はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

國分荘史考

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索
 これまで私は、たびたび、陸奥國分寺には奥州馬、特に栗原馬交易の最大拠点としての側面があったことを取り上げてきました。それを取り巻くバックグラウンドとして、荒駒の放牧地、いわば軍事演習場としての宮城野があり、小田原があり、荒牧があるわけで、それらの範囲は古の仙臺府城のほとんどを占めていたことが実感としてわかってきました。
 もしかしたら、その属性を生かしきれる氏族でなければ仙台エリアの領主の座を獲得することなど出来なかったのではないか、とも推察するのです。

イメージ 1


 このほど、『封内名蹟志』の次のくだりが私の好奇心に新たな火種を灯しました。

――引用――
仙臺府城。自是以下國分荘と云。
黄門政宗君。慶長五年(庚子)玉造郡磐手城より�朴に移り給ひ。此城を築山に因て居館とす。往昔島津陸奥守茂ヶ崎城に居後此地に移る。文治年結城七郎朝光居之。其後國分能登守居之。
〜以下省略〜

 このくだりは、仙台藩祖伊達政宗の居城となった仙台城―千体城・千代城・川内城(?)―の“主”の変遷について簡潔に説明しているものです。
 特に初めて知った内容でもないのですが、既知の情報にもまだまだ示唆があることを思い知らされます。大筋同様の記述は『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』にもあり、厳密には各々に微妙な相違点があるのですが、そのあたりは必要に応じて適宜取り上げていきます。
 関ヶ原の戦いがあった慶長五(1600)年、伊達政宗は「磐手城―岩手沢城:現:岩出山城跡―」から仙台城に移ったわけですが、それ以前は「國分能登守」が領しておりました。その前には、文治年間に「結城七郎朝光」、さらにそれより前には「茂ヶ崎城―現:仙台市太白区茂ヶ崎―」から移った「島津陸奥守」なる人物が居城としていたようです。
 ちなみに「茂ヶ崎城」は、後の南北朝時代に北朝方の「粟野大膳重直」から三代の居城となり、その後に件の結城七郎朝光の居城になっていたという説もあります。朝光云々については定かでないにせよ、最終的にこの城跡は、江戸期の仙台藩主四代伊達綱村以降、伊達家の廟所として整備されております。
 四代綱村は、藩財政をおもんばかってなのか、あるいは彼の独特な宗教感からなのか、経ヶ峰の歴代藩主廟が贅を極めてきた不文律を改め、自らの廟所から廟建築を廃す遺命を出しました。
 綱村は新たな廟所をこの「茂ヶ崎」に定め、そこに自らの菩提寺として黄檗宗の寺「両足山大年寺」を開き、茂ヶ崎を全国屈指の黄檗宗の聖地に塗り替えていったのです。
 現在、東京方面から下りの新幹線で仙台到着のアナウンスが流れる頃、左手の車窓に数本のテレビ塔が山の上に立ち並ぶ印象的な風景を目にします。多くの仙台人はその風景を見て故郷に帰って来た実感を得るわけですが、その山が茂ヶ崎です。言いかえれば、江戸方面から城下に入る動きを監視するには絶好の高台ということでもあります。この山は「國分ヶ原鞭館―現:榴ヶ岡公園―」と並んで藩祖政宗による仙台城候補の一つであったとも言われております。

イメージ 2
茂ヶ崎から眺める広瀬川下流域

イメージ 3

イメージ 4
茂ヶ崎城には一時粟野氏も居城としておりました。麓にある粟野氏の菩提寺「宗禅寺」にはニワタリ信仰の気配があり、それだけにこの山号は気になります。
イメージ 5

