はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

鹽竈神社の謎 提起編

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 古代陸奥国最大の大社にもかかわらず、決して国家の公式リストに挙がることのなかった「鹽竈(しおがま)神社」。
 一方では正税から祭祀料を割かれているという矛盾を見せておりました。
 正税から祭祀料を割かれていた社は、全国でも4社を数えるに過ぎず、他の3社はしっかりリストアップされた社たちでした。
 鹽竈社のみがリスト外の、いわば非公式な社だったのです。
 にもかかわらず、鹽竈社には、他の3社の5倍以上の額が割かれておりました。
 まずはこの古社が持つ謎を紹介していきます。
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     ↑「志波彦神社・鹽竈神社」境内から千賀の浦(塩竈湾)を望む

 宮城県塩竈市の鹽竈神社で、特にただならぬものを感じさせられた「不思議」を列記しておきます。

奥州一ノ宮と言われる大社にも関わらず、延喜式の式内社ではないこと。
式内社ではないにも関わらず、弘仁式や延喜式において全国で四社しかない正税からの祭祀料を受けていたこと。
鹽竈社以外の、全国で正税から祭祀料を受けていた他の三社「伊豆国三島社」「出羽国月山大物忌社」「淡路国大和大国魂社」は、いずれも式内社であったこと。
鹽竈神社が受けていた祭祀料は他の三社の五倍以上で最高額であったこと。

 念のため補足しておきますと、「式内社」とは平安時代(延喜年間)に成立した『延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう)』に記載がある神社のことです。政治を「まつりごと」と言うように、比較的リアリストの武士が政治を担う以前は、神仏を祀ることは重要な政治政策の根幹に関わっておりました。この神名帳は律令国家の法整備の一環として、政治上最も重要な「神祀り」の全国的な整備の骨格を成すものでもあります。誤解を恐れずにいうなら、式内社とは「国家に公式に認められた神社」と言っていいのではないでしょうか。
 ちなみに、鹽竈神社と境内を共有する「志波彦(しわひこ)神社」は、延喜式神名帳によれば「大社(たいしゃ)」つまり「名神大社(みょうじんたいしゃ)」に列せられておりました。つまり「公式」には「最高の扱い」の神社ということになります。しかし、それでも特に正税からの祭祀料は受けておりませんでした。これは、いかに最高の格式を認められた「名神大社」であろうとも、正税からの祭祀料を受けられるとは限らなかったというひとつの証明でもあります。全国ほとんどの「名神大社」はそうだったのです。
 隣同士にある両神社の待遇がこうも不自然な対比をできてしまう不可解さ。境内が同じだから同じ神社として扱われていたのでしょうか。いや、そんなことはありません。志波彦神社がこの鹽竈神社の境内に鎮座したのは明治以降なのです。
 現在、この両神社の正式名称は「志波彦神社・鹽竈神社」でございます。両社を併記するも、志波彦神社を先に表記するのが正式です。参拝の栞をはじめ、境内内外の多くの公式な表記にはそう記されております。公的な史料上志波彦神社は最高格の名神大社であり、鹽竈神社が非公認であったことを考えれば妥当と言えるでしょう。
 しかしこれは周辺に住んでいる人間からすると、実はとても不自然な印象を受けます。志波彦神社がかつて別格な「名神大社」であったことなど、現実的には一般市民のほとんどはわかりません。地元では何と言っても鹽竈様が最大級なのです。にも関わらず、志波彦神社が鹽竈神社よりも先に表記されるのが「正式名称」だということになります。それは市民の感覚とはズレているということを書きとめておきます。

