はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

國分荘史考

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國分荘玉手崎と窯業

 「榴岡天満宮―仙台市宮城野区榴ヶ岡―」は、その中世の姿である國分荘玉手崎の「天神社」を通じて、鎌倉時代以前の仙台の姿をそれとなく教えてくれておりますが、実は、榴岡天満宮の前身たる天神社は「瞑想の松―仙台市青葉区台原―」のそれだけではなかったようです。
 『嚢塵埃捨録』には、「小田原神明社―仙台市宮城野区枡江―」も往昔は「天神社」であり、仙台藩主四代伊達綱村がこれを寛文七(1667)年に榴ヶ岡に遷した後、寛文九(1669)年に「神明宮」の社になったとあります。
 どうも瞑想の松の天神社の顛末と重複しているようにも思えますが、藤原相之助は同系統であったのではないか、と考えたようです。
 つまり、信夫の嫗―信夫荘司佐藤基治の妻―が尼となって晩年を過ごしたと伝わる古の「安養寺」に近いことから、これも佐藤基治に関係する天神社であったがため、合わせて榴ヶ岡に遷されたのではないかと考えたのです。
 小田原神明社が天神社であったと知って真っ先に思い出したことがあります。
 「荒巻神明社」のことです。
 この社は、由緒を信じるならば本来國分荘の民に勧請されていた伊勢の神であったはずですが、何故か伊達政宗は、あらためて同じ神を伊勢から勧請しておりました。そこで私は、古の荒巻神明社が本当に伊勢兩宮の神であったのかをいぶかしんでおりました。
 もしかしたら、荒巻神明社は小田原神明社と同種の神明社であり天神社ではないのでしょうか。
 『封内風土記』は、荒巻神明社には別当神宮寺があったといい、その名は「祓山神宮寺」であったといいます。
 一方、先に触れたように、同風土記は主たる玉手崎天神社の別当寺の名を「天照寺」と伝えております。
 島津陸奥守伝説から考えて、おそらくこの「天照」は、いわゆる皇祖神「天照大神」のことではなく、対馬の「阿麻氐留(あまてる)神社」に通ずるアマテル、すなわち照日権現の意と捉えております。
 となれば、「祓山神宮寺」の名が意味するところも自ずと定まりそうです。
 おそらく、穢れを祓い清める「広瀬の神」と同義なのでしょう。
 千代城下に広瀬の神の信仰があったとするならば、そのような結論になるものと考えております。
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小田原神明社

 少し角度を変えます。
 瞑想の松の西方「堤町―仙台市青葉区堤町―」にも天神社があります。
 この社は、享保年間(1716〜1736)に「島田源之丞」なる人物が件の瞑想の松付近に埋もれていた天神像を発見し、それを請い求めて入手が叶った「雪岡和尚―北山光明寺の僧?―」が祀り始めたもののようなので、小萩観音や佐藤荘司の史譚との直接的な関係はなく、比較的新しい祭祀ではあるようです。
 しかし、全く無関係とも言えなさそうなのです。
 この地が、「堤焼き」「堤人形」の震源であるからです。窯業の部落で祀られたということが、私の意識を留まらせるのです。
 かつて、仙台市営地下鉄南北線がまだ計画段階であった頃、現在の「台原駅」は「(仮称)瓦山(かわらやま)駅」でありました。
 これはある種当地の古代の代名詞でもあります。
 何故なら、國分荘玉手崎一帯の丘陵地は、古代東北地方最大の窯業地帯でもあるからです。
 数年前、都市計画道路の建設に先立つ調査で発掘された与兵衛沼窯跡などは、道路構造の計画を練り直させるほど貴重なものでした。ここで生産された瓦は、東日本大震災以降よく話題にあがる「貞観大地震」で被災した多賀城や陸奥國分寺・尼寺の屋根に葺かれたものと考えられております。
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 実は、先の小田原神明社境内にも、奈良時代後半から平安時代初期までの「瓦窯(かわらがま)」及び「瓦工房」の遺跡が発見されております。
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 “カワラ”という言霊にはいろいろな意味が含まれているだけに、想像も膨らみます。
 例えば、北部九州の信仰の聖地である「高良(こうら)山」などは、当地の弥生文化や、5〜6世紀の秦氏の素性を探る上でも注目すべきものですが、「香春(かはる:かわら)」と同義であるとされます。
 これらは、始原を辿れば「カグハル:カグポル」に通じ、「天香山(あめのかぐやま)」の「香(かぐ)」と同義、すなわちそれは「銅」を意味する古代朝鮮語の「カグ」に通じるとも言われます。
 それはともかく、いずれ、この小田原神明社が本来天神社であったとするならば、それらはもしかしたら、佐藤荘司基治の信仰云々以前に、当地に土着していたであろう古代の窯業に携わる民らが信仰する神であったのかもしれず、天神として祀られた菅原道真の姓が「菅原」であったという至極あたりまえのことに気付かされるのです。
 そういえば、菅原氏は「土師(はじ)氏」の裔でありました。
 土師氏の祖である「野見宿禰(のみのすくね)」は、相撲の神としても有名ですが、『日本書紀』によれば殉死の悲劇を食い止めるべく「埴輪(はにわ)」を創作し、それを殉死者の代わりにあてる画期的な古墳埋葬システムを構築した人物でもありました。
 その縁か否か、土師氏は古墳造営をはじめとする葬祭儀礼に携わる氏族として繁栄していきます。
 後にあらためて頭を整理してから語りたいとは思いますが、土師氏の属性には、怨敵絶滅に圧倒的な威力を発揮したカグヤマの土であったり、「比治(ひじ)の眞名井」の「比治―泥(ひじ)―」との因果などを連想させられております。
 多賀城跡から発掘された漆紙文書に「此治」と表記されていた栗原の「伊治(いじ)」]も、やはりこのあたりとなんらかの関係があるのではないでしょうか。
 ちなみに、出雲神族を自称する富當雄さんは、「野見宿禰」なる人物を出雲神族であるとし、「トミノ宿禰」のことであるとしておりました。

