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東北地方から日本史を眺めていきます。

大成経が流行した時代

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 まだ昭和の時代、私にも大学生という爽やかな風のような時期がありました。まだ自分の浅い哲学だけで生きていけたその頃、たしか倫理学の講義だったと思うのですが、人知れず、自身の根本にある何かを揺るがしかねない重苦しいボディブローのようなものを受けたことがありました。
 だいぶおぼろげな記憶になってきているので正確さを欠く面のあることは否めませんが、たしか、スペインに滅ぼされたアステカ文明を引き合いに、倫理とはなんぞや、が語られていたときでした。
 古きアステカに人身御供の神事があったことは有名な話ですが、スペイン人、あるいはその他の西欧人にとって、それはとても許し難いおぞましき野蛮人の習俗でしかありませんでした。それは西欧人にとって、人間として根本から変えさせなければならないものであり、彼らはキリスト教など自分達の信じる宗教によって教化することが使命であると信じていたようです。
 また、それは世界中に植民地支配を拡大させる大義名分の一つにもなっておりました。
 たしかに、祭壇の上で生きたままの人間の胸を切り裂き、まだ脈々と動いている心臓をわしづかみに取り出し、神に捧げるなど、現代の日本に生きる我々にとっても到底受け入れ難いものです。
 しかし、教授は力説します。
 彼らにとってそれは神聖な儀式なのであって、生贄に選ばれた者もそれを誇りにしていたのだ・・・と。彼らは西欧人とも我々とも異なる倫理に生きていたことを理解しなければならない。倫理とはそういうものである・・・と。
 その倫理なる奇妙なものは、私の心に理屈で割り切れないえぐみのような何かを残しました。

 数年前、数学者の藤原正彦さんが『国家の品格(新潮社)』という新書を世に出して、「品格」という言葉が大ブームになりました。私がこの本を知ったのは、発売直後の新聞広告でした。そこには、たしか同書の次のくだりの要旨(?)が書いてありました。

――引用:『国家の品格』――
 例えば、「人を殺してはいけない」ということだって、論理では説明出来ません。
 十年ほど前にこんなことがありました。日教組の教研集会で、傍聴していた高校生が会の最後の方になって、「先生、なんで人を殺しちゃいけないんですか」と質問した。そこにいた先生たちは、誰一人それを論理的に説明出来なかった。びっくりした文部省が、「人を殺してはいけない論理的理由をパンフレットに作成中」と新聞に書いてありました。読んで笑ってしまいました。
 人を殺してはいけない論理的理由なんて何ひとつない。私に一時間くれれば、人を殺して良い理由を五十くらいは発見出来ます。人を殺してはいけない理由も同じくらい見つけられます。論理的というだけなら、良い理由も悪い理由もいくらでもある。
 人を殺していけないのは、「駄目だから駄目」ということに尽きます。「以上終わり」です。論理ではありません。このように、もっとも明らかのように見えることですら、論理的には説明出来ないのです。

 ※老婆心ながら、論理(ろんり)と倫理(りんり)を読み間違えないよう、ご注意ください。

 さあ何だろう。
 学生時代に心に刻まれて、もやもやとしたまま忘れかけていた何かが、にわかに呼び起こされ、その答えを見つけられそうな気がしました。思わず、すぐ書店に行って買い求めました。
 目からうろことはこのことです。一気に読破しました。資本主義の荒波に揉まれ、理詰めの閉塞感にさいなまされていた私はこの本にだいぶ心を揺さぶられたことを記憶しております。ただし、本稿で語りたい部分ではないので、具体的な所感は触れないでおきます。
 さて、当時『国家の品格』が大流行することによって、にわかに新渡戸稲造の「武士道」や会津藩藩校「日新館」の「什の掟(じゅうのおきて)」がクローズアップされました。

