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「藤原種継殺害事件」の背景について、少々私見を交えながら語らせていただきます。 まず、この事件当時、「桓武天皇」から最も信頼されていた人物は、紛れもなく殺された「藤原種継――式家――」でした。何故それがわかるのかというと、『続日本紀』に「天皇甚委任之。中外之事皆取決焉。」とあり、桓武から委任されていた種継が、内外問わず全て取り決めていたことがわかるからです。種継が早くに殺害され、しかも桓武が剛腕であったので際立ちませんが、これは、事実上「摂政」であったと捉えております。 そのような種継を邪魔でしょうがなかったのは誰でしょうか。少なくともニ派考えられます。一派は遷都反対派、そしてもう一派は、式家の後塵を拝さざるを得なくなっていた式家以外の藤原四家――三家――です。 各々の理由がどこにあるのかというと、遷都反対派は当然ながら遷都を推進する種継は目の敵でしょうし、式家以外の藤原四家からすれば、式家の種継に出しぬかれている状態を良しとするわけがないでしょう。 遷都反対派の中心は、平城京に根ざして既得権をふるっていた東大寺を初めとする南都六宗――奈良仏教勢力――で、この勢力の実態は、単に宗教勢力――厳密には宗教よりも学問に近い――という枠だけに留まるものではありません。もちろん大陸の文物や情報を輸入する貿易センター機能も果たしていたでしょうが、ここで私が最も注目するのは、臣籍降下――皇族が身分を離れ臣下の籍に降りること――の受け入れ先である側面です。つまり、歴代天皇の親戚御一同様の巣窟でもあるわけです。おそらく不文律ながらも相当な権力を保持していたはずで、彼らを敵に回して遷都を決行するというのは、如何に剛腕な桓武天皇といえども、かなり身の危険の伴うものだったはずです。 この少し前に、「淳仁天皇」を立てて政権を意のままに操ろうと目論んだ南家「藤原仲麻呂――恵美押勝――」が「孝謙上皇――称徳女帝――」に鉄槌を食らわされるという政変がありましたが、その“鉄槌とは、具体的には「吉備真備(きびのまきび)」や「坂上苅田麻呂――田村麻呂の父――」、そして「牡鹿嶋足(おじかのしまたり)――陸奥国大国造一族――」といった軍勢でありました。筆頭の吉備真備は何を隠そう「造東大寺司長官」であり、東大寺が軍事力においても最強レベルであった事を窺い知ります。 ただ、度々述べてきたとおり、わが国ではいかなる屈強な勢力であってもあからさまに天皇を敵に回すことが出来ません。如何に正論に立脚して反乱の狼煙をあげて支持を集めていたとしても、途端に理屈抜きで民意が離れてしまうからです。だからこそ日本史の覇者達は、あくまで「君側の奸を討つ」という大義名分の下に兵を起こし、天皇その人ではなく、側近と政権そのものを破壊してきたのでした。どうしても天皇その人を引きずり下ろしたい場合には、反乱前に予め他に正当な血筋の天皇を立てる必要がありました。そしてあらゆる詭弁を駆使して、新天皇から勅を出させて事を起こすのが、暗黙のセオリーなのです。 その点、遷都反対派の南都六宗は“天皇ファーム”の要素を持ち合わせておりました。本来、臣籍降下した者は皇位継承の道も断たれているわけですが、少し前に、桓武天皇の同母弟「早良親王」が、東大寺の二代目別当を約束されていた状態からわざわざ還俗して立太子しておりますので、絶好の前例と考えられていたかもしれません。いえ、もしかしたら、早良親王の立太子自体既に革命の始まりだったのかもしれません――失敗するわけですが――。 早良親王は一体どのような立ち位置にいたのでしょうか。おそらく、早良親王は初めから南都六宗の後援の下に擁立されていたのではないかというのが私の想像です。正式には父である光仁天皇に推戴されての立太子でしたが、その後も東大寺の大事に深く関わっていたらしいことは無視できません。とはいえ、南都六宗は強引に桓武を引きずり降ろそうとまでは考えていなかったことでしょう。