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國分荘史考

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 仙台市内には、「弘安(1278〜1288)」の年号が刻まれて、「蒙古の碑」、ないし「モクリコクリの碑」などと呼ばれる板碑の類が散見されます。
 とりわけ、青葉山の東北大学植物園内に現存するそれについては、被供養者のことと思しき「陸奥州主」なる文字が銘文中にみえ、それを元寇と対峙した八代執権北条時宗の右腕として絶大なる人望を集めていた御家人、かつ陸奥守でもあった「安達泰盛」を指しているものとみる説があります。
 なるほど、泰盛が霜月騒動によって討たれた時期や、陸奥守でありながら逆臣として討たれたが故にその供養が文保元(1317)年頃まで禁忌であったとされていた事情は、蒙古の碑と呼ばれる一連の碑の被供養者が謎めいていることとも符合します。
 とりあえずその説自体は『仙台市史』によって認知しており、極めて興味深い説なので以前「安達泰盛の供養」と題して記事も書いているのですが、先日拙記事「牧嶋観音堂」他にコメントを寄せられたA氏の御教示によって、それが七海雅人さんの説であったことをはじめて知りました。
 ウェブで検索してみると、御教示の論文「鎌倉幕府御家人制の展開過程」の要旨が見つかりました。
 それは、七海さんが平成十一(1999)年十月二十一日付で博士号の授与に至った審査の要旨を記録した目録で、――補論二「『蒙古の碑』ノート」では、東北大学理学部附属植物園内に立つ、いわゆる「蒙古の碑」(「弘安第十歳二月時正第六番」銘板碑)の被供養者「陸奥州主」が安達泰盛 に比定できるという新設を提示する――とあることから、青葉山の蒙古の碑の安達泰盛供養碑説が七海さんによる新説であったことがわかります。
 学位の審査に申請されたと思しき論文内容の要旨そのものの日付は同年の六月二十日であり、すなわち、翌年平成十二(2000)年三月三十一日発行の『仙台市史 通史編2 古代中世』が、出来立てほやほやの七海新説を反映させていたことにも気付きました。
 400宇詰め原稿用紙に換算して1200枚を超える雄編という当該論文は、一応吉川弘文館にて書籍化されているようなのですが、なにしろ定価11,880円と高価なうえに新品では見当たらず、辛うじて中古本が27,000円と高騰しているのが現状のようです。
 いずれ機会をみて拝読して論の詳細を知りたいとも思っております。
 ともあれ、A氏の御教示で特に興味深かったのは、燕沢には「安達一族」が多く住まい、「蒙古碑」に関わった人なども安達氏であり、牧嶋観音堂脇に「蒙古之碑跡」と記した石を建てたのも昭和55年当時町会長を務めた「安達進七」氏であった、という旨の話です。
 それには全く気付いておりませんでした。
 とりあえず私は牧嶋観音堂に足を運び、昭和五十五年建立の現地の「蒙古之碑跡」の記念碑を再確認しましたが、なるほど、たしかに記念碑の裏面には「安達進七」さんの名が見えました。そればかりなら単に町会長であったから、ということも考えられるでしょうが、名の刻まれた計12名のうち、6名が安達姓であったことは特筆に値します。

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 さらに、境内に入ってすぐ右手に設置されていた芳名一覧をみても、観音堂建立に際して寄進した数百名にも及ぶリストには安達姓がひときわ多く見られました。

