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ニワタリが二羽の鳥である仮説の傍証として、ひとつの興味深い例を挙げておきます。 福島県相馬郡新地町に「二羽渡(にわわたり)神社」という神社があります。福島県神社庁相馬支部の『管内神社誌』によれば、通称「二羽渡(にわわたり)権現さま」で、まさしく国分氏の氏神「仁和多利(にわたり)大権現」と同じものと考えてよろしいかと思います。同神社誌から引用いたします。 ――引用―― 昔、二羽の神々しい白鳥がこの地に舞い降りたと伝えられ、又、一説にある年害鳥が穀物を食い荒し農民達が途方に暮れていたところ、二羽の白い雀が現われ、害鳥を追い払った。土地の人々は、これは神の使いに違いないということになり、二羽渡の神を祠ったとされている。 御祭神は、赤・白の玉を抱いており、五穀豊穣、家内安全、延命長寿の御神徳をもっている。 福島県相馬郡新地町「二羽渡神社」 この場合、二羽共によそ者のようですが、“二羽の白鳥”というキーワードが大変そそられます。さて、お気づきかもしれませんが、この由緒では以前触れた聖徳太子建立と伝えられる大阪市天王寺区にある「四天王寺」の伝承もオーバーラップしてまいります。四天王寺の伝承では、物部守屋の怨恨が悪禽となって来襲したとき、聖徳太子が「白い鷹」となって追い払った、とのことでした。『管内神社誌』による二羽渡神社の由緒では鷹ではなく雀と、だいぶ可愛いものになっておりますが・・・。
ただ、私が知る限り農業を営む人達からすれば、通常“雀”は害鳥のはずです。それを追い払うために空鉄砲を放ったりもしております。しかし鷹であれば雀にとって天敵でもあります。もしかしたら本来の由緒では害鳥が雀かどうかはともかく、二羽の白鳥は“鷹”だったのではないでしょうか。 かつて、私が本業で目に触れた名刺で、「雀遊」という方がいらっしゃいました。「雀が遊ぶ」と書いて、なんと読むのかおわかりでしょうか。これで「たかなし」と読むのです。「鷹がいない」ひいては「雀が遊べる」と言う、そもそもの“音”に対し、意味づけからの漢字をあてはめたわけです。日本語文化の“粋”が生み出した、実に良い名字だと思います 話は戻りますが、同じ二羽渡神社の由緒としてはこんなものもありました。孫引きで恐縮ですが『神話の森のブログ』の管理人様が引用した『平成祭データ』によれば「古代天笠の国より光輝く神々しい二羽の白鳥が、この地に飛び給ふところから、この地を二羽渡の地といはれるやうになった」とのことでした。こちらでは鳥の種類については「白鳥」としか触れておりませんが、古代天竺(てんじく:インドのこと)から飛来したという情報が含まれております。いずれ、二羽の鳥であることには変わりありません。 しかし、ニワタリの語源を二羽鳥と判断するには大きな落とし穴もあり、酒の席ではありながら知人のOさんから鋭い指摘を受けました。蝦夷時代からの信仰であるとも考えられる信仰の語源を考える際に、今日我々が使っている“いわゆるヤマト言葉”で物事を考えていいものだろうか、ということです。彼の一言により、一瞬にして私の稚拙な仮説は崩壊しそうになりかけました。 しかし酔いを醒まして少し時間を置いて考えるに、必ずしもそのことで仮説が崩壊するものでもないことに気づきました。例えば、仮に違う名前で呼ばれていたその信仰が、ヤマト化した後に、その信仰の起源自体が持つ“意味合い”からニワトリという言葉が当てはめられた可能性もあるはずで、そこからさらに“鶏”が当てはめられたこともあり得ると思うからです。もちろん全てが想像に過ぎない世界ですが・・・。 それでもさらに続けさせてもらうとして、それが仮に正しかったとしての話ですが、ニワトリがニワタリに変遷した理由がひとつ思い当たります。 それは仏教の聖地、インドの“鶏足山(けいそくせん)”です。インドという表現を変えるならば二羽渡神社の由緒にも出てくる“天竺”の鶏足山です。鶏がニワトリなのは言わずもがなですが、“足”は“タリ”とも読めます。仮説に仮説の上塗りを続けておりますが、おそらく、南北朝時代、この地に南朝文化の信仰が入り込んだときにこの変遷が起こったのではないでしょうか。ここで私が言う南朝文化の信仰とは、後醍醐天皇が信奉していたともいう真言立川流の理趣経――思うに空海の懸念どおりに勘違いされた真言密教――を基本とする理念のことです。この地(陸奥国≒奥州)に散見される――仏教の流れというにはあまりにギラギラとした――インドの神々の神像(仏像?)の成り立ちというものは、往々にして南朝勢力の影響下にあったものではないかと想像するのです。 伊達氏の時代にまで余韻を残していた――国分氏が信奉した――ニワタリ信仰も、ある種その影響に染められたものだったのではないでしょうか。 |
