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4、東鹽氏の傳
 鹽竈神社の國幣中社加列の翌年となる明治八(1875)年、その立役者となった当代権宮司の遠藤信道は、当代宮司の落合直亮の校正を経て『鹽竈神社考』なるものを世に出しました。
 しかしその説くところは極めて独特なもので、後の宮司山下三次などは昭和二(1927)年発行の自著『鹽竈神社史料』の冒頭において、「偽書と認むるもの」の「同一系統に成れるもの」の一つとして掲げ、容赦なくその信憑性を否定しております。
 理由の大きな一つは、遠藤信道の神社考の依拠となっている東鹽氏の傳が、単に『鹽松勝譜』のそれを引用したものとみられること、そもそも原典たる『東鹽家秘録』なる古文書の存在自体が頗る疑わしきものであること、なにより、「鹽土老翁神の御子東鹽根命の神裔」なり「鹽竈多賀両社の斎主大宮鹽竈司」の家とあるところの“東鹽氏”そのものの存在自体が怪しい、というところにありました。
 そこで私は、あえて『鹽松勝譜』を入手し、自らの目であらためて東鹽家について考えてみようと思ったわけですが、まずは遠藤信道が『鹽竈神社考』にて説いたところの東鹽氏の消長を眺めておきたいと思います。
 『鹽竈神社考』の内容については、特に神話的な部分については、過去の拙記事、「偽書とさえ認められぬもの」「東鹽根命なる神の裔」「『東鹽家文書―農業に従事した神々―』」「『東鹽家文書―製塩に従事した神々―』」「『東鹽家文書―道奥國別六根命の意味するもの―』」などで触れておりますので、ここでは東鹽氏の現実的な消長のくだりを意訳しておきます。

―意訳:『鹽竈神社考』―
 宮城郡の郡名は、成務天皇五年巳亥二月、諸国郡郷を定め給える時に、古来神武天皇の勅をもって宮城郡一万束を付された鹽竈大神―別宮:國別鹽竈大神=國別鹽竈宮+妹・國別日東吾妻宮―が敷坐せる所なるに起れると伝わる。
 鹽竈神社を創建しこれを代々奉祀していた神孫の人々は重く評価され、神宮司大宮鹽竈司齋女等は皆三位に叙され、多賀神社宮主は四位に叙されたという。
 しかし時を経て世も移り変り、安倍貞任・宗任など“醜男―原文ママ―”、奥州藤原三代秀衡の三男和泉三郎忠衡などの“荒び男―原文ママ―”の管掌下となるに及び、彼らが神領を掠め取り私有化したことにより、社格も衰え、社司神主たる東鹽家ら鹽土大神の神孫の半分は散り失せてしまった。
 文治五(1189)年には、源頼朝によって利府城主の伊澤家景―留守氏―が当社の神主を任せられ、留守氏が自らの家子をも神官に申請したことにより、神官は旧来の者と合わせて三十二人であったというが、以来、何事も留守伊澤氏の心のままに計らうこととなり、明応の初めの頃には殊に衰微が著しくなり、神殿も雨漏りし老朽化し、御神体さえも安置奉る所もない有様であった。
 これを憂いた時の神宮司東鹽丹波守は、自宅の神床に御神体を遷し置き奉り、神宝や古文書の類もみな移し置くこととなった。
 留守氏は、利府城移住の折、同郡飯土井村に最も旧き世より鎮座していた木船・只洲の両社をその付近の牡鹿島―男鹿島?―というところに遷し奉り、それを家の守護としていたが、明応六(1497)年留守藤原藤王丸の代に至り、その両社を現在の鹽竈神社の鎮座地一森山に新宮を造営して遷座した。※ 藤王丸は先に触れた別宮一禰宜家「男鹿島」の初見となる明応六(1497)年の鐘銘に名が刻まれた留守家15代当主―
 その際、國別鹽竈宮と妹・國別日東吾妻宮は木船宮に合わせ祀られた。※ 小文字で「一本に國別吾妻宮を、左宮に合際奉れりと云ふ」と注釈あり―
 これより前、やはり著しく衰微していた多賀波志峰・多賀府原なる多賀神社も、延徳二(1490)年三月十日に同じく一森山に仮宮を造り遷座していた。
 ちなみに、この多賀神社の旧跡の礎などは多賀崎に今尚存在する。またそのあたりには、和泉三郎忠衡の寄進によって建てられた七重の塔の跡があり、今その場所を塔の越しという。
 ともあれ、ここに木船宮・只洲宮・國別鹽竈宮・日東吾妻宮・左将軍宮(武甕槌神)・右将軍宮(経津主神)の六柱の大神が合わせ祀られることになり、それが鹽竈六所明神と呼ばれる由来となった。
 それにしても、他所から遷されてきて新たに祀られることとなった木船只洲の二宮と多賀の仮宮が造営されたというのに、本来の國別鹽竈大神の宮についてあらためて社殿の建てられることがなかったことは問題であった。
 これを嘆かわしく思った鹽竈多賀両社の齋主大宮鹽竈司東鹽丹波守照行、鹽竈神社宮主五十鈴因幡守盛重等は、國別鹽竈大神の社殿が新たに造営されるべきことを訴えたが、木船・只洲の神主鎌田大藏という者にこれを拒まれた。
 この者、元来留守主家の臣下であったがため、権勢も甚だ隆盛であり、東鹽丹波守と五十鈴因幡守の両者の官職を貶めて、ただ社務のみに就ける在庁人の扱いにしてしまった。
 これは自分の上にこの両者が立つことを懸念した鎌田大藏の妬みによる所為にして、最も悪質な所業である。〜以下省略〜