 「ならぬことはならぬものです」

 NHK大河ドラマ『八重の桜』でも頻繁に出てくる「什の掟」を締めるこの言葉こそが、我々日本人にとって人を殺すことが「駄目だから駄目」に通ずる倫理観だったようです。

 では、このような倫理観はいつから日本人に根付いたのでしょうか。

 あらためて考えるに、やはり五代将軍徳川綱吉の治世以降としか思えないのです。
 先に例を挙げたように、綱吉の治世以降の老人は、綱吉以前にはびこっていた殺人習慣を懐かしんで語っておりました。
 では、綱吉は何故その意識改革の原因となった「生類憐み関係の法令の数々」を徹底して出し続けたのでしょうか。
 それを考える前に、一つあらかじめ補足しておきたいことがあります。
 まず、「生類憐みの令」という原理原則をうたった法令の本体はありません。
 綱吉がさみだれ式に繰り出した動物愛護の細かい指示を、後世の研究の便宜上「生類憐みの令」とひとくくりに総称しているだけなのです。よって、まどろっこしいと思いながらもあえて「生類憐み関係の法令の数々」と表現しておきました。
 山室恭子さんは次のように語ります。

――引用:『黄門さまと犬公方(文芸春秋)』――
〜「生類憐みの令」と一括りにすると、もとのこまごました連なりが一個のかっちりした固体に見えてしまう。じつは、そのこまごまは、現場の状況に合わせ、あるいは政策の転換にともなって、絶えずアメーバのように変形しているのに、一括りにしてしまうことで、そうしたことへの研究者の目を塞いでしまう結果となったのではと、アメーバの活発な動きを見つめながら思ったりもした。

 また、一般に、「生類憐みの令」は、長男を亡くして跡継ぎに恵まれなかった綱吉に、僧「隆光」が前世による殺生の報いであることを教え、戌年生まれの綱吉に犬を慈しむことを進言し、それを綱吉が受け入れたもの、といった説への馴染みがありますが、これが妄説であることを山室さんは断言しております。
 それは概略こういうことです。
 そもそも、隆光が将軍の知遇を得たのは貞享三(1686)年、綱吉による生類憐みの第一声は貞享二(1685)年、すなわち、生類憐みの政策は綱吉が隆光と知り合う以前に既に発令されていたということ―。
 また、結局子に恵まれなかった綱吉は、あきらめて宝永元(1704)年に甥の綱豊―のちの家宣―を継嗣と定めており、にもかかわらず、その後も生類憐みの政策は継続していること――。

 なるほど納得です。この“隆光進言説”はもうゴミ箱に捨てていいでしょう。

 ではあらためまして、綱吉の目的が何であったのかを考えてまいりたいと思います。
 山室恭子さん著『黄門さまと犬公方(文芸春秋)』という新書があります。一般に“暗君”として名高い五代将軍「徳川綱吉」を“名君”と評して憚らない井沢元彦さんが、著書『逆説の日本史(小学館)』の中で引用していたのを見てたいそう興味が湧き、入手してみました。
 山室さんは歴史学者と呼んでいいと思いますが、著書におけるその語り口は実に軽妙で、随所にユーモアも織り交ぜられております。新書の体なので集中して読めば私程度の頭脳でもものの2〜3時間もあれば読み終えられますが、よくよく振り返ると、これが仕上がるまでに精査された史料はなかなかに膨大であったことに気付きます。それだけに私たちが良く知る従来の綱吉像―水戸光圀像もしかり―がいかに偏った情報からの定説であったかも浮き彫りにならざるを得ないのです。
 先に、悪評高い「生類憐み関係の発令の数々」が殺人をなんとも思わなかった国民の気風に劇的な変化をもたらしたようである旨を、さも私自身の発見であるかのように賢らに触れておきましたが、念のため申し上げておくと、これは山室さんや井沢さんといった少数派の説への“便乗”です。もちろん、私はこの両者が正しいと考えております。
 そもそも何故生類憐みの令の前後で気風に変化があったことがわかるのかというと、次のような逸話があるからです。

