|
五代将軍「徳川綱吉」と「生類憐れみ政策」を、現代に至るまで「暗君による滑稽で深刻な悪法」として伝えることとなった江戸幕府の公式記録『徳川実紀』は、山室恭子さんの精査によって、どうやら、その当該部分については『折りたく柴の記』なる「新井白石」の自伝的随筆ただ一冊を典拠にしていたことがわかりました。 『折りたく柴の記』は、六代将軍「徳川家宣」が儚くも没した後、新井白石自身が自らの理想のすべてを傾けて補佐した家宣の事蹟を、少しでも後世に伝えようとの願いをこめて執筆された書物であります。そのことは序文においてはっきり宣言されております。 そういった書物であるならば、当然家宣を持ちあげようとする意識が過剰になることはやむを得ないでしょう。 生類憐れみ政策の終息についても、実際には、法の原則は撤回しないと宣言しつつゆるやかに骨抜きにしていったものを、先代の遺命に背いてでも国内の愁いをなくすために廃止する、と高らかに宣言したような記述に変えられました。家宣を持ちあげたいが故に先君を貶めようとする意図が大きく働いていたことは明らかです。 しかも、この部分は「ある人の申せしは」で始まる大きなカッコの中に入る伝聞のようです。白石が実見したことではなかったのです。 はっきり言えば、綱吉に比べ家宣は凡庸でありました。 生涯聖人になる道を探り続けた綱吉に対して、家宣は儒学の古典のようなものにはほとんど関心もなく、軍記・軍談の類にばかりふけっていたようです。 この凡庸な将軍に全精力をつぎこんで補佐した白石は、家宣の薨去にあたって、実像をはるかに超える理想的な将軍としてその名を歴史に刻ませておきたかったようです。 その目的のために、白石は綱吉を貶めてでも生類憐れみ政策の悪法ぶりを強調しておく必要があったようで、『徳川実紀』の典拠となった次の記述を忍ばせております。 ――引用:山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― 此年比(としごろ)、此事によりて罪かうぶれるもの、何十万人といふ数をしらず。当時も御沙汰いまだ決せずして、獄中にて死したるものの屍を塩に漬しも九人まであり。いまだ死せざるもの、また甚数多し。 山室さんによれば、塩漬けにした罪人の数については、他の文脈に家宣側近の間部詮房から入手した数字として記されているようで、それにより塩漬けの罪人25人のうち生類憐れみ関係が9人であることがわかり、いちおうの裏付けがある数字としてみることが出来るようです。 ただし、当の山室さんが指摘するとおり、それが一ヶ月分なのか三ヶ月分なのか、はたまた三年分なのか、多いのか少ないのか、判断の基準が与えられておらず、嘘ではないにせよ、ことの全体でもないことは留意すべきでしょう。 それよりも、罪人の数「何十万」という表現です。 山室さんは、「これでは、江戸の町人はことごとく罪人になってしまう」と呆れ気味に語っております。 井沢元彦さんも、人口20万人の都市で30万人が殺されたと主張する中国の言い方にそっくり――南京大虐殺のことでしょう――、とした上で、「今も昔も歴史を歪曲する者は同じような手口を使うものらしい」、と揶揄しております。 生類憐れみに関係する罪人の総数は、現存する史料での山室さんの地道な精査によって24年間で69件であることが論証されております。白石がぶちあげた何十万とは比べようもない総数差です。 『徳川実紀』も公式記録には違いありませんが、処罰例の総数を見極めるために山室さんがいちばん多く採集した『御仕置裁許帳』は「判例集」、いわば実務的な台帳のようなもので、『徳川実紀』のような「史誌」の類とは毛色が違います。総数の差が微妙ならばいざ知らず、これだけ圧倒的な総数差があって、しかも同時代の史料とまるで整合性のない白石の非現実的な数の捉え方を見れば、どちらが信頼できるかは言うまでもないでしょう。 