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磐司岩の名前の由来となった「磐司磐三郎(ばんじばんさぶろう)」と山寺にまつわる伝説に触れておきたいと思います。 磐司磐三郎とは、磐司と磐三郎の兄弟であるという話と、磐司が苗字で磐三郎が名前であるという話があります。また、大猿と旅の姫君との間に生まれた子であるとか、三十六歌仙の一人とされる実在が明瞭ではない人物「猿丸太夫(さるまるのたいふ・さるまるだゆう)の子で円仁と同じ下野(しもつけ・栃木県あたり。日光あたりとも伝えられている)出身であるなど素性はよくわかりません。 いずれにせよある程度共通する伝説としましては、二口峠に住みついていた狩人の達人(マタギの祖)磐司が円仁の教えに感銘を受け、この地での殺生(狩猟)をやめ、縄張りでもあった現在の立石寺のあたりの地を円仁に譲ったというものでございます。 狩られなくなったことを喜んだ動物達は円仁に感謝しましたが、円仁は「狩りをやめた磐司に感謝すべきである」として、動物達は獅子踊りをもって感謝の意をあらわしたといいます。山寺三大祭の一つ「磐司祭」ではこの故事にならい獅子踊りが奉納されております。 その後生業の狩猟が出来なくなったために秋田に去ったともいう磐司ですが、立石寺には開山に協力したとして地主権現として祀られております。
磐司なる特定の人物が実在したかどうかはわかりませんが、たしかにこの地にマタギはいたのでしょうし、この地が仏法の聖地になることによって殺生が前提となる狩猟という生業が成り立たなくなったのも事実かもしれません。 しかし、それをもって磐司なる人物(神)が地主権現に祀られたとも私には考えにくいのです。私は、この山寺の地はもともと岩を崇める信仰の聖地であったと考えております。伊澤不忍原著、伊澤貞一編集の『山寺百話』によれば、旧石器時代の石器等も発掘されているようで、古くからマタギ等の祖先信仰の霊山としての姿があったのではないでしょうか。磐司磐三郎とはそれを投影した人物像のような気がしております。 いずれにせよ、円仁は予め奥州の霊地(聖地)を熟知していたように思われ、かつ、それらを仏法に塗り替え、朝廷に災いを為さないようにするための行動していたのではという想像は許されるのではないでしょうか。 |
慈覚大師円仁の戦後処理
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「円仁さん」と呼ばれて東北人から親しまれている「慈覚大師円仁」。山形県「立石寺(りっしゃくじ・りゅうしゃくじ)」開基にまつわる伝承から、政略的な円仁の役割を考えます。
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宮城県仙台市太白区にある秋保大滝は、名取川の全流が55メートルという落差を一気に流れ落ちるド迫力の大滝でございます。 一説には那智、華厳(といういずれも霊地としては見過ごせない大滝)と並ぶ三大瀑布とも言われ、なによりこの滝の放出するマイナスイオンは国内最大級とのことです。 現代でこそマイナスイオンの効能は科学的に証明されておりますが、千年以上も昔であればその得体の知れない「癒やし効果」は、いわゆる「気」であり、まさに「霊威」であったことでしょう。 特に並外れた霊感を持っていたはずの高僧の、さらにトップの地位にあった円仁にとっては、このただならぬ効能はまさに神仏の存在を彷彿とさせたに違いありません。 それほどの滝が、もしも蝦夷たちにとって重要なご神体として崇められていたとしたら、朝廷側としてはそれをどう扱うべきであったでしょうか。 円仁の役割として、この大滝の霊威を味方に引き入れることは必須の使命であったと想像します。そのための寺を開基することは、円仁にとって最大級の重要任務であったのではないでしょうか。このことは、円仁が山寺において入定(にゅうじょう)している(だろう)ことからも想像できます。 