――引用:前述『黄門さまと犬公方』より――
むかし隣人の加藤という十六歳の侍が、若党を成敗したことがあっての。加藤が二階にいて主従が言い争う声が高く、けしからぬことだと思っているうちに、加藤がはしごを駆け降りる音が聞こえてきた。すわ一大事と刀をつかんで馳せ向かうと、加藤がすでに一刀斬ったものの、細腕で斬れなかったのか、かの従者が包丁を手に主人に立ち向かっているところであった。そこで、私が刀を引き抜きざまに斬ったところ、そいつの肩から斜めに、前にあった青磁の鉢もろとも切り離した。とどめを刺せよと言い捨てて、刀の血を拭い、鞘におさめて帰ってきたものさ。その刀なのだから、大切にしろよ。 (『折りたく柴の記』巻上)

 これは、新井白石が父から刀を拝領したときに父が白石に語った武勇伝のようですが、加藤なる人物は白石より40歳ほど年長であったようなので、この惨劇は寛永九(1632)年前後、すなわち、丁度三代将軍家光の「生まれながらの将軍」パフォーマンスに伊達政宗が便乗した頃というころになります。
 山室さんは、

「その頃には、口喧嘩の果てに主人が若党を手討ちにすることがあたりまえのようにおこなわれ、そして白石がこの書物を著した享保元年(一七一六)、八代将軍吉宗の治世には、そんな風潮はきれいになくなっていた。だから、こうしてもの珍しげに採録されたのだと、そう理解してよいのではないか」

と語っております。
 白石の父はこの他にも似たような武勇伝を懐かしげに語っているようで、山室さんは、

「白石や綱吉らの親世代までは、すぐに刃傷沙汰に及び、しかもそれをよしとする猛々しい風潮が、たしかに存在していたことを窺わせる」

としております。その補強に、それがすっかり変わってしまったことを嘆く老人の説話もとりあげております。

――引用:前述同書――
六七十年前までは奉公人が少しでも悪事を働けば、その家で手討ちにしたものじゃ。逃亡すれば捜し出して刀の試し物にしたので、一ヶ月にニ度三度はあちこちの家で試し物があり、下々の作法もよく、刀や脇差の切れ味をみるのにも便利であった。それが近年では、悪事を働く者がおらぬのか、あるいは主人が慈悲深くなったのか、とんとなくなってしまったことよ。 (『むかしゝ物語』)

 この老人は当年81歳の武士であり、昔のことを聞きたがる子供のためにと、享保七(1722)年、すなわち綱吉没後13年後にこの書物を著しているようです。つまり、試し物が頻繁に行われていた「六七十年前」は四代家綱の治世の前期であり、綱吉が登場する二十年ほど前ということになります。
 この老人はこの他にも、昔は合戦の話や先祖の手柄の話で盛り上がったのに今は食い物や遊興の話などばかりで武道の話題がないと嘆き、さらに、最近の若者は家の中で丸腰で不用心だ、太平の世になったものだ、などとも嘆いております。
 この老人や白石の父の感覚は決して特殊ではありません。仁慈の君として誉れ高い水戸光圀ですら次のようなことを家臣たちに語っているのです。

――引用:前述同書――
わしがどこからかの帰りに夜更けて浅草の御堂で休んだ折のこと、連れのひとりが、この縁の下に非人どもが寝ておるぞ、引き出して刀の試しにしようと提案した。つまらぬことをおっしゃる、どうして罪なき者を斬れようか、無用なりと退けたのだが、臆病者と嘲られたので、そうまで言われては是非もない、いで私が非人を引きずり出してみせようと、真っ暗な縁の下へ這い入った。非人が四五人ほども寝ていたであろうか、私どもはこんなありさまになっても命は惜しいのに、どうしてかような情けないことをなさるのですと皆奥へ逃げて行くのを、私もそう思うが連れが無理を言うのでやむをえんのだ、前世の宿業とあきらめよと、手にさわった一人を引っぱり出して斬った。そののち、こんな心根の者とは思わなんだ、とくだんの友人には絶交を申し渡したことであったよ。 (『玄桐筆記』第七十段)

