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陸奥国内各地のニワタリ系神社が祀る主体を眺めておりますと、やはりイザナギ・イザナミの一対神が最も多いようなのですが、他にも「武内宿禰(たけのうちすくね)」あたりが目に付きます。タケノウチスクネとは、一説には蘇我(そが)氏や葛城(かつらぎ)氏といった古代の有力氏族の祖と言われ、一方で八幡神そのものとも言われる「応神(おうじん)天皇」の母、「神功(じんぐう)皇后」に仕えた側近としての姿が最も有名です。なにしろ、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代に渡って天皇に仕えたという脅威的な寿命の持ち主であったことから伝承上の人物とも言われております。まあ、私見を述べれば、私は世襲した名前なのだろうと思っております。 さて、つまりは「仲哀(ちゅうあい)天皇」すなわち“神功皇后の夫”にも仕えていたわけですが、その仲哀天皇はまつろわぬ「熊襲(くまそ)」の征伐に向かう途中、突然「死」を迎えます。「熊襲よりも新羅を攻めるべき」ご神託を受けた皇后の言葉を無視したため、天照大神の荒御霊(あらみたま)「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」の怒りに触れたのだといいます。そのとき、神功皇后は既に仲哀天皇の子供(応神天皇)を腹に宿していたのというのですが、どうも出産の日から逆算するとつじつまが合わないのです。新羅征伐のため腹に石を巻きつけて出産を遅らせたとかなんとかその理由らしき話もあるようですが、どうもうさんくささを隠し切れません。おそらく仲哀天皇が崩御された後に懐妊したのでしょう。つまりは、ここでも皇統が途絶えている可能性があると考えられます。 この辺の話は十分に一冊の本を作れそうなほどのミステリーとスキャンダラスが含まれており、折をみてあらためて触れる機会もあると思いますが、とにかく深入りすると、話題がそちらに走ってしまいそうなので要点のみかいつまみます。ここで注目しておきたいタケノウチスクネの事跡はただ一つ、もしかしたら応神天皇の実の父親かもしれないということです。以上(笑)。 話は戻りまして、ニワタリは百日咳(ひゃくにちせき)に対するご神徳なども目立ちます。百日咳への効能が信仰されるようになったことについては、ニワタリの正体を垣間見るものとして主に三通りの推測が成り立ちそうです。 ひとつは、ニワタリとは「鶏(にわとり)権現」であるということに起因するものです。つまり、なんらかの本地(ほんぢ)となる神仏が鶏の姿となって現れる「鶏権現」であることが前提にあり、鶏の鳴き声を咳に見立ててそのような効能を期待されたようであります。 次に、ニワタリを「見渡し」のよいところで守る神であると考えることから、つまりは「岐神(ふなどかみ)」、境界の神とみなし、境界すなわち“関(せき)”そして咳へと発展したとする考え方です。 最後に、水辺に祀られていることも多いことから「水分(みくまり)神」ということで、“堰(せき)”そして「咳に効く」と発展したとされるものです。 いずれにしても、私は百日咳へのご神徳は、ニワタリの名前や性格から出てきた後付のものであろうと思っております。 しかし、このご神徳のおかげで、現在名前が変わってしまった意味不明な神仏についても、昔はニワタリだったのではないか、と一応は疑うことが出来、また調べた後にやはりそうであったということも往々にして経験しております。あるケースでは百日咳に効能があるとされるご神体が祀られている場所が、かつての国分氏関係者と思われる方の私有地であったこともあり、逆算的にニワタリであったのでは、と推測しているものもあります。ちなみにその方の屋敷内には白鳥神社が祀られておりました。 仙台市泉区松森「せきひき神様」
少し先走りましたが、ついでまでに申しあげますと、その例からもわかるように国分氏には白鳥信仰の要素があることを書きとめておきます。 |
陸奥国分寺と志波勢力
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東北地方のヤマト化以前になんらかの勢力を仮想し、それを“志波勢力”と仮称し、その形跡を探してみます。