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 なるほど、もはやこの謎めく供養の主軸は安達一族であったとみて差し支えないでしょう。
 また、仮に安達泰盛の供養碑とあらば、無学祖元の関与も十分あり得たかもしれませんが、弘安五(1282)年の銘のこの碑が、その三年後の弘安八(1285)年の霜月騒動で滅ぶ泰盛一族の供養碑ということはあり得ません。
 しかし、この芳名一覧からみれば、安達一族が関係する碑であったことは間違いなさそうです。いみじくも、弘安五(1282)年は泰盛が陸奥守に就任した年でもあります。
 それにしても江戸時代の天明三(1783)年鹽竈神社の祠官であった藤塚知明による碑文解読や、昭和十六(1941)年蒙古聯合自治主席徳王の参拝などのエピソードで蒙古の碑として代表的なこの「燕沢の碑」がこうであるならば、青葉山に限らず、いわゆる「蒙古の碑」と呼ばれる同時期建立の旧宮城府中の碑のほとんどが安達泰盛に関係するものであった可能性すら高まります。
 仮にそれが肯定さるべきものならば、では、何故これらの碑は「蒙古の碑」などと呼ばれるようになったのでしょうか。
 藤原相之助は、『郷土研究としての小萩ものがたり』の中で藤塚知明の考証以降にそう呼ばれるようになった旨を述べておりますが、はたして、これほど突拍子もない学説がそう簡単に主流の説として後世まで浸透し得るものなのでしょうか。
 一時的な政策的意図に基づくものならば、こうまで浸透することはないでしょう。私は、やはり浸透し得る下地があったからこその現状であると考えます。
 おぼろげながら、弘安年間建立の一連の碑がそもそも「モクリコクリの碑」と呼ばれていた下地があったところに藤塚知明の説が上書きされたかのような話をどこかで見聞きした覚えがあるのですが、もしかしたら石巻の田道将軍碑の偽作説と混同しているかもしれませんし、なにしろ出典を思い出せないので保留しておきます。
 ともあれ、現代に至って蒙古の碑なる解釈への違和感を覚える人が多いのは、おそらく、侵略者たる元―蒙古―の兵が元寇とは直接的に関係のない宮城郡で供養されていたわけがない、という前提が少なからず頭にあるからでしょう。実際そう考えるのが自然だとは思います。
 もしかしたら、藤塚知明なり当時の知識人は安達泰盛に関わる供養碑であることを暗黙に認識していて、その明文化を憚ったのでしょうか。
 いえ、時は江戸時代であるわけで、鎌倉時代に憚られた泰盛供養の禁忌に気を遣う必要など微塵もあるはずがなく、仮に憚ったのだとしても、わざわざ誰しもが違和感を抱きかねない疑わしい内容に捻じ曲げる必要などなかったはずです。
 そこで注目すべきは、A氏の注目した書生「河成允」なる人物なのかもしれません。A氏は藤塚知明の説の出処がこの人物であることに着目しておりました。
 この人物を明らかにすることは未だ叶いませんが、「河」が高麗の姓であるかもしれないということはわかりました。
 太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、薩摩日置郡下伊集院村の大字「苗代川(のしろこ)」には、太閤秀吉の朝鮮征伐の際に一郷まるごと帰降して薩摩のこの地に土地を与えられた高麗の老若男女がいたようで、その中には河姓も見られたようです。
 河成允がその裔孫であったかどうかはわかりませんが、侵略戦争に巻き込まれて祖国を離れざるを得なかった同朋への想いが、時代を越えて元寇の尖兵とされた祖国兵戦没者へのそれと重なり合ったのだとしても不思議ではありません。
 仮にその憶測どおりであったにしても、博学で知られる藤塚知明が河の草稿を無批判に受け入れたのは、そこになんらの違和感もなかったからではないのでしょうか。
 思うに、やはり、まだ馬産王国の名残が濃厚であっただろうその時代の陸奥にあっては、騎馬民族たる蒙古なり高麗なりが現在よりもはるかに身近であって、その供養の碑があったとしても自然に受け入れられたのではないでしょうか。
 また、いみじくも七海さんが『鎌倉幕府と東北(吉川弘文館)』の中で、次のようなことに着目しております。

―引用―
〜泰盛の陸奥守は単なる名国司ではなく、秋田城介の官職と同様、実際に陸奥国の行政に関わる志向性をもっていた可能性も指摘したい。その任官が弘安の役を経た時点で行なわれた点は、幕府の軍事体制の一層の強化という課題と関連づけてとらえられる余地があるからである。例えばそれは、時宗の没後、将軍惟康へ示された政策綱領の一つ、奥羽両国を除いて東国の「御牧(みまき)」(幕府直轄の牧)を停止する、という条項(鎌倉幕府追加法五一九)にうかがうことができる。

