はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

伊治と志波と九門

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ ]

魔の寺の美女

 利府街道を仙台から石巻方面に向かうと、巨大な新幹線車両基地を右手に見ながら郊外型ロードサイド店舗地帯を通過することになりますが、それらを抜けたあたりから、利府名産の梨を収穫時期に現地販売するための小屋が目立つようになります。
 往昔この一帯は、鍛冶、瓦窯、染色など、陸奥国府多賀城の後背産業地帯でもありました。
 また、勿来(なこそ)川や勿来の関跡の存在から、このあたりが多賀城からみて蝦夷の襲撃に備えるために最も重要な緩衝地帯であっただろうことも想像に難くないのですが、そのエリアにそれら特殊技能者らが配置されたのは、必ずしも当地の土壌や植物などの天然資源にばかり意味があったわけでもないでしょう。おそらくは彼ら自体が辺境の蝦夷となじみやすい存在であったのだと思います。
 それだけに利府界隈では土民と在庁官人の接触機会も多く、先の染殿后伝説のような京がらみの伝説も生まれやすい環境にあったのだと思います。
 数ある伝説の中には、表立っては語られていない貴重な示唆を含むものもあるように思えておりますが、『利府町誌』に紹介されていた伝説の中から、私が重視しているもののひとつをとりあげておきます。
 「魔の寺」と呼ばれたという「柳沢寺」の伝説です。
 この寺は、今は存在しません。
 年代は詳らかではありませんが、昔、春日村―宮城郡利府町―が小野田村といわれた時代、すなわち最低でも寛文年間以前、黒森の県有林の中腹「がに沢」というところにこの寺はあったのだそうです。現状は未確認ですが、昭和61年の町誌編纂当時においても若干礎石が見られたようなので、たしかに実在していたのでしょう。
 伝説によれば、一度この寺に入った者は誰も帰らないというので里人から畏れられていたようです。

 ある時、噂を聞いた武人がその真相をたしかめるべく完全防備で魔の寺に入り、里人の憂いを払いのけてやろうとしました。
 武人が山門をくぐり、客殿から奥の院へ進むと、そこに公卿姿の美衣をまとった一人の美しい女性が現れました。
 彼は、これぞ噂の魔の曲者の化身であろうと気付き、とっさに一刀を浴びせかけました。
 しかし、その一刀を浴びても美女は倒れることなく反撃してきました。やはり魔物であったのです。
 しばらくの格闘の後、ついに魔女は額から鮮血を流して姿を消しました。
 血痕をたどると、渓谷の水が流れる沢合いに、大きな年老いた「蟹(かに)」が血に染まって死んでおりました。
 以来、魔の寺の被害はなくなり、蟹の死んでいたところは「がに沢」と名づけられたのだそうです。

