はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

花淵家のこと

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鼻節神社の奥ノ院

 「花淵浜(はなぶちはま)―宮城郡七ヶ浜町―」に坐す宮城郡の延喜式名神大「鼻節(はなぶし)神社」の祭神は、「猿田彦(さるたひこ)神」とされております。
 猿田彦神は、「伊勢二見ヶ浦(ふたみがうら)」の「夫婦岩(めおといわ)」を介して日の出を拝する「二見興玉(ふたみおきたま)神社」の祭神であることからもわかるとおり、日の出と密接な神様であります。
 だからと言うわけでもありませんが、先日の夜明け前、冷えて澄みきった東の空が鮮やかな紫色に染まりはじめたのを目にし、もしかしたら今から向かえば太平洋からの日の出を拝めるかもしれない、という期待に動かされ、私は鼻節神社を訪れてみました。

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 鼻節神社を訪れるのは実に久しぶりです。おそらく拙ブログ『はてノ鹽竈』を開設して間もない頃に訪れたのが最後ではないでしょうか。
 初めて訪れたのはその数年前、今から十年くらい前になると思いますが、知るほどに謎めく鹽竈神社への好奇心に突き動かされて、闇雲にフィールドワークを展開していた行動の一幕でもありました。

 その時の私は、鬱蒼として神気に満ちた樹林の参道にやたらと緊張を高めていたことを覚えております。なにしろ、当時は一部で心霊スポットとしても囁かれていた神社であっただけに、どうしても構えてしまいます。
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 本殿に到達すると、太平洋を見晴らせました。
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 沖合いの岩礁のまわりには荒波が渦巻き、時にぶつかり、砕け散っておりました。
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 本殿は南向きで、私が東進してきた参道の左手にありました。
 本殿―拝殿―正面へは、参道を左に折れて階段を十数段昇っていく形になっております。

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 ところが、反対に、右に折れて下に真っ直ぐ降りていく長い階段もありました。
 下には海しかないはずですが、つまり私が進んできた参道と直交する形で本殿への階段が展開していたのです。
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 後にそちらこそが表参道であったことを知りました。私が進んできたのは裏参道であったのです。
 鹽竈神社もそうですが、おそらく、往昔は海路から直接着岸して本殿に昇っていく類のものであったのでしょう。
 参拝を終えると、とりあえずその階段を下ってみました。
 当時はほとんど人の来ない場所であったようで、階段は苔むして滑りやすくなっておりました。
 どうもまともに正面を向いて下りていくのは危険で、蟹のように横向きで下りることにしたのですが、懸念は的中し、見事に足を滑らせた私は瞬く間に数段ほど滑り落ちてしまいました。すり減っていた靴底も災いしたのでしょう。階段の下がどうなっているのかはよく見通せませんでしたが、海に通じていると思い込んでいただけに、にわかに恐怖心のスイッチが入りました。
 このまま滑り落ちていったら沖合いの岩礁のごとく渦巻く荒海に・・・。
 結局、日をあらためることにしました。
 数日後、トレッキングシューズを履き軍手を着用して訪れた私は、左足を前に横向きになった上、右手は初めから上段について階段に寄りかかるようにし、一段一段慎重にゆっくりと下りて行きました。
 いざ階段を下りきってみると、そこはすぐに海というわけでもありませんでした。しかし、往昔に海路から参拝していたことは間違いなかろう、と感じました。
 当時鼻節神社を訪れたきっかけは、『七ヶ浜町誌』が引用していた「遠藤信道」の『塩釜神社考』における、「然るに今斎き奉れる神は、多力雄神に猿田彦神と塩土翁とを合わせ奉りて三座なり。しかるをこの浜の里人は、猿田彦一柱にして、塩釜の大神と同神にまします由云ひ伝うるなり」という一文と、鹽竈神社が『延喜式神名帳』に記載がないのは、同郡の名神大「鼻節神社」、あるいは同「志波彦神社」と同体であるから、という旨の先達の論を見かけたことでありました。
 結果的に、私の見解としてはその論には賛同できない、というところに落ち着いているわけですが、だからと言って鹽竈神社と鼻節神社が無関係に存在していると考えているわけではありません。
 なにしろ鹽竈神社の「藻刈(もかり)神事」の舞台が他でもない鼻節神社の鎮座する花淵浜の沖合であることは事実です。
 「藻刈神事」とは、当地における古代製塩のおもかげを伝える鹽竈神社の特殊神事、すなわち「藻塩焼(もしおやき)神事」に先立って、必要な「ホンダワラ」という海藻を、海から刈り取ってくる神事です。
 花淵浜の沖合は、単に鼻節神社の沖合であるばかりではなく、その海底には、鼻節神社の奥ノ院とも言われる大根明神があるとされていることを忘れるわけにはいきません。
 一説に、鼻節の神ははじめそこに天降ったとされており、かつてそこは海底ではなく、貞観地震の際に水没したと伝えられているのです。 
 すなわち、大根明神は、海底の火山岩窟で、西ノ宮と東ノ宮に分かれており、本来、鼻節神社もそこに鎮座していたとされているようですが、かの貞観の大震嘯の際に地盤が陥没し、その結果「垂水(たるみず)―現在地―」に遷宮したと伝わっているのです。
 しかし、「ほうが崎」に鎮座していたものが度々潮風に侵され破損するを以て宝亀元(770)年に垂水に遷し奉られた旨も伝えられているので、真偽のほどはわかりません。
 『七ヶ浜町誌』によれば、「大根明神」は「花淵崎東海上七キロの沖合海底の岩礁」にあるらしいのですが、『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』には「東方二〇粁の海中」とあります。
 7キロと20キロではだいぶ違いますが、町誌によれば、その境内は大根岩礁堆で、南北2.5キロ、東西2.5キロ、干潮面下浅い所で2.3メートルの深所にあり、接続する高根群礁等合算すると、その面積はほぼ七ヶ浜全域に匹敵するのだそうです。
 ちょっとしたアトランティス伝説といった趣です。
 関連して、興味深い伝説があります。

