はてノ鹽竈

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仙台平野の古代史

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 先日、日の出の時間を見計らって閖上(ゆりあげ)―宮城県名取市―を訪ねてみました。
 震災後まもない頃に訪ねて以来の久しぶりの閖上でありましたが、だいぶ雰囲気が変わっておりました。なまじかつての地理感が残っているだけに、はて、こんな坂道などあっただろうか、などと戸惑う場面もありましたが、閖上地区の復興計画は居住区そのものの大半を嵩上げして、いつかまた襲い来るであろう大津波に備えるものであるようです。
 ともあれ、あえて日の出の時間に閖上を訪れてみましたのは、この地の沖合にのぼる朝日が、名取西部の高舘丘陵をどのように照らし出すものか、という素朴な好奇心に駆られてのことでありました。

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 結果からいえばこの日は雲が多く、私の期待通りには照らしてくれなかったわけですが、閖上の地を離れ、復興真っ盛りの浜街道を北上している最中に、多少なり雲間から日差しが射し始めたので、これ幸いと沿道の海岸公園馬術場―仙台市若林区井戸―に立ち寄り、そこから高舘丘陵を眺めてみることにしました。この馬術場も震災後、閖上の居住区同様平野部に盛土嵩上げされて再開しておりますので、四方を広く見渡すことができるのです。
 公園の駐車場に車をとめて、やおら東を望めば大津波を耐えしのいだわずかな防風林が茜さす空に影絵のように映し出されておりました。どうしても哀惜の念を呼び起こされざるを得ませんが、西を振り返れば何事もなかったかのような仙台平野のパノラマが視界の許す限りに展開しております。

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仙台市街と泉ヶ岳

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今泉清掃工場の煙突の奥に見える住宅街のある一帯が高舘丘陵。その奥にうっすら見えるのは蔵王連峰