どうやらからくりが見えてきました。 かつての「徳川忠長」改易事件のあおりを受けて、その重臣であった父と共に蟄居の憂き目に合い幕府に恨みを抱いていた「戸田茂睡」のジョークまじりのエッセイ以外、同時代の日記の類にはほとんど話題にもあがっていない生類憐れみ政策が、後世にとんでもない悪政の極みとして伝わったのは、六代将軍徳川家宣なる人物を輝かせたい新井白石ただ一人のプロパガンダが、白石という信頼のブランドと共に浸透していったからのようです。 また、白石には個人的に綱吉を恨む理由もありました。 それは、綱吉の将軍継承劇とその後の不可解な騒動に遡ります。山室さんはそこにも目をつけているのですが、それはあらためて展開したいと思います。 何を隠そう、私はそのあたりに『先代旧事本紀大成経』焚書事件の事情も絡んでいると想像しているのです。 さて、綱吉暗君説が白石の個人的感情から派生したものだとして、もちろんだからと言って、必ずしも綱吉の治世が人々から称賛を得られるような素晴らしいものであったことにはなりません。
いえ、むしろ圧政と感じていたことでしょう。 特に倫理観、精神的な部分にまで干渉された幕臣・下級武士において、それは窮屈で鬱積の溜まる時代であったに違いありません。先にも触れたように、奉公人への手討ちや賤しいものを刀の試し物にするような殺人習慣については、私たちが現代の日本に生きているからこそ眉をひそめてしまうのであって、当時はむしろそちらが当たり前であったのです。それを否定された武士らは、一個人の倫理観に基づく理想論で強権をふりかざしてくる綱吉をどう思ったか・・・。 なにしろ、先代将軍の家綱は、始祖徳川家康による「将軍はバカでもいい」システム――井沢元彦さん説――の完成によって、既に老中主導のお飾り将軍でありました。そこに綱吉という独裁的な将軍が返り咲いてしまったのです。当時の幕臣の本音からすれば、出来れば綱吉を将軍の座から引きずり下ろしたかったのではないでしょうか・・・。 おそらく、少なくとも一部の老中からすれば、綱吉のような将軍にはニ度と現れて欲しくなかったでしょうし、そういった意識の積み重なりが白石の綱吉潰しを開花させてしまったのではないか、と私は思うのです。 |
大成経が流行した時代
[ リスト | 詳細 ]
|
同時代の日記類にはほとんど触れられることもなかった生類憐れみ政策が、何故現代の私たちにはとてつもなく滑稽で深刻な“酷い悪法”として伝わっているのでしょうか。私たちの知る定説はいつ頃からのものなのでしょうか。五代将軍徳川綱吉の暗君ぶりを後世に定着せしめた震源地は、一体どこにあったのでしょうか。 なにしろ、現代の一流の研究諸氏のいくつもの慧眼がその定説にさしたる異も唱えていないことからすると、相応に信頼できる根拠があると言えます。 そして、どうやらその最大の根拠は、江戸幕府編纂の公式記録である『徳川実紀』の記述にあるようです。 『徳川実紀』は、五代将軍綱吉の突然の薨去に駆け付けた六代将軍「徳川家宣」の行動の一部始終を、次のように描写していたのです。 ――引用:山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― すぐに枕辺に柳沢吉保を呼んで相談された。「先代は生類憐れみのことを厳命され、先頃の御病中にも、たとえひがごとにせよ、百年経ってもこの方針だけは変えないことが私への孝行と心得よと仰せ付けられた。けれど、この令のおかげで何十万という罪人を出し、獄中に没した者も少なくない。厳しく遺言されたことではあるけれど、この令を廃止しなくては国内の愁いがなくならない」。吉保ももっとものことと賛同したので、家宣公は綱吉の遺骸に向かい、「あれほどの御遺命ではございますが、万民の患いには代えがたいので、生類憐れみの令は廃止させていただきます」と宣言して退出された。 (『徳川実紀』文昭院殿御実紀) 繰り返しますが、これは幕府の公式記録の記述です。 なるほど、なまじ幕府自体の公式記録だけに、本来憚られるはずの先君の生々しい暗君ぶりを露呈する記述には皮肉にも信じさせられます。山室恭子さんや井沢元彦さんの主張に出会わなければ、私もまんまと鵜呑みにしていたことでしょう。 公式記録にまで泥を塗られてしまった綱吉の名誉の回復については、「史料絶対主義」を有害と警告する井沢元彦さんですらも手こずっていたようです。 井沢さんは、当時来日していたドイツ人医師ケンペルの日記に綱吉が「卓越した君主」と称賛されていた事実に後押しされながら、「綱吉名君説」を直接に展開した史料がなくても、綱吉の基本政策である「生類憐れみの令」以前と以後で社会に劇的な変化があったことは明らかであるので綱吉が「名君」であったことは間違いない旨を推断しておりました。しかし、それを史料で実証することは難しいと半分あきらめていたようです。 ところが、その困難な仕事を山室さんは成し遂げていたのです。先に触れた、殺人習慣を懐かしむ老人の声や水戸光圀の武勇伝(?)などもその一つです。 「視点さえ変えればむしろ史料は歴史上の真実を探るための有力な武器になる(当たり前のことだが日本の歴史学界では決して当たり前ではない)ことを、私も再認識させられた―『逆説の日本史(小学館)』より―」 井沢さんは山室さんの功績を高く評価しております。 では、その山室さんが幕府公式記録の誤謬をどのようにあぶり出したのかを見てまいります。 まず、山室さんは『徳川実紀』の当該部分にも登場している「柳沢吉保」の日記『楽只堂年録』と『徳川実紀』との齟齬を指摘しております。実際にその時代にその場に居合わせた吉保は次のように証言しております。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 一月二十日、間部詮房と一緒に老中に申し渡すようにと、次のような新将軍の仰せを承った。生類憐れみのことについては、先代がお心にかけられたように、いずれも遵守して断絶なきようにせよ。ただし万民が苦しまず、咎人を出さず、町屋も困窮せず、奉行所も煩わされないよう、万事穏便に済ませるべく心がけよ、と。 なるほど、新将軍が先君の遺命に背いてでも廃止にする宣言をしたとする『徳川実紀』とはだいぶ雰囲気が異なります。 山室さんによると、実際に市中に触れ出された通達の文面―『宝永日記』―も吉保の日記と合致しているようです。 つまり、同時代の史料は100年以上経た後の『徳川実紀』とは異なる事実を伝えているのです。同時代の史料は、家宣が、生類憐れみの原則は撤回しないと述べつつ中身を骨抜きにすることで実質的な終息へと向かった旨を記しているのです。 山室さんは、この同時代の記録に信を置きました。 何故なら、綱吉の死が誰も予期せぬ突然の事であったにもかかわらず、24年にもわたる政権の表看板を下ろすほどの重大な決断を、『徳川実紀』が記すように新将軍の家宣がにわかに独断し得たとするにはいぶかしく、むしろ同時代の史料が記すように穏やかに骨抜きにしていったとする方が自然だからです。 『徳川実紀』には悪意とも取れるなんらかのバイアスがかかっていることが推察されます。 そこで山室さんは、『徳川実紀』がどこからその話を持ってきたのかを捜索することにしました。 そして、ついにそれを突き止めました。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 内閣文庫に何種類も蔵されている幕府吏僚の業務日誌、あるいは系図類や法令集など、『徳川実紀』の情報源として知られているものを片っぱしからめくって突き止めたのは、この話はたった一冊の書物にしか掲載されていないということである。『折りたく柴の記』である。 震源地は『折りたく柴の記』――すなわち「新井白石」であったのです。 山室さんは言います。 「『徳川実紀』の編纂官は、大学者でありかつ家宣の側近くにあった白石の言うことなのだから、と全幅の信頼を置いて採用したのであろう」 山室さんの追撃の手は、いよいよ震源地の新井白石に向けられることになります。
