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東北歴史博物館の企画展「考古学からの挑戦―東北大学考古学研究の軌跡―」において、宮城県加美(かみ)郡色麻(しかま)町の「日の出山窯跡」から出土した瓦数点が展示されておりました。それらは多賀城初期の瓦と共通することから、日の出山が多賀城創建期の瓦供給元のひとつとして注目されることになりました。 特に私の目にとまったのは、「小田」という文字が刻まれた丸瓦と、「小田建万呂」という文字が刻まれた鬼瓦です。 展示説明によると、これは「小田郡の丸子部建万呂」を省略したもので、瓦生産に関わった人物の名と考えられているようです。 もちろん私が重視するのは“丸子部”姓の人物という部分です。 どのような経緯でこの人物が丸子部の一族と判断されたのかはわかりませんが、少なくとも『続日本紀』の延暦四年二月の条に陸奥国小田郡の大領・正六位上の「丸子部勝麻呂(わにこべのかつまろ)」なる人物が蝦夷征討の功により外従五位下を授かった記事があり、その名の類似性からも同族であろうことはほぼ間違いないと受け止めております。 ともかくも、奇跡的な産金によって朝廷の覚えめでたい小田郡の、“大領”であるということは、後に大伴姓への改姓を許される一族、すなわち陸奥大国造たる「道嶋宿禰嶋足(みちしまのすくねのしまたり」を輩出した“丸子氏”の同族でもあろうと考えます。 度々主張しているように、私はこれを、オホ氏同様に神と天皇の間をとりもつ中ツ臣たるワニ氏の子部と化したオホ氏であろうと考えており、彼ら中ツ臣氏族は大和盆地において三輪山や三笠山を基準点としたアマテル信仰―太陽信仰―の“仕掛け”を施しておりました。 先にも触れたように、日の出山窯跡群一帯には“天神”地名があり、実際に「天神社」もあるわけですが、この天神の本来の姿は学問の神様たる菅原道真ではなく、「日の出」の地名が語るように“太陽の神”に他ならないでしょう。 余談ながら、太陽信仰は地球上のどこにでも発祥し得ます。 つまり、王族の始祖なり宗祖なりを聖人と讃える延長線上に「太陽から生まれた」と考える思考は地球上のどこにでも普遍的なものであり、自ずとその聖人を生んだ母が「太陽と聖婚した」と伝説化されやすかったことは間違いないでしょう。 中でも、短くなっていく太陽の照射時間が折り返す時期故に、死と再生を意味する冬至前後の日の出・日の入りは特に重要であって、クリスマスに聖母マリアがイエス・キリストを生んだとされる神話の発祥も、より古い時代の太陽信仰に基づく冬至の死と再生の神話が取り込まれたものと私は考えます。 時折、女神天照大神が聖母マリアであった、あるいは転じて男神アマテルの后たる瀬織津姫が聖母マリアであった、というような突飛な論も見かけます。 神話などの共通する部分を拾い上げて結び付けてしまいたい気持ちはわかるのですが、地球上のどこにでも普遍的な太陽信仰に基づく母子神信仰が発祥し得ることを考えれば、そこは冷静になっておきたいところです。 さて、日の出山窯跡を抱える色麻エリアは、「音羽山清水寺」が伝える「小萩観音伝説」を通じて仙台東照宮一帯、すなわち「國分荘玉手崎」との直接的な歴史の共有が窺えます。 なにしろ、國分荘玉手崎周辺一帯も多賀城や國分寺の瓦供給源であり、現在の東照宮は、伊達氏の時代に天神社を他の場所に遷座した上で勧請されたものでありました。 現在、榴岡公園―仙台市宮城野区―の西隣に鎮座する「榴岡天満宮」がその天神社であるわけですが、そういった事情から、その由緒・伝承等は、伊達氏以前の仙台の領主の素性をあぶり出す上で貴重なものと考えます。 『封内風土記』等から、「小萩観音」がこの天神社の本地仏であったと伝承されていたことがわかるのですが、そもそも色麻と共通する属性が既に当地にあったからこそ天神社も小萩観音も持ちこまれたのでしょう。 その属性の一つに、私は丸子氏を加えておきたいと考えます。 「舎人(とねり)」とヘラ書きされた須惠器などの出土品から、丸子氏が関わった牡鹿柵の有力候補と目される「赤井遺跡―宮城県東松島市―」の周辺には、「照日権現」を守護神とする「照井氏」の伝承が濃厚に混在しております。 丸子氏と照井氏にはなんらかの密接な関係があったと想定しているわけですが、なにしろ、私は國分荘玉手崎に天神社を持ちこんだと伝承される「島津陸奥守」の最有力候補として照井氏を想定しております。 