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昭和五十一年十月二十九日、酒田市内において、上映中の映画館から出火した炎は、瞬間風速35メートルという台風並みの強風にあおられ、市民、消防隊、自衛隊による総力挙げての消火活動をあざ笑うかのように翌朝未明まで燃え狂いました。 これによって、酒田の中心市街地の大半が焼きつくされました。 世に言う「酒田大火」です。 当時の実況中継のようなニュースを、私もおぼろげながら記憶しております。 そのニュースから約10年後に私は初めて酒田を訪れたわけですが、とても石巻―宮城県―と同等の人口12万人規模―当時―の都市とは思えないほど整然としていたことに驚いたことを覚えております。 特に、西から東に燃え広がった大火の教訓から、延焼を食い止めんがために設けられた幾筋かの南北の大通りが私にそう思わせたようです。 また、一時は歩行者天国化されたというアーケード商店街も洗練されておりました。 ただ、これについては、どうにも郊外のロードサイド店舗などに客足を奪われてしまったようで、結局自動車の通行を受け入れる形に戻っていきました。当時案内していただいた某大学教授によれば、歩行者天国が成立するには人口にしておおよそ50万人以上の都市であることが必要らしいので、酒田は背伸びし過ぎてしまったということでしょう。 今回あらためて立ち寄ってみると、商店街には完全に車道が貫いておりました。 同教授によれば、この東西筋の商店街は炎の通り道になってしまったため、大火の後、各建物はニ階以上をオーバーハングされて再建されたとのことでした。なるほど、確かにそのようになっておりました。 日本海からの季節風は、最上川をつたって東の内陸部へ吹き抜けるわけですが、酒田はその最上川の河口に発展した湊町であるので、そもそも西から東に吹き抜ける海風の通り道でもあるのです。 『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』は三十六人衆による酒田のまちづくりについて次のような疑問を投げかけております。 ――引用―― 〜北西の季節風が発達すると大火がおきる酒田で、柳小路や大通りのような南北に幅広い大きな通りをつくって、大火に備える町づくりをどうしてしなかったのかという疑問ものこる。 たしかに、最上川の氾濫・洪水という自然災害から難を逃れるべく、興亡を賭けて大移動を決断したわりには、結果論ながら、片手落ちの感が拭えません。 しかし、彼らが火災に対して鈍感であったはずはありません。 何故なら、酒田は、戦国時代から宝暦年間―18世紀:江戸時代―にかけても、度々北西風にあおられた大火に悩まされているからです。 そして、実際に対症療法のような防火対策も実行されていたようです。 ジュニア版読本によれば、1601年に最上軍が酒田町に火をかけた様子が『庄内昔聞書』なる俗書に伝えられているとのことで、その後の町づくりは亀ヶ崎城主の「志村伊豆守光安(あきやす)」が長人(おとな)―三十六人衆―を動かして焼け跡を整理し、割りなおしたのだそうです。 その際、南北に数多くの小路を割りつけて、一応は防火に備えたようです。 しかし、結果的にはその後も大火に悩まされていたということでありますから、根本的な町割りについては変えていないのでしょう。 だとすれば、防火対策以上に重要視すべき何かがあったのではないか、とも考えられます。 そのあたり、ジュニア版読本はこう結論づけます。 ――引用:前掲書―― これは、酒田湊が最上川や新井田川にそってできたからであろうし、もう一つは太陽崇拝によるものではないかとも考えられる。 「太陽崇拝」――。 いよいよおもしろいキーワードが出てまいりました。 地勢的な事情で町割りが川に沿ったのだとしても、それだけなら東西軸を要所で分断して、海風による延焼に強い南北筋主体の町割りでよかったはずです。 しかし、実際にはそうなっていなかったのです。だからこそ酒田大火は再発したのです。 したがって、私はその太陽崇拝論を支持します。 太陽崇拝の可能性については、特に現代の有識者による仮説という類のものではありません。具体的な内容が酒田町組長人松田家の家伝にしっかり伝えられているようです。 ――引用:前掲書―― 酒田町のはじまりはわからない。