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平安遷都に関して、一般的(?)な「鳴くよ(794)ウグイス平安京」よりも、私が中学校で覚えさせられた「泣くよ(794)坊さん平安京」の方が“完成度が高い”ことについてはかつても触れたと記憶しております。この遷都の持つ意味は、“奈良勢力との決別”であり、その奈良勢力の最たるものは、「藤原南家」であり、「南都六宗」でありました。したがって、たしかにこの遷都で“坊さんは泣いた”のです。 しかし、桓武崩御と共に、彼らにも復活のチャンスが訪れました。その救世主がおそらく平城上皇であったのでしょうが、それを嵯峨天皇が上皇諸共に叩きつぶしたようです。 比叡山延暦寺を任された新鋭の僧「最澄」の存在は、桓武の意を受けて躍進した典型的な例とも言えるでしょう。唐に渡って最先端の仏法を極め、「論」と化しつつあった「南都六宗」や、既得権の巣窟と化した「僧綱(そうごう)」を否定することが、彼のひとつの役割でもありました。もちろん、彼自身に政争のつもりはなく、おそらく彼自身の仏法における“正義”が、結果的に桓武の意を汲む形になっていたのでしょう。 そのような最澄の正義を象徴するかの“ある改革”が、延暦寺において施行され、それが徐々にスタンダードなものとなっていった例があります。 それは“俗別当”です。 「俗別当」とは、その言葉どおり、俗人すなわち出家していない者が担う別当――寺院統括責任者――のことです。 これについて岡野浩二さんの論考『延暦寺俗別当と天台座主』から補足しておきます。 ――引用―― 〜最澄は『顕戒論』において僧綱の存在自体を否定し、唐では功徳使が仏事を掌っていることをあげており、俗別当はその功徳使に倣うものと考えられる。 この主張は僧綱の反対にあい容易には実現されなかったが、弘仁十三年六月、最澄の没後に藤原冬嗣・良峯安世・藤原三守・大伴国道らによってあらためて嵯峨天皇に奏上され、ようやく允許されるところとなった。 ついでに、ウィキペディアには次のようにあります。 ――引用―― 最澄が弘仁9年(818年)に朝廷に献上した『山家学生式』の中に盗賊や戒律違反を防ぐため、延暦寺に公卿の俗別当の設置を求め、5年後の弘仁14年3月3日(823年4月17日)に藤原三守と大伴国道が延暦寺の俗別当に任ぜられた。承和6年(739年:ママ)には東寺にも設置され、以後東大寺・興福寺・法隆寺・金剛峯寺・西大寺などに公卿の俗別当が設置された。時代が下ると、地域の有力者が地元の寺院の俗別当を務める事例も登場した。 ここにある承和6年(739年)は誤りです。単なるタイプミスでしょうが、承和六年は西暦“839年”です。 また、「俗別当がいつ採用されたのか」を読みとる際、岡野さんの論考に弘仁十三年六月云々、ウィキペディアに弘仁十四年云々とあり、このままでは混乱するので、少し整理しておきます。 岡野さんの弘仁十三年六月云々は、あくまでそのすぐ後の「最澄の没」にかかる日付です。最澄は弘仁十三年六月四日に没しております。したがって、俗別当が具体的に実現されたのは、ウィキペディアが記す「弘仁十四年」と考えていいでしょう。 弘仁十四(823)年といえば、四月十六日に嵯峨天皇が皇太弟「大伴親王――淳和天皇――」に譲位しております。なにか、嵯峨帝の政策のギアが一段階上がった感があります。 その年の十月十日に、「東寺」は嵯峨帝――厳密には大上皇か――によって空海に下賜されたわけですが、俗別当に切り替わった延暦寺とはまるで対照的です。 おそらく嵯峨帝は、僧綱を否定する俗別当の理念には賛成だったはずです。だからこそ、今上天皇としての治世を締めくくるように最澄の言上を受け入れたのでしょう。もしかしたら、それを最澄の遺言と受け止めた故に実現させたのかもしれません。いずれ少なからず嵯峨の理念には合致していたものと想像します。 にもかかわらず、何故俗人ではない空海をこの時期に東寺の別当に据えたのでしょうか。私は次のように推察します。 まず、最澄は死の前日――弘仁十三年六月三日――、次のような言上をして許可されております。 ――引用:森田悌さん全現代語訳『日本後記(講談社)』―― 仏陀が定めた僧呂の守るべき戒律は一様ではなく、衆生が菩提心を起こすに至る契機にも大乗と小乗の違いがあります。