はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

伊治と志波と九門

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 千葉県勝浦市の「丹生神社」の近くに、「蟹田」という地名があります。
 その地に「蟹田山蟹連寺」という寺がありますが、山号は地名でしょう。
 おそらく寺名の「蟹」もその地名に由来するのでしょうし、「連」は「妙法蓮華経」の「蓮」、あるいは「日蓮」の「蓮」に、同音の「連」を充てて組み合わせたものでしょうか。
 なにしろ、鎌倉仏教の一角をなす「日蓮宗」の祖「日蓮」は、房総安房小湊―現:鴨川市小湊―で生まれた傑僧です。
 もしかしたら、日蓮の誕生地に因んで名付けられたという「誕生寺」も、本来は「丹生(にう・たんじょう)」にかけているような気もしております。
 いずれ「小湊」は、現在の行政区域でいえば勝浦市との境界に位置する漁村ということになりますが、その縁もあってか、勝浦を含む古の夷隅郡においては、特に室町時代、日蓮宗に改宗される寺院が多かったようです。
 蟹連寺も、永禄二(1559)年十一月、池上本門寺八世日現によって日蓮宗に改宗されたのだといい、それ以前には山伏寺であったようです。
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 さて、私の考察の方向性からすれば、地名、山号、寺名を貫く「蟹(かに)」の言霊に興味を抱かざるを得ないわけですが、期待に違わず示唆深い伝説が寄り添っておりました。

――引用:森輝さん著『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』――
 また、蟹田にはその昔、小姓に扮して豪族の娘を強いた蛇を、蟹がこれを殺して救ったという伝説があり、大楠には、七面山麓の大小二つの堰が竜神の棲む所と言い、雨乞い祈祷の説話があり、〜以下省略〜

 先に触れた魔の寺「柳沢寺」―宮城県宮城郡利府町―の伝説とは逆に、ここでは、蟹が善玉として登場しております。
 付近に丹生神社が鎮座していたことから考えて、このあたりにも赤土があったと想像できますし、「てんとう様」と呼ばれた小祠の存在から太陽信仰も浸透していたものと思われます。
 また、丹生神社から国道を2キロメートル余りほど勝浦市街に向かうと左手に「玉前神社」も存在しております。
 玉前神は「豊玉姫命」なり「玉依姫命」のことであるとされておりますが、「斎部(いんべ)広成」による『古語拾遺』には、豊玉姫が「彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)―鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命:神武天皇の父―」を生む際に「掃守連」の遠祖「天忍人命」が箒を作って蟹を掃う故事が拾われておりました。それ故私は蟹の言霊に「掃部(かもん)氏」すなわち「天忍人命系譜―天香語山命系譜―」の面影を探り続けているわけですが、ここにはその示唆がよく揃っているように思えます。
 一方、悪玉として登場している蛇については、竜神の伝説も鑑みて、月並みながら出雲系氏族の示唆と取れそうです。
 考えてみれば、海神の娘とされる「豊玉姫命」も、「八尋(やひろ)のワニ」というキーワードを通じて「事代主命」と共通します。
 『古事記』によれば、豊玉毘賣は、神武天皇の父である「鵜葺草葺不合(うかやふきあえず)命」を産む際「八尋の和邇(わに)」に化けております。
 一方、『日本書紀』によれば、事代主命は、神武天皇の后である「姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)命」の母、三嶋の「溝樴(みぞくい)姫―玉櫛姫―」と通じる際「八尋熊鰐」に化けております。
 ワニの言霊については、つい、人皇五代「孝昭天皇」系譜の「和爾氏」の方向からばかり語ってきましたが、この事代主命の逸話に代表されるように、竜蛇族たる出雲神族の代名詞でもあることを認識しておく必要がありそうです。一説に竜は顔のモデルがワニで、体のモデルが蛇ないし川、あるいは瀧そのものであると聞いたこともあります。
 いずれ、蛇が豪族の娘を強いるといった話のつくりは、三嶋の娘に通じる事代主なり三輪の大物主なりの姿を彷彿とさせます。
 したがって、玉前神社と丹生神社が鎮座するこの一帯における「蟹」対「蛇」の伝説は、古代における当地支配者の複雑な交代劇を垣間見せているものなのかもしれません。