 とりあえず、高舘丘陵が朝日に照らされるイメージは確認できたと言って良いでしょう。
 そもそも閖上の日の出が気になりはじめたわけは、先日の拙記事の中で栗駒山の別称なる「大日(おおひる)岳」のヒルや「ゆるぎの松―宮城県栗原市―」のユル、そして「由利(ゆり)郡―秋田県由利本荘市―」のユリについて触れながらあれこれ考えているうちに、ふと、もしや閖上(ゆりあげ)のユリもそれらと同根であったのではなかろうか、と頭をよぎったからでありました。
 すなわち、ヒルやイル、ユルなどと同じく、閖上のユリも「日」を意味していたのではなかろうか、と考えたわけです。
 言うなれば、伊勢二見ヶ浦「二見興玉(おきたま)神社」の「興(おき)」と同じ意味が、閖上の地名にもあてはまり得るのではないかと推察してみたのです
 古代日本人の太陽信仰・日神祭祀―アマテル信仰―は、「天(あま)」に輝くタテ方向の視点のものではなく、「海(あま)」から刺すヨコ方向の太陽を賛美するものだったと説くのは『神と人の古代学(大和書房)』の大和岩雄さんです。
 大和さんによれば、オキタマの「オキ」は「沖」でヨコ意識であり、特に「興」と表記するように起き上がる意味をもつ、すなわち、西に沈んだ太陽が海中で眠り、あるいは死に、翌朝には再生して東から朝日となって昇るのであって、それは王権によってつくられた中国由来の天上からタテに照らす概念ではなく、ヨコからただ刺す概念であって、それこそが古代の人びとがあがめていた「興魂(おきたま)」の神だというのです。
 さすれば二見興玉神社の主祭神たるサルタヒコが朝日の神であることをも示唆しているわけでもありますが、ともあれ閖上を日の出の地として眺め得る場所に高舘丘陵があり、同地の「熊野那智神社」の始原は、閖上浜の漁師が引き上げた御神体が光を放ち、その光がとどまった場所に宮社が建てられたものであると伝えられております。
 当初その地に建てられたのは「羽黒権現」の祠であったらしいのですが、保安四(1123)年に名取老女なる人物が紀州那智宮の分霊を合祀したことを機に、「熊野那智神社」と改称されたようです。
 羽黒権現は東北地方を代表する山岳修験「出羽三山信仰―出羽三所大権現―」の一角をなす神でありますが、旧名取郡域においてのそれは閖上の海とも密接であったようで、名取川を挟んで高舘丘陵の対岸、名取郡山田村旗立山山頂に祀られていた旧西多賀村村社「羽黒神社」では、かつて毎年閖上濱までの神輿の渡御があったようです―『名取郡誌』―。
 この羽黒権現は、和銅三(710)年に焼失していたものを、陸奥守鎮守府将軍の源頼義が安倍頼時を討った翌年の天喜五(1057)年にあらためて同地に勧請したものとされておりますので、少なくとも高舘山のそれより早くから祀られていた神祠とみて良さそうです―昭和四十一(1966)年羽黒台団地の開発造成にあたり本殿を現在の仙台市太白区羽黒台に移祀し今日に至る―。後の対鎌倉戦の様相からも推察できるように、一方で奥州藤原氏の神兵組織の顔を併せ持ちながら一大勢力と化した名取熊野の前身として、出羽の羽黒修験勢力が根付いていたことを窺わせます。
 ところで、高舘丘陵に造成された新興住宅団地のひとつに、伊藤忠都市開発による「イトーピア名取」がありますが、こちらの住居表示は全域「ゆりが丘」となっております。
 おそらくは造成前の底地にユリの小字名があって、それを採用したものと勝手に推察しておりますが、そうでないならば閖上を眺望できることに因んだものか、はたまた、単に百合の花が咲き乱れる野山であったものか、真相は未確認です。
 もしかしたら、高舘丘陵や閖上周辺には出羽國の由利郡同様、中原眞人一族と思しき由利氏が土着していたのかもしれず、彼らの先祖は高句麗系渡来人と密接な信濃系の馬賊の頭目的存在であったものと考えておりますが、高舘丘陵東部の麓に「乗馬」や「舞台」、「真坂」といった地名がみられることにもその想像を掻き立てられます。
 いずれその想像が妥当か否かに関わらず、同地の羽黒権現、あらため熊野那智神社に関わる創始伝説を鑑みるに、閖上なる地名は御神体が「ゆりあがった」ことに因むとする通説よりも、むしろそれが放った光そのものに由来したものと私は考えます。おそらく本来の御神体は朝日そのもの、すなわち名取川河口の水門(みなと)の沖合に昇り、高舘丘陵を橙色に染め上げる黎明の日(ゆり)のことであったのしょう。
 『封内風土記』は、仙臺城が人皇27代「継体天皇」の時代に築城されたという伝説を紹介しております。
 継体天皇の在位時期は6世紀前半のことと推定されているわけですが、その時期の仙台平野の様子について『仙台市史』は、「五世紀後半に多くの古墳が築造された仙台平野では、六世紀にはまた一転して、有力な古墳が造られなくなる」としております。
 25代「武烈天皇」の崩御から継体天皇の即位に関わる混乱が、仙台平野の支配勢力にも少なからず影響を及ぼし、それ故に有力な古墳が造られなくなった、ということになるのでしょうか。
 いずれ、『封内風土記』所載の伝説は、仙臺城の築城をその頃のこととしております。
 この時期、記紀相互の内容には注目すべき齟齬が生じております。
 度々触れていることですが、それは、継体天皇妃「ハエヒメ」の出自についての齟齬です。
 ハエヒメは『日本書紀』では継体天皇の妃として七番目に登場し、「“和珥(わに)”臣河内娘曰?恙(はえ)媛」と記されているのですが、『古事記』では「“阿倍”之波延比売(あへのはえひめ)」となっているのです。
 すなわち、『日本書紀』が“ワニ系”としているものを、『古事記』は“アベ系”としているのです。
 このことについて、黒沢幸三さんや水谷千秋さん、米沢康さん、吉永登さんらは、阿倍氏や蘇我氏など“六世紀以降に発展した氏族によるワニ氏所伝の改変”とみております。
 一方で、太田亮さんや宝賀寿男さんといった姓氏家系分野における新旧の大御所は、この「阿倍」はあくまで「和珥(わに)臣」系の「和阿倍(やまとあべ)臣」のことだとして、全く問題にしておりません。
 しかし、太田さんや宝賀さんが言うところの和阿倍臣の本拠は、孝元天皇裔族大彦命系氏族―阿倍臣や膳臣―の本拠と同じ「十市郡」であったようです。
 全く別系譜の“臣(おみ)”姓氏族が、同じ“阿倍”を名乗り、本拠までも同じ“十市郡で”あった、とは、偶然の一致にも程があるのではないでしょうか。
 したがって私は、和阿倍臣と阿倍臣をそう縦割りには区別など出来ないのではないか、と疑問を覚えました。
 26代継体天皇から29代欽明天皇までの四代の間に、記紀上からワニ氏本宗家の事績が消滅し、入れ替わるように蘇我氏が台頭を始めるわけですが、そもそも、皇妃輩出において最多を誇るワニ氏が、その座を新興の蘇我氏に簒奪されておきながら、さしたる軋轢もみられないままに忽然と史上から消えてしまっているのは不自然であり、それ故に私は蘇我氏に寄り添って伸長を遂げていったアベ氏こそがワニ氏の本宗家そのものであったのではないか、と勘繰り始めたわけです。
 このあたり、既に拙記事『ワニ氏はどこに消えたのか』『孝元裔族と孝昭裔族の混乱』でも語っておりますが、少なくとも継体天皇時代がワニ氏ないしアベ氏にとってなんらかの重大な転換期であったことは間違いないでしょう。

