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志波彦大神に関連してこんな神話もあります。 志波彦の神様は、自ら乗っていた白馬が石につまずいて冠が落ちたことに怒って、周りの神様達に川底の石を全て拾わせ、それらを川岸に積みあげ、そこに見張りを立てたそうです。それ以降それより下流には一つも石がなくなったともいいます。その場所は、冠川神社がある岩切より上流、仙台市泉区石止(いしどめ)というところで、その石を積んだ場所を祀ったのが「石留(いしどめ)神社」だといいます。 言い換えれば、志波彦神が冠を落とした現場、私の想像で言うところの「死」の現場はこのあたりということでしょう。石を積んだというところから考えますと、まるで墓標のようにも感じます。 ちなみに、7〜8キロほど下流の多賀城市内の河岸には、冠を見つけてくわえていたキツネいたということで、キツネが冠を拾ったとされる場所に「冠川稲荷神社」が鎮座しております。 これらの神話が全て創作だとしたら、なぜそのような―ある種不吉な―創作をしたのかが気になります。私は、やはり何かしらそれなりの事実(事件)があったのではないかと思っております。繰り返しますが、私はこれらの神話について、志波彦神という神の死、あるいはその神に比定された人物、例えばこの地を収めていた首長の死、のいずれかを意味するものではないかと想像します。 ちょっと複雑な言い回しになりますが、人としての志波彦、つまり神様になる前のある偉大な人物が死ぬことによって「神様」になった場所、それは言い換えれば神様が降り立ったことを意味する「神降り(かみふり→かむり)」の場所、つまり神様としてあらたに生まれた場所かも知れませんし、あるいは、元々他の名前であったかもしれない志波彦の神様が、現在に伝わる「志波彦大神」という抽象的な名前に塗り替えられ、本来の姿ではなくなったということの暗号なのかもしれません。 想像どおり「石留神社」が志波彦大神の死の現場であるならば、付近にある「上谷刈(かみやがり)」という地名も、案外「死」をあらわす隠語「神あがり」から来たという想像も出来そうです。そういえば上谷刈付近には念仏という地名もあります。ただし付近には仙台藩時代の死刑場もあったのでむしろそちらに由来しているかもしれません(もちろん上谷刈が神あがりだったとしての想像ではありますが)。
ちなみにこのあたりは、一部の人達には心霊スポットとして知られているようですが、なにか関係あるのでしょうか。 なにはともあれ、私はどうにもここになんらかの殺害あるいは隠滅のにおいを感じるのです。なぜなら、わざわざ神話として語り継がれ、丁重に祀られているからです。志波彦神と冠川の神話は、この地に勢力を誇った何某かが、物理的にせよ形而上にせよ「死」に、その祟りを恐れる勝者によって神として生まれ変わらせられた物語ではないかと考えるのでございます。 そんなことを考え始めたらどうにも気になり、「石留神社」についての記述を様々な文献から探してみました。すると『宮城郡誌』の「二柱(ふたはしら)神社」の項において、石留神社が「御霊神社」と表現されており「武烈天皇の御陵なりしと」という言い伝えがあることを知るに至りました。 「武烈天皇」の伝承は、何故か都から遠くはなれた陸奥の地において脈々と息づいているのですが、それについての空想は後にとっておいて、ここでは少なくとも石留神社自体に「御陵」つまり「墓」であるという言い伝えがあったことを強調しておきます。 |
志波彦神社と冠川伝説
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古代の法律細則『延喜式』上、陸奥国最大級の大社「志波彦(しわひこ)神社」の志波彦大神には「冠を落した」という神話が語られております。
その神話が語る意味を考えていきます。
その神話が語る意味を考えていきます。
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現在仙台市宮城野区岩切の志波彦神社が元鎮座していた場所には「八坂神社」が鎮座しているのですが、名残として境内に「冠川明神(かむりがわみょうじん)」という名前で志波彦大神も祭られております。何故「冠川明神」なのかといいますと、付近を流れている「七北田川(ななきたがわ)」が、その昔「冠川(かむりがわ)」と呼ばれていたことと関係があります。 実はこのネーミングも志波彦神社と無縁ではありません。 地元では、「志波彦様が冠を落とした川だから“冠川”と名づけられた」という言い伝えがあります。 ちなみに「坂上田村麻呂が冠を落とした」という説もあります。 ただ、田村麻呂がいかに蝦夷(えみし)に好意的であったにせよ、朝廷側の人物であることには違いなく、私は仮に志波彦大神に比定されたモデルが実在したとするならば、それはあくまで蝦夷側の人物(神様?)だと想像しておりますので少々なじめません。 それはともかく、冠を落とした原因については、細かく言えば「乗っていた白馬が川底の石につまずいたから」という話と「風にあおられて」という話とあるのですが、いずれも「冠を落とした」という結果については同じでございます。