|
|
加来耕三さんレギュラーのラジオ番組において、いいタイミングで「生類憐みの令」が取り扱われておりました。常に独自の知見で歴史を斬る加来さんだけに、どのような見解を示されるのか興味深く耳をそばだてて聴いてみました。 ところが意外にも、一般的な通説に実に素直な話が繰り出されておりました。 真っ先に例に挙げられたのは、頬の蚊を殺したらそれを目撃していた者に通告されて蟄居流罪せられた例でした。その他、この令が祈祷師の勧めによって出されたものであることや、五代将軍徳川綱吉が戌年であったことで犬が大切にされたこと、水を撒くとボウフラが湧いて、それを踏んで殺してしまうと処罰されてしまうので町人は水も撒けなかった、などなど、とにかくよく言われる話がそのまま使われておりました。 加来さんは、それでも個人的には綱吉のことが好きであることを補足しておりますが、短いラジオ番組のためか、その理由については触れられておりませんでした。もしかしたら、次回以降に続きがあって反証されているのかもしれません。 いずれ、このあたりの具体的検証は割愛するつもりでしたが、気が変わりました。多少なり触れておくことに致します。世間の誤解が甚だしいままであることを知りながら、記事化が面倒で私自身が逃げているように思えて来たからです。 まず、今私の手元に『【読める年表】日本史(自由国民社)』なるものがあるので、「生類憐みの令」の記事をひいてみました。すると、「滑稽にして深刻―生類憐み令―」と題したコラムの中に、★男子出生祈願、★ツバメと人類と、★犬分け水、といった小項目がありました。 男子出生祈願は、跡継ぎにめぐまれない悩みに対する僧隆光の進言の件で、既に論破済みですが簡潔に繰り返しておきます。 そもそも、隆光が江戸入りする前から綱吉は憐れみ政策にとりかかっております。 また、養子によって跡継ぎ決定後も政策は継続されております。 更に、筆まめな僧隆光の日記には全くこの政策のことが触れられておらず、この法令に全く関心を寄せていなかったことがわかります。 これらの事から、隆光進言説はゴミ箱行きでよかろう、という見解です。 続いて、ツバメと人類云々については、次のように記されております。 ――引用:『【読める年表】日本史(自由国民社)』―― 〜綱吉には多分に偏執症の気味があり、それが生類すべての殺生を禁止するのだから歯止めがきかない。顔の蚊を叩き殺した小姓を流罪にしたことがあるが、こんなものは序の口である。溝の水を往来に撒くこともいけないとされた。ボーフラが死んでしまうではないか、というわけである。 子供の病気にはツバメが何よりの薬と聞いた中奥小姓が吹矢でツバメを射落とし、死刑、子供は追放された。これが死刑の最初とされるが、ツバメと人間とどちらが大事なのかと考えるバランスさえ否定されてしまったのである。 では、山室恭子さんの検証を見てみます。 ――引用:『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― まあ、なんてひどい御政道、どうにかして難病の息子を治してやりたいという親心を斟酌もせず、いたいけな幼児もろとも小塚原でばっさり、なんてねえ。 とてもわかりやすい話。まあ、なんてひどいと眉を顰める以外の反応を聞き手に許さない、じつに典型的な話として語られている。 しかし。 申し渡す覚 秋田淡路守家来 只越甚太夫 〜中略〜 申し渡す覚 同人家来 山本兵衛 〜中略〜 内閣文庫の棚にぎっしり並んだ幕府側の正式記録である。