伏して、天台法華宗に割り当てられている年分度者二人(大同元年正月卯条)は、比叡山において毎年春三月の桓武天皇の国忌の日(三月十七日)に、天台の菩薩戒により得度受戒させ、十二年間比叡山を出ることを許さず四種三昧(常坐・常行・半行半坐・非行非坐の四種三昧からなる)を行い修行させるようにしたいと思います。これにより、大乗戒が定着して永く日本国に伝わり僧呂が山林で修行して遥かのちの世まで弘まるようにしたいと思います。 上言が許可された。 この時点ではまだ最澄の望む「俗別当」の制度は、僧綱の反対によって受け入れられておりません。したがって、私はこれを最澄の“あてつけ”とみております。 最澄は翌日に亡くなりましたので、嵯峨の心にも何か苦いものが残ったのではないでしょうか。だからこそ、この後ほどなくして延暦寺における「俗別当」の人事が実現したのだと思います。 そもそも、最澄が何故それを主張したのかといえば、他でもない僧にあるまじき行いや「戒律違反」を戒めるためで、もっと言えば、南都六宗の僧綱に対する責めの意味を含んでいたのでしょう。だからこそ死の間際にありながら、相変わらず自分の主張を受け入れない宮廷権力に対し、まるであてつけのように、あえて自分の分身とも言える延暦寺への“戒”の厳格化を言上したのではないでしょうか。 嵯峨はそれを受け入れました。 ただ嵯峨は、「俗別当」の目的が「戒律違反への戒め」であるならば、空海に限っては“まるであてはまらない”と考えたのではないでしょうか。その思いを表現するパフォーマンスとして、あえて空海を東寺の別当に据えたのではないでしょうか。 ところで、延暦寺の俗別当として、「藤原三守」と「大伴国道」の名が挙がっておりました。この大伴国道、実は、延暦四(785)年の「藤原種継暗殺事件」の際に主犯格にされた大伴継人の子で、この父親の有罪判決に縁座して延暦二十四(805)年までの実に20年もの長きにわたって佐渡に流されていたのです。 しかし、国道の才覚は類稀なレベルであったようで、配流中にもかかわらず佐渡の国守から国務の相談を受け、その判断までも仰がれていたようです。 やがて死の間際の桓武が、連座していた者らの罪について生死を問わず許し、元の地位に復させたので、弘仁年間には既に何事もなかったようにその才覚を発揮していたようです。 『延暦寺建立縁起』によれば、彼は、最澄が死の前日にまで言上するほど渇望していた「大乗戒壇」設立の動きにおいて、最も中心的な役割を果たしていたようです。『伴善男(吉川弘文館)』の著者佐伯有清さんは、「最澄の教義を十分に理解し、最澄に生前親しく接していなくては、そのような行為は、とうてい考えられないだろう」としておりますが、なるほどそう思います。 このように、おそらくは生前の最澄の良き理解者でもあっただろう国道は、一方で平安京の東西両寺の講堂建設にも関わっており、『東寺講堂図録』は「東西寺検校」として彼の名を記しております。おそらくこの時の東寺との縁によって、国道は空海とも親交が深まったと考えられます。あの空海が並々ならぬ感情をこの国道に寄せていたことは、彼が国道に送った書状によって知られております。 ちなみに、後に「応天門の変」で失脚する「伴善男」は、この国道の五男であるとされております。 |
荘園の功罪
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荘園の功罪は日本という国のかたちを象徴するものであったと考えております。その時代についての私自身の知識をあらためて整理しておきます。
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「嵯峨天皇は東大寺から空海を取り上げようとしていたのではないか」、と勝手な想像を披露しておきました。 ただ、嵯峨天皇が空海に東寺を下賜したのは弘仁十四(823)年、すなわち、「弘仁式――弘仁十一(820)年――」編纂の3年後、「薬子の変――弘仁元(810)年――」の13年後のことであり、ずいぶんとタイムラグがあります。そこでその前段のことにも軽く触れておこうと思います。 唐から帰った空海は、入京まもない頃、「高雄山寺」に住んでいたと伝えられております。それは大同四(809)年からのことのようです――高雄山寺神護寺HP沿革史――。