口さんの説を批判しております。 大和さんは、溝口さんは大林太良ら民“族”学者の見解は参考にするが、折口信夫ら民“俗”学者の見解、“俗”をまったく無視している、としております。 ちなみに私は大和岩雄さんの説を支持します。 太陽神を男神と言い張ると、男尊女卑の発想と揶揄されそうですが、普遍的にそう成り得るメカニズムについての私論は度々触れてきました。―拙記事『神鏡あれこれ―その2:太陽信仰と鏡―』参照―。 ここでこれ以上の深入りをするつもりもありませんが、斎木さんや谷戸さんがそうまで言い切っているならば、おそらく本当に出雲では太陽が女神であると伝承されているのでしょう。 しかし、それでも往古は太陽を男神と考えていたのではないか、と私は思うのです。 そしてそれは必ずしも母系家族制と矛盾しません。 いえ、むしろ太陽を父とみているからこそ太陽と聖婚して家族を生み出した母が頂点に立つ母系家族の思想が生まれてくるのではないか、とすら思います。 そもそも、卑弥呼のモデルがいたということは、太陽を男性と見ていた証ではないのでしょうか。 なにしろ、出雲族の祖神と彼らが認める朝日の神サルタヒコは、男神です。 ※平成二十九年四月一日:追記
本文中の『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』の著者斎木雲州さんは、2012年に発行された同氏の著書『出雲と蘇我王国(大元出版)』に記された内容から、富當雄さんの継承者、すなわち、執筆当時における出雲神族の当主と推察されることを付け加えさせていただきます。 |
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「サルタヒコ」を初めて知ったのはいつであっただろうか・・・。 例えば、「天照大神」や、かつて小学校の教科書にも採用されていた出雲神話の神々、すなわち「大国主命」や「少彦名(すくなひこな)命」、そして、絵本や紙芝居などでよく見かけた「八岐大蛇(やまたのをろち)神話」のヒーロー「素戔嗚(すさのを)尊」、加えて自宅の神棚などにお祀りされ続けていた「年徳神像」の神々、すなわち「大年神」、「宇迦御魂(うかのみたま)神―表記は五穀豊饒―」、「大国主神―前述と重複―」、「事代主神」、「奥津彦神」、「奥津姫神」などは、幼少時からそれとなく意識の中に刷り込まれておりました。 それ以外の神々は、たいてい鹽竈神社を調べはじめてから直面する都度に覚えていきました。 しかし、「猿田彦(さるたひこ)神」についてはやや特殊です。教科書でも絵本でも紙芝居でも神棚でも見かけていないにもかかわらず、鹽竈神社の祭神候補としてその名を見かけたときには何故か既に知っていたのです。名ばかりとは言え、いつの間にか脳裏に刷り込まれていたのです。 記憶をたどってみれば、三十年以上前に手塚治虫さんの漫画―たしか『火の鳥』―で同名のキャラクターを見かけたときに、「あれ、サルタヒコってなんだっけ?」と顧みた覚えがあります。ということは、それ以前になんらかの形で知っていたのでしょう。 『古事記』においてサルタヒコが初めて登場する場面は、アマテラスとタカギの神―高皇産霊(たかみむすび)尊―が、「葦原中国(あしはらなかつくに)」の君主として孫のニニギを降臨させたときでありました。 サルタヒコはニニギ御一行様が天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしておりました。 そこで、アメノウズメがアマテラスとタカギの特命によって職務質問をすると、サルタヒコは自分が国ツ神であることを名乗り、天孫の先導を申し出るのでした。 同様の譚は『日本書紀』にもあります。 しかしそれは本文ではなく、「一書(あるふみ)に曰く〜」の「第一」でのみ語られております。 話の流れはおおよそ『古事記』に共通しているのですが、加えてアメノウズメが自ら胸乳を露わにして腰ひもを臍の下まで下げるなど、いわば色仕掛けともとれる行動が描写されていることは留意しておきたいところです。 