***余滴***
 古代、この地で瓦を焼いていた職人たちは、おそらく蝦夷(えみし・えぞ・えびす)などと呼ばれていたことでしょう。今では宅地造成等でほとんどの地山は切り崩されてしまいましたが、私が幼かった頃は、崖などに横穴があると「蝦夷(えぞ)穴」などと呼んだりしていたことを覚えております。
 古の玉手崎付近には、現在「南光台」という広大な住宅地が広がっておりますが、この住宅地は、元々「南光沢」という地名から名づけられたものです。
 大魔神佐々木投手やダルビッシュ投手らを輩出した「東北高校」が地元で「ナンコウ」と呼ばれているのも、この学校を運営しているのが「学校法人南光学園」であるからで、やはり、「南光沢」という地名に因んでおります。
 この地名は天神社別当「天照寺」の僧の子孫で「南光坊永心」に因んでいるといいます。
 南光坊は伊達政宗時代の人で、小笠原流の弓法に精通した武器職人でもあり、彼の弓弦は「南光弦」と呼ばれ、毎年500弦を納めていたそうです。
 地名譚はさておき、その南光台には、かつて「ABC山」と呼ばれる小山がありました。
 しかし一説に、これは「蝦夷(えびす)山」だったのではないか、とも聞きます。
 だとすれば、東北高校正面の「小松島沼」にもその気配が高まります。
 この沼は、別名「海老堤」と言いますが、もしかしたら、これも本来は「蝦夷(えびす)堤」だったのではないのでしょうか。
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小松島沼―海老堤―※小松島という地名は松島の景観に似ていることから名づけられたとされております。

