|
延喜式神名帳所載の磐城郡七座の一社「大國魂(おおくにたま)神社―福島県いわき市平菅波―」は、約1300年前に石城國政庁によって祀られたものと由緒に伝わります。同社の祭神は、事代主命、大巳貴命、少彦名命、といった出雲の神々でありますが、その飛び地境内には由緒上、石城國造「建許侶(たけころ)命」の墳丘と伝わる「甲塚(かぶとづか)古墳―同市平荒田目―」があります。 同地から国道6号常磐バイパス―通称:いわきサンシャインロード―を茨城県方面に3キロあまり進むと、こちらも磐城郡の式内七座の一社「佐麻久峯(さまくみね)神社―同市平中山―」がバイパスの右手に鎮座しております。 同社は、慶雲元(704)年に「紀伊國名草郡―現:和歌山県和歌山市―」に鎮座する紀伊國一之宮「日前(ひのくま)神宮・國懸(くにかかす)神宮―式内名神大:旧社格官幣大社―」の分霊を勧請したとされております。 ただ、祭神が「五十猛(いそたける・いたける)命」のため、「伊太祁曽(いたきそ)神社―式内名神大:旧社格官幣中社―」と混同しているのではないか、という旨の見解もウェブ上に散見されます。 なるほど「日前神宮・國懸神宮」は、伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡(やたのかがみ)」に先行して造られたという「日像鏡(ひがたのかがみ)・日矛鏡(ひぼこのかがみ)」を祀る社であり、人格神としての五十猛命を祀るのは同じ和歌山市内の伊太祁曽神社の方であります。 なにしろ伊太祁曽神社の往古の鎮座地は現在の日前・國懸神宮の場所であり、垂仁天皇の御代、日前・國懸宮の御鎮座に伴いその地を明け渡したとされております。しかもこちらも紀伊國一之宮と言われており、たしかに混同する条件はそろっていると言えます。 しかし、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんの著書『出雲と大和のあけぼの(大元出版)』によれば、日前神宮を建てたのは「紀伊國造家」であり、紀伊國造家の祖が「高倉下(たかくらじ)命」で、その父こそが「五十猛命」であるようです。 一方、日前神宮と並び称される國懸神宮は、紀伊國造家との縁戚関係が密になった「五瀬(いつせ)家」が建てたようです。名草で戦死した彼らの始祖「五瀬命―神武天皇の兄―」を日前神宮の横に後から祭ったのだというのです。 さすれば伊太祁曽大神との混同云々以前に、ひとまず日前大神と國懸大神を切り離して考える必要があります。 斎木さんによれば五十猛命は「天香語山命」と同一人物であり、それは『先代旧事本紀』においては物部氏の始祖「宇摩志麻治(うましまぢ)命」の兄であるわけですが、一方の五瀬命は人皇初代神武天皇の兄であります。 各々“兄”の属性を有する両者ですが、度々触れているように、記・紀には“愚かな兄と賢い弟”の対比構図が随所にみられます。おそらくそういった編纂方針があったのでしょう。 例えば、兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)兄弟や、兄磯城(えしき)・弟磯城(おとしき)兄弟などは、いずれも神武に敵対しようとする兄に弟が愛想をつかします。 侵略者を拒否する兄の態度はあたりまえの話のはずですが、そんな意固地で愚かな兄に愛想をつかした賢い弟は神武側に寝返り、兄の討伐に貢献し、その部族を守り継承していくこととなるのです。 見かたによっては、兄をさしおいて弟が相続したことの正統性あるいは理不尽を殊更に主張しているかのようでもあります。貸した釣針を弟の山幸彦に紛失された上に、それを責めた兄の海幸彦が神罰を受けて子々孫々弟の支配下に仕え続けることになる海幸・山幸神話などは、まさにそういった編纂方針を象徴していると言えるでしょう。 したがって日像鏡と日矛鏡の完成度が後発の八咫鏡に劣るという属性も、そのイデオロギーの延長線上にあるものと推察するわけですが、おそらく兄貴分の両者は五十猛命たる伊太祁曽大神と、五瀬命たる竈山大神の御魂代としての性格を示唆しているのではないでしょうか。 いずれ佐麻久峯神社は、とりわけ日前宮を建てた紀伊國造家の祭祀の精神を同家の祖神五十猛命として石城國に勧請したものなのでしょう。 『いわきのお宮とお祭り』によれば、佐麻久峯神社は「応仁の乱(1467〜1477)」にまきこまれて祭事を廃し、旧記や神領をことごとく失ったようです。その際、同社の神官「中山彦次郎」の娘が、一時矢田村に家を移し、神を勧請して、そこに郷民が社を建てたのだそうです。 ところが神霊は旧社を慕って毎夜中山の嶺に光を放つので、時の村主「植田平六」がいやがって社をとりこわしてしまったようです。 その後、いつの時代にか旧地に復された同社ですが、天和二(1682)年三月、落雷により再び焼失したものの、翌年の天和三(1683)年八月には、平城主「内藤義康」によって再建され、現在に至っているようです。 同社の鎮座する中山一帯は昭和五十四(1979)年頃からの団地造成により氏子区域の人口がだいぶ増えたようで、新興のこの地区にも「おひまつり」なる祭事が定着したと前述同書にあります。 社叢は「佐麻久峯神社社叢暖地植生」としていわき市の文化財―天然記念物―に指定を受けており、紀伊國―木の國―の神五十猛命らしく木種を蒔き田畑山丘の造化を歓び尊ぶ信仰でありつつも、七年に一度は「神輿の浜降り」があり、「光を放つ神霊」なり「おひまつり」なりと、その底流に日像鏡の神らしく太陽信仰が息づいていることをも窺わせます。 なにしろ、社殿は南東向きであり、冬至の朝日を指向したものと思われます。 尚、前述同書によれば一時は中山舘主でもあったという先の神官中山彦次郎は、歴代神職小野氏の祖であり、『神社誌(いわき市神社総代会第三部会)』には「神職中山内記なるもの祭事を勤むとあり之れ、人皇三十代敏達帝春日皇子の支流である」とあります。 いわゆる和邇(わに)氏の裔孫が神職を務めているということになるわけですが、同社周辺には「赤坂」という地名が散見されます。おそらく古くは一帯の大字が赤坂であって、ワニ系氏族たる中山氏の管轄する神領であったのでしょう。 一方、ウェブページ「玄松子の記憶」によれば、石城國造の祖「神八耳(かむやいみみ)命」を佐麻久峯神社の祭神とする異説もあるようです。