はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

荘園の功罪

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荘園の功罪は日本という国のかたちを象徴するものであったと考えております。その時代についての私自身の知識をあらためて整理しておきます。
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 称徳天皇は、年号を改めた天平神護元(765)年三月五日に次のようなことを勅しております。

――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より――
 三月五日、天皇は次のように勅した。
 今聞くところによると、墾田は天平十五年の格(きゃく:墾田永年私財の法)によって任意に開墾者の私有財産とし、三世一身法で定められた三代までという所有の期限を区切ることなく、みな永久に収公されないことになった。このため天下の人々は競って田を開発するようになり、勢力のある人々の間では、人々を追いたてるように開墾に使役し、貧しく困窮している人々は自活する暇もない程である。そこで今後は一切開墾を禁止し、これ以上墾田の開発をさせてはならない。ただし寺院がすでに土地を占定して開墾を進めているものはこの限りでない。また、その土地の人民が一ないし二町を開墾するのはこれを許す。
〜中略〜
また、次のように詔した(宣命体)
 天下の政治は天皇の勅によって行われるものであるのに、人々が自分の欲するままに、皇太子をえらび立てようと思って、功を求め望むべきではない。
 そもそも、この皇太子の位は、天が定めおかれ、お授けになるものである。それ故に朕も、天地が明らかに霊妙な徴候をもって、皇太子の位をお授けになる人が出現するものと思っている。それまで今しばらくの間は明るく清らかな心をもって、人に誘われたり、人を誘ったりすることなく、それぞれがしっかりした明るく清らかな心をもって仕え奉れと仰せられることばをみな承れと申しつげる。
 ある人は淡路におられる人(淳仁廃帝)を連れてきて、再び帝として立て、天下を治めさせたいと思っている人もあるらしい。けれどもその人は天地が良いと認めて位をお授けになった人ではない。どうしてそれが分るかというと、志が愚かで心根が善くなく、天下を治める器量が足りない。それのみか悪逆な仲末呂(仲麻呂)と心を同じくして、朝廷を動揺させ傾けようと謀った人物だからである。どうしてこの人をまた立てようなどと思おうか。今後はこのようなことを思い謀ることをやめよ、と仰せられる天皇のお言葉をみな承れと申しつげる。

 長々と引用しましたが、藤原仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇を廃帝に追いこんでまで天皇に返り咲いた称徳天皇が、「墾田永年私財の法」と「藤原仲麻呂――恵美押勝――」についてどのように考えていたのかがよく表れております。
 それにしても、この称徳天皇の詔勅を目にして思うのは、彼女は中国的な儒教の思想の持ち主であるということです。つまり、皇太子――次代の天皇――は天皇家の血統云々ではなく、天が器量のある人物を選ぶ、と考えていたことがわかります。このとき彼女の頭に既に「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)」という具体的な人物像があっただろうことは否めないにしても、思想の根本にこの儒教的精神があってこその着想であり、宇佐八幡神託事件も起こるべくして起こったと言えるでしょう。
 何よりこの称徳天皇の詔勅によって、彼女がなんのために天皇の座に返り咲いたのかがはっきりとわかります。それは、荘園拡大の問題点と隣り合わせにある藤原仲麻呂の野望を粉砕するためであったのでしょう。そればかりか、道鏡を天皇に迎え入れることによって、自分に流れる天孫族と藤原氏の血統、並びにその血脈だけが天皇になれるという不文律のルールにも終止符を打とうとしていたのでしょう。
 しかし、彼女は志半ばにして病によって崩御します。いえ、崩御前後の周辺環境の不自然さからして、おそらく暗殺であったのでしょう。
 そして、彼女の強権によって芽をつぶされた過剰な荘園拡大でしたが、『続日本紀』は、宝亀三(772)年四月七日の道鏡死去報告の半年後となる十月十四日の条に、次のようなことを記録しております。

――引用:宇治谷孟さん全現代語訳『続日本紀(講談社)』より――
 十月十四日、これより先、天平宝字五年三月十日の格では、特別に諸国の郡司の少領以上の嫡子は、官司に出仕することを許すとあり、また天平神護元年には、すでに開墾した田地を除く他は、新たに国の田を開墾することを禁断した。しかし、ここに至って、此の制度を共に廃止した(墾田永年私財法を復活させた)。