判決文に拠れば、このとき死罪になったのは只越甚太夫なる者ひとり、あわせて吹き矢に参加した同僚の山本兵衛が八丈島に流されたことがわかる。量刑が重くなったのは、「その上八日の儀に候へば」、こともあろうに先代の将軍家綱の命日である八日に殺生を働いたからであった。 ぜんぜん違う。難病の息子なんてお涙ちょうだいの話はどこにもなく、先代の命日を吹き矢遊びにて犯した不心得者をかように処罰いたしたと、乾いた口調がそっけなく告げるばかり。 〜中略〜 これは心してかからねば。にわかに身が引き締まる。生類憐れみの令にまつわる話は、たった今まのあたりにしたように、その珍奇さゆえに噂の種になりやすい。噂はどんどん増殖する。無責任な衆口は、自らの好みにしたがって、もとの話を俗受けするお涙ちょうだい節へと勝手に作り替えてゆく。我々がつかまされているのは、そうした噂によって水ぶくれした情報である恐れはないか。 〜中略〜 もう一度、『御当代記』とじっくり向き合ってみる。通説の頼もしい柱となっているこの書物、よくよく耳を傾けてみると、ずいぶん要注意情報に満ちていることに気づく。たとえば、 〜中略〜 三つの例が報告されている。増山兵部の家来の切腹、土屋大和守の家来の追放、そして土井信濃守の家来の免職、噛み付いてきた犬から身を守るべく、つい刀を抜いてしまったばっかりに切腹だの追放だの、気の毒な侍たちの姿をこうも並べられると、なんてひどい御政道だろうねえと型通りに慨嘆してしまいそうになるのだけれど、ちょっとブレーキ。 三人目に挙げられている土井信濃守である。『寛政重修諸家譜』を繰ってみると、この名乗りの侍は第五巻二五九ページに登場する利直しかいないが、彼は十年前の延宝五年(一六七七)に既に没している。 おかしい。もっともらしく名前を挙げられている侍が、十年も前に死んだ者だなんて。そう言えば「犬目付」なんていう役人がのし歩いた形跡も、他の史料にはとんと見えない。 長々と引用してしまいましたが、山室さんの地道な史料精査によっていかに通説が怪しい根拠に基づいているかを実感せざるを得ません。
山室さんによれば、『御当代記』の作者戸田茂睡という人は、当時録を離れて牢人中であったとのことで、「どうも政治向きの話題になると大仰に眉を顰め、批判がましく語る癖があったよう」です。 こうした尾ひれをもぐために、山室さんはこの後、生類憐れみの令違反の咎で処罰された事例を、各種の史料から拾い上げたわけです。その結果、現存史料から確認出来る総数は、先に触れたように24年間で69件であることがわかりました。特にそのうち13件確認出来るという死罪の内容も、山室さんは全て調べあげて列記しております。 なにより私たちがあらためて認識しなければならないのは、あれだけひどい歴史として伝えられている「生類憐れみの令」について、同時代の日記類にはほとんど姿を現していない事実です。それどころか、山室さんが列記した死罪の13件目の町人について、「あいつは三度も勘当された親不孝もんだから、その報いでこうなっちまったんだろうよ」といった噂すら人々に囁かれていた実態が、『元禄世間拙風聞集』には残されているようです。山室さんは「苛烈な生類憐れみの令に対する怨嗟の声が巷に満ち満ちていたならば、出てくるはずのない言辞である。憎しみの対象となるほどの大きな威圧感を、この法令は備えていなかったのだ」と語りますが、たしかにそうとしか思えません。 |
|
