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文治の役でたまたま源頼朝に惨敗してしまったがため、百年の平和でボケてしまっていたと現代人に言われてしまう奥州藤原氏ですが、逆に言えば、百年に渡って治安を維持出来ていたことそれ自体が――奥州十七万騎の伝承がなくとも――相当な軍事力を証明していると私は考えます。 奥州藤原氏は前九年の役や後三年の役の余波を引きづりながら体制を固めていきました。そのような中で初代清衡は陸奥・出羽一万余村の村ごとに伽藍を建てたといいます。まさに奥州版国分寺といった趣で、国家が行うレベルの大事業です。それだけのことをすれば通常は財政が疲弊し、税の取り立ても厳しく、さぞや民の暮らしも汲々としていたことだろう、と心配してしまうのですが、清衡はさらに「白河――福島県――」から「津軽外ケ浜――青森県――」に至るまでの、直線距離でもゆうに400キロメートル以上はあろう道中の一町――約106メートル――ごとに、黄金で阿弥陀如来を描いた笠卒塔婆を建てているのです。首都の平安京ですら財政難――摂関藤原氏や院政の荘園拡大――で公共施設が荒廃していた時代に、人里離れた山道にあってそのような瀟洒(しょうしゃ)な道標など、盗賊団の恰好の獲物になったはずです。 しかし、奥州はその後も益々繁栄していきました。これはよほど治安が良く、民の満足度も高くなければあり得ません。現代の国道ですら、都市部を10キロメートルも離れると妖しげな自動販売機が活躍できるほどに人の気配がなくなることを思えば、その暗黙の治安維持機能には驚かざるを得ません。 なにしろ、奥州藤原氏にはそれらの贅沢を吸収しても余りある国内随一の潤沢な財力がありました。奥州には優れた馬と良質な金、そして豊富な海産物があり、彼らは大陸も含めた幅広い相手と独自の交易を展開していたのです。もちろん中央の権力者同様に荘園も展開しておりました。中でも牧場荘園の存在は際立ちます。これは必ずしも交易あるいは軍事の目的とは限らず、天皇家や摂関家への貢馬用でもあり、それは古来からの伝統として服属の儀礼の意味合いも含まれておりました。奥州が農業大国になってくるのは江戸時代以降のことで、そもそも厳しい寒さで米づくりに適していなかった故か産業構造が根本的に異なっていたようです。当時の平泉は、一説に京に匹敵する人口を抱えていたとも言われておりますが、その真偽のほどはともかく、華やかさに至っては間違いなく上回っていたことでしょう。 朝廷の政治が政府高官の私欲にまみれ治安が顧みられない時代において、華やかさの演出を可能にした奥州の財力は、独自の広範な交易に由来していたわけですが、それを円滑に継続するためには、それなりに自前の軍事力も備えてなければなりません。交易は、海にしろ山にしろ盗賊に狙われやすく、大変危険だからです。首都の治安維持すらままならない朝廷が、陸を離れた商船の安全など担保出来たはずもありません。それどころか、海賊などはむしろ国家の意思に基づく裏組織であることも少なくありません。今般の大河ドラマ『平清盛』などはそれをよく描いておりましたが、既に殿上人の平氏ですら海賊の側面があったのです。いえ、海賊を支配して交易を掌握していたからこそ平氏は天下をとれたのでしょう。つまり、巨大海賊組織が第三セクター的に一国の海軍を担っていたようなものなのです。したがって、海の交易を展開する場合、そのような脅威からも自力で商品を守れなければやってられません。それが奥州藤原氏にはやれていたのです。だからこそ、平泉は「黄金の京」たり得、朝廷を貢物攻勢で黙らせることも出来たのです。そこには相当屈強な軍事力の担保も必要だったはずです。ある意味で、彼らもまた平氏同様巨大海賊組織であったのでしょう。 奥州藤原氏の交易は海ばかりではありません。陸にも展開しておりました。代表的な例が源義経を平泉まで護送したと伝えられる「金売り吉次」です。彼が一個人として伝説どおりに存在していたかどうかはわかりませんが、奥州金が京で取引されていたことは間違いなく、おそらくモデルとなった人物も存在したのでしょう。何度も言いますが、首都の警護すらままならない時代に、平泉と京の間の長い山道を往復して金を売りさばくなど狂気の沙汰です。つまり、吉次の生業もまた確固たる武力に護衛されていたと考えるべきで、護衛していたのは当然奥州藤原軍でしょう。 したがって奥州藤原氏は、平和ボケどころか、かなり実戦力の高い戦闘能力を恒常的に有していたとしか考えられません。奥州十七万騎は非現実的でありエセ情報だとする見解もありますが、鎌倉軍の二十八万四千騎とて似たようなもので、実数的な信憑性はともかく、両軍勢の総数差の比率として受け止めておく分には問題ないのではないでしょうか。 