 ところで、以前私は、「蘇我馬子」はもしかしたら天皇であったのではなかろうか、と考えたことがありました。
 その試論は今も尚持ち続けておりますが、そう考えた理由は二つありました。
 一つには、「冠位十二階」に蘇我氏の名が一人も含まれていなかったということがあります。
 「冠位十二階」とは、豪族の力をおさえて天皇を中心とした統一国家をつくるために、豪族に色分けした冠を与えて位階を定めた最初のもので、「聖徳太子」が制定したと一般に理解されているものです。
 しかし、家永三郎さん編『日本の歴史(ほるぷ出版)』は、――『日本書紀』は、聖徳太子がしたことは、必ず「皇太子・・・・・・」と、主語をはっきり書いているのに、冠位十二階のところには、その主語がない――と指摘した上で、冠位を制定した主役は蘇我馬子ではなかったか、と推察しておりました。
 もちろん、だからといってすぐに「馬子が天皇であったのでは?」ということにはなりません。馬子は「臣(おみ)」や「連(むらじ)」より上位の「大臣(おおおみ)」であり、十二階の色を超えた紫冠の高い位であった、という理屈も成り立つからです。
 しかし問題はもう一つの理由です。
 それは、蘇我馬子による「崇峻天皇」の殺害です。
 正史『日本書紀』は、馬子が「東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)」に命じて「崇峻天皇」を殺害したことを明記しているわけですが、私は、正史―六国史―においてあからさまに天皇の殺害を明記した記事を他に思い浮かびません。
 なにより、主犯の馬子はこの大それた事件を引き起こしたにもかかわらず、糾弾されるどころかその後益々権勢を極めているのです。
 『日本書紀』は蘇我氏を滅ぼした新政権によって編纂されたものであり、多分に馬子を悪者に仕立てたい本音があったはずと思うのですが、不可解なことに、その本音に大変都合が良いはずの「天皇殺し」という前代未聞のスキャンダルについて、さしたる断罪もしていないのです。
 それどころか、むしろやむを得なかったかの論調ですらあります。
 蘇我氏を滅ぼした「中大兄皇子―天智天皇―」や「中臣鎌足―藤原鎌足―」らクーデター政権の後ろめたさが怨霊への懸念を生み、そうさせたのでしょうか。
 もちろんそういったことは大いに考えられるでしょうし、だとすれば本当に馬子が犯人だったのか、という疑念も禁じ得ません
 しかし、もし馬子が天皇そのものであったのであれば、馬子が犯人であったか否かなど関係のないことになります。
 人臣による天皇の殺害であれば、それは世論として断罪すべき許されざることですが、それが新旧天皇の相克の過程での事件であれば、世論は静観することでしょう。
 仮に、馬子が天皇で阿倍氏がワニ氏第一党の変質した姿であったとするならば、一見史上から消滅したかのワニ氏は、アベと名を変え相変わらず天皇家と密接に命脈を保っていたということになります。

 いずれ、馬子が天皇であったか否かの議論とは無関係に、私は、冠位十二階など聖徳太子の功績とされる事績のほとんどは、政治面では蘇我馬子、仏教の面では秦河勝のそれではなかったか、と疑っております。
 それらを馬子の功績にしたくない大化以降の政権が、おそらくは夭折したであろう同時代の「厩戸皇子(うまやどのおうじ)―聖徳太子―」なる親王のそれにすり替えたのではないでしょうか。
 太子信仰の底流にはそういった事情が紛れ込んでいるのではないか、誤解を恐れずに言えば、古代における太子信仰の本質は、蘇我馬子・蝦夷・入鹿の三代と秦河勝への、“顕在化が憚られる鎮魂”にあったのではないか、と想像しているのです。
 その想像が妥当な場合、憚られる鎮魂を推し進めたのはもちろん怨霊を恐れる大化以降の36代「孝徳天皇」、37代「斉明―皇極―天皇」、38代「天智天皇―中大兄皇子―」、「中臣―藤原―鎌足」ら、蘇我つぶしの面々であったでしょうし、そしてその実務を任わされたのは蘇我氏に寄り添っていた阿倍氏、特に「蘇我蝦夷」の盟友であり、36代「孝徳天皇」政権の左大臣でもあった「阿倍倉梯麻呂―内麻呂―」の裔孫ではないのでしょうか。
 孝徳天皇は、蘇我入鹿暗殺の「中大兄皇子―後の天智天皇―」派閥に、蘇我つぶしの事後処理を押し付けられたかの如く即位させられ、新皇居の難波宮もろとも使い捨てにされた天皇でもありました。
 倉橋麻呂は、愛娘「小足媛(おたりひめ)」を孝徳天皇に嫁がせていた縁もあってか、この悲劇のつなぎ政権において左大臣まで登り詰めております。
 そもそも彼は歴代蘇我政権における重臣でもありました。
 20年ほど前の推古天皇三十二年、蘇我馬子が天皇直轄領の「葛城県」の割譲を求める奏上のため「阿曇連」と「阿倍臣麿侶」を推古天皇の下に遣わしておりますが、一説にこの阿倍臣麿侶は倉梯麻呂と同一人物とも言われているようです―『日本書紀(岩波書店)』注釈より―。
 ちなみにこの奏上は拒否されております。
 なにしろ倉梯麻呂―内麻呂:阿倍大臣―は、「四天王寺」の五重塔内に小四天王像を安置した人物です―『日本書紀』―。思うに、継体天皇や聖徳太子について詳しい『上宮記』のイデオロギーは、主にこの倉梯麻呂裔孫によって伝えられていたものではないのでしょうか。