 さすがに光圀ほどの人物ともなればその残虐行為に大いなる疑問を感じたようですが、かといってそれを隠すほどの悪事とも考えずに得々と語っているのです。また、これによって、人を殺すことよりも臆病者と評されたくない気持ちの方が優先されていたこともわかります。
 繰り返しますが、このようなすさまじい気風が、五代将軍綱吉の治世を機に激変しているのです。はたして綱吉はその結果を意図していたのでしょうか。
 引き続き、綱吉が何故“生類憐み”を強要したのか、また、何故それが後世に悪意をもって大きく曲げられて伝わっているのか、などを語ってみたいと思います。

戦国気風の終焉

 寛永九(1632)年一月二十四日、若干二十歳の三代将軍徳川家光は、在府の諸将を集め、新将軍としての威光を明らかにしたといいます。
 紫桃正隆さんによれば、その光景は、戦前の国定教科書・尋常小学国史の中にも挿絵つきで盛り込まれていたそうで、この教科書で履修された明治・大正生まれの方々には「まことに思い出深く、懐かしい場面であろう」とのことでした。
 家光は言います。

 「わが父祖は諸君の力をかりて天下を得たれば、諸君に向かって同輩の礼を用ひしが、余は生まれながらの将軍なれば、この後は全く家臣として待遇せん。若し不平のものあらば、国に帰りて兵馬の用意をなせ」

 大坂の陣から既に17年、関ヶ原の合戦から数えるならば32年も経ようとしているこの時期、もはや徳川の政権も安泰であろうに、何を今さら、という感じがしないでもありませんが、家康亡き後、将軍家は徳川家が世襲するのだ、ということをあらためて諸大名に再確認する上で、このパフォーマンスは重要であったのでしょう。
 おそらく諸将とも本音としてはしらけていたのではないでしょうか。

 (何をいまさら・・・)

 (これだけ天下普請に人財を費やされてどこにそんな余力が残ってるというのだ・・・)

 (徳川に抗える人物なんぞもうおらぬわ。みんなとうに三途の川を渡っておるわ・・・)

 口に出さずとも、そんなぼやきが聞こえてきそうです。
 そのうち、

 (いや・・・待て・・・)

 (・・・おるぞ・・・一人だけ・・・)

 諸将の頭に一人の危険な人物が頭をよぎったことでしょう。
 過酷な戦国時代に陣頭指揮をとり続けた猛将の中で、この時期までしぶとく生き残っていた英雄がただ一人だけおりました。
 諸将の心の声が聞こえたか否か、その一人の老将が一歩進み出ました。

 「謀反など企てる不逞な輩などあるにおいては、この政宗、奥羽の軍団を引具して幕府の楯となり申すべし」

 そうです。その老将こそが、戦国時代を生き抜いた英雄、独眼竜伊達政宗でありました。
 これには並み居る諸将も面食らったことでしょう。

 (いや・・・公方殿は伊達殿お一人に申しているのじゃろうに・・・)

 どの口が言う・・・どこか釈然としない気持ちもくすぶったことでしょうが、それ以上に政宗の凄みには背筋に氷を詰められたような緊張感を強いられたに違いありません。徳川幕府の権威もさることながら、秀吉や家康と渡り合ってきた政宗とまともにぶつかり合える人物など既にこの世におりません。その政宗が公の場で幕府の楯になると明言したわけですから、ここに名実ともに徳川幕府の基盤が盤石化したと言ってもいいと思います。
 幕末に編纂された『名将言行録』などに伝えられるこの逸話は史実ではないとする研究者も多数いらっしゃるようですが、史実か否かを置いたにしても、この象徴的な場面で政宗が引き合いに出されていることは注目に値します。政宗が戦国時代の気風を引きずる反乱分子の象徴的存在と考えられていたことは間違いないでしょう。
 一昔前のNHK大河ドラマ『葵三代』では、幕閣が仕組んだ演出に、芝居がかったことの好きな政宗が一口買ったものだろう、という旨の解説がなされておりましたが、なるほど、たしかにそんなところかもしれません。
 この四年後、政宗は江戸で七〇歳の生涯を閉じることになります。

