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中世の多賀國府がどこにあったのかについては諸説ありますが、江戸時代に流路を変えられた冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―の新旧の分岐点付近―多賀城市新田(にいだ)付近―とみる説が特に有力とは考えております。 ただ、留守氏の家伝である『奥州餘目記録』に「にかたけの郷を宮城本郷と申」という記述があり、宮城郡そのものの起点が苦竹にあったことも間違いなさそうで、時期によっては同地に國府があった可能性も消し去れないようには思います。少なくとも藩政時代には仙臺城下に物資を運ぶための梅田川を利用した曳き舟による物流拠点がそこにあったといいます。 ともあれ、冠川は、新旧流路の分岐点より上流には川舟が遡ることが出来なかったのだといい、故に当時の河口であった湊浜からの商人船などもそこで荷揚げせざるを得なかったものとみられております。 すなわち、陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―がそのあたりに開かれていたと考えられる所以であるわけですが、中世の奥州においてはもっともヒト・モノ・情報の行き交う繁華な地域になっていたのではないでしょうか。 さすれば、冠川に沿う岩切から福室にかけてのそのエリアに、宮城郡の名神大社たる志波彦神―冠川明神―が勧請され、南朝の皇子を供養する西光寺のような寺が開かれたのも、その都市的な引力に引き寄せられたからに相違ないとも思うわけです。 そのような一角に、「安楽寺板碑群―南安楽寺古碑群―」と称された古碑群があります。 同地に赴くと、すぐ側に「安達昇板金」や「安達荘」などの看板が目に飛び込みますが、元寇の直後に陸奥守に就任した安達泰盛がいわゆる蒙古の碑に関わっていたとあらば、もしやこの古碑群にも安達一族が関係していたのだろうか、などとも想像させられます。 「南安楽寺」なり「北安楽寺」なる地名から、おそらくはかつてそういった名称の寺がこのエリアに存在していたのでしょうが、もしやその「安」の文字も安達姓に関係するものであろうか、などとも頭をよぎり、さすれば奥州藤原氏供養の色合いを垣間見せる謎の「安養寺」ともなんらかの形でつながってくるのだろうか、などとも連想してしまうわけですが、『多賀城市史』所載の大石直正さんの論によれば、「安楽寺とは、安楽国、すなわち西方浄土を意味する寺号」であって、「七北田川の南北安楽寺の河原は鎌倉時代には春秋の彼岸念仏が大規模に営まれるところであった」のだそうです。とりあえず安達の「安」とは全く関係なさそうです。 『多賀城市史』によれば、これらの碑は七北田川改修により堤防その他から集められたものと伝えられているようですが、改修とは江戸時代の流路変更のことでしょうか。 はたして、安楽寺の境内に建てられていたものが川沿いに散在していたものか、あるいは、七北田川の河原も含めて安楽寺の境内であったのか、いずれ明治の廃仏毀釈を待たず、その時代には既にこの寺は荒廃していたのでしょう。 さて、西方浄土云々の信仰か否かはどうあれ、私が気になるのは、筑紫―福岡県―の「太宰府天満宮」の別当寺の名称も「安楽寺」であったということです。 この筑紫の安楽寺は、単に太宰府天満宮の別当寺という位置づけにとどまらず、そもそもその前身とでもいうべき存在であったようなのです。 言わずもがな、太宰府天満宮とは菅原道真を祀る社です。 謀略によって筑紫大宰府に左遷されていた「菅原道真」は、死後、門弟の「味酒安行(うまさけやすゆき)」によって政庁北東の「安楽寺」に葬られたわけですが、後に道真が激しく祟りを為したがため、それを鎮めるために安楽寺に眠る道真の亡骸の上に社殿が造営されて祀られたのがその創始といわれております。 はたして、安楽寺は道真が葬られたことを機に建立されたものか、あるいは既存の安楽寺なる寺に道真が葬られたのかは定かでありませんが、なにしろ「遠の朝廷(とおのみかど)」たる大宰府の北東鬼門の方位に位置していることから、多賀城における荒脛巾(あらはばき)神社や鹽竈神社のごとく、なんらかの地主神がそこには祀られていたのではなかろうか、という推測も頭をよぎります。 