彼らは、せめて桓武の次の天皇――早良親王――に、平城京を復活させてもらいたかったのではないでしょうか。それが後の「薬子の乱」でわずかに燻ぶり返したように思いますが、それはまたあらためて触れます。 いずれ、称徳女帝と道鏡の斬新な革命的政治で肝を冷やしっぱなしだった既得権者たちは、称徳崩御――私は暗殺とみている――後の皇統を如何に自分達側に引きこむかを模索していたことでしょう。藤原四家からすれば、まずは称徳女帝と道鏡の色を一掃することが重要で、南都六宗からすれば、道鏡の再来を恐れて僧を政治から遠ざけようとする政権中枢に対し、なんとか発言力を維持したい思惑も働いていたはずです。 この時点では、宇佐八幡神託事件で道鏡の皇位継承阻止に暗躍したといわれる北家「藤原永手」が、ひとまず一歩先んじていたようです。このとき式家「藤原百川」も暗躍したと伝えられておりますが、これは桓武天皇擁立時の話が入り混じって伝わっているのではないかという学説が有力となっております。 「光仁天皇」即位に貢献した藤原永手――北家――は、一時四家の相克を抜きんでた感がありましたが、その後、藤原百川――式家――が皇后「井上内親王」と皇太子「他戸親王」の母子を「天皇呪詛」の疑いで廃し、風向きが変わりました。百川は代わりに「山部親王――桓武天皇――」を立て、これによって式家は桓武政権において一番手となり、ライバル北家を逆転するに至るのです。 そして、桓武天皇の即位と同時に立太子されたのが、彼の実母弟である早良親王でした。早良親王の本音がどこにあったのかは知る由もありませんが、先に触れたとおり遷都反対派や北家が担いでいたことは十分あり得ることです。少なくとも種継殺害の報を聞いた桓武は真っ先にそれを懸念したのでしょう。すかさず種継殺害に連座していたとして早良を廃し、流罪に処しました。無実の罪であった早良親王の悲劇はこんなからくりによるものでしょう。 さて、早良親王の悲劇は種継殺害への桓武天皇の報復であったとして、そもそも遷都問題に関して事件前夜に最も危険な立場にいたのは誰でしょうか。私は、どう考えても藤原種継だと思います。遷都反対派からみて「君側の奸」の筆頭がこの人だからです。となれば、陰謀に長けた藤原四家――三家――が、邪魔な種継を排除するチャンスとして遷都反対派の感情に着目していたとしてもおかしくはありません。桓武に重用されている式家の種継が殺害されれば、黒幕として真っ先に疑われるのは南都六宗であることは確実で、もしかしたら早良親王にまで罪状が及ぶことも想定していたかもしれません。となると、自ずと早良親王の春宮(とうぐう)大夫――皇太子に関わる事務を司る職――である「大伴家持」を、それこそ早良乱心の「君側の奸」に仕立てることも可能です。うまく運べば、一気に大伴氏主流系譜を政治的に抹殺出来ます。大伴氏さえ排除すれば、既に皇太子の早良親王はそのまま利用出来るとも睨んでいたことでしょう。事件の黒幕は、桓武でも早良でも、どちらに転んでもいいような作戦で臨んでいたのではないでしょうか。 こうした観点から、私は種継殺害事件のプロデューサーは式家以外の藤原四家のいずれかによるものであろうと考えるわけですが、京家についてはその前にも後にも単独で目立った動きが見えないので、南家か北家に絞られます。しかし、南家は称徳女帝に叩きのめされて弱っているので、消去法からすると北家が残ります。桓武排除が成れば早良親王を即位させて奈良仏教勢力の支持を得て、式家と大伴氏を潰して君臨するはずだったのでしょうが、桓武の早良潰しがあまりに迅速でした。おかげで種継殺害と大伴潰しだけが成功して、北家浮上にまでは至らなかった、ということでしょう。 あるいは、初めから桓武の自作自演であったのかもしれません。他の天皇ならともかく、桓武ほどの剛腕であればやりかねません。父である光仁天皇は、早良親王の立太子によって東大寺を初めとする旧勢力への配慮を考えていたのかもしれませんが、桓武がそれを許せなかった可能性もあります。最も信頼する種継を犠牲にしてまで、天武天皇閥を含む旧勢力の一掃を決行したとも考えられます。