白鳥と鷹
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古代人の深層心理に大きな影響を与えたはずのトーテムについて眺めてまいります。
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特殊技能を持ち合わせたよそ者と地元の娘が結ばれるという展開は、特に珍しいものでもなく、少し探せばおそらく全国各地、あるいは世界各地を見渡してもすぐに見つかるものなのかもしれません。 少し話がずれますが、かつて『ブッシュマン』という映画が流行しました。飛行機から投げ捨てられたコーラ瓶が、アフリカの未開の地に落下するというところから物語が始まります。謎の物体が空から降ってきたことにより、そこで生活を営む原住民族の一種族“ブッシュマン”の生活にささやかな波乱が起こるのです。その様子を描いた素朴な作品が爆発的な人気を博しました。なんのことはない、ブッシュマンのなんの飾りもないそのままの日常を撮影し、コミカルな展開に仕立てた素朴な映画なのですが、当時妙にウケたのです。このブームを本人が意識したかどうかはわかりませんが、主人公となった実在のブッシュマン「ニカウ」さんは、一躍有名人かつ人気者になりました。 人気者となったニカウさんは先進国で引張り凧となり、原始的な世界からにわかに文明の中に引きずり出されました。ニカウさんから見れば、自分の生きる世界では想像だに出来ない“魔術”を次々に展開してみせる白人は、まさに神に見えたようで、例えば、エスカレーターに乗る白人の姿を見て「神様が遊んでいる」と思ったのだそうです。ニカウさんの目には、白人は全て同じに見えており、神様(白人)がくりかえしエスカレーターに乗っているように見えたということでした。 これは、文明社会の中に未開の地の人間が紛れ込んだ故のギャップですが、逆に未開の地に文明人が単身――あるいは少人数で――紛れ込み、ささやかでも文明の為せる技らしきものを見せ付けたならば、さらに、それが未開の人達にとって飛躍的に役立つものであったとしたならば、それはまさに“神の力”であり、崇拝されることでしょう。 アウトドアが好きな、とある私の知人は、少年時代から仲良しグループとよく自転車で海へと出かけ、バーベキューを楽しんでいたとのことでした。初期のうちは、一応“炭”は持参したものの、それが点火するまでに相当な時間と労力を費やしていたといいます。ある時、わずかな灯油を持ち込むことに思いついた彼は、これまで最も苦労した点火までの作業を瞬時に解決してみせ、一躍英雄になったというのです。思うに古代における渡来文化の輸入のメカニズムもこんなものなのでしょう。 最近ではさすがに言われなくなりましたが、かつては進歩的な弥生文化の氏族が野蛮な縄文文化の氏族を滅亡させたかのようなニュアンスで語られることもしばしばありました。そこには弥生と縄文の対立を前提にした発想がありました。 しかしこれはよく考えれば実に不自然な発想です。 古代においては、文化が進んでいるからといって戦争に強いとは限らなかったはずです。例えば、槍の先が石から鉄に変わった程度のことで、どれだけ殺傷能力が増すのでしょうか。戦力が飛躍的に変わるとも思えません。したがって少数の渡来系氏族が大多数の縄文系原住民を征服したとは考えにくいと思うのです。極端に言えば、普段獰猛な動物相手に戦っている野生の原住民に、所詮当時の先進技術の武器を携えた程度では“勝てるわけもない”気が致します。やはり弥生文化の浸透は砂が水を吸うが如くごく自然に、かつ必然的に広まったものと考えるべきかと思います。