 先に私は、『封内風土記』に記された仙臺城の築城伝説には『上宮記』に内包されたなんらかのイデオロギーの影響があるのではないか、と疑っておきました。
 継体天皇の時代に築城された「千代城」が、用明天皇の時代に千体の仏が安置されたことによって「千体城」と改められた――とする伝説は、阿倍倉梯麻呂を祖とする人たちによるものではないのでしょうか。
 もしかしたら、それは「定慧」が開基したと伝わる「洞雲寺(とううんじ)―仙台市泉区山の寺―」にも関係した人たちなのかもしれません。
 「中臣―藤原―鎌足」の長男とされる定慧は、使い捨ての孝徳天皇から賜った寵妃との間の子であるが故に、遣唐使として体よく国外に厄介払いされたとも考えられているわけですが、その寵妃は阿倍の娘であったとも言われております。
 つまり、『日本書紀』のその後の記述からみて、阿倍倉橋麻呂が孝徳天皇に嫁がせた娘、小足媛であろうと推察されるのです。

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 はたして、仙台平野周辺に勢力をふるった人たちの中で、阿倍倉梯麻呂を祖と仰ぐのはどの一派でしょうか。
 「陸奥安倍一族」、あるいは、気仙郡司の「金為時(こんのためとき)」なり「金為家(ためいえ)」を輩出し、平安時代に衣川安倍氏と密接に勢力伸長を遂げた「金(こん)一族」あたりでしょうか。
 ちなみに、仙台平野某所の今野家もおそらくその末裔と思われますが、とある路傍の馬頭観音にかわいい人参を供え続けている家があります。どこまで遡れるものかはわかりませんが、古くは馬に精通した「馬喰(ばくろう)―博労―」の家柄であったようです。
 仙臺(せんだい)城が初めて築かれたのはいつ頃なのでしょうか。
 もちろん、「仙臺」という地名は独眼竜「伊達政宗」による命名ですので、それ以前の「千体城」、「千代城」なり、あるいは「川内城」の時期もあったのか、とにかく、現在の「青葉山」の地に何某かの城舘が築かれたのはいつ頃なのか、という意味です。
 さしあたり『奥羽観迹聞老志』は、次のような伝説を紹介しております。

―引用―
或曰此城用明帝朝完所築中古島津陸奥守者始居茂嶺城―其城址今猶存―後遷此城文治中結城七郎朝光居此爾後荒廃己久永禄中國分能登守來居天正中嗣子彦九郎盛重繼而居先是黄門君在北目館慶長五年十二月二十四日依命移于此〜以下省略〜

 拙くも意訳しておきます。

一説に、この城は用明天皇の世に築かれ、中世には、茂嶺城―茂ヶ崎城:聞老志編纂現在城址現存―に居た島津陸奥守なる者が遷ってきた。
文治年中は結城七郎朝光が居城としていたが、その後久しく荒廃していたところ、永禄年中に國分能登守が入城し、それを天正年中、継子の彦九郎盛重が継いだ。
黄門君―伊達政宗―は、まず北目館を居城としていたが、慶長五年十二月二十四日、命によって仙臺城に移った――

といったところでしょうか。

 これを鵜呑みにするならば、なにやら、築城は人皇32代「用明天皇」の時代にまで遡るようです。
 一方、『奥羽観迹聞老志』の改訂・増補版的な要素のある『封内風土記』所載の伝説は、概略同じ内容ながらも築城の時期が遡ります。

―引用―
或曰。仙臺城。人皇二十七代繼體帝。瑞政中。始築此城號千代。三十二代用明帝御宇。安置千體佛于此府。改千代號千體。其後島津陸奥守某居之。島津移住西國之後。結城七郎政光居之。正親帝永禄中。國分能登守宗政居之。〜以下省略〜

 こちらも意訳しておきます。

一説に、仙臺城は人皇27代継体天皇の瑞政年中に築かれ、当初千代城と名付けられていた。
32代用明天皇の世には千体の仏が安置され、それに因み、千代は千体と改められた。
その後、島津陸奥守何某がここを居城とし、島津氏が西国に移住した後は結城七郎政光が居城とした。
その後、106代正親町(おおぎまち)天皇の永禄年中には國分能登守宗政が居城とした――

といったところでしょうか。

 『奥羽観迹聞老志』同様、人皇32代「用明天皇」の名は一応見えますが、それはあくまで仏が安置された時代としてであって、築城時期については更に遡り、人皇27代「継体天皇」の御世とされております。
 ただし、編者の「田邊稀文」自身はこの伝説に否定的な所感を挟んでおります。
 すなわち、この所伝では「瑞政」なる年号を掲げているわけですが、そもそも年号の制定は36代「孝徳天皇」の「大化」に始まるのであって、27代継体天皇の時代においてのそれは認めがたい、ということのようです。
 ちなみに田邊は更に、島津、結城の居城についても考察に値しないとしております。
 田邊の所感は穏当であり極めて的を射ているものの、島津・結城の話は置くにして、何故ここに「継体天皇」や「用明天皇」の名が持ち出されたのかを考えてみる価値はあるのではないでしょうか。仮にそれが誤り、あるいは偽りであったにせよ、そこには語り伝えてきた人びとのなんらかの意図があったはずです。

