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「椌木(ごうらき)」とはどういう意味なのでしょうか。現地のあちこちに貼られていた「若林区歴史的地名活用事業」に基づく「歴史的地名街かどステッカー」には、「かつてガホラ(空洞)のある大木があったといわれる通り」とあります。私は知らなかったのですが、「ガホラ(空洞)」とは仙台弁のようです。 つまり、「ごうらき」は「空洞の木――がほらき――」に由来する地名なのだそうです。現地の標柱には次のような由来が具体的に説明されております。 ――引用―― 昔堂前の地に紫明神が祀られ、その境内に大人数人で囲む程の古木があった。幹はごおらとなっており、誰云うとなく「ごおらの木」と呼び「椌木」という字を作って町名としたと地誌に伝えられている。この地域は陸奥国分寺造営によって陸奥の国の中心地となり後薬師堂の建立によって信仰の聖地として今日の繁栄に及んでいる。 紫明神は後に白山神社境内に遷され現存している。 なにやら、また紫明神の名が出てきましたが、仙台市のHPによれば、かつてこの通りの北東角に一本の枯れた大木があり、根元に大きな空洞があって幣束(へいそく,細く切った紙や布などを細長い木につけ神前に供える飾り)が立てられて紫明神が祀られていたとのことです。 ちなみに、この木が「ガホラギ」と呼ばれ、「椌木」という当て字が使われて通りの名になったようで、「空虚木」と書いたという伝承もあるようです。 それにしても、東西に延びる直線状の「椌木通」に対して「北東角」とは実に悩ましい表現であり、それは「東端の北面であろう」と納得するにしても、この通りは隣町の東新丁エリアをも貫通して続いており、安易には東端を固定できません。したがって、かつてのこの通りの名がどこまでを指すものであったのかを見極める必要があります。 そこで、再び先の明治時代の地図に目を通してみると、どうやら木ノ下の「薬師堂」すなわち「陸奥国分寺」の正面から南北に延びる通り筋に突き当たっていた趣があります。 しかし、ここには別な問題もあります。この古い地図が示す「椌木通」は、どうも現在のそれの一本北側に平行している、いわゆる「木ノ下通」を指し示しているように見えるのです。念のため同じく先の大正時代の地図や昭和二十一年の地図を確認しても同様です。だとすればこれらの地図が間違っていることも念頭に置かなければなりません。個人的感情として、「コーラギドーリ」訓のせめてもの正統性を補強し得る地図が間違っていたことを認めるのは辛いものもありますが、自分に都合が悪いからといって見て見ぬふりするのはいけません。そこは真実の追求に徹したいと思います。 ただ、その地図表記自体を間違いであったと判断するのもまだ早いようです。計らずも、過去に「泉パークタウン」の販売事務所から頂いていた複製地図によってその混乱の原因らしきものが見えました。 その地図は、「三菱地所株式会社」および「三菱地所住宅販売株式会社」によって複製されたもので、両社の手掛ける“泉パークタウン――民間開発としては国内最大のニュータウン:最新情報未確認――”の計画面積が、旧仙台市街の面積とほぼ同一であることをわかりやすく示すため、完成時の輪郭線を大正時代の仙台市街図に重ね合わせられたものです。基となっている市街図は、大正十五年五月一日「ロバスト万年筆」製造の文房具会社「川名文明堂」の川名源十郎さんによって発行された「地番入仙臺市全圖」です。 その地図によると、現在の「椌木通」に加えて、陸奥國分寺薬師堂から南北に延びる通り筋の名も「椌木通」であったようなのです。 確認のためさらなる情報もあたってみると、仙台開府四百年記念に発行されたパンフレット『仙台城下絵図の魅力(仙台市教育委員会)』が、「椌木通」の写真として薬師堂仁王門の正面を南側から眺める南北筋の風景を掲載しておりました。 また、「塔文社」発行のレトロマップシリーズ『昭和11年、18年、27年の仙台と現在の仙台』の各地図では、昭和11年図が「椌木町」、昭和18年図が「椌木前丁」、昭和27年図が「椌木新町」と、微妙に変化しながらも、件の南北筋に「控木」の文字を表記しております。 つまり、どうも「椌木通」とは現在の東西の通りのみならず、南北の縦筋も含めたT字状の通りであったようなのです。事実、南北筋を歩いてみると、古い電柱広告には「ここは椌木通」という表記が残っております。 おそらく、明治三十八年から昭和二十一年までの地図上であたかも「木ノ下通」にかかっているかのような「椌木通」の表記は、この南北筋の北端に付されていたものなのでしょう。 数年前、陸奥國分寺薬師堂の寺務所脇に伽藍周辺の航空写真が掲示されていたことがあります。その写真には、上代、近世、現在の時代別の伽藍配置についての解説が加えられて実にわかりやすかったのですが、残念ながら、先日現地で確認したときには既に取り外されておりました。 