はてノ鹽竈

東北地方から日本史を眺めていきます。

白鳥と鷹

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 古代人の深層心理に大きな影響を与えたはずのトーテムについて眺めてまいります。
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 『日本民族二万年史(近藤出版社)』の著者只野信男さんは、タカ族こそが日本古来の民族としているようで、私もそれを前提に考えることも多かったのですが、最近になりそうでもないのかなと思うこともしばしばありますので、そこのところは保留にしておこうと思います。ただ、少なくとも他のトーテムに比べてタカ族の痕跡は濃いな、という思いは相変わらず持ち合わせております。
 『白鳥伝説(小学館)』の谷川さんも「白鳥」信仰の流れとして「鷹」についてもよく挙げられております。白鳥信仰を追及しているうちに、白鳥と鷹との「対」をつよく意識し始めたということから、続編的な『四天王寺の鷹(河出書房新社)』という著書も出されております。
 只野さんの論考の主旨の一つに、イザナギとイザナミの夫婦は、渡来系である白鳥族のイザナギと、蝦夷系である鷹族のイザナミとの婚姻という基本原則がありますが、谷川さんによれば、各地の白鳥信仰には物部氏の影が色濃いといいますので、実に興味深いところです。
 ただ、東北地方には宮城県の「苅田嶺(かりたのみね)神社」に見られるようにもともとの白鳥信仰も根付いていたようなので、必ずしも物部氏の白鳥信仰と同根のものとは限らないのでしょうが、いずれ歴史の厚みの中でそれらは東北地方に進出してきた物部氏が奉ずるそれとうまく融合していったようでした。この谷川さんが言うところの白鳥信仰を奉ずる物部氏と東北地方の蝦夷との関係を照らし合わせて考えると、只野さんの論考もかなり示唆深いものと感じてまいります。
 さて、宮城県南部には白鳥信仰を象徴するような神社として苅田嶺神社がありましたが、秘かに鷹信仰を象徴すると思われる神社もございます。実はヤマトタケルの神話の際に触れた柴田郡大河原町の「大高山(おおたかやま)神社」がそうなのです。それは、刈田嶺神社がある刈田郡の隣、「柴田(しばた)郡」にあります。この神社は、柴田郡唯一の延喜式神名帳記載の神社、すなわち「式内社」であり、最高格付けの「名神大」社でもあります。
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 現在ではこの神社も白鳥信仰の神社と化しておりますが、以前の鎮座地の地名が「尾鷹」であり、鷹を彷彿とさせます。
 また、同じ柴田郡の船岡字内小路にある白鳥神社の由緒『宮城縣神社名鑑(宮城縣神社庁)』によれば、この神社は大高山神社の分霊を勧請したものとのことで、俗に大高宮、白鳥明神と呼ばれているそうで、名鑑はその記述の中で“大高山神社(大鷹神社)”とご丁寧に“鷹”の字でも表現して記載しております。
 また、谷川健一さんも指摘しておりますが、正応六年(1293)の銘がある東北最古の鰐口(国重要文化財)には「大鷹宮」とあり、当時は鷹を祀る神社であった可能性が高いと思われます。
 この大高山神社は、承和九年(842)に従五位下の神階を授けられた段階では苅田嶺神社よりも格式が高かったのですが、白鳥の怪異に伴う苅田嶺神社の異常な昇進によって逆転されてしまいます。もし、大高山神社がもともと白鳥信仰の大社として知れ渡っていたのであれば、逆転されることもなかったのではないかと思われますので、やはりかつては“鷹信仰”の神社であったのだろうと私は思うのです。