―引用:『七ヶ浜町誌』―
『奥州名勝図絵』(意訳) 大根の神窟は、高閣石門等備わらざるなく、常に蒼浪の静かな時でも、舟が近づこうとすると、逆浪が急に起って船を転覆しようとするので、漁夫や舟子はこれを語り伝え聞き伝えてこの難所をさけ、ただ、遠く恐れ敬拝して航行するのである。いつの頃であったか、鮑取る漁夫が潜って宮殿に行って見ると、そのさまは楼閣の如く、窓や柱にいたるまで、珍しい貝や絵などで飾られ、荘厳の限りをつくし、海藻は自然の色を以て色どり、底の砂は珊瑚を敷き詰めたようで、まるで常世の国竜宮とはこのようなところをいうのであろうと語ったという。常にこの上を航行する船はいないが、たまたま想い誤ってここを通り、天気がよいので宮殿を見ようとすると、たちまち激浪が逆立ち舟を転覆しようとする。

 なにやら、この沖合の海底には竜宮城があるようです。
 おそらくは、海幸彦・山幸彦の神話と同根の伝説かと思われます。
 『古事記』において「山幸彦」こと「火遠理(ほおり)命―神武天皇の祖父―」を海底の海神(わだつみのかみ)の宮―竜宮城―に導いたのは、鹽竈神社の祭神とされる「鹽土老翁神」であり、海神の娘「豊玉毘賣(とよたまびめ)―神武天皇の祖母―」の正体は“鰐(わに)”でありました。

 いずれ、境内から見える岩礁も荒波に揉まれているわけですが、このあたりには岩礁が多く、常に逆浪が立ちさわぎ、航行が危険であるということで大海津見神と住吉神も祀られたようですから、そのあたりが現実的なところかもしれません。
 しかし、海底の竜宮城のロマンも信じてみたいところです。
 表参道の階段をそのまま落ちていったならば、私は竜宮城に招かれていたのかもしれません。