イメージ 6


 茂ヶ崎はともかく、伊達氏以前の千代城を拠点にしていたという「國分氏」「結城氏」「島津氏」――。
 薩摩島津氏六代「氏久」に始まるいわゆる「奥州家」など、実質がほとんど伴わずに名目上の「陸奥守」を名乗ったケースはともかく、具体的に仙台に居城を構えてこれを領した「島津陸奥守」の史料はほぼ見当たらず、全くもってその事績も素性も掴みかねているのが現実です。
 ウィキペディアで「仙台城」をひくと、「鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人の国分氏が居城したとも伝えられている」と記しておりますが、平安末期の文治年間に結城氏の居城であったとする伝承―『聞老志』『名蹟志』―とは矛盾します。
 また、その他伝承との整合性から、しいていうなら國分氏は結城氏の後を継承していたと考えるのが自然で、その時期に島津氏が居城としていたとするのは考えにくいものがあります。薩摩島津氏の官位(?)と結城氏の事績が混乱して伝わったものなのでしょう。千代城主としての島津氏が実在していたとすれば、それは結城氏よりも前、すなわち平安時代以前と考える必要があります。事実、『聞老志』『名蹟史』『風土記』のいずれもがその時間軸で記しております。
 そもそも國分氏と結城氏も混乱し、さらに謎めいているので、これまでは、実在すら疑わしい島津氏についてなど考える余裕がありませんでした。しかし今回は、周辺事情を探ることで、眠り続けている自分の脳へなんらかの閃きを導くことが出来れば幸いと思っております。しばし結城氏と國分氏の混乱について考察した後、あらためて島津陸奥守についても向き合ってみようと思います。
 伊達家以前に現在の仙台市域を領していた陸奥國分一族の末期は、親伊達と反伊達にわかれて内紛状態であったようです。
 たびたび触れているとおり、最終的には伊達家から國分家の養子に入っていた彦九郎盛重―政宗の叔父―が反伊達派閥を抑え、宗家を継ぐことになったわけですが、やがて当の盛重が伊達政宗の意に叛いたので討伐されてしまいます。
 この時代、奥州にあって政宗を敵に回して生きるのは、幕府との直接的な関係をよほど密にしておかない限り至難であり、ここに國分氏の没落が決定してしまうわけですが、その複雑な相続劇の影響なども相まって、今一つ國分氏の素性というものが掴めません。
 國分氏は平姓千葉氏の流れであるとされておりますが、「宇那禰神社」「諏訪神社」「八木沢神社」など領内各社の棟札は「藤姓小山氏」から分かれた「長沼氏」が祖であることを暗に伝えており、これもあなどれません。
 國分荘において、國分氏もまた戦国大名の例にもれず、各村の土豪らと姻戚関系を結び、他家の内部まで入り込むことによって影響力を高め、領内における支配力の強化をはかっていったでしょうし、それが積み重なれば系譜伝承も自ずと複雑化せざるを得ないわけですが、そこに混乱する要因はあるにしても、それはどこぞの家にも言い得る事情であります。
 やはり、奥州征伐以降南北朝時代までの約160年間、史料上全く事蹟が確認出来ないことはなにより不可解なのです。
 このあたり、先に私は次のように触れておきました

 これはどう考えるべきか・・・・。私は二通りの理由を想像します。
 一つは、単に記録が逸失してしまったこと。それは故意によるものも含みます。
 もう一つは、違う名を語る氏族だったものが、後付けで國分氏という名を語ったことによるもの。つまり、鎌倉期以降南北朝時代までの160年の間は、他の氏族の名前で活躍の事績があるかもしれない、ということです。 紫桃さんはそれを結城氏であろうと疑っているわけです。
 いずれにせよ、正体を顕在化出来ない一族であった可能性は“かなり高い”と考えざるを得ません。

 「結城氏」とは、奥州征伐に功があった下野国小山の「小山政光」の子、「小山七郎朝光」が「下総国結城郡」を領したことに始まる一族で、藤姓國分氏の祖とされる「長沼氏」の兄弟分にあたります。
 ただし、家祖の「結城朝光」の出生にも何やらただならぬ噂が伝わっておりますので、やや斜に構えて受け止めておかなければなりません。そのあたりはあらためて後に触れますが、なにより朝光は國分氏以前の「千代城―仙台城―」の領主であったとも言われているわけで、國分氏の謎にもう一段深入りを試みたい今、否が応でも見つめ直す気分が高まってくるのです。
 仙台市青葉区荒巻神明町に、その名も「荒巻神明社」という社があります。
 そこは、現在「西公園―仙台市青葉区桜ヶ岡公園―」に鎮座する「櫻岡大神宮」の古の鎮座地なのですが、その境内に昭和十一年二月建立の「荒牧村仙臺市合併記念碑」があり、荒巻が古来「荒牧」と称されていたことや、その名のとおり“軍馬放牧の地”であったこと、また、その範囲は仙台城の南「龍ノ口」から「國分街―都心部―」を経て「東照宮」に至るまでの広大なものであったこと、そして仙臺城下に属した一部以外はそのまま荒牧村とされ、明治十七年になって七北田村に属されたこと、などを伝えております。
 そして、「神明社」と書かれた扁額の脇には、「祭神は天照大神 創建は 伊達政宗入城以前の國分氏が荒巻を統治下にあった頃波及した 伊勢信仰を受け入れた村民が勧請し祀ったと推定される〜」という由緒書が額縁に収められて提示されておりました。

