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さて、年を越して話題を継続いたしますが、第一皇子の東くだりというと、ふと出羽三山信仰の祖、「蜂子(はちこ)皇子」を思い出します。蜂子皇子は「祟峻(すしゅん)天皇」の第一皇子ということになっているのですが、次代の天皇の可能性を秘めた皇子が何故この東北地方に流れてくるのでしょうか。極めて単純に政争に敗れて落ち延びたと考えるのが無難なのでしょうか。 蜂子皇子が出羽の地に流れてきたことについては、比較的舞台裏を想像しやすいようです。 皇子が宮中を逃れてまもなく、父親祟峻天皇暗殺にまでいたる衝撃的なクーデターが起こるからです。このとき、蜂子皇子の脱出劇には聖徳太子の助言があったと伝わっております。 その後、時の一大勢力である蘇我氏が滅亡してしまうほどの混乱がおとずれます。 ところで、『古事記』において、イザナギ・イザナミの国生みの神話のなかで、最初に生まれたのは“不具の子”すなわち“ヒルコ”であったといいます。ヒルコは葦船に乗せられ流されました。つまり第一皇子が流されたのでございます。 記・紀が編纂されたのは蜂子皇子が活躍した頃からはもっと下った時代になるのですが、ヒルコの神話をまとめる際は、多少なりとも蜂子皇子の東下りの件も編者の頭をかすめたのではないでしょうか。 和歌山市内を探索していたとき、ヒルコを祀る神社(祠)をよく見かけましたが、ふと、気になることがありました。 始祖にまつわる神話で不具の子が生まれるケースは世界的にもよく見られることだと聞いたこともありますが、ヒルコは「蛭子」とも書き、これをエビスと読ませることも多かったのです。なにしろエビスは「蝦夷」とも書き、エミシとも読みます。 また、「日」をヒルと読む例もあることから、「日子」つまり「日の御子」をヒルコとも読めます。このあたりも奥が深そうで、ぜひ専門家に検証してもらいたいところです。 妄想を垂れ流せば、ひょっとしたら、蜂子(はちこ)皇子も意図してかせずしてか、蛭子(ひるこ)皇子だったものが変遷したものだったのではないのでしょうか。「蛭(ひる)」とはいわゆるワームの一種でもありますが、もしかしたら、ヒルコとは骨格も形成されない胎児のままの死産の子だったのでしょうか。こじつけですが、そういえば「蜂(はち)の子」もワームですね。 蜂子皇子の宮中脱出については聖徳太子がアドバイスをしたとも言われているようですが、そもそも聖徳太子自体も何故天皇になれなかったのか、未だ明確な論証がなく謎めいております。この聖徳太子も、一部では架空の存在なのではないかともささやかれているようです。 しかし私はやはり実在したと思っております。ただ、その輝かしい功績については残念(?)ながら蘇我馬子のものだったのではないかと思うのです。 いわゆる正史の上で蘇我氏はあきらかな悪役としてこきおろされており、特に比較的時代が近く、蘇我氏の記憶が生々しい日本書紀編纂時においては、その蘇我氏の功績をそのまま認めるわけにもいかなかったことは察するに余りあります。そうなると、聖徳太子という存在を並立してはじめて事跡を記述していけたのではないでしょうか。結局は聖徳太子の功績らしく体裁が整えられたように思えます。 そういえば私は常々不思議でした。よく見かける太子像はなぜか「童子立像」つまり「子供」の姿が多いということです。 明治十七年にアメリカの哲学者フェノロサによって法隆寺の秘仏が半ば強引に開帳させられました。はじめて人目にさらされた布でぐるぐる巻きにされていた秘仏は「救世観音」でした。 しかし、哲学者の梅原猛さんは、著書『隠された十字架(新潮文庫)』の中で、その秘仏は、かつては聖徳太子の七歳像だったのでは、と推測されておりました。太子七歳像は法隆寺の最も重要な聖霊会(しょうりょうえ)の主人公です。 それにしても、何故“七歳”像なのでしょう。実は少年期以前に夭折したからではないのでしょうか・・・。 