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「志波(しわ)」の語源について、少し話を引き摺らせていただきます。 1、「物のシワ―端―」説 「志波彦神社・鹽竈神社」のホームページは、「志波彦大神」が如何なる神であるかは詳らかではないとし、志波とは「物のシワ」つまり端を指す言葉、と解説しております。 2、「塩」説 享保四(1719)年に完成をみた佐久間洞厳の『奥羽観迹聞老志』は、「志波彦神」が社家や里俗に「岐神」と伝えられているとし、すなわちそれは「鹽竈神」でもあることを踏まえ、その流れで「志波志保訓相通」と記しております。 つまり、「志波(しわ)」は「塩」を指すというのです。 この説に関して、元禄八(1695)年亥六月付で、神主の加藤氏および別当の光学院、社家の永野幸太夫、阿部連治、千葉勇、遠藤忠八らの署名がある志波彦神社『社傳』の「別傳」にも同様の記述がありました。 これを洞厳が採用したのだろうか、とも思ったのですが、よくみるとこの「別傳」には「封内名蹟志〜」という記述がありましたので、その考えは捨てました。 何故なら、『封内名蹟志』は『奥羽観迹聞老志』の訂正版的性格を担って佐藤信要の手によって寛保元(1741)年に成立したとされているものだからです。 したがって志波彦神社『社傳』の「別傳」は、「元禄八年亥六月」と付されているとはいえ、後世になんらかの手が加えられたものと考えるしかありません。 ところで、この『社傳』に「社傳云、本社延喜式内ニテ、最初孝昭天皇御代勧請云々」という記述があって、孝昭天皇の御代に勧請、という部分を今回初めて意識しました。 何を隠そう「孝昭天皇」はワニ臣の祖とされる天皇です。 ※「饒速日」説 ちなみに、『封内名蹟志』の「志波彦神社」の項には、「風土記曰。志津彦神社圭田六十八束三字田所祭饒速日也。天智天皇三年。始て奉圭田を行神禮を。但し作志津彦と、津は波の草字を誤れるか」とあります。 聞老志にもある「志津彦神社」を「志波彦神社」のこととして展開しており、この記述によって「志波彦神」を「饒速日神」とする伝説があることも知ります。 3、「島」説 一方、正徳四(1714)年に没した度會延経の『神名帳考證』は、「志波」を「伊弉諾(いざなぎ)尊」が生んだ「大八州(おおやしま)國」の「島(しま)」に通じるものとし、「志波彦神社」の神は「大八州(おおやしま)の“靈”―生島(いくしま)―」であり、「活津彦根命」であり、「松島明神」であり、「柴明神」であるとしております。 度會延経は、越前國―現:福井県―の「柴神社」も同じ神であると見ております。 「柴(しば)神社」の表記から連想させられるのは「紫(むらさき)神社」です。 『奥羽観迹聞老志』や『封内名蹟志』には、「松島明神」が郷人に「紫(むらさき)明神」と呼ばれていた旨が記されており、現在も松島町高城に「紫(むらさき)神社」として祀られております。「紫(むらさき)」と「柴(しば)」の文字が酷似していることは偶然なのでしょうか。 4、「柴」説 時代が下って、明治四十(1907)年に成立をみた吉田東吾の『大日本地名辞書』などは、志波彦神社にみられる岐神、道祖神的な性格から、「にはなかの阿須波の神に小柴さし〜」といった『萬葉集』の上總國の防人の歌を引用し、小柴をさして道の往来を祝うことに因むものとし、すなわち、これも「柴」を語源としております。 「島(しま)」が訛って「しば」なのか、「柴(しば)」そのものが語源なのか、あるいは私の勘繰りどおり「シヴァ神」に由来するのか、その議論は置くにしても、たしかに、「志波」の訓みは「しば」が本来ではなかったか、と思わされる例は少なからず見受けられます。 