 つまり、称徳天皇の崩御、並びに道鏡の死去の報告を待って、「墾田永年私財の法」すなわち“荘園拡大の道”が復活されたのです。何故復活されたのかの釈明も特にありません。おそらく藤原氏や大寺院の圧力であったのでしょう

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 『広辞苑(岩波書店)』を引くと、「荘園(しょうえん)」について次のようにあります。

――引用――
【荘園・庄園】�平安時代より室町時代にかけての貴族・寺社の私的な領有地。奈良時代に墾田などを起源として出現したが、平安時代には地方豪族の寄進による立荘が盛んとなり、全国的に拡大、不輸不入権も認められるに至った。鎌倉幕府の守護地頭制によって漸次武家に侵略され、南北朝の動乱以後、急速に衰退に向かい、豊臣秀吉の時、太閤検地によって最終的に廃止された。荘。
〜以下省略〜

 補足すると、「奈良時代に墾田などを起源として出現した」ものは、「墾田地系荘園」、平安時代以降「地方豪族の寄進による立荘が盛んとなり、全国的に拡大、不輸不入権も認められるに至った」ものは、「寄進地系荘園」と表現され、区別されます。
 これを、土地制度論の立場では、前者を「初期荘園」、後者についてはさらに分類され、官物などを免除された田を「免田系荘園」、領域型荘園を「寄進型荘園」あるいは「寄進地系荘園」などと表現されるようです――『日本史広辞典(山川出版社)』参照――。
 特に注目すべきなのは、後者の「免田系荘園」や「寄進地系荘園」の類です。これらが初期の墾田地系荘園と根本的に違うのは、「不輸の権」すなわち“課税対象外”であったということです。
 結論から言えば、このような“免税地”が増大しすぎてしまったがため、税収が激減し、首都も荒廃し、また、戸籍や計帳によって国民を把握する方法も頓挫し、平安時代末期には国家の体が破綻しかけていたのです。
 少し噛み砕いてこれらの成立の経緯などを眺めていきます。
 大和朝廷のはじまりは連合国家の体であったと思われるわけですが、連合国家ということはいくつかのクニの集合体ということです。その中で中心的存在となっていくクニを仮に「ヤマト」としておきますが――それが卑弥呼(ひみこ)の邪馬台国(やまたいこく)か否かはさておき――、そのヤマトを含め、各々のクニには、各々の王がおりました。
 ヤマト連合国家の成立以前、その連合国家の盟主として君臨していたのは「大国主神」率いる「出雲(いずも)」であったと思われます。今でも私たちは10月を「神無月(かんなづき)」と呼びますが、それは、すべての神が出雲に出向くため諸国が留守になることに因んでいるのは有名な話です。そして、それに伴い出雲地方だけは10月を「神有月(かみありづき)」と呼ぶ、ということも、併せてよく知られた話です。神々が出雲に集まるのは、善男善女からの切実な縁結び祈願に対して協議し決裁をするためなどとも聞いたことがありますが、協議内容はともかく、これは、神代における出雲神族を盟主とした同盟国サミットの名残なのでしょう。
 さて、その盟主の座をヤマトが継承しました。これを正史では「国譲り」と呼んでおります。しかし、『日本書紀』などを見る限り、ヤマトの使者であるタケミカヅチが剣を突き立てて大国主に国を譲るか否かを迫っての継承劇なので、その実は革命ないし侵略なのでしょう。
 いずれ、出雲から国を譲られたヤマトでは、その王家であっただろう「天照大神」の孫「瓊瓊杵(ににぎ)尊」の子孫が代々「大王(おおきみ)――天皇――」となり、新たに大和朝廷の体が形成されていくことになります。したがって、当初の大和朝廷の傘下のクニには各々の領土と政権があったはずです。しかし祟神天皇や雄略天皇などの剛腕天皇の活躍などで大和朝廷の求心力が強まり、その権限はヤマトに集約されていきます。さらに諸国に朝廷直轄の「屯倉(みやけ)――稲米の貯蔵倉――」を普及させ、より直接的な物納税収の効率を図った「蘇我氏」の台頭などにより、中央集権化が促進されました。「仏教推進派」対「神道護持派」の宗教戦争と言われる「蘇我」対「物部」の抗争――祟仏戦争――は、その実「中央集権推進派」対「地方分権護持派」であったと私は考えているのですが、なにしろ蘇我氏の勝利と台頭によって、半独立していた有力氏族たちは著しく権勢を剥奪されていきました。蘇我氏はさぞや恨まれたことでしょう。