昔は七歳に満たない子供は「神様の世界」言い換えれば「あの世」の存在とされていたといいます。比較的近い歴史としてでも、家族計画の一環としての「間引き」などは七歳に満たない子供であれば「神様にお返しする」という概念だったようです。 最近、めざましい考古学的な成果などから、悪役であった蘇我氏への見解もだいぶ変化してきております。おかげで、私はどうにもこの時代のゴタゴタに対し疑い深くなっております。蜂子皇子や聖徳太子に皇位を継承させられなかったという理由についても、実は政権担当能力がなかった、ということも疑ってみる必要があるのではないでしょうか。もしかしたら、蜂子皇子も聖徳太子も、いわゆるヒルコであり、実は同一人物なのでは、とまで想像したりもしております。
ちなみに、山形県鶴岡市の羽黒山にある蜂子皇子の墓は宮内庁管理地になっておりますが、私が知る限り東北地方における宮内庁管理の陵墓はここのみであり、極めて異質な感じがしております。 |
栗原の武烈天皇伝承を追う
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全国各地にある高貴な人物が流れてきたという「貴種流譚(きしゅりゅうたん)」。
宮城県栗原の場合のそれは武烈天皇でした。しかし、何故この地では正史『日本書紀』で暴虐の大王として異常な非難を受ける天皇を選択したのでしょうか。
武烈天皇に対する独自の仮説を提示してみます。
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武烈天皇ではありませんが、実は、同じ宮城県栗原の地にはもうひとつ気になる伝承がございます。 築館上宮野の「興福寺」にそれはあります。 『栗原郡誌』において「一ノ宮神社」とされる神社の説明によれば、「興福寺の境内に塚形をなせる所」があるといい、そこは古来「安寧(あんねい)天皇の御陵」と言い伝えられているというのです。 郡誌では、「口碑に曰く」として、人皇三代安寧天皇第一皇子の「迫子皇子」は安寧天皇十一年にこの地に降臨し、ことごとく邑里を開き幽宮を営んだ、としております。この幽宮を「宮糸の城」と称して、長年この地に居住したというのです。 それ故に迫子の一字をとって、この地を「迫(はさま)」と呼ぶとしております。当然このあたりにある「一迫」「二迫」「三迫」という地名は、それに由来しております。 もちろん「宮野」の地名も「宮糸の城」のそれに因むのでしょう。 ちなみにこの一ノ宮神社は、この地で薨去されたという迫子皇子の墳墓を祀ったものらしいのです。 そもそも何故天皇の第一皇子たる人物が陸奥の栗原までやってくるのでしょうか。 もちろん安寧天皇自体が、武烈天皇同様実在を疑問視されている天皇の一人であり、これも取るに足らない伝承といえばそれまでなのですが、伝承をあえて信じたとして、つまりは都にいられなくなったから落ち延びてきたと考えるのは当然でしょう。 何故いられなくなるのでしょう。 安寧天皇の次代の天皇は「懿徳(いとく)天皇」でありますが、この天皇は安寧天皇の第ニ皇子でございます。とすれば、第一皇子が皇統を継いでいなかったということについては特に矛盾はありません。 大陸の騎馬民族には、末子相続の習慣があると聞きます。日本においてもそれを思わせる事例なり伝承などもあるようです。もし、それを深追いするとなると、ひょとしたらかの有名な日本人騎馬民族説につながるかもしれず、面白くなるのかもしれませんが、定かではありません。今のところは私の頭脳に余裕がないので保留にしておきます。 さて、天皇になれない皇子が、僧として奈良の興福寺に送り込まれることは、奈良時代以降にはよくありました。栗原のこの寺も興福寺ということからすると、なんとなくうまく関連しております。ただ時代が全く異なるので、とりあえずはこじつけに過ぎません。 また、古事記も日本書紀も第一皇子の名は迫子命ではありません。古事記ではトコネツヒコイロネノミコト、日本書紀ではオキソミミノミコトでございます。 しかし、安寧天皇ではないにしても、やはり高貴な人物の物語の反映と考えるならばまんざらありえない話でもなさそうです。やはりこれも安寧天皇の第一皇子に比定される何者かと考えるのが穏当なのでしょう。 |