 ともあれ、鼻節神社の境内には「大根明神」の仮宮二基―東ノ宮・西ノ宮―が設けられており、常の遥拝所となっておりますが、もしかしたら、大根明神とは、オホ氏―「大」―の先祖―「根」―の明神という意味ではないのでしょうか。
 もしそれが妥当であれば、私論に整合します。
 何故なら、度々触れているとおり私は、陸奥國においてワニを名乗った「丸子(わにこ)氏―陸奥大國造・道嶋宿禰・牡鹿連・靫大伴連の祖―」は、その実「鹿島御子神」を奉斎して北上してきた「オホ氏」の裔であろうと睨んでいるからです。
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 ちなみに鼻節神社の境内社の「八幡社」は、創立年月は明らかではないが花淵城主の崇敬社と伝えられているようです―『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』―。
 花淵城主とは、「花淵紀伊」のことなのでしょうか・・・。
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東宮浜の港

 明治のいつ頃か、「花淵家」は「福室―仙台市宮城野区―」から「東宮浜―宮城郡七ヶ浜町―」に遷りました。何故父祖伝来の「花淵浜―同七ヶ浜町―」ではなく、「東宮浜」に遷ったのかはわかりません。
 当地には「鹽竈神社」の東方鎮護として、「鹽土老翁(しおつちのおじ)神」に従い功があったという「東塩根老翁」と「東塩根老女」の二柱が、「東宮明神―東宮神社―」という名で祀られております。
 はじめは「猿田彦大神」を祀っていたと里人に伝わっていたそうですが―『七ヶ浜町誌』―、もしかしたら、東宮神社境内に祀られている「紫根明神」がそうなのでしょうか。
 紫根明神は、東宮浜の旧家で最も古い「柴家」の氏神「志波彦神」であるわけですが、志波彦神も一説に猿田彦神と言われております。
 しかし、志波彦神を猿田彦神とするのはあくまでひとつの学説であるので、勇み足は慎まなくてはなりません。公的には、志波彦神社の祭神はあくまで「志波彦神」としか掲げられておりません。
 それであれば、むしろ花淵浜の「鼻節神社」こそが「猿田彦神」を祭神に掲げているわけですが、花淵家が東宮浜に遷ったことと何か関係があるのでしょうか。

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東宮神社

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 いずれ、紫根明神を氏神とする「柴家」は、鹽竈神社の社家を勤めた家柄であったともいいます。先に触れたとおり、本来は「志波」姓を名乗るべきところ、神号と姓を同じくすることをはばかり、「柴」姓にしたと代々言い継がれてきたようです。
 「紫根明神」の「紫(むらさき)」も、本来「柴(しば)」であったのでしょうか。
 仮に「柴(しば)根明神」であったとしたならば、「根」は「ルーツ」、すなわち「祖先」の意でしょうから、“柴家の祖先の明神”となり、辻褄が合います。
 紫根明神と関係があるのかどうかはわかりませんが、東宮神社の北側の海中に「紫石」があり、『七ヶ浜町観光ガイドブック(七ヶ浜町産業課水産商工係)』には、次のような言い伝えが紹介されております。