 なにやら泰盛は、元寇後の軍事体制の見直しのなかで馬産王国たる奥羽両国の特化をはかっていたことが窺われます。
 以前私は、伊達政宗が真田幸村の遺児を保護した背景には領内の信濃・高句麗系馬産民の手綱を握る目的があったのではなかったか、という旨の試論を記事化しました―拙記事「伊達家による真田幸村遺児保護についての試論」参照―。泰盛にしても同じであったはずと思うのです。
 したがって、その時期に信濃ないし高句麗由来の彼らを慰撫するなんらかの手立てが打たれていたものと考えるわけですが、もしかしたらそれこそが「モクリコクリ―蒙古高句麗―」信仰であったのかもしれない、などとも思うのです。
 藩政時代「御宮町」と呼ばれていた「宮町―仙台市青葉区宮町―」は、仙臺藩主二代伊達忠宗が徳川幕府におもねり東照大権現―徳川家康の勅諡号―をお迎えせんと城下北東部に新たに縄張りした門前町であったわけですが、言い換えれば、それは「仙臺東照宮」の氏子の町として形成されたニュータウンであったということでもあります。
 しかし、新興祭祀の神社を新設するというのは単にハードの部分さえ作れば勝手に機能してくれる類のものではありません。現在でこそ地域の氏神としてしっかり根付いて多くの市民から親しまれている仙臺東照宮ですが、おそらく草創期には怪しげな新興宗教となんら変わりがなかったことでしょう。
 神社の管理運営には、すべからく氏子の信心と労力が不可欠なわけですが、御宮町の町人からしてみれば、それまで存在しなかった神社の門前町に強権的に移住させられて、以後貴殿らはこの社の氏子である、などといわれても、ほとんどの者がそれを義務感以上の感情では奉祀できなかったものと想像します。
 例えば、同じ徳川時代に至って政策的に檀家制度を整えられた寺院の場合であれば、そこにご先祖様のお墓も用意されたわけですから、さほどの抵抗もなくそれに親しむことは出来たことでしょう。しかし、いかに祭神の本質が神君家康公とはいえ、自分たちと血縁はもちろん地縁すらもない神仏に対して公儀の域を超えて手を合わせることが出来ていた者などどれほどいたのでしょう。奉職を強制された町人やそこから選ばれた検断・肝入といった町役人、ひいては町奉行、仮に、一門、藩主に至るまでの武家社会全体を見渡してみたとしても、ほぼ皆無であったのではないでしょうか。したがって、おそらく東照宮の別当寺として開基された「仙岳院(せんがくいん)」には氏子の墓地も用意されて、そのまま檀家としても組み込まれたのだろうとは思うのですが、そのあたりは未確認です。
 いずれ、宮町町人は、「御用捨(ごようしゃ)」といって諸役負担が免除され、かつ軽微な年貢負担のみが課された耕地を与えられたり、本来課せられるべき諸役を免除されるなど藩によって特別に優遇されてはいたようです―『仙台市史』参照―。
 思うに、偉大すぎた藩祖政宗公亡き後の伊達仙台藩にとって、いわば東照宮御用特区の整備は、徳川幕府との円滑な関係を維持する上で最重要に位置づけられたプロジェクトであった事でしょう。実際に運営するのは東照宮と人的組織が一体の仙岳院であったわけですが、仙岳院が藩内寺格最高位の御一門格に位置づけられたのはそれ故でしょう。
 さて、草創期の御宮町の町人は、そもそもどういった人たちで、どこから移住させられたのでしょうか。正確にはわかりませんが、実はそれを推し量る材料がないでもありません。享保十四(1729)年に起きた御宮町検断罷免事件にそれを透かし見ることが出来そうです。
 『仙台市史』は、町方社会の中における御宮町の特殊性をみるくだりの中で、その事件を取り上げております。
 事件は、「榴岡天満宮(つつじがおかてんまんぐう)」が御宮町の者をみずからの氏子とみなし、守り札を配るなどの宗教的行為を行ったことに端を発しました。
 これは問題となって当然でしょう。藩の特命プロジェクトを覆しかねない横恋慕を仕掛けているに等しいからです。
 ところが、この一件について町奉行が御宮町の上・下の街区の各々の検断(けんだん)―警察権のある町内会長のようなもの―に問い合わせたところ、両者ともに、御宮町の者は天満宮の氏子である、と回答したようなのです。しかも驚くことに町奉行はそれをすんなり承認しました。
 さすがにこれには東照宮側も黙ってはいられません。
 東照宮別当寺の仙岳院は、御宮町が東照宮の門前町であることと、町人が東照宮の氏子である旨を主張しました。もちろんこれは藩にも受け入れられ、藩上層部は町奉行の判断を誤りと裁定を下しました。
 なにしろ仙岳院は仙臺藩内最高の寺格を誇る御一門格の寺なのです。町人あがりの検断が勝てる相手ではありません。仙岳院は両検断を罷免し、町奉行へは事後報告で済ませたとのことです。
 しかし、藩上層部に誤判断と裁定された上に、検断の罷免という重要案件を事後報告で簡単に済まされてしまっては、町奉行のメンツが立ちません。さすがに後任の人事については譲らなかったようです。仙岳院は東照宮御用を理由に御宮町町人から選出すべしと主張したようなのですが、町奉行はそれを否定し、あてつけのように天満宮氏子意識をもたないであろう外部の人材を強行選任したようです。
 ちなみに、新任の検断は国分町肝入りと染師町元検断であったようですが、このような御宮町と関係の希薄な検断が就任するといった事などを機に、東照宮御用を根拠にしていた御宮町の特権も徐々に忘れられ、他の町と同質化していったようです。
 ともあれ、この事件の顛末から、御宮町の町人は自分たちが榴岡天満宮の氏子であるという意識の強かったことがよくわかります。
 榴岡天満宮は、本来仙台東照宮の場所―國分荘玉手崎―に鎮座していた天神社が、東照宮の創建にともない社地を退かせられ、榴岡(つつじがおか)、すなわちかつて平泉軍が対鎌倉軍の総司令部を置いた「國分ヶ原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」の地に移転させられた上で天満宮と化したものであります。
 おそらく東照宮の氏子として御宮町に集められた町人は、本来、小萩伝説を通じて平泉滅亡を憂い伝えていた國分荘玉手崎なり玉田横野一帯の里人であり、すなわち國分荘玉手崎時代の天神社の氏子であったのでしょう。
 もしかしたら、新設の仙岳院が全く地縁のない平泉中尊寺の別当職を兼任しその運営および寺領支配を行うに至った理由もそこにあったのかもしれません。