 さて話を戻します。
 先に触れたとおり、仮に延喜式神名帳を「公式リスト」だとするならば、鹽竈神社は「非公式」な神社だったということになるわけですが、これが如何に不思議な話かおわかりになりますでしょうか。
 しつこいようですが鹽竈神社は政府から最高無比の祭祀料を得ていたのです。ということは「非公式な神社」が最も手厚い保護を受けていたことになるのです。時の政府の鹽竈神社に対する扱いは、例えが悪いかも知れませんが、まるで隠し子に対し多額の養育費を負担しているかの如くにも見えます。
 一応それを解釈する説はいくつかあります。代表的なものを乱暴にまとめてみますと次のような内容でしょうか。。
1、鹽竈神社はいわゆる「総社(そうじゃ・そうしゃ)」であった、というもの。
2、鹽竈神社が「志波彦(しわひこ)神社」あるいは「鼻節(はなぶし)神社」といった付近の「名神(みょうじん)大社(式内大社)」と同体であったから、とするもの。
 まず、1、総社説を簡単に補足します。
 国府の制度が定着してきて、地方に政府の要人が駐留あるいは来訪することが多くなってきますと、いちいちその国の重要な神社を回って参拝することが大変な手間になってまいります。そこで国府の近くにその国の重要な神々にお集まりいただく社を造営し、政府の要人達が一ヶ所で用を済ませられるようにしたものが総社です。なんとも人間の身勝手な制度でございますが、鹽竈神社は要はその総社であるがため(重要ではあるが)式内社ではないという説です。
 後者、2、も根本はそれに近いのですが、特に鼻節神社側の主張では鼻節神社が元祖鹽竈神社であるとのことですので、現在の鹽竈神社はいわば国府に近いところに便宜上鎮座しているだけであり、元祖の鼻節神社が式内大社である以上重複するから式内社にカウントする必要はないといったところなのでしょうか。
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 いずれも、鹽竈神社そのものが有名無実の抽象的な存在であるという解釈に見受けられます。
 しかし、少なくとも前者について言うならば、元宮司の押木耿介さんは著書『鹽竈神社(学生社)』のなかで、
「鹽竈神社の始原が奈良時代以前にさかのぼる以上、平安中期に成立する総社の制をもって、これを理解しようとするのは大きな誤りというべきであろう。」
と、一蹴しております。どちらかといえば私もそれに賛同するものでございます。
 鹽竈神社への祭祀料が明記されている「主税式」は、国家予算の配分を記録したものです。いわゆる時の権力者によって捏造されがちな諸々の文書とは異なり、最も正確さを求められるべきものと考えられると思うのですが、「弘仁式」でも「延喜式」でも、「主税式」において正税からの祭祀料の配分先は総社でも鼻節神社でもなく、はっきり「鹽竈神社料一万束」と書かれているのですから、まっすぐに受け止めるべきなのではないでしょうか。このあたりいろいろと思うところはあるのですが、もう少し遠回りしてから語らせていただくこととして、現段階でひとつだけ申しあげておくならば、鹽竈神社境内からも縄文晩期の製塩土器が出土しております。私は、鹽竈神社が鎮座する場所は多賀城が造営されるはるか昔からなんらかの聖地だった可能性はあろうかと思うのです。

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 宮城県塩竈市の鹽竈神社を参拝しますと、本来の正面の参道から拝殿へ向う分には迷わないのですが、駐車場から拝殿を目指して歩いていくと初めての参拝者はとまどうかもしれません。
 まず、社務所が親切に設置している順路の案内板には「鳥居を目標にしてください」と書いてあるのですが、その場所から鳥居を探すと、すぐに立派な赤い鳥居が目に飛び込んできます。

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しかし、実はこれは「鹽竈神社」ではなく、「志波彦(しわひこ)神社」なのです。
もちろんそのまま志波彦神社に参拝されてもそれはそれでよいのですが、少なくとも鹽竈神社ではありません。
 その配置に惑わされず?向って左手に志波彦様の鳥居よりも小ぶりな鳥居を見つけられればそれが鹽竈様の鳥居です。その鳥居をくぐってまっすぐ進めばまもなく手水舎があり、東神門が目に飛び込みます。もちろんそこからも拝殿へ到達できるのですが、しかし、ここはそれをぐっとこらえて左に折れて大きく迂回して正面にまわりたいところです。

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 巨大な古木に囲まれた広い参道を進むと、やがて立派な随身門が現れます。それをくぐり、続いて唐門をくぐると正面にこちらを正視する向き、ほぼ南向きの拝殿があります。