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宮城県神社庁の『宮城縣神社名鑑』にある栗原市築館の「和我(わが)神社」の由緒によれば
「武烈天皇の臣某の後裔和我氏その居城に天皇の御霊を奉斎したことに創ると云われ、新山権現と称す。観聞志・名蹟志・封内風土記はこの社を以って延喜式所載の和我神社という」 とあり、ここに和我(わが)氏という人物(氏族)が出てまいります。 和我氏は、『続日本紀』に帰服の夷狄「和我君」として登場しますが、和我神社の祭神について名鑑は、「(武烈天皇というよりも)和我君の祖神とするのが妥当かもしれない」とコメントしております。 ここで私がふと思ったのは、「クガ」とは「ワガ」の変遷ではなかろうか、ということでございます。 カナ書きで伝わるうちに変遷したことは充分あり得、またその逆かもしれず、ワガとクガでどちらが先かはわかりません。 また、この和我君が現在の岩手県の和賀地方を本拠としていた和賀氏と同一かどうかもはっきりとしたことは言えません。 ただ和我君については、帰服したとはいえエミシであっただろうことは名前に「君」が付されていることからも想像出来ますし、その他記録からもわかることです。 そもそも異国の民族とも言えるエミシの名に元々漢字が使われていたとは考えにくく、「和我」という漢字はあくまで「ワガ」の音韻からの当て字だったと考えるのが自然であると思うのです。 いずれにせよ、ワガ氏がクガ氏だったにせよ異なるにせよ、エミシが自らの祖神を祀る神社に武烈天皇を投影したとすればそれはそれで興味深いことです。 ただ私が気になるのは何故武烈天皇なのかということでございます。 例えば和我君がヤマトに帰服したことに伴い、自分の血統をヤマトの血筋につなげようとするにしても、もっと他の天皇につなげる術はあったのではないでしょうか。 もし巷にいうように継体天皇が新王朝であったならば、当然武烈天皇は前王朝ということになり、疎まれ兼ねないものではなかったのでしょうか。帰服したわりに挑戦的な行為ともいえます。 もし王朝交代劇がなかったとして、だとしたら、一応正史とされる書紀の記述で暴虐とされる天皇を祖神とすることに、一体どのようなメリットがあったのでしょうか。一応の遠慮でしょうか。 もしかしたら和我氏自体武烈天皇と血のつながりがあり、ヤマト朝廷側もその子孫が祀る分にはとやかく言わなかったのでしょうか。あるいは、やはり武烈天皇は祀らなければ祟る恐れのある怨霊候補であり、あえて祀らせたのでしょうか。 『武烈天皇伝承考』の狩野さんによれば、百姓である久我氏は、武烈天皇下向のさいにお供していた久我大連の子孫であり、さらに山神社の宮司であったとのことです。それらを記す『嘉永四年四月一迫真坂村北沢名所旧跡神社仏閣地名古実書上』は伊達藩に報告されたものといいます。 また、志波彦大神が冠を落とした神話がある仙台市の石留神社は、元和五年に沼田備前なる検断が、冠川で赤石が流れに逆らって遡るのを見て、「武烈天皇の御霊に違いない」として勧請したものともいいます。 「検断」という、いわば警察的要素の立場の人間が祀ったというのですから、どうも伊達藩は武烈天皇伝承に対し寛容だったようです。 ちなみに、『武烈天皇伝承考』を記された方の名は狩野さんですが、「狩野氏」も武烈天皇にお伴して落ちてきたと伝承される「鹿野氏」の末裔なのでしょう。 そういえば同じ姓の「スタッフ〜」で有名な“あの方”のご実家は1500年もの由緒ある神社だといいます。先だっての「岩手・宮城内陸地震」で被害にあったことをきっかけに広くマスコミで取り上げられたのは記憶に新しいことです。 