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7、上岡・下岡の東明神・西明神 『鹽松勝譜』によれば、瑞巌寺の北には、上岡・下岡と並び称される一対の岡があり、その両岡の上には祠があり、各々東明神・西明神と言われ、それらは貴船祠と加茂祠とされていることです。 特に上岡は金毘羅山とも呼ばれていたらしいので、であればおそらくは現在「新富山」と呼ばれているところの岡がそうであろうかと思います。なにしろその頂には金毘羅神社があります。ただしこれが上岡の東明神を指すものか否かについては未確認です。 いずれ東明神たる貴船祠の祀るところは、京都鞍馬のそれと同様、水神の高龗(たかおかみ)神であるようで、一説には北斗星を祀るともされていたようです。 一方の西明神たる加茂祠の祀るところは、建津見命と別雷命の二神、すなわち賀茂建角身(かもたけつぬみ)命と、その孫たる賀茂別雷(かもわけいかづち)命のことでしょうが、いずれも山城賀茂氏の始祖であり、いわゆる下鴨神社・上賀茂神社の祭神ということになります。 あるいはもしかしたら、そのまま上岡・下岡の一対をもって下鴨神社―賀茂御祖(かもみおや)神社―の東西両殿を成立させていたのかもしれません。 京都の下鴨神社は、東殿に玉依姫を祀り、西殿に賀茂建角身―八咫烏(やたがらす)―を祀っているわけですが、しいて言えば、何故、松島下岡の西明神に玉依姫の名が含まれていないのかは気になります。人皇初代神武天皇の母ということで憚られたものか、あるいは上岡東明神たる貴船神、すなわち高龗神をもって玉依姫とみられていたのでしょうか。 補足をしておきますと、貴船社は近世以前には上賀茂社の摂社とされておりました。現在のような独立した社になったのは明治以降のことといいます。 とはいえ、なにやら11世紀の水害で被災した際のどさくさに上賀茂社の摂社とされてしまった歴史があるようで、現在のかたちはむしろ旧に復されたものということであるのでしょうが、江戸時代の思想展開を窺い知る上では、当時には必ずしもそうみられていなかっただろうということを念頭に置く必要がありそうです。 ところで、この上岡・下岡、すなわち、貴船・下鴨の組み合わせが、仙臺藩主四代伊達綱村によって改築される前の鹽竈神社境内に祀られていた貴船・只洲(ただす)と同じ組み合わせであることに気づきます。只洲が京都の下鴨社境内の「糺(ただす)の森」に由来する言霊であることは言うまでもありません。 さすれば、単に鹽竈神社境内の社殿配置という器だけの問題にとどまらず、そこに内在するなんらかの思想そのものが鹽竈神社の外部の松島湾全域をも巻き込んで展開していたということを想定せざるを得ません。 特に、綱村による元禄縁起の制定時に鹽竈神社の別宮と化した可能性が残る貴船については、鹽竈神社「社誌」の「鹽社由来追考」―『鹽竈神社史』所収―に、「或傍説ニ云、貴船ハ当宮ノ地主ノ神タル由」と、これを塩竈の地主神とする信仰が存在していたことを思い起こされます。 往古塩竈といえば松島湾をも含む概念であったわけですが、貴船が塩竈の地主の神であるならば、松島の総地主とされる葉山神との関係を如何に咀嚼すべきなのか、また、ここにあえて混乱を免れ得ない情報をひとつ蒸し返すならば、貴船たる上岡東明神が一説に北斗星を祀るものであるとも『鹽松勝譜』にありました。 ここでの北斗星が北斗七星のことであるのか北極星のことであるのかは定かでありませんが、全天の中心に位置する北極星を造化三神の一である「天之御中主(あめのみなかぬし)」と説く北辰妙見信仰なりの影響が透けてみえてきます。 