 さて、その蘇我氏も滅ぼされました。義務教育で暗記させられた645年の「大化の改新」という革命は、天皇を軽んじ君臣の秩序をないがしろにしていた暴虐の蘇我氏を滅ぼして成立したというものですが、天下国家の求心力を高めた蘇我氏が、私利私欲ばかりで君臣の秩序をないがしろにしていたとも思えませんし、「改新」とは言うものの、「中大兄皇子――天智天皇――」や「中臣鎌足――藤原鎌足――」が蘇我氏の布いた政策を大きく改革していたようにも思えないので、それこそ私利私欲のために蘇我氏の立場と功績を簒奪しただけの事変であったと理解しておくべきでしょう。
 とにかく「公地公民」の色合いは「大化の改新」を経ていよいよ強まりました。諸説あるものの、おおまかな流れとして、「国土も国民も大和朝廷の直轄財産である」という概念が強まっていったのです。そこでそれを前提にした「班田収受(はんでんしゅうじゅ)の法」も確立することになります。これは、国家の民に一定の基準で公地――口分田(くぶんでん)――を授け、それを耕作させて国家が直接税収を得るというものです。尚、この農地の所有権はあくまで国に帰属するので、耕作者が死亡すれば当然に国に返還されます。
 しかし、法が浸透するほどに対象人口も増え続け、口分田用地の需要も増します。となると、既に開墾された農地の面積には物理的な限りがあり、開墾を奨励する必要性が生じてきます。
 そこで、時の太政官のトップであった長屋王によって実施されたのが「三世一身(さんぜいっしん)の法」――養老七(723)年――です。
 これは、新たな灌漑用水路を切り開いて開墾した者は、本人・子・孫の三代に限って個人所有を認める、というものです。これによって、一生懸命開墾すれば可愛い子や孫にまで安寧に土地を継承できるので、俄然意欲も湧いてくるだろうと目論まれたのでした。
 ところが、この法はわずか20年の運用で欠陥があると判断されました。
 『続日本紀』に記録された聖武天皇の詔(みことのり)によれば、せっかく開墾した土地も、三代の期限が満了して国家からの口分田の形に戻った後、農夫が怠けて投げやりになって荒れてしまう、ということなのです。
 そこで聖武天皇は“期限”を撤廃し、永遠に所有出来るように法を改めました。それが「墾田永年私財(こんでんえいねんしざい)の法」――天平十五(743)年――です。
 ちなみに『逆説の日本史(小学館)』の井沢元彦さんは、この聖武天皇の詔をいぶかしんでおります。開墾者の孫の代が死んだ後の世代の怠惰が、前法施行後わずか20年しか経ていない段階で社会問題化していたとはとうてい考えにくいからです。それ故に井沢さんは、これを“「永代所有」を認める法律を通すための「言いわけ」”と推断しておりました。
 井沢さんは聖武天皇を藤原氏出身の光明皇后の尻に敷かれたロボット天皇と捉えており、この詔にもその背後にいる黒幕の意図が反映されていると考えるのが常識であるとしております。黒幕とは「藤原氏の勢力拡張を第一に考えていた光明皇后と、その腹心である藤原仲麻呂」とのことです。聖武天皇がそこまで軟弱であったかといえば、私は必ずしもそう思わないのですが、それでも井沢さんの説は核をついていると思っております。確かに、たったの20年では多くの農夫はまだ孫の世代にすらなっていなかったことでしょうし、また、仲麻呂の時代に始まったもう一つの制度「公廨稲(くげとう)」などは実にえげつない公然の税収横領制度です。後に藤原氏がフル活用するエキスがこれらの政策にたっぷり詰まっているのです。この公廨稲について、井沢さんは次のように説明しております。

――引用:井沢元彦さん著『逆説の日本史(小学館)』より――
 これはどういう制度かといえば、簡単に言えば不作等の理由で納めるべき年貢に不足が生じないよう、あらかじめ年貢の一部を積み立てておき不足をそこから充当するというものである。
 こう言うと、いかにも結構な制度のようだが、これには大きなウラがある。まずその積み立て分の年貢に対する比率が大き過ぎるのである。しかも、ここが肝心だが、もしその積み立て分が余ればそれは国司・郡司らの収入になるのである。
 つまり、ここにおいて国家の税収を、役人が堂々と懐に入れる制度が出来てしまったということだ。
 この公廨稲と永年私財法が結局「公地公民」を基盤とした律令制を崩壊させることになる。