少なくとも、種継殺害事件で最も利益を被ったのは、結果として桓武自身でした。 ところで、長岡京遷都を推進していたのは種継であったとされるわけですが、その理由が看過出来ません。長岡京の底地が、種継の母の実家に近かったからと考えられているのです。種継の母は「秦朝元」の娘、つまり「秦氏」です。種継は秦氏の根拠地に近いところに首都を移転したということです。家永三郎さん編の『日本の歴史(ほるぷ出版)』は、次のように記します。 ――引用―― 天皇は、まず、平城京の寺院・僧侶の勢力から太政官をきりはなし、また大和に根をはっている天武天皇系の皇族や飛鳥の貴族たちの伝統をたちきるため、784(延暦3)年、都(みやこ)を山城の長岡京にうつした。この遷都には、藤原種継の政治力と、地元の豪族である秦一族(新羅系の渡来人の豪族)の働きかけがそのうしろにあったとみられている。 秦氏を「新羅系の渡来人の豪族」と断定していいかどうかは別として、実際にその造営の功によって、秦氏の面々が爵位を授けられていることは事実で、これはかなり信憑性の高い考え方です。もちろん、そもそも秦氏が高度な土木技術を有していたということはありますが、私は式家の影にこの事件で大打撃を被った大伴氏の姿を見ております。久しぶりに言いますが、なにしろ大伴氏は秦氏と濃厚に通じているフシがあるのです。どうもこの一連の政策には水面下での秦氏の影響力の大きさも疑わざるを得ません。
いずれ、相変わらず謎多き「藤原種継殺害事件」ですが、おぼろげながらその構図は掴みかけている気がしております。 |
荘園の功罪
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荘園の功罪は日本という国のかたちを象徴するものであったと考えております。その時代についての私自身の知識をあらためて整理しておきます。
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このほど、「承和の変」あたりから平清盛が政権中枢に辿りつくまでの、どちらかと言えば藤原良房から始まる摂関藤原氏の栄枯盛衰を主軸に話を進めようと考えていたのですが、肝心な「承和の変」が何故起り得たのかを語るため、桓武天皇の奇妙な遺言に触れておく必要を感じました。 さらに、桓武天皇が何故そのような遺言を発したのかを語るために、結局藤原四家の発祥にまで遡って話を進めることになってしまったのです。 そのようなわけで、桓武天皇の奇妙な遺言と、その背景をあらためて振り返っておきます。遺言の中で私が着目していたのは以下の点です。 1、桓武天皇が次代の皇位について「安殿(あて)親王――平城天皇――」、「神野(かみの)親王――嵯峨天皇――」、「大伴親王――淳和天皇――」の順に、各々十年ずつで継承すべしと遺言した、という伝承がある。特に、大伴親王は「藤原旅子(たびこ)」の子で、皇后「藤原乙牟漏(おとむろ)」の子ではない。 2、桓武天皇は、「藤原種継殺害事件」の主犯格とされた「大伴継人」や、関与したとされていた「大伴家持(やかもち)」とその家族らについて生死を問わず復権させた。 これらがあったからこそ、「藤原旅子」の名が「大伴旅人(たびと)――家持の父――」の名に似ていることや、旅子が生んだ桓武天皇の子の名が「大伴親王――淳和天皇――」であったことについて、私は大伴氏の影を疑っていたわけです。なにしろ、桓武天皇が人生最後に大伴氏の復権を気にかけていることは事実です。 桓武天皇は、言うまでもなく有史以降確実なところでは最長寿命の首都を築いた天皇であり、その功績は特筆すべきものがあります――征伐された東北人としての感情は別次元の話として――。全般に藤原式家を重用していた部分はあるものの、とりたてて彼らの傀儡に陥っていた様子もなく、自らの政治をしっかり行った天皇だったと認めざるを得ません。 反面、ずっと怨霊に怯え続けていた側面もありました。「怨霊」という言葉に抵抗があるならば、「後ろめたさ」と言い換えてもいいのですが、桓武天皇は自分の政策の犠牲になった親族や政府高官たちを生涯気にしていたとしか思えません。 