天之御中主神は、現在松島高城に鎮座する「紫神社」の祭神とされているわけですが、何を隠そう、その紫神社は古く「松島明神」と呼ばれておりました。 松島明神はかつて上岡・下岡にほど近い蛇ヶ崎に鎮座しておりましたので、情報になんらかの混乱が生じたのでしょうか。 天之御中主を北辰・妙見と結びつける信仰形態はおそらく伊勢外宮の度会氏による『神道五部書』などの影響を機に中世以降に隆盛したものと考えられます。 しかし松島明神は、西行や義経の伝説にみるごとく、少なくとも奥州藤原氏時代には松島を代表する神であったわけであり、それ以前の安倍宗任ですら配流先の筑前大島にて崇敬していたことを鑑みるならば、これは総地主とされる葉山権現と並ぶ松島最古級の神祀りとみるべきでしょう。したがって、天之御中主を祭神とみるには妙に新しすぎる違和感も残ります。 なにしろ、全てを素直に受け入れてしまうと、貴船神=鹽竈神=塩竈の地主神=松島の地主神=葉山神であり、貴船神=上岡東明神=天之御中主=紫明神=松島明神ということになってしまうわけですが、少なくとも天之御中主については、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝の論功行賞によって高城地区を所領した相馬氏の妙見信仰が混入したものとみるのが妥当ではないでしょうか。
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鹽松勝譜をよむ
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6、松島葉山神祠の山上の怪異
『鹽松勝譜』によれば、松島陽徳院西北の山の上には遠喜津彦神命と遠喜津姫命の二神が祀られている祠があり、土人はこれを葉山権現と称しているとのことです。 松島陽徳院は、仙臺藩祖伊達政宗の菩提寺瑞巌寺の北東に隣接する「陽徳院」、すなわち政宗の正室「愛姫(めごひめ)」の菩提寺のことです。 遠喜津彦および遠喜津姫の「遠喜津」はおそらく「おきつ」と訓むのであり、すなわち「沖津」ないし「興津」のことでしょう。 これを祀ったのは醫生―医師ないし薬師―の眞山玄川、すなわち眞山一族の者で、「祠ハ即松島土地神ナリ」ともありますから、この葉山権現が松島の総地主と伝わるところの葉山神社のことであることは間違いありません。 『鹽松勝譜』によれば、この葉山神社が鎮座する山上には常に怪異が多かったようです。 時に、天狗の舞をみることもあり、故に祀る者は必ず斎戒した後に行なっていた、とのことなのです。 天狗の舞については、修験の徒の超人的な動きが見紛えられたまま伝わった可能性もあろうかとは思いますが、常の怪異とは具体的にどのような現象を指していたのでしょうか。 以前私は、天台延福寺―瑞巌寺の前身―など松島に於ける慈覚大師円仁伝説の発火点は山王権現―日吉神社―にあるものとみて、これは当地の総地主とされる葉山の神が朝廷の王民化政策ないし慰撫政策によって変質せられたものではなかったか、と推測しておきました。 もしかしたら土人は、葉山神がそれに対して怒っていると忌み恐れ、怪異の噂を生み出していったのではないのでしょうか。眞山氏はその意を受けてここにあらためて祠を設けたのではないでしょうか。 眞山氏の陸奥土着は元弘年中(1331〜1334)とみられるわけですが、その眞山氏によって開かれた葉山神が、天長五(828)年には天台教団によって勧請されていたであろう山王権現を差し置いて松島の総地主と考えられてきたというのは極めて不自然なことです。 しかし、眞山氏が山王権現に変質せられた古来の地主神の再興を図ったものと捉えるならば、辻褄が合うというものでしょう。 |