五代将軍徳川綱吉は、何の目的があって「生類憐れみ関係の発令の数々」を繰り出したのでしょうか。 実は、発令に合わせてわりと頻繁に根本の理念を説明していたようです。それは貞享年間から元禄年間に入っても尚、一貫してぶれることがありませんでした。 綱吉は、人々の心の中に「仁心」や「慈悲の志」を涵養せんとしていることを、いちいち宣言し続けていたのです。 なんて素晴らしい政治理念なのでしょう。 しかし信心深い善男善女に講釈する高僧や儒者ならともかく、そんな立派な理想論の宣言が多様な民衆からも胡散臭く見えない権力者など、日本史上でも聖徳太子一人くらいのものではないでしょうか。あまりに立派すぎると真に受けることが出来ず、ついその裏にある本音なり企みが何かを勘繰ってしまうのが古今東西共通の人間の性です。 それが後世に「跡継ぎ欲しさ」や「生まれ年」といった綱吉個人の事情に原因を求める傾向に走らせたようにも思います。 そこからさしあたり一歩踏み出したのが塚本学さんのようです。 塚本さんは、『生類をめぐる政治 元禄のフォークロア(平凡社)』の中で、「当時の社会状況への対策」という視点から、「人民武装解除」や、犬食習俗のある「カブキモノ対策」、「野犬公害対策」、「宿場の馬の確保」、その他諸々あれど、おおよそそういったところに政策の意図を求めました。 なるほど、実際に殺人習慣が矯正されたという結果から考えると、一見的を射た論説ではなかろうかとも思えます。 ところが、山室恭子さんは首を傾げます。 ――引用:『黄門さまと犬公方(文藝春秋)』―― 「人民武装解除」という重大なる使命を帯びていたのなら、なぜ次代の家宣に至って、あっさり撤回され、鉄砲もバンバン撃っていいよとなってしまったのか。無頼の輩を取り締まりたいのなら、犬食らい習俗の抑圧なんていう迂遠なことをせず、もっと直接に手を下すのではないか。野犬に手を焼いたのなら、資金も手間もかかる収容所より、ストレートに殺戮に向かうのでは。病馬や死馬を捨てるのを禁じたくらいで宿場馬の確保につながるのか。などなど、私なりに生類憐れみの現場に立って思案してみると、どうにも腑に落ちないことだらけである なるほど、こうも見事に的を射たダメだしを連ねられると、私自身の思慮の浅さを痛感します。私もまだまだ穿った人物眼から離れられずにいたようです。 山室さんは続けます。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 何より強い違和感を感ずるのは、法令の裏の意図、隠された狙いをさぐろうとする発想に対してである。生類憐れみなんてきれいごとを並べている裏には、人民武装解除とか自由民の取り締まりとか、どす黒い陰謀がとぐろを巻いているんですよ。ほんとうにそうだろうか。綱吉は、痛くもない腹をさぐられているのではないだろうか。 胸が痛みます。万が一冤罪で捕まったらこの人に弁護士になってもらいたい、と思ったのは私だけでしょうか。 憐れみ令と真正面から向き合った山室さんは、膨大な史料精査によって綱吉の人となりをだいぶ明確に浮き上がらせてくれました。 綱吉の盟友「柳沢吉保(よしやす)」の側室は「いにしへのひじりの道まめやかに行はせ給ひ」と綱吉を評していたといい、山室さんはその「まめやか―きまじめ―」こそが綱吉を截(き)りとるキーワードとしてもっともふさわしいと思ったようです。 注目すべきは、綱吉の行った講釈・講義の数々です。 盟友吉保の日記によれば、綱吉は実に58回も吉保邸に足を運んでおり、その都度儒学の講釈を行っていたようです。聴衆は綱吉に随行した老中たちや大名、柳沢家の一族やその家臣といったところで、その内容も実に几帳面であったようです。 綱吉はその他にも城内において大名や近臣に連続講義を開いていて、その数は実に240回を数えたというのだから驚きです。本当にこの人は将軍なのでしょうか・・・。なにより、この人は本当に悪政で人民を苦しめた暗君なのでしょうか・・・。 山室さんは、綱吉が治世の終わり近くの宝永ニ年に至って「元来聖人之道自従本心」に「エンライシンジンツウドウツウソンペンスヘン」とびっしりフリガナを振って唐音で「聖人之道」とはいかにあるべきかを議論している箇所に出会ったとき、少し胸が熱くなった、と語っております。 