伝えるところによれば、長人(おとな:三十六人衆)は西浜の砂原を開拓して町並みをつくり、日枝(ひえ)神社祭礼の日(旧暦四月中の申の日)に太陽が日本海に沈むまっすぐの線(正中線)を選んで、一ノ丁より七ノ丁まで町割りして本(元)町と名づけた。これを酒田の背骨である都市軸とし、三十六人の長人がここに屋敷をかまえ、酒田町組の根幹とした。(酒田町組長人松田家伝)。おそらく最上川河口にそって町並をつくり、川岸に船着場や倉庫を置いたものであろう。 思いのほか明確な意思が町割りに採用されていたようです。 何故酒田は季節風の通り易い東西筋主体の町割りになったのか――。これはもう松田家伝の伝えるところが“答え”でしょう。 先に、日枝神社の神が彼らにとってかなり重要であったと書いておきましたが、このことからしてあきらかです。どうやら酒田の町割りは、太陽崇拝に基づいて、日枝神社を起点に決められていたようです。 先に触れたとおり、向酒田から当酒田への湊町移転の相談は、宮野浦の日枝神社にてなされたということでしたが、やはりこれは単なる集会の場ということではないでしょう。もしかしたら、湊町酒田にとっての最も重大な決断に際して、日枝神社の神託を仰いでいたのでしょう。 それが何故日枝神社であるのかは、現段階の私にはわかりません。 日枝神社―日吉神・山王権現―は、かなり古くから近江―滋賀県―の比叡山に坐していた地主神で、後に当地を本拠とした伝教大師最澄およびその後継者たる慈覚大師円仁の天台宗とも密接な神祀りですから、平泉中尊寺が天台宗東北大本山であることと関係があるのかもしれませんし、あるいは、川の氾濫に悩んでいたのですから、そこに水神の性格を投影していたのかもしれません。 いずれ彼らは、日枝神社の祭礼日の夕日を、市街地の隅々にまで差し込ませたかったのだと思います。その聖なる夕日を、全ての町人が遥拝出来るように町割りされたのではないのでしょうか。そして、もしかしたらそのことを日枝の神様に約束していたのではないのでしょうか。 したがって、何度大火に襲われても、東西軸を遮断する再開発だけは絶対に避けられてきたのではなかろうか、と私は考えます。 ここで、平泉研究の権威とでもいうべき入間田宣夫さんの興味深い論説を挟んでおきます。 入間田さんは、豊見山和行さんとの共著『北の平泉、南の琉球(中央公論新社)』の中で、次のようなことを語っております。 ――引用―― 秀衡の都市計画においては、東西に延びる二本の軸線が強烈に意識されていた。その一本は、中尊寺金色堂から秀衡の平泉館に連なる先祖崇拝の軸線であった。もう一本は、金鶏山頂から無量光院本尊の頭上を経て、秀衡の加羅御所に連なる浄土信仰の軸線であった。 〜中略〜 平泉は、宗教の東西軸線によって造成された不思議な都市であった。平安京など、中国モデルにもとづいた既存の都市が、南北のメインストリート(朱雀大路)を基軸にしていることに比べると大きな違いである。平泉は、日本独自のモデルによってかたちづくられた最初の都市であった。 これによって私が何を言いたいのかというと、「東西軸が強烈に意識された都市計画」という点において、酒田と平泉は共通しているのではないか、すなわち、酒田三十六人衆は平泉の思想を継承していたと言えるのではないか、ということです。
仙台の國分荘玉手崎に伝わる一連の小萩伝説―≒奥州藤原氏伝説―が、天神、すなわち太陽信仰と密接であろうことは既に語りました。 また、鎌倉時代から室町時代にかけて、酒田の問丸が、小浜、敦賀、三国―いずれも若狭:福井県―や、直江津・蒲原津―いずれも越後:新潟県―といった、いわゆる越の主だった湊町の問丸とともに商業活動を展開しただろう旨を、いみじくもジュニア版読本が推測しております。 越エリアは白山信仰の濃厚なエリアでもありますが、白山信仰と奥州藤原氏が浅からぬ関係にあったことは、単なる日本海沿岸という地勢の織りなす偶然でしょうか…。 やはり私は、酒田三十六人衆が自称する「奥州藤原氏の遺臣」という伝説を脈絡のない創作とは思えないのです。 |
亀の風土記:山形県