石城國造の祖が神八井耳命であることについては、『古事記』の明記するところです。 なにしろ大國魂神社や甲塚古墳の存在からもわかるとおり、一帯は石城國造家の本拠地盤であり、おそらく、元々この社を建てたのも石城國造家であって、それ故にそういった異説が生じたのでしょう。 正史上、人皇二代綏靖天皇の“兄”として名の挙がるカムヤイミミはオホ氏の祖でもあり、この系譜が三輪山の神を祀り、代々神と天皇の間をとりもつ中ツ臣、すなわち宮廷祭祀氏族であったことはこれまでも散々触れてきたことですが、先の斎木さんの説くところを鑑みれば、その本質は奈良盆地を開拓した出雲系の登美家―クシヒカタ系譜―を指すものと思われます。 先の斎木さんによれば登美家は「磯城県主(しきのあがたぬし)」の家柄であるわけですが、その磯城県主は『新撰姓氏録』においてオホ氏と同祖です。 斎木さんは『古事記の編集室(大元出版)』の中で、磯城王朝「オオヒビ大王―人皇九代開化天皇:いわゆる闕史八代最後の天皇――」の後継者が「ヒコイマス―日子坐王(ひこいますのみこ)―」やその子「ヒコミチウシ―四道将軍丹波比古多多須美知能宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)―」であったことを隠すためにワニの家名が創作された旨を語っておりました。 以前私は鳥越憲三郎さんの説をもとにオホ氏を祭祀天皇であったと仮定して、次のように想像しました。 ≪〜神八井耳命が弟の神淳名川尊に皇位継承権を譲る際に決定していた役割分担から私は想像するのですが、〜中略〜 軍事―政治―天皇と祭祀天皇がいて、その祭祀の部分を後にオホ氏と呼ばれた天皇が担っていたのではないか、その表裏一体でもって二元的に天皇家が成り立っていたのではないか、と想像してみるのです。私はそのような意味においてオホ氏が天皇であったのではないかと想像したいのです。その想定が許されるものであれば、オホ氏に皇妃出自の記録がないのは彼ら自身が天皇家なのだからあたりまえ、ということになります。 〜中略〜 ワニ氏は所詮“下の世話専門の卑賤の氏族”とでも考えられていたのでしょうか。いえ、ワニ氏を矮小化して考えることは出来ません。なにしろ、記紀最多の皇妃輩出氏族であることは間違いないのです。先の私の想像の延長でいくならば、もしかしたら陰に埋もれた祭祀系の天皇―オホ系天皇―はワニ腹から誕生していたのかもしれません。≫ オホ氏が磯城県主の家柄ですなわち登美家のことであったとするならば、むしろオホ氏の腹から天皇―大王―が生まれていたということになりそうです。もちろん、同家の女性が斎木さんの語るところの三輪山の姫巫女であったという意味で祭祀天皇という考え方もあながち外れてはいなかったのかもしれませんが、ワニ家が闕史八代の天皇家そのものであったという部分については想像の上をいっており、驚くばかりです。 ところで、何故佐麻久峯神社の周辺事情をくどくど語っているのかと言いますと、実は、この社の俗称が「木船明神」であったようだからです。大正十一(1922)年発行の『石城郡誌』によってそれがわかります。 先の玄松子さんは、「当社の近くの貴船神社との混同なのだそうだ」としておりますが、はたしてそうなのでしょうか。これまでみてきたとおり、石城國造一族が貴船祭祀と結びつき得る気配は随所にあります。 思うに、もしかしたら佐麻久峯神社の地には元々木舟明神が祀られていて、慶雲元(704)年の日前大神の勧請によって鎮座地を追われて“近くの貴船神社―いわき市平小泉―”になったのではないのでしょうか。 偶然かもしれませんが、佐麻久峯神社から南東1キロ余りの場所に鎮座する同社は、佐麻久峯神社と同様、南東向きに祀られております。もしかしたら、あえて佐麻久峯神社の南東方向に遷されたのではないでしょうか。 ちなみに、仙台市太白区生出の太白山の頂上のそれも、同市泉区小角のそれも、同上谷刈丸田沢のそれも南東向きです。また、松島瑞巌寺の北にある「金毘羅神社」の鎮座地はおそらく『鹽松勝譜』にみえるところの「東明神・西明神」の鎮座する「上岡・下岡」の「上岡」であり、この山は通称「金毘羅山」とも呼ばれ「東明神」と呼ばれた「貴船祠」が祀られていた山と思われます。仮に現在の金毘羅神社の前身がその貴船祠であったのであれば、これも南東向きとなっております。これらははたして偶然なのでしょうか。 貴船神社そのものの謎解きは今の私の能力を超えるのでやめておきますが、石城國造一族とのつながりのせめてもの風景を眺めておきたく、あえてもう一度京都鞍馬の総本宮に触れておきます。 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」の奥宮は、玉依姫の乗った黄船が辿りついた“黄船宮”の創建の地とされているわけですが、その本殿脇には石垣のように積みあげられた石の壇があり、「御船形石」と名付けられております。この壇の中には玉依姫の乗ってこられた黄船が包み隠されているといいます。何故かくも厳重に隠されたのでしょうか。もちろん、創建にかかわる神聖な御神体でもあるわけですから、人目に触れないよう厳かに秘されて然るべきではあるわけですが、どこか積石塚古墳のような印象も受けます。祭神の高龗神は別として、この社にとって事実上最も重要視されたのは、おそらくその黄船によって運ばれてきたモノ、すなわち、玉依姫になぞらえられた何某かの御魂代こそがそれであろうと思われます。やはり貴船の社名由来となった黄船の語源は、舟葬の棺を示唆する「木船」にあったのではないのでしょうか。 『泉市誌』によれば前述の仙台市泉区上谷刈丸田沢の貴船神社には、木製の舟の模型が絵馬代わりに奉納されているようです。私は残念ながら見かけたことがありませんが、他の貴船神社にも同様の習慣が存在するのでしょうか。 ともあれ、玉依姫を象徴し得る属性の最たるものは、人皇初代神武天皇の母たることにあると推察するわけですが、斎木さんの語るところでは神武天皇は五十猛と「穂屋媛」との間の子「天村雲」をモデルにした架空の存在であり、仮に天村雲に比定しておくならば、その母は「穂屋媛」ということになります。 