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昭和3年発行の『宮城郡誌』によりますと、二柱神社には明治11年(1878)「石留(いしどめ)明神」が合祀されているといいます(ただ石留明神は、現在付近の七北田川(冠川)河畔の旧地に社殿が新築されて祀られております)。 石留神社には、志波彦大神が白馬で冠川を渡る際に石につまづいた神話や、「武烈天皇の御陵なりしと」という言い伝えがあることは前に述べました。したがって石留神社が古くから忌まれながらも崇敬されていたことはなんとなくはわかります。しかし、その石留神社が何故二柱神社に合祀されてしまったのでしょうか。もちろん、同じ地区にあるものがまとめられたと考えるのが正しいのかもしれませんが、志波彦大神というキーワードを通してであれば少々思うところはあります。 明治の廃仏毀釈なり、その他の時代にしても神社の統廃合は、一見「えい!やー!」で進められたのではないかとも思えるのですが、その政策を進めたのは基本的に日本人で、日本人全般的な普遍的な信仰として根強い「怨霊(タタリ)信仰」があることを考えるならば、神仏をどうにかする際にも当然のごとく一応の気配りはなされていると考えます。 例えその姿を変えられていたとしても、それは少なくとも為政者なり執行人の深層にある本音が反映された、なんらかの法則性にしたがった姿への変質と思われますので、まるっきり関係のない祀り方にはなっていないだろうと思うのです。さしあたり、私は二柱神社と仁和多利大権現にはなんらかの因果なり共通点があるものと考えます。 明治に産声をあげた形になった二柱神社の主祭神はイザナギ・イザナミの夫婦神です。参道ののぼりには「多賀大社御分霊」の文字があります。 しかし素朴な疑問として、多賀大社の御分霊なのであれば、何故いっそのこと「多賀神社」にしなかったのでしょうか。それを二柱神社のHPの掲示板に質問として投げかけたところ、宮司から以下の回答が返ってまいりました。私の質問内容と宮司からの回答を引用いたします。 ――引用―― はじめまして。このように丁寧に回答されている掲示板に驚いております。悩める市民にとってどんなにありがたいことか、一市民として感謝申しあげます。 さて、ちょっとお伺いしたいことがあります。素朴な疑問なのですが、二柱神社様はイザナギ・イザナミの神様を多賀大社から御分霊されているようでありますが、何故「多賀神社」ではなく、あえて「二柱神社」という命名をされているのでしょうか。 ________________________________________ 今野政明様へ 書き込みありがとうございます。 神社の命名については詳細は不明です。考えられることは2.3ありますが定かではないということを前提としてお読み願います。 1 多賀大社の直接分霊社であるため、総本社の「多賀」の字をあてるのは恐れ多いと考えたのではないだろうか。 2 ニワタリ大権現とも呼ばれた時代からの名残で「に=二」を冠に持って来たかったのではないだろうか。 3 由緒にも書いてございますが、神様を「柱」という単位で数えることから機k〈ママ〉たのではないだろうか。 ということが考えられます。 以上を統合して考えたときに、1.2.3を丸く収める漢字が「二」と単位である「柱」を当てたのではないかと思われます。 そして二柱神社という名前が生まれたのではないかと思っております。 ________________________________________ 二柱神社HPの掲示板は本当によく市民の相談に応じていらっしゃり、私のコメント冒頭の挨拶部分は社交辞令でもなんでもありません。本当に素晴らしいと思っております。またご返答にも感謝しております。
それはともかく、この回答の中で私が重要視するのは、宮司が最後にまとめとして書かれている「ニ」という語彙であり数字であります。2という数字は各々にとってとても重要な数字なのでしょう。 おそらく、ニワタリ神の名前としては「“ミ”ワタリ」ではなく「“ニ”ワタリ」のほうが始原に近いのではないでしょうか。 |
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幕末の混乱が終息して明治に入りますと、日本は欧米の列強諸国と対等な関係を維持するためにも国家を強く一つにまとめる必要がありました。そうしなければ列強に飲み込まれてしまう可能性が誰の目にもあきらかな時代であったようです。 そのような情勢のなかで明治政府は、列強諸国の国民が一丸となれる背景としてキリスト教のような唯一絶対的な宗教が存在する、ということに目をつけました。八百万(やおよろず)の神を大切にする日本人の心に変革を起こす必要があったのです。そこで「天照大神(あまてらすおおみかみ)」を絶対的に位置づけ、その直系子孫とされる天皇の下に国民が一つにまとまるべく政策が強権的に始動しました。そのためには、アマテラスから万世一系で連綿と続くとされる天皇家の系譜は特に神聖なものであるべきで、それを貶める可能性のあるものは改められる必要がありました。もちろん外来の宗教はことごとく排除すべきであり、なまじっか国教のように浸透していた仏教などは特に弾圧を受けました。 いわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。日本は天照大神を頂点とする神の国であり、異国から来た仏教の釈迦(しゃか)も阿弥陀(あみだ)も邪神である、という発想になります。 かつて仏教(仏法)が日本へ輸入されたとき、古来からの日本の神様も実は「仏様が日本人にわかりやすい姿で現れたもの」として習合されていきました。 