いずれ、秀衡存命中には頼朝もあからさまには手出しが出来ませんでした。源義経の奇跡はあったにせよ、当時断トツの平家を倒して軍事の頂天にのし上がった頼朝の慧眼をもってすれば、仮に奥州十七万騎がハリボテに過ぎなければすぐに見抜けたはずです。 平氏を倒すまで、対奥州の軍事行動は自粛していたということもあるのでしょうが、その平氏を倒し、後顧になんの憂いもなく全兵力を奥州に向けることが可能になった後ですら、頼朝は極めて慎重に事を構えておりました。 もちろん、奥州藤原氏が朝廷の覚えめでたく、なかなか討伐の勅を得られなかったという部分はあるにせよ、その後の展開をみるに後付けでも力づくで勅をこじつけさせるほどまでに強大化していた頼朝なわけですから、なんとでも処理出来たはずです。それでもすぐに行動を起こせなかったのは、奥州藤原氏の軍事力に現実的な脅威を感じていたからでしょう。 また、臨終間際の秀衡が、「頼朝に口実を与えるな」ではなく、あくまで「頼朝を倒せ」と、軍事行動に積極的な遺言を発したことも、実のある屈強な自軍への自信を抜きには考えられません。 しかし、彼らはあっけなく惨敗しました。一つには頼朝の要望どおり義経の首を差し出して和睦が成立したつもりのところを不意に攻められたからでしょう。和睦が成立したと考えてしまうところがそもそも平和ボケなのかもしれませんが、何よりもその義経の扱い、すなわち、秀衡の遺言をめぐる首脳陣の内部分裂が最大の敗因だと私は考えます。 ただ、仮に頼朝を倒すことが出来ていたところで、奥州藤原氏が滅びるのは時間の問題であったことでしょう。日本の産業構造が農業で成り立っていた時代、平氏同様、交易に立脚した政権はまだ国民に受け入れられなかったはずだからです。当時は“一所懸命”の鎌倉の政権方針こそが国民のニーズに合っていたのです。 さて、奥州十七万騎を構成する上で重要な馬の育成を支配していたのは、照井一族であったと想像します。照井氏は、私の仮説上、浅間山の大噴火のために壊滅した信濃を逃れて陸奥の栗原に大移動してきただろう高句麗系騎馬軍――天武天皇の秘密兵器――の末裔であったか、それと見紛うほどに密接な氏族であったと思われます。 ここで私は長命館が「西木戸太郎国衡」――厳密には「錦戸国秀」と伝承――によって築かれた城館であるという伝承に注目するのです。 国衡は、対頼朝戦の最前線で戦死しておりますので、『吾妻鏡』上で当地との関わりを見い出すのは至難と言わざるを得ません。 しかし、その『吾妻鏡』は国衡が奥州一の駿馬「高楯黒(たかたてくろ)」に乗っていたことを伝えております。 国衡の愛馬「高楯黒」が、馬王国の奥州にあって一番の駿馬とあらば、それは日本一の駿馬と言っても過言ではありません。そのような馬を操った国衡の“血”について、前に私は次のように考えました。 蝦夷腹と伝わるその“蝦夷呼ばわり”の国衡の生母の正体が気になるところです。 蝦夷呼ばわりとはいえ、その子が鎮守府将軍の秀衡の子としてしっかり発言権を持っていたことから考えると、奥州内においてはそれなりの大物の血族でなくてはなりません。 安倍氏、照井氏、金氏、佐藤氏、清原氏・・・などいろいろ思いあたるところはあるのですが、奥州藤原王国建国(?)への貢献度から考えると、安倍氏か照井氏の女性であっただろうと想像しておくのが自然でしょう。 ただ、安倍氏については、秀衡の母親が堂々と「安倍宗任の娘」と公表されていることから、少なくとも系譜上「蝦夷」と抽象化される扱いではなかったように感じます。 したがって、国衡の母親の素性としては、照井氏である可能性が高いように思うのです。 西木戸太郎国衡は秀衡の長男とはいえ、蝦夷腹であったが故に当主となることが叶わなかったと考えられるわけですが、暗に「西木戸」と生まれの室(?)で表現される母親の姓は照井だったのではないか、というのが私の考えでした。
もし国衡が私の想像どおり騎馬に精通した照井の女の生んだ奥州王の子であったのならば、母の実家筋が手塩にかけて育てた奥州一の駿馬が、彼に献上されて然るべき、と考えたのです。 あくまで想像ですが、もしかしたら「馬と言えば国衡」というくらい国衡には馬の印象が浸透していたのではないでしょうか。つまり、長命館の築城にかかわる伝承は、八木沢に秀衡の牧場があったという伝承の影響を受け、「奥州藤原氏」「馬」というキーワードから国衡に因果づけられて伝えられてきたものではなかったのでしょうか。 |
藤原秀衡の八木沢牧場