また、神武天皇をあくまで架空の存在、ワニ家と名を変えられた磯城王朝の王家の象徴的な存在と捉え、あるいは鳥越憲三郎さんの説でいうところの葛城王朝、いわゆる闕史八代の象徴としてのみ捉えるにとどめておくならば、少なくとも二代綏靖天皇から八代孝元天皇までの母は、日本書紀では事代主系、古事記では志木系、すなわち斎木さんが語るところの登美家の女性でありますので、いわゆる玉依姫の示唆するところも登美家の女性であったと考えることができそうです。 三輪山の太陽神祭祀を司る姫巫女は登美家の女性であったとのことでしたが、仮に陸奥各地の貴船神社に石城國造一族が関わっていたとするならば、登美家の祖であるクシヒカタの母「活玉依姫(いくたまよりびめ)」こそが黄船に乗った玉依姫の象徴であったとは考えられないでしょうか。名前が似ていることもさることながら、彼女の実家「三島家」は「巨椋池(おぐらいけ)」をおさえていた有力豪族であったようです。なにしろ、貴布禰総本宮貴船神社は巨椋池を桂川に遡った鴨川の上流に鎮座しているのです。 三輪山に昇る太陽の神の祭祀を司る登美家の女性を皇后としてきた磯城王朝が、十代祟神天皇ないし十一代垂仁天皇系の王朝に入れ替わり、それが伊勢神宮の創始にとどまらず、後に貴船信仰の創始にもつながったのではないかと想像するに至るわけですが、さすればおそらくは石城國造一族が陸奥國各地に朝日を指向した貴船宮を祀ったと思しきことにもつじつまが合うように私は思うのです。
|
仙台平野の古代史
[ リスト | 詳細 ]
|
安本美典さん監修・志村裕子さん訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』は、「高(たか)の国造」の由緒地として「佐波波地祇(さわわくにつかみ)神社―茨城県北茨城市―」を挙げておりました。 同社の祭神「天日方奇日方(あまのひかたくしひかた)命―以下クシヒカタ―」は、『先代旧事本紀―以下旧事紀―』の記述上、人皇初代「神武天皇」の皇后「鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」の兄であるわけで、神武の長男「神八井耳(かむやいみみ)命」の裔とされる高―多珂―國造家からみて直系の祖にはあたりません。 とはいえ、鹿島神とされるタケミカヅチ神系譜という視点で考えるならば、なるほど彼らの始祖であったともいえそうです。 『常陸國風土記』の記述を信じるならば、人皇十三代「成務天皇」の時代に「多珂―高―国造」に任命されたのは、出雲臣同族の「建御狭日(たけみさひ)」という人でありました。 同風土記によれば、「多珂―高―の國」は広大で域内の往来に不便であったがために、人皇三十六代「孝徳天皇」の時代、國造家らの嘆願によって多珂郡と石城郡に分けられたようです。 諸国の風土記は和銅六(713)年に人皇四十三代「元明天皇」の詔を承けて編纂されたものであるわけですが、その当時の石城郡が陸奥國の域内にあったことも同風土記には補記されております。 『続日本紀』の養老二(718)年五月二日条には陸奥國の石城・標葉(しめは)・行方(なめかた)・宇太(うだ)・亘理(わたり)・常陸國の菊多の六郡を分離して石城國を設置したとあり、風土記の補記が裏付けられます。 尚、続日本紀の同条には、白河・石背(いわしろ)・会津・安積(あさか)・信夫の五郡を分離して石背國を設置し、常陸國の多珂郡の郷二百十戸を分離して菊多郡と名付け石背國に所属させたともありますが、もしかしたら常陸から陸奥一円に及んでいたのであろう石城國造家の勢力圏が中央政権によって事実上解体縮小され、菊多郡以北―勿来(なこそ)以北―に封じ込められたということなのかもしれません。 ともあれ、多珂と石城が分けられた際の多珂國造は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」なる“石城”を名乗る人であったわけで、多珂國造家が「石城(いわき)一族」から分かれた家であったことを窺わせます。 さすれば分立した石城國造家もまた、クシヒカタに対して多珂國造家同様の尊崇の念を抱いていたことが推察されます。 『古事記』と旧事紀におけるクシヒカタは、いわゆる事代主―大物主―の子であり、さすれば『ホツマツタヱ』における六代オオモノヌシのクシミカタ―ワニヒコ―に該当し、同書の前半部を編纂した人物ともされております。 ホツマに対する真偽の議論はともかく、少なくとも三輪山祭祀のイデオロギーにおいて核に位置づけられる存在であったことを窺い知ります。 それもそのはず、出雲神族の正統な継承者と思しき斎木雲州さんが、同族の経営と思しき大元出版発行の著書の数々にて語るところでは、クシヒカタは三輪山を仰ぎみる奈良盆地の開拓者でありました。 クシヒカタはのちに「磯城県主(しきのあがたぬし)」を輩出した登美家の祖、すなわち、いわゆる闕史八代の主軸たる磯城王朝の母系系譜の祖ということになります。 斎木さんによれば、クシヒカタは奈良盆地が沼地で人の住めなかった開拓の当初、葛城地域の葛城川左岸に本拠を構え、付近に父の事代主神をまつる「鴨都波(かもつは)神社」を建立したといい、これが全国に分布する加茂社の源となったようです。 弥生時代の出雲では神をカモと発音したらしく、クシヒカタに始まった登美家は葛城のカモ家とも呼ばれていたようで、したがって“カモ”はいわゆるトーテム―祖霊神―とは関係のない言霊であったわけですが、後に「鴨」の字があてられるようになったがために、この一族の事績が八咫烏(やたがらす)なり金鵄なりと鳥類の霊験で示唆めかせられる傾向も生じたようです。 いずれここに、クシヒカタの裔孫と思しき石城國造家がカモ社への信仰とも無縁ではなかろうことが透かしみえてきました。 なにしろ貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことのようです。 ただ、厳密には11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされたようですから、現在のかたちはむしろ旧に復されたものといえます。 仙臺藩主四代伊達綱村による鹽竈改革の真相を探る上では、時代的にひとまず上賀茂社の摂社とされていた貴船社のかたちを念頭に置くべきでしょうが、本稿の目的は、鹽竈神社に存在した貴船宮なり、太白山山頂に祀られている貴船神社が石城國造一族によるものであったのではないか、という仮説を試みるものでありますから、十一世紀以前の本来の貴船神社のかたちにこそこだわっておく必要がありそうです。 “貴布禰(きふね)総本宮”とされている京都鞍馬の「貴船(きふね)神社」は、貴船大神―高龗(たかおかみ)神―が太古丑の年の丑の月の丑の日に貴船山の中腹鏡岩に天降ったことに始まったと伝わっております。 有名な“丑の刻詣り”は本来この由緒に基づく心願成就の方法であり、藁人形に五寸釘を打ち込む呪詛は後世に曲解されたもののようです。 ともあれ、少なくとも人皇四十代「天武天皇」白鳳六(666)年には既に社殿造営のあったことが社伝にみえ、また、由緒の別伝によれば、人皇十八代「反正(はんぜい)天皇」の御代に人皇初代神武天皇の皇母玉依姫命が顕れ、「吾が船の止まる処に祠を造るべし」と宜り給い、黄船に乗って淀川から鴨川をさかのぼり、その源流たる貴船川上流の現在の奥宮の地に至ったがためにそこに祠を建て水神を奉斎したのが同社の始まりであったとも伝えられているようです。 もちろん、この“黄船”こそが“貴船”なる社名の由来とされております。 反正天皇の御代という括りに対する勘繰りはひとまず置くとして、貴船という字面でふと頭をよぎるのは、貴人の納棺を意味する「御船入り」なる表現です。 カシオの電子辞書EX-word所収の『ブリタニカ国際大百科事典』の「舟葬」の項には次のような解説があります。 ―引用― 舟葬[しゅうそう](boat burial) 死体を小舟に乗せ川や海に流し,あるいは舟形の棺に入れて埋葬するなどの習俗。前者は水葬の一種であり,代表的な例はポリネシアにみられるが,ミクロネシアやメラネシアの一部にも分布している。台上葬においても棺を舟形にする例がインドネシアにみられ,これらはいずれも海上他界ないし海底他界の観念と結びついている。日本では棺を一般にフネ,入棺をオフネイリといい,舟葬の名残りともみられるが,これは舟で島嶼,あるいは陸行できない海岸の葬地に運んだ習俗に由来するものであろう。奄美大島宇検湾の伊里 (えざと) 離れという無人島には,かつて夜間ひそかに死者を舟で運び葬ったといわれているが,こうした例は南島に広範に分布している。 黄船が鴨川をさかのぼったという由緒について大胆に憶測するならば、玉依姫なり、そう例えられ得る人物なりの、遺骸、あるいはそれに相当し得る御魂代のような重要な何かがこの地に遷されたことを示唆するものではないのでしょうか。
なにしろ伊勢の内宮に奉斎されている天照大神の御魂代「八咫鏡」は、舟のかたちをした木の箱に奉安されているといいます。 國學院大學の名誉教授であった西田長男さんなどは、『日本宗教思想史の研究』所収の「薬師の浄土」なる論稿で、「伊勢の大神宮の御正体を奉安する箱を御舟代といふのは、恐らくこの太陽神を海の彼方の常世国から迎え又は送り奉った風習のあったことを意味するものであろう」と語っているわけですが、思うに、貴船の語源たる黄船とは、棺を示唆する“木船”のことであったのではないでしょうか。 |
|
江戸時代初期、仙臺藩主四代伊達綱村によって現在のかたちに定まる前の鹽竈神社には、一棟の左右宮の東側に「貴船宮」と「只洲(ただす)宮―下鴨社―」の祠が並んで祀られておりました。ただ、いつごろから祀られていたのかは、正確なところわかりません。 とりあえず、遠藤允信の「鹽社叢説―『仙臺叢書』所収―」には、「祠本在利府留守氏所崇奉明應中移而配祀于鹽廟。」と、元々留守氏―当時の鹽竈神社大神主―が利府(りふ)―宮城県宮城郡利府町―で祀っていたものを、明応年間(1492〜1501)に鹽竈神社に遷した旨が記されております。 一方、仙台市泉区小角の貴布禰神社境内に掲げられた仙台市教育委員会による説明板には、「戦国時代に留守氏が支配する利府で賀茂神社とともに祀られ、のちに伊達政宗により塩竈神社に遷された」とあります。 留守氏によって利府に祀られていたという部分については共通しておりますが、鹽竈神社境内への遷座の時期や施主については食い違っております。 遠藤が明応年間(1492〜1501)の留守氏によるものとしているのに対し、仙台市教育委員会は伊達政宗によるものとしております。 政宗ということは、その時期も仙臺開府の慶長六(1601)年以降、遡っても岩出山城―宮城県玉造郡岩出山町―移封の天正十九(1591)年以降ということになりそうですが、「鹽社叢説」の説とは100年ほどの時差があります。 仙台市泉区小角の貴布禰神社 また、留守氏支配下の鹽竈神職の中でもっとも勢力を占め、左右一禰宜の上位に座していたらしき鎌田家の「鎌田家覚書―古川左京『鹽竈神社史(國幣中社志波彦神社鹽竈神社社務所)』所収―」には、「〜只洲社も、元來其身屋敷之内ニ有之候を、當社貴船御垣之内ニ移申候へ而一所ニ建立仕、其守奉仕、御鍵持ニて奉仕來候由、是當社家之密傳ニて、貴船只洲同ク地主之神爲候由申傳候。〜」とあります。
なにやら留守氏でも伊達氏でもなく、神主家とも呼ばれた鎌田家の屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣の内側に移したということのようですが、さすれば時期的には「鹽社叢説」に伝うところの明応年間に近いといえます。 ただ、それはあくまで只洲宮のはなしであって、貴船宮はそれ以前から左右宮と並んで鎮座していたことが窺えます。 なにしろ鎌田氏は、この貴船・只洲を塩竈の地主神とみていたようで、以前触れたとおり、山城の貴船神社―京都鞍馬の貴布禰総本宮―すらも、むしろ塩竈から勧請されたもの、と秘伝しております。 このあたり、法蓮寺―鹽竈神社別当寺―の住持の著述と思しき「鹽社由来追考―前述『鹽竈神社史』所収―」は、「只洲ハ、慶長年中鎌田藏人ト云者、私ニ貴船ト同格二建ト謂ヘリ。蓋山城ノ貴船ト云説ニ泥ミテ只洲ヲ建ルト見エタリ。爾レハ右兩社共ニ誤リ傳來ル者也」と否定しております。 『塩竈市史』所収の論考「塩竈神社史」の大塚徳郎さんは、「〜貴船・只洲の二社が江戸時代の初期に左右宮の一棟と並んで別々に存在したことも、この地主神が水の神であって、水の神として全國的に崇敬されていた貴船神と考えられ、京都における貴船神社が只洲神社の攝社としての關係をもつていることから、併せ祭られたのであろう」、「この家―鎌田家―の實力が、只洲社を鹽竈神社内に貴船と並んでおかしめることになつたのであろう」と推察しております。 