 ふと、江戸期に仙台藩祖伊達政宗が実施した「買米制度」を思い出しました。ただしそれは、年貢米徴収後の余剰米を江戸への流通用に藩が“前金”で強制的に買い付けする制度であり、基本的には逆の発想です。しかも収穫の不安定に悩む農民からも歓迎されていたもののようなので、同列に論じては“おらが殿様”に失礼過ぎますでしょうか・・・。
 それはともかく、免税地ではない初期荘園であっても既にこのような理不尽な搾取が行われていたことがわかります。それを知らずともそもそも構造的に懸念すべき部分がありました。なにしろ自力で水路を切り開くなどの大規模土木工事を伴う開墾作業は、一般農民が容易に成し得るものではないからです。それを出来るのは、結局は十分な資本力で大量の人工(にんく)を動員できる大寺院や貴族に限られてくるということになります。大寺院とはやはり東大寺や興福寺で、貴族とは言うまでもなく藤原氏ということになりましょうか。

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 しかし、この流れを問題視して具体的に行動した英傑がおりました。称徳天皇です。彼女は二度目の即位後ほどなくして開墾に対する禁令を勅し、同時に仲麻呂を名指しで批難するのです。

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軍事と遷都のツケ

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 『日本後紀』によれば、桓武天皇の晩年、参議の「藤原朝臣緒嗣(おつぐ)――式家:百川の子、旅子の兄妹――」が同じく参議の「菅野朝臣真道(まみち)」との議論において「軍事と造作が天下を苦しめている」と問題提起しております。桓武はそれを認めて、その政策を改めることになります。「軍事」とは蝦夷の征伐で、「造作」とは平安京の造営です。
 前に私は、桓武天皇を次のように評しました

 「桓武天皇は、ある意味で自分が歴史の中にいることを強く認識していた改革者なのかもしれないのですが、一方で、自らが無実の罪で死に追いやった早良親王の祟りをはじめとするあらゆる厄災に怯え続けた陰気な側面も併せ持っていたようです。」

 怯え続けた側面については『日本後紀』を読めばはっきりわかることですが、「自分が歴史の中にいることを強く認識していた」ことが何故わかるのかというと、桓武の事績をよく伝えている『続日本紀』が、六国史の中で唯一“今上天皇の歴史”を記したものだからです。このあたり、坂本太郎さんは次のように語っております。

――引用:『六国史(吉川弘文館)』――
この紀は今上天皇みずからの治世を国史の中に加えたものであることにおいて、特殊な意義をもっている。それは天皇が己れの治世に対する強い自信を示したものということができよう。桓武天皇が奈良期の旧体制を否定して、花々しい新政を展開したことは、人の知る所であるが、その新政の足跡を国史の中に残すことを、少しでもみずからの目で確かめたかったのではあるまいか。

 おそらくそのとおりでしょう。司馬遼太郎さんの表現を借りれば、桓武は英雄的所業を好み、事業好きということになります――『空海の風景(中央公論新社)』――が、この気質がかなり国家財政をひっ迫させていたようです。そういった意味では、次代の平城天皇は、桓武崩御に伴う自らの即位と同時に、桓武政策の後始末をしなければならないのは必然であったと言えるでしょう。したがって、そのイデオロギーとは別次元の命題として父桓武の政策を否定する必要があったことは間違いないでしょう。私は、そこに「薬子の乱(変)」の黒幕に付け入られる隙があったものと想像します。
 この政変で平城上皇を失脚させた嵯峨天皇の右腕は「藤原冬嗣――北家――」でありました。彼は、「巨勢野足(こせののたり)」とともに、「蔵人頭(くろうどのとう)」という新設の職務に抜擢されております。このあたり、司馬遼太郎さんは前述書で次のように語っております。