つまり「薬子の変」の前年から、ということになります。 この寺は、かの「宇佐八幡神託事件」において「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」の躍進に“待った”をかけた、「和気清麻呂(わけのきよまろ)」の一族、すなわち「和気(わけ)氏」の“私寺”です。 和気氏は、道鏡の失脚以降、その功もあってかそれなりの栄達を得ておりました。 ただ、色合いとしては藤原四家に関わって宮廷権力の座を争う類のものではなく、儒学や医学といった学術肌を志向しておりました。 そのような和気氏の私寺に住するあたり、空海自身、あるいは空海の取り巻きによる計らいなのか、空海という“ダイヤモンドの原石”を藤原四家の政争から遠ざけようとするなんらかの動きがあった、と想像出来なくもありません。深入りは避けますが、とにかく空海はここに住しながら、弘仁元(810)年――おそらく大同五(810)年――、勅により東大寺の別当を兼任させられることになります。この年は先にも触れたとおり、「薬子の変」があった年で、平城上皇が実権を喪失し、世情ががらりと変わる年でもありました。 ここにアンバランスな二極政治が崩壊し、いよいよ嵯峨帝の剛腕が本領を発揮し始めるわけですが、そんな嵯峨は、空海を大変気に入りました。それは必ずしも国家鎮護上の必要性からばかりではありません。むしろその延長上にある嗜好性としての感情が強かった面もあります。言うまでもなく、嵯峨は、空海、橘逸勢(たちばなのはやなり)と共に“三筆”と並び称される日本書道史上の達人でもあります。いずれも同じ時代を生きた三人なわけですが――橘逸勢は「承和の変」で失脚――、この唐風な文化の流れを最前線で引っ張っていたのは空海に他なりません。嵯峨が“私”においても空海に夢中になるのは当然でしょう。 「真言宗乙訓寺(おとくにでら)」の公式ホームページによりますと、空海は弘仁二(811)年十一月九日、嵯峨天皇によって乙訓寺の別当に任ぜられているようです。しかも同ホームページには、「嵯峨天皇は大師の新しい法に期待され、乙訓寺を鎮護国家の道場として整備された」とあり、目的はやはり東大寺のそれと同じ国家の鎮護であったことがわかります。 つまり空海は、高雄山寺に住しながらも、勅によって東大寺の別当を兼任させられた翌年に、すぐさま東大寺と競合する「国家の鎮護」の目的で整備される他の寺の別当を任せられたということです。東寺のそれより前にも、既に同様の動きがあったということになります。 ただ当の空海は、この人事を喜ばず、ものの一年で嵯峨に辞意を表明し、高雄山寺に戻ってしまいました。 乙訓寺は、早良親王が憤死した寺としても有名ですが、空海は怨霊化した早良への鎮めを期待されたとも言われております。もちろん空海ほどの高僧がそれを忌み嫌って逃げるはずがなく、単に高雄山寺にて取り組んでいた本分の密教の形が中途半端になっていることを懸念していたものと思われます。 一方、司馬遼太郎さんは乙訓寺の人事を、早良親王の鎮魂目的とは別に、空海との交流を密にしたい嵯峨の個人的都合の一面についても想像しておりました。つまり、嵯峨は、高雄山寺よりもフットワークのよい乙訓寺に、自らの嗜好性を満足させんが為に空海を呼び寄せたかったのではないか、ということです。 ここでひとつの事を思い出しておきます。桓武の御代に早良親王の祟りが取り沙汰されて以降、怨霊に対する恐怖心がますます強まっている世論の中で、嵯峨は、「世間では、物怪が出現するたびに亡者の霊の祟りだとしているが、はなはだ謂れのないことである」と戒めておりました――『続日本後紀』――。これは、必ずしも嵯峨の性根が怨霊を恐れなかったということではなく――恐れる気持ちがあればこそ空海の呪法に頼った――、おそらく、早良親王の祟りを理由に発言力を増していた陰陽師ら呪術的な一派の政治への介入を牽制していたのでしょう。もっと言えば、その分野は新鋭の最澄と空海に任せることにした、いえ、ひょっとしたら空海一人に独占させようとしていたのかもしれません。 いずれにしても、嵯峨の中で空海という一個の人間は、国家を鎮護するための唯一無二の武器そのものであり、もはや東大寺にその功を期待するつもりも、その分野を任せるつもりもなかったことは疑う余地もないでしょう。