政策とは、特に首都移転のことです。「藤原種継殺害事件」とは、桓武天皇の信任が厚く内外の事をみな決定する立場にいた藤原種継が、新首都「長岡京」造営の現場責任者として検分中に殺害された事件です。それは、大伴家持の死後二十余日後の事でした。 この事件によって、「大伴継人(つぐひと)」、「大伴竹良(つくら)」らが犯人として投獄され、取り調べの末、事は家持にも及んでいたとされました。継人・竹良らとその徒党数十人は斬首、あるいは配流され、既に故人の家持も除名処分とされ、その子「大伴永主」らも流罪に処せられました。 主犯格にされた大伴継人とは、「大伴古麻呂(こまろ)」の子です。古麻呂は、かつて「孝謙天皇」の廃帝及び「藤原仲麻呂――恵美押勝――」の暗殺を企てた疑いで、虐殺――橘奈良麻呂(ならまろ)の乱――された人物です。これは間違いなく「大炊(おおい)王――淳仁天皇――」を立てようとしていた仲麻呂の陰謀でしょう。大炊王は、早くに薨じた仲麻呂の子「真従(まより)」の未亡人を妻に迎えており、仲麻呂の邸宅に住まうなど、いわゆる“マスオさん状態”にあったようです。 大伴継人系譜の話に戻りますが、後に「応天門の変」で流罪に処される大納言「伴義男」は、継人の孫であったとされております。善男の父である「大伴国道――伴国道――」は、継人の有罪判決に縁座して佐渡に流されたのですが、善男はその配流中の二十年の間に生まれたとされております。母については、仁寿ニ(852)年に没したということ以外は全て謎です。なにしろ配流中の種なので、佐渡の女から生まれたと考えるべきでしょうが、例えば『伴善男(吉川弘文館)』の佐伯有清さんは「その可能性は、ほとんどない。おそらく善男の母は、父国道と同程度の階層に属する貴族の娘であったのであろう」としております。理由は、母が没した頃、善男は、すでに従四位上、参議として政界で活躍していたからです。このあたり、大伴氏を名乗る善男に私がどこか毛色の違いを感じる要因の一つでもあります。 いずれ、結果的にこの事件によって大伴氏の主流は政治的に無力化されました。後の大納言「伴善雄」はまだ生まれておりませんし、その父親とされる「伴国道」は佐渡に配流されたので、両者の表舞台への登場は少なくとも20年以上先の話になります。 更に、この事件では桓武天皇の実母弟で皇太子であった「早良親王」も連座して廃されました。彼は淡路国に配流されることとなったのですが、一貫して無実を主張し、配流の道中、絶食し抗議の憤死を遂げました。その後、彼と桓武の母「高野新笠」や、皇后の乙牟漏、旅子の病死、安殿親王――平城天皇――の発病、疫病の流行、相次ぐ洪水などが早良親王の祟りであるとされたことは、十年ほど前に大流行した映画『陰陽師』のモデルにもなった有名な話です。 これによって早良親王は「祟道天皇」と追称されることになり事実上復権させられ、丁重に鎮魂されることになりました。 しかし、桓武天皇には尚も苦味が残り続けていたようです。それが忌の際に至って耐えられなくなったのでしょう。『日本後記』の大同元年三月十七日条の記述によれば、桓武天皇は具体的に次のように言い残して崩御しております。 ――引用:森田悌さん全現代語訳『日本後記(講談社)』より―― ○辛巳(一七日) 天皇が次のように勅した。 延暦四年のこと(同年九月の藤原種継暗殺事件)に連座して配流となった者はすでに罪を許し帰郷させている。いま朕は思うことがあり、生死を論ぜず、本位に復することにする。大伴宿禰家持を従三位、藤原朝臣小依(おより)を従四位上、大伴宿禰継人・紀朝臣白麻呂(しろまろ)を正五位上、大伴宿禰真麻呂(ままろ)・大伴宿禰永主を従五位下、林宿禰稲麻呂(いなまろ)を外従五位下に復せ。 〜中略〜 しばらくして桓武天皇が内裏正殿で死去した。行年七十。 〜以下省略〜 「藤原種継暗殺事件」は、遷都に異を唱える奈良仏教勢力とそれを支持基盤とする有力者たちによる犯行に見せかけた陰謀と考えるのが穏当ですが、私はここに大伴氏排斥の目論見があったことも否定できないものと思っております。