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「八木沢(やぎさわ)」――仙台市泉区上谷刈八木沢――には藤原秀衡の牧場があったと伝えられております。それが事実であれば、秀衡が何故この「八木沢」に牧場を経営したのかが気になります。とりあえず私は二通りの理由を考えます。一つには対鎌倉戦に備えた軍事的要因であり、もう一つは、そもそも当地に土着していた民が馬の扱いに長けていたのではないか、ということです。これらは、別々な要因であるようで、一方で表裏一体の要因であるのかもしれないなどと考えております。 軍事的要因に触れるならば、「長命館」を抜きには語れません。八木沢の南東丘陵地のこの古城について、『封内風土記』は「錦戸国秀」によって築かれたという伝承を記しております。この錦戸国秀とは、一般に「西木戸太郎国衡」の誤りであろうとされております。おそらくそうなのでしょう。国衡とは藤原秀衡の長男であり、つまり四代泰衡の兄のことです。文治の役――鎌倉軍対平泉軍――においては平泉軍の元帥格でありました。 文治の役に関連して言えば、『仙台領古城書立之覚』――延宝(1673〜1681)年間――や、佐久間洞巌の『奥羽観蹟聞老志』――享保四(1719)年――は、この長命館を『吾妻鏡』にある「国府中山上、物見岡」であるとしております。 しかし、昭和六十(1985)年の発掘調査の成果は、この城館を鎌倉時代中期以降のものと確定させました。間接的に伝承がほぼ否定されたことになります。何故なら、鎌倉時代中期以降であれば奥州藤原氏はとっくに滅ぼされているので、彼らによって軍事施設が築かれることは絶対あり得ないからです。にもかかわらず、何故地元では奥州藤原氏の城館として伝えられてきたのでしょうか。源氏が正義である時代をかいくぐって、わざわざ賊軍の奥州藤原氏によって築かれた城館であったと伝えられてきたからには、それなりの理由があるはずです。どうにも伝承を完全否定してしまうことに迷いが生じます。 少なくとも、長命館が「国府中山上、物見岡」ではない、という説は、発掘調査を見る前からもとっくに言われておりました。主な論者は吉田東伍と藤原想之助です。各々に相違点はあるものの、彼らは『吾妻鏡』から読みとれる地理条件と整合していない旨を理由に異を唱えておりました。つまり、「国府」の二文字を冠しているからには、物見岡はもっと国府に近いところと考えなければならないとし、吉田東吾は利府西北の峰――宮城郡利府町――、藤原想之助は台原付近の岡――仙台市青葉区――を論定しております。 それに対し、昭和二十八年発行の『七北田村誌』は、当地に「中山」の地名が残っていることや「秀衡街道」と伝わる山道の存在から、「伝承を尊重しても大して不都合は起らない」と牽制しております。どちらかと言えば、私もその口です。 そもそも、当時の“多賀国府”が、奈良期以来の「多賀城――宮城県多賀城市――」の地にあったのか、後の「足利尊氏」対「足利直義」の兄弟喧嘩や、南北朝争乱など、中央政権抗争の奥州代理戦において争奪戦が繰り広げられた「府中」と考えられる「岩切――仙台市宮城野区――」周辺にあったのかも判然としていないわけで、まして、利府はともかく、台原がさほどに国府候補地から近いとも思えません。それであれば具体的な地名や伝承が残っている長命館の方がよほど信憑性の確度も高いように思えます。前にも主張しましたが、私は地名も立派な遺跡だと考えております。 もっとも、「国府中山上、物見岡」の「中山」を地名としてではなく、抽象的に「国府の中の山の上の物見の岡」と読みとれなくもありませんが、それでは表現がくどすぎる気がしないでもありません。 『吾妻鏡』によれば、鎌倉軍が物見岡に進軍したのは、玉造郡――宮城県大崎市――にいるはずの泰衡が、実は国府中山上物見岡にいるかもしれない、という情報が入ったからでした。 つまり、泰衡にトドメを刺さんと玉造郡に向かおうとしていた頼朝は、念のために別動隊を物見岡にも向けたのです。 結局、泰衡の姿はそこになく、その居所に幕ばかりを残し置いていた、と『吾妻鏡』は語ります。そこには郎従が4〜50人ばかり留まっていて、防戦を試みたらしいのですが、あっけなく潰されたようです。 たしかに、発掘調査で痕跡が見られなかったのだから、奥州藤原氏の時代において当地に城館が存在しなかったことは認めざるを得ません。しかし、なんらかの形で奥州藤原氏が関わっていたことまでを否定しきれるものでもありません。