私は東大寺の力を削ごうとする“より積極的な意志”があったに違いない、と考えております。 嵯峨の政策には、とにかく「皇親政治」に限りなく近い政治体制への邁進(まいしん)を感じます。その方向性においては、歴史の教訓上、特に南都六宗や藤原南家・式家の台頭は常に牽制しておく必要があったはずです。 事実、嵯峨はその推測を確信させるような“極めつけの手”を打っております。彼は、中央政権を自分の血縁に染める動きに出たのです。 嵯峨は、多数の妻妾を娶って五十人にも及ぶ子女を設けていたのですが、母親の身分が低い者を、まとめて皇族の身分から臣籍に降下させ、彼らに新たな姓を賜い、臣下として積極的に採用しました。つまり、意図的に藤原四家ら政府高官のライバルを創出していったのです。その彼らの子孫は後の日本を大きく変えることになります。 この新鋭の系譜に与えられた姓は「源(みなもと)」です。 嵯峨は「源氏」を創出したのです。 |
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藤原四家は、「伊予親王の変」で南家が衰退し、「薬子の変」で式家が衰退し、弘仁年間に入った段階では北家が一人勝ち状態になっておりました。とはいえ、この時代はまだ桓武政権来の天皇親政が続いており、特に、嵯峨天皇はやすやすと臣下に政治を牛耳られるようなタマではなかったようです。 私見では、「薬子の変」とは、桓武帝崩御を受けて活路を見い出そうとした南都六宗勢力の野心を、嵯峨帝が未然に阻止したものではなかったか、と想像しております。その際、平城上皇と薬子はある意味「噛ませ犬」にされたのでしょうが、彼らを噛ませ犬にしたのが南都六宗側であったか、嵯峨帝であったか、あるいは北家冬嗣のアイデアであったのか、それはわかりません。私はいずれも疑わしいと感じております。 史上指折りの剛腕桓武帝の崩御は、いろいろな意味で新しい時代の幕開けになったと思われます。特に南都六宗など旧勢力全般は、我先にと新帝の平城帝に接近したのではないでしょうか。桓武帝の晩年は、軍事や遷都のツケが回ってきて財政が疲弊しておりました。平城帝としては新しい律令を制定して、それなりに精力的に諸問題の解決を図ろうとしていたのだと思います。そこで、復活を目論む新旧の勢力は各々その新しい律令に活路を見い出そうとしていたのではないか、と想像します。『古語拾遺』における「若当此造式之年、不制彼望祑之礼、竊恐、後之見今、猶今之見古矣」という斎部広成の言葉からもそれが窺えます。これを拙くも意訳するならば、「律令制定のこの年に祭祀も正しく制定しておかなければ、将来再び誤ってしまうだろう。それを秘かに懸念している――だから古語拾遺を編んだのだ――」といったところでしょうか。忌部氏もここに復権の希望を賭けていたのでしょう。 この忌部氏にしても、桓武に棄てられた平城京の旧勢力にしても、桓武崩御、新帝即位、新律令の制定、とめまぐるしく政策が給排気される時勢にあって、ただのほほんと構えていたらそれこそ復権の道が閉ざされてしまいます。大同年間は、何かを仕掛けるには絶好のタイミングであったはずです。もちろん、南都六宗が何かを仕掛けた旨の記述は正史上特に見当たりません。しかし、かつて絶大な権力をふるっていた勢力がここで何もしていなかったとは思えません。おそらく水面下では平城帝を囲い込もうと各々が画策していたのではないかと想像します。 ここで、私はある一つの事に注目します。それは、「弘法大師空海」が、弘仁元(810)年「勅」によって「東大寺」の別当に任ぜられていることです。 「勅アッテ、東大寺ニ移ル。弘仁元年」:『東大寺別当次第』 「弘仁元年、当時別当ニ補ス。勅ニ依ッテ西室第一僧坊ヲ賜フ。寺務、四箇年」:『東大寺縁起』 「勅ニ依リ、東大寺ニ渡リ、南院(真言院)ヲ建立ス:『御遺告』 《いずれも司馬遼太郎さん著『空海の風景(中央公論新社)』より》 この「勅」がこの年の何月のことであったのかまではわからないようですが、それによって意味はだいぶ変わってきます。仮に弘仁元(810)年の九月以前であれば、それは改元前、すなわち「大同五(810)年」の事であり、「薬子の変」よりも前の話になり、九月以降であれば、そのまま「弘仁元(810)年」の事であり、「薬子の変」よりも後の話になるからです。