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 さて、個人的な備忘録を兼ねんがために長々と意訳してしまいました。
 なにやら安倍氏や奥州藤原氏のパーソナルについて汚く罵る記述もありますが、神職としてやや品性に欠けるようにも思えます。
 しかし、東北各地の図書館で調べものをしていて感じるのは、昭和の市町村誌であってもその姿勢にはさして差がないということです。金色堂が残っていたからか奥州藤原氏に対しては比較的マシですが、悲しいかな安倍氏を蛮族扱いする記述はよく目にします。ましてや一説に岩手県南から宮城県北の民家に祀られる釜神のモデルであろうアテルイに至っては、もはや鬼神であり、彼らが同じ日本人として、あたかも英雄なり当地の然るべき住人であったものと認識されはじめたのは、極言すれば平成以降のことのようです。したがって、殊更に遠藤信道だけを責めるわけにもいかないでしょう。
 ただ意外なのは、この後、伊達氏についても比較的否定的に書かれていることです。
 おそらく遠藤信道は、時の為政者が大神主を称し代々鹽竈神社の神徳と現実的な果実だけを吸い上げ続けてきた歴史を許しがたかったのでしょう。明治八年であれば、伊達家を謗ることなど庶民からも不敬を咎められかねない気風がまだ十分に残っていたはずと思うのですが、是非はともかく、遠藤信道が為政者に媚びない真っ直ぐな“神道家”であったことが窺いしれます。
 それはともかく、結論からいうと、『鹽松勝譜』にはこのような内容は書いてありません。
 したがって、少なくとも東鹽氏の傳を『鹽松勝譜』から引用したものと片付けて矮小化する山下三次の指摘はあたりません。
 つまり、真偽はともかく実際に『東鹽家秘録』なるものが存在していたか、あるいは遠藤信道が自らの願望的妄想を第三者が確認しようのない東鹽氏の傳にこじつけて神社考を展開したかのいずれかということでありますが、少なくともまるっきり後者であることはないでしょう。
 何故なら、この『鹽竈神社考』は当時権宮司であった遠藤信道の上席にあたる当代宮司の落合直亮の校正を経て出されているものだからです。
 もしかしたら落合宮司も共犯であるのでしょうか。
 ともあれ、次稿では『鹽松勝譜』に記された東鹽氏の傳を眺めてみたいと思います。
3、荒脛(あらはばき)神の鎮座地

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 陸奥総社宮―宮城県多賀城市―の向側、やや塩竈寄りの道端の路地口に、「あらはゞき神社」と刻まれた石碑があります。
 路地を入ると、左手奥の民家の入口に鳥居があり、庭の奥にはたくさんの下足類が奉賽された異様な祠が見受けられます。
 それが「荒脛巾(あらはばき)神社」です。
 陸奥国府多賀城の鬼門でもあるこの場所は、往時多賀城を訪れる官人が、海路から塩竈浦の國府津(こうづ)に上陸し、陸路政庁に入らんとする門、すなわち実質上の多賀城の正門とも言える東門の手前にあたります。
 そこにこの神が祀られていることは偶然ではないでしょう。何故なら、アラハバキ神には門客人神としての性格が付されているからです。

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 例えば、埼玉県さいたま市大宮区の「氷川神社」の本殿脇には、その名も「門客人社」が鎮座しているのですが、『新篇武蔵風土記稿』足立郡高鼻村条には「古ハ荒脛巾神社ト號セシヲ氷川内記神領タリシ時神祇伯吉田家ヘ告シテ門客人社ト改號〜」とあり、この社が「荒脛巾神社」を改号したものであることがわかります。
 また、同書多摩郡養澤村条の「門客人明神社」の項には、門客人の部分にずばり「アラハゝキ」と仮名が振られております。
 いずれも、谷川健一さんの『白鳥伝説(小学館)』所載の情報を原典で確認してみたわけですが、このあたりを鑑みると、多賀城の荒脛巾神社が門前に鎮座していることも偶然とは考え難いのです。
 なにしろ谷川健一さんは、前述同書の中で、柳田国男や折口信夫の考えや、それを発展させた中山太郎などの民俗学的推論に触れ、それらを咀嚼して、アラハバキ神について次のように結論付けております。