東北歴史博物館で拝観した瓦に刺激を受けた私は、國分荘玉手崎における太陽信仰の軌跡を少しでも明確に出来ないものかと思い、帰宅後仙台市の地図を広げ、天神社の旧鎮座地たる「瞑想の松」や、「福澤神社」等の小萩伝説関連地に冬至の日の出及び日没ラインをひいてみました。 当初の私の目論みとしては、瞑想の松の冬至日の出ラインに、元々は天神社であった旨が『嚢塵埃捨録』に記される「小田原神明社」、あるいは、由緒に小萩が住んでいたと伝える「福澤神社」がかかるのではないか、と期待していたのですが、どちらもかかっておりませんでした。 しかし、小田原神明社については、元々現在地の南西200メートルほどの場所にあったものが仙台藩主四代伊達綱村によって現在地に遷されたといいますので、そうなると、もしかしたら本来は冬至ラインに乗っていた可能性が高まります。 また、「信夫の嫗−信夫荘司佐藤基晴の妻―」の「墓じるしの一本松:高松」の場所―萬寿寺―はほぼ冬至ラインのようです。 一方、小田原神明社が天神社であったのだとすればこちらの神明社もそうであったのではないか、と私が推測していたところの「荒巻神明社」は、見事に福澤神社の夏至の日没ラインにありました。 つまり、逆に言えば、荒巻神明社の冬至の日の出ライン上に福澤神社があったのです。 なにより、その荒巻神明社の冬至日の出ラインと瞑想の松の日没ラインを交差させてみたとき、私は鳥肌が立ちました。 現在「台原緑地」という風致地区の林になっているこのあたりには、かつて「小萩の墓」と伝わる「小萩塚」があったはずなのです。 つまり、小萩の墓から見て冬至の日の出ラインに小萩居住伝説のある福澤神社があったということになります。 地図上になんらかの発見を期待していろいろな思惑で線をひけば、必ずどこかの寺社にはぶつかることでしょう。地図好きな私は、ゲーム感覚でこれまで幾つもそういったものを見つけました。 しかしそれらの寺社の間になんらかの確固たる共通事項が見い出せなければなんの意味もありません。調査のきっかけとしては有意義な一歩ではあるのでしょうが、因果をうたうにはお粗末過ぎます。 しかし、今回のものは次元が違います。 何故なら、“天神”という事実に基づくライン設定と、天神社の本地仏とされる小萩観音伝説の関連地に限定した位置関係における発見だからです。 國分荘玉手崎には、少なくとも「馬に精通した集団」、「窯業を職掌とした集団」、加えて「太陽信仰の集団」がいたことは間違いなさそうです。それらが各々別個なのか同一なのかはわかりませんが、同一なのであれば、それは丸子氏なり照井氏であった可能性がますます高まった、と考えております。
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國分荘史考
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照井氏が「薬萊山(やくらいさん)―宮城県加美郡―」の信仰とどのような関係にあったのかはまだ頭の中で整理出来ておりませんが、山容の似た大和の三輪山においては、少なくともオホ氏や秦(はた)氏が大がかりなアマテル信仰の舞台を整えておりました。 そのオホ氏となんらかの浅からぬ関係にあるだろう照井氏は、「照日権現」を守護神としており、照井という姓自体も“照日”に因んだものと想像するに難くなく、すなわち濃厚なアマテル信仰の氏族であることは確実です。したがって薬萊山に対して三輪山と同様の仕掛けを施していた可能性も高いと考えます。 少なくとも、薬萊山の真東には「篦岳(ののだけ)」があり、真西には死の山「月山(がっさん)」があり、つまり、薬萊山の頂上に立てば、春分・秋分のお彼岸には篦岳から日が昇り、死の山月山に日が沈むことに気付きます。 また、日の出の山「篦岳」を一角に据える正三角形の配置で「富山(とみやま)」、「牧山(まぎやま)」の奥州三観音が展開していることも見逃せません。こちらはとりあえず坂上田村麻呂の手によって成ったものとされており、篦岳には「赤頭高丸」と「悪路王」、富山には「大竹丸―大嶽丸―」、牧山には「魔鬼女(まぎめ)」と名づけられた賊首の屍が埋められていると伝えられております。 正三角形にいかなる意味があるのかは論立て出来ておりませんが、なにしろ富山の「トミ」、牧山の「マギ」は、私の論考において重要な言霊です。 また、小萩伝説の震源たる加美郡色麻(しかま)町には「日の出山瓦窯跡」という遺跡があります。