以前私は、貴船・只洲とも鎌田家の屋敷神であったものと捉えておりましたが、当の鎌田氏が自らの屋敷神たる只洲宮を鹽竈神社境内の貴船宮の御垣之内に移したと語っていたわけですから、もしかしたら貴船宮の祭祀とはなんら関係がなかったのかもしれません。 だとしたならば、貴船宮は誰が祀っていたのでしょうか。本当に鹽竈の地主神であったのでしょうか。 地主神云々の議論はともかく、結論からいえば、貴船宮を祀っていたのは男鹿島太夫鈴木家であったものと思われます。 男鹿島太夫鈴木家は、御釜太夫鈴木家―御釜神社の釜守の家―の同族で、後の別宮一禰宜の一族です。 なにしろ男鹿島太夫は、「志賀家社列書上並留書」の貞享四(1688)年「御宮會所座席」に「貴船一禰宜」と位置付けられております。これが寶永元(1704)年改正の「御宮會所座席」には「別宮一禰宜」に改められており、綱村の改革によって消滅した貴船宮は別宮として生まれ変わったものと推察されます。 男鹿島家の史料上の初見は、明應六(1497)年の鐘銘でありますので、その頃には既に貴船宮が祀られていたのかもしれません。 御釜太夫家なり男鹿島太夫家なり、鹽竈神社の祭祀に深く関わることとなった鈴木家について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」としたうえで、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、と推察しております。 たしかに頼朝の社殿経営を機に鹽竈神社と関わったのかもしれませんが、その素性としては、私はむしろ奥州藤原氏と深く関わっていた名取の熊野別当の裔、あるいは名取の佐藤荘司の裔ではなかったか、とみております。 奥州藤原氏滅亡の折、彼らが鎌倉軍に投降して赦免された旨は『吾妻鏡』にも記されております。 名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって奥州一円に広がったのではないか、と私は考えております。 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。 小萩伝説にはいくつかの流れがありますが、その類型のひとつに、和泉三郎忠衡の娘萩姫が巡礼のさなか常陸と石城の境で山賊の襲撃にあい小舟で沖に流されたものの、観音菩薩の加護により閖上濱に漂着したというものがあります。なにやら名取熊野那智本尊に関わる閖上(ゆりあげ)観音の漂着譚を示唆めかせておりますが、それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たち、また、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。 高貴な姫が船で漂着するという譚は、心なしか、玉依姫の乗る黄舟(きふね)が流れ着いたところに祠を建て水神を奉斎したことに始まったとされる京都鞍馬の貴船神社の由緒に通ずるものがありそうですが、それはひとまず置くとして、旧荒巻邑総鎮守の熊野神社は、土御門天皇(1198〜1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものであり、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。 なにしろ本場紀州の熊野別当系譜を事実上確立させた十代「泰敬―泰救?―」の母は、陸奥の女性であったとされております―「熊野別当代々記」―。 思うに、その母の実家が奥州藤原氏の保護の下に名取の熊野別当家になったのではないでしょうか。 『名字大辞典(ユーキャン)』は、「鈴木一族は熊野信仰とともに広がった。また、鈴木一族は一人の人物を祖とする名字ではなく、熊野信仰を広めた人々に共通する名乗りだったと考えられる」と記しております。 さすれば名取熊野別当家も、本姓はともあれ鈴木を称していたものと考えられますが、鹽竈神社の貴船一禰宜男鹿島太夫鈴木家や御釜太夫鈴木家もこの流れであったのではないのでしょうか。 先に、太白山山頂の貴船神社を祀ったのは、当地一帯の山守鈴木家の先祖ではなかったか、と推測しておきました。このエリアは地勢的に名取熊野の地盤であり、この鈴木家もおそらくはその一族であったものと推測しております。 吉田東吾は、『大日本地名辞書(冨山房)』において『和名類聚抄』にいう名取郡の「磐城(いわき)郷」をこの地域とみて、「○今、生出村、秋保村、などにあたるごとし、井上郷の西北にして、名取川の山峡の中なり。磐城とは、石城國石城郷よりの移住などに因れるにや、又は、所在産出の埋木を、石木といへるに起れるにや、いかにとも定め難し」と記しておりますが、仮に石城國石城郷よりの移住云々の説を採るならば、先の萩姫閖上濱漂着譚の舞台として常陸や石城の地名が出てくることともなんらかの関わりを窺えそうです。 磐城郷は宮城郡や桃生郡にもみられ、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)は宮城郡の磐城郷に塩竈周辺をあてており―『日本地理志料』―、留意しておきたいところです。 度々論じているように、茨城県北部から宮城県南部の太平洋岸に沿って展開する“タカ”なる言霊には、高舘なり多賀城の地名との因果も窺われますが、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の語るところからみて、おそらくは本来石城國造家の屋号的な意味があったものと私は推察しております。 なにしろ、名取熊野発祥の発火点となった高舘那智社および羽黒神社は、遡れば閖上(ゆりあげ)湊周辺の地主神を起源としていた可能性が高く、おそらく名取熊野別当家は本来その地主神を祀る一族であって、石城國造家の祖ともなんらかの密接な関わりがあったものと考えます。 仮に、石城國造家の同族が太白山山頂に貴船神を祀り、鹽竈神社における貴船一禰宜を輩出した氏族でもあったとしたならば、彼らは貴船神とどのような関わりがあったのでしょう・・・。 |
|