――引用:『空海の風景(中央公論新社)』――
 日本の律令制度とは唐のまねであったとはいえ、重大な一点で唐の政治体制と異なっていたのは、唐には日本のような太政官がないことであった。太政官は行政の最高機関であり、八つの省と諸寮司を統(す)べている。具体的には太政官の政務は左大臣がとり、左大臣が欠けているときは右大臣がとる(太政官は最高官であるとはいえつねに存在している官ではない)。
 唐ではそうではなかった。太政官にあたる機能は専制者である皇帝自身であった。皇帝に専制権がある以上、太政官の必要がなかった。日本では奈良期、平安初期は天皇の権力は中国にまねて強くはあったが、しかし多分に君臨者であって実務的な政治上の決定と指揮は太政官がおこなっていた。
 嵯峨は、この太政官をこの場合、無視した。そのことが嵯峨の機敏さにつながっている。平城がいま現天皇と京の朝廷を凌ごうとしているのに対し、嵯峨はみずから軽快な指揮をとる必要があり、太政官という役割を通してやれば機密も洩れやすく、実務化においても鈍重であるということで、唐制にはない蔵人(くろうど)という天皇直属の役職を創設した。蔵人はつねに天皇の身辺にあって機密文書をあつかい、機密に参画した。この意味においては平城の政治的志向が唐制へのよりつよい接近であったかとおもわれるが、これに対し嵯峨は蔵人をおくことによってむしろ唐制と遠ざかって制度を日本化する結果を生んだ。

 この時代を考える上で大変重要なポイントが凝縮されていると考えたので、少し長めに引用させていただきました。
 つまり、この「蔵人」の実質的な長の一人が藤原冬嗣であったのです。名目上の長は「蔵人別当」と呼ばれ大臣が兼任していたようですが、天皇側近の秘書たる職務の性質上、権力増大の要素はその実務にこそ秘められていたように思われます。だからこそ藤原冬嗣をしての「蔵人頭」が、あたかも共産党政権の書記長のように実質上の最高権力者へと成長し得たのです。これが彼をして「北家隆盛の立役者」と呼ばれる所以です。
 嵯峨天皇が名実ともに最高権力者となった弘仁元(810)年、すなわち大同五(810)年の元旦、大変重要な朝賀――元朝恒例の皇太子以下文武百官による天皇拝礼――が廃されざるを得ませんでした。嵯峨天皇の病気のためです。司馬遼太郎さんは「それでも嵯峨の政策や政略に遅滞がなかったのは、この蔵人所(くろうどどころ)という新規の直属機関がよく機能したことと、その頭(とう)である冬嗣の能力によるものかと思える」としております。
 「薬子の乱(変)」は、奈良期以降続いて来た藤原四家の相克最終章開始のスイッチを押し、つまり北家が式家を逆転するきっかけとなったわけですが、このとき陰で大活躍していたのが他でもない北家の藤原冬嗣であったわけです。私が彼をこの政変の黒幕候補最有力として疑う所以です。
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 いずれ、桓武天皇や平城上皇の「君側の奸」的な扱いとされた式家藤原種継系譜が滅び、代わりに北家から冬嗣そして良房といったいわゆる摂関家を確立していくような優秀な政治家が出現したのだから、桓武の負の遺産も徐々に解消され、民の暮らしもさぞや好転していくのだろう、と思いきや、実はこれが全くその気配もなく、むしろ悪化の一途をたどっていくのです。平安時代というと、政治にしても文化にしても一見雅やかでのんびりとした印象があり、切迫した不景気要素などあまり感じられませんが、実は雅やかなのは政権中枢だけなのです。
 つまり、平安期を通じて天下の民を苦しめていたのは、桓武による「軍事と造営」の借金だけではなかったということです。実はもっと根本的な要因がありました。それは、「荘園制度」です。

藤原薬子は黒幕か?