 とりあえずの想定を試みるならば、いつの頃からかいわゆる鹿島神奉斎氏族たる神八井耳命系譜―オホ系氏族―の常陸への土着があり、おそらくはやや遅れてそれと競い合うような香取神奉斎氏族――和爾氏などのカグヤマ系氏族、あるいは物部氏か?――の下総への土着があり、一方で伊勢を追われた出雲神の子伊勢津彦の一派も出雲神族の支配地であった縁を頼りに落ち延び、國造の制度化に伴い出雲國造と同系の天穂日命系氏族が入り房総をヤマト化し、その後、物部守屋が蘇我馬子に敗北したことによって守屋縁の物部一族が落ち延び、やがて中央における藤原鎌足一族の専横に連動して鹿島・香取両神宮が藤原化し、それに抗する忌部氏が平城天皇の思惑に乗じて上総支配の既成事実化を図り・・・。
 いや、忌部氏とは、もしかしたら出雲神族の傍系なのだろうか・・・。
 既成事実化などというまやかしではなく、純粋にあるべき復権を試みただけなのだろうか・・・。
 闕史八代の頃以前に大和盆地で大掛かりに三輪山祭祀の仕掛けを構築したと思しきオホ氏の正体もそうなのか・・・。
 実はそんな想像も頭の中で発展しております。
 「富大明神」などの“トミ”といい、中央忌部氏の祖神とされる「天太玉命神社―奈良県―」の祭神が史料によっては出雲系の神々であることといい、「安房―阿波―」が、「少彦名命」なり「事代主命」なりを示唆する「粟」と同音であることといい、忌部氏を大胆に出雲神族系の氏族と仮定してみることによって解釈しやすくなることも少なからずあることは事実です。
 仙臺藩主四代「伊達綱村」が定めた「鹽竈神社」の祭神は、左宮が「武甕槌命」、右宮が「経津主命」、別宮が「岐(ふなど)神」、すなわち、「鹿島神」、「香取神」、「出雲神」でありました。
 ここには、ある意味で常陸と房総の先代史が凝縮されているようにも思えます。
 出雲神族はベーリング海を渡り東北地方を経由して出雲に到達したと伝わっているようですので、鹽竈にはその記憶が残されていたのか、はたまた、房総をも追われて最後にたどり着いたのが鹽竈であったのか、それはわかりません。
 綱村が影響を受けたであろう『先代旧事本紀大成経』の記す「射甚國」が何を示唆していたのか、おぼろげに見えたような見えないような、なんとも脳内が混沌としたままではありますが、備忘録としての伊甚國めぐりを終えたいと思います。
 『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』の森輝さんは、「勝浦」の地名について次のように語っております。

―引用:『夷隅風土記』―
 勝浦の語源については、隣郷上野村神話から、神事をつかさどる勝占忌部(かつらいんべ)から出たとの説をなすものもあるが、これは口碑にまつわる牽強付会の説とも思える。勝浦の地名は、福岡県・徳島県・和歌山県等にもあり、港湾を誇って呼称したものとも考えられる。
 文禄三年(一五九四)、慶長六年の水帳にも出るが、中世から近世へかけては、伊保荘勝浦郷と称した。

 文禄三年云々のくだりは今特に必要ありませんが、さしあたり当地が「伊保荘」であったことをあらためて認識しておくために触れておきました。
 さて、森さんは「勝占忌部」由来の説に「牽強付会の説とも思える」と迷いを見せております。
 しかし、いみじくも森さんが例に挙げた福岡県・徳島県・和歌山県は、いずれも忌部氏との関わりを取沙汰される各県でもあります。
 特に徳島県は、いわずもがな「阿波國」であり、阿波(安房)忌部氏の根拠地です。
 房総勝浦以南、すなわち「伊甚國」の南に隣接する「安房國」がこれに由来していることは、『古語拾遺』の記すところですが、悩ましいのは、『先代旧事本紀』の『國造本紀』に「阿波国造 志賀高穴穂朝御世。天穂日命八世孫彌都侶岐・孫大伴直大瀧定國造」、すなわち先の「伊甚國造」同様、「出雲國造」と同祖系譜―天穂日命裔族―とされているところです。
 なにしろ前にも触れたとおり、ここには「忌部氏」と「天穂日命」のみならず、「大伴氏」の系譜も含めた混乱があります。
 さらに、『日本書紀』の景行紀や『高橋氏文』などを考慮するならば、「膳臣」の祖たる「磐鹿六雁(いわかむつかり)命」を輩出したとされる「大彦命」の系譜―孝元天皇皇子系譜:阿部氏同祖系譜―も当地の國造氏族候補として有力であり、安房の東半分に想定されている「長狭國」まで考慮するならば、「神八井耳(かむやいみみ)命」の系譜―オホ氏同祖系譜―の可能性も混乱に拍車をかけます。
 このあたり、『姓氏家系大辞典(角川書店)』の太田亮さんは、安房忌部氏が奉斎したとされる「安房神社」への疑問を呈しながら次のように論じております。

―引用―
神名帳安房郡に安房神社(名神大、月次、新嘗)あり、〜中略〜されど忌部氏が、かかる僻地に祖靈社を経營せしと云ふ事は甚だ疑ふべし。又天富命の東征と云ふ事も古語拾遺並みに之を史料とせし舊事本紀以外、古典に徴證なく、又此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず。殊に安房神社鎮座の安房郡は、文武紀に「安房郡大少領、父子兄弟の連任を許す」と云ひ、延喜式當郡を神郡とす。而して安房郡は古代安房國の地にして、出雲系伴姓、その國造となり、下って承和三年紀この地の人・伴直家主を載せ、又嘉祥三年紀・安房國々造伴直千福麻呂を擧ぐ。當郡々司の人名は一も國史に見えざれど、郡の大少領は一般に國造後裔なるを恒とし、而して平安期に至るも伴直が國造と稱するを見れば、此の神郡の郡領は伴姓なりしや想像するに難からず。然らば安房社は安房國造の奉斎神にして、出雲族關東経營の宗社かと考へらる。然るに其の神戸に齋部氏ありと云ふ一理由より古語拾遺が、當社を自家の祖靈社(當時は氏神と混ず)となしてより、遂に忌部氏の神社となりしにあらざるか。斯くの如く中央官人が多少の縁故を理由として地方に勢力を張れるは古今を通じて然り、中臣氏が香取、鹿島の二大社を自家の神社の如くなしたるも同例とす。猶ほ中央齋部氏の氏神と見るべき大和國高市郡太玉命神社四座は貞観十六年の太政官符に「飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、白瀧、加夜鳴比女神」と明記すれば(類聚三大格)、出雲神系統の神なりしや明白なりとす。即ち此の神社は飛鳥神社の分社にして、忌部氏の崇敬を受けたるものと解すべきが如し。
〜以下省略〜