もちろん数の中にはそれを歓迎しなかった派閥もあったとは思いますが、おおかたはそのような“便利な”文明の浸透を歓迎していたのではないでしょうか。きな臭い征服劇が展開するのは、もう少し新しい歴史ではないかと想像いたします。 さて、例えば白鳥をトーテムとする氏族が、鷹をトーテムとする氏族と融合していく背景にもそういったものがあったのかと想像します。私はひとつの弱含みな仮説ながら、その二種類の鳥をトーテムとする各々の種族が交わることによって、そのお互いの信仰を尊重する習慣が生まれ、「二羽(二種)の鳥」信仰が生まれたのではないかと考えてみました。ついてはそれがニワトリ(≒ニワタリ)信仰の始まりになったのではないかと考えるのです。以前触れたとおり、ニワタリには“2”という数字がなにやら意味を持っているかに想像できました。つまり私は、鳥の信仰ではあるもののここでのニワトリとはいわゆる鶏のことではなく、二羽(二種類)の鳥から発展したのではないかと考えたのです。 仙台市泉区古内の「仁渡神社」
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宮城県柴田郡大河原町の大高山神社は、ヤマトタケルが東国征討の際、宮を建てて住居にされたことがあり、その後、第29代欽明天皇の皇子「橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)」がこの地を訪れたことに因み、橘豊日尊の子により白鳥明神すなわち大高山神社が祀られたとのことです。 さて、古代史に詳しい方なら既にお気づきかと思いますが、橘豊日尊とは後の「用明(ようめい)天皇」のことです。 大高山神社の由緒によれば、用明天皇の子、聖徳太子がこの地に白鳥明神を祀ったといいます。そこで気になってくるのは、前に引用した同神社HPの白鳥信仰に関するお話です。 少し振り返りますと、尊は東国巡幸の際、当地の赤坂長者の娘「玉倚姫(たまよりひめ)」と恋に落ち、姫は皇子を宿しました。姫は白鳥が胎内に入る夢を見たとのことでした。しかし尊は都に戻らなければならなくなりました。尊は三年後に迎えの使者を遣わすと約束したのですが、三年経ても一向にその気配はなく、姫は悲嘆にくれて病に倒れてしまいました。見かねた乳母は「あなたは神の化身だから、母の身代わりになって、父君を呼び戻してください」と祈り、皇子を川の中に投じました。すると不思議なことに皇子は白鳥となって大和に飛び立ちました。やがて、訃報が尊の耳に届き、姫のために立派な墓を建てて弔ったところ、日夜悲鳴していた白鳥が空に飛び上がり空中を旋回していたとのことでした。 白石市深谷付近の白石川 ここで、私はいくつか思うところがあります。 そもそも姫の名前が「玉倚姫(たまよりひめ)」というのは、なにか「賀茂(かも)信仰」とのからみをにおわせます。少しだけ解説的に述べますと、賀茂社総本社系の「下賀茂(しもかも)社」は、「賀茂建角身命(かもたけつみのみこと)」と、その娘「玉依姫(たまよりひめ)」の親子の両神を祀っております。前者(父親)については「八咫鳥(やたがらす)」と表現したほうが、特にサッカーファンにはなじみがあるのかもしれません。 どうやらにわかに“カモ”と“カラス”という鳥の名が現れますが、姫の名前が仮に賀茂信仰を意識してのネーミングであれば、そういったトーテムに踏み込まざるとも別次元で勘繰りたくなる要素も出て参ります。 話しを戻し、思うところを続けます。私は当初、姫の胎内に白鳥が入るという夢からは、高貴な白鳥族の“種”が地元の鷹族の姫に宿された話と受け止めていたのですが、そもそもこの地の白鳥信仰から考えると、むしろその逆と受けとめることも可能です。 日夜悲鳴していた白鳥が空を旋回していたということから想像するには、むしろ尊をうらめしく思っていた白鳥族の霊魂であるとも考えられるので、この物語は白鳥族の姫が高貴な鷹族の子を宿した話かもしれないとも思います。そして、生まれた子は用明天皇の子ということになるのでしょうから、明言はされていないものの、もしかしたら聖徳太子の出生の秘話であるかもしれないということ。 