瓦の一大生産地という属性もさることながら、「日の出山」という地名も気になります。 この遺跡付近には「天神堂原」、「天神山」という地名があり、「台原・小田原窯跡群―國分荘玉手崎:仙台市青葉区小松島周辺―」同様「天神―天照(あまてる)―」信仰を有する民衆が生活していたと考えられます。 遺跡の北西部には、色麻町を「河童のふるさと」たらしめている「磯良(いそら)神社」が鎮座しており、加美郡の河川が「鳴瀬川」一本に集約される合流点でもあることから、私はこれを「天神―天照(あまてらす)―」に対応する「水神」と受け止めております。 なにしろ、大阪府茨木市の同名社が、摂津国の名神大社「新屋坐天照御魂(にいやにますあまてるみたま)神社」論社の境内社であるので、私の受け止め方は特別奇異なものでもありません。 ちなみに摂津国のそれは疣(いぼ)とりの霊験ありとして「疣水神社」という俗称もあります。思えば國分荘玉手崎「仙台東照宮―旧天神社跡―」付近の「眺海山延寿院」にも「疣神尊」がありました。疣神もアマテル信仰の属性の一つとして押さえておく必要がありそうです。 アマテル信仰の名残らしき地名(?)をもう一つあげておくならば、小萩伝説の震源「清水寺」の傍を流れる「長谷川」があります。 大和國の三輪山山麓には「秦河勝(はたのかわかつ)」漂着譚のある「初瀬川」が流れておりますが、「初瀬」と「長谷」は同義です。 秦河勝は、秦(しん)始皇帝の生まれ変わりとして初瀬川を流れてきた壺の中から現れたとされておりますが、いかにも「天童伝説―母子神信仰―」の影響が強く見受けられます。 「天童伝説―母子神信仰―」とは、「対馬(つしま)」を中心としたアマテル信仰の典型的な属性の一つで、日光に感精した処女―巫女―の産んだ天童が「空船」で漂着する伝説です。 『日本書紀』に、神功皇后と応神天皇の母子が九州から瀬戸内海を攻めのぼる際、“空船”を用いたとありますが、ここにもこの神話の影響があると考えます。よくこれを「無人の船」とした意訳を見かけますが、私は誤った解釈だと思います。 ちなみに初瀬川上流域の三輪山東麓には有名な「長谷寺」がありますが、この寺の号は地名の「初瀬(はせ)―奈良県桜井市―」に因んでおります。この寺を訪れたとき、天照大神の童子像―すなわち男神像―があって驚きましたが、アマテル信仰の始原に忠実なのかもしれません。 あらためて考えるに、小萩伝説も一種の母子神信仰と言えそうです。 母子という意味では、謎の安養寺の周辺にも奇妙な伝説がつきまといます。 玉手崎の安養寺付近の小鶴沼や、愛子の安養寺付近のさいかち沼には、母子家庭の母が強欲な地主に昼夜となくこき使われて、その労働中に乳飲み子が飢え死に、それを嘆いた母が入水するという悲劇の伝説があります。仙岳院の僧がそれを慰霊したともいい、この伝説の震源地が小萩観音を祀る仙岳院であろうことも推察出来ます。 ところで、日の出山瓦窯跡西南天神堂原地区の大字は「大(だい)」であるのですが、現在の行政区の境を越えて、周辺一帯のエリアには「大瓜(おおうり)」や「大衡(おおひら)」 ―いずれも黒川郡大衡村―など「大(だい:おお)」を冠する地名が目につきます。それに関連するのか、加美郡の神奈備山薬萊山の北麓には、広く「大の原」や「台の原」―いずれも加美郡加美町―といった地名も展開し、これも國分荘玉手崎の窯跡群の一角を成す「台原(だいのはら)―仙台市青葉区―」を想起させます。 「大」を意識すると、あらためて「大崎(おおさき)市」や「大郷(おおさと)町」の「大」も気になり始めるわけですが、とりわけ、「大衡」の「衡」の一文字も目を惹きます。言わずもがな、「衡」は奥州藤原氏が代々継承していた一文字だからです。 それについてはあらためて考えてみるとして、「大(おお)」について意識を過敏にするならば、やはりその語感からオホ氏との因果を疑いたくなってくるのです。こじつけに思われるかもしれませんが、オホ氏の奉斎する鹿島系神社の分布からするとあながち外れてもいないように思います。 『三代実録』に、「常陸国鹿嶋神宮司言へらく〜大神の苗裔の神三十八社陸奥國に在す」とあるわけですが、その内訳は菊多郡1社、磐城郡11社、標葉郡2社、行方郡1社、宇多郡7社、伊具郡1社、日理郡2社、宮城郡3社、黒河郡1社、色麻郡3社、志太郡1社、小田郡4社、牡鹿郡1社となっております。分布としてはおおよそ太平洋岸と主要河川沿いに広がっており、オホ氏の北上の軌跡と考えていいでしょう。 