―引用:『白鳥伝説』―
一、もともと土地の精霊であり、地主神であったものが、後来の神にその地位をうばわれ、主客を転倒させられて客人扱いを受けたものである。
二、もともとサエの神である。外来の邪霊を撃退するために置かれた門神である。
三、客人神としての性格の合わさったものが門客人神である。主神となった後来の神のために、侵入する邪霊を撃退する役目をもつ神である。

 これを信じるならば、多賀城のアラハバキ神も門番の神として当地に勧請されたというよりは、むしろ陸奥国府多賀城所在地の本来の地主神であった可能性こそを疑うべきかと思われます。
 ここで、『鹽松勝譜』の「荒脛神祠」の項が妙に示唆深く思えてきます。

―引用―
鹽浦西二里許ヲ去リ。市川村ニ在リ。相傳フ。鹽神鹽ヲ煮ルノ日。神此山ニ入リ木ヲ伐リ以テ薪ヲ給ス。手足胼胝シテ脛最モ荒ル。故ニ神號トナスト。世脚疾アル者之ヲ祈リ。脛繳ヲ以テ之レニ賽スレハ。驗アラサルナシ。

―意訳―
荒脛神祠は塩竈の浦から西に二里ばかりの市川村にある。伝えるところによると、鹽竈神による製塩の日、神はこの山に入って刈り伐った薪をくべたのだという。その際に手足には胼胝―タコやあかぎれ―ができ、特に脛が荒れたことから、神号が荒脛になったという。世の中の足に疾病のある人たちは、この神に祈り脛糸を献納すれば霊験を得られる。
 
 このくだりを読んでまず思ったのは、奈良時代には日本の三大都市の一角を形成していたはずの多賀城がこの時点では樹木の鬱蒼とした手つかずの山であったらしいということです。
 なにより、その山に入った神が鹽神なのか、それともそれ以外の神なのか、この文では判然としません。
 荒脛巾神社が鹽竈神社の末社に数えられていることを鑑みるならば、山に入ったのは後者のまだ名もなき神とみるのが穏当だとは思うのですが、もし前者であれば、ここでいうアラハバキは鹽神のこと、すなわち、鹽竈神の別名ということになります。少なくとも『多賀城市史』の解釈はそのように見受けられます。
 なにしろ、この『鹽松勝譜』の成立する100年以上も前には、『先代旧事本紀大成経』が鹽竈神を陸奥に落ち延びた長髄彦のこととしておりました。
 同書は、伊勢神宮の根幹を揺るがしかねない記述が含まれていたこともあり、江戸幕府から正式に偽書と断罪され、焚書・発禁とされてしまったわけですが、殊更に脛(すね)が強調されている荒脛神祠のこのくだりはどこかその残滓にも思えます。
 なにしろいみじくもアラハバキを長髄彦の一族に結び付けて展開する文献もあります。
 それは悪評高い『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』でありますが、同書は結果的に個人による捏造文献であったことが確実視されております。おそらくは遡っても第二次大戦後の成立なのでしょうが、とはいえ、青森県北津軽郡市浦村の村史編纂陣に、『市浦村史』別集「資料編」として上・中・下の三巻にわたって発刊させるにまで至ったのは、おそらくはその根本が多賀城の荒脛神祠のそれのごとく、実際に陸奥各地に残る伝説等を元に創作されたものであって、故にそれなりの説得力を有していたからでしょう。
 以前も触れましたが、少なくとも、由利氏すなわち瀧澤氏の系譜が、大和を逃れた安日彦(長髄彦の兄とされる)と越の酋長一族とが結ばれて生じた系譜であることを強く主張する旨の“大正八年”の新聞記事があったことを私は秋田県内の図書館にて確認しておりますー秋田魁新報所載ー。こういったイデオロギーが特に北東北において根強く蔓延していたからこそ、『東日流外三郡誌』が官公庁にまで史料として受け入れられ得たのでしょう。
 一方、『記紀解体(彩流社)』の著者、近江雅和さんは、アラハバキの正体を、古代アラビア語で「最高の神」を意味する「アラバキ」であると力説しており、それらの内、南アラビアからインドに入って伝わった流れが、鬼神「アーラヴァカ・ヤクシャ」なる仏教の外道な守護神と化し、やがて中国に入り、密教を経る中で、音写ではなく義訳され、「元帥(げんすい)」あるいは「大元帥(だいげんすい)」なる明王になっていったのだとしておりました。
 この「大元帥」について、ナツメ社の図解雑学シリーズ『密教』―頼富本宏さん編著、今井浄圓さん・那須真由美さん著―で引いてみると、「太元帥王(たいげんみょうおう)」とあり、伝統的に「たいげん」と読ませ「だいげんすい」とは読まないとする旨の注釈がありました。それはともかく、同書は近江雅和さんがいうところのアーラヴァカをアータヴァカと表記し、その意味がサンスクリット語で「林に住むもの」であることを説いております。
 さすれば、荒脛神祠の神号の由来譚が薪刈の流れの中にあることにも一応のつじつまが合っているようには思えます。
 近江雅和さんのアラハバキ=アーラヴァカ説に断言できるほどの根拠があるとは思えませんが――そもそもそれだけの根拠を見つけること自体がほぼ不可能だと思いますが――、それを奉斎する氏族のルーツを推測する意味ではかなり魅力的な試論であるとは思います。
 仮にそれに便乗してみた場合、アラハバキ信仰は平安時代以降に隆盛する密教によってもたらされた比較的新しいものであるのかもしれませんが、陸奥国府多賀城エリアの地主神であったらしきことを鑑みるならば奈良時代以前から既に我が国に流れこんでいたものであるのかもしれません。
 例えば、志波大神について、もしかしたらなんらかの地主神にシヴァ神が習合したもの、あるいはシヴァ神そのものへの信仰が古代の陸奥に定着したものではなかったか、などとも勘繰っている私にとっては、強く意識せざるを得ないペンディング事項ではあります。
 なにしろ、「東鹽氏の傳」からの引用と思しき、遠藤信道の『鹽竈神社考』所載の神話(?)において、志波彦神・志波姫神は、塩焼きの“柴”を刈り取る神とされていたわけであり、『鹽松勝譜』所載の伝説におけるアラハバキ神の役割と類似していることは留意しておきたいところです。