小萩観音が語るもの

 平家を滅ぼした源頼朝の矛先が奥州藤原氏に向けられた時、病床の三代秀衡は衝撃的な遺言を発しました。


 秀衡は、平家を滅ぼした最大の功労者「源義経」を総大将に立てて頼朝を倒せと遺言したのです。念を押しますが、「防戦しろ」ではありません。「倒せ」と遺言したのです。
 遺族は迷いました。
 長男国衡は、頼朝を倒すことに異存はなかったことでしょうが、義経を擁立することに異存がありました。
 二男である当主泰衡は、父秀衡の遺言そのものに異存がありました。彼は頼朝の当座の要望に応じ、つまり義経の首を差し出し、和平の道を探るべきと考えていたのです。
 しかし三男忠衡は、あくまで秀衡の遺言に従うべきと主張しました。
 この三者の議論で最も対立した部分は、最もデリケートな部分、すなわち「義経」に対する態度でありました。
 三男忠衡の不幸はここにありました。彼は二人の兄の襲撃を受け、夫婦ともに命を落とす事になりました。
 このとき、忠衡の五歳の娘―福澤神社伝を採用し以下「安養院」―は生き残っておりました。
 安養院の乳母を務めていた「小萩」は、忠衡の家臣である「石塚民部守時」の妻で、夫妻は動乱から安養院を護るために守時の弟「僧観円」が奉職する加美郡色麻邑―現:宮城県加美郡色麻町―の「清水寺」に身を寄せて出家しました。
 奥州藤原氏が滅びた後、夫妻は安養院と共に國分荘―現:宮城県仙台市―に移りました。
 やがて守時と安養院が亡くなると、残された小萩は國分荘玉手崎の地に堂を建て、安養院の護持仏である行基作(一説に空也作)の「十一面観音菩薩像」を念持仏として祀り、両者の冥福を祈ったのだそうです。
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 異伝はあれど、当地に伝わる「小萩観音伝説」とはおおよそ以上のような内容で、言うまでもなく、この十一面観音像が俗に「小萩観音」と呼ばれるものです。
 尚、『封内風土記』は、これを「天神社」の本地仏としております。
 同風土記は、小萩が堂を建てた國分玉手崎の地とは「福澤神社」の地であったとも記しておりますから、このあたりになんらかの尼寺があったとも考えられますが、もしかしたら、それが天神社の別当「天照寺」であったのでしょうか。
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 さて、この伝説を振り返ってみると、気になることがあります。
 小萩らが忠衡襲撃事件の動乱を避けて加美郡色麻邑に移った事情は自然なこととして、加美郡色麻邑から國分荘玉手崎に移った事情には必然性を見い出せません。
 また、加美郡色麻邑については小萩の夫守時の弟との縁故があったようですが、國分荘とは如何なる縁故があったというのでしょうか。
 そこで浮上するのが、忠衡の娘「安養院」の母方の縁故です。
 先に触れたとおり、天神社の別当寺―天照寺?―の所伝は、安養院の母方祖父たる信夫荘司「佐藤基治」が、少なくとも奥州藤原ニ代基衡の時代には國分荘の領主であったと伝えております。
 ここで安養院の身寄りの顛末を振り返ってみましょう。
 父方祖父、すなわち秀衡は衝撃的な遺言を残して没しております。
 父母、すなわち忠衡とその妻は四代当主泰衡とその兄国衡に殺されました。
 二人の伯父、すなわち繼信、忠信は、源義経の従者として既に戦死しております。
 母方祖父、すなわち佐藤荘司基治は、奥州征伐の際、自領の信夫にて鎌倉軍と対峙し、戦死しました。
 残る母方祖母、すなわち信夫の嫗、すなわち佐藤荘司基治の妻はどこに行ったのでしょうか。
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 これについて、またしても藤原相之助が興味深い伝説に触れております。
 信夫の嫗は、尼となって國分玉手崎の「安養寺」に晩年を過ごしていた伝説があるというのです。
 安養寺は相当古くに廃絶していたようで、藩政時代の地誌が編まれた時点では既に過去の遺物となっておりました。
 現在、仙台市宮城野区に「安養寺」という地名があり、このあたりに堂宇が展開していたことは間違いないのでしょうが、何の痕跡も残っておりません。
 同市青葉区下愛子(しもあやし)に同名の寺院があり、本来はその系統であったのでしょうが、寺史などは完全に断絶しており、全く別な寺院と考えた方がよさそうです。
 藤原相之助は「古安養寺研究」と称して、雲をつかむようなこの謎の寺の研究に挑んでおりますが、安養寺と名のつく寺はおしなべて同様な傾向があるようです。

「國分玉手崎ばかりでなく、同名の寺は加美郡にも、安達郡にも、石城郡にも、出羽(最上の安養寺、雄勝の蛇袋安養寺、浅虫の旭山安養寺など)にもあつたのですが、不思議なことにはいづれも大昔の寺とのみ傳へられて一つも残って居ません。残つてるのは後世その名だけ続いた一向や曹洞の寺だけです。或は昔の定額外の尼寺だつたのではないかとの疑もありますが、それはともかく、〜以下省略〜」

 氏は、結局のところこの研究で思う程の成果を得られなかったことを嘆いているのですが、なかなかどうして、私は大いに学ばせられております。
 少なくとも、福澤神社伝が、忠衡の娘を「安養院」と表現していたことと何かしらの因果を感じます。
 やはり、佐藤基治は國分荘を領し、玉手崎になんらかの根拠を置いていたのでしょう。そして、ここに十分な縁故を築き、基治の戦死後、その妻は尼となってこの地に逃れていたのでしょう。
 もしかしたら、安養院は、唯一の身寄りとなった祖母の介護のために、小萩と守時の保護の下、國分荘に移ってきたのではないでしょうか。
 藤原相之助は、小萩観音を護持仏とみるには大き過ぎ、元々天神社の別当寺に納まっていたものと見たようで、「初祖藤原清衡から伝わったものを基治の妻が福澤の尼寺に安置していた」という伝説をとりあげ、忠衡の娘―安養院―はそれを継承したのではないかとしておりました。
 安養院没後、それを小萩が堂を建てて供養したことは先に触れたとおりですが、いずれ、その伝説を信じるならば、藤原相之助が語るとおり、「小萩十一面観音は、平泉の初祖藤原清衡の遺物だといふことにな」るのでしょう。
 小萩観音は、時勢の波に翻弄され、たび重なる所在の変遷を経て、明治維新の廃仏毀釈の末路として民家の所有となっていたようですが、それを遺憾に思った「天台宗仙岳院」の十五世「亮湛僧正」が買収し、現在はその仙岳院が祀っております。
 仙岳院とは、藩政時代、ニ代藩主「伊達忠宗」が天神社の地に東照権現を勧請した際、その別当寺として創建されたもので、偶然か否か、小萩観音は然るべき故郷に落ちついたと言えるのかもしれません。