多賀と鷹

 白鳥以外ではどんなトーテムがあるのでしょうか。
 例えば、「宇佐神宮(全国八幡神社の総本社)」に伝わる貴重な伝承を、宮司の宇佐公康さんがまとめあげた『宇佐家伝承 古伝が語る古代史(木耳社)』によれば、宇佐家はウサギ族とのことです。
 宇佐さんは、有名な「因幡の素兎(いなばのしろうさぎ)」の神話とは、経済観念に優れた朝鮮渡来系のワニ(サメ)族との取引で損失を被ったウサギ族を、大国主が助けた時の話ではないか、と面白い解釈をしておられます。
 昨今の世界同時株安で損失を被った私の投信についても是非助けて欲しいものです。
 一方、茨城県の大社「鹿島(かしま)神宮」の境内には鹿園があり、この神社には鹿にまつわる神話も残されておりますので、鹿のトーテムとなんらかの関連があるかもしれません(ただし、常陸国風土記などを見ると古くは「香島」と表記されているので、鹿とのつながりは中臣氏とのつながり、つまり鹿島大神(タケミカヅチ)が奈良県の春日大社の創始にともない祀られるようになったことからのつながりかもしれず、鹿島神宮創始とはなんら関係がないかもしれません。鹿島神宮についてはいずれあらためて触れるつもりです)。
 さて、『日本民族二万年史(近藤出版社)』の著者只野信男さんは、よく「タカ(鷹)族」や「オオ(狼)族」に関して論考を出していらっしゃいます。白鳥トーテムの氏族については「シロ・シラ族」と名付けて、白山信仰などもその流れとして分類していらっしゃいました。
 なにしろ私にとってトーテムという着眼点は只野さんの著書によって得られたものです。
 タカの語彙は必ずしも「鷹」という漢字で表現されているとは限らないようです。それは「高」であるものもとりあえずは疑うべきのようで、意識してみれば、身の回りにタカのつく地名のいかに多いことか。
 まだ、検証不足な分野ではあるものの、いにしえの常陸国(おおむね現在の茨城県)の多珂郡の「多珂」や陸奥国の多賀城の「多賀」なども、元をたどれば鳥の「鷹」を意味していた可能性は高いと思います。
 東北地方はかつて「日高見(ひたかみ)国」と呼ばれていたといいます。岩手県の北端から宮城県石巻までの、日本で5番目という長い距離を流れ、陸奥国そのものを潤すかのような大河「北上川」も、本来「日高見川」であったものが訛ったものといいます。この日高見にも「タカ」の語彙が含まれております。
 なにより、陸奥国(特に福島県浜通り北部から宮城県南部にかけてのエリア)には、“延喜式の式内社としての「タカ(タガ)神社」が目に付きます。
 現在でこそ、古事記にも記述がある滋賀県の「多賀大社」がその総本社とされておりますが、実は「延喜式」においてせいぜい“小社扱い”であることは注目すべきでしょう。
 全国いたるところでイザナギ・イザナミの一対神を祀る由緒あるこの神社も、実は延喜式式内社としては6社しかなく、“その半分が陸奥国にある”ということは何を意味するのでしょうか。その中でも陸奥国行方郡(現福島県南相馬市原町区)の「多珂神社」は6社中最も格式が高く延喜式の「名神大」社です。案外この「多珂神社」こそが本来多賀神社の総本社なのかもしれません。
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 最近、国立歴史民俗博物館の平川南館長によって、多賀城の「多賀」という漢字が、中華思想に基づくものであったという新説が発表されました。平川館長は、“東の遠の朝廷(とおのみかど)”「多賀城」に対する“西の遠の朝廷”「大宰府」の命名由来が、かつての中国の官名であったということに着目されました。古代中国の鏡に異民族を平定し国家の安寧を願う銘文があるらしく、その中の「多賀国家人民息」の文字から命名されたのではないか、というのがそれです。

多賀城模型
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多賀城政庁跡
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多賀城政庁跡から城下を望む
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 それでも、私は「多賀」は「鷹」から発展していると思っております。
 別に意地を張っているわけではありません。また、それが平川館長の説と矛盾するものでもありません。何故なら私は単に、元々「タカ」という地名の国境地帯に――国家の威信をかけた――都市を築くにあたって、“好字として”「多賀」があてはめられただけのことだと思っているからです。
 もし、多賀城のために「タガ」という言葉が創作(輸入?)されたのだと言うのなら、茨城から福島、宮城に点在する「タカ(タガ)」地名の由来の説明にはなりません。何故なら、おそらく多賀城以前に編纂されたと思われる常陸国風土記には既に「多珂郡」が存在しておりますし、百歩譲ってもしそれらが全て多賀城に起因する地名なのであれば、どうせなら全て「多賀」の字でもよかったはずだと思うからです。
 ちなみに、『名取市誌』によれば、「多賀(多加)神社」の「多賀」は、「往時此地方を多賀国と呼んでいたことに因るものと思われる」のだそうです。