藤原四家の相克の中で、藤原仲麻呂の失脚によって勢いを失った南家に入れ替わって式家が抜きんでてくるわけですが、思うに式家は四家の相克を勝ち抜く為、同盟相手として大伴氏を取り込もうとしていたのではないでしょうか。四家の相克を勝ち抜きたい式家と、復権を狙う大伴氏とで当座の利害が一致したのではないでしょうか。 |
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摂関藤原氏の権勢の源は、自らの娘を天皇の妃として送りこみ、そこに生まれた子が皇位を継承する、というルールを繰り返すことによって、常に天皇の外戚として君臨し続けることにありました。 この「天皇の外戚として政権を牛耳る」というスタイルは、なにも藤原良房によって初めて確立したものではありません。かといって、良房の偉大なるご先祖様「不比等」や「鎌足」の発案というわけでもないでしょう。藤原氏のそれは、蘇我氏の立場をそのまま簒奪したものでした。厳密に言えば、私見ではひょっとしたら蘇我馬子自体が短命な新王朝の天皇であったのではないか、などとも考えておりますが、それはともかく、その蘇我氏を壊滅に追い込んだ最大の功労者、中臣鎌足が藤原姓を賜り、そしてその子不比等が、蘇我氏ばりの外戚政権をひとまず完成させました。 不比等の4人の息子は、「藤原四家」、すなわち南家、北家、式家、京家の祖となります。最終的には、不比等の再来ともいわれる良房が「承和の変」なり「応天門の変」を経て他氏排斥ならびに四家の相克に決着をつけ、北家を一人勝ちさせることになるわけですが、それは後の話になります。 一方、不比等の娘である宮子と光明子は、各々文武天皇と聖武天皇の妃となります。少しややこしいのですが、宮子が生んだ文武天皇の子が聖武天皇となりますので、聖武天皇は母の姉妹、すなわち叔母を妃に娶ったことになります。いずれ、これらによって不比等は今上天皇の母系祖父であり続けたのです。 もちろん、この流れが軌道に乗るまでは陰に陽に血塗られておりました。例えばその流れに異を唱えた天武天皇系の皇子、かつ蘇我系でもあった左大臣の長屋王などは、宮子の称号をめぐって藤原四家と対立したり、太政官のメンバーを天皇家で固めるなどして藤原四家を抑え込んでおりましたが、讒言で無実の罪を着せられ、自宅を兵にとり囲まれて捕えられてしまいました。そして彼と彼の家族は自殺に追い込まれます。 しかし彼はあの世から反撃しました。具体的には、光明子を聖武天皇の皇后にたてて藤原四家政権樹立に成功したばかりの不比等の男子四人――藤原四家の祖――を全員祟り殺したのです。科学的に言えば天然痘が偶然四人に伝染したのでしょうが、このことは、藤原一族ばかりか、不比等の女子である光明皇后をも恐怖のどん底に陥れました。光明皇后はノイローゼになったようです。聖武天皇によって建立の詔が発令された全国の国分僧尼寺、並びに総国分寺である東大寺、同じく総国分尼寺である法華寺の背景には、滅罪によって祟りから逃れたい切実な祈りの心が本音としてあったと考えられます。 にもかかわらず、聖武天皇――上皇――が病に伏したあたりから、藤原氏は懲りずに流れを引き戻そうとしておりました。光明皇太后が頼みにしていた南家の藤原仲麻呂――恵美押勝――は、聖武上皇が崩御するや、上皇が立てていた皇太子「道祖(ふなど)王」を廃太子させてまで、自分に近しい「大炊(おおい)王」を立太子させ、執拗に藤原の血を天皇家に残そうとしていたのです。 このあたりの流れは前にも触れておりますが、この仲麻呂に鉄槌を食らわせたのが、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた娘――孝謙天皇(上皇)・称徳女帝――でした。 しかしその後、彼女の崩御をきっかけにまたしても皇統は天武系から藤原色の強い天智系――光仁天皇――に戻されました。 ところがその次代、藤原四家は英傑桓武天皇の登場を許すことになります。