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5、先代旧事本紀大成経のこと 『鹽松勝譜』には、『先代旧事本紀』から引いてきた旨を明記した部分が少なくとも二ヶ所あります。 いずれも、松島湾の雄島に触れたくだりですが、例えば二ヶ所目のそれは以下のとおりです。 ―引用― 先代舊事本紀ニ曰ク。陸奥ニ至リ松島ヲ見ル。又海中ニ奇島アリ。往昔日本武尊此島ニ至ル。國首國民之ヲ宗ンテ御島ト言フ。上宮太子ノ國風ニ曰ク「松島哉御島者不見止日標方之月之都之外于尋者」彼ノ書ノ妄ハ前巻己ニ云々ス今復贅セス なにやら、ヤマトタケルが松島に来たことになっております。 そして、上宮太子、すなわち聖徳太子の詠んだ國風(くにぶり)―諸国の風俗歌―もあったとされているとのことですが、舟山萬年はそれらが妄説であると釘を刺し、その理由については既に前巻で触れているので殊更に繰り返さない旨を述べております。 しかし、そもそも『先代旧事本紀』の中にそのような記述など存在しただろうか・・・。少なくとも私の記憶にはありません。 いぶかしく思った私は、安本美典さん監修、志村裕子さん訳の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』を引っ張り出して、ヤマトタケルの譚を確認してみました。 すると、やはりというべきか一通り斜め読みしてみた限りではそのような記述はみられません。 そもそも、もしそのような記述が史料に残されていたのであれば、ヤマトタケル上陸地の「竹水門(たかのみなと)」を松島湾の「竹城保―高城(たかぎ)―」のことと推測する昭和35年版『松島町誌』は、そこに2ページ強もの紙数を割かずともよかったことでしょう。 ともあれ、妄説たる理由を解説しているという“前巻”の記述をみてみます。 ―引用― 或ハ曰ク先代舊事本紀。一名大成經中コロニ載セテ曰ク。豊聰王此ノ地ニ到リ。國風ヲ賦スト。而シテ此書ハ即チ豊聰王自撰スル所ニシテ。其達磨ヲ待所ト為ス者。徴アリト為サルヲ得ンヤト。余曰ク然ラス彼ノ舊事本紀ノ書ハ。上州黒瀧ノ僧。潮音ナル者ノ僞作スル者ニシテ。先賢既ニ其妄ヲ駁セリ。而シテ近コロ多田義俊氏。辨明詳悉セリ。子未タ之ヲ深考セサル耳。其人唯々。蓋シ松島ハ此地ノ統名ニシテ前海後山。南ハ鹽浦ニ接シ。北ハ磯崎ニ隣リ。雄島ヲ右ニシ。五大堂ヲ左ニシ。寺観・浮屠山麓ナリ。〜 『先代旧事本紀大成経』―以下:大成経―の焚書発禁事件のほとぼり冷めやらぬ時代にあって、大成経を「辨明詳悉」していたという「多田義俊」なる人物にも興味が湧いてきますが、ここで最も注目しておきたいのは、「一名大成經」という補記です。 度々引用されている『先代舊事本紀』―以下:旧事紀―は、なにやら徳川幕府から焚書発禁に処された大成経を指していたようです。 舟山はここで滔々と旧事紀の妄たる旨を説いているわけですが、「上州黒滝ノ僧潮音ナル者ノ偽作」などという逸話は紛れもなく大成経にしかあてはまらないものです。 もしかしたら、比較的史料としての評価の高い旧事紀10巻本と、トンデモ本として表社会から葬られた大成経72巻本との区別が舟山にはなかったのかもしれません。 ただそもそも、その時代には旧事紀10巻本自体の評価も低かったようです。 例えば、先の『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』において安本美典さんは、旧事紀本文の最終編纂者は平安時代(833〜834年頃か)の興原敏久(おきはらのみにく)であろうとみているわけですが、聖徳太子の撰禄云々とする旧事紀の序文は、「興原敏久の編纂時にあったわけではなく、さらに後世につけくわえられたものであろうと考えられる」、とした上で、次のように語っております。 ―引用:『先代旧事本紀 現代語訳(批評社)』― 『先代旧事本紀』の「序」の文は、『先代旧事本紀』の信用をいちじるしく毀損するものである。このようなことがあるため江戸時代以降、『先代旧事本紀』偽書説がおきる。しかし、『先代旧事本紀』についてくわしい考察を行った国学院大学の鎌田純一教授が、『先代旧事本紀の研究』(吉川弘文館、一九六二年刊)のなかでのべておられるように、『先代旧事本紀』の「本文」じたいには、とりたてて偽書と疑うべき根拠はない。編纂時まで、存在した諸文献を、物部氏の家記編集という立場から、まとめなおした本というような形をしているのである。 もちろん旧事紀と大成経を混同している舟山はそれ以前の問題でありますが、大成経が禁じられた書であったことを鑑みるならば、焚書発禁後の人物である舟山がその内容を認識していたこと自体がむしろ奇跡であったのかもしれません。 それはともかく、実は旧事紀のみならず、舟山が触れているようなヤマトタケルの松島譚は私が探した限りでは大成経にも確認できておりません。 確認に用いたのは、宮城県図書館書庫内資料の『神道大系 先代舊事本紀大成経(神道大系編纂会)』(武田本)ですが、全文漢文であり、私の読解力が低いがために見落としている可能性も否めませんが、少なくとも神皇本紀の垂仁天皇から、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后までの、すなわちヤマトタケルを指すところの、小碓(おうす)尊、日本童男(やまとおぐな)尊、日本武(やまとたける)尊の登場譚の前後を含む41ページ、400字詰原稿用紙にして約130枚相当約五万文字はあろう漢字の羅列に目を通してみた限りで、「松島」の文字を確認できていないのです。 同書の小笠原春夫さんによる解題によれば、小笠原さんが確認した延宝四(1676)年、ないし同七(1679)年の刊記のある版本は、1頁17字詰8行で、神道大系の同書の元となった武田本のそれとおおよそ等しいとみられるようなので、もしかしたら舟山の知る旧事紀はいわゆる大成経72巻本ですらなく、鷦鷯(ささき)伝31巻本など私の未確認の異本、あるいは二次的三次的に発生した正真正銘のトンデモ本なのかもしれません。 東鹽氏の傳といい、舟山は一体どこからそういった地下鉱脈的な情報を収集していたのでしょうか。 |
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少しおさらいをしておきます。 同じ東鹽氏の傳を引用しているはずの舟山萬年の『鹽松勝譜』と遠藤信道の『鹽竈神社考』でありましたが、共通の時事に触れた唯一のくだり、すなわち明応年間(1492〜1500)の留守氏による鹽竈神社の社殿造営の顛末に関して、両者はまるで正反対の結末を記しておりました。 舟山は鹽竈社のみが造営されたとし、その傍らには他へ遷された貴船・只洲の小祠が配祀され、多賀社は鹽竈社に合祀されて廃滅した旨を記しておりました。 つまり、目に見える構成としては、新しい一拝殿一本殿の鹽竈大神の社殿の脇に、貴船と只洲の祠が並ぶかたち、すなわち、貞享三(1686)年頃に描かれた「塩竈大明神絵図」のかたちに近いものであったということになるのでしょうか。 それに対して遠藤は、先に多賀社の仮宮が造営された後、牡鹿島の地に祀られていた留守家の守護神たる木舟・只洲の新宮を一森山に造営し、木舟宮―貴船宮―に鹽竈神も合祀された旨を記しておりました。 