記載された13郡のうち、最も多いのは磐城郡の11社ですが、これは常陸國に近く、古の國造所在地であるから別格です。宇多郡の7社も目を惹きます。牡鹿郡が1社というのは意外に少ない気もしますが、後の『延喜式神名帳』に記載されるほどやや格が高いようですし、少し北上川を遡ると小田郡に4社もあります。小田郡については産金とも無縁ではないでしょう。 いずれ、複数分布しているのはほとんどが太平洋の沿岸部で、内陸では小田郡の4社と色麻郡の3社だけです。隣接の黒川郡にも1社みられ、オホ氏の色麻郡への集中度がやや特別であったことが推察されます。 色麻町の「色麻(しかま)」は「四竈(しかま)」であるとして、塩竈の御釜社の竈に因むとする伝説もありますが、おそらくこれは鹽竈神社右宮一禰宜の家系でもある小野氏が持ちこんだ由来譚であって、本来の由来譚ではないと考えます。 現在の加美郡加美町は、小野田町、中新田町、宮崎町が合併した町で、薬萊山は旧小野田町にありました。その町名と色麻の塩竈伝説から、おそらく平安時代以降のいずれかの時期に右宮新太夫家と同族の小野氏が関わっていたものと考えます。奥州藤原氏滅亡と同時に権勢の失墜した照井氏の後と考えるのが自然でしょうか。 シカマはおそらく「播磨国飾磨(しかま)―現:兵庫県姫路市内―」から移住した民衆に因む地名でしょう。 その傍証として加美郡色麻町の延喜式名神大「伊達神社」を挙げることが出来ます。 『播磨国風土記』の「飾磨の郡」條に「因達(いだて)の里」があり、神功皇后の韓国(からくに)平定の際に「伊太弖(いだて)の神」の神威があった旨が記されております。おそらく加美郡色麻の伊達神―五十孟神―はそれを信奉する民が持ち込んだのでしょう。 念のため申し上げておくと、伊達神社は仙台藩主の伊達氏とは直接的に関係ありません。伊達氏は、奥州征伐の論功行賞で「伊達郡―福島県―」を領したことで初めて「伊達」を称したもので、色麻の伊達神とは直接関係ないのです。 当地は遅くとも奈良時代初期に中央との連絡があったことが『続日本紀』からわかります。オホ氏や物部氏の私的な進出があったからでしょう。 小萩伝説の舞台が加美郡と國分荘玉手崎であった理由について、私は他になんらかの共通する事項があったはずと考え始めました。
わずかな伝説ながら、國分荘の先住の支配者「島津陸奥守」がなんらかの形で「対馬(つしま)」と関係があり、当地の大半が奥州産馬の放牧地であったことを合わせ考えて、私は島津陸奥守に照井氏を重ね合わせてみたわけですが、島津陸奥守と國分荘についてもうひとつの鍵を握る天神社に小萩伝説が寄り添っていることに気付きました。 なにしろ小萩伝説の震源地である薬萊山麓を同時代に支配していたのが照井氏であり、島津陸奥守を照井氏と考える私論がいよいよ真実味を帯びてきていると感じます。 「台原・小田原窯跡群」と「日の出山瓦窯跡」、それら周辺の天神信仰、水神広瀬の神と同名の「広瀬川」と、広瀬の神に相通ずる水神「磯良神社」、そして疣神信仰など、アマテル信仰の気配を通じて、平安時代以前の國分荘玉手崎と加美郡の属性は共通しているのです。 |
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謎の「島津陸奥守」の素性にせまろうと國分荘玉手崎―現:仙台市青葉区小松島周辺―の歴史に着目し、当地の「小萩伝説」と藤原相之助の論に触れたことで、ふと、思うところが出てきました。 そこで私は、『封内風土記』と藤原相之助の論考をガイドブックに、あらためて伝説の震源地、宮城県加美郡を訪ねてみることにしました。 「源義経」を立てて「源頼朝」を討つという「奥州藤原三代秀衡」の遺言どおりの作戦を主張した「藤原忠衡―和泉三郎:秀衡の三男―」は、夫婦もろとも兄達に攻め殺されてしまったわけですが、彼の五歳の娘はその後も生き延び、尼として國分荘松森邑福澤―現:仙台市青葉区福沢―の地で没したとされております。享年四十三歳――。 彼女が生き残ったのは、乳母の「小萩」とその夫「石塚民部守時」に保護されたからに他なりません。 乳母夫婦は、彼女を連れて守時の弟「観圓僧都」の元に逃げ延びたのです。 風土記には、「観圓僧都」の下に逃れた三人はいずれも剃髪したとあります。 忠衡の娘は「安養院蓮室妙善」と号し、民部守時は「西性坊忠蓮観道」と号し、小萩は「性蓮妙貞」と号し、元久二(1205)年八月に「宮城郡國分荘松森邑福澤」に移り住んだと記されております。