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 伊達家の記録と留守家の記録で鹽竈神社の社人を見比べると、御釜神社の立ち位置に変化が見受けられます。
 寛永二十一(1645)年の『知行目録』は、御釜神社の竈守たる「鈴木隼人」について「社人竈太夫隼人」と記しておりますが、百年ほど遡った天文年間(1532〜1555)に作成されたと思われる『留守家分限帳』の三巻「宮さと(宮うと?)の人數」―鹽竈社人名簿―にはその名が見えません。
 とはいえ、同書の一巻「御館之人數」には「鈴木隼人以町さいけ一けんくら二 御かまの神領五百かり」とありますので、決してこの家が名簿から漏れていたわけではありません。
 天文年間に社人に数えられていなかった竈守の鈴木隼人が、なんらかの事情で寛永二十一(1645)年までには竈太夫隼人として社人に数えられることになっていたことがわかります。
 この竈太夫家や男鹿島太夫家の鈴木姓について、『一森山叢書第二編』所載の「古代中世の鹽竈神社」の執筆者である豊田武さんは、「紀州藤白湊にある熊野王子の神職鈴木一族を中心とする鈴木党に由来する」、としております。
 豊田さんが説くとおり、鈴木党は熊野漁業と熊野信仰の発展とともに太平洋沿岸に沿うて北上し、熊野社のあるところ、必ず鈴木姓の神職を見るまでに広く伝播しました。
 豊田さんは、鹽竈社に鈴木姓の神職がはいりこんだのは、源頼朝の社殿経営と関係があるかも知れない、としながら、次のような注釈を加えております。

―引用:『一森山叢書第二編(志波彦神社 鹽竈神社 社務所)』―
熊野信仰はすでに名取の熊野社のように、平安末期仙台地方に伝わっているが、それがひろがったのは、頼朝の奥州遠征後であろう。源氏の水軍として活躍した鈴木三郎は、頼朝から所領まで賜っていたが、妻子を熊野に送って義経の死出の供をした。陸中江刺郡片岡村多門寺薬師堂は正治年中鈴木重家の子の創建であるという。したがって三陸沿岸に鈴木党の発展したのは鎌倉の中期以前であったと考える。