太宰府天満宮のHPには、「御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました」とありますが、そこが古来なんらかの忌々しき地であったことを示唆している由緒のようにも思えるのです。 江戸時代、幕府による東照大権現の創出は諸国に忖度の波を広げ、天ツ神を祀る社が次々と菅公天神に塗り替わっていったらしきことは度々触れておりますが、塗り替えられた天ツ神の多くは、おそらくは男系の太陽神、すなわち、天照御魂神たる饒速日(にぎはやひ)命であったものと推測しておきました。 なにしろ天満宮の「天満」という言霊は菅原道真に贈られた神号の「天満(そらみつ)大自在天」に由来すると言われますが、古来「そらみつ」は「やまと」にかかる枕詞でもあり、いみじくも饒速日命に由来するものであることが『日本書紀』に明記されております。 加えて、太田亮の『姓氏家系大辞典(角川書店)』で「安楽寺」という姓をひいてみたところ次のような情報も見つけました。 筑前の安楽寺別当は代々道真の子孫が相続していたことが菅家系図にみえるとのことですが、私の好奇心を刺激したのは、大和の安楽寺氏です。 清和源氏多田氏の一族とされているこの系譜は、建保年間(1214〜1219)に満仲の九代高頼の嫡男経實なる人物が大和國廣瀬郡に入り、後に山邊郡に移っている、というのです。この情報元について、太田亮は「安楽寺和尚等物に見ゆ」としております。 少し前、私は『いかるが―後編―』と題した拙記事で、大和川水系が一筋に収束して生駒山地と金剛山地の間隙を河内に放たれる聖徳太子ゆかりの斑鳩(いかるが)の周辺は、古来龍田の風神と廣瀬の水神が祀られてきた大和盆地の防衛ラインの要衝でもあり、『先代旧事本紀』に記されたところの「哮峯(いかるがみね)」がここであったりはしないだろうか、という旨の推測を掲げておきました。 『先代旧事本紀』によれば天神(あまつかみ)の御祖(みおや)―祖先神―から十種(とくさ:あるいは十一種)の天璽瑞宝(あまつしるしのみずのたから)を授かった饒速日命は、河内の國の河上の哮峯(いかるがのみね)に天降ったといい、瑞宝はその後大和の国の山辺(やまのべ)の郡の布留高庭(ふるのたかにわ)なる石上の神の宮に遷し奉られたとされているわけですが、奇しくも大和の安楽寺氏はその経路を辿っていたようにも見えます。 斑鳩の地が、仮に白村江の戦いの大敗を受けて防衛ラインとして強化されたという見方をするならば、大宰府政庁の北に隣接する大野城もまさにその目的の遺構であり、東照大権現創出に対する忖度による塗り替えの要素はままあれど、道真天神信仰のそもそもの底流にもなにか饒速日命に対するそれと相通ずるものが地下水脈のように流れているように思うのは誇大妄想でしょうか。 いずれ、七北田川―冠川―沿いに存在していたと思われる安楽寺は、古代多賀城にせよ中世多賀國府にせよ、もしかしたら大宰府にならって国衙を守護する立ち位置として建立されたものであったのかもしれない、などと、つい感慨にふけってしまうのでありました。 |
冠川紀行
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関東甲信越地方では梅雨が明けたと発表されました。 仙台はこれからが梅雨本番だと聞きますが、ここのところは夏のような暑い日が続いております。 散歩に目覚めた私は、炎天下対策にコンビニエンスストアで購入した帽子をかぶり、JR東北線の国府多賀城駅に立っておりました。 現在は仙台市宮城野区蒲生に注ぐ七北田川(ななきたがわ)―冠川(かむりがわ)―ですが、江戸時代に流路を変えられるまでは多賀城市新田付近から左に折れて東流し、下流については多賀城市八幡(やはた)から七ヶ浜町湊浜に注ぐ、ほぼ現在の砂押川の流路であったのだといいます。 しかし、砂押川に至るまでの流路についてはやや混乱が見受けられます。 例えば、先に拙記事「冠川の甲羅干し現場」に引用した『仙台市史』所載の図において、「通史編2古代中世」のそれと「通史編3近世1」のそれとでは齟齬があります。 すなわち、前者は冠川稲荷より下流側、後者は上流側において現在の七北田川流路と別れております。 なにかスッキリしないままでいた私は、『多賀城市史』所載の「多賀城市付近の地形区分」の図に着目しました。 