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 念のため、継体天皇や用明天皇がどういった天皇であったのか、簡略に振り返ってみましょう。

 まず継体天皇は、暴君と伝わる人皇26代「武烈天皇」に嫡子なく皇統が途絶えたが為、大連「大伴金村」によって越の国から発掘されてきた天皇です。
 15代「応神天皇」の五世孫という触れ込みで即位に至ったわけですが、さすがに五世孫ともなると血が遠いと言わざるを得ず、正史における武烈天皇の暴虐ぶりがあまりに際立ちすぎることも手伝い、ここに王朝交代があったとする識者も少なくありません。
 一方、用明天皇は、外来宗教である仏法を初めて公認した天皇でもあるわけですが、むしろ次代にあたる33代「推古天皇」の夫として、あるいは「聖徳太子」の父として、「太子信仰」の中でよく語られる天皇でもあります。
 ちなみに、現在に知られる継体天皇の系譜についての情報は、『釈日本紀』に引用がみられる『上宮記』によるところが大きいわけですが、これは記紀よりも古い史書と考えられております。
 「上宮」は現在の奈良県桜井市あたりにあったとされる聖徳太子が幼少期に過ごした宮のことで、『上宮記』の性格が聖徳太子の伝記であったのではなかったかと推察される所以でもあります。
 残念ながらこの文献の原典は鎌倉時代以降に散逸してしまったようです。
 単に太子信仰者によって残されてきたからかもしれませんが、現在に伝わる逸文の大部分は継体天皇と聖徳太子関連の系譜で占められます。
 聖徳太子はともかく、ここで何故継体天皇のことが詳しく書かれているのかはわかりません。もしかしたら、両者の関係になんらかの重大な鍵があるのかもしれません。

 仙臺藩領内の北部、栗原周辺には、何故か武烈天皇の貴種流離譚伝説が点在しております。
 武烈天皇が故あって奥州に配流され、栗原にて崩御されたというものです。
 一方、仙臺藩領内の南部には、皇子時代の用明天皇が東国巡幸の際に当地の豪族の娘との間に私生児を残したと伝えられております。
 皇子が大和に帰ったまま一向に戻ってこないので、やがて娘は悲嘆にくれたまま亡くなりました。残された私生児は川に捨てられ、白鳥と化して父である大和の天皇に母の訃報を届けたというものです。
 これらの伝説は、仙臺城の築城時期が継体天皇の世なり用明天皇の世なりと伝えられていることと何か関わりがあるのでしょうか。
 さしあたり、用明天皇は太子信仰に代表される仏法の側面があるので、センダイの由来となった「千体の仏」から派生したものとも考えられますが、継体天皇についてはにわかにはこれといった因果が思い浮かびません。
 しいてあげれば、聖徳太子と継体天皇について詳細な『上宮記』が内包するなんらかのイデオロギーがこれらの伝説に影響を及ぼしているのかもしれません。
 「遠の朝廷(みかど)」たる「多賀城」や『延喜式神名帳』所載の宮城郡の式内社「多賀神社」の「多賀」は、おそらく名取郡―宮城県―の同「多加神社―現:多賀神社―」の「多加」や、行方(なめかた)郡―福島県浜通り―の同名神大「多珂神社」の「多珂」、さらにもしかしたら柴田郡―宮城県―の同名神大「大高山神社―大鷹宮―」の「高」なり「鷹」などの韻に好字の「多賀」をあてはめたものと思われるわけですが、大高山神社は置くにして、行方郡のそれは『延喜式神名帳』所載の全国の「タカ神」6社を見渡しても、唯一の“名神大”になっております。
 このことから、それがタカ神の筆頭格であった可能性も考えられるわけですが、少なくとも陸奥國の事情としては、行方郡における多珂神祭祀氏族が名取郡や宮城郡といった仙台平野にも土着していたことが窺われます。

 また、『奥羽観迹聞老志』や『封内風土記』、『封内名蹟志』などの江戸期の地誌は、仙臺藩祖「伊達政宗」以前に仙臺府城域―陸奥國分荘―を領した人物として、「島津陸奥守」、「結城七郎朝光」、「國分能登守」の名を挙げているわけですが、各地誌の表現からみて最も古いと思われる島津陸奥守は、天神社の由緒に関連する別伝において、天延年間(975年頃)に「平持村―あるいは平将春―」によって「宇田郡―現:福島県相馬市―」に勧請された同社を、文永元(1264)年(※)に宮城郡の國分荘に勧請した人物としても伝わっております。