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湊町酒田―山形県―における「徳尼伝説」の震源地たる「泉流寺(せんりゅうじ)」は、現在、酒田市内のいわゆる寺町にありました。 どうも見覚えのある風景だと思いましたら、幾度か、西隣の「酒田市総合文化センター」に訪れたことがありました。そこには「酒田市立図書館」があります。 数年前、不思議アイランド「飛島(とびしま)」行きのフェリー「ニューとびしま」の欠航で、渡航が叶わず、やむを得ず籠ったのもこの図書館でした。 さて、寺の山門をくぐると、左手にあらたまって塀で囲われたお堂があり、特段の確認をせずとも、すぐにこれが徳尼を祀っているものだとわかりました。 お堂の、向かって左奥には「三十六人衆之碑」があり、今も尚三十六人の遺臣らが徳尼に侍り、護衛している雰囲気が伝わります。 泉流寺の山門脇の説明板の内容は以下のとおりです。 ―引用― 酒田市指定有形民俗文化財 徳尼公廟 文治五年(一一八九)平泉滅亡の時 藤原家の遺臣三十六騎が 秀衡の妹(あるいは秀衡の後室・泉の方)と称する女性のお供をして平泉を逃れ やがてこの地に落ちのび 泉流庵を結び徳尼公となり 藤原一門の菩提を弔いながら静かに余生を送り 建保五年(一二一七) 四月十五日八十七歳で没した 泉流庵とは平泉から流れてきたことを表し 後に泉流寺と改称された 尼公没後 遺臣三十六人は地侍となり 廻船業を営み酒田湊繁栄の礎を築き 後三十六人衆と称された 開祖徳尼公の木像は 宝暦元年(一七五一)に焼失した後明和元年(一七六四)本間家三代四郎三郎光丘が京都でつくらせた 尼公像をまつる廟も 寛政ニ年(一七九〇)本間光丘の寄進によって建立された 境内には三十六人衆記念碑があり 毎年四月十五日には徳尼公の法要が行われる 酒田発祥と繁栄の伝承を伝える遺産として 貴重なものである 平成十六年三月十二日指定 酒田市教育委員会 この内容を『【ジュニア版】酒田の歴史』の記述と見比べておもしろいと思ったのは、大筋同じ物語でありながら、片方にはない情報が互いに盛り込まれていることです。 現地説明板にあってジュニア版読本にない情報の最たるものは、なんと言っても泉流庵の名の由来でしょう。現地説明板は、これを「平泉から流れてきたことを表し〜」としております。いわば福島県いわき市の「白水阿弥陀堂」の「白水」と同じです。 また、三十六人衆が「廻船問屋を営み酒田湊繁栄の礎を築き〜」という情報もジュニア版読本の徳尼伝説のくだりにはありません。※別項にはあります。 反対に、ジュニア版読本にあって現地説明板にない情報で印象的なものは、例の紳士が語っていたところの現代における平泉中尊寺との交流の件や、「東永院殿水庵泉龍徳公尼和尚」といった位牌の銘、「念持仏の薬師如来を信仰し〜」、「三十六人衆のだん家は一軒もない〜」といった、すなわち、やや、宗教宗派の性格に関わる部分でしょうか。 なにしろ双方とも酒田市教育委員会によるものでありますから、各々の主旨に合わせて割愛する部分が異なったと捉えるべきでしょう。 しいて双方で相容れない情報を論(あげつら)うならば、泉流庵―泉流寺―の「流」の文字の意味するところでしょうか。 現地説明板は、平泉から流れてきたことから「泉“流”」である旨を記しておりますが、ジュニア版による位牌の銘は「泉“龍”」でありました。 もちろん、単に当て字かもしれませんが、私はむしろこの“龍”こそが本来であったのではなかろうか、という気もしております。 ところで、ジュニア版読本の記事文末には、伝説に対する執筆者の所見らしきくだりがありますので、これをとりあげてみます。 ――引用:『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』より―― 人は自分の出身が高貴であってほしいと願っている。封建社会においては有力武将や大名なども名家の系図を借用して自分の家の系図の上にそれをつける者もあったといわれている。また、それを職業にしていた者も居たとのことである。徳尼公伝説、三十六人衆発祥伝説なども、自分たちの家を「北方の王者」に結びつけたいとする高貴なものへのあこがれ、仲間の団結に対する精神的なよりどころとするためであろう。また、大名支配に対する自由、経済活動の自由などの願いをこめているものと思う。 なにやら、奥州藤原氏とのつながりは創作である、という前提のようです。