イメージ 1

イメージ 2
   荒牧村仙臺市合併記念碑

イメージ 3

イメージ 4


 櫻岡大神宮の由緒についても触れておきますと、『仙臺市史(旧版)』が次のように説明しております。

――引用――
元柳町に鎮座する。古く荒巻村に鎮座し、神明宮と稱えた。仙臺藩祖伊達政宗厚くこれを祀る。元和七年(一六二一)、伊勢兩宮の御分霊を勸請し、宮を同村内の勝地に遷し、其の地を伊勢堂山と號し、神明宮と稱へた。後。天和ニ年(一六八二)伊達綱村伊勢堂山の規模を擴張し社殿を改変〜
〜中略〜
〜殊に奉行職を以て代拝せしめ、又四民に参拝せしめ、累代の藩主繼嗣のとき参拝することを霊とした。大小の造營悉く公費を以て修理する等、伊達家累代崇敬の社であった。もと別當神宮寺があったのが、維新の際廢される。明治二年村社に列せられ、荒巻神明社と改稱した。同五年仙臺大町佐藤助五郎等協力して仙臺元柳町(伊達藤五郎上地屋敷一千ニ百坪、今の西公園)に遷し、同八年五月縣社に列し、社號を櫻岡大神宮と改める。
〜以下省略〜

 なんとも社地変遷の忙しい神社ですが、ついでまでに、「伊勢堂山」の地―現:青葉区千代田町―にも「伊勢神明社」があり、現在地に遷る直前の名残をとどめております。
 いずれ、伊達氏、特に四代綱村による相当な崇敬ぶりを窺えますが、荒巻神明町の神明社の由緒からすると、藩祖政宗が伊勢の御分霊を勧請する前から当地の國分氏系の村民には当社への崇敬があったようですので、滅亡させてしまった國分氏の領民をはばかって厚遇したものでしょうか。いみじくも、政宗が伊勢兩宮の御分霊を勧請したという元和七(1621)年は、國分盛重が生涯を閉じた元和元(1615)年からまだほどない時期とも言えます。
 思うに、國分盛重の庶子である七〜八歳の「伊賀重吉」とその母「楚乃」を保護したのもその時期でしょう。この母子は國分氏滅亡のあおりを受けて松島の桂島に落ち延び、その後楚乃の生家でもある陸奥國分寺―院主坊―に隠棲していたのです。
 この母子を優遇するあたり、政宗は自分が滅亡させてしまった國分氏に相当な気を使っていたことがわかります。
 荒巻神明社と櫻岡大神宮の由緒を見比べてみると気になることがあります。双方の由緒を信ずるならば、政宗は、元々國分の領民によって勧請されていた伊勢の神を、元和七(1621)年にあらためて伊勢から勧請したということになります。はたして、古の荒巻神明社は本当に“伊勢兩宮”の神であったのでしょうか。
 明治以前は別当神宮寺があったようですが、『封内風土記』によれば「祓山神宮寺」と名づけられていたようです。同風土記は「寺。山。號共君所命也。」と記し、政宗なのか綱村なのか、いずれ君主の命によって名づけられたものであることがわかります。山号は特にその底地の地名なり属性を表すことが多いので、当地には「祓山」にふさわしいなんらかの属性があったことを推察されるわけですが、藩主はその属性を重んじたのでしょう。そして、その属性はそのまま國分氏の信仰形態の一つを代弁しているものとも考えられます。「白山」「諏訪」「ニワタリ」など、表面上多重人格的な國分氏の独特な信仰形態については、これまでもたびたび触れてきておりますが、國分氏の素性にもう一段せまる上で、この情報も一要素として加えておきたいところです。