「福澤神社」の社伝にみえた「安養院」なる号もここに見えます。 「松森邑」と聞くと、中世の多賀国府があったとされる仙台市宮城野区岩切エリアに隣接する同市泉区松森を思い浮かべますが、風土記の原典がなんらかの記録として残された当時には、ひと山越えた福澤神社鎮座地の福澤まで広く「松森邑」であったことがわかります。 松森邑を領していたのは國分氏でしたが、藤原相之助は、留守氏と争っていた頃の國分氏の「松森城」は、現在の松森のそれではなく、國分荘玉手崎にあったと考えております。 それはともかく、遺児を保護した小萩らが最初に逃げ延びた先は、夫守時の弟「観圓僧都」が務める「清水寺」でありました。 その清水寺の所在地が“加美郡”なのです。 『封内風土記』の「加美郡清水邑」條には、『奥羽観迹聞老志』にも『封内名蹟志』にみられない当地の「音羽山清水寺」伝と思しき「小萩伝説」が詳述されております。その原典は石塚氏の家伝と思われ、それこそがこの伝説の震源であると考えられます。 「清水邑」の邑名はその「音羽山清水寺」に由来しているものと思われますが、さしあたり風土記にはその寺とは別に、独立した「観音堂」の傳も記されております。 しかしあたかも別個の体を装うそれは、延暦年中「坂上田村麻呂」による創建を由来とし、それはすなわち京の「音羽山清水寺」の勧請を意味し、当地の同名寺と同根であったことを隠せません。 観音堂として独立した背景には宗派の相克が絡んでおりました。 風土記はさしあたり加美郡の音羽山清水寺を「曹洞宗」としておりますが、本家本元の同名の京の清水寺は「法相宗」です。 また、何故か「天台宗」の僧が広めることも多く、全国的な例としては「天台宗」の寺である印象も強くなっております。 何故当地の清水寺が曹洞宗の寺になったのかというと、荒廃を憂いた「大崎氏―奥州探題一族:足利系斯波氏の分かれ―」が、曹洞宗の僧にこれを中興させたからのようです。武家はおしなべて禅宗を好みますので、これもよくある話ではあります。 しかし、当地において、それは従来からの関係者の反発を招きました。 風土記には次の一文があります。 「争観音別當事。訴之郡司。糾明之後折之曰。観音爲清水寺古来本尊〜」 つまり、「観音は古来清水寺の本尊である―曹洞宗の僧が別当を務めるのはおかしい―」旨が郡司に訴えられ、別当の権限について争われたようなのです。 思えば、松島の「延福寺―現:瑞巌寺―」も執権北条時頼によって天台宗の僧が追放され、臨済宗に塗り替えられております。このときは武力が用いられ、もっと激しい追放劇であったようで、後の時頼の病死は松島の天台僧の呪詛とまで言われておりました。 おそらくこういった摩擦があって観音堂のみが清水寺から独立するに至ったのでしょう。 当地の場合荒廃していたとはいえ、根強い観音信仰が脈々と受け継がれていたことがわかるエピソードと言えます。 藤原相之助は、清水寺を天台宗であったと断じていることもありますが、往古にこの観音堂を支配していたのは同じ天台宗の「安養寺」であろうと信じていたようです。清水寺が天台宗であったか否かは別として、安養寺との因果については私も便乗させていただきます。 『封内風土記』によれば、仙台藩主四代伊達綱村は、加美郡黒澤邑―現:宮城県加美郡色麻町―の廃寺「黒澤山安養寺」の遺址を小田原邑高松―現:仙台市青葉区高松―に移して寺を建て、安養寺の本尊「虚空蔵菩薩像」を安置して、「月耕和尚」をもって「黄檗宗開元山萬壽寺」を開山したとあります。 この月耕和尚について、「大蓮寺―仙台市宮城野区東仙台―」の石碑から、彼が荒廃した安養寺の旧址―仙台市宮城野区安養寺―近くに居を構えていたこともわかっております。 それでも國分荘の安養寺旧址には何も残っていないというのに、一方加美郡黒澤邑の旧址には本尊の虚空蔵菩薩像が残っていたというのはなんとも不思議です。風土記の黒澤邑條に安養寺の記事はありません。 しかし、同じ黒澤邑條に寺号を失った古寺の記事があり、その本尊虚空蔵菩薩像が仙臺高松萬壽寺に安置されたとされております。 萬壽寺の沿革からは、萬壽寺開山のときに黒澤邑の安養寺が廃されたようにも見えますが、はたしてそうなのでしょうか・・・。安養寺は謎に包まれております。 いずれ、萬壽寺に安養寺再興の側面があったことは間違いなさそうで、綱村が「高松」の地にこの寺を開いた事実は見過ごせません。 風土記には、「門前有老松。