しかし、はたしてそうなのでしょうか。 なにしろ、三十六人衆は廻船問屋を営んで都市の繁栄を築いたくらいですから、武士である以前に、いわば選りすぐりの商社マン達であり、農業武士に比べてかなりのリアリスト―現実主義者―集団であったと推察します。 したがって、仮に系譜を創作するならば、それが商いに利するようでなければなんら意味がなかったはずだと思うのです。 なにしろ奥州藤原氏は「東夷の遠酋」やら「俘囚の上頭」を“自称”しておりましたし、源氏政権下にあってははっきり“賊軍”です。 彼らが高貴な「北方の王者」などと評価されるようになったのはいつの頃からなのでしょう。私は、かなり最近になってからではないか、と思うのですが、実際はどうなのでしょう。厳密には調べてないのでなんとも言えません。 仮に奥州藤原系譜を仮冒する風潮が、実は鎌倉〜室町時代においても既に一般的なものであったのだとしても、それとは別次元の部分から私は三十六人衆に奥州藤原氏の影をみるのです。 それは、湊町酒田の都市計画です。 |
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今回の慰安旅行の最大の収穫は、湊町酒田と本間家の発祥伝説の中にありました。 初めて知ったのですが、湊町酒田を創り上げたのは、どうも奥州藤原氏滅亡後の亡国の一団であったようで、本間家のご先祖様はその一人であったかもしれないようです。 ただし、補足を挟んでおかなければならないのは、それはあくまで現在に通じる湊町酒田の発祥譚です。 おそらく、このエリアには、幾度かに渡って「出羽国府」の置かれた時期があったはずなので、最上川河口そのものは“国府の湊”としてそれなりの繁栄の面影もあったに違いありません。酒田港やや北側「古湊町(こみなとちょう)」の地名は、「新しい湊」に対して「古い湊」というような字義どおりの由来譚とは別に、「国府津(こうつ)」がなまったものとも考えられております。 酒田は、江戸時代の繁栄ぶりから、よく太平洋側の北上川河口「石巻―宮城県―」と比べられますが、古代においては、むしろ「塩竈―宮城県―」と性格が似ていたのかもしれません。塩竈も陸奥国府・多賀城の表玄関として発展したと思われ、塩竈市内の「香津町(こうづまち)」という地名も「国府津(こうつ)」の名残と言われております。 いずれ、金や馬をはじめ、奥州以北の特産物を武器に、京をはじめとする国内外との交易を展開していた奥州藤原氏にとっても、酒田湊はそもそもの地縁の強いエリアであったのではないか、と想像しております。 さて、話を本間家に戻します。 本間家は、江戸時代、最上川を拠点にした海運や金融、不動産で富を築いた酒田の名族です。大げさな話ではなく、三井家・住友家にも劣らない全国屈指の大豪商でした。 当時、全国の大名諸藩は、転封(てんぽう)や天下普請、参勤交代など、徳川幕府の策略によって意図的に財力を消耗させられていたこともあり、慢性的な財政赤字に悩まされておりましたが、現代の企業と異なり破綻することさえ許されず、したがって、ひとたび領内に飢饉などの災いが広まろうものなら領民は無間地獄(むげんじごく)を絵に描いたような苦しみを味合わざるを得ませんでした。 本間家は、そんな諸藩や領民への財政支援にも貢献し、世の人々に「本間様には及びもせぬが、せめてなりたやお殿様」などと言わしめるほど隆盛を極めていたのです。 ちなみに、以前私は[「日本のファンド系の元祖かもしれない」などと表現しましたが、「本間家家憲」なる本間家代々の家訓に「一、投機事業に従事することを許さざること」というものがあるようなので、怒られてしまいそうです。 さて、結局私は日をあらためて酒田にやってまいりました。 どうしても「酒田三十六人衆」と「徳尼」のことが頭から離れないのです。 今回は、『【ジュニア版】酒田の歴史(酒田市教育委員会)』なる中学生向けの読本をガイドブックに選びました。これは、慰安旅行中、「山居倉庫」の土産売り場で見つけたものです。 パラパラめくってみると、さすが中学生向けの読本なだけあって、写真や図が豊富で大変読みやすく、「酒田三十六人衆」や「徳尼伝説」のこともしっかり書いてありました。 この本の隣には硬派な『酒田市史』なども置いてあったのですが、さらりと眺めてみたときに「徳尼伝説」に関する記述を見つけられなかったので、私はこの中学生版を買い求めることにしたのです。 同書から徳尼伝説のあらましを引用しておきます。 ――引用―― 〜その昔、徳尼公が平泉より落ちのびて袖の浦の飯盛山の西ふもとに泉流庵を建て、念持仏の薬師如来を信仰し、秀衡、泰衡及び源頼朝との合戦で亡くなった人々の菩提を弔っていた。一二一七年(建保五)、平泉から一緒に来た三十六人の遺臣につきそわれてこの地で亡くなった。その後、比丘尼庵として続いていたが、十六世紀はじめに曹洞宗のお寺となった。これが泉流寺のおこりと言われている。 泉流寺には現在三十六人衆のだん家は一軒もない。これは、比丘尼庵はだん家をとることができなかったので、各家は別の寺のだん家となったためと伝えられている。 〜以下省略〜 徳尼が建てたという「泉流庵」は、「袖の浦の飯盛山の西ふもと」にあったようですが、現在の「国体記念体育館」や「土門拳記念館」あたりでしょうか。 同書に掲載されている文明の頃(1469〜1486)の河口の地図をみるに、そのあたりには「向酒田(むこうさかた)」があり、当時1500〜1600軒の戸数があったようです。 それに対して、対岸、現在の酒田市街にあたる「当酒田(とうさかた)」の戸数は約十分の一の150軒ほどであったようですから、なるほど当時の湊町の中心拠点が最上川左岸の向酒田であったことが窺えます。 最上川の氾濫に悩まされた彼らは、特に文正元(1466)年の「白髭水洪水」の被害に辟易し、明応元(1492)年頃から反対岸の当酒田への移転の気運が生まれたようです。 なにしろこの洪水は七日間も続き、五十三町歩もの田畑が流されたというのですから、かなり切迫した問題であったことでしょう。 同書によれば、当酒田への移転の時期ははっきりしないものの、永正二(1504)年頃から約100年にわたって行われたようで、三十六人衆も大永元(1521)年に宮野浦の日枝神社に連夜のように集まって相談し、興亡をかけた大移動を決断したと伝えられているそうです。 日枝神社が単に集会の場所であったのか、重大な決断に際してなんらかの神託を仰いでいたのかはわかりませんが、少なくともこの日枝神社の神は彼らにとってかなり重要な神であったようです。それについては後にまたあらためて触れます。
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とある慰安旅行で、久しぶりに庄内地方―山形県―に行ってまいりました。 数年前まで、年に数回は訪れていた庄内地方ですが、最近はめっきりご無沙汰でした。 しかし、なにしろ慰安旅行なので、特に探索や調べ物を出来るわけでもなく、団体行動で決められたコースをただ“のほほん”と巡るしかありませんでした。 そもそも庄内は会津や平泉と並んで私のお気に入りのエリアであり、今さら観光というのもどこかよそよそしいような、気恥ずかしいような、得体の知れない感情まで芽生えかけるところではありますが、ところがどっこい、ベタな話、酒田市の「本間家旧本邸」向かいの「別館―お店(おたな)―」で思わぬ収穫を得られたのです。最近流行りの言葉で表現するならば、「降りて来た」というヤツでしょうか。 念のため補足しておきますと、「本間家」とは、江戸時代に最上川河口の酒田を拠点に活躍した全国屈指の大豪商です。 「別館―お店―」とは、本間家創業の震源地とでもいうべき店舗のことですが、現在、お土産屋さんの体を併せ持ちながら、建物そのものも旧態を残す貴重な観光資源として、また、本間家縁の諸々の物品も展示されていて、ちょっとした歴史館風な雰囲気を漂わせております。 その貴重な展示品の数々について、土産コーナーの店員を兼ねた館内ガイドの女性スタッフが案内してくださったのですが、私の目に止ったのは、「本間家に縁がある〜」と彼女が説明してくれたところの写真パネル群の中の一点でした。 そこには、尼僧の像の写真と「徳尼」の文字が見えました。 (徳尼・・・) あきらかに最近脳内で活躍していた言霊なのですが、それが何であったのか、一瞬思い出せませんでした。 (そうだ!白水阿弥陀堂だ!) 思い出しました。 奥州藤原氏初代清衡の娘ともニ代基衡の娘とも伝わる尼の名です。嫁ぎ先の磐城(いわき)―福島県いわき市―で、平泉の金色堂を摸した「白水阿弥陀堂」を建立した女性の法名です。 それとはたして同一人物か否かはわかりませんが、目の前には「徳尼像」と、それを本尊(?)とする堂建築の写真がありました。その像は酒田市内の「泉流寺」にあるとのこと・・・。