児捨川に捨てられた子が白鳥に変わって飛び立った場所、そこは深谷の鳥越という地域とのことでしたが、実はその地域の隣に「太子堂」という地名があります。『白石市史 3の(2)』の「地名の研究」の項には次のように書かれております。 ――引用―― 太子堂(たいしどう) 太子堂は小名太子原にありと『安永』に出ている。聖徳太子を祀る堂という(刈田郡誌)。 聖徳太子は「厩戸(うまやど)皇子」であり、日本書紀によればキリストよろしく馬小屋の出入口で生まれたことになっております。大高山神社が語る神話とは相容れなさそうでもありますが、もし、太子の出生が許されない恋の果てにあったということであれば、それもあり得るといったところでしょうか。
聖徳太子の出生秘話にまで関連づけるのは、少々飛びすぎですが、最後に一つだけ気になることを申しあげておきます。 谷川健一さんの著書『四天王寺の鷹(河出書房新社)』によれば、聖徳太子建立と伝えられる大阪市天王寺区にある「四天王寺」には、物部守屋の怨恨が悪禽となって来襲したとき、聖徳太子が「白い鷹」となって追い払ったという伝承があり、また、法隆寺に伝わる「聖皇曼荼羅図(しょうごうまんだらず)」にも聖徳太子を表していると思われる「白い鷹」が描かれているようです。 |
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宮城県栗原市瀬峰の武烈天皇伝承地が集中する場所には「王屋敷」「王他界」「三代」など、伝承に関連すると思われる地名はいくつかございますが、武烈天皇の御陵伝承がある「王壇」も、天皇が船をつないだとされる「ゆるぎの松」も、おおよそその一帯の中に納まっております。
そのエリアには地域の氏神的に二つの神社がありました。 ひとつは「飯綱神社」、そしてもうひとつが、実は「白鳥神社」でした。 瀬峰の武烈天皇の情報を探していた私は、図書館において『瀬峰町神社誌(瀬峰町氏子総代連合会)』というものに手を伸ばし、フィールドワーク中に偶然出くわしていたものとは異なったものの、同じ表記の「白鳥(しろとり)神社」を見つけました。 由緒によれば、戦国大名「葛西(かさい)氏」の元家臣「白鳥外記元任」という人が開祖とのことです。慶長年代(1600年代)主家の葛西氏が没落してしまい、路頭に迷った白鳥氏はこの地に帰農し、そのときからこの「白鳥大明神」を祀り始めたようです。 残念ながら武烈天皇との直接の因果は確認できませんでしたが、どうやらこの白鳥家は、大正10年刊の村誌にも家系図が載せられているほどの名家のようで、瀬峰に居住してからも十四代、時にして370年(昭和56年当時)を数えるのです。そして驚いたのは、安倍氏の末裔であり、瀬峰に居住する前は「前沢白鳥累」が本領だったということです。「白鳥累」とは、つまり安倍頼時の八男“白鳥八郎”安部則任(行任?)の本拠です。 そうです。白鳥八郎(安倍氏)の末裔のようなのです。 そういえば開祖の名前を見ると「元任」でした。安倍貞任・宗任・則任・行任ら、安倍兄弟のトレードマークとも言うべき“任”の一文字が入っているではないですか。 ところで、この「白鳥(しろとり)神社」はかつてNHKの『新日本紀行』でも取り上げられたことがあるそうで、そのときに“白鳥大明神の御神像”が映し出されたそうです。その姿が驚きなのです。なんと、“白鳥の羽の上に立つ、彩色も鮮やかな姫神像”なのです。 なんという示唆に富むご神像なのでしょう・・・。 さて、このご神像が語る意味合いを、仮に大高山神社HPにあった白鳥伝説というフィルターにかけるならば、この瀬峰の白鳥神社のご神像は、「姫」と「白鳥族の高貴な人物」との絆を、見事に表現していると言えるのではないでしょうか。 神社誌によれば、この白鳥神社の鎮座地の地名は「富桃生田(とみものうだ)」とのことです。 もし、地名研究の鈴木市郎さんが言うように「桃生」がモノノフ、モノノベの変遷であれば、ひょっとしたら「富」は安倍氏が自らの始祖と掲げる「アビ」の弟「トミノナガスネヒコ」やその妹で「ニギハヤヒ(物部氏の祖といわれる神)」の妻「トミヤビメ」の“トミ”につながるかもしれず、白鳥信仰の物部氏と安倍氏とのつながりを示唆しているようで興味深いものとなりそうです。 ちなみに、いずれあらためて述べようとは思っておりますが、一説に「蛇龍族」とされるナガスネヒコを、私は「鷹族」ではないかと疑っております。 |