 たしかに、熊野鈴木党の伝播はそのようなものであったことでしょうし、熊野信仰が広がったのも頼朝の奥州遠征後であったことでしょう。
 ただ、陸奥國府周辺においてのそれは、むしろ先住の名取熊野の広がりではなかろうか、という思いがあります。
 平安末期云々と引き合いに出されているところの名取熊野は、頼朝に滅ぼされた平泉王国の残り形見のごとき存在でありますが、これこそが主家の滅亡によって広がったのではないか、と私は考えるのです。
 何故そう考えるのかというと、陸奥國分荘玉手崎―仙台市青葉区小松島周辺―の「小萩伝説」が平泉王国滅亡の恨み節に思えるからです。
 この伝説は、奥州藤原三代秀衡の三男「和泉三郎忠衡」の遺児とその護持仏―俗に小萩観音―を保護しながら陸奥國分荘に落ち延びてきた乳母小萩の物語なわけですが、その護持仏が、名取那智宮本尊―俗に閖上(ゆりあげ)観音―の漂着譚に結び付けられた伝説もあります。
 それらを流布していたのは、当地に落ち延びて尼寺を営んでいた平泉系の貴女たちと、旧荒巻邑の総鎮守たる熊野神社―仙台市青葉区通町―の巫女たちであったものと思われます。※拙記事「泉と清水と白水と―その3―」参照
 この熊野神社は、土御門天皇(1198〜1210)の勅宣によって創建されたと伝わるものでありますが、後の仙臺城普請にともない境内地に換地された「玄光庵」の鎮守でもありました。
 創建時期こそ頼朝進出による熊野信仰伝播の時期とも合致しますが、別当寺の玄光庵が藤原秀衡創建と伝わる龍泉院から分かれたものであることを鑑みるならば、やはり名取熊野の流れをくむものであった可能性が高いと考えます。
 思うに、男鹿島太夫なり竈太夫なりの鈴木姓は、むしろこの先住の名取熊野に由来するのではないでしょうか。
 先に割愛しましたが、『留守家分限帳』を秘蔵していた留守氏の執事たる佐藤氏は、その分限帳において筆頭に記された佐藤玄蕃頭を名乗る家柄でありました。
 『宮城県姓氏家系大辞典(角川書店)』によれば、佐藤氏の先祖は、陸奥国留守職伊沢家景の入府に際して、「当国の案内者」として特別に随行したのだそうです。
 同辞典は、「多賀国府の事情に通じた立場を買われたものか」としており、また、『餘目記録』には、佐藤氏の当主が留守の当主から「御父」と呼ばれていた旨が記されており、佐藤玄蕃頭家が留守家中にあって特別な地位を占めていたことが知られます。
 なにしろ『宮城県姓氏家系大辞典』は、宮城県内の佐藤氏が信夫荘の佐藤荘司から始まったとされている旨を記しております。
信夫荘司の佐藤基治は、奥州藤原氏の重臣であったわけですが、二代基衡の姪の夫でもありました。一方で、『封内風土記』は陸奥國分荘―現在の仙台市内―の領主でもあったとも伝えます。
 ただ、佐藤荘司と呼ばれる存在は、有名な信夫荘の佐藤基治ばかりではなく、本吉や名取にも存在していたようです。
 例えば、本吉荘は奥州藤原三代秀衡の四男高衡の領とされ「本吉冠者四郎高衡」と冠されるほどの名高い大荘であったようですが、『郷土研究としての小萩物語』の藤原相之助は、高衡の年若き故に佐藤の一族を置いてこれを宰知させたものとしております。
 なるほど、兄である和泉三郎忠衡が文治五(1189)年に23歳の若さで亡くなっているわけですから、高衡はそれよりも若い時分から大荘たる本吉荘を領していたことになります。
 以前私は、鹽竈神社に文治の燈籠を寄進した和泉三郎忠衡は奥州藤原王国における対多賀国府の外務大臣で、まだ若い忠衡を補佐し、その実質を担っていたのは義父である佐藤荘司基治であったのだろう、と推測しておきました。※拙記事「佐藤基治一家の哀歌」参照