 なるほど、相変わらず学ばせられる内容で、基本的に納得しております。
 ただし、「此の地以外途中に氏族的遺跡の見るべきものなければ、當然凝義を挿まざるべからず」云々については、そうとも思っておりません。
 何故なら、初めから房総を目指した可能性も十分あろうかと考えるからです。
 いみじくも、太田さんは香取・鹿島の例を挙げておりますが、この両神宮は、『常陸國風土記』や各々の由緒などを信ずるならば、その創始は神武天皇の時代よりも遡ります。
 それに対して、房総への安房忌部の漂着は神武以降であり、もちろん必ずしもそれらの由緒等を真に受けて論を展開していいものとも思いませんが、おそらく忌部氏が目的としたものは中臣氏に先を越されてしまった両神宮文化圏への侵食ではなかったのでしょうか。
 神武以前からの伝統ある香取・鹿島の重要な祭祀を簒奪することが目的であるならば、中臣氏にせよ忌部氏にせよ、真っ直ぐ当地を目指して来たとしてもおかしくはありません。
 太陽を神と崇めて日が昇る方位に限りなく近づこうとするならば、紀伊半島同様、房総半島も重要な終着点であったことでしょう。
 どこか伊勢志摩地方に似ている上総地方―伊甚國・長狭國・安房國―ですが、鮑(あわび)や真珠の献上によって朝廷と繋がっていたことも類似しております。
 そしてなにより私が注目しているのは、当地に「丹生文化」があったらしい、ということです。
 前に触れたように、伊勢は古来国内随一の丹生水銀の産地でありましたが、夷隅郡―伊甚國―にもまた、丹生文化の痕跡が濃厚なのです。

―引用:前述『夷隅風土記』―
 昭和四十五年度の、県教育委員会「千葉県東南部地区文化財総合調査」において、大原町大原土屋門次郎家に、古代の多量の朱塊が保存されていたことが立証された。大正七、八年ごろ、大原駅北側同家倉庫わきの土中から発見したものという。その中に須恵器の破片が二個あった。内側に強く朱の染着が残っているので、おそらく朱の容器であったと考えられる。この須恵器は、古墳時代後期六、七世紀ごろのものであろう。
 江戸時代の『房総志料』『房総志料続篇』などにも、朱瓶の発見などが書かれてあるが、明治以降郡内で、古来の朱及び朱に関連するものが発見されたのは、大多喜町台古墳群の前方後円墳から、朱のにじんだ粘土床が、岬町三門の豆塚古墳からは、埴輪のほか朱のはいった土師器が、勝浦市守谷の本寿寺洞穴からは、後期縄文式土器と、鮑貝に入れられた朱も発見されている。また、中期縄文式土器や、弥生式土器が多数出土した夷隅町引田峯越台からも、朱彩型土器が発見されている。

 なにしろ、勝浦市内には「丹生神社」があります。
 勧請年月や当初の祭神は不明のようですが、夷隅風土記の森さんは、前述した古来の丹生文化の痕跡などからみて、当初の祭神は「丹生津姫命」であろう、と考えておりました。私もそう思います。

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 もしかしたら、日蓮の誕生地に因んで名付けられたという「誕生寺」も、本来は聖なる「丹生」の音読みにかけていたのではないでしょうか。
 それはともかく、森さんによれば、丹生神社西方の小丘上の小祠は通称「てんとう様」というらしく、思うにこれはおそらく「お天道様」のことでしょうから、当地の丹生も伊勢同様、なんらかの形で太陽信仰と密接であったのだろうと推察するに難くありません。
 もしかしたら、古くに伊勢を追われたなんらかの一派が移住していたのではないでしょうか。それは、もしかしたら『伊勢國風土記』の逸文に登場する「伊勢津彦」にも関係しているのではないしょうか。
 伊勢津彦は、伊勢の地主神であり、「出雲の神の子、出雲建子命」とあります。
 同逸文によれば、神武天皇は長髄彦征伐と同時に伊勢津彦の国も平らげるように勅しており、伊勢津彦は降服して波浪に乗って東の海に去っております。
 このあたりいろいろと思うところもあるのですが、ここでの深入りは避けておきます。
 さしあたり、房総安房國を開き安房大神を奉斎していたのが阿波忌部氏ではなかったのだとしたならば、他のなんらかの氏族の経歴に忌部氏自らの経歴を上書き保存したものが『古語拾遺』の当該譚なのかもしれません。
 「豊臣秀吉が徳川家康に江戸の地を勧めたのは、必ずしも家康の力を削ぐためだけではなく、家康の不満を封じるための恩賞として大坂―大阪―の地勢に似た江戸を与えたのだ」