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よく「邪馬台国(やまたいこく)はどこにあったのか」的な論争を見受けます。細部はともかく、大枠としては九州説と畿内説が双璧を為しているようです。私自身は九州説を有力視いたしますが、ただ、基本的に邪馬台国がそのまま今の日本の原型だとは考えておりません。 乱暴に言えば、邪馬台国は日本に幾つか存在した有力な古代国家のひとつではないのかな、という考えです。したがって、最近ちょくちょく見かける関東説についてもまた然りです。仮に関東になにかしら有力な存在があったとしても、それが仮に強力な国家の体を為していたとしても、とても邪馬台国だとは考えられないのです。少なくとも、女王卑弥呼が率いたり、あるいは中国(魏)に朝貢して金印を賜った国家ではないと思うのです。 予め申しあげておきますが、私は「万世一系の天皇制」というものは、グローバル化する時代のなかで特に日本国民のイデオロギーとして必要であると思いますし、尊重もしております。もし日本人が国土を失ってしまった場合、ユダヤ人の如く自らを「日本人」と言えるとするならば、やはりそのあたりが重要になってくると思うからです。私自身が大和民族の末裔なのか蝦夷の末裔なのか渡来系の末裔なのか、正直なところわかりませんが(古代に比べ圧倒的に混血が進んでいるはずの現代にそれを論ずることも不毛なことですが)、今は少なくとも日本人です。しかし、少しでも歴史の真実に近づこうとするとき、それに縛られてはいけないとも考えております。私が真実に近づいているかどうかは今のところわかりませんが(永遠にわからないかもしれませんが)、とにかくいかなるイデオロギーにも囚われず、思うままに考えてみたいと思うのです。 話は戻りますが、そもそも日本という国家の形成過程は、特定の有力氏族(天皇家)があたかも戦国時代の織田信長や豊臣秀吉の如く一気に日本の統一を果たしていったものではないだろうと考えております。少なくとも、初期のヤマト政権が有力氏族の連合国家の体を為していただろうことは、ほぼ定説となりつつあります。それが、左翼的存在を認め得ないレベルの専制君主的な要素を帯びてくるのは、おそらく人皇21代の雄略天皇の頃あたりからではないでしょうか。 ヤマトの連合政権の中枢を固めていた有力氏族らも、当然各々の歴史や文化を抱えていたはずでしょうが、いよいよ日本書紀が編纂される頃にはおおかた天皇家の過去として一つの歴史にまとめられてしまったことでしょう。日本書紀には、「一書に曰く」や、人物や神様の記述において「又の名を」として大量な名称を掲げるケースがよく出てきます。天皇家一系の歴史にまとめあげてしまう過程で、あまりにつじつまが合わない場合にはそのように補足して曖昧にしていたのではないでしょうか。特に現在の国家の形成に影響を与えた 他の氏族の“栄光の歴史”については、尚更主人公の影が薄められてしまったのではないでしょうか。 国内最古級の古墳とされる福島県会津板下町「杵ガ森古墳」 さて、東北地方にはそれらヤマトの連合国家を形づくる有力氏族たちが、何度かにわたって波状的に進出してきたようです。そう考えないと理解できないことが多すぎるように思います。そのことを抜きに、単に朝廷の進出という捉え方で物事を見ていると大きな落とし穴に陥るものと思われます。
より先に進出した氏族は、後に進出してくる氏族に比べ土着の度合いも強く、後者から見れば前者はほとんどエミシと共に野蛮人に見えたのかもしれませんし、あるいは、案外東北地方に出自を持つ有力な氏族も存在したかもしれません。 そんな波状的な進出展開の中で、例えば白鳥信仰を持つ氏族と鷹信仰を持つ氏族が姻戚関係として結ばれたこともあったのでしょう。私は、イザナギ・イザナミの一対神を祀る多賀神社などは、その名残ではないだろうかと思っております。 もしかしたら、もともと鷹族の聖地だったところに白鳥族の神を合わせ祀った、あるいはその逆に白鳥族の聖地だったところに鷹族の神を合わせ祀ったことがきっかけだったのではないでしょうか。 |