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仙臺東照宮本殿

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東照宮からみた御宮町

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東照宮前の仙山線の踏切。
余談ながら私はこの風景が好きです。日常生活ではわずらわしいばかりの踏切ですが、その新設は現行法令において厳しく制限されていると聞いたことがあります。将来的に消えゆく懐かしい風景と思えば、これもまた風情なのかもしれません。
 現在、仙台市若林区新寺にある龍泉院の本堂は、新寺通―旧新寺小路―側、すなわち南側を向いておりますが、本来の正門は西側道路に面した山門のようです。元禄期の城下絵図の表記も西を頭にしておりますので間違いないでしょう。
 その西入りの山門の両脇には、「龍泉院六地蔵」と名付けられた六体の地蔵が左右三体ずつに分かれて並んでいるのですが、これがために龍泉院は通称「六地蔵」と呼ばれております。しかし六地蔵が山門に並び始めた歴史は意外に浅く、明治以降になります。これらは、本来付近の「六道の辻」にありました。

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「龍泉院六地蔵」

 「六道の辻」については、『仙臺鹿の子』に「六道の辻は清水小路北詰の角をいふ六方へ六筋わかりたる街なれば六道の辻といふ又或る説に來世六道を此所へ立つ故に六道といふ此説たしかならず」と記されております。
 現在の現地は、俗に「北目ガード」と呼ばれる頭の低い鉄道高架下を、窮屈な歩道と自転車道、そして東向き一方通行の車道に分離された北目町通(きためまちどおり)が潜り、辛うじて仙台駅の東西を連絡しているわけですが、明治時代の鉄道開通、及び仙台駅の完成によって、周辺の街区が著しく変化しているので、「六方へ六筋わかりたる街」の面影は微塵もありません。
 ただ私は、この「六方へ六筋わかりたる街」よりも、むしろ、「たしかならぬ説」と否定されたところの「来世六道」云々こそが本来の「六道の辻」の命名由来であっただろうと考えております。

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「北目ガード」

 なにしろ清水小路や谷地小路の通り名も示すとおり、六道の辻の東側一帯はひとたび大雨が降れば大沼と化す場所でもあったと思われます。
 城下北部を東流している梅田川は、宮城野区原町付近で榴ヶ岡丘陵に阻まれ、一部渓谷を形成しながら東に抜けているのですが、『仙台市史』によれば、往古、増水の際にはその渓谷が隘路となり、あふれた水が清水沼―現:清水沼公園―に流れこみ、その結果清水沼は大沼となり、更に西へ広がり丘陵西部の鞍部を乗り越えて南西の連坊小路のあたりまで続いていたものと考えられるようです。おそらくは先に触れた影海―影沼・懸沼―をも飲み込む大沼が現れていたということでしょう。
六道の辻はその大沼の西の畔にあたると推測されます。

