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仙台平野の古代史

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 五世紀後半から六世紀にかけての仙台平野において、とりわけ広瀬川の南側で築造された古墳は、仙台市太白区大野田(おおのだ)周辺や、西多賀から大年寺山の麓にかけてのほぼ旧国道286号沿いに集中しております。
 現在、仙台市太白区の「地底の森ミュージアム」では「大野田・西多賀あたりの古墳」という企画展を開催しておりますが、まさにそれらの対象古墳です。再来週の日曜日―平成27年6月21日―までの企画のようなので、興味のある方は足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

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地底の森ミュージアム

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 さて、いわゆる西多賀あたりのそれらは往古の東街道であろうと思われますが、何故か活断層「長町利府線」とも重なり合います。その理由については以前私なりに推測しておきましたので割愛します。
 一方、「大野田(おおのだ)」の地名は、「王ノ壇(おうのだん)遺跡」の「王ノ壇」に因むと考えられておりますが、この地名は私が当地とオホ氏との関わりを勘繰る理由の一つでもあります。
 王ノ壇遺跡というと、どうしても名取郡の地頭北条氏にかかわるのであろう中世遺跡のイメージが先行します。
 中世遺跡は、北条氏の政所(まんどころ)と思しき屋敷を中心とした館跡と考えられます。
 『仙台市史』によれば、「少なくとも西辺を南北210m以上の全体区画溝で区画し、さらにその中を領主の屋敷を中心にいくつかの機能ごとに溝で区画されている」とのことで、「この中心区画の南側には名取川に注ぐと思われる水路に接し、物資の荷揚げ・集積場をもつと考えられる区画がある。さらに領主の館の北側には寺院の可能性のある区画が並ぶ」のだそうです。
 全体区画の外側には、隣接して浄土庭園を併設していたと思しき宗教施設や、多賀國府に通じていたのであろう奥大道と思しき幹線道路の遺構なども見つかっております。
 なにしろ北条氏が当地に館を構えたのは鎌倉政権発足後の話であるので、それ自体は六世紀前後の古墳群と直接関係するものではありませんが、私が注目するのは、浄土庭園を併設していたと思しき宗教施設の遺構です。
 ここからは、火葬されていない頭骨や、火葬骨を埋めた幅1m前後、長さ約20mの溝状の土坑、と、その上に阿弥陀堂と思しき仏堂、そしてそれと向き合う池らしきものがあったと推定されておりますが、重視すべきは、その施設が古墳の東半分を削り整備された庭園遺構であることです―※『仙台市史』には「西半を削り」とあるが誤りと思われる―。
 半分を削られていた古墳は「王ノ壇古墳」で、これが五世紀末から六世紀半ば頃のものと考えられております。何を隠そう、私はこの古墳こそが古くから「王ノ壇」と呼ばれていたものと考えます。

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 また、「奥大道」と目される幹線道の西側には、大野田古墳群の主墳と考えられる「春日社古墳」があります。
 この古墳の墳丘と周墓からは、形象埴輪、馬形埴輪、朝顔形埴輪、円筒埴輪の破片等が出土し、また、墳丘の頂部から見つかった二基の埋葬施設のうち、第二主体部南側から木製枠に動物の革を張り刺繍糸と漆で彩色された革盾が出土しました。
 さらに鉄矛一本と矢の先につけられる鉄鏃が30本出土しているようです。
 仙台市が設置している現地の説明板には、「出土した遺物から、5世紀後半から6世紀初頭に築造された古墳と考えられています」とありますが、「地底の森ミュージアム」で開催された企画展「大野田・西多賀あたりの古墳」における説明板やレジュメには「古墳時代中期(5世紀前半)と考えられています」とありました。
 ともあれ、周溝の内径32m外径47mは、円墳としては仙台市内最大のものであり、同時代の当地の首長の墳墓とみて間違いないことでしょう。