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白鳥八郎

 奥州藤原氏以前に奥六郡(現在の岩手県平泉から衣川を中心とする広域なエリア)を支配していた一族として安倍氏がおります。源氏の名を東国に高らしめた「前九年の役」の“賊軍”としても有名です(もちろん私は賊軍などとは思っておりませんが)。
 特に「安倍貞任(あべさだとう)」などは、高橋克彦さんの小説『炎立つ』でも準主人公的な役割で登場して有名になりました。その貞任の弟で、八男坊として「白鳥八郎」と呼ばれる人物がいたのですが、これが「則任(のりとう)」を指すものか「行任(ゆきとう)」を指すものか、系図や史料によって異なるので正確なところはわかりません。安倍氏の末裔と称する氏族が保有する「藤崎系図」や「秋田系図」では則任のこととし、源氏側が記録する『吾妻鏡(あずまかがみ)』では行任ということになっております(ということは則任なのでしょうかね)。
 さて、白鳥八郎を則任としている「藤崎系図」では、註記として「苅田郡白鳥に住す」としてあるのですが、『白鳥伝説(小学館)』の谷川健一さんは、宮城県刈田郡にそのような地名が見当たらないことから、これを宮城県刈田(かった)郡の「苅田嶺神社(かりたのみねじんじゃ)」のことと読まれております。とはいえ、谷川さんは、実際に則任が刈田郡に住んでいたとは考えておらず、実際の居住地としては岩手県の「胆沢郡白鳥」こそが妥当であるとしております。

白鳥八郎の本拠、岩手県奥州市前沢区の「白鳥館」
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 では、何故系図ではわざわざ註記まで加えて「苅田郡白鳥に住す」などとしているのでしょうか。
 それについて、谷川さんは、苅田嶺神社が突然に位階を上げられた顛末に着目し、苅田嶺神社が白鳥信仰において重要な聖地だったことに因むのだろうと論じていらっしゃいます。
 苅田嶺神社は、延喜の制において神名帳記載の「名神大」社という最高格付けの神社にあたりますが、それより以前、いわばそのきっかけとなるような事象もあったようです。
 『続日本後紀』によると、承和11年(844)にはそれまで無位勲九等であった苅田嶺神社が、霊験があったということで、従五位下を授けられており、その四年後承和15年(848)には正五位下を授けられました。その後21年間は位階があがらなかったのですが『三代実録』によると、貞観11年(869)12月8日には突然正五位上を授けられたようです。しかも21年ぶりに上げられたばかりだというのに、わずか17日後の12月25日にはまたさらに従四位下まで引き上げられているのです。
 谷川さんは「この神階の昇進のしかたは明らかに異常である。」として、その原因となった事情について検証されておりました。
 その事情について簡潔に申しあげますと、貞観十一年に、宮城県沖を震源とする大地震が発生し、それに伴う大津波が冠川を遡り多賀城下を壊滅状態に陥れてしまったこと。ちなみに大高山神社がこの時期に位階を上げられたことについては『宮城縣神社名鑑(宮城県神社庁)』も、それに関係があるのではないかと推測されております。
 また、この頃九州の博多津へは新羅海賊船が襲来し、そういった変事の折、大宰府(だざいふ)の政庁などの上に「大鳥」(単に大きな鳥を指すものではなく、ツル、コウノトリ、クグイなど白い鳥に限って使用される言葉なのだそうです)が群れ集まったこと。そして、大宰府から兵の動員を要請された朝廷がその怪異を占わせると、「再び敵兵が来寇する」というものだったこと。
 それら変事に対する朝廷の対策としては、その大鳥(白鳥)の怪異を鎮めるために「苅田嶺神社」の神階を異常な速さで再度引き上げて、神意を迎えるほかはないということのようでした。

苅田嶺神社随身門
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苅田嶺神社拝殿
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白鳥古碑群
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寛文の古碑
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 つまり、苅田嶺神の化身は「白鳥」と思われていたわけでして、少なくとも貞観11年には苅田嶺神社は白鳥を祀る神社であったこと、それが朝廷にも認められていたということが確かめられるのです。
 以上のことから推測できるとおり、安倍氏が繁栄する時代には、苅田嶺神社に代表される「苅田郡(刈田郡)」は既に「白鳥神の聖地」として広く知れ渡っていたのであり、白鳥八郎が「苅田郡白鳥に住す」とされるのは、白鳥の化身の武将を印象づける箔付けのためには、刈田郡は最もふさわしい地名だったからなのでしょう。
 前回は宮城県柴田郡大河原町の「大高山神社」のHPからの白鳥伝説を引用しました。今回は、白鳥信仰の総本山(?)ともいうべき――近いうちに理由を述べます――宮城県刈田郡蔵王町の「苅田峰(かりたのみね)神社」の境内に掲示されていた蔵王町教育委員会による案内版から白鳥伝説を引用いたします。