もう既にお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、はい、そうです。“あの方”のご実家「櫻田山神社」は武烈天皇を祀っていらっしゃるのです。 それにしても、武烈天皇の血筋は絶えたといいますが、古来陸奥、特に栗原の地には武烈天皇を祀ろうとする人達が根強く存在していたことは不思議であり、かつ感動すら覚えます。私は、やはり武烈天皇はなんらかの形で陸奥の地に縁の深い天皇だったのではないかと想像します。例えばそれは“母系の血筋がエミシ系であった”という可能性もあるのではないでしょうか。 |
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宮城県栗原市の瀬峰にも武烈天皇伝承が息づいております。 武烈天皇はこの地に下り、「ゆるぎの松」に船をつなぎとめたといい、「王壇」は武烈天皇の御陵であるといいます。王壇は周囲106m、直径34m、高さ3.6mの土壇であり、発掘すれば盲になると言い伝えられております。 ゆるぎの松跡 さて、記・紀ともに武烈天皇は「列城宮(なみきのみや・奈良県桜井市)」で崩御されたことが明記されております。 また、『古事記』には「片岡之石坏岡(かたおかのいわつきのおか)」に御陵があるとしており、それを受けてでしょうが、宮内庁では奈良県香芝市にある丘陵地を「傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)」として、それに比定しております。 これでは、あえて宮城県に武烈天皇の足跡をたどる余地もなさそうでございます。 奈良県香芝市の武烈天皇陵 ただ、この宮内庁管理の武烈天皇陵は「単なる自然丘ではないか」という見解も発表されているようで、微妙なところでもあります。
そもそも、武烈天皇の存在自体に疑問符がつけられてはいるのですが・・・。 ともあれ、宮城県栗原市周辺では、武烈天皇がこの地に左遷され、この地で崩御された、と伝わっていることは事実です。 何故か、私が確認できている限り――仙台市泉区の石留神社をのぞけば――全て栗原圏域に伝承地がおさまっております。 毎度のことですが、おそらくそのモデルとなるような事実はあったのでしょう。 個人的な感情としては本当に武烈天皇が落ち延びてきていたなら面白いのに・・・という気分はありますが、穏当にしておくならば、武烈天皇に比定された“それなりの大物”がこの地に逃げ延びてきたのだろう、としておくべきなのでしょう。 ところで、姫松の山神社の案内板等には「久我大連(くがおおむらじ)」とありましたが、当時の大連(おおむらじ)は、越の国から継体天皇を引き連れてきて、その後も中央で活躍する「大伴金村」でございます。久我大連なる記録はどこにも見当たらず、今ひとつその正体がわかりません。 少なくとも「クガ」という読みに対し「久我」という字はあとからつけられたもののようでございます。 『栗原郷土研究 3号』掲載の狩野義章さんの論考『武烈天皇伝承考』によれば、もともと由来縁起には「陸権連(くがごんむらじ)」とあり、クガに「陸」の字があてられていたようであり、『菊池氏文書』の記述によれば、クガ氏は「前九年の役」の後、鎌倉幕府に従い、代々御陵守として山神社の神官となり勤めた業績があり、その後百姓となり久我姓を名乗ったとのことでございます。 なにより、久我家には武烈天皇の宸影や、菊と桐紋がある麻織りの宸衣などが所蔵されているというから驚きです。 とにかく、大連といえば今でいう総理大臣のようなものでありますので(権連であればその次席か)、その役職には誇張があるのでしょうが、武烈天皇と伝えられた人物の近臣であったということは事実なのでしょう。 |