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 ちなみに、私の手元には、平成二十(2008)年七月十九日付河北新報朝刊の「砂押古墳 仙台最大直径25メートル円墳」という見出しの切り抜き記事があり、そこには「これまで市内最大だった春日社古墳(太白区、直径二十一メートル)を上回る」と記されてあるのですが、その後どういう顛末を経て未だに「春日社古墳」が最大とされているのかはわかりません。
 いずれ、この春日社古墳で私が注目するのは、その名にあるとおり、この古墳の上に春日神社が建っていたことです。
 もちろん春日神社は古墳の築造からだいぶ後世に建てられたものと考えるのが穏当でしょう。
 少なくとも、現在地に移転した春日神社の石碑に刻まれた由緒には、「古老の口碑により創建は永正二年中京より来られし藤原重保が春日大社を尊崇せられ勧請すと傳ふ」とあり、その勧請は永正二(1505)年であることがわかります。
 しかし、仮に後世であっても、この古墳の上に建てるべき祠の神は春日大社から勧請すべきと考えられたこと自体を重視するのです。
 このことにより、私は当該古墳群の被葬者が「春日」を代名詞にする「中ツ臣」氏族、すなわちワニ系氏族かオホ系氏族と考えました。

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春日神社
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 何故この社の主祭神が「天児屋根(あめのこやね)命」であるのに、その裔族である藤原氏と考えなかったのかというと、藤原氏が仙台平野において勢力をふるい始めるのは八世紀以降に当地が律令に組み込まれてからと考えているからです。おそらく「天児屋根命」は「春日神社」という社名からの後付の祭神ではないでしょうか。
 そもそも「春日大社」は、藤原氏の氏神である前に、鹿島大神、すなわち常陸―茨城県―のオホ系氏族の氏神を勧請した社であることを忘れるわけにはいきません。
 五世紀頃に朝鮮半島から持ち込まれたのであろう「須恵器(すえき)―陶(すえ)器―」が、それまでのヤマトで生産されていた「土師器(はじき)」と決定的に違うのは、「窖窯(あながま)」を用いることです。窖窯とは、斜面にトンネル状の登り窯を造ったものです。
 土師器は野焼き、すなわち酸素が十分に供給される地表で焼き上げられるわけですが、須恵器は地下ないし半地下で酸素の供給が不足する閉ざされた窖窯で焼き上げられます。この方法だと地表よりもかなり高い温度で燃焼が進み、窯内部の酸素が不足することによって燃料からは二酸化炭素ではなく一酸化炭素が発生し、それが原料の粘土に含まれる酸化物をいい具合に争奪してくれて、より強度を高めてくれるらしいのです。

 『仙台市史』によれば、大王墓が集中する大阪平野南部の「陶邑(すえむら)古窯群」と呼ばれる大規模な須恵器生産地は、それを必要とした畿内政権のもとに組織されたものと考えられているのだそうです。

 余談ながら、このあたり極めて基礎的な部分で私の頭の中に葛藤があります。
 陶邑の地名は、はたして陶器―須恵器―の生産拠点であったが故にそう呼ばれるようになったのか、それとも逆に、陶邑が主生産地であったがために新技術による土器が地名を冠して陶器―須恵器―と呼ばれるようになったのか――。
 鶏が先か卵が先かみたいな葛藤ですが、これが案外重要で、解釈によっては編年の基準に影響を与えかねない部分となります。
 以前は単純に前者、すなわち、陶器―須恵器―の生産拠点であったが故に地名も陶邑になったものと捉えて疑問にすら思っていなかったのですが、ふとそれが矛盾をはらむ解釈であることに気づいたのです。
陶器の技術が持ち込まれたのは五世紀とされているわけですが、陶(すえ)を通じて辛島氏と回路があったと目される八幡信仰の仕掛人、「大神比義(おおがのひぎ)」の祖たる「大田田根子」は、『日本書紀』によれば人皇10代「祟神天皇」によって“陶邑”から招かれたとされておりました。
 問題はそこです。
 祟神天皇は一般的に四世紀初期の大王と考えられております。三世紀にまで遡るとする説すらあります。このあたりの年代設定は、間接的に邪馬台国論争にも影響するのでややバイアスがかかりかねないデリケートな部分でもありますが、少なくとも祟神天皇が五世紀以降の大王ということはまずあり得ないでしょう。
 仮に大田田根子の登場譚における陶邑が八世紀の『日本書紀』編纂時点の地名を用いただけなのであろうと考えてみたにしても、大田田根子の母の「活玉依媛(いくたまよりびめ)」が「陶津耳(すえつみみ)」の女(むすめ)であったということ、すなわち祟神天皇の時代に既に“陶”を名乗る一族が存在していたという部分については未解決のまま残ってしまいます。
 したがって、須恵器がヤマトに持ち込まれた年代も大田田根子の登場譚も信ずるならば、陶邑(すえむら)の地名は須恵器に因むものではない、と言っておくしかなくなります。
しかしどうなのでしょう。
 思うに、創作とまでは言わずとも、大田田根子登場譚のどこかに五世紀以降の情報の混乱、ないし後付の要素があるということなのではないのでしょうか。