NHKの『ブラタモリ』の中で、タモリさんは時折「土地が記憶している」旨の発言を繰り出されますが、「けだし名言」だと思います。いみじくも、自然堤防の展開をみればおおよそは推測できそうです。 加えて、もうひとつ私が注目したのは「袋」という地名です。おそらくそのあたりに水の滞留するスポットがあったのでしょう。付随して流路の蛇行も推察されます。 それらを鑑み、私が想定した流路はこうです。 まず、新田浄水場あたりから現存する用水堀のルートとなり、それが岩切駅から南下してくる道筋と接するあたりから市民農園付近を並行する用水堀にシフトし、自然堤防の隙間をぬって山王小学校方面に流れていたのではないでしょうか。 その後、現在田園地帯となっている自然堤防に囲まれた後背湿地に解放されると、やや暴れ川気味に東流し、対岸の自然堤防の隙間をぬって砂押川に抜け出ていたのではないでしょうか。 あやめまつりの駐車場に車を置いた私は、国府多賀城駅から岩切駅までを鉄路で移動し、そこから自らの想定に基づいて歩き始めました。 開発された一面の水田地帯にあって、さすがに自然堤防の起伏を五感で体感することは出来ませんでしたが、国府多賀城駅まで戻ってきた私のスマホの万歩計は久しぶりに10,000歩を超えておりました。 本来の目的が「歩くこと」でありますので、ここは満足しておくべきでしょう。 |
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ここ最近、折からの運動不足に加えて歴史探索が減ってきていることもあって、如実に体重が増加しております。 これまでの人生ではじめてBMIの計算上いわゆる「肥満」の域に達していることに気づいたわけですが、青少年期には必死に体重増加をはかってもなかなか太れなかった私が、まさかこうも簡単に体重が増えていくとは夢にも思いませんでした。 なにより、数値上の問題もさることながら、疲れやすさや腰痛も無視できなくなってきているので、さすがに意識して歩くことにしました。 さて、どこを歩こうか・・・。 すぐに浮かんだのは、七北田川(ななきたがわ)―冠川(かむりがわ)―の堤防でした。私の歴史探索の原点ともいえる岩切から福室にかけての七北田川、その堤防に沿って整備された遊歩道の景色には心身ともに癒されます。 七北田川というキーワードが思い浮かんだ時、ふと、いにしえの冠川の流路でもある多賀城市八幡(やはた)の砂押川沿いの遊歩道を歩いてみるのも良いかもしれない、と閃きました。 結局多賀城に向かうことにした私は、途中「多賀城跡あやめまつり」のノボリに目を奪われました。 これまで数えきれないほど多賀城を訪れている私ですので、路傍のあやめ園が例年のこの時期に華やかに彩られている風景も、とりあえず通りすがりには眺めておりました。 せっかくだからこの機会に立ち寄ってみよう――。 というわけで、生まれて初めて旬のあやめ園をゆっくり歩くことにしました。 梅雨時の花、というと、私は真っ先に紫陽花が頭に浮かぶのですが、かつて、飛び込み営業やポスティングをしていた頃、鬱々とした長雨に傘をさせども濡れそぼちつつ、チラシだけは濡らすまいと憂鬱な思いをひきずりながら歩き続けた私にとって、民家の庭先に咲く鮮やかな紫陽花はせめてもの癒しでした。曇天の薄暗い風景にひときわ輝いてみえたのは、多分に私の心理状態によるところが大きかったのでしょうが、心なしか、あやめの青紫にもそれに通ずる感覚を覚えました。 天候にもそこそこ恵まれたこの日、あやめを撮影していて思ったことは、単にこの花を美しく撮りたいと思うのなら、むしろ雨露がしたたる鬱々とした曇天の方が向いていたのかもしれない、ということでした。 しかしそういう日であったならおそらく外出する気にもならなかったわけで、私はこの場を歩いてはいなかったことでしょう。なんとも皮肉なものです。 あやめ園を後にして、JR仙石線の多賀城駅前に立ってみた私は、その変貌ぶりに驚きました。 この地に自分の足で立ったのはいつ以来でしょうか。七ヶ浜町方面への路線バスが出ているこの駅前ですが、30年ほど前に同町に住まわれていた大学教授を訪れた時以来であると思います。 仙石線の立体交差化に伴う周辺街区の区画整理や、もしかしたら東日本大震災での被災も関係したのでしょうか、かつての田舎じみたものからは一変して、だいぶ都会的な雰囲気になっておりました。 多賀城政庁をイメージしたものと思しき駅舎もなかなか洒落ております。 駅前広場に建てられてモニュメントは、多賀城碑の覆屋(おおいや)をモチーフとしているものらしく、多賀城市内を襲った津波の最大の高さ6メートルに合わせてあるようです。 かつて多賀城を壊滅させた貞観の大津波は、冠川を遡上した海嘯であったと思われますが、先の東日本大震災においてもやはりこの川を遡った海嘯が多賀城市内を呑み込みました。