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そして、むかって右側、つまり東側にも立派な拝殿があります。これはほぼ西向きで「別宮」と書いてあります。
 おそらく初参拝者のほとんどは正面の拝殿に参拝することでしょう(正面の拝殿は厳密に言えば「左宮」と「右宮」に分かれております)。でも地元の方はまず「別宮」を先にお参りするといいます。
聞けば、
「こっちが鹽竈様だから」
なのだそうです。

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 また、鹽竈様は安産の神様としても有名なのですが、安産祈願に来たことを宮司および境内関係者にお伝えすれば、おそらく「別宮」に案内されることでしょう。
 鹽竈神社を専門とする唯一のガイドとして15年勤められたという、保田敏雄さんの著書 『観光の鹽竈神社(宝文堂)』にこんな記述があります。

──引用──
◎拝み方の順序
拝殿が二つあるこの拝み方の順序であるが、当社は一風変わっており、右の別宮の方から先に拝む方が正しいとされている。つまり鹽竈神社の名前に由来する神様であり、また綱村公が建造物造営に当り、当社の縁故を制定された際、別宮の塩土老翁神を首位に置かれた為である。こんなことで安産のことを拝みに来た方が、知らずに正面の武神に安産を祈る―といった具合で変なことになってしまう

 何故このような配置なのでしょうか。
 これは仙台藩四代藩主「伊達綱村」公によるものなのです。鹽竈神社そのものとされる別宮の主祭神が「鹽土老翁神(しおつちおじのかみ)である」と明確に定めたのも綱村公でございます。少なくとも藩祖「伊達政宗」公の時代にはわりと曖昧だったようです。
 綱村公は藩祖「政宗」公が造営した社殿を全く新たな配置にリニューアルしております。とにかくも、政宗公の時代には全ての社殿が南を向いていたと思われますので、つまり、鹽竈神社の現在の姿には、仙台藩四代藩主伊達綱村公の意思が大いに反映されているということになるわけです。当然なにかしら思うところがあったのでしょうがそれについてはおいおい考えていくとして、鹽竈神社の不思議はまだまだたくさんございますので、まずは次回以降も引き続き気づいたままに不思議なことを列記していこうかと思っております。

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紀州和歌浦の鹽竈神社

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 和歌山県和歌山市和歌浦に「玉津島神社」という古社があります。
 社伝を信頼するならば神代以前からの極めて古い由緒をもつ神社ということになりますが、その伝統ある古社のもともとはほんの「祓い所」に過ぎなかった聖地が、大正六年(一九一七年)という歴史を遡る上ではごく最近のような時代にいっぱしの独立した神社になりました。
 名を「鹽竈神社」といいます。
 一応は宮城県塩釜市にある奥州一ノ宮「鹽竈神社」の分社といっていいのでしょうが、この紀州和歌浦の鹽竈神社は、その大正六年の分祀によってはじめて神社として成立したという類のものではないようでして、単にその年公的に改称許可を得ただけで、それ以前には「窟神社(元窟神社?)」と称していたようなのです。
 現在の和歌山市は、吉野や高野山といった聖なる地を上流とする「紀ノ川」が、その河口において淡路島あたりからの海流と力を合わせて集め続けた砂洲上に発展した都市です。かつての紀ノ川は自らが築き上げたはずの砂洲に阻まれて、大きく左折して南下していたようです。おおよそ現在の「和歌川」のルートで、玉津島神社や「窟神社(元窟神社?)」がある和歌浦あたりから海に注いでおりました。
 たとえば高野山などは弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)によって精舎が開かれたわけですが、そもそもこれらを抱きかかえる紀伊山地一帯の日本史における歴史は深く、かつ神々しいものです。紀伊山地で産声をあげる大河として、例えば東の伊勢湾へ流れ下る「宮川」の河口あたりには「伊勢神宮」があり、南へ下る「熊野川」は「熊野本宮・速玉」の両大社を駆け抜けて一気に熊野灘へ流れ落ちております。流れ落ちるといえば、熊野三山の残る一社である「那智大社」などは、我国を代表する名瀑「那智の滝」そのものがご神体でもあります。そして吉野や高野山から集めた聖水を西の海、すなわち紀伊水道へ送り出すのが紀ノ川です。その聖なる川の河口に玉津島神社とこの元窟神社すなわち紀州和歌浦の鹽竈神社は鎮座しております。
 往昔から窟神社(元窟神社?)という名前だったのか、もしかしたらその前の呼び名があったのかどうかはよくわかりませんが、とにかくひとつの神社としてのそれなりに独立した由緒らしきものもあるようで、それは玉津島神社の主祭神である「丹生(にゅう)明神」と無縁ではなさそうです。丹生明神とは、紀ノ川の上流にある世界遺産「丹生都比売(にゅうつひめ)神社」の主祭神でもあり、その名も「丹生都比売命」のことでもあります。司馬遼太郎氏は『空海の風景』の中で、この神について空海以前からの高野山の地主神と推測し、かつ、このあたりで丹生(水銀)を採掘していた人々の氏神でもあろうとしておりましたが、この扱いの低そうな窟神社(元窟神社?)あらため鹽竈神社は、深追いすればなにか次々と面白いことを教えてくれるのかもしれません。
 ところで東北地方のよもやま話を語ろうとしている私が、何故本家陸奥よりも先にこの紀州和歌浦の鹽竈神社の話をもってきたのか、もちろん理由があります。実は山下三次著『鹽竈神社史料』に記されたこの社に伝わるほんのさもない「一説」が私の好奇心を大きく揺さぶったのです。