そこで私はこう考えてみます。「国府中山上、物見岡」の実態は、平泉軍が頭首泰衡逃亡の時間稼ぎのため、かりそめの幕営をたて、撹乱情報を流したものだったのではないでしょうか。野営キャンプに毛の生えたような一時のかりそめの幕営であれば、後に本格的な城館が普請されてしまえば痕跡など微塵も残らないでしょう。 では、奥州藤原氏は、そのかりそめの幕営を設置したときに初めてこの地を利用したのでしょうか。いえ、私はそうではないと思います。仮になんの建築物もなかったのだとしても、最低限監視台としては利用されていたのではないかと考えます。当地は秀衡街道と呼ばれる大道と冠川という国府直結の主要河川が交差する交通の要所なのです。例えば、同じ冠川の下流域で、奥大道が交差する岩切付近には、「冠屋市場」と呼ばれた鎌倉時代の定期市の跡が発掘されております。鎌倉時代以降はそのあたりに多賀国府があったと推定されているわけですが、それはともかく、私は、奥州藤原時代の上谷刈(かみやがり)の渡河地点にも同様のものがあっておかしくないと考えております。むしろ何も出てきてないことの方が不思議なくらいです。それを見渡せる高台を、交易によって権勢を維持し100年間も奥州を統治していた奥州藤原氏が放っておいたとは思えません。 例えば、初代清衡は、「白河――福島県――」から「津軽外ケ浜――青森県――」に至るまでの道中一町ごとに、黄金で阿弥陀如来を描いた笠卒塔婆を建てていたといいます。 三代秀衡は、「伊達――福島県――」から平泉までの諸所に鐘を吊るして急変に備えていたとも、奥州に逃げ落ちてくる義経を匿うため一里ごとに鐘をついて警報の便に用いたともいいます。 このように周到な奥州藤原氏が、多賀国府に通ずる河川と平泉に通ずる大道の交点の重要性に気付いていないわけがありません。したがって、それを見渡す恰好の地を放置したままだったとは思えないのです。 |
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「秀衡街道」の“丸地名”ということで地図を眺めると、上谷刈(かみやがり) ――仙台市泉区――から北上した泉ケ丘団地付近の「八坂神社」も「丸山」に鎮座しております。そのことは既に触れました。もう少し住居表示を詳しく記すと「仙台市泉区七北田大沢字丸山」であるのですが、実は「大沢」という地名も少々注目しております。「どうせオオという韻からオホ氏にこじつけているのだろう」と先回りして罵声を浴びそうですが、ひとまずそうではありません。もちろん、その方向も捨ててはおりませんが、飛躍し過ぎてもいけませんので、一応気休め程度の分別でブレーキを踏んでおります――ヒール&トゥー(?)――。 ただ、「石留神社」を通じて間接的に「志波彦神話」と結び付く「武烈天皇伝承地」にも、同じ訓の「王沢」を含め、「王壇」「王他界」「王三代」「王屋敷」などの「オオ地名」があることは留意しておきたいところです。 さて、“オオサワ”については、数年前に聞いたちょっとしたエピソードが記憶に深く刻まれております。エピソードの主は東北地方の某所在住のご高齢のご婦人です。 それはこんな話でした――。 ある日、タクシーを拾った彼女は、その運転手の面相が妙に神懸かって美しく、しかしながらどうにも無機質な感じがして気になったそうで、彼の顔を覗き込みながら遠慮なく質問したのだそうです。 「あなた、この辺の人じゃないね?」 「は?・・・いえ、地元ですが・・・」 「あらそうなの?」 「私の姓と同じ大沢っていう部落なんですけど・・・きっとご存知ないですよね?」 「大沢?あらごめんなさい、知らなかった。どのあたりにあるのかしら?いえね、あなた、なんだか都人(みやこびと)みたいに上品な顔しているから、この辺の生まれじゃないと思ったのよ」 「はあ、そうですか・・・。まあ、たしかにご先祖様はそっちの方らしいですけどね・・・。私もあまり詳しくはわからないのですが、家には古い刀とかもあるんですよ・・・」 話によると、その部落の住民は近年まで全て大沢姓だったそうで、外部との交流もほとんど断ち、婚姻もすべからく部落内だけで行われてきたようです。運転手はご婦人の質問に応じて場所も教えてくれておりますが、個人を特定出来てしまう恐れがあるので触れないでおきます。 タクシーを降りた後、ご婦人の好奇心に火がつきました。元々歴史が好きで、しかも当地ではそれなりに“顔”である彼女は、すぐに当地の官公庁――教育委員会?――にその集落のことを尋ねたそうです。さすがに官公庁では認識していたようで、一種独特な集落であることを示唆していたといいます。 彼女は私との会話の中で、「平家落人(おちうど)の末裔さんの家系かしら・・・」と推測されておりました。十分考えられるので私もそれに相槌を打ちながらも、興味深い情報へのささやかなお礼の意味で、お返しに武烈天皇伝承地にも「王沢」というところがある旨を伝えました。もちろん正解は未だわかっておりません。いずれ、私が“オオサワ”という地名に少々敏感に反応してしまう背景は、そんなところです。 それを踏まえて、もう一度『泉市誌』の当該「八坂神社」のくだりに触れておきます。市誌には「神社の東隣接地は丸山といい、大沢部落の共同墓地である」とありました。そして、先に触れたときには省いておりましたが、実は当神社の鎮座地「大沢丸山」の後に、括弧書きで「(摩瑠王)」と記してあるのです。これはなんと読むのでしょうか。そのまま素直に読めば“マルオウ”です。一体何に因み、何を意味する地名なのでしょう・・・。