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国分氏が国分寺となにかしら縁がある一族であることは、その名前からも一目瞭然です。 国分寺に由来する「国分荘」と呼ばれるエリアに拠点を展開したから国分氏と名乗った、というのも極めて穏当な考え方だと思います。 しかし、なんらかの理由で下総(しもうさ)の国分荘に移住したという一族が、奥州征伐の功によって賜った地がまたしても当地の国分荘である、という事実は、単なる偶然なのでしょうか。 ここで少し、国分寺が建立されることになったいきさつを覗いて見ます。 天平13年(741)聖武(しょうむ)天皇により「国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり)」が発せられたわけですが、物語はその約200年前まで遡ります。 誰もが歴史の授業で泣く泣く覚えさせられた大化元年(645)「大化の改新」で、人臣最大の勢力「蘇我(そが)氏」が滅ぼされました。 滅ぼした英雄(?)「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」は、やがて即位して「天智天皇(てんじてんのう)」となります。そしてなにより、その即位までの一連の血なまぐさい舞台を演出したのは、後に藤原姓を名乗る「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」でした。 鎌足は権謀術数に長けた政治家で、その血を引く「不比等(ふひと)」や、その後の藤原氏も全般的にその才能を受け継いでいたようです。 さて、天智天皇即位時の中臣氏(藤原鎌足)は、国内問題よりも、むしろ朝鮮問題に意識が向いていたようで、その影響を受けてか天智天皇も「唐・新羅(しらぎ)連合軍」に滅ぼされた「百済(くだら)」救援を第一義に考える傾向がありました。 しかし当時の日本は、相次ぐ政争の混乱でかなり疲弊しており、国民感情としてはそれどころではなかったのだと思われます。 結局「白村江(はくすきのえ)の戦」で日本・百済連合軍は見事に惨敗しました。いつしか最前線であるはずの大宰府でさえも、天智天皇の対「唐・新羅」についての勅については受け流すような風潮になっていたと思われます。 そのような世論に推されるかのように頭角を表し始めたのが、天智天皇の弟である(私は違うと思っておりますが)「大海人皇子(おおあまのおうじ)」、後の「天武(てんむ)天皇」でした。 天智・天武兄弟が生まれたとされる「三井(みい)寺」絵図
大海人皇子は、皇位継承の最大のライバルとなる天智天皇の第一皇子「大友皇子」を擁する勢力との「壬申(じんしん)の乱」に勝利し、結局は皇子の自殺(おそらく暗殺)に伴い、天武天皇として即位しました。 一方、藤原氏はなんとかかんとかのらりくらりと新政権の天武天皇の下でも重臣の地位に生き残ったのです。簡単に書いておりますが、このことはいかに藤原一族の処世術が見事であったかを証明していると思います。ただそんな藤原氏でも豪腕天武天皇の下では天智天皇のときほど思うままには出来なかったのでしょう。 しかし、やがて天武天皇が崩御すると、なにかまたきな臭くなってまいります。文武に優れ、人望も厚いとされた天武天皇の皇子「大津皇子」が謀反の疑いで自殺させられます。そこで、皇后である「鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)」が「持統(じとう)天皇」として即位します。 さて、ここがミソなのですが、持統天皇は天智天皇の皇女なのです。このあたりから、徐々に藤原氏の卓越した権謀術数が復活し始めたと思われます。皇室の血は徐々に天智系に戻され、更にいつしか巧みに「天皇は藤原氏の血をひく皇后を持つ」という形が確立していったようです。 |
陸奥国分寺と志波勢力
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東北地方のヤマト化以前になんらかの勢力を仮想し、それを“志波勢力”と仮称し、その形跡を探してみます。