「大崎氏」や「最上氏」の祖である奥州管領「斯波(しば)氏」の名もその一例と言えるかもしれません。 鎌倉時代、「斯波(しば)氏」の始祖である「足利家氏」は、足利本宗家から分かれ、「斯波郡」を所領としたわけですが、その末裔は、室町時代以降、所領の地名「斯波」を苗字として名乗り始めました。 斯波郡は、現在の岩手県紫波(しわ)郡から盛岡市の一部に相当しますが、その地名は「志波城」に関係するものとされております。 志波城は、「多賀城」の後継を担うべく築かれた陸奥国最大の城柵です。 「大墓公(たものきみ)―阿弖流為(あてるい)―」を投降させた征夷大将軍「坂上田村麻呂」が造営したとされております。 その名称が、北に追いやられた蝦夷が奉斎していたであろう志波神に因んでいることは疑う余地もないでしょう。 斯波氏は蝦夷の裔ではありませんが、苗字の「斯波」の元を辿れば「志波」です。 現在に生きる斯波家の末裔の方々も自らの苗字を「しば」と訓じており、それ自体、志波が古来「しば」と訓まれ続けてきた生きた証拠であると考えます。 それと類似する例ながら、東宮浜―七ヶ浜町―の「柴(しば)家」の存在はより直接的な証拠と言えるでしょう。 この柴家が先の斯波家と同系譜であるか否かはわかりませんが、『七ヶ浜町誌』によれば鹽竈神社の社家を勤めたこともある家柄であったといい、何より、志波彦神を氏神としているのです。 しかも、本来は志波姓とすべきものを、神号と姓を同じくすることをはばかり、柴姓にしたと代々言いつがれております。 東宮明神境内の「稲殿ノ崎」にある柴家の氏神「柴根明神―町誌のママ―」の祭神は志波彦神であるのだそうです。 やはり、「志波」は本来「しば」と訓まれていたのではないのでしょうか。 ※ 柴家の氏神「“柴”根明神」は、町誌の他の項、及び神社名鑑の情報からみて「“紫”根明神」、すなわち「柴(しば)」ではなく「紫(むらさき)」の誤植と思われます。重要な部分と考えているので、くどく補足を入れておきます。
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亀の備忘録
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各書庫本編を中締めした後、新たに得られた情報や発想などを、自らが忘れないように書き留めておきます。
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『奥州餘目(あまるめ)記録』―以下『餘目記録』―が伝える鹽竈の神についての記述を振り返ってみたいと思います。以前にも触れましたが、それはこんな内容でした。 ―引用― いまだ年號はじまらざる時に候。しほがまの大明神仁王十四代仲哀天皇御孫。花ぞのゝ新少将にて流人として宮城高府に下給ひて。其後歸洛し。東海道十五箇國北陸道七箇國両國御知行有て。御一期之後しほがまの明神とあらはれて。大同元年に宮城のこほりに立給ふ。當永正十一年まで七百九年に成給ふ。昔は當國諸郡に神領有。行方保にも。宇多庄にも。そとのはまに有。ぬかのぶにあり。三迫に有。黒河は不及申候。小田保に有。しかま(色麻)の保にも有。大谷保。羽生よりは七月御神事にあふ。屋代同御へい(幣)かみあがる。三迫。高泉よりは〜以下省略〜 この後、留守氏、葛西氏、伊達氏など奥州における歴代有力者の概略が書き連ねられているわけですが、ここで私が注目しているのは「東海道十五箇國北陸道七箇國両國御知行有て。御一期之後しほがまの明神とあらはれて。」という部分です。 「東海道」と「北陸道」――。 これはいわゆる「四道将軍」のうち、「武淳川別(たけぬなかわわけ)命」と、その父「大彦命」の遠征ルートに重なります。 