「丸王」「ワニ王」「ワニ&オホ」あるいは全く関係ない抽象的な「○王」・・・。 それに関連するのか否か、この八坂神社から再び上谷刈方面に戻って、シェルコム仙台――ドーム型市民球場――付近の泉区野村にも「丸山」という地名があるわけですが、その南西に隣接して「天皇」という地名もあります。おそらくは付近の「須賀神社――牛頭天王社――」に因むのでしょうが、武烈天皇伝承や、同じく「牛頭天王≒スサノウ」を祀る先の八坂神社の「摩瑠王」などを合わせ考えると、もう一段勘繰ってみたくもなります。シェルコム仙台を軸にした反対側――東側――には「道」という地名もあり、ふと、高麗人使節に対し「天皇」を詐称した「越の道君」のエピソードも頭をよぎりますし、となれば、私論における志波彦神冠川渡河地点の「道路神社」との関係も気になります。 これらの素材に思うところはありますが、ダイナミックに広がり過ぎて今のところ頭の整理ができていないので、このあたりで締めておきます。 さて、上谷刈(かみやがり)エリアに戻り、「八木沢(やぎさわ)」という地名についても語っておきます。 当地の「八木沢(やぎさわ)神社」は、上谷刈が一つの村であった時代の一村鎮守で、元々は「若有(わかあり)家」の屋敷神であったとのことです。 若有氏は、藤原利仁三代の末流隆磨の裔とされ、その隆麿はなんらかの事情で康平三(1060)年に奥州に下ってきたようです。以来、奥州藤原氏の家臣となっていたようですが、源頼朝によって平泉が滅ぼされると、民衆に下って地侍的な存在として明治期まで繁栄していたのだそうです。この若有家の菩提寺は元々「柳澤(りゅうたく)寺」であったとのことですが、火災により過去帳等が消失し、それを裏づけるものは現存していないともいいます。 さて、若有家の屋敷神である八木沢神社の社名の由来は、当地の地名に因むようです。とすると、訓読みにするとヤギサワになる菩提寺の柳澤(りゅうたく)寺も、同様であったと推察されます。 ここでふと頭をよぎるのは、同じ訓の仙台市太白区の「瀧澤(りゅうたく)寺」と宮城郡松島町の「龍澤(りゅうたく)寺」です。「澤(さわ)」をタクと音読させるのは上谷刈の柳澤寺と同じですが、「柳(りゅう)」の文字については各々「瀧(たき)」や「龍(たつ)」の文字が当てられております。 ちなみに、仙台市太白区の瀧澤寺(りゅうたくじ)と同じ漢字を用いる同市青葉区の「瀧澤神社」は、そのまま訓読みで“タキザワ”神社です。 もしかしたら、リュウタクとタキザワには名称の互換性が生じているのではないでしょうか。つまり、“瀧澤(たきざわ)”が初現の形だとしても、それを音読みした“リュウタク”に「龍澤」や「柳澤」の漢字が当て字され、上谷刈においては「柳澤」が訓読みされて「やぎさわ」となり、その訓に当て字された漢字が「八木沢」であったのかもしれません。あるいは、ヤギサワが初現であった上での逆の変遷であるのかもしれません。いずれ、これらの神仏の本質は共通するのであろうと推察されます。おそらく各々「水神」ないし「龍神」の性格があるのでしょう。それは仙台市青葉区の「瀧澤神社」の祭神が、水神の「瀬織津姫」であることからも十分妥当な推測でしょう 八木沢神社のご神体は「兜」とも「鐙」とも伝えられておりますが、それは、若有家にとって大切なご先祖様の遺品が彼らの氏神と共に祀られたということではないのでしょうか。 例えば、先ほどの話ではありませんが、平家落人伝説がある仙台市青葉区の「定義(じょうぎ・じょうげ)如来」、いわゆる「定義信仰」などは、壇ノ浦で敗れた平家の平貞能(さだよし)が平家にとって大切な阿弥陀如来の宝軸を護持しながら奥州に落ち延びて、源氏の手を逃れるために貞能の字を定義に変え、さらに訓みも「じょうぎ」に変え、当地で没する際、自分の墓の上にそれを祀るよう遺言したが故に始まった信仰であると伝えられております。私は、当地の八木沢神社にも類似する物語があったのではないかと推察するのです。 いずれ、屋敷神としての性格はともかく、少なくとも地名の「八木沢」の由来は龍神ないし水神信仰に求めるべきでしょう。 もうひとつ、興味深い伝承に触れておきます。『七北田村誌』によれば、八木沢には藤原秀衡――奥州藤原三代目――の牧場があったと伝えられております。そのあたりをもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。 |