―引用―
 東宮明神の北側、切り立った崖の裾(すそ)が海に沈んだあたりに、紫石という石があります。東宮浜の人達は、「紫石には魂が宿ってで、生ぎでんだ、毎年少しずつおがってんだ」といって大事にしていました。あるとき、この話を聞いた若者達が、盗み出そうとひそかに舟を出し、やっと引き揚げ舟に積んで逃げ出そうとしたら、舟がにわかに動かなくなってしまいました。押しても突いてもまるで根が生えたようにびくともせず、手の施(ほどこ)しようがなく困ってしまいました。石が少しずつ大きくなって重くなり、そのうえ血がにじみ出そうに赤くなっていたのでびっくりして、「すぐ元さ戻すから堪忍してけさえん」と何べんもお詫びをして、ようやく元に戻して振り向きもせずに逃げ帰ったといいます。
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 おそらく同じ言い伝えでしょうが、『七ヶ浜町誌』には、「いつの頃か、誰かが船を雇い、この石を持ち去ろうとして船に積んだが、船は少しも進まなかった。それは、この石の精か或は明神の神力のためかと内心おそろしく思い、遂に海に捨ててしまった」とあります。
 これからすると、紫石に宿る魂はなんらかの明神の可能性もあり、この場所で明神といえば、東宮明神か紫根明神、いえ、ここは紫根明神と捉えておくのが自然でしょう。
 「海に捨ててしまった」とあることから、始めは東宮神社の境内にあった、あるいはそう考えられていたのではないでしょうか。
 もしかしたら、地震などの自然災害によって境内から崩落したものかもしれませんし、東宮明神を勧請する際に他所に遷座させようとしたものの、心理的にも物理的にも動かせなかったことが、こういった言い伝えになっているのかもしれません。
 何より、そもそも鹽竈神社からみた朝日の方向にこの紫石があったればこそ、この岬が神域になった可能性もあると思います。
 よく猿田彦神に関連して、おそらくは興魂(おきたま)―≒日の出―に通じるのであろう「赤石(あかいし)―明石―」の伝説を見受けられますが、この紫石も「血がにじみ出そうに赤く」なったと言い伝えにありました。
 さすれば、里人に「はじめ猿田彦大神を祀っていた」と伝わる東宮明神の本質は、紫根明神にこそあるのかもしれません。
 阿川沼の畔に鎮座する「諏訪神社」―。
 この神社が阿川沼と密接であろうことは察するに難くありませんが、とりあえず『宮城懸神社名鑑(宮城県神社庁)』を引くと、「創祀年月不詳。古く菖蒲田浜の村鎮守として尊崇されてきた〜」とのことで、祭神は「建御名方神」と至極妥当なところでありました。
 『七ヶ浜町誌』にも祭神は「建御名方富命(たけみなかたとみのみこと。大国主命の第二子)」とあり、次のような説明が記されてありました。

―引用―
 阿川沼にのぞむ丘の上で、老松古杉生い茂り、神気襟に迫るものがあったが、惜しむらくは最近樹木は伐採された。
 古い昔は狩猟神として、武家時代には武神として信仰されている。祭日には神輿渡御・相撲の奉納を例とし、以前は近郷近在から力自慢の若者が集まり、飛び入り相撲もあって大いに賑わったが、今日ではその事もなく、奉納相撲さえ中止することがあるようである。

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 町誌は昭和四十二年の発行でありますが、その時点で既に「神気襟に迫る樹木」が伐採されていたとのことで、残念な気がしております。

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 それでも、半世紀の時がそれなりの神々しさを取り戻しているようにも見えました。