イメージ 1

イメージ 2
黒森

イメージ 3


 魔の寺「柳沢寺」――。
 寺の名前は、「やなぎさわ」と読むのか「やぎさわ」と読むのか、はたまた「りゅうたく」と読むべきのかはわかりませんが、以前、「藤原秀衡の八木沢牧場」の伝説を論じた際に重視した「瀧澤(たきざわ)」なる言霊と無関係ではないでしょう。
 おそらく信濃発であろう“瀧澤”は、タキザワの他、リュウタクとも読めます。
 そのリュウタクの韻には、「龍澤」なり「柳沢」なりの漢字を当て字できますし、「柳沢」の表記であれば、ヤナギサワともヤギサワとも読めます。
 そのヤギサワの韻に「八木沢」という漢字を当て字したのが、藤原秀衡の牧場があったと伝わる地区の地名であろうと私は推測しました。
 なにしろ、利府の勿来の関跡付近にも藤原秀衡に関わる伝説が残っております。
 当地には藤原秀衡の四十八鐘の一つ「鐘撞堂樓」があったといい、地名の「惣ノ関」はもともと「左右乃関」の呼称が改められたもので、関の西が「鳥ヶ崎館」、東が「秀衡の関」と言われていたようです。
 したがって、おそらく私論における仙台市泉区上谷刈の八木沢地区と同様、「中原姓瀧澤氏―由利氏―」と同系の一族が関の守護にあたっていたのではないか、という想像は十分許されるでしょう。
 つまり私は、魔の寺「柳沢寺」はその彼らに関係した寺であったのではなかろうか、と推察するのです。
 その場合、斬られた魔女の正体である「蟹」が彼らを指すものか、あるいは、斬りつけた武人こそが彼らを指すものか、あるいはそのいずれでもなく、単に平安時代に入植した彼らが魔女として表現されたなんらかの先住民を供養するために寺を建立したものか、判断の迷うところではありますが、少なくとも、“死んだ蟹”に示唆されるなんらかの氏族が当地に存在したことは間違いないものと考えます。
 そこで、太田亮さんの『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「カニ」を冠する氏族名を探してみると、「蟹(かに)」、「蟹江(かにえ)」、「蟹澤(かにさわ)」、「蟹谷(かにたに・かにや)」、「蟹幡(かにはた・かむはた)」、「掃守(かにもりべ・かにもり・かもり)」、「掃部(かにもり・かにもりべ・かもり・かもん)」、「掃守田(かにもりだ・かもりた)」、「掃守部(かにもりべ・かもりべ)」、などがありました。
 単に拠点の地名や職掌から苗字なり姓となったものも含まれておりますが、たいていは「蟹守(かにもり)」に起点があるようです。
 その「蟹守」について調べていると、『古語拾遺』における人皇初代神武天皇の父ウガヤフキアエズの出生譚には、『古事記』や『日本書紀』、はたまた『先代旧事本紀』にもみられない独自の貴重な情報があることに気付きました。

――引用:青木紀元さん監修 中村幸弘さん遠藤和夫さん共著【『古語拾遺』を読む(右文書院)】の現代語訳より――
 天祖である彦火(ひこほ)の尊(=ヒコホホデミ)は、(天上界からご降下になった後)、海神の娘である豊玉姫(とよたまひめ)の命を妻としてお迎えになって、彦瀲(ひこなぎさ)の命(=ヒコナギサウガヤフキアエズ)をお生みになる。(この尊を)育て養い申し上げる日に、海辺に御殿をお建てになった。その時に、掃守(かにもり)の連(むらじ)の遠祖である天忍人(あめのおしひと)の命が、(その御殿に)お仕え申し上げ、お側に控えている。箒(ほうき)を作って、蟹を払い除ける。そのようなわけで(掃除の作業をした後に敷く)敷物関係の仕事を担当する。結局は、(その敷物の仕事を、その氏族の)家職とする(に至る)。名づけて、蟹守(かにもり)〔現代にあって、借守(かりもり)というのは、その言葉が訛ったものである。〕という。
※パソコン上漢字変換不可能な部分などに引用者による改変あり

 これを信じるなら、蟹守氏は「天忍人命」の裔のようです。
 ちなみに『先代旧事本紀』によれば、この天忍人命の父は「天村雲命」で、天村雲命の父は「天香語山命」です。
 つまり、蟹守氏は「尾張氏」と同祖系譜の氏族であるらしいことがわかります。

 はたして利府の柳沢寺の大カニがこの天忍人命系蟹守氏の示唆であるか否かはわかりませんが、芋づる式に思うところが出て来たので、引き続き、当地とこの氏族との関係について語っていきたいと思います。