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上谷刈(かみやがり)――仙台市泉区――を貫く「秀衡(ひでひら)街道」周辺には、私のオリジナルな「上谷刈=神あがり」説を筆頭に、私論の展開を刺激する地名や寺社名が幾つか散りばめられております。 まず、何はともあれ、やたらと「丸」地名が目立ちます。上谷刈エリアの核を成す「丸田沢(まるたさわ)」や「丸山峠」、そこから北上して野村地区「シェルコム仙台――ドーム型市民球場――」周辺の「丸山」、さらに街道を北上して七北田大沢地区泉ケ丘団地付近の「八坂神社」の底地も「丸山」です。いずれの周辺にも、人工的なドーム球場以外に「丸い山」などありません。したがって地形に因む地名でないことはあきらかなのです。 お付き合いの長い方は私が何を言おうとしているのかもう既にお気付きでしょうが、そうです、私は相変わらずここに“ワニ”の気配を疑っております。 もっと言えば、日本史上唯一「大国造」たる地位を授けられた「道嶋氏」を輩出した「丸子(まるこ・まりこ・わにこ)氏」を疑っております。 この氏族の素性について、前に独自の仮説を述べましたが、私は、彼らは折口信夫さんが表現するところの“水の女”輩出氏族の「和邇(わに)氏」の子部であり、その本姓は、早い段階で鹿島神を奉斎して陸奥国に進出したきり、土着したまま斜陽化していた中ツ臣氏族「多(オホ)氏」ではなかったか、と疑っております。 当地の丸地名と丸子氏が無縁に思えないのは語呂合わせだけではありません。私は付近にある「仁渡神社」と「仁和多利大権現」といったニワタリ系の社寺にも注目するのです。これらは当地においては国分氏の氏神と伝えられておりますが、それはそれで正しいとして、ニワタリ祭祀全般として俯瞰するならば、ほぼ陸奥国に限定される祭祀とはいえ、宮城県牡鹿半島や福島県田村エリアなど、集中地区がかなり広い範囲にわたってランダムに点在していることも見逃せません。つまり、せいぜい宮城郡周辺の域におさまる国分氏の勢力範囲をはるかに超えており、国分氏の氏神としてのみくくってしまうわけにはいかないのです。 それにしても、これだけ広範囲に痕跡を残せる氏族となればかなり限定されますが、物部氏にしては狭すぎますし、安倍氏や奥州藤原氏であると主張するには岩手県中央部にまで範囲が及んでいないことの説明が出来ません。伊達氏の可能性もぬぐいきれませんが、牡鹿エリアが最多集中地区であることはかなり特徴的であり、これらのことから道嶋氏、すなわち牡鹿連を輩出した丸子氏が最も有力であると、私は考えているわけです。 ちなみに、後の中央政権から俘囚扱いされるまでに斜陽化していた彼らは、「大伴姓」を名乗ることを希望し、それが許されているので、陸奥国の大伴姓についてもその多くが本来丸子姓でありオホ氏の裔孫であった可能性を含みおかなければならないと思っております。少なくとも、中央の大伴系譜が派遣される多賀城時代以前の黒川郡において、既に相当な権勢をふるっていたと考えられる「靱(ゆげい)大伴連」などは、おそらくその類ではなかったか、と疑っております。そして、ここが最大の注目点なのですが、その靱大伴連の祖廟と伝わる黒川郡の延喜式名神社「行(ゆき)神社」は、一昔前「志波大明神」とされておりました。 「上谷刈(かみやがり)」は志波彦の死の現場、すなわち「神あがり」の現場ではなかったか、と私は想像しているわけですが、そこを貫く古街道沿いに「丸」地名が散りばめられていることはかなり示唆に富んでいると捉えております。 真の神武天皇陵が本来は「丸山」にあっただろうことは前に触れましたが、それに代表されるように、この地名のもう一つの特徴は“墓”の気配です。オホ氏やワニ氏のように、神と天皇の間をとりもつ「中ツ臣」の職掌として、もしかしたら墓の番人を担わされることもあったのかもしれません。中ツ臣云々はともかく、丸山と墓の関係に注目したのは私だけではなかったようで、『泉市誌』は「大沢、八坂神社」のくだりに次のようなことを書いております。 ――引用:『泉市誌』―― 神社の東隣接地は丸山といい、大沢部落の共同墓地である。このことは上谷刈の共同墓地も丸山で、さらに野村の丸山も昔の墓地跡であったとのこと、丸山と墓地について何かあるかも知れない。 丸地名にからめて、もう一つ気になっているのは、当地上谷刈の「貴富弥(きぶね)神社」です。この社について、同じく『泉市誌』は「丸田沢、貴船神社」のくだりで次のように書いております。 ――引用:『泉市誌』―― 「書出」にも、勧請年月日不明とあるが、本山派修験利益院が地主で、別当を勤めていたので昔は特に栄えたものと思われる。 上谷刈村は東西に長く、一村鎮守は村の西端向八木沢にあり、東の貴船神社とは直線で四㌖もあるので実質的に、丸田沢地方の村鎮守として祀られたものであろう。 神名にちなんだものか、木製舟の摸型が絵馬替わりに奉納されているのは、奇異に感じられる。 神殿、長床も他のかつての村鎮守と比べて遜色がなく、境内の古碑も多く、神木がトチの木であるのも珍しい。大事にしていきたいものである。 ここにある上谷刈の「一村鎮守」、すなわち「八木沢神社」については他に思うところがあるので、後にあらためて触れたいと思いますが、今私が触れておきたいのは、多賀城周辺の丸山地区にも「貴船神社」があるという事実です。現段階ではほとんどなんの検証もしていないので、うかつなことは言えませんが、丸地名と貴船神社になんらかの因果関係があるのであれば、それをいずれ検証してみたく、備忘録的にここに記しておいた次第です。