 桓武の崩御後、皇太子であった「安殿(あて)親王」は順当に即位しました。つまり「平城(へいぜい)天皇」です。彼は、即位しても尚「藤原薬子(くすこ)」に心を奪われたままでした。それは具体的な人事にも表れております。彼は薬子との関係において目触りな東宮大夫「藤原縄主」――薬子の夫――を大宰府に追放し、あらためて薬子を自らの閨の帷(とばり)の内に招き入れるのでした。「帷云々は下衆の勘繰りではないか」と言われるかもしれませんが、これも『日本後記』に「尚侍從三位藤原朝臣藥子常侍帷房」とあります。
 前にも触れておりますが、正史上の「薬子の乱(変)」のあらましを簡単にふりかえっておきます。この変事は、病弱が政務に差しさわりがあるとして即位後わずか三年で同母弟――嵯峨天皇――に皇位を譲ったはずの平城上皇が、帷の内の薬子にたぶらかされて独自の政令を発し始めたことで勃発しました。いよいよ極まった平城上皇の越権行為は、ついには京(みやこ)を平城京に復す詔を発するまでに至り、さすがに我慢ならなくなった嵯峨天皇は、今上天皇の権限をもって薬子を宮中から追放し、彼女の官位も一切剥奪しました。これに激昂した平城上皇は挙兵し、さらに屈強な兵を募ろうとでもしたのか東国に向かいました。しかし先を読んでいた嵯峨天皇は、迅速に英雄「坂上田村麻呂」を派遣してこれを阻止します。勝ち目のなくなった平城上皇はそのまま平城京に戻ると剃髮し、仏門に入りました。一方薬子は服毒自殺を図るのでした。
 前に私は、「平城天皇の“マヌケぶり”と藤原薬子の“悪女ぶり”が、あまりに際だち過ぎて、どうにも受け入れがたい感情がある」としておきましたが、平城上皇と薬子は一体何をしたかったのでしょうか。それを考える材料として、私は平城天皇――上皇――による次の二つの事績に注目します。そこに彼らの主張があるはずだからです。
 まず一つ目、平城天皇は『続日本紀』にて削除されていた「藤原種継殺害事件」の記述を復活させております。ちなみに、その部分は後に嵯峨天皇によって再び削除されております。したがって、私たちが現在目にする『続日本紀』は、種継殺害事件の重要ななんらかの記述が隠蔽されたものということになります。
 『続日本紀』の種継殺害事件記事の復活について、ウィキペディアは「これは薬子が藤原種継の娘であったこともあるが、早良親王廃太子と自分(平城天皇)の皇位継承の正当性を示す目的があったとされている」としておりました。
 さて、どうでしょう。
 実は『日本紀略』と呼ばれる謎の“六国史ダイジェスト版”にはその部分の記述が抜粋されております。したがって私たちは奇跡的にその部分を知ることが出来るのです。
 この『日本紀略』は、六国史――律令国家編纂の正史『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』――の抜粋と、それ以降の後一条天皇――長元九(1036)年――までの歴史を記録しており、平安時代に成立したと考えられておりますが、編者は不明で、誰が何の目的でまとめたものなのかはよくわかりません。
 ただ、少なくとも後一条天皇時代から200年以上も昔、『続日本紀』の記事削除以前の姿を伝え知っているわけですから、並の人物ではないはずです。おそらく天皇家か、『続日本紀』の編纂に深く携わっていた摂関家の誰かと考えるのが穏当なのでしょうか。私は、東大寺に臣籍降下した皇族の流れを組む人物ではなかろうかと勘繰っております。
 この稿を起こすにあたり、私はあらためて『続日本紀』の当該部分を読み直してみたのですが、実は早良親王が淡路島への配流途中に絶食して憤死した旨の記述は見当たりませんでした。
 もちろん早良親王が祟ったことについては、例えば『日本後紀』の延暦十一年条に「卜之祟道天皇為祟」とありますし、続けて「遣諸陵頭調使王等於淡路国、奉謝其霊」などと謝罪したことまでが明記されているので、まず間違いはないのですが、驚くことに配流と自殺の描写については特に書かれていなかったのです。いつのまにか私は、なんの疑いもなくその件も正史に書かれている情報だと勘違いしていたわけです。
 では何故早良親王が絶食して憤死したことがわかるのでしょう。それは『日本紀略』の『続日本紀』抜粋部分にありました。