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和泉三郎忠衡寄進の文治の燈籠と鹽竈櫻

 本吉荘にせよ國分荘にせよ、往々にして、佐藤荘司には奥州藤原王国の対外政策の実務を担う執行役員的な要素があったように思われます。
 なにしろ、佐藤姓については、『嚢塵埃捨録』が奥州藤原二代基衡を「佐藤左衛門尉藤原基衡」、同じく三代秀衡を「佐藤陸奥守兼鎮守府将軍藤原秀衡」と記しており、奥州藤原氏そのものが「佐藤」とみなされていた例があることも留意しておきたいところです。
 いずれ、留守家の執事とされていた佐藤氏については、少なくとも多賀国府に通じていたと思われる事情からして、この佐藤荘司の一族であったとみて良さそうです
 奥州経営に乗り出した源頼朝は、おそらくはそういった経歴に裏付けられた熟練の実務能力を利用すべく、この一族を陸奥國留守職伊澤家の家老に置いたのではないのでしょうか。
 有名な信夫の佐藤荘司基治は、28万の総鎌倉軍との最も壮絶なファーストインパクトに砕け散り、阿津賀志山に首を晒されたわけですが、名取の佐藤荘司は名取郡司と熊野別当とともに投降して赦免されたことが『吾妻鏡』に記されております。
 『嚢塵埃捨録』には、本吉冠者四郎高衡と志波日詰五郎頼衡といった三代秀衡の四男五男が二万五千の兵を率いて名取高館で応戦した旨が記されておりますが、もしかしたら彼らこそが、投降した佐藤荘司なり名取郡司なり熊野別当なのかもしれません。
 いずれ私は、頼朝に生かされた佐藤荘司と熊野別当が新参の留守職伊澤氏を補佐することによって、佐藤玄蕃頭と竈太夫鈴木隼人による塩竈経営の基礎が発祥したのではないか、と考えるのです。
 現在、仙臺藩主四代伊達綱村による元禄の造営によって左宮・右宮の両宮に別宮を併せた二拝殿三本殿形式の社殿になっている鹽竈神社ですが、少なくとも貞享三(1686)年頃の「塩竈大明神絵図―宮城県図書館所蔵『御修復帳』に所収―」には別宮の社殿はみえません。そこには、左右宮と思しき拝殿・本殿の一式のまとまった社殿の脇に、現存しない貴船社と只洲社の祠があるのみです。
 平成十九(2007)年に東北歴史博物館で開催された特別展「奥州一宮鹽竈神社―しおがまさまの歴史と文化財―」の公式図録には、同館の関口重樹さんによる次の解説があります。

―引用:『奥州一宮鹽竈神社―しおがまさまの歴史と文化財―(東北歴史博物館)』―
〜棟札写及び鰐口銘文から、少なくとも桃山・天正期には東西左右宮社殿の構成であったことが分かっています。これが江戸期に入り、政宗による慶長一二年(一六〇七)の造営、綱宗による寛文三年(一六六三)の造営を経、いずれかの段階で二社構成が両宮合祀の一社殿に改められました。

 尚、このくだりには、「因みにこの時期までの史料には別宮に関する記録は一切確認されません」という注釈も付されております。

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 記録が一切確認できない現実を鑑みるならば、別宮は元禄縁起の構築時にはじめて開かれたものにも思えます。
 しかし、別宮そのものの記録は確認できずとも、後の別宮一禰宜家たる「男鹿島」の初見は明応六(1497)年の鐘銘にまで遡ります。
 その鐘銘は、『別當法連寺記(古川左京『鹽竈神社史』所収)』の「御宮後神殿御拜殿諸區之事」の項に書写されております。
 内容は、明応六(1497)年十一月六日付で鹽竈神社の安寧や大檀那留守藤原朝臣藤王丸の息災延命を祈る願文を刻んだものでありますが、後の右宮一禰宜家たる「新太夫」と、同じく左宮一禰宜家たる「安太夫」に続けて、件の「男鹿島」の署名がみえるのです。
 ちなみに以下が全署名です。