 尚、小萩が堂を建てたとされる福澤神社には、境内社として「鶏権現」があります。
 すなわち、ここにはニワタリ信仰がみられるのです。
 また、佐藤基治の信夫荘における本拠は「丸山城」です。
 これらの事実は、私が考える國分氏の正体の一候補「丸子氏」と佐藤荘司との因果を彷彿とさせ、ますます研究意欲を刺激されるものであります。
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福澤神社境内の鶏交合の碑

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 仙台藩時代に編まれた幾つかの地誌が伝説としてとりあげる「島津陸奥守」の正体は、「陸奥國分氏」のことであろう、という藤原相之助の論説を受け入れながらも、私は、島津陸奥守こと陸奥國分氏の正体は鎌倉武士ではなかろう、と考えました。
 まず、主たる城館数ヶ所の領主変遷の伝承において、各々に共通して、結城氏の後に國分氏が再興して入城している、という明確な前後関係が見受けられます。
 特に千代城―仙台城―と茂ヶ崎城の伝承の互換性と、各城館の最大公約数的な判断から、陸奥國分荘―伊達藩時代の仙台城下―における支配者の前後関係は、古い順から「島津陸奥守」「結城氏」「國分氏」「伊達氏」であったと考えられるわけです。
 そのうち、鎌倉武士の結城氏の入城は、「文治年中」、すなわち奥州征伐の前後と伝わっており、ここに一つの境界線を引くことが出来ます。
 結城氏よりも先にその名が挙がる島津陸奥守の勢力は、奥州藤原政権下にあった、と考えるのが自然なのです。
 現在の「瞑想の松」の地―仙台市青葉区台原―に鎮座していた「天神社」が、島津陸奥守によって「文永年間―鎌倉時代―」に勧請されたとする伝承との矛盾については、仙台城「御裏林」―現:東北大学植物園―の「蒙古の碑」が答えてくれていると考えます。
この蒙古の碑は、弘安年間に建てられた碑ですが、一方で、陸奥守と号した人の供養碑、とも伝わっております。
 島津陸奥守には、陸奥から「対馬」に去ったという伝説があり、この氏族が「対馬―津島―」になんらかの因縁のあることが窺えますが、「文永年間」とは「元寇」によって対馬が侵略された年号であり、このことを多分に意識して生じたものが件の文永年間云々の伝承なのでしょう。
 なにしろ、この天神社は文永年間の百年も昔に、既に当地に存在していたものと考えられるのです。
 この天神社は、紆余曲折を経て、最終的には伊達氏によって往昔の「國分ヶ原鞭楯(むちだて)―現:榴ヶ岡公園―」の西端に遷されておりますが、現在、現地の説明板には次のような由来が記されております。

 「藤原基衡の臣、佐藤小太郎基春が國分荘の領主となったとき、柴田郡川内邑(今の川崎町川内)から小俵邑(今の小田原)玉手崎に遷した神社であったが〜以下省略〜」
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 これは『封内風土記』にもある逸話です。これによって次のことがわかります。

・天神社の國分荘入りは「奥州藤原氏ニ代基衡」の時代であった
・天神社は「佐藤小太郎基春」によって遷された神社であった
・当時、「佐藤小太郎基春」は國分荘の領主であった