土人呼之。曰高松。相傳婦人之墓松也」、つまり「萬壽寺の門前に老松があり、土人はこれを高松と呼ぶ。婦人の墓松と相伝わる」とあります。 ここには漠然と「婦人の墓松」とだけ書いてあるわけですが、なにしろ萬壽寺が綱村夫人の菩提寺であるだけに、一見それを指しているかにも見えます。 しかし、地元では信夫の嫗の墓じるしの一本松と信じられておりました。「信夫の嫗」とはすなわち佐藤基治の妻であり、藤原忠衡夫人の母、すなわち遺児安養院の祖母であります。 天神社関係の伝説では、この嫗が國分の安養寺にて十一面観音像を護持して余生を過ごしたらしく、その観音像護持の後継者がいないということで嫗の孫である忠衡の遺児が國分荘に来たといいます。 安養寺の本尊が虚空蔵菩薩像であったとしても、高松の地が選ばれたこと、そして綱村夫人が幼少の頃から観音菩薩に帰依していたことを合わせ考えると、綱村は、安養寺に観音菩薩を通した信夫の嫗の姿を見ていたことが推察されます。 もちろん、綱村自身は黄檗宗に傾倒しているので、萬壽寺は黄檗宗の寺として開山されております。 加美郡黒澤邑の安養寺と同清水邑の観音堂は、邑境を隔てているとはいえ、実際の距離としてはそれほど離れてはおりません。 黒澤邑の邑名は、室町時代以降、大崎氏の家臣黒澤氏が居館を構えたことに因むようなので、観音堂が建立された延暦の頃には邑域の違いなどもなく、清水寺に残る小萩伝説と國分荘安養寺の信夫の嫗伝説とが観音菩薩像の継承劇というキーワードで括れることを認識するならば、なるほど天台宗の安養寺が観音堂を支配していたという考え方にも真実味が増してくるのです。 さて、私がこれらのことにあらためて着目したことにはもちろん理由があります。 何を隠そう、奥州藤原氏の時代に「薬萊山(やくらいさん)」を望むこの一帯を支配していたのは照井氏なのです。 大和の「三輪山」によく似た山容の薬萊山そのものを遥拝する里宮付近に「照井」という地名があります。
付近の民家には「照井太郎塚」と呼ばれる塚もあり、現地の標柱には「源義経の臣照井太郎は、平泉藤原氏が、源頼朝に攻略された際、各所に転戦したが後破れて当地に至り死亡したとの説あり」と説明されております。 照井太郎の墓と伝わる塚は何ヶ所かあり、はたして分骨埋葬されたものか、あるいは各々世代の異なる照井太郎の墓なのかはわかりませんが、各々が照井氏に縁深い地であることは間違いないでしょう。 |
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東北大学植物園内にある青葉山の碑の説明板が記す「陸奥守」は、「陸奥州主」という碑文への解釈のようですが、その具体的な人物について、『仙台市史』は、「北条業時(なりとき)」や「安達泰盛(やすもり)」などの諸説があるとしております。
両者とも「陸奥守」を号していたことがあり、業時は弘安十(1287)年、奏盛は弘安八(1285)年に没しております。 なるほど、二つの碑の建立時期が各々弘安十(1287)年と正安四(1302)年なので、一見なじみが良いように思えます。 しかし、業時が没したのは、弘安十年“六月”―1287年8月―であり、「陸奥州主」と記載された弘安十年碑の“二月”銘に対してはつじつまが合いません。 また、もう一方の正安四年碑は、「右志者為四十人講衆面々各々所志聖霊往生極楽〜」とあり、碑文からすると建立者の四十人の講衆が各々思うところの人物に対して供養しているようなので、必ずしも「陸奥守―陸奥州主―」の供養碑とは言えません。 したがって、被供養者としての陸奥州主が北条業時である可能性は低いと私はみております。 しいて注目するなら安達泰盛説です。 泰盛は、八代執権「北条時宗」の右腕として絶大なる人望を集めておりました。 しかし、オールジャパンで蒙古襲来を迎え撃った後、領土獲得が皆無の中で論功行賞の采配を振るわざるを得なかった泰盛は、少なからず最前線で命を賭けた武士らの不満に身をさらす立場となりました。 うらはらに、時宗の子「貞時―九代執権―」の乳母父「平頼綱」はその混乱に乗じ、戦時体制における北条得宗家への権力集中によって急激に台頭し、泰盛の対抗軸となりつつありました。 まもなく執権時宗が心労のうちに夭折すると、事態が動き始めます。 事実上の主導者となった泰盛は、社会不安の解消を目論み、幕政改革に踏み切りますが、将軍の権威を高め、北条得宗家の立ち位置を相対的に低め兼ねない改革内容は、特に北条得宗家の権威に依存する頼綱の反発を招きました。 