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戦国時代の宮城郡は、「国分(こくぶん)」氏という謎の一族が支配しておりました。 出張などで仙台市を訪れ、東北随一の夜の繁華街「国分(こくぶん)町」で一杯ひっかけた御方は多いと思います。多少歴史が好きな方ですと、ひょっとしたらこのあたりに当地の国分寺があったのかなあ、などとほろ酔い気分で思われた方もいらっしゃるかもしれません。ところが、当地の国分寺、すなわち「陸奥国分寺」はこの国分町からは少々離れた場所にあります。 国分町の地名は、国分氏が、政宗の開府以降この地に居住させられていたことに因むものなのです。もちろん国分氏が国分寺周辺を拠点にした一族だったことを取り上げるならば間接的には国分寺とも関係ある地名なのですが、実際にはほとんど関係がないといってよいでしょう。これは意外なことに、仙台市民ですらほとんどわかりません。なにしろ仙台人にとって、“国分”といえば、国分氏でも国分寺でもなく、夜の街国分町なのです。 あまり知られておりませんが、伊達政宗が普請したとされる仙台の城や街は、実は国分氏が既に築き上げていたものを再開発したようなもので、極端に言えば「仙台」という都市の基本構造は国分氏によって型造られたと言っても過言ではありません。もちろんそれは政宗が経営したレベルの大都市とは程遠かったとは思います。仙台の地名は俗に“千体仏堂”に因み“千体”呼ばれ、国分氏により“千代”へと変わり、伊達政宗が入城する際に数字の“千”では限りがあるというので“仙臺”に改めたといいます。 ちなみに私は、仙台城がある場所、すなわち広瀬川と竜ノ口川(渓谷)に囲まれた“川の内側”という意味の“川内(かわうち)”――現在の地名にも残っておりますが――という地名が先にあり、そこに国分氏が「川内(せんだい)城」を築き、信心深さゆえ「千体」あるいは「千代」と改められていたのではないかと思っております。 現在の仙台市街
この国分氏、極めて謎めいた一族でございます。一応のルーツとしては、源頼朝が奥州藤原氏を討ったときに多大なる貢献をした鎌倉武士ということのようです。鎌倉武士の千葉胤道(ちばたねみち)が、鎌倉から下総(しもうさ)国国分荘(千葉県市川市あたり)に移住したことから国分氏を名乗ったのだといい、その一族が功をあげて奥州に領地を賜ったのが件の国分氏だといわれております。しかし奥州の国分氏については平姓説と藤原姓説とがあり、明確なことは定かではありません。 つい先日お亡くなりになられた宮城県の偉大な郷土史家「紫桃(しとう)正隆」さんは、国分氏は元々平姓千葉胤道の流れだったものが、他家よりの入嗣により途中で血が入れ代わったとしており、その入嗣した人物が藤原系であったのだろうと検証されておりました。 具体的には14代宗政こそがそうだというのです。それまで「胤」あるいは「盛」の字を継承していた国分氏でしたが、14代の名――宗政――からはいずれの文字も消えてしまっていることも傍証にされておりました。私が知りうる説では最も説得的かと思っております。 ただ、そこに勝手な感覚だけで言うならば、私は根幹となる「千葉氏」の流れという系図そのものが、既に怪しいのではないのかと思うのです。 この時代に限らず、歴史の流れの中では総じて、侵略した国に与えられた土地において開拓者として残るのは、いわば本家にあまされた荒くれ者か、もともと現地採用の兵士で貢献度合いに応じてお抱えの本家の名を借り受けた者が多かったように見受けられます。 例えば、武士という階層が頭角を表す10世紀頃の坂東(関東)――平将門(たいらのまさかど)が活躍していた時代の坂東――をみても、地方官のトップを表す「○○守(かみ)」や、その次席を表す「○○介(すけ)」などという官職は、「守」については京にいる親王が任ぜられることが通例になっているものの、実際現地にはほとんど来ることもなく果実だけを得ており、実質は次席である「介」が「守」同様の権限をふるう最高権限者になっていたようです。 それは武士という特殊な階層が成長し始める黎明期のことではありますが、屈強な坂東武士が確立した後、続く奥州支配においては、かつての親王に代わる存在が源頼朝側近の鎌倉御家人らに代わったようなもので、実際に奥州に配置されるのはやはり一ランク下級の存在ではなかったのか、と思うのです。 だいたいにして、本拠の地でそこそこの位置づけだった者が、せっかく多大なる貢献をして益々安寧な暮らしが出来るという時に、何を好き好んで治安の定まらない危険極まりのないフロンティアの地(奥州)に移住するものでしょうか。そういった意味で、私は奥州に配属された鎌倉武士というのは“スネに傷を持つ”輩が多かったのではなかろうかと思うのです。 ただ、国分氏についてはそれとも微妙に違うのかな、と思っております。国分氏には妙に呪術的な側面が感じられ、なにか祭祀を司る家系ではなかったかとも思うのです。それ故に、陸奥国分寺周辺に拠点を預けられていたのではないでしょうか。いや、もしかしたら源頼朝に配される以前から、元々陸奥国分寺の管理を司る一族だったのではないでしょうか。 |