例えば「天照大神は大日如来であった」とか、「八幡大神は阿弥陀如来であった」など、正体(本地)は仏様なのですが、仮の姿(垂迹)で神様として現れたとして、これを「本地垂迹(ほんぢすいじゃく)」と呼ばれました。「仮の姿」という意味では「○○権現」の「権現(ごんげん)」という言葉も同じ意味合いになります。 長い歴史の時間のなかでは、神道側の反撃として全く逆の「神本仏迹」という説が現れたりもしましたが、明治の廃仏毀釈はそれよりもはるかに強力なものとなり、廃された寺院は数知れないのです。 宮城県仙台市泉区の「二柱(ふたはしら)神社」もそのあおりを受けたひとつです。 この神社は従来「仁和多利大権現(にわたりだいごんげん)」と呼ばれていたのですが、廃仏毀釈の流れのなかで「神社」として生まれ変わりました。 ところで、仁和多利大権現とは何者なのでしょうか。この権現様はニワタリの他ミワタリ、オミワタリ、オニワタリ、ウミワタリなどとも呼ばれている神(?)と同じようで、陸奥国(福島県・宮城県から岩手県南)に多く分布しております。もっと言うならば――緻密に調べたことはないので断言は出来ませんが――その他の地域にはほとんどみられないようです。おそらく陸奥国が中心の権現様なのでしょう。「権現」というからには、なんらかの本体(本地)があったということの裏返しですが、今ひとつ正体がつかめません。 二柱神社が現在地に鎮座する前の場所、すなわち「仁和多利大権現“跡地”」の祠を見ると、インド系の神像も見受けられ、真言らしき文言の記載もほどこされているようなので、なにか密教の風景らしきものが息づいているようです。 仁和多利大権現跡地
ひとつの情報として申しあげるならば、少なくとも二柱神社の前身である「仁和多利大権現」は、国分氏の氏神であったようです。 |
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さて、駆け足で藤原氏の台頭と国分寺・国分尼寺建立の顛末を振り返ってみたわけですが、聖武天皇が全国各国にそれらを建立する詔を発したのはいいですが、気になるのは各々の国々でどのようにその建立地を選んでいったのかという部分です。 少なくとも、いかに辺境の国であれ、人っ子一人いないような場所に国家直営の大寺院を築いても極めてパフォーマンス性には欠けます。それをやるからには、与野党問わず多くの国民の目に触れられるべきで、ましてや、そもそも相当な労働力を現地調達する必要があったと思われます。まさか全国的に展開される大寺院の建築現場を、行基の配下だけで賄ったということはとうていあり得ません。したがって、各国の建立地はおそらく人口が集中する各々の最もにぎやかな、いわば首府たるべき場所が選ばれたかに思うのです。そしてそこには必ずや各々の国の精神的主柱となるべきものも存在したことでしょう。仮にそれが一方的だとしても、それらのシンボルを尊い仏法で加護してあげるべきことこそが重要であって、それでこそ、聖武天皇の威信も伝わり、尚且つ清浄な心象をアピールできるというものではないでしょうか。 残念ながら、私のフィールドワークはまだまだ全国に及ぶものではありません。10年も前には全国の国分寺を精査して歩こうか、などと無謀(?)なことまで考えたこともあるのですが、通史として歴史を捉えたい私にはそこまで国分寺のみに特化するほどの根性も金もありません。とは言え、全国の国分寺を丁寧に一巡りできたとしたならば、おそらく相当の謎解きは出来るだろうな、という思いは今も変わりません。 さしあたり、私の地元陸奥国の国分寺周辺についてしばし語りたいと思います。 陸奥国国分寺及び国分尼寺の程近くには、宮城県内第2位の規模を誇る前方後円墳である「遠見塚(とおみづか)古墳」があります。 ちなみに、宮城県最大かつ東北最大の「雷神山(らいじんやま)古墳」の埋葬者は、この遠見塚古墳埋葬者の後継者的な首長であろうと言われております。ただ私が少し気になっているのはこの両古墳の位置関係です。古い遠見塚古墳の方が、新しい雷神山古墳より約10km程北にあるのです。大和朝廷本拠(畿内?)から見ると、古い古墳の方がより離れた場所にあるのです。つまり、必ずしも大和朝廷勢力の北進とはリンクしていないと思うのです。むしろ勢力範囲が南進した感さえあります。 東北最大の雷神山古墳