軍事的な宮城野

 現在、東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地「クリネックススタジアム宮城」として全国ニュースでも取り上げられることの多くなった県営宮城球場の周辺は、古くは、歌枕の地「宮城野」として京にもその名が聞こえた憧憬の地でありました。
 その一方で、当地には軍事演習場としての側面もありました。少なくとも、近代においては第二次大戦後の昭和20年代後半に総合運動公園として整備されるまで、「宮城野原練兵場」と称された帝国陸軍の一拠点でありました。それ自体は明治以降に開かれたものですが、素地はそのはるか昔から熟成されていたのです。
 例えば、先に触れた「伊賀重吉」は、母「楚乃(その)」との隠棲先の陸奥國分寺正門付近で遊んでいるところを「伊達政宗」に尋問されたわけですが、その際の政宗は狩野の途次であったとのことでした。おそらく狩りの舞台は宮城野原でしょう。

イメージ 1


 「狩」というと、さも趣味に興じていたかのように聞こえるかもしれませんが、将軍家や大名の「狩」は軍事演習と言ってさしつかえありません。今で言う「人工衛星と称する長距離弾道ミサイル発射実験」みたいなものでしょうか。
 ちなみに、数年前に利用した観光バスのガイドさんの話では、真偽の程は定かではありませんが、とある高貴な御一族の御方々は、乗り物で移動中に用を足したくなって停めてほしいとき、直接的な表現を避け、男性は「狩りをしたい」と言い、女性は「牡丹を摘みたい」と言うのだとかなんとか・・・、すみません、要らない情報でした。
 話を戻します。
 宮城野周辺が軍事演習場であっただろう形跡は、平安の歌枕時代どころか、奈良時代にまで遡れそうです。菊地勝之助さんの『仙臺事物起源考』には次のようにあります。

――引用――
 寛保三年(一七四三)に書かれた『馬櫪神御由来記』に「陸奥は日本六十餘州の内馬生産第一にして、中にも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一なるを以て同郡多賀の任官時の按察使兼陸奥守国分寺の西門荒野の里に於て此牧の駒を相し選みて年毎に時の帝に奉りし事、我朝にて牧場の駒を選み帝に奉りし初なり云々」とあるように、奈良平安の当時国分寺木の下薬師堂附近に於て毎年秋九月馬の売買が行われていた。従って国分寺附近には多数の馬喰も住居していたことは、口碑に伝わる「木の下馬喰」の称によっても知ることが出来る。

 「馬喰(ばくろう)」とは、馬牛の売買をする稼業のことで、中世には「伯楽(はくらく)」と呼ばれておりました。伯楽とは、もともと天帝の馬をつかさどる星の名で、中国古代には馬を鑑定することに巧みな人がそう呼ばれていたようです。前に木ノ下駒の由来にからめて触れましたが、これはある種の特殊技能であり、彼らは金刺舎人裔族とも、諏訪神家とも言われる中原氏、すなわち「信濃國造」に繋がる集団ではなかったかと想像しております。
 ここで私の興味を惹くのは、「陸奥は日本六十餘州の内馬生産第一にして、中にも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一」というくだりです。
 『封内風土記』は「土産」の項に仙台藩領内の名産物を列挙しておりますが、そこには「獣」とあって「所在出。駿馬尤多。栗原郡所出爲佳。」すなわち、栗原産の駿馬の品質が良好なことが特記されております。
 思うに、栗原で選び抜かれた馬が、国分寺周辺に連れてこられて、そこで朝廷献上用に交配生産されていたのではないでしょうか。あたかも、選び抜いたネタを生きたまま仕入れる高級すし店の生簀(いけす)のようなシステムが当地にあったものと考えます。
 ただ、せっかくの優秀な血筋の馬であっても、狭い場所に拘束されてしまっていては心身ともに衰えてしまうでしょうから、奔放に広大な野山を駆け巡らせて品質を維持しておく必要があったはずです。それが宮城野原を軍事演習場たらしめた起りなのでしょう。
 菊地勝之助さんはこう続けます。

 「この木の下馬喰とか玉田横野の放駒などの言い伝えは恐らく荒巻とか小田原・南目等の放牧に関連すると思われる。荒巻とか南目などの地名は牧場の意から起つたとも見られているのである」