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 以前にも触れたとおり、この大沼は仙臺開府以前の小田原村と荒巻村と南目村の村境にあたり、特に六道の辻は現在仙台市青葉区二日町に鎮座する「村境榎神社」の元の鎮座地であったのであろうと私は推察しております。
 なにしろこの村境榎神社は、かつて「小田原村と荒巻村との境」にあったと伝わる一方で、「仙臺と荒巻邑の境」にあったとも伝えられております。両地はどう解釈しても同一地にはあてはめ難く、私は、「小田原村と荒巻村との境」を「六道の辻」、「仙臺と荒巻邑の境」を「仙台市役所北東角」と読み、同社鎮座地の変遷を伝えているものと最大公約数的な解釈を試みているのです。
 八ツ塚―仙台市若林区新寺―のあたりは古くから霊地であって異界なり冥界なりとみられていたフシがあり、だからこそ影海―影沼・懸沼―のような得体のしれないものが伝えられ、故に「六道」なのでしょう。さすれば八ツ塚の北から南西までを包むように溢れ出す大沼は、さしずめ三途の川に擬されていたのかもしれません。
 仙臺城建設に伴い立ち退くこととなった龍泉院と長泉寺は、そのような所に換地され、新寺小路の先駆となったわけです。

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「松音寺山門」

 龍泉院と共に移転せしめられた長泉寺(ちょうせんじ)は、明治時代に廃されております。底地にはかつて連坊小学校のあたりにあった松音寺が遷されてきました。その松音寺の山門は、伊達政宗公の隠居屋敷「若林城」の城門なのだそうです。

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「長泉寺横丁」

 廃された長泉寺の名は現在街路名にのみ残されております。
 今、包丁一本をさらしに巻いて「こいさん」とつぶやいてしまった方、お気持ちはわかります。
 八ツ塚の地名由来となった八つの塚は、『仙臺鹿の子』には「或る人の塚」とあり、『嚢塵埃捨録(のうじんあいしゃろく)』には「山伏八人を埋めたる塚」とあり、『残月臺本荒萩』には「國司の塚」とあります。
 『嚢塵埃捨録』の「山伏八人」とは、当地の沼の大蛇を咒咀(じゅそ)して退治したという八人の山伏です。彼らは、大蛇を退治した際にその毒気にあたり、死んでしまったのだそうです。
 また、元ネタは不明ながら、七北田刑場―仙台市泉区七北田字杉ノ田―の火炙りの刑の真似事をして焼死した子供を供養したもの、という伝説もあるようです。
 八ツ塚所在地の一つとされる正雲寺境内の六地蔵の後ろには、首の欠けた古い八体の地蔵があるのですが、先の木村孝文さんの『若林の散歩手帖(宝文堂)』によれば、それらは身代わりに建てた八つの地蔵塚のそれと伝わっているようです。