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 戦国時代がいつ終わったか、と問えば、三者三様いろいろな解釈が出てくることでしょう。秀吉の小田原征伐と言う者、関ヶ原の合戦と言う者、大坂の陣と言う者、そしてこの三代家光の将軍就任と言う者、そもそも曖昧なその定義に特に明確な解答があるわけでもなし、各々にそれなりの理屈も通っていようかと思いますが、私はやはりこの家光のパフォーマンスを諸大名の前で政宗が受け入れた時ではなかろうかと考えております。
 しかし、殺人をさほどになんとも思わない戦国気風が変わった時期は、実はもう少し下るようです。しかも、それは急激に、かつ劇的に変わりました。
 いえ、どうやら一人の人物によって無理やり“変えられた”のです。
 その一人の人物こそ、「犬公方」と揶揄された五代将軍「徳川綱吉」です。
 何を隠そう、どうやら世に悪評高い「生類憐みの令」、いえ、厳密には「生類憐み関係の発令の数々」こそが、殺人をなんとも思わなかった国民の気風を劇的に変えたようなのです。
 日本を動かす主役が朝廷から武士に代わった頃から、国家の宗廟を有する伊勢志摩―三重県南東地域―の事情も大きく変わりました。
 それまで、朝廷・宮中との密接な関係を背景に聖域であったはずの伊勢神宮・伊雑宮の神領や神戸にも武士勢力の蚕食が及び始めたのです。
 鎌倉末期から室町期にかけて伊勢國を支配していたのは、「伊勢北畠氏」、すなわち、「後醍醐天皇」の右腕として南朝の軍事を司っていた「北畠親房(きたばたけちかふさ)」の三男―養子?―「北畠顕能(あきよし)」の系譜であったと言われております。
 伊勢北畠氏は伊勢の“国司”であり、戦国時代に至っても尚その体制を維持して朝廷色を残していたようですが、やがて「織田信長」の「天下布武」に呑みこまれることとなります。
 伊勢北畠氏は、信長の二男「信雄(のぶかつ)」を養子に迎えることで辛うじて信長との講和に成功しましたが、信雄の家督相続や一族の暗殺など信長の謀略によって崩壊していきます。
 最終的にはこの信雄が織田姓に復すことによって、伊勢北畠氏は滅亡することになります。
 その頃、志摩國に台頭していたのが「九鬼(くき)氏」でありました。
 藤原北家の裔とも熊野三山の衆徒とも言われる謎の九鬼氏は、その名のとおり紀伊国九鬼浦―現:三重県尾鷲市―に起った氏族のようです。元々は北畠氏の傘下にいたのですが、主家の斜陽化にともない信長の傘下に鞍替えしていたのでした。
 九鬼氏と言えば水軍ですが、その活躍ぶりはあまりにも有名です。
 信長直轄の水軍として、世界初の鉄甲戦艦を用いて屈強な毛利水軍を撃退したり、後の大坂城となる難攻不落の水上要塞、石山本願寺を洋上から砲撃したのもこの水軍でした。
 次代の「豊臣秀吉」政権下においても、「唐入り―朝鮮出兵:文禄・慶長の役―」の水軍の主力はこの九鬼水軍でありました。
 信長、秀吉といった最高の実力者から頼りにされた九鬼氏は、紀伊半島の制海権ばかりか、鳥羽藩五万石の大名の地位も確保するのでした。
 いつしか、「伊勢二見六郷」や伊雑宮の「磯部」の神領・神戸も九鬼氏に押領されることになっていたようです。
 野澤政直さんの『禁書聖徳太子五憲法(新人物往来社)』が引用する岩田貞雄さんの研究論文の概要によれば、伊雑宮の御造営は本来なら内宮が支配し、その財政負担もすべて内宮が差配してきたものらしいのですが、肝心な内宮自体が自らの造営もおぼつかない状況であったがために、伊雑宮は磯部の郷民による私祀化を引き起こしていたのだそうです。
 すなわち、国家の宗廟の一角をなすべき伊雑宮が神人による私営化を余儀なくされていったようなのです。
 しかし徳川の時代に入り、事情が変わってきました。九鬼氏の立場がだいぶ悪化してきたのです。
 なまじ織豊政権下で輝かしい功績を残していたがために、徳川幕府から警戒されるのもやむを得ないところでしょうが、なにより、徳川幕府には海上の動きを規制する大方針がありましたので、九鬼氏のような海賊大名は特に衰弱の道を余儀なくされたのです。
 そしてついに寛永九(1633)年、九鬼氏は家督争いが原因で幕府から志摩を取り上げられ、摂津国三田(さんだ)藩と丹波国綾部藩とに分けての国替転封となり、同時に水軍としての命脈を断たれました。
 前述書によれば、これを契機に伊勢二見の郷民が動きました。伊雑宮の旧記を書きあげた訴状をもって幕府老中に訴え、寛永十(1634)年、ついに神領の還付が叶ったのだそうです。
 ところが、磯部神領の返還については何の沙汰もありませんでした。
 これを不服とした磯部の神人は、二見の郷民と同様の方法で老中に神領返還を訴え出たようです。
 九鬼氏に代わってあらたな鳥羽城主となった「内藤忠重」は、貧しい鳥羽藩の財政を鑑みて返還の回避を画策し、幕府の要路に賄賂をおくって神人の要求をおさえる動きに出たようです。
 当然神人が納得するわけはありません。神人はその後も繰り返し直訴するのですが、なにしろ新城主の忠重は、三代将軍家光の教育係を担当した経緯もあるほどの人物です。巧みに幕閣を抱き込み、むしろ神人が狂人扱いとなって鳥羽藩江戸屋敷詰牢にニヶ年も監禁されるはめになってしまったのです。