 國分荘における当該天神社の歴史は、文永年間どころか、奥州藤原氏のニ代基衡の時代にまで遡りそうなのです。
 なにより、彼は藤原基衡時代に國分荘―現:仙台―の領主であったというのです。
 つまり、島津陸奥守と属性を共有する人物として信夫荘司「佐藤基治」がいたのです。
 少し自分の頭を整理しますが、私は、島津陸奥守の有力候補として「照井氏」「丸子氏」、あるいは「安倍氏」を想定しておりました。
 大雑把に言いますと、照井氏については対馬とアマテル信仰の側面から疑い、丸子氏については蒙古の碑とニワタリ信仰の側面から疑っております。
 度々触れているとおり、照井氏については、栗原の高句麗系騎馬民と限りなく同一な勢力であったと考えており、丸子氏については、その彼らを、七世紀の浅間山大噴火で壊滅した信濃の馬柵をそっくりそのまま栗原に避難移転させた勢力、すなわちその以前、5〜6世紀というかなり早い時代に鹿島神を奉斎して当地に根付いていたオホ氏の主勢力であり、彼らが斜陽化し、中央の情勢において自分達の職掌を継承したワニ氏の部民となっていたものであろうと考えております。
 その前提において、丸子氏・照井氏の両者は高句麗系騎馬民を通して相当密接な関係にあったと考えております。
 特に丸子氏については、軍馬の仲買人であっただろう出羽の「由利氏」、すなわち「中原氏」とも同族であった疑いを抱いております。
 彼らは、安倍氏・清原氏以前の奥羽において、国司ともまた違う土着のにおいがする実質上の支配者層であったと思われます。
 一方安倍氏について、國分荘との関わりにおいてはこれまで特に触れておりませんが、それは照井氏や丸子氏ほどに論拠を固められないからであります。
 しかし、陸奥におけるこの氏族の根強い浸透を考慮するならば、やはり捨てがたいものがあると考えます。
 また、仮に島津陸奥守が國分氏であるのならば、これらの候補者はそのまま國分氏の候補としても適用出来ることになります。
 そして、ここにきてあらためて奥州藤原氏の右腕で信夫荘司たる「佐藤氏」もその輪の中に加えざるを得なく思えてきました。
 佐藤氏は、奥州藤原氏や結城氏、伊達氏らと同様、藤原秀郷の裔とされおりますが、天神社を國分荘に遷したという佐藤基治は、佐藤系図伝では三代秀衡の時代に初めて奥州に来て平泉に仕えたことになっております。
 しかし、その支配圏は信夫―現:福島県―ばかりではなく、名取、宮城、本吉―いずれも現:宮城県―はおろか、出羽にも展開しており、勢力の規模からすると、ニ代基衡の時代には既に奥州に来ていて、父の代から仕えていたものと推察されます。
 いずれ基治の「基」は基衡から一字を賜ったもののようです。
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 この佐藤氏は、基治の二人の息子「繼信」「忠信」が「源義経」の悲劇の忠臣として有名ですが、どうもそれにとどまらない大族であったようです。
 藤原相之助は次のようなことを語っております。

 「平泉家は元来安倍氏、清原氏の系統ですけれど、自ら藤原氏と稱し、又佐藤とも稱したので、佐藤基衡とか、佐藤陸奥守藤原秀衡とか記した文書が見へるほどであり、平泉家と佐藤氏は同一族と見なされたものです」

 これが如何なる文書によるものかは未確認ですが、事実であれば奥州藤原政権の発生に関係してもう一段複雑な事情が隠されているようにも思われ、興味深い話です。
 いずれ、『奥羽観迹聞老志』や『封内名蹟志』における天神社のくだりには、佐藤荘司基治については触れられておらず、当地への遷座は文永年間に島津陸奥守によるものとする内容でした。
 このあたり、先の『封内風土記』は、佐藤小太郎―基治―とその父治信が、白石城主「苅田晴光某」の反乱を鎮定した功として藤原基衡から國分荘を賜ったことや、その際小太郎が基衡から「基」の一字を賜り「基春―基治―」と称すことになったという顛末を語り、その上で、戦勝祈願した柴田郡川内邑の天神社を國分荘小田原邑玉手崎に遷したのだとし、それを文永年間に島津陸奥守が再造したのだと語っております。
 さらに風土記は『奥羽観迹聞老志』や『封内名蹟志』が語る内容も併記し、「其所記。與別當所傳不合」、すなわち「別当所伝と整合しない」と記しております。
 要するに、『奥羽観迹聞老志』や『封内名跡志』は天神社の社記に基づくものであるのに対し、『封内風土記』は天神社の別当寺の所伝を採用したようです。
 別当寺は天台宗で、当初「大松寺」と称していたものを、後に「天照寺」と改めたようですが、この示唆に富む天神社の別当が「天照寺」という名であったことについては、少々思うところがあるので、後にあらためて触れたいと思います。
 いずれ、私は別当寺の所伝を重く見ます。たしかに、佐藤荘司基治は当地に並ならぬ縁故があったのでしょう。それでこそ、当地に「小萩観音」と伝わる十一面観音像があり、それに伴う悲劇の伝説が広まった事実にも整合するというものです。
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仙岳院傍院「延寿院」の桜
 『奥羽観迹聞老志』や『封内名蹟志』など仙台藩領内の地誌に記された伝承は、伊達政宗以前の「青葉城:千代―仙台―城」の居住者を「島津陸奥守」「結城七郎朝光」「國分能登守」の順で伝えております。
 このうち、結城七郎朝光――厳密にはまだ小山七郎朝光?――は「文治年間(1185〜1190)」に千代城に住していたとされております。
 奥州藤原四代泰衡の首が源頼朝のもとに届けられたのは文治五(1189)年九月のことで、文治年間は文治六(1190)年の四月までであるから、奥州征伐の論功行賞で当地を分け与えられた結城七郎朝光は、鎌倉政権下における最初の仙台管掌氏族ということになります。
 とすれば、それより前とされる島津陸奥守の仙台管掌は、奥州藤原氏の政権下にあったということになります。
 藤原相之助は、島津陸奥守を國分氏であるとし、その裏付けとして國分氏の本姓である平姓千葉氏に日向國島津荘の郡司たる経歴があったことを挙げておりました。
 もちろんこれが成り立つためには國分氏が平姓千葉氏でなくてはなりません。
 しかし残念ながら、その部分は甚だ疑わしいと言わざるを得ません。
 通説どおり、國分氏―(仮)千葉氏―が結城氏―小山氏―同様、奥州征伐の論功行賞によって現在の仙台市域に入ったのだとすると、千代城を含め、結城氏関連の主たる城館を國分氏が継承したとする伝承は現実味を失うのです。
 少なくとも結城氏は簡単に資産を奪われるようなタマではありません。飛ぶ鳥を落とす勢いの結城氏を事蹟のみえない國分氏が追放出来たとも考えられません。
 伝承では、荒廃していた結城氏の旧居を國分氏が再興したことになっているので、結城氏の主流が当地から引き上げて以降、しばらく放置されていたものを國分氏が再興したものと受け取れます。
 しかし、だとしても、そもそも鎌倉政権発足から南北朝の決着をみるまでの間、國分氏―(仮)千葉氏―はどこを本拠にどんな活動をしていたのでしょうか。
 いや、千代城や茂ヶ崎城は広瀬川の南岸であって、國分荘は北岸であるから領域は重複していない、という意見もあるかもしれません。
 しかし、北岸の「小泉古館」や「南目館」にも結城氏の伝承がありました。これらは國分荘と考えて間違いではないでしょう。なにしろ、両館の中間に國分寺があるのです。