──引用──
 和歌山縣海草郡和歌浦町字明光坪|鹽竈神社|無格社|祓戸神四座|
由緒。古へ天野丹生明神ノ神興玉津島へ渡御ノトキ此窟ノ内ニ渡セシ故ニ興窟ト云ヒ又興洗岩トモ云フ元窟神社ト稱セシヲ大正六年十一月二十二日鹽竈神社と改稱許可。
〔一説ニ、鹽槌翁ノ法ヲ傳ヘラレタル處十三箇所アリテ和歌ノ浦ノ鹽竈ハ其ノ九箇所目ニアリ奥州の鹽竈ハ十三箇所目ニアリテ世に之ヲ「はてノ鹽竈」トイフ――大正十五年三月該社ノ調査ニ依ル〕

 下世話ながら現代風に訳しますと、「天の丹生明神の神輿が現在の玉津島神社に渡ってきたとき、この窟の中(紀州鹽竈神社のある窟)に渡られたので興窟(こしのいわや)といい、輿洗岩(神輿を洗い清めた岩という意味か)ともいう。元は窟神社(元窟神社?)と称していたが、大正六年十一月二十三日鹽竈神社と改称する許可を得た。」ということになるのでしょうか。
 その後にカッコ書きで続く付録の一説が問題なのです。
「一説(大正十五年三月当該社の調査)によれば、鹽土老翁神(しおつちおじのかみ、鹽竈神社の主祭神)が法を伝えた、すなわち製塩方法を伝えた場所は全国に13箇所ある。和歌浦の鹽竈神社はその9箇所目で、奥州の鹽竈(鹽竈神社の総本社)はその最終13箇所目であり、世にこれを「はてノ鹽竈」という」というのです。
 つまり紀州のそれは「鹽土老翁神の法」においては、本社より先輩にあたるということになります。なにより、最大かつ元祖であり本家であるはずの奥州一ノ宮(陸奥)鹽竈神社は紀州和歌浦の後輩であるだけではなく、なんと「最終」なのだそうです。ご丁寧に「世に之ヲ「はてノ鹽竈」トイフ」と念を押されております。
 実は鹽竈神社のもろもろの不思議に対する私の考えを表現するにはこの紀州和歌浦の鹽竈神社が語る「はてノ鹽竈」という響きほど絶妙なものはなく、また、その語感をなかなかに気に入ってもいます。だからこそそれをブログのタイトルにも使わせてもらったのです。
 次回は、本家陸奥の鹽竈神社の境内を歩いてみたいと思います。

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