「朝廷傾奉。早良王為君謀。〜中略〜 太子不自飲食。積十餘日。遺宮内卿石川恒守等。駕船移送淡路。比至高瀬橋頭。己絶。載屍至淡路。葬云々。」

 この記述を復活させた平城天皇の意図は如何なるところにあるのでしょう。この早良親王の凄惨な自殺のくだりが、ウィキペディアの説くごとく早良親王の廃太子を正当であったと主張する上で、はたしてどれだけふさわしいものでしょうか。私にはむしろ逆効果に見えます。
 また、上皇になってからの豹変はともかく、さっさと譲位してしまう平城天皇が、その三年の在位中に、はたして亡き父桓武の事績を覆してまで自分の皇位継承の正当性を主張したかったものでしょうか・・・どうにもしっくりいきません。
 次に二つ目、先にも触れましたが、平城上皇はその諡(おくりな)のとおり平城京への遷都を図っております。平城京の遷都が成るためには、南都六宗との融和は必須です。これはどういうことでしょう。平安遷都反対派と思われる早良親王廃太子の正当性を主張しておいて、自分が平城京に復す遷都を決行するとはいかがなものか・・・。
 いずれにせよ、これらは前代の桓武天皇に対する全否定と言わざるを得ません。彼らは桓武政権に恨みでもあったのでしょうか。
 確かに薬子からすれば恨む理由はあります。なにしろ彼女は桓武によって宮中から追放されております。また、『続日本紀』の種継殺害事件記述の復活についても、父親殺害の真相が国家的陰謀によって闇に葬られかけている状態を許せなかった故かもしれません。
 しかし、薬子を黒幕として疑うには致命的な疑問が残ります。何故なら、これらの政策は桓武を否定するだけでなく、薬子の父種継の意志に反するものでもあるからです。そもそも種継は遷都推進派の筆頭であったが故に事件に巻き込まれたのです。
 仮に薬子が平城上皇をたぶらかしたのだとすれば、その影には兄「藤原仲成」の陰謀があったと考えるのが自然なわけですが、その場合、彼らの最大の目的は、自分達兄妹、すなわち藤原種継系譜の復権でしょう。だとすれば、父種継の最大の功績“脱平城京”は自分達の根本を貫く存在意義でもあったはずで、私には、仲成や薬子が、父親の政敵「南都六宗」と率先して手を結んだなどということは考えられません。少なくとも「平城京への遷都」を単純なピロートークの延長のごとく矮小化するのはとても解せないのです。
 何を言いたいのかというと、平城京遷都の背後で囁いていたのは薬子ではなく、むしろ桓武崩御をチャンスとみた「南都六宗勢力」、あるいはその動きを牽制しておきたい「嵯峨天皇」の自作自演、あるいは北家隆盛の立役者「藤原冬嗣」あたりであって、薬子のごときはこれだけの政変をプロデュースするほどの女傑ではなかったのではないか、ということです。
 たしかに平城上皇が薬子にぞっこんだったのは、あらためて帷の内に招き入れた一連の人事采配からしても間違いなかったでしょう。そして薬子に男を惑わす魔力があったこともおそらく事実でしょう。薬子はその好色な印象を利用されて、全ての罪を着せられてしまったのではないでしょうか。
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 早良親王の祟りと考えられたもののひとつに、安殿(あて)親王――平城天皇――の病弱があります。なにしろ、早良親王の廃太子で代わりに立太子されたのがこの安殿親王です。彼は、仮に早良親王が祟るとした場合の筆頭対象者であった――と考えられた――と言えます。そんな悩める安殿親王の病苦をよほど丁寧に看てあげたのか、彼の心をわしづかみにした女性がおりました。殺害された藤原種継の娘「薬子(くすこ)」です。彼女自身には夫もおり、一般の宮女というわけでもなかったのでしょうが、愛娘を宮女として差し出した縁からか自身も東宮宣旨――東宮の高級女官――の名の下に皇太子に近づくようになりました。そして、いつしか娘を差し置いて彼女自身が皇太子の閨(ねや)の伽(とぎ)をするようになっていたのです。
 薬子はよほど妖艶な女であったようで、安殿親王との禁じられた私通を続ける上で、東宮大夫――皇太子の世話役――「藤原葛野麻呂(かどのまろ)――北家――」が障害になると判断したのかその煩悩にも狙いを定め、これも見事に籠絡してしまいました。まさに“魔性の女”です。ただし、後にあらためて私見を述べますが、これは正史上の薬子像です。