伊豆佐賣神社

 陸奥国栗原―宮城県栗原市―において、「伊豆(いず)」が「伊治(いじ)」の訛りであろうこと、その「伊治」は「比治(ひじ)」に由来しているのだろうと思い至っているわけですが、ふと、宮城郡の延喜式式内社「伊豆佐賣(いずさひめ・いずさめ)神社」が頭をよぎります。その名に「伊豆」を冠していることはもちろんですが、鎮座地名の「宮城県宮城郡利府町飯土井字長者」も気にかかります。「長者」はひとまず置いておきますが、大字の「飯土井(いどい)」に重要な示唆が含まれていることに気付くのです。
 何故なら、「飯」も「土」も「井」も、いずれも「比治」の神性を表現し得る言霊であるからです。
 「比治」の意味するところは「泥(ひじ)」、すなわち呪術性を秘めたカグヤマの「土」であり、「眞名井」なる言霊と合わせて「比治の眞名井」と言えば、これはすなわち「天之眞名井(あめのまない)」なる神聖な「井」のことであり、特に伊勢内宮「天照大神」の「飯」を司る外宮「豊受大神」と切り離せない言霊であります。
 「伊豆国―静岡県―」の「伊豆」がそうであるか否かはわかりませんが、少なくとも陸奥における「伊豆」が「伊治」と同義である可能性は、「伊治公砦麻呂」が「伊“豆”公砦麻呂」と伝わっている「栗原郡」の例からみて極めて高く、それを鑑るならば、件の「伊豆佐賣神社」の「伊豆」も、その鎮座地名の「飯土井」からみて、おそらく「伊治」であり「比治」であると考えられます。
 ちなみに、「伊豆」は、『日本書紀』において「仲哀天皇」を祟り殺した「撞賢木“厳”之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ)」などに見られる荒魂(あらみたま)的、祟り神的意味合いの“厳(いつ)”のことではないか、という説もあります。その論拠の説明はどうしても観念的にならざるを得ませんが、捨てがたいものがあります。あくまで想像ですが、比治なりカグヤマが備え持つ呪術性から、「伊豆」の語感にその意味が自然に付随した可能性は十分あるのではないでしょうか。
 それと関連するのかどうか、境内の「飯土井稲荷明神」は、どうにも不可思議な状態になっております。祠と鳥居の真正面に樹木が立ちはだかっているのです。なんらかの結界を張ってこのお稲荷様を封印している感があります。

イメージ 1
伊豆佐賣神社
イメージ 2

イメージ 3
陸奥國分寺と椌木もこのような位置関係であったのでは?

 さて、連鎖的に触れておきたい事があります。私は鹽竈神社と並行して「(仮)志波勢力」についても調査検討を続けているわけですが、かつて、仙台市宮城野区の「志波町」が往昔「志波彦神社」が鎮座していたことに因むらしいという情報を共同研究者のH.O.氏から得、しらみつぶしに現地を調査したことがありました。
 結局、どうも「白山神社―陸奥國分寺境内―」が「志波彦神社」であったらしいことがわかったわけですが、その過程において発見した「某神社」の記念碑の記述から推察すると、どうも「某神社」はかつての「尼寺」の境内にありました。状況証拠からみて、それが「志波の神」であっただろうことはほぼ間違いありません。
 もっと言うならば、それは「志波姫神社」であったと思われます。
 僧寺に「志波彦」がおわすならば、尼寺におわすのは「志波姫」ではなかったか、という理屈もありますが、何より、某神社の名からして女神なのです。
 神社名については、遷座のいきさつから特定の個人に不利益を被らせてしまう懸念があるので伏せておりますが、祭神名だけ明かすならば、実は「伊豆佐賣神」なのです。