 どなたがおっしゃっていたのか、本で読んだのか、あるいはテレビで視たのか、はたまたラジオで聴いたのか、そのあたりは忘れました。
 しかし、いかにも秀吉らしい人たらしの方便だな、と思ったことはよく覚えております。
 江戸が大坂を超える世界最大級の大都市に発展したことは否定しようのない事実ではありますが、だとしても、当時の江戸は京から離れた辺境の荒地であり、結果的に天下人になった家康による専制的な天下普請の強制があってこそはじめて大都市になり得ただけであるから、本来家康にとっては微塵も喜ばしい論功行賞ではなかったのではなかろうか、という思いが多分にありました。
 しかしあらためて考え直してみると、現在の東京都府中市は「府中」という地名が語るとおり、「武蔵國―无邪志國―」の國府が所在した場所であり、国分寺市などは言わずもがな、「武蔵國分寺」に因む地名です。
 ましてや、その武蔵國分寺の規模は全国最大級であり、武蔵國の古代における立ち位置が相当に大きなものであったことは想像に難くありません。
 隣接の「下総國―現:千葉県北半分―」とて侮れません。
 なにしろ『延喜式』の『神名帳』において、「伊勢神宮」・「鹿島神宮」と並んで三例しかない“神宮”称号の「香取神宮」を擁する古来東国支配の一大拠点國なのです。
 「隣接の〜」と書きましたが、下総國の國府は現在の千葉県市川市国府台あたりにあったとされており、江戸城からみれば武蔵國のそれよりも近いと言えます。
 そもそも両國府の距離は直線にして40キロメートルほどでしかなく、江戸城の地は、その中間なわけですから、古くから十分“要の地”であったに違いありません。
 現代人の我々にとって日本はあたりまえに一つの国であり、家康が秀吉の後に天下を取ったという結果も知っており、ついついその視点で考えてしまいますが、目の前で20万以上の兵力を動かして今まさに天下人になった全盛期の秀吉を前に、家康がすぐさま次の天下など意識できたものでしょうか。リアリストの家康が望むところは、せいぜい秀吉新政権内で最大の発言力を得ることであったことでしょうし、その目的からすれば、東の雄として君臨することは意に叶ったものと思われます。なにしろ、東国は鎌倉以来武士の国です。
 したがって、東国支配を前提にするならば、家康は十分に要たる所領を預けられたとは言えるのではないでしょうか。

 念のため補足をしておきますと、『先代旧事本紀』の『國造本紀』には「下総國造」なるものは存在しておりません。「國造」の制度が残されていた時代、あるいは『國造本紀』の原典が編纂された時代には、まだ「下総國」が成立していなかったのでしょう。
 そもそも『國造本紀』は、同一國の異なる時代の名称の重複も指摘され、各國造の成立時期の段階性が論じられるところではあります。
 さしあたり、「印波國造」や「下海上國造」などが後の下総國エリアの國造とされているわけですが、下総國一之宮たる「香取神宮」の鎮座地「香取郡」は、「下海上國」に該当するのでしょうか。
 尚、『先代旧事本紀大成経』における「香取神宮」は「下海國」の「楫取大社」のことと思われます。
「香取神宮」と一対に扱われる「鹿島神宮」らしき社は、「日中國」の「鹿嶋大社」になるのでしょうが、いずれも「神宮」ではなく「大社」と表記されているところは留意しておきたいところです。

 さて、江戸を大坂に見立てるならば、房総半島は方位的にも紀伊半島に相当するといえるでしょう。東京湾に流れていた利根川―江戸川―は淀川になぞらえられなくもなく、うまく流路をつなぎ航路さえ開けば―後に実現したわけですが―、霞ヶ浦は琵琶湖の役割をはたしてくれそうでもあります。
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現在の利根川下流域
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 そのこじつけ発想の延長で、伊甚國に該当する房総半島南東岸の「勝浦」という地名にも、紀伊半島の「那智勝浦」を連想させられていたわけですが、あながち的外れでもなさそうです。
 安本美典さん監修、志村裕子さん現代語訳の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』は、「阿波の国造」の注釈の中で「〜アワは四国の忌部氏からもたらされた地名であろう。忌部氏は、紀伊半島沿岸にも由緒があるが、白浜・勝浦など房総半島への類似地名をもたらしたとみられる」としております。
 そのあたりは、後にもう少し掘り下げて語ってみるつもりですが、なにしろ、房総に紀伊半島の漁民がよく関わっていたことは事実です。

―引用:川名登さん編『千葉県の歴史100話(国書刊行会)』所収・内田龍哉さんの稿―
 外房の漁業も関東各地と同様近世の初頭から上方漁民の進出により、新漁法が伝えられ、それを受け入れながら発展していった。『誕生寺領山海由緒書』によれば、寛永六年(一六二九)十二月末、伊勢から海蜑人船(かつきあまぶね)数艘が小湊村へ着き、同村の鮑磯(あわびいそ)を請負って鮑漁に携わった。また、元和元年(一六一五)から承応頃(一六五二頃)まで、紀州栖原村の漁師が房州の浦々に下り、漁業の場所を見立て、長狭郡天津、浜萩(天津小湊町)両村の浦で鰯漁を始め、天津、浜萩その他所々に住み、漁業年貢を納めて地元百姓同様に安心して漁猟を行って来たと、『安房郡水産沿革史』は伝えている。