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結城氏が天文年間まで居たと伝わる小泉古館と考えられる若林城跡
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 やはり、國分氏を平姓千葉氏とみるのは不自然です。千葉氏もまた結城氏に劣らぬ鎌倉武士屈指のツワモノであって、自らの血を流して頼朝から正当に賜った領地を結城氏に独占されておとなしく黙っているほどヤワではないはずです。
 おそらく國分氏の正体は鎌倉武士ではないのでしょう。
 少なくとも、隣接のライバル留守氏は、國分氏が小山氏の裔を婿に入れたがために勢力を拡大したことをしっかり記録に残しております。
 おそらく、これによって軍事大国結城氏との縁戚関係が成立し、千代における結城氏の資産を継承し得たのではないのでしょうか。
 となると、そもそも小山氏の裔を婿に入れた國分氏とは何者であったのか・・・。
 おそらく、あくまで従前から土着していた氏族であって、それは本姓を名乗ることを憚られる家系であって、なんらかの事情によって陸奥國分寺を経営していた家柄であったと考えるのです。それが、大旦那の奥州藤原氏の滅亡によって衰退していたのでしょう。
 千葉氏との縁は、あくまで國分寺仲間(?)の「下総國分氏―平姓千葉氏―」との縁であったのではないでしょうか。もちろんなんらかの縁戚関係を結んでいたのでしょうし、陸奥國分氏における平姓千葉氏の系譜は、その関係を辿ったものと想像します。
 それによってはじめて「國分氏」なり「島津陸奥守」の称号を獲得したのではないでしょうか。
 ただ「島津」の称号については、「津島―対馬―」との因果に対する私見も健在なので、それとの整合性はあらためて探るとします。
 ともあれ、大胆な想像を許されるのなら、ひょっとしたら國分氏の本質は女系相続であったのではないでしょうか。
 小山氏から分かれた長沼氏の出家僧を婿に入れた記録は、そのあたりの想像をくすぐります。
 同様に、最後の國分家頭主「國分彦九郎盛重」の妾「楚乃」と、その子「伊賀重吉」の逸話についても然りです。妾に過ぎない「楚乃」の名が鮮明に伝えられているところにそれを想像させられます。
 いえ、楚乃の生家が陸奥國分寺院主坊であったことから、むしろ彼女の家系こそが國分の本宗家であったのではないか、などとも勘繰っております。
 そもそも盛重自体も伊達家から國分家の養子に入った人物でありました。
 祭祀に特化した家柄には、時に女系相続の気配がみられます。神と結ばれるべき神聖な家柄だからでしょう。
 谷戸貞彦さんの『幸(さい)の神と竜(大元出版)』を信じるならば、古代の出雲王国も母系家族制であったようです。
 平安時代後期に「藤原範兼」が著したとされる歌学書『和歌童蒙抄(わかどうもうしょう)』には、誓いがあって鹽竈明神に一人娘を捧げた父親の惑いを詠みあげた歌がとりあげられておりますが、そこには、その娘の子孫が、その後代々神に身を捧げて現在―平安後期―まで続いている旨の解説も添えられております。
 子孫がいるということは、生物学的には俗世の男性と結ばれていたということになるのですが、“意識の貞操”はあくまで厳しく相続されていたことでしょう。これは、往古の鹽竈神社の命婦―巫女(?)―の系譜に関するある種の始祖伝承なのかもしれません。
 その影響と言ったらこじ付けになるかもしれませんが、鹽竈神社のお膝元における旧家の傾向について、庄子洋子さんが『塩竈の女性史』にて興味深いことを述べております。