しかし幸いにも私はそれを画像に収めておりました。 あらためてそれを確認してみると、件の南北筋に「椌木前丁」と記されております。 「仁王門から七郷堀までの正面参道は控木前丁と呼ばれ、養種園建設以前は若林城(現宮城刑務所)まで延びていました。」 という解説も加えられておりました。 そして、この航空写真には「椌木明神(邑境稲荷)」も明記され、東西の通りと南北筋の交わる場所を指し示しております。「邑境稲荷」とは「むらさきいなり」すなわち「紫稲荷≒紫明神」のことです。 これで「椌木通」の地理的な全容はおおよそ掴めました。 ※平成25年2月10日追記 『奥州名所図会』に次の記述がありました。 ○紫明神小祠 仁王門の南、尼寺に行く東傍に椌樹あり。古の槲樹なり。その樹下に小祠あるを云ふ。昔松島の僧、この地に住するの日、松島の紫明神を遷して祭れると云ふ。 ○椌樹(仁王門の南北、紫明神の祠傍にあり。十囲にあまる大樹なり) |
國分荘史考
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仙台市若林区に「椌木通」という地名があります。 いかにも城下町の仙台らしい難読地名と言えますが、これは「ごうらきどおり――goraki-dori――」と読みます。 偉そうに触れたものの、実は、私はこれをほんの数年前まで「こうらぎどおり――koragi-dori――」と読んでおりました。要は間違っていたわけですが、往生際の悪い私は、未だ素直に現実を受け入れきれておりません。 何故なら、その読み方はそもそも豆知識として能動的に覚えた読み方でもあったからです。 生まれながらに地図好きであった私は、少年時代、この地名をなんと読むのかが気になり、調べたことがありました。インターネットなど存在しない時代、どのような資料で調べたのかは忘れてしまいましたが、なんらかの地図で調べたのだと思います。 数年前のある日、職場のやりとりで「goraki」と発音されているのが耳に入りました。 当然その時点での私は、自分が間違っているなどとは微塵も思っていなかったので著しく違和感を覚えました。 とはいえ、その会話に参加もしていない自分が、話題の本題からみてさもない枝葉の部分の揚げ足をとりにヘラヘラとしゃしゃり出るのも無粋な気がして、豆知識を披露したい衝動を抑えながら一人事務机で悶え苦しんでおりました。 心の中で「間違っているよ、君」などとつぶやきながら、ヤフーの地図やゼンリン住宅地図を開いてみると、驚きました。 なんと私こそが間違っているではありませんか。 (そんな馬鹿な・・・) これは衝撃でした。焦点の合わない目でパソコンの画面を見つめながら、私は人知れず落ち込みました。 (しゃしゃり出なくてよかった・・・) 特に第三者に私の誤認識がばれたわけでもないのですが、自分の中の何かが許せないまま、時が過ぎていくことになるのです。 先日、自宅でのんびりと地図を眺めていると、明治三十八(1905)年頃の国土地理院発行の地図上から「リードギラーコ」という文字が目に飛び込んできました。
この地図は、仙台で開催された「平成10年度地図展」に併せて作成された国土地理院発行の地図集『地図で見る仙台の変遷(財団法人日本地図センター)』を構成する一部です。 なにしろ明治の地図故に、横書きでも右から読むわけですが、「通木椌」という漢字の上に振ってあるカタカナは、間違いなく「リードギラーコ」、つまり「コーラギドーリ」だったのです。 「コーラギドーリ」 長く私が信じてきた読み方がここに明記してあったのです。 「コ」の文字は、虫眼鏡で確認しても間違いなく「コ」でありました。そこに濁点はありません。 これを誤植と切り捨てるなかれ、他の地名のほとんどに振り仮名がない中での振り仮名なのです。 少なくともここには、難読地名を正しく伝えんという積極的な意思が働いていたはずです。間違っている可能性は低いのではないでしょうか。 仮にこれが誤植であったとしても、国家の基本図とも言うべき地図にそう書いてあったことは、私にとってせめてもの慰めになるのでした。 念のため、同梱の他の時代の地図も確認してみました。 すると、昭和三(1928)年頃と同二十一(1946)年頃の地図では、椌木通への振り仮名は「椌」の文字についてだけ振られ、やはりしっかり「コーラ」とありました。 ちなみに、同梱の地図だけで判断するならば、昭和三十九(1964)年頃以降の地図には「椌木通」の地名そのものの記載がなくなっております。 誤記が発覚して削除されたものか、あるいは当該エリアの都市化が進んで情報量が多くなってきたが為に省かれたものか、それはわかりません。 いずれ、これだけを以って「コーラギ」と訓むのが正しいと主張するつもりなどは微塵もないのですが、まだ切り捨てるべきではないと感じているのです。 |