言うなれば、秋田氏や藤崎氏など、「前九年の役」で討たれた奥六郡の酋長「安倍貞任」の子孫を自称する一族らが、公的な系図において自分たちの祖として掲げている両名の遠征ルートということです。 したがって私は、これを、鹽竈神社左宮一禰宜「安太夫家」すなわち「阿部家」の示唆と捉えて論を展開しておきました。安太夫家と奥六郡の安倍氏が同祖系譜であろうことについては度々論じているとおりです。 『餘目記録』は、胆沢郡水澤―現:岩手県奥州市―の「餘目(あまるめ)氏」に伝えられた記録です。 餘目氏とは、奥州藤原氏滅亡後、陸奥国司の代行を務める陸奥留守職に任ぜられた「留守氏―伊澤氏―」から分かれた一族です。 奥州藤原氏の時代、奥州には、在地奥州藤原政権の「平泉」と中央政権の「多賀」という二つの首都が存在していたわけですが、奥州藤原氏を滅ぼした鎌倉幕府は平泉をいわば武人の「葛西清重」に、多賀をいわば文人の「伊澤家景」に預けました。 葛西氏は、奥在地御家人の奉行、および平泉郡内検非違使所管領の重職をもって藤原秀衡・泰衡の権限を引き継ぎ、すなわち奥州における「源頼朝」の実務の代行を務めることになりました。 一方の多賀城を預けられ、陸奥留守職として国司の代行を務めることとなった伊澤氏は、その職をもって二代「家元」以降「留守氏」を名乗るようになりました。『餘目記録』はその留守氏から分かれた餘目氏によって残されたのです。 国衙を管掌することとなった留守氏は鹽竈神社の大神主として奉幣祭祀も司ることとなっており、今見た『餘目記録』の記述は、言うなれば、当時の鹽竈神社の正式な由緒と見ることも出来ます。 引用文中にもあるように、これは永正十一(1514)年に記されたもののようですが、その内容はおそらく留守氏―伊澤氏―が従前の由緒を継承し言い伝えてきたもの、すなわち奥州藤原時代にまで遡るものと推察します。 相当な権限を委任されたとはいえ、留守氏は国司の代行者にすぎず、「遠の朝廷」の守護神として伝統的に祀られてきた鹽竈神社の由緒を改ざんできる立場にはなかったことでしょう。 したがって、おそらく仙臺藩主四代伊達綱村が厳格に再調査するまでは、この『餘目記録』の内容に限りなく近いものが鹽竈神社の由緒として一応の公式なものであったのではないでしょうか。 その古い記憶が、「しほがまの大明神」について、なにやら四道将軍大彦命と武淳川別命の経歴をにおわせているわけです。もちろん、それは左宮一禰宜安太夫家阿部氏の記憶であろうかと考えているわけですが、おそらくは陸奥安倍氏の滅亡に連動して社会的に機能しなくなった安太夫家阿部氏に代わって、あるいは補佐として、平安時代中期から鹽竈神社の祭祀を担うこととなった右宮一禰宜新太夫家小野氏の記憶でもあるのかもしれません。それは、大彦命の経歴に小野氏の祖である和爾(わに)氏の経歴とみられる部分も少なからずあることなどから、もしかしたら阿部氏と小野氏の根っこは一緒であるのかもしれない、という私の想像によるものです。 そこであらためて気になってくるのは、安倍貞任の裔を自称する秋田氏や藤崎氏による「安日彦」系図です。 彼らは、先の「大彦命」に連なる系図と合わせて、自らの始祖として長髄彦の兄「安日彦」に連なる系図も添えておりました。 彼らがこのダブルスタンダードな系図になんらかの主張を忍ばせておいたことは想像に難くないことですが、どうやらそれは、大彦命の正体が長髄彦であるとする衝撃的な主張であったらしきことが、以前に触れた伯耆(ほうき)に逃れた自称陸奥安倍氏の裔の伝承によって知り得ることとなりました。さらにその家の伝承では、大彦命すなわち長髄彦が「事代主命」の系譜であるとのことでした。 そういえば、『日本書紀』において事代主命はワニに化けております。 いずれ、私はこの伯耆の伝承を信じます。 何故なら、これを認めることで、大和盆地における葛城と磯城の属性の混乱や、伊甚國なり長狭國、安房國など上総の國造や開拓者の混乱の解明にも一応の道筋が見えてくるものと思われるからです。もちろん、既に私の頭の中にはある程度の私論が形成されております。 しかし、残念ながら裏付け不足の感が否めないため、記事化についてはあきらめております。 尚、この件に関するウェブ上での情報提供やご質問についてはあらかじめお断り申し上げておきます。