円仁はそれにふさわしい霊地を探していたようにも思われますが、その候補地が当初は大滝の手前にある塩滝不動尊あたりであったのでしょう。 残念ながら円仁はその地においては拒否されたようで、そこで円仁はあらたなる候補地を求めて二口渓谷をさまよい、結局は奥羽山脈を越え、現在の山形県山形市の山寺(立石寺)の地に至りました。 そこで、これまたただならぬ岩肌の芸術を目の当たりにして、なにやら霊感でも働き、その地を人間としての自らの最終の地とまで決断したのでしょう。 そこに至る途中にもその呼び水になるような風景があります。 「磐司岩(ばんじいわ)」といいます。 その巨岩の絶壁は実に圧巻であり、これもまた霊的なものを感じさせられたことでしょう。
いずれ触れていきたいと思いますが、もし、「瀧の神様と岩の神様の“一対”」というものを忌避していたのであれば、特に、秋保大滝を過ぎて現れたこの巨岩は、少なくとも円仁にとっては無視できない忌むべきものであったかもしれません。 |
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坂上田村麻呂に制圧された後の陸奥の国において、蝦夷たちの疲弊した精神に対する戦後処理にあたったのが、当時の国家的な仏教でもある「天台宗」であったようです。 さしずめ、円仁の存在は第二次大戦後のマッカーサーあたりをイメージすれば近いのかもしれません。 現在の東北地方の人々は、「円仁さん」などと親しみをこめて呼んでおりますが、あくまで想像ですが、もしかしたらその当時は当地にとって必ずしも歓迎すべき存在ではなかったのかもしれません。 実際、そんなことを想像させられるお話もあります。 仙台市の奥座敷と呼ばれる「秋保(あきう)温泉」付近に「塩滝不動尊(しおたきふどうそん)」という不動尊があるのですが、ここに伝わる伝承が実に興味深いのです。 慈覚大師円仁はこの地を訪れ、この霊地に精舎を開き仏法を広めようとしたようです。 しかし時の領主がそれを好まず、あえて仏法の嫌う生臭物の魚を運んだりして嫌がらせをしたとのことです。 円仁は落胆してこの地を立ち去り、結局出羽に移り「立石寺(りっしゃくじ・りゅうしゃくじ)」、すなわち「山寺(やまでら)」を開いたというのです。 おそらく塩滝不動尊あたりを支配していた領主は、古くからこの地で信奉されるなんらかの信仰を頑なに守ろうとしていたのでしょう。裏を返せば、その伝承はいわゆる「円仁」の行動が朝廷の洗脳政策であったことを示唆しております。 先にマッカーサーで例えましたが、どうしようもない宗教感のすれ違い、ということで言うならば、むしろ現代、難航している米軍のイラクに対する戦後処理でイメージしたほうが近いのかもしれません。 ところで私は、この塩滝不動尊の伝承を知るまで、とても不思議に思うことがありました。 それは、秋保温泉から二口(ふたくち)峠を越えて立石寺(山寺)に至ったという円仁のルートからしますと、そのはるか手前にあたる「秋保大滝」が山寺の「奥ノ院」だとする伝承があることです。 『秋保大滝不動尊縁起』によれば、「大師は二口峠を出羽に越えて山寺に立石寺を創建したが途すがら大滝の壮観と森厳の氣に心をうたれここに錫を留めて不動尊を安置し立石寺の奥の院と」したとのことなのです。 山寺(立石寺)は、「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」との関係においてかなり重要な拠点です。山寺には、比叡山から消えることのない不断の火「不滅の法燈」を移し灯されております。戦国時代、織田信長によって焼き討ちされた比叡山は、逆にこの山寺からその同じ火をわけて戻されたといいます。 山寺には「比叡山の保険」的な印象がございます。 さらに山寺には円仁の入定窟と伝わる窟があります。 伊澤不忍原著、伊澤貞一編集『山寺百話』によれば、昭和二十三(一九四八)年十一月一日、山形県の史蹟調査員、翌年六月には国立博物館調査課主任小林剛博士、同年十月には小林博士と東京大学人類学教室の鈴木尚博士により開扉調査がなされたとのことです。 