 「塩竈という土地柄は、藩政時代から、よそ者を受け入れずという、そして花街のせいか、男尊女卑の風習も強く、しかも旧家は、長女に婿を取り、長男を分家するという塩竈特有のやり方で、その家の血筋を守ってきたように思われます」

 確証はありませんが、國分氏にも同様のことが言えたのではないでしょうか。そしてそれが國分氏の系譜を不透明にさせている要因の一つであるのかもしれません。
 蛇足ながら、國分氏は、鹽竈神社の大神主たる留守氏に対抗して木ノ下白山神を祭祀したとも伝わっており、鹽竈神とは無縁のようですが、幻の『東鹽家(ひがししおや)文書』は、鹽竈神社の別宮の「別」について「別宮と云へる稱のあるは。古此宮を國別大神宮とも。國別宮とも云へし由なれは。其を又略きて直に別宮とのみ。稱へ奉り來し物なるべし」と記しており、更に「國分と稱來れるも。國別の神名より附しき名にこそ」と、國分氏あるいは國分寺との関係を示唆しております。
 このあたり、國分氏の素性を考える上で重要な要素かもしれませんので、備忘録的に記しておきます。


 ただし、久しぶりに『東鹽家文書』に触れて、今さら気付いたことがあります。
 この文書が喪失した時期、すなわち明治八(1875)年の190年前――貞享ニ(1685)年――当時、鹽竈神社にはまだ別宮が存在しておりませんでした。
 したがって、文書そのものが実際には別宮創始後に書かれたものであるか、あるいは、少なくともその部分に限っては後から付け加えられた話であることが確実のようですので、ここに記しておきます。
 文治年間以前に千代―仙台―城に居住していたと伝えられる「島津陸奥守」――。
 斯界からその実在が疑われるこの人物について、仙台の偉大な歴史学者「藤原相之助」はこう言いました。

「私は島津氏の存在を是認します」

 これは一体どういうことなのでしょうか。
 結論から言ってしまうと、藤原相之助はこれを「國分氏」と考えたのです。
 話を盛りあげておいて言うのもなんですが、実はこの結論自体には特に目新しさは感じません。
 何故なら、島津陸奥守は何者か、と考えた場合に、私のみならず、その正体として真っ先に浮かぶのはたいてい國分氏であろうからです。
 しかしその理由となると、語尾が濁るのです。何故なら、國分氏自体も謎めいており、両者の共通点について伊達氏以前にこの地を領していた氏族、ということくらいしか浮かばないからです。したがって、実在を疑っておくことの方が穏当、という結論に逃げておいた方が楽になってくるのですが、藤原相之助は果敢に挑みました。
 氏は、國分氏の祖とされる平姓「千葉胤道」の父「千葉介常胤」が、文治二年に日向國北諸懸郡――現:宮崎県都城市内――の郡司に補せられていたことに着目したのです。何を隠そう、この郡には「島津荘」があるのです。
 この郡では、郡司の郡領と荘家分とが錯綜していたらしく、郡司代がしばしば荘家に乱入したなどの訴えがあったようで、長い間紛糾していた事実があるようです。
 藤原相之助は、後の「圖田帳(ずでんちょう)――大田文:中世の土地台帳――」にも、島津荘の地頭として、右衛門兵衛尉二千五百九十一町六反、千葉介四百十一町ニ反、佐島四郎ニ百十町四反などと見えることから、その頃の慣いとして、後の薩摩島津氏のみならず、郡司であった千葉介一族も「島津」と称していたことが知れる、というのです。
 なるほど、これは目からうろこです。私には思いもつかない論であったと言えます。
 何故なら、私は國分氏を平姓千葉氏とする一般的な系譜を疑問視し、千葉氏自体への追及をおざなりにしていたからです。
 もちろん、藤原相之助も、國分氏には藤原姓、すなわち小山氏系の系譜もダブルスタンダードとして存在していることへの整合性の説明には困ったようです。