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かつて、国家の宗廟たる「伊勢神宮」が何故皇居の所在した大和盆地からだいぶ離れた伊勢志摩エリアにあるのだろう、と思いながら地図を眺めていて、ふと、頭に浮かんだことがありました。 もしかしたら、当時の地理感覚では、伊勢志摩は“朝日”に最も近いエリアであったのではなかろうか・・・。 もちろん、その発想は今も尚変わっておりません。 念を押しておかなければならないのは、現在の地理感覚に縛られてはいけないということです。 つまり、精密な測量を経て製作された現在の地図を、現在の地理感覚で見てしまうと、更に“東”に尾張があり、陸地なり海岸は下総や常陸まで延々と“東”に続いているので、伊勢志摩が最も朝日に近いという感覚が生じ得ません。 まして、伊勢二見ヶ浦の夫婦岩のど真ん中から立ち昇る“夏至の日の出”の脇には、天候が良ければはるか遠くの富士山が見えたりするものですから、余計その先のはるかな陸地を意識してしまいます。 ウェブ上で、祟神天皇は最初列島最東端の鹿島を目指していたが実現出来なかった、といった旨の論説も目にしました。 その詳細な内容は当該ページにおいて確認できなかったので、いかなる論拠に基づいているのかはわかりませんが、なるほど、常陸の鹿島神宮や下総の香取神宮が、伊勢以外ではニ例しかない“神宮”を称された事実からすると、思いのほか的を射た論説なのかもしれません。 しかし、最も大切な“冬至の朝日”の方向に関していうならば、志摩半島の先には海しかありません。 仮に祟神政権が列島東端の常陸に到達出来ていたとしても、三輪山山麓の皇居からみて冬至の朝日が昇るのは伊勢志摩の方位であることには変わりありません。 したがって、結局国家の宗廟伊勢神宮は伊勢志摩の地に創建されたことであろう、と私は考えるのです。 伊勢志摩は、冬至の朝日に最も近いエリアであり、おそらくそれこそが、国家の宗廟の地として選ばれた最大の理由なのでしょう。 伊勢には、もう一つ重要な要素があります。 『続日本紀』や『延喜式』からもわかるように、伊勢は古来国内随一の丹生水銀の産地でありました。 水銀は、縄文土器や、古墳に遺骸を埋葬する際に「朱」として用いられるなど、古代人のなんらかの信仰と深く関わっていたようで、不老長寿や不老不死への呪力が備わっていたとされており、中国では古来漢方薬の原料として用いられてきたとも聞きます。 つまり、それ自体十分神懸かりな要素を備えているわけですが、ここでなにより見逃せないのは、鏡を磨くときに用いる重要な物質であったという事実です。 このことは森浩一さんが『日本神話の考古学(朝日新聞社)』で指摘していたことですが、森さんは、1975年に福岡県前原(まえばる)市の原田大六さんのご自宅で、青い錆の出た鏡の破片と、まるで銀板のような輝きをもった鏡の破片を見せられ、驚嘆したことがあったそうです。それらは同じ鏡の破片で、片方は原田さんが水銀を含む練りを鏡面に塗るという伝統技術で磨き上げたものであったようです。この破片になった鏡は、かの有名な平原(ひらばる)古墳から出土した三十九面の銅鏡のうちの超大型鏡であったとのことですが、この超大型鏡は、三種の神宝の“八咫鏡”と同種のものと推定されて、脚光を浴びました。 森さんは次のように述べております。 ――引用:前掲『日本神話の考古学』より―― 〜伊勢は丹生水銀の産出地であり、言い換えれば、実際に鏡を磨くこともできる良質の水銀を産する土地であった。もちろん生産量のうち、ごく一部が鏡磨きに使われるとしても、大和朝廷にとってもっとも重要な鏡を安置する土地としては、鏡の維持に必要な物質を産出する土地がのぞましいのである。このことは些細なことではあるけれども、伊勢が天照大神を祀るべき土地として重要視された一つの理由に加えてよかろう。 森さんは「些細なこと」などとやや自重気味に語っておりますが、私は大変重要な要素であろうと思いますし、あらためて森さんの慧眼には恐れ入ります。
より進化した技術を要する鉄製の鏡は長年空気に触れるとにヒビが入りやすいといい、古い技術ながらも銅製の鏡の方が寿命が長いことから、私は、古代人は銅に不老長寿の呪力のようなものを感じていたのではあるまいか、と想像したのですが、同様に、水銀が古墳に用いられたり、実際に不老長寿の薬として用いられたのは、やはり、鏡をいつまでも美しく維持できる性質に由来したのではなかろうか、と想像せざるを得ないのです。 思えば、拙ブログ開設第一号の記事で紀州和歌浦の鹽竈神社をとりあげた際、私はその鹽竈神社の元社を古来祓所としていた玉津島神社の祭神「丹生明神―丹生都比売命―」についても若干触れました。 その際、この女神について高野山の地主神として触れたわけですが、丹生水銀が鏡、ひいては太陽信仰に重大な役割があったのだとすれば、『日本書記』の神武東征において、名草戸畔(なくさとべ)に続いて丹敷戸畔(にしきとべ)なる女酋長を誅した神武軍が神の毒気にあたった一連の顛末の示唆するところもあらためて考えさせられますし、平安時代の弘法大師空海が何を思ってこの地に壮大な精舎を開いたのか、また、この女神と信仰氏族が大和朝廷の黎明にもなんらかの大きな存在感を示していたと想像するに難くなく、なにやら違う次元の世界を覗きこんでしまったような感覚になっております。 早々に稿を起こす予定はありませんが、八咫鏡と同系と考えられる超大型銅鏡を出土した平原古墳、それを副葬品とした被葬者が盟主であろうと推定される古代の伊都国、これら九州筑紫の勢力が、大和や吉備とどのように関わっていたのか、はたまた出雲や越とはどうであったのか、しばらくは頭の中が想像で渋滞しそうです。 |
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神鏡が天照大神の代わりである由来は、神話世界における天照大神自身の発言に求められるわけですが、今さらながら、これが実によく太陽信仰の風景を物語っていたことに気づきます。 度々私は、母子神信仰や日光感精神話は、太陽信仰の形として自然発生しやすい普遍的なものであっただろう旨を語っておきました。 つまり、王家の始祖や信仰の宗祖など、なんらかの聖人の出生に関して、太陽から生まれた子であったとしてカリスマ化されやすく、その延長上に、その聖人の生物学的な母親を孕ませたのは太陽であった、すなわち聖なる処女が日光に感精して妊娠した、といった説話が展開されやすかったことであろう、ということです。 このことによって、聖人の生物学的な父親が忘れ去られていく運命であることもひとつの特徴であったと推察します。 その前提を意識すると、神鏡が何故天照大神―太陽―の代わりになり得るのかの理解が進みます。 先にとりあげたマチュピチュ遺跡の冬至祭の秘儀を振り返ってみます。 「マチュピチュ遺跡」の「インティ・ライミ」―冬至祭―では、神座に横たわる「アクヤク―ナ」―選ばれた太陽の処女―が、「ママクーナ」―より高位の太陽の処女―によって女陰を掻爬器で開かれ、凹面鏡で反射させた冬至の朝日を差し入れられるという秘儀があったのだそうです――大和岩雄さん著『神と人の古代学(大和書房)』より――。 