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仙台の都心部から県道仙台泉線――旧国道4号――を北に向かうと、住宅地の谷合いを抜けるあたりで、地上に現れた地下鉄「八乙女(やおとめ)駅」の高架下をくぐります。県道はその後左手にJリーグ「ベガルタ仙台」の本拠地である「ユアテックスタジアム」を望みながら川を渡ります。その橋の名を「かむり大橋」といい、「七北田川(ななきたがわ)」の古い呼び名「冠川(かむりがわ)」に因んでおります。そしてそのあたりから北側一帯が、仙台の北の副都心「泉中央」エリアです。 この市街地は、ほんの25〜6年前、昭和の終わりごろに忽然と出現しました。 「支店経済都市」などと呼ばれている仙台市は、都市地理学的には、性格が類似する札幌、福岡、広島などと共に「四大広域中心都市」とされております。しかし、第二次大戦後の高度経済成長期において他の三都市が「政令指定都市」として道府県並みの権限を認められていたのに対し、仙台市はなかなかその指定を受けることが出来ませんでした。最大の理由は人口規模です。昭和63年の合併以前の仙台市の人口は70万人余りで、人口50万人以上という地方自治法における政令指定都市昇格の要件は十分満たしていたはずなのですが、国は直近の広島市が指定された規模と同等の85万人以上を不文律の条件として突き付けておりました。一説に仙台市長が長年革新系であったから云々・・・などともまことしやかに囁かれてもおりましたが、それはともかく、なにしろ当時の仙台市は市域も狭く、それ以上の人口増加がほぼ見込めない状態であったことも事実です。とはいえ都市圏人口としてはゆうに100万人を超える国内屈指の都市であったので、市は昼夜間人口比率などを数値化して実質の都市力の観点から認可をせまっておりました。しかしそういうことではなかったようです。 結局、その暗黙の条件を満たすためには周辺市町村との合併が必要とされました。その合併相手の候補で、最も人口を抱えていたのが「泉市――現:泉区――」であり、合併成立直前の人口は16万人程であったと記憶しておりますが、この合併さえ成れば暗黙の85万人以上という条件をクリアし、政令指定都市昇格に大きく前進するという状態でありました。 転期は、革新系市長の心不全による急死によって訪れました。緊急に行われた選挙において、与党系の市長が当選したからです。その後は比較的テンポよく合併協議が進み、仙台市はついに政令指定都市に昇格することとなりました。その経緯の中で、合併条件の一つとして仙台市側が泉市側に提示していたのは、市営地下鉄の北の「チョミナー」・・・ぃぇ・・・「ターミナル」を泉エリアに設置するということでした。 思えば、私がまだ少年と呼べた頃、牧歌的な田園地帯に突然鉄筋コンクリート建築の「泉市役所」が完成しました。泉市はそもそも仙台のベッドタウンとして急速に人口増加した都市でありますので、かつては特に核となる市街地もありませんでした。しいてあげれば、旧奥州街道の宿場町として発展した「七北田(ななきた)」や「市名坂(いちなざか)」などがそれに該当するのでしょうが、市内全域の中枢機能を担うほどのものではなく、泉市内最大の人口を抱えていた「南光台(なんこうだい)団地」などは、単独でそれらに匹敵するような新興商店街を形成しておりました。したがって、それらのいずれでもない田園地帯に忽然と現れた市役所を目の当たりにして、「なんでこんな不便なところに市役所が・・・」と不思議に感じていたものです。 しかし、その謎は仙台市との合併が具体性を帯びるにつれ氷解していきました。バブル経済期前夜、泉中央地区に連絡する「かむり大橋」を筆頭に、一気に道路網が整備されていったのです。若き日の私は、ビッグバンのように湧いて出た新都心に夢のような高揚感すら感じ、意味もなくしょっちゅう車で駆け巡っておりました。 さて、その「かむり大橋」が架かる「七北田川」の右岸一帯の広範なエリアを「上谷刈(かみやがり)」といいます。上谷刈はかつて一つの村であったので、泉区全体の相当な範囲を占めております。 この上谷刈地区、中世史ファンや街道マニアにとってはなかなか侮れません。なにしろ、このエリアのど真ん中を俗に「秀衡(ひでひら)街道」と呼ばれた「奥州山道」が縦断していたようなのです。秀衡とはもちろん奥州藤原氏の最盛期の頭首である三代秀衡のことです。 