イメージ 4


 ここで私は一つの想像をしました。

 伊豆佐賣神は志波姫神ではなかったか・・・。

 つまり、志波彦神の后神であったことから二次的に志波姫神と呼ばれたのではないかと考えたのです。
 栗原郡の延喜式名神大「志波姫神社」の論社である栗原市志波姫八樟(やつくぬぎ)のそれは、往昔「伊豆野権現社」と呼ばれておりました。それが単に地名によるものだとしても、「伊豆野村―栗原―」の鎮守でもあったことは無視できません。
 一方、『利府村誌』によれば、伊豆佐賣神は岩手県斯波郡赤石村に分霊されて大社として鎮座してあるとのことです。おそらく最北の延喜式式内社の「志賀理和気神社」のことと思われますが、地名の「斯波郡」は「紫波郡」のことでしょう。
 現在の「紫波」は、足利系源氏の斯波氏によって変えられた名であり、元々の地名は「斯波」であり「志波」でありました。これは「志波城」に因む地名と考えるのが妥当なのでしょうが、おそらく根本的には「伊豆佐賣神社」の北上が関連するのでしょう。
 さて、志波彦神は、岩切の旧鎮座地―八坂神社境内―において現在でも「冠川明神」として祀られております。それは冠川―七北田川―に天降ったからでした。
 この天降りについて、志波彦神が白馬に乗って川を渡ろうとしたときに川底の石につまづいて冠を落としたという神話がありましたが、志波彦を「坂上田村麻呂」に置き換えた神話もあります。私は、この神話を人間志波彦の失脚、ないし無念の死を伝えているものと受け止めており、志波彦はあくまで征伐された側の象徴と考えているので、征伐する側の田村麻呂ではあり得ないと考えているのですが、馬を操るツングース系というキーワードであれば抽象的な存在として同じ括りにできるのかもしれません。
 何故このような話を持ち出したのかと言うと、ここには間接的に伊豆佐賣神と志波姫神が結び付く要素が含まれているからです。
 利府町飯土井の伊豆佐賣神社の鎮座地には、「九門長者屋敷跡」というもう一つの顔がありますが、ここには、奥羽の豪農「九門長者」の元に人身売買で売られてきた「堊玉姫」なる娘と田村麻呂の恋愛伝説があります。そして、その延長で二代目田村麻呂の“出生伝説”も含まれております。田村麻呂を志波彦になぞらえるならば、この地のヒロインである堊玉姫を志波姫になぞらえることも可能になるのです。
 余談ながら、『利府町誌』によれば、境内にはかつてけやきの老木があったようで、これは堊玉姫が京にのぼるとき、記念に化粧品などの手周りの品々を埋め、みずからが植えたものであったのだそうです。
 ウィキペディアによると、この老木は火にあい幹の内部まで焼損したために伐採されたらしいのですが、その後に度々祟りを為していたようです。その小株などが飯土井稲荷明神の脇にあるようなので、もしかしたら先の結界らしきものはそれに関係するのかもしれません。
イメージ 5

 それにしても、九門長者とは何者であったのでしょうか。何故この長者の屋敷に伊豆佐賣神社が鎮座しているのでしょうか。「伊治」を冠する伊治公砦麻呂ともなんらかの関係があるのでしょうか。
 共同研究者のH.O.氏は、伊豆佐賣神社を眺めてポツリと看過し難い所感をこぼしました。
「これって古墳じゃないですかね」
 たしかに、一面見渡す限りの平野部に、あたかも孤島のようにこんもりと伊豆佐賣神社の丘があります。地理好きな私は「残丘」というカテゴリーで片づけてそれ以上の意識もないままにおりましたが、案外当たっているのかもしれません。特に埋蔵文化財などの指定区域になっているわけでもないようですが、これだけの神社であれば、元々なんらかの陵墓があったと考えること自体は自然です。仮に墓であるならば九門長者のご先祖様の陵墓と考えるのが自然でしょう。あらためて地図上で計ると、全長約150メートル程度で、もし人工的な古墳であれば「遠見塚古墳」を上回り、東北最大の「雷神山古墳」に次ぐ規模となる可能性があります。
イメージ 6