 この天津、浜萩は、現在の鴨川市に属しますが、同じく現在の勝浦市に属する先の守谷、興津から南(西)側に一山越えた漁村です。いずれも10キロメートル内外に展開しており、ほぼ同じ並びの浦々と言っていいでしょう。
 徳川幕府の本拠となった江戸への人口集中に伴い、連動して海産物の需要も急増したことがこのような上方漁民の積極的な進出の要因になったのでしょうが、その100年ほど前から次のような縁故があったことも無視出来ません。

―引用:森輝さん著『夷隅風土記(千葉縣文化財保護協会)』―
〜天正十一年(一五八三)には、石山合戦で信長に追われた西光法師が、紀州湯浅から門徒九人を連れてこの地(鵜原)に来往、真光寺を開基した(真光寺縁起)。
 右の門徒九人は、いずれも紀州漁民の出身であったので、その後紀州漁民の進出には、極力この地に移植することに努めた。その結果定住する者も次第に多くなり、今の船戸港の岸壁には、当時彼らが居住したといわれるトンネルがあり、港内に紀州根と呼ばれる岩礁がある。また、紀州漁民の居住していた毛戸浦には、彼らが郷里加太の淡島明神から勧請したという粟島神社がある。毛戸という地名も、当時ここに集団していた加太の漁民から、いつかカダ(加太)の地名となり、のちにケドと母音変化したものと思われる。粟島神社では、今でも針供養行事が行われている。

 粟島神社云々については後にあらためて触れるとして、西光法師ら本願寺一派は、何故極力この地に移植することに努めたのでしょうか。
 思うに、そこには先の阿波忌部以来の地縁があったからではないのでしょうか。
 『先代旧事本紀大成経―以下:大成経―』が記す「射甚國」は、「鹽土老翁」や「長髄彦」を祭神としてさも「鹽竈神社」を思わせる「鹽揬神社」や、「富主姫」を祭神としてさも「金華山黄金山神社」を思わせる「金華神社」が所在したとされていることから、現在の宮城県にあった、あるいはそういう設定の國であったと思われますが、もしかしたら、國名が酷似する「伊甚國」そのものを指しているのだろうか、あるいはそのものではなくともなんらかの関係があるのだろうか、仮に関係があるのであればどのような関係なのか、先に触れた宮城県塩竈市や同多賀城市の「伊保石」地区とも関係があるのだろうか、はたまた、射甚國がまるっきり創作の國であったとしたならば、創作者は大成経の編者なのだろうか、モデルは何であるのか、創作者の思惑はどこにあったのか、などなど、そのようなことを考えて、多少なりともその手がかりを期待して伊甚國めぐりをしているわけですが、宮城県と当該エリアとの関わりという部分において、「興津(おきつ)地区」―千葉県勝浦市内―に気になる唄があることを知りました。
 それは、当地のなんらかの祭りで神輿―鹿島神社例大祭千貫神輿か―を担ぐ際の唄であるようで、森輝さん著『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』によれば次のようなものです。

 〽米はどっから来た 仙台からきたっぺ 仙台、米の相場はいくらする

 なにやら、興津は仙台と深い関わりがあったようです。
 興津港は仙臺藩の廻米船の重要な中継地点であったらしく、江戸時代、「仙臺役所」なるものも置かれていたのだそうです。
 時は江戸徳川の世、幕府の政策によって興津城を含む全国の数多の城々が既に廃城にされ、天下に平穏が訪れていたある日のことでした。
 突如、興津の港に九曜星の旗を掲げた千石船が入って来たのだそうです。
 村は一時騒然となりましたが、それはどうやら江戸に向かう仙臺藩の廻米船であったようです。
 当時、東北諸藩の廻米船は、銚子港で荷を積み替え、利根川を遡航して江戸へ連絡する「内川江戸廻し」コースであったらしいのですが、仙臺藩は、房総半島を迂回して、積荷の移し替えも曳き船の助けも借りずに江戸表へ直行するという画期的な海運ルートを開発したのだそうです。
 この新航路は「東海大廻し」とも「外海江戸廻し」とも言われ、次第に諸藩の利用するところとなったようですが、すべては仙臺藩の興津港発見の賜物であったのだそうです。―前述『夷隅風土記』より―。
 なにしろ米相場が国家経済の軸をなす時代、その時代にあって、仙臺米は江戸を流通する米の2/3を占めていたと言われていたほどですから、興津村の受けた恩恵も計り知れないものであったに違いありません。興津の人々が仙臺藩の米の出来高や相場を気にかけるのも当然のことでしょう。
 仙臺藩廻米船の興津初入港の時期は、新井白石の『奥羽海運記』などから、寛文年間(1661〜1672)よりも前の出来事と推察されるようですが、銚子や利根川での手間を避けんがため、という理屈が妥当であるならば、少なくとも承応三(1654)年を遡ることはなさそうです。
 何故なら、それ以前の利根川は、おおよそ現在の江戸川―往古の大日川?―の流路で直接東京湾に注いでおり、銚子とは無縁であったからです。
 利根川以前に銚子に流れを注いでいたのは常陸川や毛野(けの)川―鬼怒(きぬ)川―の水系でありました。
 しかしこの水系を遡航しても、たどり着くのは下野(しもつけ)―現:栃木県―です。
 つまり、旧来は銚子から河口を遡航したところで江戸には行けなかったのです。
 利根川水系は、幾重もの掘削工事を経て、人工的に東へと付け替えられていきました。
 そして承応三(1654)年頃、三度に渡る赤堀川の川底掘り下げによってようやく常陸川を利根川の本流と化すに至り、これによってはじめて銚子と江戸が河川水運で結ばれたのです。すなわち、ここに「内川江戸廻し」コースが可能となったのです。
 川名登さん編『千葉県の歴史100話(国書刊行会)』に次のような記述があります。