―引用:『若林の散歩手帖』より―
 昔、七北田の刑場で重罪人の火炙りの刑が行われた。それを見た者の中の子供らが七北田から帰って、火炙りの真似事をし、一人の子供を罪人に擬して、ぐるぐると縛りつけ、藁や杉葉を集めて火をつけた。火は見る見るうちに燃え出し、遂に中の子供は無残にも焼け死んでしまった。子供たちはどうすることもできず、そっと埋めて帰った。夜になって一人の子供が帰らないので騒ぎだし、八方捜索して灰燼の中から死体が発見され、ことの次第が判明した。子供の親達は申し訳ないと、供養のためと身代わりに八つの地蔵塚を建てて弔ったという。
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 なんともやるせない悲痛な物語です。
 多かれ少なかれ、幼い子供が時としてこのように無垢な残虐性を暴発させてしまうことは認めざるを得ないところでありますが、ここには美化されることもなく痛々しくもあからさまなリアリティがあります。おそらく実際にそういった事故があったのでしょう。身代わりということは、八体の首の欠けた地蔵の数は遊びに加わった子供の頭数ということなのでしょうか。
 しかし、なにしろ七北田刑場は元禄三(1690)年に米ケ袋―仙台市青葉区―から遷された刑場であります。つまり、新寺小路が成ったとされる寛永年間(1624〜1644)より新しいものです。さすれば、それ以降に八ツ塚が築かれたという話には違和感があります。
 城下米ケ袋から郊外の七北田への刑場の移転については、五代将軍徳川綱吉による生類憐み関係の発令の数々―第一声は貞享二(1685)年―を受けて城下から隔離したのではないか、というのが私論なのですが、仮に、子供たちの悲痛な事故が、七北田刑場ではなく移転前の米ケ袋でのそれを目撃したことによるものとした場合、それは憐み政策によって戦国の気風が激変する以前の事故ということになります。
 すなわち、刀の試しものや家族計画の間引きなど、とにかく人の命が軽々と失われていた時代です。こう書くと誤解を招くかもしれませんが、よほどの名のある家の家督でもない限り、単に一人の子供の悲痛な事故をきっかけとした供養塚がその後永く地名として残るとも思えません。
 また、安永七(1778)年頃に成ったとされる『残月臺本荒萩』に「國司の塚」と記されていた八ツ塚が、成書以前のたかだか90年以内に築かれたものとも思えません。
 したがって、おそらく、地蔵の頭数「八」という数字が、たまたま八ツ塚のそれと一緒だったので、伝説が混乱したのでしょう。私はやはり、「国司の塚」という伝説が限りなく真実に近いと考えます。
 以前も触れましたが、この長町利府活断層線のラインは、特に広瀬川以南―旧国道286号沿い―において集中して古墳が発見されております。それらは5世紀末から6世紀にかけてのものとされておりますが、築造時期はともかく、思うに、八ツ塚もその埋葬供養観念の延長上にあったものと捉えて良いのではないでしょうか。
 藩祖伊達政宗による仙臺城築城にともない移転せしめられた龍泉院は、仙台市若林区新寺の地に換地されたわけですが、近世以前、このあたりの地名は「八ツ塚」と呼ばれておりました。後にあらためて触れますが、かつてこの地に文字通りの八つの塚があったことに因むようです。
 現在の新寺という地名は、仙臺開府以降に成った「新寺小路」なる通り名に因むわけですが、一般にこれは「元寺小路」に対して新しい寺小路であったからと理解されており、『残月臺本荒萩』には「寛永年中本寺小路より。寺院を此所へ移さる」とあり、『仙臺鹿の子』にはより具体的に「元寺小路昔寺町なり寛永十四年の頃八ツ塚へ移し侍丁となる故に元寺小路といふ」とあります。
 しかし実際には、元寺小路にはその後も依然として寺が並んでおりました。
 それは、寛永年間(1624〜1644)より下る寛文年間(1661〜1673)、及びそれ以降の藩政時代各年代の城下絵図からもあきらかであり、少なくとも、宝暦十三(1763)年から9年の歳月をかけて完稿したと考えられる『封内風土記』にて新寺小路に立ち並ぶ寺の縁起を確認してみた限り、東秀院のみが「舊くは谷地小路の東、門前の車地蔵に因み車地蔵と號された地に在ったものが、今の地―八ツ塚―に移った〜(原文は漢文)」と、さしあたり元寺小路から移ったものと言えそうではあるものの、その他には見当たりません。
 なにしろ漢文を模索しながらの解読なので、見落としもあるかもしれませんが、『仙台市史』所載の「仙台城下における寺社の移動と配置」の図でみても、旧地が元寺小路と思しき新寺小路の寺は、やはり、東秀院以外に見当たりません。
 また、龍泉院の縁起を信ずるならば、元々仙臺城の地にあった龍泉院と長泉寺が八ツ塚―新寺小路―に移転させられたのは、仙臺城建設に伴う用地収用のためでありました。
 ということは、城下の町割りにともなう元寺小路の成立とほぼ同時期、いえ、むしろそれよりも早く八ツ塚の地に新寺小路の基となるような体が形成され始めていたと考えられます。