したがって目に見える構成としては、鹽竈神を合祀した新しい木舟と只洲、そして多賀の仮宮が境内に並んでいたということになるのでしょうか。 仮に木舟宮の規模が只洲の宮や多賀の仮宮よりも一回り大きく、多賀二宮が一棟であったのならば、もしかしたら、見た目だけは舟山の説くところと同じなのかもしれません。 しかし、舟山の説くところと遠藤の説くところとでは、特に鹽竈神と貴船の主客が逆転しているわけで、祭祀のかたちとしてははっきり異なります。 何故こうも異なる話になってしまうのでしょうか。 思うに、おそらくは鹽竈神に対する考え方の違いがそのまま東鹽氏の傳への解釈の齟齬につながっているのでしょう。 東鹽氏の傳は、遠藤にとっては絶対的な経典の如きですが、舟山にとっては『封内風土記』などと同列に参考資料のひとつにすぎない印象があります。 なにしろ舟山は、東鹽氏の傳なり『封内風土記』の記述をひきながらも、基本的には佐久間洞巌の説をとっているものと思われます。 具体的には、「鹽竈神廟」の項に「而ルニ世遠ク時邈トシテ傳フル所ノ神號。其説紛々一定シ難シ。且神祠ハ本山下神釜ノ處ニアリシカ」と、「神竈祠」の項にも「蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ神釜ヲ以テ神ノ體トナスト」と所見めいたことを記しており、鹽竈神を御釜神のこととみていたフシがあるのです。 そして、もしかしたら舟山は貴船社を鹽竈神の同体異称とみていたのかもしれません。 何故なら、江戸時代には貴船=別宮=御釜神という概念が比較的根強く浸透していたフシがあるからです。 御釜神は、竈守の家である鈴木氏の奉祀するものでありますが、後の別宮一禰宜男鹿島太夫はその同族とみられます。 『鹽竈神社史』所収の「貞享四年御宮會所席:志賀家社列書上並留書」には、その男鹿島氏が「貴船一禰宜」に位置づけられており、別宮の創設にともない消滅した貴船宮と混同され得る要素を十分に孕んでおります。 それはすなわち一森山に只洲宮を持ち込んだとされる鎌田氏の家伝とも共通します。鎌田氏は、貴船を塩竈浦に降りた龍神で塩竈の地主神としておりました―拙記事:「鎌田氏の衝撃的な秘伝」参照―。 であれば、遠藤がそれを踏襲し得るわけがないのです。 何故なら遠藤は、鎌田氏の妬みによって國別鹽竈大神の神裔たる東鹽家が貶められたと嘆いているからです。 遠藤は、別宮が建立されることとなった四代藩主伊達綱村プロデュースの元禄の造営―完成は五代吉村襲封後の宝永元(1704)年―のくだりで次のように語っております。 ―引用:『鹽竈神社考』― 〜木舟只洲の兩宮をば外へ遷し奉り。別宮には國別鹽土大神を鎮め奉り。左右兩宮には。建甕槌・経津主二大神を鎮奉りしとぞ。【此時別宮に鎮め奉りし。大神は必國別鹽土翁神・妹國別日東吾妻神を合わせて。二柱の大神にますへきを。其傳詳ならぬはいと朽惜しきことにそありける。もし妹神を合わせて二柱にませしを。たゝ鹽土大神一柱をのみ。祭りし來し事になりたらんものならましかは。云巻も齋々しく。最も畏き事にこそ。只洲宮は今當郡國分古内村にありて。社傳には元禄九年迂坐とあり。此は此年當社より遷し奉りしものにや。或は寛永年間假に外へ迂し置奉りて。此年今の地に新宮造奉りて迂し奉りし者にや。詳ならねとも。當社より遷し奉りしことは疑ひなし。木舟宮の事は殊に詳ならず。當郡市川村に此宮の小祠ありて當社より遷し奉りし由云者あれとも覺束なし。】 ここで、私が注目しているのは、次の二点です。 