―引用―
 東北諸藩が江戸への廻米の必要に迫られた時、まず何を考えたであろうか。陸路は整備されておらず、当然ながら船に頼るしかない。しかし、当時東北には江戸に航行できる廻船はほとんどなかった。そこで藩は造船技術者を関西から招き、藩自身の手で廻船を造って、江戸直行を考えた。今のところ江戸へ直航したという史料は発見されていないが、その可能性は十分にある。しかし、それが当時いかに困難なことであるかはすぐわかるだろう。特に途中に安全な寄港地がぜひ必要だった。

 東北の造船技術では江戸への航行さえ困難であったと言わんばかりですが、とりあえず鵜呑みにしておくならば、その環境下において太平洋を横断するような巨大帆船―ガレオン船:サンファンバウティスタ号―を建造して実際にローマ法王謁見の使節団を往復させた伊達政宗の底恐ろしさをあらためて感じざるを得ません。
 それはともかく、もし仙臺藩の興津初入港が、「内川江戸廻し」コース開発後の話だとすれば、せっかく念願の安全なルートが開発されたにも関わらず、仙臺藩は中間マージンを抑えるためか、事業の独占にこだわってのことか、ものの数年であえて波浪のリスクの大きい房総回りを選択したということになります。
 それにしても、どうにも気になることがあります。
 『夷隅風土記』の森さんは、「房総半島を迂回し、江戸表への直行が実現出来たのは、仙台藩の興津港発見の賜物であった」としているわけですが、『千葉県の歴史100話』の川名さんは「今のところ江戸へ直航したという史料は発見されていない」と語ります。
 『夷隅風土記』の初版発行は昭和52年、『千葉県の歴史100話』の初版発行は平成18年です。平成18年に発見されていないのであれば、紛失の可能性は別にして昭和52年にもあったはずがありません。
 だとすれば、森さんは何に基づいて語っているのでしょう。史料がないとなれば、なんらかの風説で得た知識と考える他はありません。
 いえ、もしかしたら森さんにとっては、史料云々という発想も起こり得ないほどあまりにあたりまえの話であったのかもしれません。
 何を隠そう、森さんは「守谷地区」生まれなのです。
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 もちろん、史料にないから事実がなかった、などというのはあまりに偏狭です。川名さんも直航の「可能性は十分にある」としているわけで、私も直航の事実はあったのだと思います。
 何故なら、興津には「仙台石―石巻産粘板石―」の「繋船柱」が残っているからです。
 言わずもがな、これは廻米船を繋留するための柱です。
 元々は同様な石柱が十数本も並立していたらしいのですが、廻米船の消失とともにいつしかほとんどが湊から姿を消してしまったようです。たまたま路傍に捨てられていた一本が、往時を忍ぶよすがとして妙覚寺境内に建てられ、それが海浜公園に移されたようです。なにしろ銚子から利根川に入る廻米船であるならば、仙台からみて銚子よりも遠方である興津に繋留されるわけがありません。したがって、全てとは言わずとも、房総を迂回して江戸に直航していた廻米船が実在していたことは明白でしょう。
 参考までに繋船柱碑の説明文を勝浦市のHPから引用しておきます。

―引用―
 江戸時代興津は、東北諸藩の廻米交易船の碇泊地として、房総沿岸有数の避難港として、いわゆる興津千軒の繁栄をもたらした要港でした。殊に穀倉を誇る仙台藩はその往来が最も激しく、興津天道山下に陣屋を置き、寄港船の取り締まりや連絡等にあたらせたといわれています。この柱も当時仙台藩によって運ばれたもので石巻近在に産する粘板岩、通称仙台石でできています。
 かつて港の弁天崎磯際に十数本も並立し、これに繋留する船舶は一艘につき金1朱と御供米2升、500石以下は200文を妙覚寺に納めたといわれています。