 タカ神祭祀と天神信仰、この二つの事例が示唆するように、中世以前の仙台平野には、行方郡や宇田郡といった福島県浜通りとも小さからぬ民俗的交流が窺われるということです。
 この行方郡・宇田―宇多―郡の両エリアは、陸奥國に併合されて以降、新田川流域が行方郡―現:福島県南相馬市―、宇多川流域が宇多(宇田)郡―現:福島県相馬市―の二郡に分けられたものの、古くは『先代旧事本紀』の『国造本紀』に記録されたところの「浮田國造」に含まれていたと考えられており、ほぼ同一の文化圏であったと言って良いでしょう。
 このエリアで私が最も注目しているのは、「桜井古墳群」です。

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 この古墳群の一号墳は、東北地方には珍しい前方後方墳でありますが、築造時期は四世紀後半―古墳時代前期―と推定され、福島県浜通り地方における最大の古墳でもあることから、浜通り最大の勢力がこの地区を本拠にしていたと考えられます。

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 七号墳の棺の中からは、珠文鏡(しゅもんきょう)が出土しておりますが、東北地方の古墳から銅鏡が出土することも珍しいことです。

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 前方後円墳ではなく前方後方墳として築造されたことにどういった意味があったのかはわかりませんが、時期的には私が推定する五世紀以降のオホ氏の北上に先行するものであり、むしろ仙台平野の遠見塚古墳や雷神山古墳の被葬者たる首長層との関わりが気になるところです。
 現地の説明板には「北関東地方や東海・北陸地方と交流を行いながら、この地域を支配した首長と考えられます」とありますが、東海・北陸といえば、四道将軍の武淳川別命とその父大彦命のルートでもあります。言うまでもなく、武淳川別命や大彦命は、古代氏族阿倍氏の祖とされており、さしあたり長髄彦の兄安日彦の裔を自称する陸奥安倍氏もその系譜を併記しております。
 そもそも、福島県南相馬市原町区上渋佐地内に点在するこの古墳群が、何故「桜井古墳」と称されているのでしょう。往昔の地名が「桜井」であったのでしょうか。真相は未確認ですが、興味深いものがあります。
 何故なら、大和盆地の阿倍氏の本拠の地名がいみじくも「桜井」であるからです。

※ 上記「文永元(1264)年」について補足
 島津陸奥守の後であるはずの結城七郎朝光の入府時期が奥州藤原氏滅亡前後の文治年間(1185〜1190)であった所伝からすれば、信じ難いものがあります。したがって私はこれを額面通りに受け止めず、「文永元(1264)年」が陰陽道上で変乱が多いとされる「甲子革令(かっしかくれい)」にあたっていたこと、加えて、特に「文永」の年号自体に土民の憚られる感情が込められて後付されたものとみております。
 文永年間、わが国はいみじくも甲子革令が現実化してしまったかのような史上未曾有の侵略に見舞われております。
 「元寇(げんこう)―文永・弘安の役―」です。
 元寇は、直接蹂躙された対馬・壱岐はもちろんですが、先に降伏して尖兵として利用された高麗にとっても悲劇でありました。
 その悲劇に、特に当地―陸奥國分荘―の土民が憚られる感情をもって共鳴し、それ故に「文永」の言霊が差し挟まれたのではなかろうかと私は考えているのです。
 何故なら、当地の土民は馬を通じて高麗文化と密接であったと思われるからです。
「陸奥國分寺」頒布の「木ノ下駒」添付の由来によれば、古来、陸奥國分寺の境内においては恒例の馬のせり市が立てられ、その市で多賀の国府は駿馬を選び買い上げ、時の帝へ献納する慣習があったといいます。
 國分寺を取り巻く周辺の宮城野の荒野には良質な駿馬が放牧されていて、『馬櫪神御由来記』には「陸奥は日本六十餘州の内馬生産第一にして、中にも宮城郡荒野の牧に出生の駒は其性第一」云々とあります。
 また、『封内風土記』の「土産」の項には栗原―現:宮城県栗原市―産の駿馬が極めて良質であることが特記されております。
 思うに、栗原で選び抜かれた駿馬が、國分寺周辺に放牧されて、そこで朝廷献上用に交配生産されていたのではないでしょうか。
 そのシステムには当然馬ばかりではなく、馬に精通した優秀な博労(ばくろう)―伯楽・馬喰―の存在も不可欠で、菊地勝之助さんの『仙臺事物起源考』には「国分寺附近には多数の馬喰も住居していたことは、口碑に伝わる「木の下馬喰」の称によっても知ることが出来る」とあります。おそらくは早くに信濃から移住していた高麗系の博労(ばくろう)が多数住居していたことでしょう。
 すなわち、当地の土民は高麗文化と密接であったはずで、元による日本侵略の尖兵とされて戦死した高麗人の痛みを他人事には思えない地域性があったものと想像します。このあたり、私論上における「モクリコクリの碑―伝:蒙古高句麗の碑―」の建立に関する事情にも通じます。
 現在「多賀大社御分霊」をお祀りしている仙台市泉区の「二柱(ふたはしら)神社」は、明治の神仏分離令以前には「仁和多利(にわたり)大権現」を祀っていたとされ、それは「國分氏」の氏神とも言われておりました。
 神仏習合にせよ神仏分離にせよ、いわゆる方便によって神が仏に、あるいは仏が神に変質させられる際には、結び付けられる両者に少なからず何らかの共通する性格があったものと思われるわけですが、以前私は、仁和多利大権現が多賀大社の御分霊に結び付けられた理由について、おそらく社名の“二柱”に意味があるのだろう、としておきました。
 すなわち、国生みの夫婦神、「伊弉諾(いざなぎ)」・「伊弉冉(いざなみ)」の二柱を祀るとされる多賀社の属性から、さしあたりニワタリ信仰にも一対神の性格があったのだろう、と勘繰っておいたのです。
 それは、必ずしも私の勝手な想像ばかりではなく、一応はその二柱神社の宮司に投げかけた社名由来の質問への回答を踏まえたものでもありました。
 多賀大社から分霊された神社であるにも関わらず、何故「多賀神社」を名乗らなかったのか、不躾ながらも同社のHP上で質問してみたのですが、同社の宮司は懇切丁寧に返答くださりました。
 宮司は、「詳細は不明」としながらも、あくまで私見である事を前置きしたうえで、同社は多賀大社の直接分霊社であるため総本社の「多賀」の字をあてるのは恐れ多いと考えられたのではないか、また、ニワタリの「ニ」を冠に持ってきたかったのではないか、そして、そこに神様の単位である「柱」があてられたのではないか、という旨のことを語っていただきました。
 これを受けて、私は数字の「二」への着眼に少なからず自信を深めることになりました。
 鷹・白鳥の一対、二羽の鳥に「鶏」の韻が被り、そこになんらかの方便で弥勒(みろく)信仰の聖地「鶏足山(けいそくせん)」の「鶏足(けいそく)」が訓じられ「ニワタリ」の呼称が生じたのではなかろうか、と考えていた私には、少なからず追い風たり得る回答に思われたのです。
 その仮説についてはペンディングですが、ともかくもニワタリ信仰が多賀神に結び付けられた事例があったことについては事実です。
 もちろん、その一例をもってニワタリ信仰の全体を推し量ることは無謀ですが、二羽の白鳥、あるいは二羽の雀が祀られているという福島県相馬郡新地の「二羽渡(にわわたり)神社」などは、それを象徴的に示唆しているように思えております。