大正十四(1925)年発行の『名取郡誌』には、名取熊野那智神社―宮城県名取市高舘―の神職山田氏は治兵衛の苗裔なりと傳ふ、とありました。 「治兵衛」とは同社の由緒に現れる広浦―閖上(ゆりあげ)―の漁夫のことですが、彼が神職についた事情や、同社が高舘丘陵―宮城県名取市―に祀られた事情については、おおよそ以下のように伝えられております。 人皇四十四代元正天皇の養老三(719)年の漁のふるわなかったある日のこと、海底に光るものを見つけた名取郡広浦―宮城県名取市―の漁師「治兵衛」は、怪しみつつも網をおろしそれを引き上げたが、それはなにやら異様な御神体であった。治兵衛はそれを大切に持ち帰り、自宅に安置して日夜尊崇した。 しかしその後、毎夜西に向かって光がとび、広浦の西方10キロ余りの高山に留まるのを見たと広浦の人々が言い出した。御神体を不浄な自宅に留めておくことの不敬を懸念した治兵衛は、光のとどまるところを辿り、そのとどまった川上村の山上に御神体を奉遷し、同年の閏六月十五日、「高舘山羽黒権現」として崇め奉った。 広浦はこの御神体のゆりあがったところであることから以後「ゆりあげ」と地名が改められ、御神体は近海の村落の守護神と崇め奉られ、治兵衛はその禰宜となった。 その約400年後、鳥羽天皇の保安四(1123)年、名取の老女が紀州熊野三山のうち那智の分霊を羽黒権現に合祀し「熊野那智権現―俗に舘権現―」と号し奉り、その地を吉田と称した。―『名取市史』・『封内風土記』ほか参照― 名取老女による高舘丘陵への那智奉斎については、老女の墓のある下余田(しもよでん)地区―名取市下余田―にやや異なる伝説もあります。 すなわち、ある敬虔な熊野巫女―名取老女―が、老いて紀州熊野への参詣がままならなくなったがために自宅周辺の下余田の地に熊野三山の神々を勧請し奉斎していたが、それが後に高舘の地に奉遷されて現在の名取熊野那智神社となった、という旨のものです。 仮にこの伝説に重きを置くならば、羽黒信仰者らしき漁師治兵衛と熊野信仰者の名取老女の間にはなんら関係のなかったものが、奥州藤原氏の強大な権力によって統合されたものと考えられます。 また、市史には「名取老女は、もともと独立の地主神、この地の産土神であったと思われるが、熊野の神々が新しく勧請された時点で、否応なしにその勧請者に仕立てられ、新たな権限を前に雌伏しかつ奉仕する地位に下るのを余儀なくされたのである」とあります。 さすれば名取老女は、もしかしたら治兵衛の祀る羽黒権現に極めて近しい神であったのかもしれません。 あるいは、そもそも治兵衛と羽黒権現の関係自体も、後の熊野信仰同様、当地への羽黒信仰の広まりによって後付られたものなのかもしれません。 いずれ羽黒権現は、いわゆる出羽三山信仰の一角をなす神であります。 原始的な祖霊信仰のかたちにおいて、先祖の霊魂が神として昇華するいわゆる「深山」を「月山(がっさん)―山形県―」に求めていた山形県庄内地方の人々にとって、死後まもない霊魂が留まる「葉山(はやま)」は里に近く登るに易い「羽黒山」であったものと思われます。 羽黒山の麓、宿坊街の余韻を残す羽黒町手向―山形県―の「正善院」には、羽黒権現を偶像化したものがあります。「羽黒神(うぐろじん)」の像と称されるそれは、長い髭を生やしたリアルな翁の顔をした蛇の像で、かつてのこのあたりでは祀る例が多かったといいいます。 それについて私は、任那(みまな)を「蜂」、新羅(しらぎ)を「蛇」と喩えていた『日本書紀』の記述などから新羅系の神であったのではないか、と考えたりもしておりましたが、あらためて思うに、竜蛇族を自称する出雲系の神であったのかもしれません。 身近な葉山であった羽黒山に対して、遥拝の対象たる深山の月山山頂に鎮座する「月山神社―山形県鶴岡市―」は、明治の近代社格制度における東北地方唯一の官幣大社に位置づけられておりました。 もちろん、近世以降の創作とも言われる蜂子皇子伝説も絡んでのことであろうとは思いますが、そもそも古く『延喜式』の「神名帳」における同社は名神大と最高格であったうえ、「主税式」には「出羽国月山大物忌社二千束」と、全国に四例しかない正税から祭祀料を受けていた稀有な大社でありました。 山名からもみてとれるように、月山神社の祭神は月読神であり、この山には月神信仰があったものと思われます。羽黒権現が名取において朝日の昇る閖上と結びついたのは、出羽三山信仰に包摂されていたのであろう原始的な「日月信仰」に起因したものかもしれません。 ところで、神職山田氏が漁夫治兵衛の裔と伝わっているということなので、念のため、太田亮の『姓氏家系辞典(角川書店)』をひいてみると、山田姓だけで20ページも割かれておりました。 それだけ同名系譜が多岐にわたるなかで、名取郡の地理的、あるいは羽黒権現にからめた属性的に私の琴線にひっかかったところを列記してみます。 1、陸奥菊多郡(磐城)に山田郷(山田邑存す) 2、磐瀬郡(岩代)に山田郷(今石川郡) 3、大伴山田連 大伴氏の族にして、延暦十六年正月紀に「陸奥國遠田郡人外大初位上丸子部八千代に、姓を大伴山田連と賜ふ」と載せたり。 4、山城 月讀社方に山田氏あり、藤原姓と云ふ。又藤原兼通の曾孫致貞の女を山田中務と云ふ 「1」、「2」については、菊多郡なり磐瀬郡なり―いずれも福島県―からすると、どこか石城國との地縁がありそうにも思えます。ただ、なにしろ20ページも割かれた中でのことなので、この情報だけで論を展開するのは無謀な気もします。 とはいえ、「3」、すなわち、丸子一族から大伴山田連なる人物が出ていることを絡めて考えてみると、あながち無縁でもなさそうに思えます。ここでは遠田郡の人となっておりますが、丸子一族自体が鹿島御子神やタカ神、ニワタリ神の分布とシンクロして宮城県南に縁の深い氏族であり、漁夫治兵衛がこの系譜から出た人物である可能性は十分あろうかと思うのです。 また、「4」については、とりあえず山城―京都府―のことではあるものの、月読社に関係する山田氏が存在していたことがわかります。羽黒信仰の核にある月山との関係からすれば、これも気になるところではあります。 そもそも高舘丘陵の北、名取川を挟んで対岸の羽黒神社は旧名取郡山田村―仙台市太白区山田―の総鎮守であり、羽黒信仰は山田の言霊となにかしら関係があるのかもしれません。 いずれ、後に那智神と結びついた羽黒権現は神の光のとどまった場所にて奉斎されたわけですが、そこに仙台平野最古級―すなわち四世紀末以前―と目される「高舘山古墳」があることは、おそらく偶然ではないでしょう。むしろ広浦―閖上―の人々がそこを古くからの神聖な場所と認識していたからこそ、神の光がとどまったと言い出したのではないでしょうか。 この古墳は東北地方には珍しい前方後方墳となっているわけですが、私がそのことを殊更に注目するわけは、行方郡―福島県南相馬市―の新田川流域に展開する「桜井古墳群」最大の一号墳がそうであるからです。