この街道はその俗称からもわかるとおり平泉まで通じていた道で、「義経街道」とも呼ばれております。生まれながらにして地図好きな私などは、地図上でその経路を辿ってあれこれ想像しているだけでも数時間はつぶせるのですが、この上谷刈付近の痕跡はなかなかに明瞭で、場所によっては中世以前からほとんど変わっていないだろうと思われる景観もそのまま残されております。また、当地に“丸”地名が多いことは特筆すべきですが、ひとまず通過しておきます。 先に触れた七北田や市名坂といった奥州街道のルートは、どちらかといえば江戸期に伊達政宗によって拓かれた新道であったようで、それ以前は秀衡街道こそが現在の国道四号的な位置づけであったようです。なるほど、そのルート上には「本七北田」という地名もあります。 ところで、上谷刈の地名由来について、菊池善之助さんの『宮城県地名考(宝文堂)』には次のようにあります。 ――引用―― 〜上谷刈の地名の上谷(かみや)は下谷(しもや 埼玉)下谷(したや 東京)などの地名に相対する名称で、上の谷地の意から生まれたものと判断される。刈(かり)は大言海によれば「陸前、陸中にて田稲の収穫に云ふ語、一段五畝を百刈と云ふ」とある様に、本県地方に於ては百刈、五百刈、千刈と田の地積を収穫量によって表現している。上谷刈の刈はここでは反別から田という意を表している語と見られるのである。上谷刈の地は七北田川南岸の高地に開拓された田所であるので、この地名が生まれたと見られるのである。 菊池さんは漢字表記からその意味を考察しております。正解であるのかもしれませんが、私としては一旦別の角度からも考えておきたいところです。私は、歴史的な名称を考える際は「まずは韻から考えること」を心構えにしております。何故なら、古い文献史料を見ているとやたら“当て字”が目につくからです。漢文の名残なのか平仮名を書きたくなかったのか、わざわざ漢字を当てはめている例も少なくありません。たしかにわかる気もします。名詞にひらがなを多用するのは妙に不誠実に感じてしまう感覚が現代の私たちにすらあるからです。だからといって間違った漢字を書くことは決して褒められたことではないのですが、文盲率の高い時代においては文字を読み書き出来ることそのものが知的であったでしょうし、そこに粋な漢字を当てはめるためにはより多様な漢字を操れなければならず、それはさらに高度な知識の証であり、それを読み手が認識出来ることもまた、あたかも連歌の上の句に対する下の句のごとく、一つの嗜みのようなものであったのかもしれません。一昔前、暴走族が自分達のチーム名に適当な漢字を当てはめてスプレーで落書きおりましたが、もしかしたらあれも一つの日本人文化なのかもしれません。
とにかく、私はカミヤガリの韻が気になっているのです。耳で聞くと「神(かみ・かむ)あがり」に聞こえるからです。なにしろ、当地にはそれを後押しするような神話が伝えられております。前にも触れましたが、このあたりの「七北田川――冠(かむり)川:神降(かみふり)川――」には「志波彦神が冠を落とした」あるいは「志波彦が神降った」という神話が伝えられており、それらがどうにも人間時代の志波彦の“神あがり”すなわち“死”を連想させます。 この神話に縁あるのが、冠大橋の東に架けられた「七北田橋」のたもとにある「石留神社」です。私はここが志波彦の死の現場であり墓標であると考えました。だとすれば、そこが上谷刈の中心であれば、私の仮説も一番しっくりきます。しかし残念ながら、ここは中心どころか、上谷刈エリアからも微妙に外れており、そこがほぞを噛むような部分なのです。ただ、今触れたようにこの七北田橋のルートは伊達政宗以降の新道のようです。つまり、志波彦が冠を落としたのは、むしろ旧道たる秀衡街道における渡河地点であったとも考えられます。何を隠そう、そこであれば上谷刈のド真ん中にあたるのです。 では石留神社についてはどう説明がつくだろうか・・・。持論上、そういった聖地は、仮に他に移転しても、元の位置がただの野っぱら扱いになるはずがありません。つまり、私の仮説上で墓標たる石留神社の跡地もなんらかの聖地として、秀衡街道の渡河地点周辺に残っているはずです。とはいえ、そもそも七北田川も他の河川の例にもれず、たびたび流路を変えていたようなので、石留神社跡地は既に底地もろとも川底に消え失せている可能性はあります。それでもしいて挙げるならば、私は「道路神社」を疑います。“道”というと、つい高麗の使節に天皇と見紛われた「越の道君」を思い出させられますが、それはひとまず置くとして、この神社は元々は「道六神――道陸神――」だったとのことです。いずれ、秀衡街道の渡河地点という観点からすれば最有力候補と言えるのではないでしょうか。 とにかく、結局のところ私の中で「上谷刈=神あがり」説は、未だ健在なのです。 |