 何はともあれ、私は、陸奥國行方(なめかた)郡と名取郡の多賀社が、猛禽類の「鷹」と結び付けられていること、そしてそれら多賀神系の社にはおしなべてヤマトタケル伝説が伴い、ひいては「白鳥」の伝説とも隣り合っていることなどを鑑みて、少なくとも陸奥國の多賀社については鷹と白鳥の融合を象徴する意味合いが含まれていたのではないか、そして、ニワタリ信仰の原点も本来はそこにあったのではなかろうか、と考えるに至りました。
 例えば、全国各地に数多ある「白山神社」などは、「ハクサン」と呼ばれるものと、「シラヤマ」と呼ばれるものとがあって、後者は暗に被差別部落の神を指すという俗説の存在が民俗学的に指摘されているわけですが―前田速夫さん著『白の民俗学(河出書房新社)』参照―、これに類する事情が多賀神とニワタリ神の間にもあったのではないのでしょうか。
 二柱神社の宮司は、明治の世に多賀大社の御分霊を祀ることになった「仁和多利大権現」が、あえて「多賀」を冠さなかった理由について、「恐れ多いと考えられたのではないか」、としていたわけですが、“恐れ多い”という感覚の背景にはなにかやるせない事情があったのではなかろうか、と下衆に勘繰ってしまうのです。

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 それはさておき、白鳥や鷹がトーテムを指すものなのかどうかはわかりませんが、谷川健一さんの説を採用すれば白鳥は物部氏の示唆ということになります。
 その場合、鷹にはオホ氏の示唆を勘繰ってみるべきでしょう。
 オホ系氏族と思しき「石城(いわき)國造」が「多珂(たか)國造」と同族であったらしきことからすれば、十分妥当な想定と思われます。
 もちろん、白鳥がヤマトタケルの代名詞であることからすれば、それはオホ氏と被るところも大いにあるわけですが、ここはひとまず物部氏にあてはめておきます。
 何故なら、白鳥と鷹を明確に対比してみることでひとつの図式を浮き彫りにすることが出来そうだからです。
 例えば、柴田郡―宮城県柴田郡―の名神大「大高山神社」は、ヤマトタケルを祭神とする白鳥信仰の社ではありますが、「大鷹宮」という俗称からすれば、本来は鷹信仰の社であったと思われます。おそらく鷹信仰に白鳥信仰が上塗りされたのでしょう。
 つまり、先に陸奥の地に帰化していたオホ氏の色が、後発の物部氏の色に塗り替わったことを意味しているのだと思うのです。
 これは、多賀社にヤマトタケル伝説がつきまとっていることにも一脈通じるものがあると思います。
 想像をやや具体的に掘り下げるならば、白鳥に祖先の霊魂を重ね合わせる原始的な白鳥信仰の聖地たる仙台平野南部にオホ氏が進出し、それに伴いなんらかの意味を有するタカの言霊が持ち込まれ、同音の鷹への信仰が興隆したものの、後に物部氏が進出してきたことによってあらためて白鳥への信仰が第一義に復されたのではないでしょうか。