 では何故むしろ開発の古い可能性すらある新寺小路が、元寺小路に対して「新」であったのでしょうか。
 シンプルに考えて、それよりも更に古くに元寺小路が成立していたからと考える他はありませんが、それはすなわち、仙臺開府以前から既にそこに寺小路があったことを意味します。
 仙臺開府以前のこのあたりは何もない荒地であったとはよく言われる話ですが、実際にはやはり以前私が推測したとおり、例えば國分彦九郎盛重の館なりなんらかの施設があったのではないでしょうか。そしてその周辺には幾ばくかの寺が建ち、少なからず寺町の体を成していたのではないでしょうか。ゆえに新寺小路に先んじていたことを意味する元寺小路の呼称が浸透し得たのではないでしょうか。
 さて、仙臺城建設にともない移転を余儀なくされた龍泉院および長泉寺でありますが、何故この二寺院は「元寺小路」でも「北山」でも「向山」でもなく、「八ツ塚―後の新寺小路―」の地に換地されたのでしょうか。
 まずは八ツ塚がどのような地であったかを確認しておきたいと思います。
 八ツ塚の地は、地理的には、奥州藤原四代泰衡による対鎌倉戦の総司令部が置かれた國分ケ原鞭楯―現在の榴岡公園―の南麓であり、仙臺城からみれば陸奥國分寺の北側に広がる宮城野原に抜ける途中に位置しております。
 地形的には、その西端が谷地小路にあたり、東端が長町利府断層線なる活断層の高低差であり、周囲よりは一段高い微高地であると言えます。
 西端となる谷地小路はひとたび大雨でも降れば沼地と化す地勢に因む通り名であり、実際そのあたりには、例えば『仙臺鹿の子』に「影海」、『嚢塵埃捨録』に「影沼」、『残月臺本荒萩』に「懸沼」なる記載があり、なんらかの沼があったと考えられます。
 ただ、これを沼であったと断言するのも実は難しいところがあります。何故なら、『残月臺本荒萩』には「新寺小路中ほど高き地形の所有り。此所より天氣未明に東を見れば。海上天に移りて見ゆ。今地をけずりたれば見えず」とあるからです。これを信じるならば、「懸沼」とは海になぞらえた蜃気楼への表現であるようにも思えますし、むしろ高い地形がけずりとられたが故にそれが見えなくなったとさえ記されてあります。
 しかし、『嚢塵埃捨録』は「影海」のくだりで「昔惡蛇の住みたりし池なりと云ふ」と記しており、同「八ツ塚」のくだりにおいて、かつてそこに沼があって大蛇が住んでいた旨の伝説も記しており、両者はおそらく同じ伝説のことと思われます。
 また、『仙臺鹿の子』には「天和年中の頃くほき所へ土を置きぬれは水かげうつらす今は影海見えす」とあり、やはりなんらかの沼があって、それが埋められたことを記しております。これを信じるならば、その沼は天和年中(1681〜1684)以前の仙臺開府の頃―慶長年中(1596〜1615)―にはまだ存在していたということになります。
 最大公約数的に咀嚼するならば、やはりかつて沼は存在し、そこから立ち昇る湿気と黎明の薄明りとの屈折によって蜃気楼が発生し、それが丘陵地の稜線にあたかも海のごとく見えていたものが、天和年中に起伏を均して沼を埋めがために見えなくなった、といったところになりそうですが、おそらく、そういった現実的な視覚の話ではなく、八ツ塚に起因するなにかスピリチュアルな情景を伝えているのでしょう。
 いずれ、起伏が均され沼が埋められたらしき天和年中は、丁度『先代旧事本紀大成経』が焚書発禁となった頃、それに伴い時の将軍綱吉のブレーンたる高僧潮音道海が首謀者の一人として幕府から謹慎処分とされ、にもかかわらずその正当性を各方面に主張していた頃でもあります。
 すなわち、その潮音道海に影響を受けていたはずの仙臺藩主四代伊達綱村がせわしく領内の寺社の再編を行っていた頃ですから、もしかしたらこの沼はその政策理念のもとに埋められたのかもしれません。※拙記事「先代旧事本紀大成経が流行した時代―序章―」参照
 さて、八ツ塚と呼ばれた八つの塚について、木村孝文さんは『若林の散歩手帖(宝文堂)』の中で「大林寺、松音寺(長泉寺)、妙心院、愚鈍院の四ヶ所にあったことしか明らかでない」としておりますが、これはおそらく『封内風土記』に記載のものを拾ったものと思われます。
 『嚢塵埃捨録』で確認してみると、この四寺に加えて、「成覺寺」「正雲寺」「大徳寺」「林松院」にもそれがあったことが記されており、さしあたり八つ全てが各々の寺院境内地にあったと考えられます。
 いえ、むしろ、その塚がために寺が置かれ、それこそが新寺小路をその名の体と成らしめた由来になったのではないのでしょうか。

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明治時代に廃された長泉寺の跡地に遷された松音寺の境内に設置された碑に刻まれた安政の地図に、八ツ塚を落とし込んでみました。

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