 「荒巻」「小田原」は現在でも地名として残っております。住居表示制度の普及によってその地名範囲はだいぶ狭まっておりますが、かつては仙台市の西部から北部、北東部にまでぐるりと取り囲むような広域を指し示していた大字地名です。
 「玉田横野」とは、かつての小田原邑のうちでも仙台東照宮近辺を指します。このあたりには、蝦夷対策に大伴家持が設置した「階上(しなのえ)郡―仙台市泉区周辺―」の郡家があったとも言われておりますが、郡の主役は信濃系の移民であり、当地の荒駒放牧地としての事情に一致します。
 「南目」は、中世の国分氏の城館に因んで「南目館」という地名で残っておりますが、そこには現在「陸上自衛隊東北方面総監部」が置かれており、まさに古来軍事拠点の要素が受け継がれております。
 これらに宮城野原や木の下を加えた実に広大な山野一円が、往古の荒駒放牧地であったようなのです。荒駒がいつの頃まで当地で放牧されていたのかはわかりませんが、小鶴の「牧嶋観音堂」や燕沢の「蒙古の碑」も無関係ではないでしょう。
 源頼朝の奥州征伐の際、迎撃する藤原泰衡が総司令本部を置いた「國分ヶ原鞭楯(こくぶがはらむちだて)」は、宮城野原や木の下を望む現在の「榴岡公園」にあったと考えられておりますが、「鞭楯」の名が、売買ないし献上用に養成されていた荒駒に因んでいたことは間違いないでしょう。もしかしたら泰衡はそれを最終兵器として利用しようとしていたのかもしれません。

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4
榴岡は伊達政宗による仙台城建築地の第一候補であったとも伝えられております。
 久々の大雪の影響で大渋滞していた国道四号仙台バイパスでの北上を避けるため、山崎インターから利府街道に入った私の目に、とある観音堂が飛び込んできました。
 「牧嶋観音堂」です。
 こちらには「モクリコクリの碑―蒙古・高句麗の碑―」を調べていた頃に参拝したことがありました。当時、ここを訪れずにはいられなかったのです。何故なら、天明年間(1781〜1789)に鹽竈神社祠官藤塚知明の解読によって「蒙古の碑」を「蒙古の碑」たらしめることとなった「善応寺―仙台市宮城野区燕沢―」のそれは、昭和十六(1941)年に蒙古聯合自治政府主席徳王の視察にともなって牧嶋観音堂から遷されたものであったからです。つまり、藤塚知明が解読したところの「蒙古の碑」は本来「牧嶋観音堂」にあったものなのです。
イメージ 1

イメージ 2

 木村孝文さんの『宮城野の散歩手帳(宝文堂)』によれば、この蒙古の碑は、もと安養寺跡の土中から享保八(1723)年に発見されたもの、あるいは燕沢三丁目の燕沢寺跡に通じる路傍から発見されたものであったようですが、いつの頃か不明ながらこの牧嶋観音堂に移されていたのだそうです。
 さて、心の中にその観音堂の名を呼び起こした瞬間、またしても神経衰弱ゲームで両カードの一致をみたときのような喜びを得ることになりました。拙ブログを長くお読みいただいている方なら、私が何を言わんとしているのかもう既にお気付きかもしれませんが、あえて観音堂の名を強調しておきます。

 「牧嶋観音堂」

 これまでに拙ブログと御縁のなかった方は「・・・で?」と思われることでしょうが、様々な思惑を語り直すには字数が多すぎるので、ここでは拙ブログへの予備知識があることを前提に、簡潔に触れるにとどめておきたいと思います。