『日本後紀』によれば、前年末、大同四(809)年十二月四日、平城上皇は水路木津川を下り、双船に乗って平城旧京に行幸しております。まだ宮殿も完成していなかったので故右大臣中臣朝臣清麻呂の邸宅に入ったとあります。もちろん薬子も一緒でしょう。以降、大同五(810)年、すなわち弘仁元(810)年の彼らは平城京にいたのだとわかります。ということは、その間の平城京は、平安京と並び立つ首都であったということです。したがって、平城京旧勢力筆頭の東大寺の立場も九月以前と以降ではまるで異っていたはずで、空海への東大寺別当の「勅」が意味するところもだいぶ異なってくると考えるのです。 つまり、私はこの「勅」が誰によってなされたものかが気になるのです。嵯峨帝なのか、平城上皇なのか・・・。 常識で考えれば、「勅」は天皇以外に用いない表現であり、時の天皇はあくまで嵯峨なので、この「勅」も嵯峨によるものと捉えるべきです。 しかし、この時期、嵯峨帝は平城上皇の政策に表面上従い続けております。私は、ひょっとしたらこの「勅」は、「薬子の変」以前の大同五(810)年に平城上皇から出されたものではなかったか、とみているのです。世に数多ある文献史料を眺めても、上皇の出した命令――本来なら「院宣」――を「勅」と表現している例は決して珍しくもありません。『東大寺別当次第』や『東大寺縁起』にその月日の記載がないのは、「勅」の出どころを曖昧にしておきたい意図のあらわれではないのでしょうか。 なにより、その勅は、空海という一僧呂よりも、むしろ東大寺側にメリットがありました。 先帝桓武は、唐に渡って本格的な天台宗を会得して帰った伝教大師最澄を重んじておりました。東大寺をはじめとする南都六宗側はその最澄にさんざん煮え湯を飲まされましたが、空海はその脅威を十分以上に迎え撃てる逸材なのです。 最澄の実力は決して空海に劣るものではないはずなのですが、なにしろ朝廷が最大限歓喜して受け入れた最澄の業は、皮肉にも彼が人生を賭けるべく会得してきた天台の教えではなく、片手間に拾ってきたに過ぎない「密教」でありました。これは空海の帰国によって相対化され、その価値が大暴落しました。なにしろ空海は密教を完全に極めて唐から帰ってきました。それによって最澄は、元々限定を尽くした感のない自分の片手間の密教が、やはりほんの断片に過ぎないものであったことを思い知らされていたのです。最澄は人生最大とも言うべき赤っ恥をかいたばかりか、実直な性格上、空海に対して罪悪感に近い負い目まで感じていたのです。 『大師御行状集記』には、空海が別当になったことによってそれまで東大寺の僧を刺し殺していた大きな蜂が出なくなった、という旨の伝説が記されているようです。この大きな蜂は紛れもなく最澄を指したものでしょう。 余談ですが、前にも触れたとおり、私の検討では、「任那(みまな)」あるいは「秦氏」の本性は「蜂」で表されます。したがってこの伝説は気になります。最澄は、後漢「献帝」――孝献帝――に連なる「登萬貴王(とまきおう)」の裔とされておりますが、実際には秦氏に近い血筋であったか、あるいは、少なくとも東大寺側からは秦氏系譜と思われていたのではないのでしょうか。 いずれ、空海を東大寺の別当に据える勅は、東大寺が平城上皇に請うたことによって実現したものではなかったか、と私は想像しているのです。 やがて「薬子の変」以降、剛腕ぶりが開花したかのような嵯峨帝は、東大寺から空海を取上げようとしたかに思えます。それを東大寺が受け入れたか否かは別として、嵯峨による「東寺」の扱いにそれを感じるのです。 東寺は、桓武の政策によって平安京の正門たる羅城門の東西に建立された寺――東寺と西寺――の片肺です。東寺・西寺の両寺院は、首都の左京右京を鎮護する寺であるばかりか、東国、西国を守護する国家鎮護の寺の意味合いを持っておりました。これは総国分寺たる東大寺の役割と競合します。おそらく、国家鎮護の役割はここに刷新されたのだ、という強い牽制の意味もあったことでしょう。 嵯峨はその東寺を、空海にくれてやったのです。 |