小林博士の発表によれば、棺内の遺骸には頭部がなく、代わりにかなり写実的な木製の頭像が置かれていたとのことです。その頭像は後頭部が平たくなっていたそうで、初めから仰向けで置かれることを前提にして造られたと考えられます。 結論的には断定は出来ないまでも慈覚大師と結び付けることも不可能ではないレベルのものであったといいます。 山寺の入定窟については、偉大な師匠でもある「伝教大師最澄」の眠る比叡山に、自らの墓は置くまいとした円仁の意向によるものであったともいわれておりまして、円仁開基伝承をもつ数ある東北地方の寺のうちでも、真実たるものとしては「ここのみ」ではないかとすら思えるほど、この寺には円仁の面影が濃いのです。 ↑立石寺五大堂 堂の真下に慈覚大師入定窟があります それほどまでに重要視している立石寺であるのに、『秋保大滝不動尊縁起』を信ずるならば、最も肝心な「奥ノ院」の制定は、これを創建するために向う“道すがら”に決定されていたことになります。
円仁は山寺を創建するための道中で秋保大滝に立ち寄り、その「大滝の壮観と森厳の氣に心をうたれ」たので奥ノ院に定めた、というのですから、実に不思議な話なのです。 奥ノ院とは、ご神体ともいうべき「祀られる主体」と言っても過言ではありません。 山寺の地が選ばれた理由は、元々その付近に然るべき拝礼対象(奥ノ院)が存在したからであるはずで、奥ノ院とは寺社建立計画決定後に思いつきで決められる類のものではないと思うのですが、いかがでしょうか。ましてや二口峠を越える円仁のルートからすると「だいぶ手前に」あるのは、あきらかに不自然です。 それでは『秋保大滝不動尊縁起』は地元の人達の付会なのでしょうか。いや、そうではないでしょう。 その答えは先に述べた「塩滝不動尊」の伝承の中にありました。円仁は当初「塩滝不動尊」の地に精舎を開こうとしておりました。おそらく、“奥ノ院”秋保大滝の手前の霊地という理由で・・・。 つまり、秋保大滝こそが当初からの円仁の目的だったと私は考えます。 しかし、当初の寺院開基計画が失敗したので、結局あわてて見直すハメになったのではないでしょうか。 |
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東北地方の歴史的観光名所を巡っておりますと、頻繁に出てくる人物名があります。 「坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)」「慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)」「源義経(みなもとのよしつね)」「松尾芭蕉(まつおばしょう)」他にもまだまだ見かけますが、特にこの四名はよく見かけます。 そして不思議にこの四名は、時代を超えて同じような場所に名が連なっていることに気づきます。芭蕉であれば比較的時代が下り、本人の記録が残っているために信ずるに足る部分があるのですが、他の三名については伝承を鵜呑みにすれば超人的バイタリティでみちのくに足跡を残していることになってしまいます。 特に田村麻呂や円仁に至っては東北地方の主だった寺院を「興した」ことになっております。 東北地方の古寺には彼らが開基したというものがすこぶる多く、おそらくその多くは後世に創られた伝承かと思われますが、だからと言って所詮伝承だと切り捨てるわけにはいきません。度々申しあげておりますが、それらの伝承が残るためのそれなりの理由があるはずと思うからです。 しばし田村麻呂と円仁の各々の役割を考えてみたいと思います。 思うに慈覚大師円仁は、みちのくに既に存在していた聖地を訪ね歩いているかのように見受けられます。 いや、必ずしも円仁自身が歩いたものばかりではなく、「天台宗」の一派がそういった聖地を探し求め、寺院を開基していったのかもしれません。そんな彼ら一団が後世「円仁」としてひとくくりに呼ばれたと考えるのが自然でしょうが、そのいわゆる「円仁」は何故徹底して陸奥や出羽に寺院を開基していったのでしょうか。少し当時の歴史的背景をのぞいてみます。 