頼綱は、泰盛が将軍になろうとしていると執権貞時に讒言し、泰盛討伐の命を引き出すのです。世に言う「霜月騒動」の勃発です。 この騒動によって泰盛は党派もろとも滅ぼされました。 ちなみに、十数年前に和泉元彌さん主演で話題となった大河ドラマ『北条時宗』では、安達泰盛役を柳葉敏郎さんが演じておりました。 ドラマは霜月騒動前に最終回を迎えましたが、北村一輝さん扮する平頼綱の台頭は不気味に描かれておりました。私はこのドラマで初めて北村一輝さんなる俳優を目にしたのですが、後の『天地人』での真正直で武骨な「上杉景勝」役とは全く正反対で、狂気を潜ませたその目つきには鳥肌が立ったことを覚えております。当時、本当に性悪な人間なのではないかとすら思った程です。 それはともかく、逆臣として討ちとられた安達泰盛の供養は文保元(1317)年頃まで禁忌であったとされております。このことは、当年に行われた泰盛の甥「安達宗顕」の三十三回忌法要の記録によってわかるようです。 となれば、泰盛死亡からまもない建立月日銘の供養碑が、人目に触れない禁足の森に建てられた事情にもつじつまが合いそうです。 それらが真実であれば、藤塚知明の碑文解読で有名な蒙古の碑の碑文が、意図的に欠損せられた文字で暗号めかせて刻まれたこととも関係していると考えられます。 あるいは、蒙古の碑と呼ばれる同時期の板碑全般にもこのあたりの事情が関係しているのかもしれません。 平安時代以前と考えられる伝説の島津陸奥守の事情とは整合しませんが、蒙古の碑単体の謎解きとしてはかなり有力な説であると言えるでしょう。 何故安達泰盛が宮城県で供養されたのかについては、彼が「陸奥守」であったからという理由に尽きるのでしょうが、それに巨費を投じてでも供養しておきたい一派が当地にいたということには興味があります。なにしろ板碑の製作費用が村一つの年間予算に匹敵するということから考えれば、そんじょそこらの講がなせる業ではありません。 『仙台市史』は、青葉山の碑の被供養者が泰盛であることが正しければ、国府関係者によって建立された可能性が高い、としております。板碑の石材が井内石とアルコース砂岩であることもそう考えさせているようです。この組み合せは、ほかに府中―中世の多賀国府推定地―たる「岩切:仙台市宮城野区」にしかないからです。 その岩切の府中を管掌していたのは留守氏です。 つまり、市史は定説どおり留守氏がこれらの板碑を建立したと言いたいのでしょう。 市史は、青葉山について「この地域は、国府関係者だけに開かれた、特別な霊地・聖地として意識されていたのである」とも記しております。 しかし、一縷の疑問も残ります。 国府関係者だけに開かれた青葉山に、何故結城氏や國分氏が城を構えられたのでしょうか。 しいて想像するならば、彼らがこの森の護衛者としての位置付けにあったという可能性が考えられます。 なにしろ、蒙古の碑と呼ばれる板碑が留守氏管掌領域というよりも、むしろ國分荘内に点在しているということは忘れるわけにいきません。留守氏の関与の正否に関わらず、この板碑の建立者はやはり國分氏でしょう。 仮にそれが安達泰盛の供養碑であったにしても、それは國分氏が彼を供養したもの、という視点で私は考えるのです。 もちろんその場合のその動機はまだ見いだせてはおりませんが、泰盛の幕政改革が伊勢や宇佐など有力社寺領の回復に積極的であったことには注目すべきと考えております。その改革は陸奥國分寺や鹽竈神社にも有利であったことでしょうし、私論では國分氏が陸奥國分寺の院主家系由来の大名であったと考えているからです。 いずれ、泰盛供養説について私の頭はまだ保留状態にあります。 なにしろ、これらの碑は、昔から「蒙古の碑」なり「モクリコクリの碑―蒙古高句麗の碑―」と言い伝えられてきているのです。年号が元寇に近かったからそう名づけられた、というのは、あくまで後世の学者の推論に過ぎないということも忘れてはならないと思うのです。 |