――引用――

白鳥伝説
 往古、日本武尊がこの地に遠征に訪れた。遠征のあいだ、尊はこの地の長者の館に逗留したが、側回りの世話をした長者の娘とねんごろになり、一人の男児を授かった。やがて尊は妻子を残して都に帰還していった。尊と娘との間にもうけられた男児は幼くして非凡だった。里人は、長じれば必ずこの地を征服するほどになるだろうと恐れ、謀って男児を川に投げ捨てた。
ところが男児は白鳥に姿を変えて西方へと飛び去った。
その後、里では災いが起こるようになった。
里人は神罰が下ったのだと恐れ、白鳥が飛び去った西方の山麓に祠を建てて許しを乞うた。その後、また、この里には平和が訪れたという。
この地域には、長者の娘が暮らした「内方」、男児を投げ捨てた「児捨川」、白鳥となった男児を祀る祠を建てた「西宮」など、白鳥伝説にまつわる地名が数多く残されている。
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     苅田嶺神社参道
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 さて、大高山神社のそれとは少々ニュアンスが異なるようです。橘豊日尊の役柄はヤマトタケルになっており、子を川に捨てる理由がリアルで生々しく、里人側に神罰が下っております。どちらが真実に近いかなどとはわかるはずもなく、ここから先は想像をフルに働かせるしかないのでしょうが、間違いなく言えることは、地元の娘となんらかの高貴な人物が恋に落ち、生んだ子供を川に捨てたということ。その子供(白鳥)のタタリなのかなんらかの神威があり、祀らざるを得なくなったということでしょうか。
 白鳥にまつわる伝説や信仰といえば、真っ先に思い浮かぶのは日本武尊(やまとたけるのみこと)です。ヤマトタケルは、人皇十二代「景行(けいこう)天皇」の子になるのですが、双子として生まれ、弟の方になります。
 ちなみに、景行天皇の次代、すなわち十三代天皇は「成務(せいむ)天皇」であり、本来の継承人であるヤマトタケルが亡くなってしまったので即位したと言われております。ヤマトタケルの双子の兄「大碓(おおうす)皇子」はどうなってしまったのかが気になるところですが、横道に入り過ぎるので深入りはやめておきます。
 さて、ヤマトタケルは九州の「熊襲(くまそ)」や日高見(東北)の「蝦夷(えみし)」といった朝廷にまつろわぬ各地の荒ぶる首長や族長を平定した古代史上(神話上?)の英雄でもあります。平定を終えたタケルは、急に神威を得られなくなり亡くなってしまうのですが、そのとき白鳥となって飛び去ったといいます。その故事に因み、白鳥の飛来するところではそれがヤマトタケルの霊魂として尊ばれるようになったといいます。
 宮城県南の信仰については、例えば宮城県柴田郡大河原町にある郡内唯一の式内社であり、かつ名神大社である「大高山(おおたかやま)神社」のHPには以下のような話が紹介されております。

――引用――

 橘豊日尊は、第29代欽明天皇の皇子で、勅命を受けて東国巡幸の旅に出られました。東国の住民は心から喜んで迎え、立派な宮殿を造り奉献したといいます。ここで赤坂長者の娘玉倚姫(たまよりひめ)との恋物語を展開し、約三年間滞在されたと伝えられます。
 玉倚姫は、世にもまれな美人であり、性格も温和貞淑で、尊の寵愛は募ります。
 姫は、白鳥が飛び来たって胎内に入る夢を見てまもなく皇子が生まれました。尊は、入国以来白鳥を神と崇めて祈願した賜物と喜ばれました。都より帰還の命を受け、別れを惜しみ泣き叫び尊のそばを離れようともしない姫に、尊は「三年後には必ず迎えの使者を使わす」と納得させて帰られました。
 心に焼きつく恋しい尊を想って三年を過ごした姫の元には使者は来ず、やがて病に倒れました。乳母は悲嘆にくれる姫を見るに偲びず、皇子を抱いて河畔に出ました。
 「姫は今、尊を思い煩い、命を落とそうとしています。あなたは神様の化身だから、母上の身代わりになって、父君を呼び戻してください。」と祈り皇子を川の中に投じました。
 すると、皇子は、不思議にも白鳥となって深谷の鳥越の里から大和目指して飛び立ったといいます。
 やがて訃報が尊の耳に届き、姫のために立派な墓を建てて弔ったところ、日夜悲鳴していた白鳥が飛び上がり空中を旋回したと伝えられています。
 ごく最近まで、白い羽を拾うと「これは白鳥の羽である」と言って、神様にお供えする風習が残っていました。白い羽を粗末に扱うと神罰があるというのは白鳥神化の思想の現れでしょう。
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 このお話は、私がこれから語ろうとしていることに対してかなり示唆に富むものですので、覚えておいていただければと思います。

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