 「奥州國分家の系譜といふものも、丸呑は出来ませぬ」

 氏は『余目記録』の記述、すなわち、結城氏同族――藤姓小山氏系――の長沼氏を出た才覚ある出家僧が養子に入ったことで國分氏が勢力を拡大したくだりに触れ、次のようにも語っております。

 「この記録では、小山と認めてるほどですから、後の國分系図といふものは、そのままには受けとれないことが知れます」

 少なくとも、私の目に触れた氏の論稿上において、これらの問題についての説得的な解釈を出せているとは思えません。それでも「島津」という言霊と仙台領を結び付ける上において極めて魅力的な論には違いないので、もう少し触れておこうと思います。
 氏は、永正十一(1514)年――『余目記録』が書かれたとされる戦国時代――から百七十余年前に、同じ千葉氏の関係から、日向の島津と奥州の國分が、所轄相続に立ち言った事実があって、國分の総領が島津と名乗ったことがあるのだろう、と想像しました。
 氏は、少なくともその当時の國分氏は、奥州では「島津氏」と呼ばれていたものと判断しております。
 もちろんこれは想像以外の何物でもないわけですが、氏は次のようにまとめております。

 「後に國分家では都合あつて、さうした事実を系圖から抹消したのでせう」

 これは同時に、國分氏の系図の矛盾に対する藤原相之助の結論なのでしょう。
 いずれ、明言はしておりませんが、國分氏が千葉氏であるという一線は崩していないようです。
 また、國分氏が、仮に藤原相之助が説くように島津を名乗っていたのであるならば、なるほどその事実の抹消はあり得そうです。
 國分氏は、足利尊氏・直義兄弟の分裂の際には弟直義方についており、その彼らが兄尊氏方の雄である薩摩島津氏と同じ苗字を名乗ることには憚りがあった可能性もあります。
 それが正しければ、私が平姓千葉系図を疑う最大の理由でもある「空白の160年」、すなわち、奥州征伐から南北朝までの國分氏の記録が見当たらない謎の説明にもなりそうです。

 「島津は國分であって、青葉城に居たことも、天神社を再興したことも事實と認めなければなりませぬ」


 「國分記録によると、茂ヶ崎に居たのも、青葉城に居たのも、國分氏だといふことになります。西國に去たとか、對馬に去たとかいふのは、島津の同族が来て國分の所領を繼ぎ島津と稱したが、其後又國分に復したかと思はれます」

と補足し、“島津陸奥守所伝”は「大體事実で妄譚はない」としております。
 もちろん、それ自体には大賛成です。
 しかしながら、國分氏を平姓千葉氏と認めるにあたっては、私の中でまだ成仏されない大きな疑問がくすぶり続けるのです。
 それは、結城氏―小山氏―との関係です。
 まず、結城氏ならびに國分氏との関係が伝わる城館において、管見のいずれの伝承にも結城氏の後に國分氏が継承したとする明確な前後関係が見受けられます。これは重要な示唆です。
 この両者を同一氏族と捉えるならば殊更に疑問も感じないのですが、國分氏が平姓千葉氏であったならば、結城氏の後を千葉氏が継承したことになり、致命的な矛盾があると言わざるを得ないのです。
 何故なら、國分氏の祖とされる千葉氏が当地に所領を賜ったのは奥州征伐の功であったとされているわけで、ということは、その論功行賞は結城氏と同時であったはずだからです。
 そもそも、荘園制度の悪弊で国家の体を末期状態に追い込んでいた土地問題を、根本から解決せんと政権を樹立した源頼朝の論功行賞において、結城―小山―氏・千葉氏といった頼朝配下有数の両雄が同時に同一所領を与えられたということ自体が私には信用できません。
 したがって、いずれかの所伝に誤りがあると考えますが、少なくとも、結城氏が千代―仙台―城に居住していたのは「文治年間(1185〜1190)」、すなわち平安末期から鎌倉前期と伝わっているわけで、結城氏側の伝承には矛盾がありません。
 余談ながら、私は、茂ヶ崎城址――大年寺山――周辺の住宅街に子供の頃住んでいたというある人物との会話の中で、ひょんなことからその方が件の結城氏の末裔であることを認識しました。具体的なことは言えませんが、名族結城氏がそれらしき場所に根付いていたことは現実なのです。
 島津陸奥守は、その結城氏よりも前に千代城に居住していたと伝わっているわけですから、それを信じるならば奥州藤原氏時代の國分荘に既に土着していたと考える必要があり、奥州藤原氏滅亡後に扶植したとされる千葉氏ではあり得ないのです。
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