円仁は、師でもある伝教大師最澄が、あたかもコンプレックスを克服するが如く求めたこともあってか唐に渡り「密教」を会得してきました。それは最澄自身が果たしえなかった悲願の達成でもありました。これによって、最澄が創始した天台宗による、言うなれば比叡山総合仏教センターが完成されたようです。 円仁の師匠最澄は天台宗こそが最上であると信じ、それが時の政権に支持され援護されました。最澄は桓武天皇の信任が厚く、その期待を担って遣唐使に任命され、見事に天台宗、いや誤解を恐れずに言うならば「大乗仏教全般」の奥儀を獲得して帰国しました。 しかし、その総合仏教センターを運営するにあたって、実は「密教」についてだけは会得した満足感を得られていなかったらしく、ライバル空海にその教えを乞うたようです。 ところが、最澄と空海には密教に対する認識に大きな隔たりがありました。密教を一教義としてしか捉えていない最澄と、密教こそが完成された教義で他の全てをひとくくりに「顕教(けんきょう)」として区別している空海とでは相容れるものではなく、そもそも成就するわけがありませんでした。決裂は当然といえば当然の帰結だったのかもしれません。 しかし、最澄にとっては皮肉なことに、時代そのものはあきらかに「密教の呪術性」を要求していたと思われます。 桓武天皇は、ある意味で自分が歴史の中にいることを強く認識していた改革者なのかもしれないのですが、一方で、自らが無実の罪で死に追いやった早良親王の祟りをはじめとするあらゆる厄災に怯え続けた陰気な側面も併せ持っていたようです。 ↑奈良市薬師堂町「御霊神社」で見かけました。祭神に桓武天皇の恐怖心が滲み出ております。 そのためか、当時最新の科学「陰陽道」を駆使したかに思われる平安京への遷都や、不吉な鬼門方位に存在する蝦夷の征伐といった途方も無い「国家プロジェクト」を連発しました。これらはいずれも怨霊封じらしき宗教的な側面を強く感じさせます。そんなところからも、どうやら呪術性を秘めた密教の活躍する余地はたぶんにあったことでしょう。 桓武天皇にとって、平安京の鬼門に存在するまつろわぬ異国の野蛮な民、「蝦夷」は耐え難い恐怖だったに違いありません。 また一方で蝦夷の地は黄金の一大産出地でもあり、欲にくらんだ政権担当者たちの煩悩を刺激しました。 蝦夷は必ずしも野蛮ではなかったと思うのですが、軍事力行使の正当化のためかそのようなイメージを創作されたようです。 いわれなき侵略を受けることになる蝦夷は蜂起しました。特に胆沢の雄「アテルイ」を頭とする軍は、巧みなゲリラ戦法で朝廷軍を撃破しました。その後10年以上も侵略政策をやめない朝廷軍を翻弄したわけですから、よくよく考えれば日本史上でも最大の抵抗勢力であり、ひょっとしたら一つの国家でも築いていたのでは―対外戦争では―ないかとすら勘繰りたくなります。 しかし、アテルイと言えども、攻めて来る軍を撃退は出来ても、平安京まで攻め上れるわけではありませんので、最終的には物量に勝る朝廷軍に勝てるわけもありません。 朝廷の雄「坂上田村麻呂」が征夷大将軍に任命されると、アテルイは徐々に劣勢となり、やがて蝦夷は敗北します。どちらかといえば、10年以上も抗い続けたアテルイを田村麻呂が懐柔したと言ったほうが正しいのかもしれません。 ↑悪路王(≒アテルイ?)が籠ったとされる岩手県平泉町「達谷窟(たっこくのいわや)」 田村麻呂は蝦夷に同情的で、また京の貴族たちと異なり彼らを対等な人間として捉えていたようでした。もしかしたら、一説に田村麻呂自身が渡来系の血統であったといわれることにも起因しているかもしれません。
田村麻呂はアテルイやモレといった蝦夷の首脳陣の助命を嘆願しますが、ヒステリックに蝦夷を嫌う桓武天皇に却下されてしまいます。田村麻呂の嘆願空しくアテルイやモレは処刑されてしまうのです。 田村麻呂が東北地方においても好意的に伝えられているのは、蝦夷にたいするそういった姿勢があったからなのでしょう。 |
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