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 おおよそ野澤さんの記述を参考に語ってみましたが、このままだと磯部神人の要求が全面的に受け入れられなかった様にしか見えませんし、しかも一方的に弾圧されたようにしか見えず、少し偏りすぎている感も否めないので補足しておきます。
 まず、神人側は神領の返還ばかりではなく、社殿遷宮についても嘆願していたようで、それについては寛文元(1661)年、朝廷から日時も含む具体的な知らせはあったようです。
 ただ、その規模などは神人にとって満足のいく内容ではなく、なにより祭祀運営経費に苦しむ彼らにとって、最も切実に望むところは神領の回復であったのでしょうから、その程度の妥協案で引き下がるわけにはいかなかったことも拠(よんどころ)なき現実でしょう。
 さて、ここからの彼らの動きが自らの首を絞めることになりました。
 寛文ニ(1662)年、神人側は『伊雑宮旧記』なるものを公卿らに配布し、伊雑宮こそが天照大神祭祀の本宮であることのプロパガンダを展開し始めたのです。
 思いがけず喧嘩を売られた形になった伊勢神宮内宮側は、朝廷に訴え、朝廷はあらためて伊雑宮は別宮であると判決しました。
 当然この判決に納得できない、ますます烈火の如く怒った磯部神人らは、大挙江戸に溢れだし、日光参詣に向かう道中の四代将軍家綱に直訴するという暴挙に出ました。
 さすがにこれはやりすぎました。
 神人47人は伊勢志摩両国から追放されることになったのです。
 余談ですが、九鬼氏に代わって鳥羽城主となった内藤氏は、三代忠勝の乱心による謎の殺人事件のために、忠勝自身の切腹はもちろん、御家が断絶することになります。
 具体的には、延宝八(1680)年五月、芝の「増上寺」における四代将軍家綱の法要の際、三代藩主内藤忠勝が永井尚長を背後から刺殺したのです。忠勝と尚長は、各々参詣口門と勝手口門の警備を命ぜられていたようですが、尚長から忠勝への連絡に齟齬があったようで、それを恨んだことによる発作的な犯行とされておりますが、一説に、元々両者の関係も良くなかったと言われております。
 殺された永井尚長は丹後国宮津藩のニ代藩主でありました。
 元伊勢を称する「籠(この)神社」を抱える藩主が、天照大神祭祀の本宮を主張する「伊雑宮」を抱える鳥羽藩の藩主に殺されたというのは、考え過ぎとは思いながらもなんとも妙な因縁を感じます。
 もちろん、両者とも元々よそ者であって土着の信仰には特段の感情もないのでしょうが・・・。