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 「古い昔は狩猟神として〜」という部分からすると、本来は蝦夷の神であったのか、などと思わされますが、相撲については国譲りの際の建御名方富命に因むのか、あるいは同じ出雲系の野見宿禰(のみのすくね)に由来するものなのか、いずれ信州の諏訪大社などでもみられる特徴なので、素直に諏訪神が祀られているものと信じてもよさそうです。
 しかし、古くは創祀年月どころか、祭神も詳らかではなかったようです。
 『封内風土記』の記すところは相変わらずの「不詳何時勧請」であり、それを受けてのことでしょう、かつての『七ヶ浜村誌』所載の『宮城郡塩釜村支村菖蒲田浜村誌』にも、「祭神詳らかならず」とあります。
 もちろん、社名が「諏訪神社」なのだから、祭神が「建御名方富(たけみなかたとみ)命」ということになんら疑問を挟む余地もないのかもしれません。
 しかし、同じ宮城郡の西方、「愛子(あやし)―現:仙台市青葉区上愛子―」に鎮座する國分荘三十三ヶ村総鎮守の「諏訪神社」の例を鑑みると、もう一段深読みしておいてもよさそうな気もしてくるのです。
 愛子の諏訪神社は、現在でこそ「建御名方命」を祭神に掲げておりますが―宮城県神社庁HP―、昭和三年発行の『宮城郡誌』においては「白幡大神(中宮)黒鳩大神(左宮)禰度大神(右宮)住吉大神」の四柱が祭神であり、いわゆる「諏訪神」たる「タケミナカタトミ」や「ヤサカトメ」の名がありませんでした。
 これは何を意味するのか―。
 宮城県神社庁のホームページによれば、元々、延暦年中に氏子一統山神として崇め奉られたものが、「源頼朝」の奥州征伐戦勝祈願の報賽の為に「伊沢四郎家景―留守家の祖―」によって社殿を建立され、その際に諏訪社と改称されたとのことです。
 ということは、元々祀られた神々にいわゆる諏訪神が含まれていなかったことも考えられますから、祭神にタケミナカタトミやヤサカトメの名が見えなくてもある意味当然といえば当然なのかもしれません。
 しかし、諏訪社と改称されてから700年あまりも経た昭和三年に至って、尚、諏訪神が祭神とされていない、というのはやや異質な感じもします。
 それに対する私なりの回答は以前触れました。
 おそらく愛子の諏訪神社は、本来「志波(しわ)神社」であったのではないのでしょうか。
 何故なら、志波神こそが往古より陸奥國分荘の産土神であっただろうと考えられるからです。
 仙臺藩祖「伊達政宗」は、木ノ下―仙台市若林区―の陸奥國分寺境内にある「白山神社」を仙台の総産土神と定めたわけですが、この白山神社は、陸奥國分寺の創建以前から勧請されていたと伝えられており、何を隠そう、往昔は志波彦神社であったとも言われているのです。
 そういった事情を鑑み、愛子の諏訪神社も志波神社であったのではなかろうか、と思い至ったわけです。
 特に、右宮の「禰度大神」は、「ねわたり」と訓むのか「みわたり」と訓むのか、いずれ「ニワタリ大神」のことと思われます。
 國分氏の氏神と伝わる「仁和多利(にわたり)大権現」が変質した「二柱神社―仙台市泉区―」には、かつて境内社として「志波彦神の冠伝説」の「石留神社」が祀られておりました。
 また、本来は志波彦神社であったと言われる木ノ下白山神社は、國分氏の氏神と言われておりました。
 「國分氏の氏神」というキーワードを通して、志波彦神とニワタリ神は重なり合います。
 ある方は、「そもそも志波神社自体が、諏訪神社の訛ったものではなかろうか」、と言っておりましたが、東北人の私の感覚として、「し」が「す」に訛ることはあっても、「す」が「し」に訛るというのはなじめません。
 仮に、今後結局は志波神と諏訪神が同じ神を指すという結論に達したとしても、諏訪が訛って志波になったとする理屈とは別問題です。
 むしろ、特に宮城県内の「諏訪神社」については、ひとまず「志波神社」が訛って「諏訪神社」に変質した可能性こそを疑ってもいいのでは、というのが私の考えです。
 極論を言わせてもらうなら、私は古代の陸奥国になんらかの形でインドの「シヴァ神」が入りこみ、それが当地の産土神と習合し、「志波(しば)神」と当て字され崇敬されてきたのではなかろうかと勘繰っております。
 以前に語った記憶もありますが、一部のニワタリ神の由来の中に、“古代天竺(てんじく)云々”といったものが見受けられたことからの着想です。
 その勘繰りが妥当であった場合、仮に当地の元々の産土神が諏訪神であったのだとしても、志波の名の由来はあくまで「シヴァ」であり、「諏訪(すわ)」ではないと思うのです。
 もしかしたら、そもそも出雲の竜蛇信仰自体にシヴァ神が習合していた可能性もありますが、話が広がりすぎるのでやめておきます。
 何はともあれ、いずれの神も「蛇」と密接です。
 そして、いみじくも、阿川沼の主は大蛇でありました。