1、別宮の創設にともない、只洲とともに一森山の外へ追いやられたはずの木舟のその後が詳らかではないこと ※注 2、別宮には、國別鹽土翁神と、その妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき、と遠藤が口惜しがっていること まず1についてですが、おそらくはこれ故に木舟が別宮に合わせ祀られたという憶測を招き、両者が混同される要因となったのでしょう。 いえ、憶測などと切り捨ててはいけないかもしれません。 なにしろ、共に一森山を追われた只洲が、只洲一禰宜只洲太夫たる鎌田氏ともども古内村に移ったことが明確であるのに対し、木舟のそれは今一つ詳らかならぬままに貴船一禰宜の男鹿島太夫鈴木氏は別宮一禰宜に転じて社家として残っているのです。 別当法蓮寺の住持の著述であろう「鹽社由来追考」には、「元禄年中、只洲宮ハ下鴨ニ、貴船宮ハ上賀茂ニ勧請シテ、古内村ニ遷座シ給フ」とある一方、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時従五位下也)竝同宮の神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之。貴船ノ神子ヲ先達神子ト名ツケ〜」ともあります。 さも只洲宮とともに古内村に遷されたかにも見えますが、当の旧古内村の賀茂神社の境内案内には、上賀茂社の祭神は別雷命とのみあり、いわゆる貴船の水神とされる「高龗(たかおかみ)神」はもちろん、『鹽松勝譜』の「貴船神祠」項に記されたところの「天神立神命」なり「天船主命」といった件の貴船の要素は見受けられません。 思うに、もしかしたら鹽竈の木舟宮は社家内部の水面下で暗黙に鹽竈大神そのものと見られていて、それ故に明文化を憚られながら秘密裏に別宮として生まれ変わったのではないでしょうか。 遠藤の文中、木舟の遷座先と俗伝された市川村の小祠とは多賀城政庁の西に隣接するそれのことでしょうが、少なくとも10年前には、現地の説明板に次のようにありました。 ―引用:現地説明板(多賀城市教育委員会)― 今からおよそ三百八十年前、慶長十二年(一六〇七)年藩祖伊達政宗公により奥州一の宮塩釜神社の社殿造築が成され、この時、塩釜神社が御釜神社の所から現在の境内に遷宮されたのに伴い、貴船、糺二神がここに配祠されたのである。 その後、江戸時代の元禄年間に四代伊達綱村公による塩釜神社改修がなされた。このため糾神社は仙台城北の古内邑(泉市八乙女)に、貴船神社は市川村の現在地に遷宮されたのである。 なにやら、『鹽松勝譜』なり佐久間洞巌らの御釜神社鹽竈神起源説を前提に書かれているわけですが、先日、確認のために現地を訪れてみたところ、既にこの説明板は撤去されておりました。 代わりに、新たな説明板が設置されておりましたが、そこには件の内容がみられませんでした。なんらかの事情で多賀城市教育委員会が思い直したのでしょうが、その理由を知りたいところです。 さて、引き続き、2について語ります。 遠藤が、國別鹽土翁神とその妹の國別日東吾妻神の二柱が祀られるべき旨を力説するところのこの國別大神二神ですが、思うに「國別(くにわけ)」とは、「國分(こくぶん)」の示唆ではないのでしょうか。 東鹽氏なる社家は、『留守分限帳』の記す「宮さと(宮うと?)の人数」、すなわち天文年間頃の鹽竈神社の社人名簿にはみられませんし、それ以降の伊達家の記録においても見受けられません。 遠藤の説くところを信ずるならば、東鹽氏は留守氏や鎌田氏との折り合いが悪く、貶められて零落していったようなので、それ故に天文の頃には既に社人の列からは省かれていた可能性もありますが、山下三次がその存在を疑う所以でもあります。 何某かの社人が、名を変えて憚られる内容を後世に残したことも考えられますが、國別大神の神裔という属性からすると、もしかしたら鹽竈神社に対してなんらかの思惑を抱いていた陸奥國分氏プロデュースの裏コンテンツだったのではなかろうか、などとも想像するのです。 