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「薬子の変」に先立つ平城天皇の御世の政変として、「伊予親王の変」があります。大同二年十月二十八日、『古語拾遺』編纂から約七カ月後に事件は始まります。『日本後紀』でその顛末をみてみましょう。 ――引用:森田悌さん全現代語訳『日本後紀(講談社)』―― (十月)辛巳(二十八日) 蔭子藤原宗成が中務卿三品伊予親王に秘かに謀反の企てを勧め、大納言藤原雄友がこの計画を耳にして右大臣藤原内麻呂に告げた。ここにおいて親王は急遽宗成が自分に謀反を勧めたとの状を奏上した。そこでただちに宗成を左近衛府に収監した。 〜中略〜 癸未(三十日) 藤原宗成を左衛士府に留置し、謀反について取り調べたところ、宗成は「謀反の首謀者は伊予親王です」と言った。そこで左近衛中将安倍兄雄と左近衛督巨勢野足を遣わして、兵士百四十人を率い、親王の邸を包囲した。 十一月乙酉(二日) 大嘗祭をとり止めることにした。伊予親王の謀反のためである。 伊予親王と母夫人藤原吉子を川原寺へ移して一室に幽閉し、飲食を断った。 甲午(十一日) 天皇が詔り(略)を宣示し、謀反人ら(伊予親王謀反事件)を解任し、また親王を廃号したことを、柏原山稜(桓武天皇)へ報告した。 乙未(十二日) 伊予親王母子が毒を仰いで死去した。当時の人々は哀れなことと思った。 丙申(十三日) 正月七日・十六日の節会を停止することとした。 藤原宗成らを配流とした。 この変事に対して、ウェブ百科事典の『ウィキペディア』は次のように記しております。 ――引用―― 桓武天皇の皇子である伊予親王は父桓武の生前深い寵愛を受けており、また、母吉子の兄藤原雄友は大納言として右大臣藤原内麻呂に次ぐ台閣の No.2の位置にあり、政治的にも有力な地位にあった。実際に、平城朝においても、大同元年から中務卿兼大宰帥を務めて、皇族の重鎮となっていた。兄の平城天皇とも良好な関係を保っており、大同2年5月には、神泉苑に行幸した兄について献物を行い、終日宴会にも参加している。 ところが同年10月に藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという情報を藤原雄友が察知し、これを右大臣藤原内麻呂に報告する。一方、伊予親王も宗成に唆された経緯を平城天皇に報告する。そこで朝廷が宗成を尋問した所、宗成は伊予親王こそ首謀者だと自白した。この自白を聞いた平城天皇は安倍兄雄・巨勢野足に命じて、藤原吉子・伊予親王母子を逮捕し川原寺に幽閉した。二人は身の潔白を主張したが聞き入れられず、11月12日にそろって毒を飲んで心中したという。後に二人の無罪が認められ、墓は山陵とされた。 この事件で宗成は流刑となり、伊予親王の伯父藤原雄友も連座して伊予国に流された。また、この事件のあおりを受けて中納言藤原乙叡が解任された。この事件により大官が2人も罰せられた藤原南家の勢力が大幅に後退した。 なお、宗成は藤原仲成・薬子兄妹に唆されたともいわれているが、詳細は不明。但し、この事件以降平城天皇と仲成・薬子との結びつきはさらに強固なものとなったらしく、尚侍であった薬子の昇進を考慮して、事件の直後に尚侍の官位相当が従五位から従三位に引き上げられた。 頭を整理するため、ここに登場する藤原四家の人物を家別に列記しておきます。 【南家】雄友・乙叡 【北家】内麻呂 【式家】宗成・《仲成・薬子》 さて、仲成や薬子への悪評がどうあれ、結果からみると、南家が最大の打撃を受け、一方この中で弘仁年間まで生き残るのは北家の内麻呂だけです。その子孫、すなわち冬嗣、良房は、いわゆる摂関家を構築していきます。
もちろん、まだ桓武政権来の天皇親政の色合いが濃い時代ですので、さほどに藤原氏の政治力が強かったとは思いませんが、後の摂関家の狡猾な陰謀の数々をみれば、この事件の構図にも北家内麻呂によるそれなりの謀略を疑えそうです。 一般には、仲成と薬子が「伊予親王の変」のフィクサーとして語られております。しかし管見の史料上で彼らが事件に関与したとする記述は特にありません。もちろん、記述がなかったから事実がない、という理屈にはなりませんが、彼らを悪しざまに吊るし上げている『日本後紀』にすら関与の記述がないことは無視出来ません。勝者ならまだしも、彼らは紛れもなく敗者です。もし彼らにわずかでも疑惑があるなら、『日本後紀』は鬼の首を獲ったようにこの変事の罪をなすりつけているはずです。私はこの事件の真相を次のように想像します。 