なにしろ行方郡は、陸奥國太平洋沿岸におけるタカ系式内社の鎮座地という意味において名取郡と共通します。 度々論じているように、茨城県北部から宮城県南部の太平洋岸に沿って展開したと思しき“タカ”なる言霊には、高舘なり多賀城の地名との因果も窺われますが、『常陸國風土記』の「多珂(たか)の郡」の語るところからみて、おそらくは本来石城國造家の屋号的な意味があったものと推察しております。 さすれば、この古墳の被葬者についてもひとまずは石城國造の同祖系譜であろう丈部(はせつかべ)氏―陸奥安倍氏―の祖を疑っております。 一方で、ユリの言霊からは「由利氏」を輩出したと思しき「中原眞人系氏族」の祖、また、『続日本紀』に「上毛野名取朝臣」の姓氏を賜った記事のみえることから「吉弥候部(きみこべ)氏―その実は物部氏か?―」あたりも疑ってみるわけですが、特に後者には違和感も残ります。 何故なら、上毛野氏に関係する氏族であれば、上毛野氏の本拠―群馬県―の天神山古墳などにみられるような「前方後円墳」を造っていたはずと思われるからです。そういった意味からすれば、遠見塚古墳や雷神山古墳といった東北地方最大級の前方後円墳については当該系譜を疑ってみてもよいのかもしれません。 もちろん古墳の形状に古代人のどのような思惑が込められていたのかはっきりしたことはわかりませんが、出雲神族の継承者と思しき斎木雲州さんが『出雲と蘇我王国(大元出版)』の造山古墳―島根県安来(やすぎ)市―のくだりで、「方墳を造らせたことは、イズモ発祥の四隅突出古墳の伝統を、形の一部に残したことを意味する」やら、「普通の大豪族なら、前方後円墳を造るであろう。それを後方墳にするところに、出雲王国は亡びたけれども、その伝統は忘れない、という出雲人の意地を示している」などと記していることは気になります。 斎木さんや、同じく大元出版から出ている『幸の神と竜』の著者谷戸貞彦さんによれば、方墳の原型は四隅突出古墳にあり、その意味は新しい命の誕生のための男女の交合―掛けじるし―であり、大根の交差紋や鳥羽の交差紋・交差鉾紋などの家紋に採用されている思想と同根であるようです。 それらのことを念頭に置きつつ、高舘山古墳がタカ神祭祀を通じて名取郡と属性を共有する行方郡の桜井古墳群最大の一号墳同様の「前方後方墳」であることを鑑みるならば、私はやはり人皇八代孝元天皇の裔を称しつつ、長髄彦一族の裔をも称する氏族、すなわち陸奥安倍氏の先祖とも思しき石城國造家を輩出することとなる一族の人物がこれら古墳時代前期の前方後方墳の被葬者であったのではないか、と思うのです。 |
|
高舘(たかだて)丘陵―宮城県名取市高舘―にある「熊野那智神社」の東側には、奥州藤原三代秀衡の築いた城館の跡―高舘城跡―が隣接しております。 秀衡がなんらかの理由でこの地を重要視していたことが窺えるわけですが、『奥羽古史考証(友文堂)』の藤原相之助などは、この「高舘」を「多賀舘―多賀城―」の意としております。 すなわち、いわゆる「多賀城―多賀城市市川―」のことを指していると思しき『続日本紀』天平九(737)年四月十四日条を文献上の初見とする「多賀柵」については、あくまで防備および足掛かりのための柵にすぎなかったとし、その柵が後に「多賀城」と呼ばれるようになったので、名取の「高舘―多賀舘―」と市川「多賀柵」の記載に混淆が生じ、後の史家を錯覚に陥れたものとする旨を論じているのです。 藤原相之助は、城と柵との相違について、城は周囲に土塁を築き永久を期したものであり、柵は木材を掘立てにして園繞したもの―めぐらせたもの―と区別しております。 ただ、なにしろ同書は昭和七(1932)年の発行なので、現在多賀城の前身とみられている「郡山官衙―仙台市太白区郡山:昭和五十四(1979)年調査開始―」への言及はありません。いわゆる宮城郡をどこに比定すべきものか、多賀以北なり以南なり名取郡以北なり以南なりという線引きの概念がひとつの論点となっておりますが、かつての名取郡域でもある郡山官衙を高舘に置き換えてみたとしても、とりあえず氏の論との齟齬は生じなさそうです。 いずれ、郡山官衙はそれとして、いにしえの基幹陸路たる東山道の往来や名取川の渡河を眺望し得るところの高舘丘陵が、古来なんらかの形で在地勢力なり中央勢力なりの重要拠点として機能していただろうことは想像に難くありません。 なにしろ、那智神社表参道沿いには、仙台平野最古級―四世紀末以前―とみられる前方後方墳の「高舘山古墳」も発見されております。そこは高舘城南東部の平場でありますが、もしかしたら高舘城自体がそれありきで設計された山城であったのではなかろうか、などとも想像が膨らみます。 『名取郡誌』など幾つかの資料に記された伝説を咀嚼すれば、那智神社がこの地に建てられたのは、養老三(719)年に広浦―閖上(ゆりあげ)の旧地名―の漁夫「治兵衛」が海底から引き上げた御神体の放つ光のとどまった場所が故であるようで、当初羽黒権現であった同社は保安四(1123)年に名取老女が那智宮の分霊を合祀したことを機に、今の名、すなわち熊野那智神社に改められたようです。 高舘山古墳との因果も窺われるところですが、大正十四(1925)年発行の『名取郡誌』によれば当時の那智神社の神職山田氏は漁夫「治兵衛」の苗裔であるとのことです。もしかしたら治兵衛が古墳被葬者の苗裔であるのかもしれません。 その古墳が「前方後方墳」であることにはたいそう興味をそそられますが、そのあたりはまた別稿を設けて語るとして、名取発の熊野信仰はそのような地から陸奥を代表する宗教勢力として拡大していったというわけです。 なにしろ、那智・本宮・新宮の三社が各々に勧請されて、一社に統合されることもなく紀州のそれを擬した相関的な配置でもって祀られているこの形は、全国を見渡しても他に例がないといいます。 紀州を震源として全国に広まった熊野三山信仰において、名取のそれはあたかも副本山的な立ち位置にあったかのごときです。なにゆえ名取にかような特別な形が生じ得たのか、もちろん、奥州藤原氏との濃厚な結びつきがあったことの影響は大きいでしょう。 