ただ、舟山の『鹽松勝譜』にはその存在はみられず、したがって、「國別大神」が本当に東鹽氏の傳に登場していたのかどうかもわかりませんが、その正否に関わらず、私が注目したのは、「妹・國別日東吾妻神」と頭にいちいち特記されている「妹」という属性です。 何故「妹」なのでしょう。 もしかしたらこれは、長髄彦―登美毘古―の妹「鳥見屋媛(とみやびめ)―登美夜毘賣―」の示唆であり、すなわち、少なくとも遠藤信道が経典のごとく信奉した「東鹽家秘録」なるものを記した者は、鹽竈大神たる國別鹽土翁神が長髄彦であることを遠回しに表現していたのではないのでしょうか。 ※注:仙台市泉区小角の貴船神社が鹽竈神社から遷ったそれであるという説も、『泉市誌』や近隣同区実沢の熊野神社HP記載の由緒にみられるが、真偽は不明。同社の棟札には安永六(1777)年とあり、同区加茂に遷された只洲―賀茂神社―の棟札が80年前の元禄九(1696)年と同十(1697)年であることを鑑みるならば、私は後世の何者かが貴船社の遷座先が不詳なことを嘆き祀ったものとみる。神殿の紋章が留守家のそれである―泉市誌―ことからすれば、由緒も含めたプロデューサーは留守氏であろうか。
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『鹽松勝譜』所載の『東鹽氏傳』の逸文らしきくだりを前後の文脈も含めて眺めてみます。 ―意訳― 延喜式神名帳に載る宮城郡四座の一となる多賀神社は、武甕槌命・経津主命の二神を祀り、すなわち今の鹽竈神社左右宮がこれにあたる。 往古武甕槌命は浮島にあり、故に浮島明神と呼ばれてきた。 一方の経津主命は多賀崎にあり、高崎明神と呼ばれてきた。わずか百余歩しか離れていない両社の鎮座地は、往古多賀城の砦の内であったが、多賀城が廃された後、城域は市川・浮島・多賀崎の数村に分けられ、多賀崎は高崎とも表記された。故に経津主命は土人から高崎明神と呼ばれたのである。 鹽竈神社の縁起によれば、今の鹽竈神社は多賀國府にあったという。 すなわち、武甕槌・経津主・鹽竈神の三柱が多賀國府内に天降ったが故に多賀神社と號されたというのである。『封内名蹟志』は、多賀神社は今の鹽竈一之宮のことであり、郷説にいうところの浮島明神のことであるという。※舟山萬年自身は佐久間洞嚴の説をとり、政宗時代以前の鹽竃神社は御釜社のところにあったのだろうとみている。 旧祠官の東鹽氏の傳によれば、明応中(1492〜1500)、鹽竈神社、及び多賀両社は、共に損壊していた社殿の建て替えを領主である留守氏に申請した。 しかし留守氏は特に鹽竈神社を営み、浮島・多賀崎の両社を遷して鹽竈神社に合祀した。又、貴船祠を利府に、只洲祠を加瀬に移し、小祠を鹽竃社の側らに配祀した。それ故か六社の称もある。いずれ、これによって式内多賀神社は永廃することとなった。現存する祠は、各々の跡地に村人が祠を建てて祀っているものである。然るに、現在の多賀神社はその旧称を継承したもので、多賀崎のそれは更に神明祠とも称している。 〜中略〜 『東鹽氏傳記』所載の「多賀神社古祭礼」によれば、例年三月二十六日には宮城一郡の士が多賀城に一同に会し、翌二十七日には会するところの士を二軍に分けて、片方を神軍、もう片方を賊軍に見立て、各々に将帥を立て、神軍は武甕槌命・経津主命・岐神の三神輿と、神庫に秘蔵された神代より伝わる天盤砂劔・十束知劔・八束利劔の三神劔を奉じて賊軍に向かう。両軍兵刃交わらば、賊軍甲冑を捨て、兵を率いて遁走し、舟に乗る。神軍これを追って塩竈に至り、舟で宰相島に至る。宰相島に上陸した神軍は、大きな鬨(とき)の声を三呼し、凱旋する。これが多賀神社の例祭であり、少なくとも奥州藤原氏の時代まではこれを行っていた。三代秀衡の子、和泉三郎忠衡等がこれを奉行していた事が古記にみえる。 すなわちこれは、太古二神―武甕槌・経津主か?―の夷賊征討に因むものである。 しかし、留守氏の時代に至ってこの例祭は全廃された。 以上が、ひととおり目を通してみた限りでの『鹽松勝譜』における東鹽氏の傳の全容、及びプラスαです。