伊予親王と平城天皇は良好な関係であったので、親王は弟として、薬子に溺れる兄を心配し、そのような胸中を母や宗成にこぼしていたのかもしれません。それを知った親王の伯父、大納言の南家雄友は、前々から天皇の母系系譜として政治力を振るう式家を良かれと思っていなかったでしょうから、「宗成が親王に謀反をそそのかしている」として上席にあたる右大臣の北家内麻呂に讒言したのでしょう。 讒言を受けた内麻呂も式家に良い印象を抱いていたはずがなく、ここぞチャンスとばかりに話を大きくして扱ったのではないでしょうか。 それにしても雄友は浅はかであったと言う他はありません。まさか伊予親王にまで罪状が及ぶとは考えていなかったのでしょう。伊予親王の母「藤原吉子」は南家の女であり、したがって伊予親王は南家と皇室を結びつける重要な絆であったわけですが、この嫌疑を苦に母子共々自殺をし、大納言の雄友自身や同じ南家の中納言の乙叡までが失脚し、南家そのものが衰退していくのです。 一方、私の想像が妥当ならば、突如謀反の嫌疑をかけられた式家宗成が尋問に対し正直に事情を話せたかどうかは微妙です。伊予親王もまたしかりでしょう。なにしろ内容が平城天皇と薬子の不倫関係への懸念だけに、仮に彼らがそのまま白状したとしても平城天皇の怒りは避けられなかったことでしょう。どのみち兄を心配する伊予親王の気持ちは、「謀反の企て」、すなわち「謀反の首謀者は伊予親王」ということにすり替わらざるを得なかったのではないでしょうか。 少なくとも、私はこの事件の黒幕が仲成・薬子の兄妹だとは思えません。ウィキペディアには、「この事件以降平城天皇と仲成・薬子との結びつきはさらに強固なものとなったらしく」とありますが、少なくとも薬子と平城天皇との結びつきは、天皇の少年時代から“濃厚過ぎる”ほどのものであり、また、薬子が平城天皇の心を捕えている分には、兄の仲成との結び付きも並行して維持されていたはずです。したがって、「この事件以降結び付きが強まった」とみることには違和感があります。 また、繰り返しになりますが、彼らを悪奸扱いしている『日本後紀』ですら彼らと「伊予親王の変」への関与については触れておりません。私には、仲成・薬子黒幕説は、彼らの悪のイメージから生まれたものに思えるのです。 もしかしたらこの事変には全体を画策したプロデューサーがいなかったのかもしれません。単純に平城天皇の発作的な怒りがもたらした不幸であったのかもしれません。それでもあえて黒幕を探すならば、私はやはり一人勝ちとなった北家の内麻呂を疑います。 もちろん、だからと言って仲成・薬子の式家兄妹が善良だったとは限りません。 しかし、内麻呂やその子冬嗣が、少なからず式家兄妹の悪評を最大限利用して自家の隆盛を謀った部分はあるだろうと私は考えております。 |
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忌部(いんべ)氏によって編まれた『古語拾遺(こごしゅうい)』――。 その成立がいつなのか、最も古い写本――嘉禄本:嘉禄元(1225)年二月二十三日卜部兼直書写――の巻尾の日付ですら既に混乱があります。「大同元(806)年二月十三日」なのか「大同二(807)年二月十三日」なのか、あるいはそのいずれでもないのかが判然としません。 とは言ったものの、実は少なくとも大同元年でないことだけは明確に推断出来るのです。 それは、編者「斎部広成(いんべのひろなり)」の所感に「方今、聖運初啓」「宝暦維新」とあるからです。これは、「平城天皇の即位」と「大同への改元」への賛辞です。 『日本後紀』は、平城天皇の即位に伴う「大同」への改元を“五月辛巳日”――五月十八日――と記しているので、同年の「二月十三日」はまだ改元前の「延暦二十五年」であり、もっと言うと、先帝桓武天皇崩御――三月十七日――よりも前なのです。したがって、仮に西暦806年二月十三日に『古語拾遺』が仕上がっていたとするならば、広成は同書上で「平城天皇の即位」や「大同への改元」を賛辞出来た筈がないのです。このことから、少なくとも「大同元(806)年二月十三日」の校了はあり得ないと断言できるのです。 『日本後紀』は、大同元(806)年八月十日のこととして、中臣氏と忌部氏が各々宮廷祭祀における自らの正統性を主張しあった訴訟と、それに対する裁断の勅について触れております。