 ひとつ重要なことに触れておきます。

 阿川沼の畔の諏訪神社は、花淵氏が義理堅き報恩の大蛇を祀ったところとも伝えられているようです。

 花淵氏と鼻節神社を考えるうえで、かなり重視すべき伝説と私は思います。

姉妹の沼神

 『七ヶ浜町観光ガイドブック(七ヶ浜町産業課水産商工係)』に、次のような民話伝説が紹介されておりました。

――引用――
沼神の手紙
昔、菖蒲田浜では、「阿川沼の主は大蛇だ」と伝えられていました。あるとき、村の男がお伊勢参りの帰りに、奈良の猿沢の池のほとりにさしかかったら、美女が現れ、「どこまで帰るのっしゃ」と尋ねたので、男は「菖蒲田浜の阿川沼の近くさ帰んでがす」と言いました。すると女は「あの阿川沼には私の妹が居んでがす、橋のたもとで手ばたけ三回すっと、妹が出て来っからこの手紙ば渡してけさえん」と言って男に手紙を託しました。男は大事に懐にしまい、村に帰りました。そして家の人にお伊勢参りの土産話をしているとき、つい美女から手紙を預かったことを話してしまいました。不思議に思った家の人たちは、男が寝てからこっそり手紙をみると、そこには「この男、少しのんびりしてるので捕って食ってしまえ」と書いてありました。家の人達は驚き、「他人に用事を頼んでおぎながらとんでもねえごった」と言い、「この男、根っからの正直者だから、一番良い褒美を与えよ」と手紙を書き改めました。そうとは知らない男は、翌朝阿川沼へ行き教わった通り手ばたけすると、沼から美女が現れました。頼まれた手紙を渡すと、それを見た美女は「ちょっと待ってけさえん」と言い沼へ戻りました。しばらくすると、たくさんの宝を持って再び現れ男に与えました。おかげで男は村一番の大金持ちになったといいます。

 この民話に、私は大変興味を覚えました。
 最も注目しているのは、手紙を渡す姉が「猿沢の池」の畔に現れていることです。
 猿沢の池は、奈良の興福寺の隣にある池のことでしょう。
 したがって、お伊勢参りの帰路に立ち寄ったというのは不自然と言わざるを得ません。
 あえて立ち寄ったか、あるいはあえてその名称が差し挟まれたかのいずれかでしょう。
 すなわち、主人公、あるいは民話を創作した者のなんらかの意図がそこにあったと考える他はありません。

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「どこまで帰るのっしゃ」、「妹が居んでがす」、「渡してけさえん」・・・。
奈良でありながら、仙台出身のようです・・・。

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阿川沼へは晴天時に再訪しました。

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 この民話に花淵紀伊ないし花淵善兵衛は登場しませんが、阿川沼のある菖蒲田(しょうぶた)浜は旧花淵浜に隣接し、村の男が、蛇―美女―から恩返しの品を受け取り大金持ちになった、という大筋でみるならば、花淵紀伊や花淵善兵衛にまつわる蛇の恩返し伝説を思わせます。
 蛇の伝説というと、たいていは三輪山のそれの類型であったり、八岐大蛇(やまたのおろち)の神話の類型であったりすることが多いと感じているわけですが、それらとは毛色が異なるようです。
 ここで私が考えている類型とは、三輪系は蛇が人間の娘に恋をしたり、正体がばれて恨みに思ったり、娘のホトに突き刺さる云々といったエッセンスが散りばめられている類のもの、八岐大蛇系は、村の娘を要求する大蛇が英雄によって成敗される類のもの、という仕分けです。
 しかし花淵家にかかわる蛇の伝説は、どちらにもあてはめきれない感があります。
 決定的な違いは、蛇の性別です。
 三輪系や八岐大蛇系の蛇が女性を求める男性の人格であるのに対し、花淵氏に恩返しする蛇は女性の姿で現れます。
 阿川沼の大蛇は今みたとおり、猿沢池の姉同様、美女の姿で顕現しております。