 さて、件の陶邑窯は古墳時代を通じて列島の須恵器生産の中心の位置を占め続けていたようですが、その生産地はやがて地方へと広がっていったようです。
 しかし、関東や東北地方の集落から出土した古墳時代の須恵器の量はさして多くはないようで、『仙台市史』は、「(両地方において)須恵器生産が定着するのはかなり遅れてからであった」、としております。
 一方で同市史は、「そのようななかで、仙台市内では、全国的にみても古い時期の窯跡が見つかっている」、とも語ります。
「大蓮寺(だいれんじ)窯跡―宮城野区東仙台六丁目―」や「金山(かなやま)窯跡―太白区西多賀一丁目―」などがそれのようです。
 仙台市のHPによれば、大蓮寺窯跡は、古墳時代中期中頃の窯跡、飛鳥時代末から奈良時代前半の瓦・須恵器の窯跡、奈良・平安時代の窯跡の三時期に分けられるそうですが、そのうちの最初期、古墳時代中期中頃―五世紀中頃―のそれは、現時点における東北地方最古の須恵器窯跡になるようです。
 ただし、出土する器種からみてこれらの窯は古墳の築造に伴い古墳で使われる道具を作ることが主な目的であったと思われますから、操業期間は短く、一時的な生産で終わってしまったものとも考えられるようです。

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 興味深いのは『仙台市史』の次の考察です。

―引用―
〜仙台平野の集落遺跡からは、同時期の土師器と同じ形で、同じ作り方で作られ、焼き方は須恵器と同じ土器が、数ヵ所の遺跡で見つかっている。このことは、須恵器生産に際して、土師器を作っていた人びとが動員された場合があったことを示している。

 古墳時代中期とあらばまだヤマトの直接支配が及んでいたわけでもないでしょうし、基本的には先住の土師器職人が新参の須恵器職人から窖窯の技術を会得してそれが拡散したのでしょう。
 旧技術の痕跡がさしたる段階を経ないままに新技術の痕跡に塗り替わっている場合、つい、先住民が駆逐されて新興集団に入れ替わってしまったかのようにも見えてしまいますが、必ずしもそうではないことを示す例かと思います。同一土民であっても、より優れた手法を知り得たならばそれに切り替わっていくのが自然の摂理と言えるでしょう。土師器職人らは陶(すえ)膳食わぬは男の土師(はじ)とばかりに積極的に新技術を吸収していったのだと思います。

 仙台平野では、四世紀末頃、すなわち古墳時代の前期に「遠見塚(とおみづか)古墳」や「雷神山古墳」といった東北最大級の前方後円墳が築造されたわけですが、それらの動きは五世紀前半に途絶したと考えられます。
 その途絶期を経て、古墳時代の後期、すなわち五世紀の中ごろからは東北地方南部全般にあらたな古墳築造の動きが現れます。
 仙台平野におけるそのムーブメントでは、前期のような大型の前方後円墳はみられず、それまで古墳の築造がみられなかった広瀬川の南側において、前方部が未発達ないし帆立貝形など、河内の大王墓周囲の陪塚(ばいちょう)などにみられるような一段階格式の低い形での古墳の築造が顕著となってきます。
 『仙台市史』は、「五世紀前半の途絶期を挟み、前期とは異なる場所での古墳の築造がみられることは、以前とは異なる首長層が台頭してきたか、あるいは、首長層と畿内政権との関係が、前代とは異なるものとなった可能性を示している」と分析しております。
 このあたり、私は、仙台平野の新しい首長層としてオホ氏が進出してきたものと考えております。

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