 さて、伝説では、堊玉姫は紀伊の国の「齋大納言」の娘であったそうです。紀伊の国は「大伴氏」を示唆しているかに推察します。
 志波姫神の本拠と言える栗原エリアには「武烈天皇伝承」が濃厚ですが、この天皇を支えた第一の臣は大伴氏のカリスマ「大伴金村大連」です。
 また、冠川の志波彦神話を伝える「石留神社」にも「武烈天皇の御陵」伝説がありますし、「志波大明神」を祭神とする黒川郡の「行(ゆき)神社」などは「靫(ゆげい)大伴連」の祖廟と伝わっております。
 靫大伴連は、おそらく後に「大伴姓」を許される「丸子氏」の同族であり、度々触れているとおり、彼らは鹿島御子神を奉斎して土着したオホ氏―神八井耳命裔族―、すなわち、私論では栗原の高句麗系騎馬民のマネージャーです。
 『封内名蹟史』の伊豆佐賣神社の項に、「天武天皇二年。圭田行神禮。有神家・巫戸等」とあり、それをいぶかしがって切り捨てる向きが大勢のようですが、栗原の騎馬民が天武天皇の極秘軍の末裔であろうことを示唆する伝承であると私は考えます。
 このあたりに、朝廷を震撼させた伊治公砦麻呂を輩出した一族の素性に辿りつくヒントがあるように予感しております。陸奥守兼按察使(あぜち)の「紀広純」や牡鹿郡の大領「道嶋大楯」を殺害した砦麻呂が、陸奥介「大伴真綱(まつな)」だけを多賀城まで護送した謎にもなんらかの関係があるのかもしれません。

「伊治」と「伊豆」

 ここ最近、何かにとりつかれたかのように『仙臺叢書(仙臺叢書刊行會:復刻版は宝文堂)』シリーズを収集しております。
 『仙臺叢書』とは、その名のとおり、仙台藩領――宮城県全域及び福島県浜通り北部と岩手県南――に関わる諸々の文献史料を活字化し、まとめたものです。これまでは、フィールドワークに前後して図書館に出向いて閲覧し、必要に応じて書写するなりコピーするなりしていたのですが、既に所有している幾つかの市町村誌や、『復刻版仙臺鹿の子(仙台郷土研究会)』、『初翻刻本仙台領の地誌(橋浦隆一さん)』『新釈奥鹽地名集(NPOみなとしおがま)』などを読みふけっているうちに、それらのベースであろう地元の正史たる文献史料についてもなんとか寝ころびながら時間を気にせず漫然と読みふけってみたい衝動に駆られてきました。
 そこで、基本的な『奥羽観迹聞老志』『封内風土記』『封内名蹟志』の三点を入手したのです。前者二者については、聞老志が上下ニ巻、風土記が全三巻と、各々それ自体が特別巻としての体を成しておりますが、名蹟志については叢書第八巻の中に全編が収まっております。特に当該巻は、宮城郡の中世史を調べる上で欠かせない留守氏の『奥州余目記録』や、夜話ながら独眼竜伊達政宗の対徳川幕府迎撃戦略をまことしやかに記す『東奥老士夜話』なども所載しており、思わぬボーナスを頂いた気分になりました。
 そのようなわけで、念願どおりこれらを読みふける至福の日々が続いているわけですが、あらためて気付かされることも数多く、付箋と筆記用具が手放せません。気になる事項については相互の文献を照合したり、ネットで検索してみたり、必要に応じて地図やその他資料を引っ張り出してみたり、結局落ちついて寝ころんでなどいられない自分に気付きました。
 さて、そのような興味深い素材のうちから一つ、「伊治」と「伊豆」について取上げておきます。
 『封内名蹟志』は「伊治城」について次のように取上げております。