いにしえの冠川たる砂押川沿いを歩いていると、どうしてもそのことを考えてしまうわけですが、同時に、奈良期における国内三大都市の一角を支えていたのもこの川であったのだ、と感慨深くなってくるのでありました。 |
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平安中期の承平四(934)年頃、源順(みなもとのしたごう)によって撰進された『倭名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)―俗に和名抄―』には、宮城郡の郷として次の十郷が挙げられております。 赤瀬、磐城、科上、丸子、大村、白川、宮城、餘戸、多賀、柄屋 これら各々が現在のどの地にあたるのかについては明確でありません。 『宮城県史』なり、宮城郡エリアの各市町村誌を眺めてみても、各々に見解があり、確定的な説は存在せず、諸説紛糾しているという他はないのが実情です。 『松島町誌』は、『続日本紀』の弘仁三(812)年九月の項に遠田郡の竹城公何某らが「高城連」の姓を賜った記述があることから、和名抄が成立した承平年間(931〜938)当時に竹城郷―高城郷―が存在していなかったとはとうてい考えられないとして、「磐城郷」とあるのがそれではなかったか、と推測しております。 すなわち、磐城郷は名取郡や桃生郡にもみられることから、「同名の郷が多かったために誤って記されるにいたったのではなかったろうか」というのです。 しかし、それはいかがなものでしょう。 多分に百科事典的な和名抄は、醍醐天皇の皇女勤子内親王に献じられたものであり、難読な語彙については丁重に万葉仮名で和訓が書き添えられているなど、実にきめ細やかな気遣いがなされております。それ故か“最古の漢和辞書”などとも評価されているほどのものなのです。 然るに、こと表記において『松島町誌』が推測するようなケアレスミスなどはとうてい考え難いのではないか、と私は思います。 では高城郷はなかったのか、と言われてしまうと困るのですが、もしかしたら、記述が憚られたものか、あるいは郷としての歴史自体はやはりもっと下るものか、などとは思います。 何故なら、天孫降臨の司令神と同訓の“タカギ”という言霊が、他でもない天孫族たる天皇家の内親王に献じられた文物において、ぞんざいに扱われたはずはない、と思うからです。 さて、磐城郷について考えてみたいと思います。 『利府村誌』を継承する『利府町誌』は、磐城郷の比定として「かつて岩城の里と呼ばれた旧岩切村、今の仙台市岩切周辺の地であろう」としております。 岩切という地名だけに、その韻からすんなりなじむ説ではありますが、地名からこじつけられた可能性も払拭しきれないので、出来れば「岩城の里」と呼ばれていたことを補強するなにかしらの史料なり情報が欲しいところではあります。 また、邨岡良弼(むらおかりょうすけ)によって明治三十五年に刊行された『日本地理志料』は、驚くことに塩竃が磐城郷に属していたものとみたようです。 その理由はわかりませんが、もしかしたらその可能性もあるか、という思いも、実は私の中にはあります。 仮に鹽竈神社の始原が、本来左宮一禰宜安太夫家の氏神であったものとみるならば、周辺一帯が石城國造家と関わりの深かった可能性も生じ得ます。 つまり、磐城郷が、石城―福島県いわき市―からの移民の居住区を意味する地名であったというならば、それはすなわち、多珂國造家の本家筋と思しき石城國造家を輩出したであろうオホ氏なり丈部(はせつかべ)氏―安倍氏―の居住区であった可能性も生じるものと思うからです。 大胆な憶測を試みるならば、そもそも「冠川(かむりがわ)―七北田川(ななきたがわ)―」の流域を中心とした岩切から多賀城、利府、塩竃、七ヶ浜、松島湾をも包括する、いわゆる宮城郡一帯がその一族の本領であったのではないでしょうか。 