僧行事 弘瑜
大檀那留守藤原朝臣 藤王丸
佐藤家高(宗高?)
新太夫
安太夫
男鹿島
弘怡
大工 盛繼
願主 鈴木越前守義久
久繼

 この面々の構成について考えてみます。
 僧行事の「弘瑜」は鹽竈神社別当法連寺の僧なのでしょう。
 次の「藤王丸」はもちろん文字通り法蓮寺の大檀那であり、かつ領主たる留守家15代当主であり、すなわち鹽竈神社大神主であり、またここでは息災延命の祈祷を受けし人物でもあります。
 続く「佐藤家高」は、佐藤宗高の誤写であったとするならば、これは留守家の執事で、後に『留守分限帳』を秘蔵せしめていた「佐藤玄蕃頭」の家の者にあたります。佐藤玄蕃頭については少なからず思うところもありますが、ひとまず割愛します。
 そして「新太夫」、「安太夫」、「男鹿島」は各々後の三宮の一禰宜家でありますが、男鹿島のみ“太夫”が付されていないことは気になります。単に文字数の問題でしょうか。あるいは、後述するところの御釜神社の竈守家「竈太夫」同様、まだ鹽竈神社の社人ではなかったのでしょうか。
 次の「弘怡」については、何者なのか今のところ見当がつきませんが、僧行事が「弘瑜」であったことを鑑みるならば、その名の類似性からみて法蓮寺の僧とみるべきかもしれません。
 次の「盛繼」は表記どおり大工であり、最後に刻まれている願主の「鈴木越前守義久」と「久繼」は親子なのでしょうか。
 この鈴木越前義久のことを指すのかどうか、『塩竈市史』所収の大塚徳郎さんの論稿「鹽竈神社史」によれば、鈴木越前家は寛永二十一(1645)年の『知行目録』が記すところの「釜太夫隼人―竈太夫隼人―」のことであるらしく、とすればこれは御釜神社の竈守の家であるわけですが、文禄四(1595)年の『宮城郡利府之郷檢地名寄之帳』には「しほかまけんたん祢宜はやと」とみえ、これが鈴木越前家のこととすればこの家は御釜神社の禰宜であるとともに塩竈町の検断―警察権・裁判権を有する町内会長のようなもの―をも兼ねていたということになります。
 いずれ、別宮の存在が確認できない時代に男鹿島がどのような立ち位置で藤王丸の息災延命の銘に署名をしていたのかは判然としませんが、天文年間(1532〜1555)に作成されたとみられる『留守家分限帳』の三巻「宮さと(宮うと?)の人數」―鹽竈社人名簿―にも「おかしま」の名がみえ、別宮の前身となるようななんらかの祭祀があったことは間違いないでしょう。
 もしかしたら鈴木越前家から代表して鹽竈神社の諸事に加わっていた者があってそれが男鹿島を名乗り、天文年間の分限帳の頃までに社人に加えられたことも考えられます。
 御釜神社を仙台藩祖伊達政宗時代以前の鹽竈神社とする佐久間洞巌の説については認めがたいものがあるのですが、別宮に限っていうならば、その前身を御釜神社とみなしてもあながち的外れでもないのかもしれません。
 尚、前述の『宮城郡利府之郷檢地名寄之帳』には、「木舟二の禰宜」という記述もみられ、これについて先の大塚徳郎さんは、「貴船と別宮とが同一のものと考えられていたからではなかろうか」と興味深い推測をしております。
 事実、『鹽竈神社史』所収の「鹽社由来考」には、「御釜ノ神ハ貴船ノ由ニテ、貴船ノ一禰宜男鹿島太夫(鈴木因幡守當時十五位下也)竝同宮ノ神子、先祖ヨリ代々、毎年七月六日御釜替ノ神事勤之」という記述もみえます。
 真偽のほどはわかりませんが、御釜の神を貴船と同一視していることがわかります。おそらく以前とりあげた在庁官人鎌田家の家伝と同根のものでしょう。
 さすれば、留守時代から史料に名のみえる後の別宮一禰宜たる男鹿島家は、やはり竈守の一族で、もしかしたら別宮の創設と入れ替わりに消滅した貴船社の禰宜であったのかもしれません。
2、御釜神社鹽竃神起源説
 『鹽松勝譜』は、「神竈祠―御釜神社―」の項にて、「神廟ヲ去ル南二丁餘。店ノ間ニ祠アリ之ヲ祀ル。蓋シ古昔ハ神廟此地ニアリ當時神釜ヲ以テ神ノ體トナスト、僧宗久東遊紀行ニ見ユ」、すなわち、宗久の紀行文から鹽竈神社は元々御釜神社の地に鎮座していたとする説を主軸としております。
 舟山萬年はここで宗久を引き合いに出しているものの、その後の記述などを鑑みるに、むしろ『奥羽観迹聞老志』の佐久間洞巌の説くところに大きく影響を受けているようです。
 『鹽松勝譜』は、鹽竈神社の祭神については、基本的に左宮:武甕槌命、右宮:経津主命、別宮:岐神、と仙臺藩主四代伊達綱村の定めた「元禄縁起」に則っているのですが、岐神については、元禄縁起が別宮祭神の一説に同体異称として掲げるところの、猿田彦、事勝国勝、鹽土老翁、岐神、興玉命、太田命のいわゆる「鹽竈六所明神」六座のうち、興玉命、太田命を除いた三座―岐神を含めて四座―と、縁起にはみえない鹽屋王子、道祖神とその妻神、さらには志波彦神の四座を加えた七座を同体異称の神として括弧書きに添えてあります。
 つまりこれは岐神を数えれば計八座を同体異称とみるものであり、あきらかに六所明神の「六」という数なり言霊なりへのこだわりなどなく、総社説の方便となり得る語呂合わせ的な「禄所(ろくしょ)」論に展開する気配はみじんもなさそうです。
 このような『鹽松勝譜』が、“鹽竈神社の前身”と説くところの「御釜神社」について、同書の当該項に次のように記されております。