これを異国の話と切り捨てるなかれ、三輪山に昇る冬至の朝日を遥拝する場所に鏡作り工人に関連する「鏡作坐天照御魂神社」が鎮座していたことは決して偶然ではないでしょう。 弥生時代の日本にはじめて入ってきた鏡は「多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)」であったと言います。 中国鏡が平面鏡あるいはやや凸面の鏡とされているのに対し、これは凹面鏡であるようなので、朝鮮系の鏡とされておりますが、少なくとも顔を写す用途に適していなかったことは言うまでもありません。 この鏡の用い方について、興味深い推測があります。 ――引用:前掲『神と人の古代学』―― 考古学者の小林行雄は、祭りの日に巫女が榊の枝に多鈕細文鏡をとりつけてあらわれ、祭りの場に集まった人たちに向って凹面鏡で日光を反射させたと推測する。強烈な光の照射に人々は目を閉じるが、網膜には太陽の残像が残り、不思議な経験に、「人々は、巫女が太陽を自由にするほどの呪力をそなえていることを、確信したにちがいない」と書き、多鈕細文鏡は太陽祭祀に用いられたとみている。 天照大神が宝鏡を自らの代わりとする神話の起源は、こういった古代の太陽信仰と鏡の因果関係の中にあるとみて間違いないでしょう。 八咫鏡が太陽を造形したものであることを明記している史料もあります。それは、斎部広成(いんべひろなり)が平城天皇の求めに応じ、あわよくば斎部家の復権をかけて撰述した『古語拾遺』です。 ――引用:青木紀元さん監修中村幸弘さん遠藤和夫さん共著【『古語拾遺』を読む】より―― 〜思兼(おもひかね)の神、深く思ひ遠く慮りて、議りて曰はく、「太玉の神をして諸部の神を率て、和幣を造らしむべし。仍りて石凝姥(いしこりどめ)の神〔天糠戸の命の子、作鏡が遠祖なり。〕をして天の香山の銅を取りて、日の像(ひのかた)の鏡を鋳しむ。 〜中略〜 初度に鋳たる〔是、紀伊の国の日前の神なり。〕は、少かに意に合はず。次度に鋳たる〔是、伊勢の大神なり。〕は、其の状麗し。 これをまたしても森浩一さんに解説していただきましょう。 ――引用:『日本神話の考古学(朝日文庫)』―― 〜鏡作りの遠祖であるイシコリトメが天香山の銅を採って日の像を鋳たとき、初めに鋳たのはできが意に合わず、これが紀伊国の日前神であり、次に鋳たものはその状(かたち)が美麗で、これが伊勢大神だとしている。日前宮(和歌山市)の問題はここで省くが、斎部(忌部)氏の伝承では、八咫鏡が日像つまり太陽を造形したものであることと、材料が銅であることがわかる。鉄鏡は長年空気に触れると表面にヒビが入りやすく、八咫鏡は今日まで伝世されたとすれば、銅鏡とみてよかろう。 先に鋳られて出来の悪かった方が日前神という衝撃的な伝承が気になりますが、おそらく、カグヤマに絡めて私が注目しているところのお約束パターン、海幸彦・山幸彦に代表される愚かな兄と賢い弟の構図でしょう。 あらためて日前神の立ち位置も気になってまいりますが、森さん同様通過させていただき、ここでは、鏡が太陽を造形したものであることさえ論証されれば、それで良しと致します。 なにより、カグヤマのカグは銅の意とも言われているわけですが、何故銅が神聖視されたのかという理由もここにありそうに思えております。 |