以前にも語りましたが、もしかしたら多賀城のあたりには先住の彼らの拠点となるような城柵があって、多珂柵とでも呼ばれていたのかもしれません。 石城國は多珂國から分立されて成立したと思われますが、多珂國造家は石城一族であったことが『常陸國風土記』から推察されます。※ 思うに、多珂國や多珂神社の名称にも冠されている「多珂」は、おそらく本来は石城一族の屋号的な言霊であったのでしょう。 それが朝廷の進出にともない、王民化した陸奥の國府機能を併せ持つ「遠の朝廷」として生まれ変わることとなり、その際に平川南さんが説くところの中華思想上の好字“多賀”があてはめられたのではないでしょうか。 ※ 石城國は、広範な多珂國から分立されて成立した國ではあるようですが、『常陸國風土記』によれば、孝徳天皇の頃の多珂國造の名は「石城直美夜部(いわきのあたいみやべ)」であり、多珂國造家の本拠はむしろ分立された石城側であったものと考えられます。拙記事「仙台平野の五世紀:その7―名取郡の多加(たか)神社―」参照
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ある晴れた昼下がり、田子(たご)地区−仙台市宮城野区―の七北田川(ななきたがわ)の河川敷でカメさんよろしく甲羅干しをしました。 思えばこのあたりは、鹽竈神社の不思議を探らんとする私が、それまでの妄想や図書館での調査からついに外へと踏み出した最初期のフィールドワーク現場でもありました。まだデジカメなど持っておらず、ブログという言葉すら知らず、全くもって純粋な知的好奇心のみでの行動でありました。 当時の私は、冠川(かむりがわ)神話にたいそう惹かれておりました。 「七北田川(ななきたがわ)」は旧(ふる)く「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたわけですが、それは、現在鹽竈神社の隣に鎮座している志波彦神社の神が、この川に冠を落としたことに因むと伝わっております。とるにならない素朴な神話のようですが、これが思いのほか不吉な話である可能性に私は気づきました。冠はそれを被る人物の地位を象徴するもののはずですが、それを川に落としてしまったという情報は、信心深い古代人の心象にどのように映っていたものか・・・少なくとも、現代まで語り継がれている事実を鑑みるならば、それは相当ショッキングな“事件”であったに違いない、と私は考えたのです。 今、記事を書いている時点での私は、信濃系の馬産文化との濃厚な関係が推察される「瀧澤(たきざわ・りゅうたく)」の言霊と、そこから派生したと思しき「柳沢(りゅうたく・やぎさわ)」や「八木沢(やぎさわ)」などの言霊への検討の過程で、もしかしたら「蟹守=掃守(かもり・かんもり・かもん)」なり「神降(かみふり)」の韻が、「冠(かんむり・かむり)」に変化して、後世に冠にこじつけた神話が後付けられた可能性もあるかもしれない―拙記事「兜と冠と蟹守」参照―とも思い始めているのですが、当時は、蝦夷の王家と思しき志波彦の失脚神話という方向でのみ発想を突き進めておりました。もしかしたら冠は斬り捨てられた生首への間接的な表現ではなかったか、すなわち、神と崇め奉られる以前の敗者の酋長としての志波彦の斬首現場が、この川のどこかであったのではないか、と考えていたのです。 ひとまず私は、乗っていた馬が川底の石につまずいて冠を落とした志波彦神が、怒って川底の石を全て拾わせ積ませた場所と伝えられている石留神社―仙台市泉区石止−、あるいは、渡ろうとしたときに風で冠が飛ばされた、と伝えられている今市橋(いまいちばし)付近−仙台市宮城野区岩切―のいずれかがその現場と疑いました。 なにしろ今市橋付近の八坂神社は、明治七(1874)年以前の志波彦神社の旧鎮座地でもあり、現在も境内には冠川神社という名で志波彦神が祀られており、私は石留神社が死の現場で八坂神社が墓ではなかったか、と一応の仮説を立てました。 甲羅干し現場の田子地区はそれらの下流にあたるわけですが、その対岸の多賀城市新田地区には流れてきた冠を狐がくわえて上ってきたという伝説もあります。 伝説地には祠が建てられており、冠川稲荷社と名付けられております。 江戸時代に流路が変えられる前の冠川は、その周辺の南安楽寺あたりから左折し、東流していたとされております。