 ちなみに、ウィキペディアで「藤原葛野麻呂」を引くと、この不倫関係については全く触れられておりません。書き込み者の解釈では根も葉もない嘘という判断なのでしょうか。ただ、正史『日本後記』に「又中納言藤原朝臣葛野麻呂〈波〉。惡行之首藤原藥子〈加〉姻媾之中〈奈禮波〉重罪有〈倍志〉」とあるわけですから、藤原葛野麻呂なる人物を解説する上でこれをまるっきり無視するわけにはいかないでしょう。しいてあげれば、ウィキペディア――書き込み者――は、このくだりについて「薬子と縁戚関係であったが罪は問われず〜」という形で片づけたようです。「姻媾之中」を、「縁戚」と解釈したのでしょうが、残念ながら、私はこれに賛同出来ません。まず、「媾」の文字が示唆する意味です。この文字は「媾曳き――逢い引き――」にも用いられるように、“男女のあれこれ”を示唆する漢字と考えるからです。少なくとも中国語では「婚姻」や「性交」を意味します。葛野麻呂と薬子が夫婦ではないことはあきらかなので、「婚姻」はあり得ません。また、仮に葛野麻呂が北家にもかかわらず式家の薬子と縁戚の咎で罪状が及んだ――及びかけた――のであれば、他の藤原一族全員にも及ばなくてはならないはずです。しかしそのような動きは見られません。ここはやはり“私通”と解釈すべきと考えます。
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 さて、これら不倫三角関係に対する桓武天皇の笑える処断は前にも触れたとおりですが、桓武は東宮から薬子を外し、葛野麻呂については大宰府に送り、その翌年、新たな東宮大夫として薬子の夫、中納言「藤原縄主――式家・藏下麿系――」を抜擢しております。『日本後記』は、桓武のどのような思惑がこの人事に反映されたのかまでは言及しておりませんが、おそらく、不倫に溺れた葛野麻呂を遠ざけ、薬子の監視を兼ねさせる意味で、あるいは責任をとらせる意味で夫の縄主を起用したと言いたいのでしょう。一方、葛野麻呂が「北家」で、縄主が「式家」であることも無視できません。縄主は殺害された種継の父「清成――薬子の祖父――」の兄弟「藏下麿」の子にあたります。
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 式家びいきの桓武は、種継殺害の黒幕について北家であろうとでも推断していたのでしょうか。もしかしたら皇太子の北家化を未然に防がんと葛野麻呂を遠ざけ、新たに縄主を起用することによって東宮坊の式家色を強めたのかもしれません。この後に葛野麻呂は遣唐使として最澄や空海らと唐に渡る事になりますが、それもこの“(仮称)大宰府不倫人事”の延長なのでしょうか。
 ところで、最澄と空海――。言うまでもなくこの新鋭の怪僧二人は、後に各々比叡山の天台宗と高野山の真言宗を開き、平安仏教の祖として歴史にその名を残すことになります。空海が開花するのは桓武崩御後の話ですが、最澄にあっては早くからその才が際立っており、南都――平城京――の影響を排除した新仏教構築を目論む桓武の期待も甚だ大きかったに違いありません。裏をかえせば、最澄は南都六宗各派の感情を逆撫でし続ける存在でもありました。事実、後に南都側は最澄潰しに躍起になります。しかし仏法で最澄と渡り合える者は南都側にはおらず、彼らはことごとく論破されるのでした。そこで遂に辺境会津の法相僧「徳一」が立ちあがることになります。この徳一は辺境にありながら相当洗練された高僧で、南都の僧総がかりでも論破出来なかった最澄をことごとく苦しめます。最澄は徳一との論争で激しく精神を摩耗し、その寿命を縮めてしまったようです。徳一の怪物ぶりがわかろうというものです。
 徳一は、藤原仲麻呂――南家――の子であるという伝承もありますが、定かではありません。仮に伝承が真実であれば、徳一がいかに優れた僧であっても、道鏡と敵対し仏教勢力を政治から遠ざけようとしていた仲麻呂の息子とあっては、とても平城京にはいられなかったことでしょう。なにしろ天皇ですら遷都して脱出せざるを得なかったのですから。
 さて、伝承の真偽はともかく、高橋富雄さんは史料が空白にもかかわらず何故そう伝わっているのかを丁寧に推測しておりました。仲麻呂が唐僧鑑真来日の政治的責任者であったことや、仲麻呂の息子「刷雄」が入唐留学していたこと、その刷雄が淡海三船の『鑑真伝撰』にあたり鑑真の死を悼む『五言誌』の作者であったことなどをからめて伝承の震源を推考しておりましたが、深入りしないでおきます。ここでは、極めて高度な政争の結果として日本の仏教に大きな変革の波が押し寄せていたことだけ表現出来ていれば“良し”としたいと思います。私は、この潮流が桓武期を通してくすぶっていたがため、「薬子の乱(変) 」――最近は「平城太政天皇の変」というらしい――が勃発したものと考えております。

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