どうやら、綱吉は本気で自分の政治において青臭い理想主義とも言うべき「仁心の涵養」に取り組もうとしていたのでしょう。 もちろん、それに付き合わせられた方はうっとおしかったに違いありません。権力者に強制的に自分の価値観を変えられることほど迷惑なことはなかったことでしょう。それが、生類憐れみの発令の数々に対してわざと曲解して茶化すようないたずら的レジスタンスを呼び起こした原因なのでしょう。それに一々腹を立て全て完璧に潰さないと気が済まない几帳面な綱吉は、ヒステリックに次々新たな対症療法を発令し、本来の理想的理念どころではないスパイラルに陥っていったようです。綱吉はどんどん理不尽で厳しいお触れを繰り出さずにはいられなくなりました。 しかし、そうは言っても、山室さんが各種史料から拾い挙げた生類憐れみ関係の処罰例の総数は、綱吉の治世24年間でわずか計69件です。そのうち46件が下級武士で、いちばん被害にあっていた印象で伝わる町人は15件しかなかったのです。 幕府はむしろ身内に厳しい態度で臨んでいたことが浮き彫りになります。 武家側の史料だからではないか、といった懸念も無用です。いちばん多くを採集した『御仕置裁許帳』なる判例集において、殺人や傷害といった項目では町人がほとんどであったからです。 にもかかわらず、生類憐れみ関係の罪人だけは下級武士が過半を占めている、それが現実なのです。それが何故に悪政で町民がことごとくひどい目にあったかのように伝わってしまったのか・・・。申し訳ありませんが、今本稿で掘り下げたい部分ではないので割愛させていただきます。 さて、綱吉が儒教の講釈に並々ならぬ精力をつぎ込んでいたことがわかり、晩年に至るまで聖人之道を究めようと心掛け、たとえ空回りしていたにせよ、「仁心の涵養」なる政治理念もはったりではなく、極めて本気であったことがわかってきました。 では、綱吉は敬虔な儒教の徒であったのでしょうか。 ところがそうでもないのです。 では敬虔な仏教信者であったのでしょうか。 それもどうやら違うのです。 綱吉は自らの目指すところについて、盟友の柳沢吉保に次のように語っておりました。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― 仏教と儒学は慈悲をもっぱらとし仁愛をもとめ、善を勧め悪を懲らしめること、まことに車の両輪である。しかるに現在、仏教を学ぶ者は出家して世間を離れてしまうので、世の中の秩序は乱れきってしまっている。また儒学を学ぶ者は禽獣を平気で食して、万物の命を害することを厭わないので、世の中は不仁で夷狄の風俗のようになってしまっている。まことに憂うべきことだ。儒仏を学ぶ者はその根本を見失ってはならない。 (『徳川実紀』常憲院殿御実紀附録巻中) 驚きです。仏教も儒教も尊重しながら、民衆の上に立って現実に政治を行う立場からの各々の欠点をも見据え、まるで新たな境地を見い出そうかのような勢いです。 綱吉は独学でこの境地にまで至ったのでしょうか。そうかもしれません。綱吉ならばそれもあり得そうです。それにしても、そこには倫理の出発点のようなものが必要であり、それがどこにあったのかが気になります。 少なくとも、前代までの将軍も後代の将軍もこのような発想をもって政治を行っていないわけです。 何故そう言えるのかというと、この思想は生類憐れみの原点となるべきものでありますが、生類憐れみはある意味綱吉一代限りのものでもあったからです。 ということは、徳川家の内部から起った思想ではないということであり、綱吉の倫理の出発点は外部からもたらされたと考えるべきでしょう。 少なくとも、それが新義真言宗の僧「隆光」によるものではないことは、既に触れたとおりです。 とすると・・・、そうです、私は黄檗宗の僧、いえ、『先代旧事本紀大成経』の信奉者「潮音道海」によるものと考えるのです。