 何故、執権北条氏を破綻させることに繋がったにっくき元の兵卒―蒙古兵―を供養する碑が当地に存在したのか・・・思うに、執権北条時宗のブレーンであった無学祖元によるものという通説には矛盾があります。
 破綻に追いやられた北条氏はもちろん、祖元にしても故郷の南宋を元軍に滅ぼされております。
 祖元が蒙古兵を慈しんだとするには、祖元の知を拝借したであろう時宗が元の交渉をことごとくはねのけた事実とも矛盾します。
 そこで私は奥州に色濃い高句麗系騎馬民の血に因果を求めました。
 言うなれば、奥州は元寇の100年足らず前に鎌倉軍に侵略されたばかりなわけで、鎌倉幕府の崩壊に対してそれほどまでに悲劇性を感じてなかった可能性もあります。いえ、むしろ、元軍の尖兵にされた高句麗人に対して同情的であった可能性すらあるのではないでしょうか。
 なにしろ、奥州兵を屈強たらしめた大きな要因には、天武天皇の秘密兵器として育成されていたと思われる信濃系移民の末裔による騎馬戦術があったと想像しております。彼らのその実はほぼ高句麗系渡来人と考えられます。馬を戦闘に利用する渡来人は、『東夷伝』の記述を信じれば高句麗人にほぼ限定されるからです。
 いつの頃からか牧嶋観音堂に移されていたという「蒙古の碑―モクリコクリの碑:蒙古・高句麗兵供養の碑―」・・・。
 牧嶋観音堂は、その名にもあるとおり間違いなく「牧―馬柵―」に関連する観音堂であるでしょうから、板碑を観音堂に移した人物は、私と同じ部分に因果を見い出した人物か、あるいは、なんらかの真実を知っている人物なのでしょう。
 なにしろ、板碑はこっそり運び出せる代物ではありません。これを移したのは一個人ではなく、それなりの組織であったのでしょう。

 以下に現在までの「モクリコクリの碑」関連記事のリンクを貼っておきますので、もしご興味を持たれましたら御参照いただければ幸いです。

********************









 まず触れておかなければならないことがあります。
 先日、ガムを噛んでいて、奥歯の詰め物がとれてしまいました。自分の舌先でその部分を確認してみると、そこにはポッカリと穴が開いておりました。そのとき、私の心の中ではごく自然に次のセリフが浮かびました。

(ありゃ〜奥歯がガホラっつってんなぁ〜)

 思わず、ハっとしました。これは、

(あら〜奥歯にポッカリ穴が空いてるなぁ〜)

 という意味なわけですが、気がつけば、私はごく自然に「ガホラ」という言葉が頭に浮かんでいたのです。
 先に触れたように、私は、「空洞」という意味を指す名詞としての「ガホラ」という仙台弁を知らないつもりでおりましたが、実は誰に教えられるともなく身についていた言葉の遺伝子には、「ポッカリ」と同義の、“擬音(?)”としての「ガホラ」が刷り込まれていたのです。なるほど、たしかに空洞と言われれば空洞の意味に違いありません。

 さて、仙台城下の地名には幾つかの法則性があります。よくウンチクで語られるところでは、侍屋敷が連なる所を「丁」、足軽や職人、町人の屋敷が連なる所を「町」と区別されていたことや、「○○通」の○○はその通りが辿りつく先を指し示すということなどが有名です。
 それらの法則にしたがうならば、「木ノ下薬師堂仁王門――陸奥國分寺南大門跡――」から南に延びる「椌木前丁」には侍屋敷が連なっていた、という推測も成り立ちますが、安永年間の住宅地図『仙臺御城下絵圖』で確認した限りでは、十名にも満たない名が連なるばかりでした。
 もちろん、晩年の藩祖伊達政宗が若林城に住していた頃であれば、当該エリアにもより多くの屋敷が集まっていたと考えられます。なにしろ政宗が住していた頃の若林城周辺は、仙台城下に匹敵する賑わいがあったといいます。当時の仙台は二元都市であったのです。
 ただ、政宗の死後、それらの都市機能は再び仙台城下に回帰集約されて、一元化されていったので、若林城周辺の賑わいも自ずと失われていったものと考えられます。
 もっとも、先の「塔文社」の『レトロマップシリーズ』などを見る限り、木ノ下薬師堂仁王門門前の南北筋は、年度によって「丁」であったり「町」であったりしております。
 ただし、それらはいずれも大正から昭和の混乱であって、藩政時代にどうであったのかは管見では判然とせず、もしかしたら「丁」「町」の法則性をあてはめて考えるべきではないのかもしれません。
 それよりも、ここではむしろ「○○通」の法則性が気になります。
 この法則性を適用するならば、「椌木通」は、まさに「椌木」と呼ばれた大木に行きつく通りであると認識されていたということであり、重視すべきは、「椌木通」にせよ「椌木前丁」にせよ、それらは「木ノ下薬師堂」の「仁王門―正門:陸奥國分寺南大門跡―」に行きつく通りであるにもかかわらず、その名には「国分寺」や「薬師堂」、「白山神社」といったビッグネームではなく、「椌木」が選ばれていた、という事実があることです。
 「椌木―空虚木:枯れた大木―」が、少なくとも通りの名称としては、藩祖伊達政宗に仙台の産土神と定められた神仏ばかりか、聖武天皇勅願の古刹にも優先されていたのです。
 立地から推察して、「椌木」が陸奥國分寺薬師堂の正門を守護する重要な御神木であったことは間違いないでしょうが、その名が現在に至るまで地名として伝わっている事実を見る限り、月並みな御神木にとどまらない破格の神秘性が隠されている可能性も否定できないでしょう。「木ノ下薬師堂」の「木ノ下」なる地名も、案外この「椌木」に因むものなのかもしれません。
 かつて若林区役所で入手した『若林散歩マップ(若林散歩マップ制作実行委員会)』には、実に気になる謎が投げかけられております。