そしてそれは多賀城市八幡あたりからはおおよそ現在の砂押川の流路となって、最終的には湊浜(みなとはま)―宮城郡七ヶ浜町:仙台港付近―から仙台湾に注いでおりました。 南安楽寺周辺より上流へは川舟が遡ることが出来ず、そのあたりで湊浜からの商人船なども荷揚げせざるを得なかったものと考えられております。したがって、このあたりに陸揚げ港と市場―冠屋(かぶりや)市場―が開かれていたものと考えられます―参考:『仙台市史』―。 それらを鑑みるならば、おそらくは中世の多賀國府もこのあたりにあったのでしょう。 したがって当地の冠川稲荷社は、産土神たる志波彦神が國府や市場の鎮護として祀られた名残なのであろう、と私は考えております。 ※両方とも仙台市史所載の図ですが、流路の推定にはやや齟齬があるようです。 久しぶりに冠川稲荷社を訪れてみたくなった私は、対岸への橋を渡らんと堤防の遊歩道、すなわち〽ある晴れた昼下がり市場へ続く道〜を歩き始めました。 「田子大橋」とは名ばかりの“狭い橋”を渡っていると、橋の下には数匹の鮭が身をよじるように泳いでいるのが見えました。産卵していたのでしょうか。 おだやかな風景に見惚れてしまい、立ち止まって欄干にもたれて川にそよぐ秋風の揺らぎに身を任せました。やおらスマホのカメラ機能にて風景を撮影していると、ウォーキング中のややお歳を召した男性に声をかけられました。 「いい景色ですよねぇ〜。この橋に来るといつもカメラを持ってくればよかったって思うんですよ・・・。でもいつも忘れてきてしまうんですよねぇ・・・。そこに鮭がいるんですが、見えますか?ここで産卵して、あと死んでしまうんですよねぇ・・・」 ありがとうございます。何か優しい気持ちになれました。つい、映画『おくりびと』のワンシーンを思い出しましたが、私が本木雅弘さんにでも見えたのでしょうか・・・いえ、言葉が過ぎました・・・すみません・・・。 さて、橋を渡り切ると、すぐに冠川稲荷社が見えます。 はて? なにか、だいぶ雰囲気が変わっておりました。 以前訪れたときには、住宅街の真ん中にあってちょっとした林に囲まれていて、いかにもそこに神社がありますよ、という雰囲気を醸し出していたはずですが、なにやら妙にさっぱりしておりました。 樹木が全て伐採されて、祠が四方から丸見えの状態になっていたのです。 さきほど視聴したNHK大河ドラマ『真田丸』で、外堀のほとんどを埋められた大坂城が丸裸にされておりましたが、まさにそのような印象を受けました。 たしか以前に画像を撮っていたはず、と思い、帰宅後探してみたところ、結局は使っていなかったものの、2008年12月の拙ブログ開設時、当座の記事に必要と考えていた画像を一気に撮影しまくった際の画像フォルダに保存されておりました。 そして、やはり私の記憶に間違いはなく、この祠は樹木に囲まれておりました。 明治期、神社合祀に強く反対をしていた南方熊楠(みなかたくまぐす)の真意は、むしろ森林伐採への反対にこそあったようでもありました。熊楠の理念からすると、社殿が残っていても周囲の森が失われたら意味がない、ということになるかもしれません。中沢新一さんの『熊楠の星の時間(講談社)』には、芳賀直哉さんの『南方熊楠と神社合祀―いのちの森を守る闘い(静岡学術出版)』を参照しながら、こんなことが書かれてありました。 ―引用― 〈第八点〉合祀は、天然風景や天然記念物を滅亡させてしまう。 熊楠がいちばん言いたかったのはこれでしょう。熊楠はこう書いています。「天然風景は、曼荼羅である。天然自然のうちに抱かれ、真理を感得することもまたできよう」。「天然記念物を手厚く保護する外国と、我が国の合祀の蛮行には驚き呆れる以外にない」。 日本の古くからの森林は、神社に残されてきました。それを伐採消滅させてしまうことによって、何が奪われるのでしょうか。曼荼羅にも喩えられる植物相を中心にして形成されてきた、世界の全体性が破壊されてしまうのです。 冠川稲荷社のあたりは、特に東日本大震災の大津波に呑まれたわけでもないはずなので、おそらく他になにかよんどころのない事情があってこのような状態になってしまったのでしょう。残念ではありますが・・・。
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