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「武烈天皇(ぶれつてんのう)」について語りたいと思います。 本来「天皇(てんのう)」というよりも時代的には「大王(おおきみ)」という尊称で表現したほうがふさわしいのかもしれませんが、天皇と呼んでおきます。 この天皇はなにかと話題性があり、古代史ファンが最も興味の惹かれる一人といっていいのではないでしょうか。 厳密にいうと次代の「継体(けいたい)天皇」即位の謎が魅力的なため、自ずとこの天皇にも注目が集まるといったところでしょうか。 なにしろ、この天皇をもって「仁徳(にんとく)天皇」に連なる血統が絶えたといい、あるいはそのときにひとつの王朝が終焉したのではとまで叫ばれているのです。 武烈天皇には子がなかったといいます。 それでも、いくらでも他に候補が存在しただろうと考えられるなかで、仁徳天皇の父親である「応神(おうじん)天皇」の5世孫という、相対的にはだいぶ血が薄い継体天皇が次代の天皇となりました。そのことが物議を醸しだしているのです。 この武烈天皇について、『日本書紀』の記述はあまりに過激でございます。 少なくとも、万世一系を謳う天皇家のご先祖様が、ここまでサディスチックかつ極悪非道な人物として書かれていいものだろうか、と思うほどの残忍無比な人物像が描かれております。 多くの有識者達は、『日本書紀』の編者の意図が、継体天皇即位の正当性への促しと、継体天皇の血の薄さから視点を外させるところにあったのだろうと捉えているようです。 それにしても、日本書紀の編者に、もしそのような意図があったのだとすれば、抱き合わせで万世一系についての疑念まで目覚めさせてしまうのはなんとも皮肉な話でございます。 さて、宮城県には武烈天皇の伝承が色濃い地域があります。 諸々の資料・史料から、武烈天皇、または小長谷若雀(こはせわかささぎ)や小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)など、武烈天皇をあらわす呼称が確認できたものをあげてみます。 和我神社 栗原市築館 主祭神 武烈天皇 新山神社 栗原市志波姫 主祭神 武烈天皇 山神社 栗原市尾松 主祭神 小長谷若雀(こはせわかささぎ)尊 山神社 栗原市姫松 主祭神 小泊瀬稚鷦鷯(おはつせわかささぎ)尊 石留神社 仙台市泉区七北田字石止 主祭神 武烈天皇 ゆるぎの松 栗原市瀬峰 武烈天皇のお舟つなぎの伝説あり 王壇 栗原市瀬峰 武烈天皇の陵墓説あり この中で、武烈天皇の御陵とも伝わる栗原市姫松「山神社」の由緒は、この地の武烈天皇伝承のあらましを最もよく語っているので、当地の教育委員会(旧一迫町教育委員会)と財団法人宮城県文化財保護協会が設置した境内案内版の説明を転記致します。 ――引用―― 第二十五代武烈天皇が故あって奥州に配せられ、寵臣久我大連と鹿野掃部之祐両人を従えてこの地に下り崩御されたと伝えられのちにこれを祀って「山神社」と号した。 一説には武烈天皇が当地に追放され、久我大連が天皇を慕ってこれを祀ったとも伝えられている。 天皇の配所もしくは神として祀った地が天皇山(王山林)、久我等のいた地が王沢だと伝えられている。宝物として陣釜、神鏡が久我家に、阿、呍、の御面ニ面と天皇が着たと伝えられている錦の着物の一部分が虫食いの状態ではあるが現在も神社に保存されている。 現在の社殿は、天保十三〜十五年(一八四二〜一八四四年)に再建されたもので、昭和三十四年現在地より北西約三百メートルの低地にあったものを遷宮したものである。旧鎮座地に天皇に関する碑が残っている。 神社の位置は低地にあったものを昭和三十四年に遷したとありますが、大正七年発行の『栗原郡誌』によれば、この山神社は元々山頂にあったものが、郡誌編纂当時は澤沿いの底地に移されていたようです。 これについても諸説あるといいます。
当時の社殿は鳥居をくぐり、石段を下りる低所にあったということで、郡誌は「蓋し稀なり」としております。 御陵伝承地だといっても、なにか薄気味の悪さを感じなくもありません。 |
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