筆記用具を持ち合わせていなかったので自分の記憶だけが頼りですが、写真パネル脇には、たしか元禄○年(17××年)に本間家が再建した云々・・・といった旨の説明が書いてありました。 江戸時代の本間家がどう関わっていたのか、それ以前に、この徳尼が奥州藤原の女性であるのか、私は先程のガイドさんに尋ねました。 「この尼さんは、どの時代の人なのですか?」 「え・・・、あ、・・・少々お待ちください・・・」 ガイドさんは要領を得なかったらしく、近くにいた上品なスーツ姿の男性を呼びとめ、取り次いでくださりました。てっきり観光客かと思っておりましたが、上司の方なのでしょうか。彼は、やおら私の方に向き直り、軽くお辞儀をすると説明を始めました。 「川―最上川―の向うにあったものを江戸時代に本間家がこちらに移したと伝わっております」 「あ、いえ、像の話ではなく・・・この徳尼という人自体はいつの時代の方なのでしょうか・・・」 「あぁ、平泉の奥州藤原氏の時代です。藤原秀衡公の妹さんともお妾さんとも云われております・・・」 「(来た!)やはりそうでしたか!」 思わず声の弾む私は饒舌にならざるを得ませんでした。 「いえ、福島県のいわき市の白水阿弥陀堂にも奥州藤原氏縁(ゆかり)の“徳尼”伝説がありまして、その白水は泉の文字を白と水に分けたものらしいのですが、今、こちらの写真を見ておりましたら、縁(ゆかり)のお寺がいみじくも“泉”流寺だったので、もしかしたら同じ根っこの伝説なのだろうかと気になったんです」 そう言うと、心なしか彼の表情が少し怪訝に変わったように見えました。 「そちらの話はわかりませんが、奥州藤原氏が滅亡した際、36人の家臣が徳尼を護衛しながら酒田に逃げてきて、その人達が酒田の湊を開いたと言われております。毎年こちらの代表者が平泉中尊寺に出向いておりまして、またこちらの行事の際にも平泉中尊寺から代表の方が参加されております」 あたかも、その辺の伝説と一緒にするな、と言わんばかりに、平泉との公式な交流関係が今尚続いていることを彼は教えてくれました。後から思ったのですが、もしかしたらこの紳士は本間家の方であったのかもしれません・・・。 いずれ、興味深い情報をご教授いただきました。 *現在の酒田湊を築いた人達が亡国の奥州藤原氏の家臣団であったかもしれないこと *謎の本間一族の始祖がその中の一人であったかもしれないこと *彼らが「徳尼」を護衛して当地に逃げ延びてきていたらしいこと *徳尼は酒田で没したと伝わっていること *徳尼の供養に関連して現在も尚酒田と平泉との間に相互交流が続いていること そういえば、藤原相之助は論考の中で次のように語っておりました。 「この徳尼は平泉滅亡の後、出羽の田川郡司のところへ行て、そこで終わつたらしいのですが、この阿弥陀堂―白水阿弥陀堂―は秀衡全盛の頃徳尼が平泉の金色堂を模して作つたのだとは諸記録の一致するところです」 出羽の田川郡とは、現在の酒田の南側一帯のエリアのことです。
いわき・酒田双方の伝説を照らし合わせてみても、特段の矛盾はなさそうです。 双方の伝説を咀嚼してみるならば、磐城氏姓の夫に先立たれて後家となっていた徳尼は、なんらかの事情によって平泉に帰っていたのでしょう。 その事情は容易に推察出来ます。実家の平泉が鎌倉と対決することになったからに違いありません。 結果、実家平泉は敗れて滅亡するわけですが、その際、残存の家臣三十六騎が徳尼に生き恥をさらさせまいと平泉から連れ出し、出羽の田川郡に逃れたようです。 そして彼らは、新天地たる最上川河口を開拓したようです。それが湊町酒田の始まりでありました。 酒田の地名は、「砂潟」に由来していると聞きます。 砂潟と呼ばれた潟湖ないし湿地帯の畔に築かれた湊町は、流路の定まらない最上川の氾濫によってたびたび水没したらしく、幾度か移転しております。 最終的には、おそらくは室町時代頃、最上川左岸の「宮野浦」から右岸の現在地に遷され、落ち着いたのです。 なにやら、「泉流寺」に行ってみたくなりました。 また、現在の最上川の反対岸「宮野浦」にあったという古き酒田の痕跡もひと目確認したくなりました。 結局、不自由な慰安旅行の後、私はあらためて酒田を訪れてしまうのでした。 |
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