 もしかしたら房総迂回ルートは“闇ルート”であったのではないでしょうか。
 森さんは、仙台藩が新ルートを開発したかに話を展開しておりますが、私は、旧来の闇の航路を仙臺藩が復活させた、あるいは表に出しただけではなかろうか、とも感じるのです。
 神亀元(724)年以降、安房國が遠流の地であったことは『続日本紀』にも記されているところでありますが、当地に配流された人物は重大な犯罪者のみならず、少なからず政治的な敗者も含まれ、その傾向は平安末期に至るまで続いておりました。
 それらのことが当地を反体制のるつぼのような一種独特なエリアに染めあげた大きな要因であったとも思うのですが、言うなれば房総迂回ルートはその安房國と伊甚國の海岸沿いを結ぶルートでもあります。
 安房國というよりは伊甚國というべき「浜勝浦」の地に鎮座する「遠見岬神社―富大明神―」の存在は、さしあたり安房忌部氏の支配、あるいは安房忌部氏の名で伝わるなんらかの支配が当地にも強く及んでいたことを示すわけですが、仮にその中枢勢力自体がとうに消滅していようとも、当地の海の民の精神基底には、遠見岬神社に古くから残されているという「船霊(ふなたま)様への信仰」という形で生き続けているように思えます。
 銚子から九十九里浜を経て、館山で半島を折り返し、富津に至るまで、荒々しい外海に面した長大な海岸線の数ある湊の中で、仙臺藩は何故興津を選び、そこに役所まで置いたのでしょうか。
 「中原―千葉県いすみ市岬町―」の「弓削(ゆげ)家」は代々同地区の「玉前(たまさき)神社」の宮司であるといいます。
 もしかすると「物部守屋」の母系系譜―弓削連系譜―の末裔、あるいは守屋自体の末裔であることも考えられ、多かれ少なかれ物部氏との濃厚な関わりが類推されるわけですが、これが同地区の「玉“崎”神社」のことで間違いなければ、私が類推するまでもなく物部系氏族によって創建された社であることが謳われております。
 同社は弓削家が祭祀をしているわけですが、境内の由緒沿革に「当神社は物部系氏族之を創建しまつり〜」と明記されております。
 これが、一宮町―千葉県長生郡―の玉前神社とどのような関係にあるのかについては調べきれておりませんが、「本宮である」という主張はあるようです。
 また、一宮町の玉前社と同様「天道」なる太陽信仰的な思想を持ち出して、「出雲大社」や元伊勢「籠(この)神社」、「富士山」などと同緯度の東西軸上にあることを喧伝しております。
 それがどこまで古く遡れる思想なのかは私にはわかりませんが、一宮町の玉前社と密接な歴史を抱える社であることは信頼してよさそうに思えます。
 それにしても、出雲國造と同祖系譜の伊甚國造の氏神に、物部系氏族が関わっていたとなると、ますます複雑です。
 なにしろ、出雲國造と出雲神族と物部氏は、いずれも出雲にかかわりの深い氏族とはいえ、各々まるっきり別系統であり、とても一括りで考えるわけにはいきません。

 物部守屋に関係するかどうかはわかりませんが、岬町中原から30キロメートルほど南に「守谷(もりや)―千葉県県勝浦市―」という地名があります。
 『元禄郷帳』には「森谷」と書かれていて、他にも森屋・守屋などと記され、いつ守谷に決定したかは不明―森輝さん著『夷隅風土記(千葉縣文化財保護協会)』―とのことで、もちろん私は物部守屋の示唆を期待して食指を動かしてみたわけですが、残念ながら現段階では直接的に結び付けられる情報は持ち合わせておりません。
 しかし、それを差し置いてもここにはなかなかに興味深い地誌が転がっております。
 後の考察に生きてくるかもしれないので、とりあえず書き留めておこうと思います。

 まず、「守谷洞穴」――。
 守谷地区の海岸部には住居跡らしき洞窟が多いのですが、いずれも海蝕洞とのことで、大正十三年、江上波夫の案内で東京大学人類学教室の山崎直方らが調査して以来、「守谷洞穴―守谷洞窟:荒熊(隈)洞穴遺跡―」として有名になったようです。
 いわゆる守谷洞穴である荒熊洞穴は、大正の調査当初は守谷洞穴と呼ばれておりましたが、その後、同じ湾内に蝙蝠(こうもり)穴、本寿寺洞穴が発見されたため、主に荒熊洞穴の呼称が用いられるようになったそうです。
 それにしても、勝浦市守谷観光協会の現地説明版には大正十三年に江上波夫が発見した旨が記されておりますが、森輝さんの『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』によれば、江戸時代、文政五(1822)年に中村国香によって出版された『房総志料』に「〜守谷浦に一大石窟あり、中に骸骨十二と土器二個あり」と記されているといいます。
 加えて、蜂須賀公が落城の途次難を逃れてこの洞窟に隠れた、という旨の伝説もあり、齟齬が生じております。
 この蜂須賀公が何者なのかは不明ですが、正木氏と混乱して伝わっているのかもしれません。
 安房里見氏の武将である大多喜城主「正木憲時」は、天正八(1581)年、当地の興津城を根拠として里見側に反旗を翻し安房に侵攻したものの、「里見義頼」率いる正規軍の反撃に押し戻され、遂には城を捨てて逃げました。この譚に、徳島阿波を根拠地の一つとしていた戦国武将蜂須賀氏の説が“阿波つながり”で混乱して伝わったのではないのでしょうか。
 仮に全く架空の伝説であったにしても、学術的に発見された大正時代以降に創作されたとは考え難く、つまり洞窟の存在自体はだいぶ古くから認識されていたように思えます。
 とはいえ、同協会を責めるわけにはいきません。
 何故なら、東京大学総合研究博物館のHPにも江上波夫が発見した旨が記されているからです。
 同HPは、関東大震災による海岸隆起が江上波夫の発見につながったといい、人骨出土の報告もなければ、それを記録する文献資料も特定できない、としております。