アメノウズメは、それ以前、スサノヲの狼藉に辟易したアマテラスが天石窟(あまのいわや)に引き籠ったときにも、同様に胸乳をかき出し陰部まで露わにして踊ったとされておりますが、それは『古事記』における描写で、逆に『日本書紀』においては踊り―作俳優―はするものの、そこまでの描写はありません。 夫婦になったとも言われるサルタヒコとアメノウズメは、いずれ「性」を象徴する神でもあり、手塚治虫さんの漫画で強調されていたサルタヒコの「長い鼻」は男根の示唆とされております。 言うまでもなくアマテラスは日神であり、サルタヒコもまた、「伊勢二見ヶ浦(ふたみがうら)」の「夫婦岩(めおといわ)」を介して日の出を拝する「二見興玉(ふたみおきたま)神社」の祭神であることからもわかるとおり、日の出と密接な神であります。 もしかしたらアメノウズメの一連の行動は、古代の普遍的な太陽信仰における日光感精の儀式、すなわち、太陽と聖なる処女の聖婚に由来するものなのかもしれません。 かつて私は、その異形の相からサルタヒコは渡来人ではなかったか、と考えていた事もあり、ユダヤ人に結び付ける論説などにも魅力を感じておりました。 なにしろ鹽竈神社の祭神の候補でもあることから、サルタの語源は「塩」を表す英語の「ソルト」なりラテン語の「サール」と同根ではなかったか、などとも想像しましたが、その後特に論を深めることもなくクールダウンしていきました。 後に触れますが、さしあたり「サルタ」の語源は残念ながら「塩」ではなさそうです。 鹽土老翁神がシャチに乗って武甕槌神と経津主神を案内した坂道とも、地元の作業道だったとも言われる「七曲坂」と、その麓の「猿田彦太神の碑」 いずれ、記紀の記述からサルタヒコについて確実に言えるのは、葦原中ツ国を代表する神、すなわち、天孫族に国を譲った側の神であるということでしょう。
記紀の流れからすると、出雲の国譲りに引き続きこの譚が現れるので、葦原中ツ国は暗に「出雲」を指しているかに思われます。とすれば、サルタヒコを出雲の神と考えるのは妥当でしょう。 ここで言う「出雲」とは、必ずしも山陰に比定される出雲のことではありません。 例えば宝賀寿男さんは、『越と出雲の夜明け(法令出版)』において、国譲りは北九州、出雲平定は出雲を舞台とし、年代的には前者が二百年ほど先行するものであって、『出雲国風土記』の大穴持命は高天原から討伐・平定の対象とされた当事者ではない、と考えておりました。 宝賀さんが考える「葦原中国」、すなわち“いわゆる出雲”の実体は、現在の山陰道の出雲でも畿内でもなく、北九州、筑前海岸部の那珂川流域であり、それは太田亮さんが比定するところの『魏志倭人伝』の「奴(な)国」でもあるようです―『和珥氏(青垣出版)』―。 奴国なのか、山陰なのか畿内なのか北九州なのか、いろいろと賛否はあることでしょうが、少なくともサルタヒコがその“いわゆる出雲”の神であることは間違いないでしょう。 なにしろ、吉田大洋さん著『謎の出雲帝国(徳間書店)』の主人公たる富當雄(とみまさお)さんの同族と思しき斎木雲州さんや谷戸貞彦さんは、その前提で論を展開しております。 彼らによれば、出雲王国は同じ信仰を持つ地域の連合体であるようで、出雲族は「幸神(さいのかみ)」を祖霊神とする母系族であるらしいのですが、幸神は各家の祖先神の集合体としての古い姿であり、宗教として体系化されて「久那斗(くなと)の大神」と妻神の「幸姫(さいひめ)命」、息子神の「サルタ彦大神」という人格神が定められたようです。 斎木さん、谷戸さんの語るところは目から鱗のものが多く、また、それら驚くべき主張を前提に考えると辻褄が合う私自身の仮説も少なくないのですが、両氏の説くところにはところどころ各々に齟齬も見受けられ、正当な継承者である富さんはもちろん、斉木さん谷戸さんの両氏の間でも、必ずしも同じ伝承に基づいて語っているわけでもなさそうに思えております。 しかし、最大公約数的な部分については信を置いて良さそうに思えますし、それが彼らと全く関係のない研究者の論考との照合においても整合し妥当とみなせるならば、それは真実なのであろう、と考えて良いのではないでしょうか。 サルタヒコが出雲の神、という判断は、私にとってそういった中の一つなのです。 |