――引用――
伊治城
稱徳帝。神護景雲紀より以下。所々に此城の事を記す。今其地傳らず惜べし。仍正史乃説を擧て。考察に備ふ。
神護景雲十年十月辛卯。勅刺に曰。伊豆城を作り了る。自始至畢不満三旬。又同年十二月丙辰。勅に曰。百姓樂住伊豆桃生。同三年二月丙辰。勅言。桃生伊豆のニ城。營造已に畢已。厥土沃壌其毛豊穣。又同年六月丁未。淨古百姓置伊豆村。此記直稱伊豆村。又同九年六月庚子。伊豆公砦麻呂。授外従五位下。同十一年三月丁亥。土沼郡大外従五位下伊豆公砦麿反す。又五十代桓武帝。延暦十一年。陸奥国言す。斯波村の夷膽澤公・阿奴志□等。遣使請曰。己等思歸王化。而爲伊豆村俘等所遮無由自達。十五年。相模・武藏・上總・常陸・上野・下野・出羽・越後等の國民九千人を遷して。置陸奥国伊治城。先是四十八代稱徳帝。神護景雲元年十月乙巳の紀に。置陸奥国栗原郡。本是伊治城也。
右伊治城紀中。覺鱉城の事を雑紀す。共是栗原郡中の地なり。然るに今卿黨。其地を傳へずして詳ならず。尤もをしむべし。

 一部変換出来ない文字について代替しているものもありますが、ここでは記事の内容ではなく、「“伊豆”公砦麻呂(麿)」という表記に注目しておきたいのです。『封内名蹟志』は、正史にも登場する「伊治公砦麻呂」について、一貫して「伊豆公砦麻呂(麿)」、すなわち「伊治」ではなく「伊豆」を用いております。これは単なる間違いではありません。見てのとおり、表題は「伊治城」であり、記事中にも度々「伊治」表記が使われております。あきらかに使い分けられているのです。編者はそこまで意識していなかったのではないか、と言われそうですが、そんなことはないのです。
 『仙臺叢書 封内風土記(宝文堂)』の解説文には次のようにあります。


――引用――
 一方名蹟志は『封内名蹟志』と題し、仙臺叢書第八巻に収められている。寛保改元辛酉冬至日(寛保元年・一七四一)の高橋以敬の序によると郡司(郡奉行)萱場高寿が封内の名区、古今の事蹟を監吏佐藤信要をして村長県吏に訪尋せしめ、洞岩の聞老志の誤謬を校讐し、以て本書と成したとあり、信要の同年十二月の跋にも封内名蹟志四巻は聞老志に本づいて之を郡県に問い、差謬を改め繁乱を削り編集したものだと明記している。洞岩の訂正版なのである。

 『奥羽観迹聞老志』は、佐久間洞岩が仙台藩主四代伊達綱村の命を奉じて撰した地誌―むしろ郷土史誌―のパイオニアですが、その訂正版たる『封内名蹟志』の佐藤信要が、少なくとも「正確を期す」という部分において佐久間洞岩以上の意識で著述していたことは間違いないでしょう。
 『封内名蹟志』が使い分けるところの「伊治」と「伊豆」ですが、先駆の『奥羽観迹聞老志』は「伊治」の表記で貫かれております。ということは、名蹟志の「伊豆」は、あえて訂正された部分と考えて良いのではないのでしょうか。
 念のため補足しておきますが、だからといって「伊豆」が正しい、と言いたいわけではありません。なにしろ「此治城」と表記された漆紙文書が出土している事実は揺るぎありません。
 ただ、佐藤信要は「村長県吏に訪尋せしめ」た結果を名蹟志に反映しているはずです。つまり、少なくともその時代の地元では「伊豆公砦麻呂」と伝わっていただろうことは推して知るべしでしょう。
 当地には「伊豆野」や「伊豆野原」、「伊豆沼」などの地名があります。正史での「伊治」が当地での「伊豆」と同義であることは、これまでも度々触れてきているとおり、特に目新しいことではありません。思うに、おそらく長い年月を経て「ヒジ」から「イジ」へ、「イジ」から「イズ」へと訛っていったのでしょう。
イメージ 1

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ ]


.

ブログバナー

検索 検索
今野政明
今野政明
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事