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 さて、47人の磯部神人の伊勢志摩追放劇の後に忽然と世に姿を現した『先代旧事本紀大成経』がこれらの顛末に端を発したものか否かは不明ですが、少なくとも磯部神人側にとって都合がよかったことは間違いないでしょう。
 しかし、一部の研究者が言うように神人の主張を証明するためだけに捏造された文献と考えるのはやはり恣意的に思えます。神人にとってどうでもいい部分の内容が広範で精緻すぎます。なにしろ、大成経に否定的立場であるはずの神道体系編纂会の出版物に執筆している小笠原春夫さんですら「この広博な偽書は、その事件となつた一部の“祭神”及びその関係等を偽作するために、そしてその偽作を正当化するために、それを主眼として書かれたのであらうか〜」と慎重に構えるほどなのです。
 少なくとも、人生を賭けて大絶賛した高僧「潮音道海」にとってはいい面の皮であったことでしょう。
 遣明船派遣の費用について、田中健夫さんは次のように語っております。

――引用:『倭寇(講談社)』より――
遣明船の場合は、遣唐船のときのように海外派遣船を新造することはせずに、瀬戸内海水運に使用されている民間の船舶を借りあげて、それを遣明船にあてることが普通に行われた。安芸の高崎で船を調達した記録が残っているが一八〇〇貫文ほどかかっている。それに積荷が一五〇〇貫文ほど、勘合を得るために幕府におさめる礼銭は最低でも三〇〇貫文くらいが必要であった。

 単純にこれを合計すると、1800貫文+1500貫文+300貫文+α=3600貫文+αということになります。
 1貫文を10石とする仙台藩の寛永二十一年の相場にあてはめるならば、3万6千石+α、すなわち、3万6千人+αの年間の米に匹敵する負担であったことがわかります。
 もし、これが古くから密貿易を展開していただろう倭寇一党の場合はどうなのかを考えてみると、単純に、船の調達費1800貫文と勘合を得るための300貫文は発生しないので、積荷の1500貫文+雑費ということになります。それでも1万五千石、すなわち1万5千人分の米に匹敵する初期費用です。
 これだけの初期費用を投資して命がけで海を越えて、もし到着した異国で入港を拒まれてしまったならば、彼らはどういう行動に走るでしょう。彼らは不意な襲撃からも積荷を護るために武装していただろう海の荒くれ者達なのです。
 先にも触れたとおり、私はここに倭寇の行動原理があったと考えております。
 しかし、一度貿易が回り出せば、初期投資などあっというまに償却して余りある利益が生まれたようです。
 田中さんは次のように語ります。

――引用:前掲『倭寇』より――
遣明船に乗ってニ度も明に渡った楠葉西忍(くすばさいにん)の言によると、明で一斤二五〇文で入手した唐糸を持ち帰ると日本では二〇倍の五貫文になり、日本で一駄一〇貫文の銅が明では四〇〜五〇貫文に売ることができたという。遣明船の利益を数字で明確に示すのは困難だが、いろいろな史料から考えると、少なくとも一船で一万貫文くらいの純利益にはなったのではなかろうか。

 船一隻の純利益で1万貫文とはとんでもない数字です。先の仙台藩の相場にあてはめるならば、船一隻で10万石です。10隻も派遣すれば100万石、外様大名最大の加賀前田藩に匹敵してしまう計算になります。
 もちろん、諸藩の総合力は米ばかりで計れるものでもないので、そう単純な話ではないのですが、それでも異国との貿易にどれだけの旨みがあったのかは十分推察出来るというものです。

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