奥州藤原氏の時代、荘園制度の弊害で求心力の低下しつつあった朝廷とはうらはらに、全国各地で地方豪族の力が強大化していたわけですが、特に奥州藤原氏などは三代秀衡が陸奥守にまで任じられております。 つまり、奥州藤原氏はついに大酋長の域を超え、陸奥國府の行政トップとしても君臨するに至っており、平氏や源氏と並ぶ平安日本版三国志の一角を成す北方王者として君臨していたのです。 したがって、仮に高舘の地が多賀城以前の鎮所であったのだとすれば、遠ノ朝廷たる多賀國府の経営を名実ともに担うに至った奥州藤原氏なればこそ、その痕跡を利用してなんらかの重要拠点を築き、民心の掌握のためにも、有事の際の軍備増強のためにも名取熊野の経営を大いに支援したことでしょう。 なにより、名取老女が名取の地に熊野那智の神を将来したとされる保安四(1123)年は、奥州藤原氏初代清衡渾身の中尊寺金色堂上棟の年であり、それが三代秀衡生誕―保安三(1122)年―の翌年であるところにも何か因果を窺わせます。 しかし、もっと直接的に注目すべきことがあります。 それは、いわゆる本場紀州の「熊野別当」の祖に、陸奥國の女性を母とする人物が存在していたらしいことです。 熊野別当とは、成立事情を異にすると言われる紀州熊野三山の各々をひとまとめに統括する役職のことですが、その歴代の系譜を伝える「熊野別当代々記」には、一条院御宇長保元(999)年正月二日に補任された第十代別当「泰敬―泰救?―」について、「父実方中将、母奥之国人也」と記されているのです。 実方中将とは言うまでもなく藤原実方のことで、一条天皇から「歌枕の地をみてまいれ」と体よく陸奥國に左遷された逸話が伝わる人物です。その奔放な女性関係などから一説に『源氏物語』の「光源氏」のモデルとも言われているようです。 いみじくも名取には当地の笠島道祖神を侮辱して落馬死したと伝わる実方の墓もあるわけですが、彼の左遷から落馬死に至るまでの一連の顛末については不審な部分も多く、そのまま鵜呑みにはできないものがあります。 もしや実方は多くの歌人よろしく政治的な陰謀によって抹殺された怨霊候補であったりはしないでしょうか。 熊野三山の別当系譜の世襲制は十代別当泰敬―泰救?―から始まっているものと思われますが、泰敬―泰救?―の補任された長保元(999)年正月二日は、父とされている実方の没した長徳四(998)年十二月の直後でもあり、何かきな臭さを感じます。もしかしたら三山を統合する熊野別当の成立は実方の怨霊鎮魂に起因していたのではないか、などと勘繰りたくもなります。
『名取市史』によれば、「熊野別当代々記」は前後錯誤が少なくなく、記述をそのままに信頼することはできないようで、なにしろ実方が熊野を訪れたという記録もなく、中古三十六歌仙の一人でもある実方の作品をみても、熊野の神々や風物を詠んだ歌などはまったくないようです。 泰敬―泰救?―が実方の子であることも疑わしいといえば疑わしく、むしろ泰敬―泰救?―の補任の日付をあえて実方の命日に寄せたものである可能性も否めないでしょう。 一方『熊野三山の史的研究(国民信仰研究所)』の宮地直一は、紀州藩編纂の『紀伊続風土記』所収「熊野別当代々次第」が、十代泰救を藤原実方に嫁いだ九代殊勝の娘の子であるとしていることを重視しております。 つまり、男子のなかった九代殊勝の娘が実方に嫁ぎ、実方の陸奥國在任中に生まれた男子―泰救―を次代の別当職に補任したことから、その母親たる九代殊勝の娘が「奥国女」と伝わったものと推測しているのです。 『名取市史』はこれを疑っております。矛盾する各々の史料を咀嚼した最大公約数的な推測から、熊野別当の系譜は十代別当泰敬―泰救?―から一族男系の血脈に従って別当職が世襲制になったと考えられるわけですが、市史は、「殊勝に男子がなく、一女子と実方との間に生まれた男子、外孫泰救=泰敬に別当職を与えたとするのは、世襲制に変った泰救=泰敬以前の別当と、その後の代々の別当とをつなぐ虚構ではないかと思う」というのです。 熊野との関係が希薄と思われる実方の名があえて挙げられていることについては、「陸奥の女に配する男として、陸奥と紀伊熊野を結ぶ仮の輪に用いられたのが典型的な貴種流離譚の主、実方であったのだ」としております。 なるほど、あり得そうです。 しかし、だとしたならば十代別当泰敬―泰救?―の父は何者であったのでしょうか。十代別当泰敬―泰救?―から別当制の世襲制が確立しているとあらば、父はその確立に最大級の貢献をした人物にあたると思いますが、系図詐称のためだけにその名を消し去られても熊野衆徒は構わなかったのでしょうか。なにしろ、先の「熊野別当代々次第」によれば、弘仁三(812)年に補任された別当初代快慶の血筋をひかない十四代宗賢などは、その人事に納得のいかない衆徒に殺害されているのです。 そのような空気の中にあって十代別当泰敬―泰救?―が快慶から続く九代殊勝の娘に連なる系譜ではなかったのだとしたならば、いったいいかなる血筋が別当の暗殺をも辞さない熊野三山の荒くれ衆徒の支持を得、取りまとめることが出来たものでしょう。熊野別当の実方血統を詐称とみなすならば、そのしわ寄せはむしろ強まります。 いずれ、そこに熊野に無関係な辺境の女性を系譜に組み込むメリットなどは尚更なかったはずですから、九代殊勝の娘であろうとなかろうと、「奥国女」なる陸奥國ゆかりの人物が熊野三山統一別当成立の歴史において極めて重要な存在であったことは疑う余地もありません。おそらくはその彼女の縁故地に起った信仰こそが名取熊野三山であったのでしょう。 仮に保安四(1123)年の名取の地にそれを将来したとされる名取老女が実在していたのとするならば、それはやはり「奥国女」の裔孫であったのではないでしょうか。 その場合、その家系はおそらく名取郡誌が語るところの那智神社神職山田氏の先祖、すなわち八世紀には広浦―閖上―で漁夫をしていた「治兵衛」の苗裔であったのであろうと私は推測します。後家となった奥国女の嫁いだ先がそうなのか、あるいはそもそも別当初代快慶なり九代殊勝なり、それに準ずる人物、すなわち、まだ別当系譜が混沌としている時代における初代から九代までの人物の何某かの出がその家であったものか・・・。 さすれば、そのさらなる先祖は、もしかしたら仙台平野における最初の古墳―四世紀末以前―の可能性を秘めた、「高舘山古墳」の被葬者であったのではないでしょうか。 |