後半の多賀神社の神事は、他の史料にも先の遠藤信道の『鹽竈神社考』においても全く語られていないものであり、貴重です。奥州藤原時代までこの神事が執り行われていたという情報にはなにかしら示唆めいたものを感じますが、それはまた後に触れたいと思います。 いずれ、多賀神社にまつわる顛末が先の遠藤信道のそれと大いに食い違っていることは気になります。 遠藤は、留守氏による明応年間の造営の際、木舟只洲の二宮と多賀の仮宮のみが建てられて、國別大神、すなわち鹽竈大神の宮の建て替えについては、留守家重臣鎌田何某の妬みによって頓挫した旨を説いておりました。 しかし、この舟山萬年の『鹽松勝譜』では、むしろ鹽竈社のみが留守氏に顧みられ、鹽竈社に合祀されたとされる式内多賀社はここに永廢した旨が語られているのです。 引用元は同じのはずですが、全く正反対の話になっているのです。これは如何に解すべきでしょうか。 仮になんらかの隠蔽された事実があるとするならば、遠藤なり舟山なりが、それを掘り起こして正確に伝えていく方向に向き得るものか、あるいはその曖昧さを利用して鹽竈神社に益する方向に向き得るものかを見極めることは重要です。 とはいえ、その判断は極めて難しいものがあります。 しかし少なくとも、鹽竈神社の所伝の継承に関して、その当事者たる遠藤信道が、第三者の舟山萬年に比べて主観的であったことは疑う余地もないでしょう。 逆にいえば、仮に真実が捻じ曲げられていようとも、別当法蓮寺や仙臺藩から睨まれるリスクを背負ってまでその是正を訴える必然性など、少なくとも舟山萬年にはなかっただろうということでもあります。 それらの可能性を鑑み、かつ東鹽家の古文書の実在を前提としたうえで考えるならば、舟山が淡々と記しているような多賀神社に関する廃滅譚を、遠藤がなんらかの思惑があって國別大神なり東鹽家のそれにすり替えたものかもしれません。 あるいは、遠藤の説くところこそが社家に内々に伝わる本来の秘伝であり、東鹽家の古文書にはそれが反映されていなかっただけなのかもしれません。 そして、舟山はそれを原典としてそのまま引用したに過ぎなかっただけなのかもしれません。 江戸時代の舟山萬年、明治期の遠藤信道といった時代を超えた両者によって引用された東鹽氏の傳の内容を、最大公約数的に推定するならば、塩竃の地における鹽竈神社の“かたち”が、明応年間の留守氏による当地への式内多賀神社の遷座劇によって大きく変革した、といったところでしょうか。 ただここでひとつ釘を刺しておきます。 この流れだと、鹽竈神社が延喜式神名帳に記載されていないのは、その本質が宮城郡の式内多賀神社であったから、などともなりかねないわけですが、件の多賀社は式内社といってもせいぜい小社に過ぎません。延喜式主税式において、正税から祭祀料を割かれていた鹽竈社以外の三社、すなわち、出羽月山大物忌社、伊豆三嶋社、淡路大国魂社は、いずれも名神大であり、小社に過ぎない多賀社にその錚々たる三社の合計額をも上回る別格の祭祀料が割かれていたとは到底考えられません。式外社であることよりもむしろ矛盾の広がるものであり、したがって私がその説をとることはありません。 |