藤原氏の傀儡に甘んじることのない剛腕桓武天皇を生んだのは、皮肉にも藤原四家の相克だったのです。 桓武天皇は、生母の高野新笠が百済系帰化族で出自が低いとされていたため、本来立太子など全く予想されておりませんでした。ところが、四家の相克を巻き込んだ政争の中で、「井上内親王――光仁天皇皇后――」とその腹から生まれた皇太子「他戸親王」が廃され、突如桓武が立太子されることとなりました。その影には藤原百川が暗躍していたようです。『続日本紀』の記述によれば、桓武天皇は自身が式家の藤原百川あっての即位であったことを認めております。 余談ながら、私はこの百川の流れに大伴氏の影を疑っております。前にも触れましたが、それは、百川の娘の名が「旅子」で、大伴旅人を思わせることと、旅子と桓武天皇の間に生まれた子が「大伴親王――淳和天皇――」であるからです。もちろん、あくまで想像ですが・・・。 ※掲載画像の系図において、式家の「藤原乙牟漏――桓武皇后、平城・嵯峨両天皇の母――」の父「藤原良継」の名が抜けておりましたので、訂正し、お詫び申しあげます。
つまり、式家「宇合」と「乙牟漏」の間には1世代あり、「良継」の名が入ります。 |
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ようやく、録画していた大河ドラマ『平清盛』三話分を観賞しました。
思うに、「承和の変」の黒幕と言われる「藤原良房」が、謀略三昧の果てに実権を握って摂関政治の基礎をつくりあげて以降、今回の大河ドラマの主人公「平清盛」が太政大臣に成り上がるまでの約200年というのは、現代社会にも通ずる“この国のかたち”を象徴する時代ではないでしょうか。 しかし、なにしろ地味すぎます。年表的には、他氏排斥を完遂した藤原氏が台頭し、やがてそれが院政という形の天皇家の反撃によって抑え込まれ、天皇家が復権したのかと思いきや、またたくまに新興勢力の武家が政権の主軸に入れ替わってと、まさに激動の時代なのですが、にもかかわらず、その後の源平合戦があまりにも痛快で、特にビッグアイドル源義経の鮮やかさと悲哀感のギャップの魅力が際立つせいもあってか、摂関と院政と平家の攻防――興亡――はどうにも地味過ぎてつまらないのです。 なにしろ、血を嫌う公家社会の相克だけに、表立ったわかりやすい激突もないままに政府高官が失脚したり成り上がったりと、とにかく政治的陰謀ばかりがうずまいておりました。伏魔殿のような生々しい大人の世界は思春期の少年少女には教育上あまりよろしくないことも事実で、心なしか授業も年号と単語の暗記一辺倒になりがちです。当然ながら本能的に軍記モノが好きな少年たちのファンタジーの心はなかなか刺激されず、むしろ平安文学ファンの少女の方が要領を得ていたりします。 5〜6年前、知人のご子息が「口分田 口分田 くぶんでんでん♪ よし、これで口分田は覚えた」と、お笑い芸人オリエンタルラジオさんの「武勇伝」のリズムで頭に叩き込んでいらっしゃったようですが、その意味をどこまで理解出来ていたものか・・・。私自身、「摂政」と「関白」がどう違うのやら、「荘園」がどういうもので、時代の動きにどう影響していたものやら、今一つ理解出来ないまま少年時代が過ぎていきました。修学旅行で平等院鳳凰堂を拝観したものの、10円硬貨の絵柄と見比べた感動くらいしか記憶にありません。大人であっても、よほど歴史に興味がある人でない限り、丸暗記したこの時代の単語の重要さは案外わからないものではないでしょうか。実際、私が平安時代の丸暗記項目を咀嚼出来るようになってきたのは、社会人になって多少なり社会や政治の仕組みが理解出来るようになってきてからの話です。 そこで、歴史に学ぶという意味と私自身のわずかばかりの知識の整理を兼ねて、「荘園の功罪」と称する書庫を新設し、しばしこの200年間について語ってみようと思います。かつての私と同じ悩みを抱えている御貴兄が、少しでも日本史の原像を理解しやすくなるきっかけになれば幸いです。出来るだけ煩雑にならないように心がけますので、よろしくお付き合い願います。 |