↑神話時代の日本でこの冠はどうかと思いますが・・・。
また一方「神降り(かみふり)」がなまって「かむり」になったという言い伝えもあります。「神降り」とは、神様が生まれること、あるいは神様がその地に降臨されたことを言います。なにしろ「冠川」の命名には「神様」の逸話が関わっていると考えてよさそうです。 それにしても、この「冠を落とす」という言葉は文字どおりに受け止めていいのでしょうか。 仮に高貴な人物が川に冠を落とすような事件が現実にあったとして、その光景を見た人達は「縁起でもない」と考えただろうことは想像に難くなく、その人物(神様)がその地位にいることを象徴しているもの「=冠」を落とすということは、その地位から転落する暗示に思えたのではないでしょうか。 もしかしたら「冠」とは「生首」のことではなかったのでしょうか・・・。 そこまで過激な想像をせざるとも、いずれにせよ「冠」には、なにかそのパーソナリティの象徴的な意味合いがあったことだけは誰も異論がないと思います。 |
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宮城県塩竈市に鎮座する「志波彦(しわひこ)神社」の祭神は「志波彦大神」だといいます。 この神は記紀には登場しません。それどころか私自身現時点で陸奥国以外では見かけたことがありません。陸奥のオリジナルな神様なのでしょうか。もしかしたら蝦夷の神様なのでしょうか。 先に述べたようにその志波彦(しわひこ)神社が現在地(塩釜市一森山)に鎮座したのは比較的新しく、明治七(一八七四)年十二月五日のことです。元々は仙台市宮城野区岩切にありました。また、一説には岩切とは別な驚くべき場所に鎮座していたことも『仙台叢書』などの史料から確認できておりますが、ここでは深入りせずにおきます。 志波彦神社が鹽竈神社境内地に遷座された理由は、中世以来衰微していたこの神社が明治四年に国幣中社に指定されたことと、その境内として岩切が甚だ狭隘であったためのようでございます。また、明治四年のこの時の御祭文に鹽竈神社境内に新宮御造営なる旨が奏上されたといいます。これを受け、さしあたり鹽竈神社別宮に遷されましたが、その後一向に造営の気配がなかったようで、いよいよ大正時代に入り大正十一(一九二二)年、当時の山下宮司が政府に陳情したのですが、翌年の関東大震災復興を理由にとりあげられませんでした。そして昭和九(一九三四)年、山下宮司の次代にあたる古川左京宮司の強訴によって実に奏上から六十年の時を経て着手に至り、昭和十三(一九三八)年にようやく単独の社殿を持つに至りました。それが現在の社殿でございます。 ところで、この古川宮司の強訴のエピソードはなかなか面白いので、志波彦神社・鹽竈神社の公式ホームページから引用させていただきます。 ――引用―― 志波彦神社の遷座は明治天皇の思し召しによるものと言われておりますが、時の政府に社殿造営の陳情に行った古川左京宮司は、陳情者が列を為す中、「天下の一大事である。直ぐに取り次ぐべし」として乗り込み、勢いに圧された係官が取り次ぐと、担当大臣は「天下の一大事とは何事」と問いただした。そこで古川宮司は「明治帝の思し召しでもある志波彦神社の社殿造営を何時まで放置しているのか」とはなした。すると大臣は「天下の一大事と言うから何事かと思えばその様なことか」と答じた。そこで古川宮司「神様の事と明治帝の御意志をおいてこれに勝る一大事があるか」と一喝。漸く政府は重い腰を上げたという逸話が残っている。 これらのエピソードや、急ぎ鹽竈神社別宮に遷座させられたところからみますと、もしかしたら無冠の大社である鹽竈神社を、然るべき位置に認定させるための詭弁として志波彦神社、つまりかつての名神大社を事実上合祀したのでは?などと勘繰ってしまいます。実際に志波彦神社の鹽竈別宮への遷座と同時に鹽竈神社も国幣中社に列せられることとなりました。太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」制定の明治四(一八七一)年に列せられた志波彦神社に遅れること三年、明治七(一八七四)年のことです。
それにしても、私はここに幕末で賊軍となった仙台藩の明治時代の立場を垣間見てしまいます。 『延喜式』において名神大社は全国で二二四社あったといいますが、そのうち陸奥国には十五社もありました。大和国の二十六社は別格としても、それに次ぐ山城国の十六に匹敵する数です。その名神大社王国ともいえそうな陸奥国最高の格付けの神社が、近代の制ではせいぜい国幣中社だという。国幣中社の格付けは、官幣大社を最高として、国幣大社、官幣中社の下にあたりますので、随分と割り引かれたものです。 |
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