もちろん、そんなことを証明する史料もありませんし、山室さんもそんなことは言ってません。 それでも私がそう思うのは、潮音道海が十代からの綱吉の恩師であったという事実はもちろん、何を隠そう、『先代旧事本紀大成経』全72巻の70巻目に「憲法本紀」と題されて「聖徳太子五憲法」が所載され、そこに次のような教えがあるからです。 ――引用:『聖徳太子に学ぶ十七条五憲法(文一総合出版)』―― 鼎はカマドの器である。三本の足で支えているのは三つの法に当たる。儒教は人の道を教える五典で精神を明らかにし、釈(仏教)は五教の密い道を説き、神道は五鎮の真を示す。儒教は在世の筋道をたて(理)、更に余った功徳は現世と死後にも及ぶ。釈は死んだ後を導き、余った徳は現世を導く。神道は現世と死後を同じようにすくい、どちらかひとつに偏ることは無い。第十七章の法道を説く。政道を立てるのに必要なのは三法に他ならない。 「政道を立てるのに必要なのは三法に他ならない」――すなわち、政治に儒・仏、さらに神を結び付けた一文です。私は、綱吉が語る政治理念にこの思想の影響を見るのです。
|
|
生類憐みの政策についてあらためて『ウィキペディア』に目を通していると、脚注の部分に看過できない一文がありました。 ――引用:『ウィキペディア』―― なおこの時点で隆光は江戸に入っておらず関与不能であったという説もあるが、『真言宗年表』(国書刊行会)によれば、隆光はすでに貞享3年に江戸城で安鎮法・土公供等を行ったとされており、そのおかげで権僧正に貞享3年12月1日付で補されているため全くの間違いである。 なんと『ウィキペディア』は、生類憐み政策に隆光が関与不能であったという説を「全くの間違いである」と完全否定していたのです。 関与不能とまでは言わずとも、こうも自信満々に否定されてしまうと、山室恭子さんの論に便乗して隆光進言説をゴミ箱に捨ててもよかろう、と、虎の威を借る狐のような私も、さすがにとまどいを隠せません。 しかし、よく見ると、『ウィキペディア』は生類憐みの令の制定を“貞享四(1687)年”としていることに気付きました。 あれ?と思い、あらためて山室さんの説を確認してみました。 たしか山室さんは“貞享二(1685)年”を第一声としていたはず・・・。 そのとおりでした。 どうやら山室さんの説は微塵も傷ついてはおりませんでした。山室さんは、『江戸町触集成』にある“貞享二(1685)年”七月十四日付の次の一文を生類憐み関連の第一声としていたのです。 ――引用:『黄門さまと犬公方(文芸春秋)』―― 先日も申し渡したように、御成遊ばされる道筋に犬や猫が出てきても苦しゅうないから、どこへ御成なさる場合でも、犬猫をつないでおかなくてよろしいぞ。 なるほどこれはまぎれもなく生類憐みの発想です。 『真言宗年表』などともっともらしい証拠を掲げての完全否定だけに、不覚にも思わずとまどいましたが、生類憐みの第一声を“貞享二(1685)年”と捉えて論じている以上、前稿で書いた内容でも十分に返り討ちにできておりました。 自信満々に否定していた『ウィキペディア』の空回りは既に明らかかとは思いますが、とまどってしまった薄っぺらな私自身が悔しいので、山室さんの次の言葉をもってトドメを刺しておきたいと思います。 ――引用:『黄門さまと犬公方』―― それにこの隆光さん、なかなか筆まめなお方で、日々の活動記録が『隆光僧正日記』として残されているが、その大部な日記のどこをめくっても生類憐れみ政策は私の進言に拠るものだなどという証言はおろか、この政策への言及すらない。もし自らの発案によって施行したものであったなら、もう少し関心を寄せてしかるべきであろう。 いやはや山室さん、天晴れでございます。 やれやれ、思わぬ遠回りをしてしまいました。
|