―拙くも意訳―
 僧宗久は東遊紀行にて次のように語っている。
 「日暮れ鹽竈浦に至り神廟に謁したところ、その御神体は塩の釜であった。そこで廟前に座って夜を徹した・・・云々」
 御釜神社の縁起によれば、鹽土老翁神はこの浦に初めて神降り、塩を焼く術を民に教え、それ故にこの浦は鹽竈浦と称されたようである。その塩の竈―釜?―は今尚存在している。
 佐久間洞巌は、鹽竈社址考にて次のように語っている。
 この器はまさしく太古神代の遺産で、その悠久なることは三種の神器にも引けを取らない。その尊きこと神代に神明が造りしものであり、その貴重なこと人間が塩を煮る実利を得た起源のものである。どうして王権の象徴のごとくあらんことを望もうか。製塩作業の効率のためなればそれは渚にあり、民を救うためなれば高所から見下ろさずに同じ目線にあるのである。
 また、こうも言う。往昔老翁がこの海岸に降り、初めて塩を煮て民に教えた。生命は食をもって養われるが、その食が塩によって美味になることも老翁の教えによって初めて天下に知らしめられ、生きとし民の喜びとなった。故にその器を尊んで神明と賞し、その地を鹽竈浦と名付けたのである。まさに神の塩によるものなのである。よって後世その厚徳を貴び、その成功を重んじ、ここに祠を建て、竈の神体を崇奉せし所以である。宗久紀行を以って考えるに、当時は古い器を指して御神体といい、民の崇敬は尚往時のごとしであったのだろう。
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 佐久間洞厳は『奥羽観迹聞老志』の中で、今の鹽竈神社は慶長十二年に太守黄門伊達政宗卿の移転にかかるもの、と論断していたわけですが、『鹽竈神社史料』の山下三次は、佐久間洞巌の論拠は観応年間―南北朝時代―の宗久の『都のつと』の記事のみであるといい、「其の論遽極めて薄弱なるに拘はらず、その説大に流布し、世間の學者、皆之に依り、本社を遷造する時、神竈を舊祉に留め、呼んで神竈社と云ひ、神體と神宮と相離るゝに至れり、と信ぜり」と揶揄したうえで、遊佐好生や吉田東吾らの否定論を引き合いに弁駁しております。
 遊佐好生は、「非祭弁駁撥正」にて、御釜神社の境内が古来の大社のそれにしては極めて狭いことと、留守家為が領していたころの別当法連寺秘蔵の鹽竈社図から政宗以前に既に一森山に鹽竈神社が存在していたことがわかる旨を論じております。
 吉田東吾は、宗久と同時代の文書に左右両宮の見證があることなどをもって、政宗が慶長年中に一森山に祠殿を起こしたとするは誤りである、としております。
 また、当の山下三次は、鹽竈神社所蔵の奥州探題吉良貞経による立願の文書―延文五(1360)年卯月二十八日付吉良貞経願文―は御釜が立願によって鋳造されていた例を示すもの、すなわち「鋳釜獻進」の古俗を証明するもので、宗久が「鹽竈の神體はこの釜なり」としていることを疑うべし、と論を展開しております。
 すなわち、宗久の文脈から、宗久が一夜を徹したその場所には社殿がなく直に神竈を拝したものとみて、神社にしてその社殿を設けなきは古来極めて特殊稀有であり、ましてや正税から一萬束もの稲を奉ぜられた程の鹽竈神が、たとえ年代が遷り南北朝の時代になれども、社殿もなく露出のまま安置されている御釜のことを指すとは常理上信じることが出来ない、というのです。
 山下三次は、熱田宮における草薙(くさなぎ)御劔や、石上神宮における布都御魂(ふつのみたま)劔、出石神社における天日槍のもたらした八種の神寶などを引き合いに、「皆之を社殿に奉安して、御霊代となせり。豈獨りこの鹽竈神のみ、社殿なきの理由もあらんや」と力説しております。
 仮に佐久間洞巌が生きていたならば、彼はおそらく、「製塩の利そのものが既に神聖なのであって、俗な権威の形など鹽竈神には必要がない」、とでも反論していたことでしょう。
 しかし山下三次は、「御釜をもって直ちに鹽竈神を祭りしか、或いは神社として別に奉祀せる外、貴重の神器として永く尊崇し来れるは深く考究を要する問題にして、軽々に宗久紀行の記事のみを憑據として之を推断するは、甚だ早計に過ぎる」と、いわば当地に一泊したに過ぎない旅の者の紀行文の情報からのみ事の全体を推断している愚についても強く批判しており、それはそのとおりだな、と私も思います。
 ただ、佐久間洞巌がそこまで浅はかであったとも思えず、御釜神社を鹽竈神そのものと推断するに耐え得るなんらかの論拠もあったはずと考えるわけですが、引き続きそのあたりに触れていきます。

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