 考えようによっては、これはそのまま鹿島・香取の神にも置き換えられそうです。
 いみじくも、二柱神社の祭神は先に触れた伊弉諾(いざなぎ)神・伊弉冉(いざなみ)神のいわゆる多賀神に、武甕槌(たけみかづち)神・経津主(ふつぬし)神、すなわち鹿島・香取の両神を加えた四柱となっております。
 なにしろ先に触れたとおり、陸奥國における多賀神の分布は、鹿島・香取の苗裔神の分布とも重なります。
 鹿島神は言うまでもなくオホ氏でしょうが、この場合物部氏を示唆する香取神については、むしろ限りなくワニ氏に近い属性を想定しておいた方が自然かもしれません。
 香取神たる「経津主神」は、「石上(いそのかみ)神宮」の主祭神「布都御魂(ふつのみたま)」と同義であると考えられるわけですが、石上神宮の略史によればフツノミタマは物部氏の総氏神とされております。
 しかし、石上神宮の配祀神でもある「物部首(もののべのおびと)」の祖「市川臣命―日本書紀では市河―」は「春日臣―ワニ氏の裔族―」の一族であり、一説に霊剣「フツノミタマ」を神宝として物理的に納めた人物でもあります―『日本書紀』参照―。
 石上神宮が鎮座する布留(ふる)―奈良県天理市―の地の周辺が、大和盆地におけるワニ氏の根拠地であることを鑑みるならば、本来は物部氏というよりもむしろ春日臣、すなわちワニ氏の性格の方が強いのではなかろうか、とも思うのです。
 『矢本町史』は、「石巻桃生牡鹿地方、とりわけ矢本の地に大きな勢力をもっていたのは、大和の名族和邇(わに)氏の系統の者でなかったかと思われる」としているのですが、いみじくも、その傍証として、『延喜式神名帳』所載の牡鹿郡の式内社「鹿嶋御児神社・香取伊豆乃御子神社」の存在を挙げております。
 つまり、鹿島・香取系の神社を司祭する「中臣氏」を「和邇氏系の豪族」とする前提がそこにはあるのです。
 ここでの中臣氏を藤原鎌足の系譜と切り離して和邇氏として論じていることについてはさしあたり同調できるところではあるのですが、鹿島・香取の両神が単一氏族によって司祭されていたとみることには首肯がためらわれます。それについては、藤原氏の氏神に変質させられた後にその体になったもの、という認識が私の中にあるからです。
 しかし、ある意味で単一氏族と言い得るものなのかもしれない、という思いもなくはありません。
 何故なら、『先代旧事本紀』の巻五「天孫本紀」からは、香取の神を奉斎した物部氏が鹿島の神と関わっていく様子が理解されるようであるからです―安本美典さん監修・志村裕子さん現代語訳『先代旧事本紀[現代語訳](批評社)』―。
 これはすなわち鹿島・香取の同体神化とみることも出来ます。これを信じるなら、藤原氏が関わる以前に既に両神の異名同体化の傾向があったということでしょう。古くに常陸なり陸奥なりに進出したオホ氏の祭祀が、オホ氏自体の弱体化に伴い後発の物部氏ないしワニ氏の祭祀に取り込まれていった、ということなのかもしれません。
 このように、鷹信仰と白鳥信仰の相克、ないし融合は、オホ氏と物部氏、あるいはワニ氏の古代社会のそれを反映しているのではないのでしょうか。

 それが正しければ、陸奥大國造道嶋家を輩出した丸子氏をオホ氏の裔とみる私の仮説にも辻褄を合わせられるというものです。
 丸子氏について、私は、古くに鹿島御子神を奉斎して陸奥へと北上してきたオホ氏ではなかったか、と推定しておきました。陸奥に帰化した彼らが、中ツ臣氏族としての経歴を有するオホ氏宗家が零落した後、次代の中ツ臣氏族であるワニ氏の子部と化し、丸子(わにこ)氏を名乗ったのではないか、と考えたのです。
 牡鹿(おしか)連を輩出した丸子氏は、史料上、安積(あさか)郡―福島県郡山市周辺―にもその名を多く見られるのですが、奇しくも牡鹿・安積の両郡はニワタリ系の社寺が集中するエリアでもあるのです。
 特に牡鹿郡―宮城県石巻市周辺―に至っては、確認できる限りでニワタリ系社寺の最多集中エリアでありました。
 ちなみにニワタリ系の社寺は、管見ながら、福島・宮城の全域、及び岩手県南といった、すなわちほぼ古の陸奥國の内にしか見られません。
 それらを鑑み、私はニワタリを丸子氏がもたらした信仰と考えるに至るのです。
※拙記事『西の古四王、東のニワタリ』参照

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