ここにおいて、中臣氏の陰に埋没していた忌部氏は神代以来の由緒ある「幣帛使」として平城天皇から堂々と認められました。これは忌部氏の勝訴と言ってもいいものです。 今触れたように大同元年説が成り立たないとすれば、他に写本上具体的日付が明記されているのは大同二(807)年二月十三日だけですから、これが正しいと考えてほぼ間違いないでしょう。つまり忌部氏に有利な勅裁が下った半年後ということになります。序文に「幸蒙召問、欲攄蓄憤」と明記されているように、斎部広成は平城天皇の召問を受け、これ幸いと蓄積された憤りをぶつけんばかりに『古語拾遺』を編纂したことになります。 こういった感情が露骨に表現されているためか、斯界一般的に、『古語拾遺』は忌部氏の「愁訴状」とみており、私もそれを長く支持してきました。しかし、よくよく考えると、『古語拾遺(岩波書店)』校注の西宮一民さんが指摘するように、「愁訴状」と位置づけるにはその顛末に不自然な部分があります。何故なら、既に忌部氏は先の訴訟でさしあたり有利な判決を得ており、それまでの斜陽一辺倒から一転してその権威を認められているからです。100%の満足ではなかったのかもしれませんが、このように有利に事が運んだにもかかわらず、尚も鬱憤晴らしの書によって“愁訴”するということは、勅裁への不満、ひいては天皇への侮辱とも判断されかねません。したがって、これを単に「愁訴状」とみることは不自然であり、私もあらためてそれに便乗するところなのです。 では、何故『古語拾遺』は編まれたのか、また、何故桓武天皇崩御と前後するこの時期に、中臣氏や忌部氏が自らの正統性を主張し合っていたのか。 その答えを探る鍵が、今触れたばかりの一節に含まれております。 「幸蒙召問」 そうです、斎部広成は、「平城天皇の召問」を受けたから『古語拾遺』を編纂したのです。とすれば、その「召問」は平城天皇のどのような趣旨に基づいたものだったのかが気になります。実はこれも『古語拾遺』の中でさらりと触れられております。 「若当此造式之年」 すなわちこの年は、後の「弘仁式」や「延喜式」のような、「式」――律令の施行細則――が作成される年であったようなのです。 先の西宮一民さんは、徳田浄さんの『古語拾遺に就いて(国学院雑誌三三の一:原始国文学考所収:目黒書店)』を参照して、「造式」のための「召問」であるに違いないとした上で、次のように推測しております。 ――引用:『古語拾遺(岩波書店)』―― 平城天皇がそれぞれ専門の氏族や部署の代表者に「造式」の意図をお漏らしになったのを、斎部広成はわがことの幸いとして受止め、祭祀の式典の根源的な事柄を記そうとし、翌大同二年二月十三日に本書は成ったとすると、時間的に言っても自然な考えとなる。 なるほど、全く異論はありません。
大同四(809)年、平城天皇は病弱を理由に在位わずか三年で弟――神野親王:嵯峨天皇――に皇位を譲り、翌年弘仁元(810)年には 「薬子の変」で失脚したので、「造式」には至らなかったようですが、結局、彼を失脚させた弟の嵯峨天皇が弘仁十一(820)年に「弘仁式」を制定しております。 実は、藤原四家の相克をあれこれ考えているうちに、私はこの平城天皇の「造式」の意志も「薬子の変」発端の一因だったのではないか、と疑い始めております。正史上、平城天皇――上皇――は藤原式家の薬子(くすこ)との情愛に溺れ、彼女にそそのかされて平城京への遷都を決行し、身を破滅したことになっておりますが、なにしろ先帝である上皇が、正規軍を率いた今上天皇に討伐されるという前代未聞の大政変です。これを魔性の女にたぶらかされた上皇のご乱心といった週刊誌もどきのスキャンダルのみに原因を求めてよいものでしょうか。これまでも度々触れたように、私はそもそもその定説に違和感を抱いているのです。 平城天皇は何故中臣氏の主張を退けてまで忌部氏を宮廷祭祀上に復権させたのでしょうか。それは「承和の変」があった承和九(842)年における猛禽類を祀る社や忌部氏が奉斎する社の神階昇叙にも何某かの因果があるのではないでしょうか。 なにしろ、「承和の変」「応天門の変」を経て絶対的権勢を確立する「藤原北家」の台頭は、嵯峨天皇の命令系統を一手に引き受けた蔵人頭、北家「藤原冬嗣」の活躍、すなわち式家を逆転した「薬子の変」から始まっているのです。 |