 おそらく、この民話のモデルは謡曲「采女(うねめ)」でしょう。

 謡曲「采女」のあらすじは、春日明神を参詣した旅僧の前に、帝の寵愛を受けていながらも、やがてその心変わりに涙を飲んで猿沢の池に身を投じた采女の幽霊が現れる、といったものでした。
 かつて私は、この采女について、記紀最多の皇妃輩出氏族であるワニ臣系譜の女がモデルであろう、と推測しておきました――拙記事『ワニの女』:参照――。
 この采女への哀悼歌、「我妹子が 寝くたれ髪を 猿沢の 池の玉藻と 見るぞかなしき (あのいとしい乙女のみだれ髪を猿沢の池の藻と見るのは悲しいことだ)――謡曲史跡保存会説明板より――」を詠んだ「柿本人麻呂」も、ワニ臣系譜の人物であります。
 菖蒲田浜の西、湊浜には「采女」の悲劇と「蛇」を結び付けるような「お菊沼」伝説もあります。
 「お菊沼」は、湊浜の西端、仙台市との境付近にあるらしいのですが、『七ヶ浜町誌』によれば、「沼というよりも池というべきか。低湿地の窪地に水の溜まった程度の沼である。昔は深さも広さもあったのであろう」とのことです。
 その沼に、恋に悩んだお菊という若い女が身を投じ、蛇体になったと伝えられているそうです。
 おそらく、これらの民話伝説はワニ系の人たちが発祥させたのでしょう。
 既に、花淵浜の「鼻節神社」はワニ系の人たちに奉斎されたものだろう、と推測しておきました。
 エリアからみて、彼らは同一でしょう。

 ここで、阿川沼の畔に鎮座する「諏訪神社」についても触れておかなくてはなりません。
 久しぶりに訪れた七ヶ浜(しちがはま)は霧に包まれておりました。

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津波で仲間を失った松林も霧にむせび泣いているかのようです。

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 七ヶ浜町の菖蒲田浜(しょうぶたはま)地区に、「コータコート汐見台南」という美しい新興住宅街があります。
 もう20年近くも前になるでしょうか、そこにマイホームを手に入れた某氏が、御子息とよく釣りに出かけるようになったと優しい笑顔で話していたことを思い出しました。
 てっきり海釣りかと思いきや、獲物はフナであるとのこと――。
 なにやら私の表情に「?」マークが点灯していたようで、氏はすぐさま近くに沼があることを補足してきました。
 なるほど、ほとんど気にも留めておりませんでしたが、地図にはたしかに「阿川沼」なる大きな沼がありました。

 その阿川沼こそが、今回の私の目的地です。

 この沼には大蛇の伝説があるのです。
 はたして、花淵家との関係はいかなるものか――。

 阿川沼について、『七ヶ浜町誌』には「鮒・鯉・スズキ・鰻を産し、付近二十余町歩の灌漑用水となっている」とありました。
 スズキや鰻(うなぎ)ということは、幾ばくか海水の出入りもある、いわゆる「汽水湖」の類にあたるのでしょうか。
 そのあたり、町誌は、「有史以前の火口湖か海跡湖かと思われる。この沼に褐色球状の植物が繁殖しているが生態は不明である」と記し、また、「近年機関排水の設備を施し、海水の出入を阻止したので鹹水性の魚族は減っているかもしれない」ともありました。
 尚、現地の案内板には「昔は菖蒲田浜への入り江でしたが、昭和33年に土砂を堆積して浜へ流れ出る水路がふさがれてしまい、ため池となりました」とありました。
 なるほど、某氏親子がフナ釣りに興じていたわけです。

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 しかし、七ヶ浜町産業課水産商工係が2013年に発行した『七ヶ浜町観光ガイドブック』には、「東日本大震災以前は20種類以上のとんぼ、さらに蛍の生息も確認されていました」と記されておりました。
 そこはかとなく哀愁漂う過去形です。
 どうやらこの沼も大津波に飲まれ、しばらく海水が残ってしまい、淡水の生態系は一旦破壊されてしまったのでしょう。

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現地で見かけた「機関排水の設備」らしきものは、津波に破壊されたままでありました。

 いずれにせよ、町誌の推測どおりこの沼が“有史以前”に形成された“天然”の沼であるならば、私の懸念の大きなひとつは払しょくされたことになります。
 すなわち、大蛇の伝説が花淵家の出自を窺い知るよすがに成り得るか否かを見極めるうえで、沼自体の形成時期は重要な鍵です。
 仮にこの沼が伊達藩時代以降に開拓されて初めて出現したものであったならば、大蛇の伝説も花淵家が他の場所に移った後にしか生まれ得ないものであり、私の中での価値は割り引かれます。

 それにしても霧が濃い――。

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 今回七ヶ浜を訪れた目的は、他でもないこの阿川沼の視察であったわけですが、湖面や全体の風景が見えません。
 結局私は、あらためて晴天の日に出直すことにしました。

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