おそらくこの勢力は、ヤマトの文化的影響は受けたものの、その時代にはまだこのエリアを中心とした、一つの独立した勢力圏を持っていたのではないのでしょうか。 遠見塚古墳の形状はまさにヤマト連合国家同様の前方後円墳ではあるし、この地方としては目を見張るほどの巨大な古墳であり、人間の身長の数倍はある巨大な棺(ひつぎ)ニ基が発見されたのはいいですが、それにしては副葬品として“素焼きの壷たったの一個”という、あまりにも寂しい発掘成果で、考古学者を落胆させた古墳としても有名です。同じ東北地方でも、大和朝廷との同盟の証とも言える「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」を初めとする、豊富な副葬品が出土した福島県の「会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳」とはえらい違いです。 いずれにしても、遠見塚古墳の周辺にある南小泉(みなみこいずみ)集落はかなり広範囲にわたるもので、それは聖武天皇の詔が出された頃でもそれなりの繁栄があったのではないかと想像します。私は陸奥国分寺や国分尼寺が建立された地は、往昔この文化圏の中枢を担った聖地だったのではないかと疑っております。 また、その聖地を管理していた一族の末裔がいたとしてもなんら不思議ではなく、だからと言ってそれをすぐに「国分氏がそうだろう」などと飛躍するつもりはありませんが、その可能性も秘めているのではないかとは思っております。 |
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聖武(しょうむ)天皇の頃には「天皇は藤原氏の血をひく皇后を持つ」というひとつの形が完成したようです。聖武天皇の皇后「光明子(こうみょうし)」は藤原不比等(ふひと)の娘です。また、それ以前に聖武天皇の母親「宮子」自体が藤原不比等の娘なのです。最早、天皇の外戚としての藤原氏の権力は強まる一方でした。 ここに至るまでどれだけの犠牲者が闇に葬られたのかはわかりませんが、この流れに真っ向から立ち向かった人物も史料に残されております。天武天皇の皇子である左大臣「長屋王(ながやおう)」こそ、その人なのです。彼は皇親勢力の中心的存在であり、おそらく天皇家が藤原氏に蝕まれていく姿をとても見ていられなかったのでしょう。しかし、その姿勢は藤原氏にとって目障りこの上ない存在でもありました。そんな折、長屋王は国家を傾けるような呪詛をおこなったカドで突如軍隊に居宅を取り囲まれました。もちろん讒言(ざんげん)であり、冤罪(えんざい)なのでしょう。 天平元年(729)、最早これまでと観念した長屋王は無念の自殺を図りました。これを「長屋王の変」といいます。 これで政敵を一掃したかに見えた藤原氏でしたが、なんと長屋王は死んでも藤原氏を追い詰めることになるのです。 8年後の天平9年(737)疫病が流行し、藤原四家(南家・北家・式家・京家)の祖である藤原不比等の子4人が相次いで病没してしまいます。当時の人達はこれをどう受け止めたのでしょう。タタリ以外のなにものでもありません。もし現代において似たような事件があったとしても、例えこのことを伝染病として科学的に証明できたとしても「タタリに違いない」と思う人はたくさんいると思います。ましてや、呪いやらタタリやらを真剣に信じていた時代なのです。少なくとも、藤原氏側には十分すぎるほど思い当たるフシがあったと思われます。 そういった意味で、長屋王は生前も死後も藤原氏を脅かしたのです。そして、おそらくこの長屋王のタタリがあったればこそ、聖武天皇は「国分寺・国分尼寺建立の詔」を出さざるを得なくなったのではないのでしょうか。とにかく怨霊封じをしなければ落ち着かなかったことでしょう。前に触れた、早良親王らの怨霊を恐れる桓武天皇と根っこは同じです。日本人の根源的な信仰として「怨霊信仰」や「言霊信仰」があると提唱している作家の井沢元彦さんはそのことをほぼ断定しておりますが、私も全くそうであろうと思います。 藤原不比等の娘である皇后「光明子」は、自分の兄弟達が次々と死にゆく様を見せ付けられたわけですから、その恐怖はただ事ではなかったはずです。次は自分だという思いもあったのではないでしょうか。ひょっとしたら夜毎うなされて発狂していたかもしれません。そんな悩める妻を、聖武天皇は決して無視できなかったことだろうと思います。 かくして、聖武天皇は莫大な国家予算をつぎ込んで、全ての国に国分寺・国分尼寺を建立し、首都である平城京には総国分寺である「東大寺」と総国分尼寺である「法華寺」を建立するに至ったのでしょう。 なにより、法華寺の場所は藤原不比等の邸宅跡地といい、それを相続した光明皇后の生家でもあったという説もあるようです。そこに法華寺のセカンドネーム(ミドルネーム?)が「滅罪之寺」というのは、果たして誰の罪を滅罪するというのでしょうか。なにか痛々しい感じさえ覚えます。 奈良県奈良市の総国分尼寺「法華寺」
ここで興味深いのは、東大寺の造営を任されたのが、なんと民衆教化を弾圧された「「行基(ぎょうき)」だということです。行基が弾圧された理由は、官側が反社会的な集団の出現を危惧したからとも言われておりますが、なにはともあれ、この人選だけをとっても聖武天皇の思惑がどこにあったのかが見えてきそうです。行基には土木技術に長けた部分もあったようですし、そこの部分を評価されたのかもしれませんが、私は、聖武天皇が自分達の清浄化のためにも、あえて血塗られた政治(藤原氏)とは無関係なところで宗教政策を展開しようとしていたのではないか、と想像しております。 |