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「仙台東照宮」の別当寺として、比叡山延暦寺を本山とする天台宗の寺院「仙岳院」が創建されました。 流浪の小萩観音を保護し、祀り続けるこの寺院、『封内風土記』には「眺海山康國寺仙岳院」と記されているのですが、何故か現地の門や説明板には山号の表示がありません。 しかし近隣の当寺傍院「延寿院」にはその表記がありました。 「眺海山延寿院」――。 風土記が記す仙岳院のそれと同じ「眺海山」という山号が冠されておりました。 ただ、「眺海山」とはいうものの、この延寿院は周辺より一段低い梅田川の河畔の路地沿いにひっそりと佇んでおります。市街化していなかった時代の周辺環境を考慮しても、とても海の眺めを代名詞に出来るような立地ではありません。しいてあげれば、丘陵上の東照宮境内地までをも含めて広く本院仙岳院と捉えることによって、辛うじて遠き東の海の水平線を眺められるといったところでしょうか。 そこで私は思うのです。もしかしたら、この山号には同じ韻である「鳥海山(ちょうかいさん)」の示唆が含まれているのではないのだろうかと・・・。 事実、このお寺は「出羽三山信仰」ないし「羽黒修験」と無縁ではありません。 延寿院では、「淨圓大徳」なる僧を神格化して祀っているのですが、現地の説明板によると、この僧は江戸時代初期に仙岳院で修行を積んだ実在の人物のようです。 この人物はなにしろ韋駄天(いだてん)のごとき健脚であったようで、師僧の臨終の際、好物の最上―山形県―の豆腐を所望されて、即座に最上まで往復して件の豆腐を持ち帰り、食膳に供して喜ばせたのだそうです。 このエピソードも語るように、彼は生涯で238回も湯殿山を往復し、延寿院ではそれを讃えて「淨圓房大権現」と尊称しました。そして彼は足の病に霊験を顕す権現様として祀られることになったのです。 ふと気になるのは、浄圓房の尊崇した湯殿山がどちらかと言えば真言宗―当山派―の色が強いことです。彼の属する延寿院や仙岳院はライバルの天台宗―本山派―です。 出羽三山信仰をめぐる両宗派の相克については、かつて『出羽三山信仰の独立性』と称して触れているので割愛しますが、なにやら複雑な裏事情を窺わせます。 いずれ、眺海山が鳥海山の示唆であれば、少々思うところがあります。 「鳥海山」を「ちょうかいさん」と読むのは比較的時代が下ってからであって、古代には「とりみやま」と呼ばれていたと言います。私論では、これは本来「トミヤマ」、あるいは「トビヤマ」であったのだろうと考えており、沖合に向き合って韻の共通する「飛島(とびしま)」ともなんらかの歴史を共有していると見ております。 トミやトビは、少なくとも古代の“汎日本海”の諸国において“最高支配者”を意味する言葉であったと考えられますが、なにしろ、鳥海山には、「饒速日(にぎはやひ)命」の降臨伝承があります。 さて、そんなことを考えながら、私は延寿院の門をくぐってみました。
門の内側にはさらに鳥居がありました。 本堂(?)も、建築的には神社の拝殿といった趣で、ニ礼二拍手をすべきなのかと葛藤させられます。 おそらく明治の廃仏毀釈のあおりでこのような形になったのでしょうが、そこにたくさん奉納されている“ある物”を見て、私は、もしかしたらこの地は往昔当地の先住民族の聖地であったのかもしれない、と考えました。 その“ある物”とは、“履物”です。 ここには、藁の草履や靴、スリッパなどが奉納されているのです。 もちろん、ここに祀られている浄圓坊は、最上まで即座に往復してしまう程の健脚です。足の病を治す霊験があるとして尊崇を集めているのだから、下足物の奉納が行われていてもなんらおかしくはありません。 しかし、私は同様の奉納習俗がある土俗の信仰を思い出さずにはいられないのです。 “アラハバキ神”です。 ここには本来「アラハバキ信仰」があったのではないのでしょうか。 さらに、ふと振り返ると、そこには「疣(いぼ)神尊」なる尊像が祀られておりました。浄圓坊が羽黒山から背負い持ち帰ったのだそうです。 しかし、私にはどうもこれが男根に見えてしまうのです。 もしかしたら、これは本来「道祖神信仰」の尊像だったのではないのでしょうか。 もちろん、いずれも私の想像に過ぎません。 古(いにしえ)の階上郡の郡衙が置かれたと考えられる國分荘玉手崎―。 この地の郷民は、都人からエミシ・エゾ・エビスなどと呼ばれて野蛮人扱いされていた人達であったのでしょうが、その文化水準は必ずしも低くはありません。それは、当時の最終兵器である軍馬を育成し、最先端の国衙建築物の瓦の緊急大量生産を担っていたことからも推察されます。 延寿院という地味なお寺は、この地にたしかに存在していた高い特殊技能を持つ先住民の信仰を現代に生きる私達に暗号で示してくれているのでしょうか。私はそう信じておきたいのです。 |