―引用:東京大学総合研究博物館HP―
 いずれの発掘調査においても人骨出土の報告はない(山崎,1925a、1925b、千葉県,1926b、八幡,1963)。大場(1934)には荒熊洞穴について「房総資料に人骨十二と陶器二個を出したと記載せられてゐる洞穴も恐らく同一のものであろう」と記されているが、その文献資料を特定することができない。

 はたして、いずれが正しいのでしょうか・・・。
 なにしろ『房総志料』は達筆な行書―草書(?)―で400ページほどもの分量があるため、古文書の解読に疎い私の能力ではまだ確認しきれておりません。

 それにしても、なにやら当地は地殻変動の激しい地域であるようです。地元の方々におかれましてはくれぐれも用心していただきたく願うところです。

イメージ 1

 さて、東京大学総合研究博物館のHP―以下:東大HP―によれば、「守谷洞穴または近接する二つの洞穴と共に守谷海食洞穴群と表記され、遺跡が属する時代区分は縄文時代から中世とされている(千葉大学文学部考古学研究室,2000a、千葉県文化財センター,2003)」そうです。
 古来よほど快適な場所であったのか、あるいは比類なき聖地であったのか、相当古くから長きにわたって人が住み続けていたようです。
 また、人骨など一部の内容に齟齬があり、根拠もよくわからないところではありますが、『夷隅風土記(千葉県文化財保護協会)』が記す、各洞窟の出土品についても触れておきます。
 まず、荒熊洞穴―荒隈洞窟―は、四回の隆起と二回の沈降があり、土師器・獣骨・魚骨・貝殻・木炭・人骨などの他、表土近くには近世の陶器や鉄釘等が混在していたようです。
 次に、弁天崎洞穴は、弥生式の土器・土師器・石器類等のほか、貝殻・魚骨・人骨等が発見されたようです。
 東大HPによれば、「後に弥生人骨の採集を目的として日本医科大学の横尾安夫により調査されたというが、詳細は不明である(江上,1996)」のだそうで、その他の例においても、人骨に関する顛末は原則「不明」とされております。
 次に、蝙蝠穴―畑尻―洞穴は、須恵器等土器片のほか、人骨・貝殻等も発見されたが、人骨は屈葬のような状を呈し、骨盤の上に大きな円石が乗せられていたのだそうです。
 これについても東大HPは案の定、「人骨については1927年の江上と増井による調査において屈葬人骨一体の出土が報告されている(増井,1927)。千葉県文化財センター(2003)には、この人骨が本館に収蔵されているとの記述があるが、現在のところ該当する標本は確認されていない。2001年の千葉大学考古学研究室の調査においても人骨が出土したようであるが、詳細は報告されていない(千葉大学文学部考古学研究室,2002)。」といった具合でありました。
 この臍を噛むような不完全燃焼な感覚はいったい何なのでしょう。煙に巻かれている気がしないでもありません。
 最後に、本寿寺洞穴について記します。
 こちらは、縄文式後期の土器、円石、朱のはいった鮑貝等のほか、人骨・獣・魚・鳥骨・蝸牛(かたつむり)殻等が発見されているそうです。
 こちらについては、東大HPも「外房地域で初となる卜骨が出土し、卜骨で名高い三浦半島の海食洞穴遺跡との関連が興味を持たれる」やら、「人骨は1926年の江上による調査で腓骨1個が発見されている(江上,1926)。その後、1999年の調査で古墳時代に属すると思われる頭骨と大腿骨が、2000年の調査では時期不明の頭骨、肋骨、脛骨などの骨片が出土したと報告されている(千葉大学文学部考古学研究室,2000b、2001)」といった具合で、唯一積極的な記述を展開しております。
 東大HPに目を通していると、途中、もしかしたら何かを憚っているのだろうか、とも思いましたが、よくよく咀嚼すれば、人骨の出土そのものを否定しているわけではなく―もちろん収蔵標本群がある以上否定するわけはないが―、標本群の精査の結果、出土時などに付属された紙片等に報告された内容との齟齬について冷静なだけでありました。
 なにはともあれ、思うにこれら洞窟群は、住居跡などではなく、墓ないし祭祀の場であったのではないのでしょうか。
 前にも触れましたが、土地の処女を太陽と聖婚させんとする信仰の視点からすれば、朝日ないし夕日の光が差し込む海蝕洞窟などは、少なからず擬似子宮とみなされていたと考えられます。
 なにしろ、守谷の西隣、「興津」の湾にせり出す岬は「天道岬」でありますし、「天道」は、さきの玉前神社の話ではありませんが、太陽のめぐりを意味します。
 また、「興津」という地名そのものも、興は「太陽が興(起)きる」ことを意味していると考えられますから、「興津」はさしずめ「日の出の湊」といったところでしょうか。
 とすれば「守谷」の地名も、やはり太陽神「櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命」の裔である物部守屋に由来するのではなかろうか、と想像が帰結せざるを得ないのです。

※平成26年5月12日補足
 蜂須賀氏について――。
 前述の「蜂須賀公」を指しているかどうかはわかりませんが、徳川家康の関東入りに際し、大多喜城を与えられた「本多八郎忠勝」のいわゆる「本多軍団」の50余人の中に「蜂須賀」の名があるようです。
 また、御宿町の検地役人として登場する「蜂須賀」なる人物は、その一族と考えられるようです。

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