――引用――
薬師堂・参道・仁王門のずれの謎
仁王門をくぐり、参道を北へ進むと薬師堂。でも、薬師堂と仁王門の中心はまっすぐ向い合っていません。門から見るとお堂は少し東にずれた位置にあり、逆にお堂から見ると門は西側にずれています。
お堂を造った時、なぜ門と南北に向き合うようにしなかったのでしょうか。門の方が先に造られ、後からお堂が造られたのでしょうか。
門の南方、郵便局などのある道路とお堂は南北一直線上にあります。お堂と門のずれは、角度にするとおよそ10度。仁王門と薬師堂をつなぐ参道はまっすぐなようです。なぜなのか考えてみるのもおもしろいでしょう。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

 実行委員はここまで投げかけておきながら、正解、あるいは見解については全く触れておりません。ここまで書いている以上、きっとなんらかの思惑があったものと思いますが、おそらく「公」のリーフレットであることの責務として自重されたのでしょう。
 先の航空写真からすると、上代の伽藍配置ではそのようなズレがなかったように見えます。もしかしたら、単に、上代の南大門や講堂よりも小規模な仁王門や薬師堂が、上代の礎石の東端に合わせて建築されたからズレたとも考えられます。
イメージ 4

 しかし、各々の中心線を合わせなかったことはやはり奇妙で、政宗、あるいはそれ以前の国分氏によってなんらかの結界が張られたと考えるべきなのかもしれません。
 明確なことはわかりませんが、私は薬師堂と椌木の位置関係になんらかの意味が隠されているものと想像します。
 つまり、椌木に直結するなんらかの聖地に陸奥國分寺が建立されたか、あるいは逆に陸奥國分寺の正面に控木明神が祀られたか、いずれにしても、陸奥國分寺と椌木は本来密接な因果関係にあって、椌木は国分寺の参道の延長上に植えられていたものと考えているのです。
 「紫明神」と呼ばれる社は、管見では宮城県とその近県に少なくとも二十四社存在するわけですが、かつて「松島明神」と呼ばれた高城―松島町高城―の紫明神から分霊されたとされるものは、確実なところで某家氏神とされる石巻市大街道の紫明神社とこの木ノ下紫明神社―椌木明神―の二社です。はたして椌木明神の勧請当時からそれが松島明神であったのか、後から被ってきたものかどうかはわかりませんが、いつの頃からか、松島明神あらため紫明神が陸奥國分寺の門前で信奉されてきたことは事実です。
イメージ 5
木ノ下紫稲荷―紫明神―向かって右

 ふと、伊達政宗の謎の従兄弟「伊賀重吉」なる人物の母「楚乃(その)」を思い出します。彼女は、国分院主坊天峰法印の女でした。彼女の実家である「院主坊」は、木ノ下薬師堂仁王門の巽(たつみ)―南東―すなわち椌木明神の艮―北東―に位置しております。
イメージ 6

 これらのことは、伊達氏以前の仙台を探る上で大変重要な情報と考えております。

.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
最大10万円分旅行クーポンが当たる!
≪10月31日まで≫今すぐ応募!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事