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神鏡について、私の頭を整理する意味で、しばし備忘録的に書き連ねていきたいと思います。 20年くらい前になりますでしょうか、神棚を眺めていて、真ん中に置いてある丸い鏡にはどういう意味があるのだろう、と思い、さらりと調べたことがありました。 さらりと言っても、まだインターネットという単語すら耳にしたこともない時代でしたので今ほど容易ではなかったはずですが、なんらかの本の中にそれらしき解答を見い出し、雑学の一つとして自分の知の財産に加えておいたような記憶があります。 おそらく、当時図書館にまでは出向いていなかったと思うので、どこか大きな書店で立ち読みでもしたのでしょう。本のタイトルや途中の経過は忘れてしまいましたが、得られた知識だけは辛うじて覚えております。 それは、ある本によれば、「太陽を意味する」とのこと。 また、他のある本によれば「神が自分自身の内面にあることを意味する」とのことでした。 当時は会社の先輩から、やれ偏屈親父、やれ唯物論者、などとののしられていた私でしたので、各々の説を真摯に受けとめ、特に「自分自身の内面説」については、全ては自分の気の持ち方次第なのだ、などと解釈しておきました。・・・いやなるほど、我ながらいかにも唯物論者的な解釈です。 いずれ、なんだかんだと太陽云々の方が本来的な由来なのだろう、とは思っておりました。天照大神は太陽の神とされているわけですから、その鏡が「太陽を表現している」ことは至極自然です。 ちなみに、ウィキペディアには次のようにありました。 ―引用― 〜神鏡を置く理由は諸説あり、神は鏡のようにあるがままを見通すものであるとか、あるいは鏡のように見る人によって違って見えるものであるから、そのつもりで神の前に立てという意味であるという説や、自らの中にある神性と向き合えという意味であるとする説、あるいは鏡は太陽の光を反射するように、神の光を映すものであるとする説、などがある。 太陽信仰への知識を貯蓄中の私が今あらためて思うに、この中で最も真相に近いのは、やはり最後の「鏡は太陽の光を反射するように、神の光を映すものであるとする説」ではないでしょうか。 なにしろ、その起源らしきことが『日本書記』に記されてあります。 それは「一書に曰く」として、天孫ニニギの生まれる直前の天照大神の発言の中にあります。 天照大神は、自分の代わりに葦原中ツ国(あしはらなかつくに)に降臨する子「天忍穂耳(あめのおしほみみ)」に宝鏡を渡しながら、次のように宣(のたま)われております。 「吾が子、此の宝鏡を視(み)まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床は同じく殿を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし――『日本書記(岩波書店)』訓み下し文――」 つまり、天照大神は、葦原中ツ国―≒俗世―においては“鏡”を天照自身の代わりとして寝所を共にして慎み祀りなさいと命じていたのです。 これは、いわゆる「三種の神宝―神器―」のひとつ、「八咫鏡(やたのかがみ)」の由来と思われます。 以降、代々の天皇は天忍穂耳以来の相伝を守り、自らの住居―皇居―においてそれを保管し、祀り続けていたようです。 しかし、10代祟神天皇の御代からやや事情が変わりました。 そのあたり、先日お亡くなりになられた偉大な考古学者森浩一さんに語っていただきましょう。 「〜代々天皇とは“同床共殿”つまり同じ住居に保管され、伝世してきた。けれども、ハツクニシラススメラノミコト(祟神天皇)のときに別の場所に安置するようになり、その次に即位した垂仁天皇の時代に、伊勢に祀るようになったという。このとき、天照大神、直接的には八咫鏡を祀るべき土地を求めて、近江、美濃を経て伊勢に至る旅をしたのがヤマトヒメ(垂仁天皇の子、倭姫)であり、斎宮を五十鈴川の川上に建てたという――『日本神話の考古学(朝日文庫)』より――」 言うまでもなく、これは伊勢神宮の起源の説話でもあります。 |




